わたしの願いごと(3)
それから数週間が過ぎても、諏訪さんは目を覚まさないままだった。
けれど、ICUだった病室は一旦HCUに移された。わたしはHCUというのははじめて聞いたけれど、ICUよりは重篤度が低い患者が入る病室、ということだった。
諏訪さんは意識が戻らないものの、その他は数値的にも安定しているので、別の重症患者が運ばれてきたのを機にHCUに変わったのだ。
そこは、カーテンで仕切られたベッドがいくつも並んでいて、スタッフのデスクなんかも置かれている、まるで大きな保健室のようだった。そこのベッドで横たわる諏訪さんは、重度の意識障害があるようにも見えなかった。
そしてさらに数日して、HCUにも他の患者が移されてくることになり、諏訪さんは一般病棟の個室に転室となったのだった。
わたしはというと、事故直後、諏訪さんがここに運ばれた時にすぐ駆け付けたこともあって、また自宅から近いという理由もあり、会社から諏訪さんの様子を見に行き、報告するように言われていた。そのおかげで、毎日諏訪さんに会いにくることができていたのだ。
けれど諏訪さんが一般病室に移されたと発表されるや否や、女性社員が入れ替わり立ち替わりお見舞いに来るようになってしまったので、彼女達と鉢合わせにならないよう、一般病室になってからは、夜遅めに顔を出すようにしていた。
面会時間を気にしなくてすむのが、個室のいいところだ。
最初の一週間はご両親も来られて看病なさっていたけれど、膠着状態である諏訪さんになす術もなく、お二人ともお仕事をされているので、ひとまず戻られることにしたそうだ。
その後は、数日から十日おきぐらいで、お母様だけが様子を見に来られていた。
諏訪さんが眠ってる間に諏訪さんのご両親とご挨拶させていただくのは、なんだか不思議な感覚だった。
諏訪さんの婚約者である浅香さんはもちろん、戸倉さんも以前からご両親と面識があったようだけど、戸倉さんも浅香さんも特別親密な雰囲気はなくて、それがむしろ、結婚を控えてこんなことになってしまったと互いに嘆いているようにも感じられた。
一般病室に移ってからしばらく経つ頃には、戸倉さん、浅香さんは仕事も通常に戻っていたし、住んでいるところも離れているので、さすがに毎日見舞うわけにはいかなくなっていた。
それに比べて、わたしの仕事はさほど残業のない部署だし、戸倉さん達営業部みたいに海外との時差の影響を受けることも少なかったから、毎日諏訪さんの病室に通うことを日課としても、生活に支障はなかった。
もちろん、例え生活に支障があったとしても、わたしは毎日諏訪さんに会いに来たいと思っていたはずだけど。
でも、婚約者の浅香さんを差し置いて毎日通うことに後ろめたさを持ってしまうのは仕方ないことで。
そんなわたしに気を遣ってくれた浅香さんは、『諏訪くんをお願いしてもいい?』と言ってくれた。
さらには、諏訪さんのご両親からも『よろしくお願いします』と頭を下げられたし、わたしの心中では日ごと後ろめたさは減っていき、代わりに、使命感にも似た気持ちが広がっていったのだった。
※※※※※
「こんばんは」
「あら和泉さん、お仕事お疲れさま。今日は他の人来てないから静かよ。諏訪さんもゆっくり眠れてるんじゃないかしら」
仕事帰り、2階の受付でいつものように挨拶すると、顔見知りの看護師が愛想よく話しかけてくれた。
「そうなんですね。諏訪さんの様子はどうですか?」
「変わらずね。今、水間さんがバイタルチェックに行ってるの」
水間さんとは、諏訪さんの担当看護師だ。最初の夜、わたし達をICUに案内してくれた人でもある。
「分かりました。それじゃ水間さんにもご挨拶させていただきますね」
そう言って、わたしは諏訪さんの病室に向かう。
すると、ちょうど水間さんが部屋から出てきて扉を閉めるところだった。
水間さんはわたしを見るなり、
「おかえりなさい、和泉さん」
笑顔で出迎えてくれた。
「ただいま…です。あの、諏訪さんの様子はどうですか?」
「いつも通り、特に変わりはありませんね」
さっきの看護師と同じことを答えた水間さん。
変わりがないというのは、悪くはなってないけれど、回復の兆しもないということだ。
「そうですか……。ありがとうございます」
わたしは内心でため息を吐きながら水間さんと別れ、病室の扉を開いたのだった。
諏訪さんの病室には誰もいなくて、ふわりと花の香りがわたしを迎え入れてくれた。
代わる代わる誰かが見舞いに訪れるから、花瓶が間に合わないほどの花がテーブルの上に置かれていたのだ。
昨日ここを出たときとその数は変わっていないけれど、花も生き物だから、一日違うと香り方も変化するのだろう。昨日よりは、少し濃厚になっているように感じた。
個室といっても決してラグジュアリーなものではなく、広さは8帖ほどあるものの、ベッド以外にはテレビ台や簡易冷蔵庫、旅館の客室にあるような小さなソファセットがあるだけで、洗面トイレなどは備わっていない。
わたしはソファにバッグを置き、諏訪さんに近付いた。
諏訪さんの顔は以前と変わらず整っていて、少しタレ目なはずなのに、閉じられているせいかそれはさほど感じない。
そして表情は、水間さん達が言ってたように相変わらず眠っているようだ。
どんな夢を見ているのだろう。
その顔はとても穏やかで、見ようによってはうっすらと微笑んでいるようで。
わたしは、”部屋に諏訪さんと二人きり” というシチュエーションにも慣れつつあって、婚約者の浅香さんに申し訳ないなと思いながらも、諏訪さんの眠る顔を、気持ちをこめて眺めていた。
そうして今夜も、無言の時間が流れていく。
ふと、静けさの中、テーブルの上にある花瓶に生けられた花の茎が変色して傷んでいるのに気付き、水替えをすることにした。
諏訪さんのお母様がこの近所の店で購入したという、大きめの透明なガラスの花瓶だ。
円柱型のそれは重量感たっぷりで、多少ぎゅうぎゅうに生けても安定している。
アレンジメントを見舞品に持ってくる人もいるけれど、やはり花束の人も多かったのだ。
わたしは両腕で抱えるようにして花瓶を持つと、
「お花のお水、替えてきますね」
諏訪さんに伝えてから病室を出た。
ガーベラに、カラーに、トルコキキョウ…
わたしがすぐに名前を言える花はそれくらいだけど、名前は分からなくても見たことがある可愛らしい花がそれぞれに存在感を訴えていて、毎晩、ちょっとした緊張感を持って扉をくぐるわたしを和ませてくれる。
わたしは廊下を少し進んだ所にある手洗い場に花瓶を乗せ、その中から、おそらく最も古い黄色のガーベラを2本抜いた。
すると、
「あら、綺麗なお花ね」
ななめ後ろから、コロコロと転がるような軽やかな声で話しかけられたのだった。




