手遅れ(3)
まず家族に……そう言われてしまうと、わたしはぎこちなく頷くしかできなかった。
だってわたしは、ただ、諏訪さんと同じ会社で働いてるだけなのだから。部署すら違うし、最近までは親しく言葉を交わしたことさえなかった。
諏訪さんとの関係は、ほとんど赤の他人だもの。
おとなしく引き下がったわたしに、今度は別の医師が質問してくる。
「それで、諏訪さんについて幾つかお尋ねしたいのですが…」
「あ、はい」
「諏訪さんの既往歴を、分かる範囲で結構ですので教えていただけますか?」
「え……」
「例えば喘息とか、血圧の異常、心臓病とか」
「ええと…」
「手術歴やアレルギーがあれば、それもお願いします」
「手術、ですか……?」
立て続けに訊かれて、わたしは言葉に詰まってしまう。
諏訪さんの手術歴やアレルギーなんて、わたしが知ってるはずないもの。
わたしが諏訪さんに関して知ってることといえば、社内の女子社員の間で流れていた噂程度で。
あとそれから、オレンジジュースのことくらい。
果物が苦手なのに、オレンジジュースは大切な仕事の前に必ず飲むこと。
それをジンクスにしてること。
だけどそんなの、今求められてる情報であるはずもない。
わたしは、彼ら医師や警察官の期待にそえるだけの答えを持ってはいないのだ。
「あの、わたし……」
必要な情報を提供できないことを謝ろうとした矢先、タッタッタッタッと、病院の床独特の音を立ててこちらに駆けてくる人物がいた。
待合所にいる全員が、足音の方に注目する。
やがて、
「すみません!諏訪郁弥はこちらにいますでしょうか?!」
いかにも駆け付けましたという様子で飛び込んできたのは、浅香さんだった。
仕事帰りだと分かる服装で、肩で息をして、ハァハァと全力疾走を瞬時に表現する姿で。
ピンと背筋を伸ばしてキリッと仕事をこなしている普段の浅香さんとは大きく違っていて、諏訪さんを心配してそんなにも必死になるんだと、改めて二人の関係の深さを見せつけられた気がした。
「あら……?和泉さん……?」
途切れ途切れになりながらも、わたしがここにいることに浅香さんは驚いた声をあげた。
「あの、わたしもさっき諏訪さんが事故に遇ったって聞いて、運ばれた病院がわたしの家の近くだって言われたから、それで、」
つい、言い訳じみたセリフを口にしてしまったわたしに、浅香さんは「よかった…」と、緊張が解けたような表情をした。
「和泉さんがいてくれたなら、私が急いで来ることなかったわね。戸倉くんに用があって電話したら『それどころじゃないから!』って、諏訪くんの事故を教えられて、焦っちゃったのよ」
もう呼吸が整ったのか、浅香さんはスラスラと言葉を繰り出す。
「それで、諏訪くんは?」
「それが…」
落ち着いてきた浅香さんに比べ、まだ動揺がおさまらないわたしは、今医師から聞いたことを浅香さんにも伝えようとしたものの、スムーズにいかず、結局その役目を医師に奪われてしまった。
「諏訪さんのお知り合いですか?」
「はい、同僚です」
”婚約者” と述べなかったのは、わたしがいるせいだろうか。
けれど医師達は、浅香さんがわたしよりも諏訪さんの個人情報に詳しそうに見えたのだろう、あきらかに期待に満ちた空気で、さっきわたしにした説明と質問を投げかけたのだった。
「意識障害、ですか……」
一通りの説明を受けた浅香さんは、眉間にシワをつくって苦い顔をしたけれど、すぐに気を取り直して訊かれたことに答えた。
「ああ、アレルギーですよね。私が知ってるのは花粉症と、あと軽くハウスダスト系もありました。喘息まではいかないけど気管支が弱いそうです。それから、高校の…何年のときかは忘れましたが、確か盲腸の手術をしたって聞いた覚えがあります。あとは、大学に入ってすぐ、バスケの試合で足の指を骨折したことと……それくらいでしょうか」
「喘息ではないんですね?」
「ええ、そこまでではないと聞いてます」
「ありがとうございます。充分です」
「すみません、こちらも念のため血液型を教えてください」
今度は警察官が尋ねた。
「O型と聞いてます。RHは分かりませんが」
「ありがとうございました」
浅香さんは、ごく当たり前に諏訪さんの血液型を伝えたのだった。
わたしは……諏訪さんの血液型すら知らなかったのに。
婚約者と何を張り合うのだと笑われそうだけど、こんな血液型ひとつで、わたしの傷心はさらに酷くなるのだ。
慣れなくてはいけないのに、やっぱりまだ全然慣れそうにはなくて。
何度再確認しても、失恋はわたしの心を容赦なく抉ってくる。
その苦しさに捕らわれていると、ふいに浅香さんと目が合った。




