関西弁の男の子(3)
男の子の返事に、ここにいる大人達全員がホッとしただろう。
わたしなんかは、「ああ、よかった…」という心の声がこぼれていたほどだ。
尋ねた諏訪さんも、その答えを聞いて、顔色をゆるやかに変えながら、小さな頭をそっと撫でた。
「じゃあ、お母さんは今どこに行ってるんだい?」
「分かんない。でも、もうすぐ来るはずやねん」
「でも、ここでお母さんと約束してるのは間違いないのね?」
女性が念を押すように訊く。
そして男の子もすぐに答えようとしたみたいだけど、しゃべり出す前にまた盛大にむせてしまった。
「う゛…っ、んんっ…」
「大丈夫?ほら、ジュース飲んで」
わたしは慌てて男の子の背中を叩いた。
「そんなに急いで食べなくても、誰もとらないわよ?」
「焦って食べると危ないからね」
優しく心配する女性と男性に、男の子はコク、コクコクと頷いてみせた。
諏訪さんも心配げに男の子を眺めていたけれど、特に何かを言うことはなかった。
二人に比べて優しくないとかいうのではなくて、何て声をかけたらいいのか思案しているような様子だ。
わたしがそんな諏訪さんをそっと見盗んでいると、ふいに、目と目が合った。
―――――っ。
その整った爽やかな目の中に、わたしが映っているのが分かるくらいの近さだった。
きっと、わたしの瞳の中にも諏訪さんがいるはずで。
……どう反応したらいいのだろう。
わたしはありありと戸惑った。
すぐ目を逸らすのも失礼だろうし、かといって、じっと見つめるのも不躾だ。
けれど、こんなに近くで諏訪さんの顔を観察したことなんてなかったから、意外に睫毛が長いんだなとか、そんな感想も生まれてきたりして、心が忙しくなった。
わたしが諏訪さんから目を逸らすことを選択できずにいると、オレンジジュースで喉を潤した男の子が、いきなりスッと立ち上がった。
「あーおいしかった!」
まるで学芸会の劇のように芝居がかった調子だったけれど、男の子は本当に満足した表情をしていた。
「みんなありがとう!のど飴も、玉子サンドも、飲めへんかったけどコーヒーも、オレンジジュースも、全部全部嬉しかったよ!」
にこやかに、わたし達四人にお礼を振り撒く男の子。
お世辞とか社交辞令が通用しない、子供の純粋な ”ありがとう” だ。
そんな風に言われたら、誰だって悪い気はしないだろう。
男性も女性も、諏訪さんも、穏やかに微笑んでいた。
もちろん、わたしも、諏訪さんとの近さに緊張していたはずの気持ちが、ほんのりと和らいでいくのが分かった。
「それじゃあ、私がこの子のお母さんが来るまで一緒に待ってますから、みなさん行ってください。出勤途中だったのでしょう?」
女性が、わたし達を見回しながら言ってくれた。
「僕は約束の時間までまだまだありますから、お付き合いしますよ?」
男性は腕時計を確認しながら答える。
わたしもまだ余裕はありそうだけど、諏訪さんはどうなんだろう。
横目で見ると、諏訪さんも腕時計に視線を落としているところだった。
そして気遣わしげな顔を向けると、
「申し訳ない、そろそろ行かないと…」
本当に申し訳なさそうに告げたのだった。
「あら、気になさらないで。ここは任せてくださいな」
あっけらかんと言う女性に、諏訪さんは浅く頭を下げた。
すると、
「あなたは大丈夫なんですか?」
今度は男性がわたしに言ってきた。
もちろん、親切で言ってくれたのだろうけど、その男性の声に諏訪さんの視線が突如わたしに舞い戻り、大きくビクついてしまった。
………だって、今わたしと諏訪さんが同時にここから会社に向かえば、必然的に、一緒に出社することになるわけで…………
あの諏訪さんと、一緒に……?
いやまさか、そんな急に、心の準備なんかまったくしてないのに。
ちらほら同じ会社の人の姿もある中で、二人で、一緒に……?
…………無理。
無理無理無理。
フルスロットルで思考を巡らせたわたしは、ブルブルと首を横に振っていた。
「あの、わたしならもう少しは大丈夫です。この子のことも気になりますし、皆さんとご一緒します」
男の子を言い訳にして、遠回しに、諏訪さんと一緒にこの場を離れることを拒否した。
ちょっと上ずった声になってしまったのは、誰にも気付かれなかったようだ。
「そう?じゃ、私達三人でこの子のお母さんを待ちましょうか」
女性のセリフが合図だったように、諏訪さんはビジネスバッグを持ち直し、立ち去る素振りをみせた。
長身の彼は、スリーピーススーツもモデルのように着こなしていて、惚れ惚れした。
「それでは、後はよろしくお願いします。じゃあな、はやくお母さんが来るといいね」
そう言いながら、諏訪さんは男の子の頭を撫でた。
すると、何を思ったのか、男の子はいきなり、頭上にあった諏訪さんの手のひらを両手で掴んで止めたのだ。
「みんな聞いて!お兄ちゃんも、まだ行かんといて!」
辺りに、男の子の声が響き渡った。
そして男の子はニッコリ笑いかけながら諏訪さんの手を離すと、全員が見渡せるところまでパパッと駆けて移動し、両腕を大きく広げた。
わたしを含めた四人は、まるで今にも演説をはじめようとする態度の男の子を、いったい何をするつもりなんだという目で見守っていた。
「みんな、むっちゃええ人!」
男の子は上機嫌で、ひとりひとりの顔を眺めていく。
ワクワクしてるような、煌めいた眼差しで。
「せやからな、ぼく、みんなにお礼しようと思うねん!」
「お礼…?」
「うん!お礼」
「お礼だなんて、いいよ、そんなの」
「そうよ、子供が気なんか遣わなくていいのよ?」
「ううん!ぼくがお礼したいねん!」
男の子はなぜだか強引に主張してくる。
子供らしいワガママの類なのか、とにかく何を言っても聞き入れるような感じではなかった。
仕方なく、わたし達は、とりあえず男の子の話を最後まで聞くことにした。
けれどそんな中、諏訪さんだけは他の三人と違って、
「すまないが、気持ちだけもらって、オレはもう行くよ。朝の会議があるんだ」
また腕時計を見ながら言ったのだ。
そういえば、営業部内主任会議というものが定期的にあったはずだ。曜日が決まってるわけではないけれど、月に2、3回ほど、全員の都合がいい朝に行われているらしい。
これも、噂で聞いた情報だけど。
……でも、今日がその日だったんだ。
噂の実証を得られて、わたしはこっそりと、またひとつ諏訪さんのことを知った気分になっていた。
けれど男の子は、行きかけた諏訪さんを、さらに大声で引き留めたのだ。
「あかんよ、お兄ちゃんも一緒や!そんな時間かからへんからちょっと聞いて!お願いやから!」
男の子の叫びに、諏訪さんもビクッと体を反応させた。
さすがに、小さな子供にそう哀願されては、諏訪さんも足を戻すしかなかったようで、かすかなため息をこぼして男の子に体を向けた。
男の子は諏訪さんが留まったことを確かめるように見てから、満足げに、コホン、と仰々しい咳払いをし、胸をはって、高らかに言ったのだった。
「あんな、みんないい人やから、お礼に、みんなの ”お願い” を1個かなえてあげるよ!」
それは、とても子供らしい、メルヘンとも、ファンタジーとも感じられる ”お礼” だった。
”願いを聞いてあげる” ならともかく、”お礼にお願いを叶えてあげる” だなんて、童話や昔話に出てくるお決まりのセリフに聞こえたからだ。
おそらくまだ就学前と思われるこの年頃らしい、可愛らしい思いつきなのだろう。
――――――それ以外に、受け取りようがなかった。
だからわたし達は、みんな、この男の子のことを、夢見がちなところのある、でも心優しい子なんだと思っていただろう。
この男の子が心優しいだけでないことを知るのは、もう少し後になってからのことだったから…………