わたしの願いごと
―――――和泉さん。和泉さん。
誰かが、わたしを呼んでいた。
男の人の、すごくいい声だ。
耳に馴染みきっているわけではないけれど、聞き覚えのある声で、わたしは、その声がとても好きだと感じた。
―――――和泉さん。
三度目に呼ばれたとき、やっと、その声の主に気が付いた。
つい最近まで彼に名前を呼ばれたことがなかったから、すぐには分からなかったのだ。
―――――二人だけの秘密にしておいてくれないか?
そう言って、諏訪さんがわたしに向かって指先をのばしてきた。
わたしは胸がドクドク騒ぎだして、近付いてくる諏訪さんの気配に、何がなんだか分からないくらい、心がしっちゃかめっちゃかになりそうで、ただただ体が熱くなっていって………
そしてその温もりがわたしの頬にふれようとしたその瞬間。
視界を焼きつくすような眩しい光と、
キキキキキ―――――ッ
ものすごいブレーキ音が、わたし達を覆いつくしたのだ。
「諏訪さんっ!」
何も見えなくなったことと、尋常じゃないその音に、凄まじい恐怖を感じたわたしは、眩しさに目を伏せながら、咄嗟に諏訪さんの名前を叫んでいた。
すぐそこまで来ていた温もりが、ふっとなくなった気がして、わたしはそれを取り戻そうと、考えるよりも先に手が動いていた。
目一杯伸ばして、彼を求める。
なのに、指先はむなしくさまようだけで。
「諏訪さんっ?!」
そこにいたはずなのに、ちっとも彼に届かないのだ。
眩しさの中、薄目で、懸命に諏訪さんを探す。
するとそのとき、確かに耳もとで声が聞こえた。
―――――そんなに泣かないで
「え………諏訪さん?」
間違いなく、諏訪さんの声だった。
「わたし、泣いてなんかいませんよ?」
―――――ごめんね、和泉さん
「諏訪さん?どこにいるんですか?」
声は耳のすぐそばで聞こえるのに、諏訪さんの気配はそこに感じられなくて、わたしは右、左、また右、と見回した。
けれど答えは返ってこなくて。
代わりに、悲しげな諏訪さんの声が、また聞こえてきたのだった。
―――――泣かないで、和泉さん。泣かないで………
最後の『泣かないで……』が、語尾を空気に溶かしていくように小さくなっていって、”今” を逃したら、永遠に諏訪さんと離ればなれになってしまいそうな予感がして、胸が押しつぶされるように苦しくなる。
それだけは絶対に嫌だ。
わたしは、あらん限りの声で叫んだ。
「諏訪さん! 諏訪さん 諏訪さん!!
―――――諏訪さんっ!」
「諏訪さんっ!」
バッと腕を伸ばし起き上がった体は、ハァハァハァと呼吸が乱れていた。
気がつくと、眩しい光は消え去っていて、そして、わたしの目尻からは、一筋の涙が頬へ、頤へと、伝っていった。
それを涙と自覚してからは、なぜだかいっきに溢れだして、わたしはそれを止めることができなかった。
そうして、今の出来事が夢だったと気付くまでにも、しばらくの時間を要したのだった。
よく理解できなかったけれど、あの悲しそうな諏訪さんの声も、胸がつぶれそうな苦しさも、すべてが夢だったのだ。
そう認識した直後から、わたしは、呼吸も涙もスッと退いていくのを感じた。
そして少しずつ感情に余裕が生まれてくると、改めて、現在の状況の確認作業に移ったのだった。
辺りには、見知らぬ景色があった。
白い掛け布団に、パイプベッド。ベッドがくっ付けられている壁は淡いクリーム色で、枕側の壁伝いには白い扉がある。その扉の正面には腰高の窓があり、ここが、わたしの記憶にはない部屋であることは間違いなかった。
布団の感じや、室内の様子からして、ここは病院内の一室だと思った。ただ、頭上にナースコールのボタンや、患者の名札的なものを取り付ける所がないので、一時的な安静室のような部屋だと推測した。
でも、わたしは、どうしてここに……?
まだフル回転は難しそうな頭を働かせて、記憶を辿ってみる。
確か、ICUで窓越しに諏訪さんを見て、綺麗な寝顔にしか見えないなって思って、そしたら看護師さんと戸倉さん達の話を聞いて……………
それからわたし、どうしたんだっけ?
ああそっか………わたし、そこで意識が切れちゃったんだ。
『意識がいつ戻るのかは分からない』
そう告げられて、それまでぼやけていた ”意識障害” の意味を実感して、それで………
「諏訪さん……」
わたしはまだハッキリと冴えない頭を手で支えながら、それでもこれが現実なのだと理解し、とりあえず、もう一度室内を観察してみた。
窓には薄いベージュのカーテンが閉められている。
足元のベッド脇にワゴンがあり、そこにわたしの荷物がまとめられていた。
誰かが運んでくれたのだろうけれど、わたし以外の人達はどこに行ったのだろう。
腕時計で時刻を確認すると、この病院に着いてからそんなに経っていなのが分かった。
いや、仮にだいぶ時間が経っていたとしても、彼らが気を失ったわたしを一人残していくとは考えられない。だから今部屋にわたし一人なのは、みんながそれぞれ他にやるべきことをやっているのだろう。諏訪さんのご家族に連絡をとったり、入院に必要なものを用意したり……
「うん、その通りやで」
わたし一人きりだったはずの部屋で、唐突に、前触れなく、返事があった。
いや、そもそもわたしは疑問を声に出して言ったわけでもないのだけれど。
そしてそんな芸当ができるのは一人しかおらず、わたしは、その名前を呼んだのだった。
「蹴人くん……?」




