関西弁の男の子(2)
どうしてここに?あ、いや、出勤途中にここを通りかかるのは分かるけど、でも、さっきまでは男の子に声をかけるような人はいなかったのに。
どうしよう、わたし、服とか髪とか大丈夫だよね?
諏訪さんとこんなに接近すると知ってたら、もっと気合いれてたのに……
朝から好きな人の顔を見れたことに胸は高く音たてるけれど、同時に、ネガティブの種も拾ってしまって、わたしは急いでいた足をゆるめていた。
すると、まるでそれを見計らっていたかのタイミングで、
「あ、お姉ちゃーん!」
足が止まりかけていたわたしに、男の子が立ち上がって呼びかけてきたのだ。
さっきと同じく、ブンブンと両手を振ってみせる男の子。
そして男の子につられてこちらに顔向ける三人。
期待に満ちた目と、不思議そうな目、それから、全然感情が読めない目に見つめられて、仕方なく、ベンチに進むことにした。
わたしは普通の速度を復活させて彼らに歩み寄りながら、
「玉子サンド、買ってきたよ」
男の子にコンビニの袋を掲げた。
「うわぁ、ホンマに?お姉ちゃん、ありがとう」
目をキラキラさせて、男の子は全身で嬉しさを表現してくれる。
諏訪さんの視線を感じたけれど、わたしはそちらを見ることができなかった。
「まあ、わざわざ買ってきてあげたの?」
男の子に玉子サンドを手渡しているわたしに、女性が驚いたような、感心したような声をあげた。
「ええと、はい…。お腹空いたと言って、泣き出しそうだったので……」
わたしが答えると、今度は男性がびっくりしたように言う。
「すごい。お優しいですね。僕らも何か食べられそうなの探したんですけど、こののど飴くらいしかなくて……」
苦笑を浮かべながら、その男性は握り締めていたのど飴を見せてくれた。
それは、果汁が入ってたり、甘いタイプの飴ではなくて、本気ののど飴と言ったらいいのか、とにかく、子供が好んで口にするようなものではなかったのだ。
「でも、ぼく、この飴ちゃんもおいしかったで?」
わたし達のやり取りを聞いた男の子が、真ん丸い目をして加わってくる。子供ながら、気を遣うことができるらしい。
飴をカリカリ噛んで、ごっくんと飲み込む仕草は大げさで、まるでアニメのキャラクターのようだった。
「本当かい?そう言ってくれると嬉しいなぁ」
「あら、やっぱり関西の子は ”飴ちゃん” って言うのね」
男性と女性がそれぞれに男の子に話しかけて、和やかな空気に包まれた。
「うん。お父さんもお母さんも飴ちゃんって言うで?」
「お父さんとお母さんは関西の人なの?」
「関西って、関西弁の関西?」
「そうよ?大阪とか、京都とか、」
「あ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんはみんな大阪におるよ」
「そうなのね。それで関西弁なのね」
女性と男の子の会話は祖母と孫のようで微笑ましいけれど、出勤途中であることを忘れてはいけない。
わたしは、チラと腕時計を見やった。
すると、
「その玉子サンド、食べないのかい?」
低い、艶のある声が男の子に投げられた。
言うまでもない、諏訪さんだ。
あまり口数が多くない諏訪さんの声を久しぶりに聞けて、わたしはちょっと興奮してしまった。
けれど、それを誰にも悟られないよう、密かに深呼吸してみたりした。
男の子はコンビニの袋をぎゅっと抱きしめると、諏訪さんをパッと見上げた。
「食べるよ!でも、お兄ちゃんも欲しいん?」
欲しいんやったら、半分あげようか?
可愛らしい主張と気遣いを向けられた諏訪さんは、フッと眼差しをやわらげた。
「オレはいらないよ。だけど食べるなら早くしないと。みんな仕事や用事があるんだから」
諭すような口調は、職場での印象と少し違う気がした。
わたしのことなんか知らないだろう諏訪さんは、かすめるようにわたしと目を合わせたけれど、すぐに男の子に向いた。
「お姉さんがわざわざ買ってきてくれたんだ。食べるなら早く食べた方がいい」
諏訪さんの言い方は優しかったけれど、”お姉さん” だなんて、名前も呼んでもらえない距離感に、隠していた興奮も冷めていく。
わたしが受けてしまったショックは小さくなかった。
男の子が顔中で笑って「うん!そうする!」と返事し、わたしが買ってきた玉子サンドを頬張ってくれたおかげで、少しは慰めになったけれど。
男の子は、ぱくぱくっと口に入れていったものの、すぐに、
「…っ!んん!」
喉を詰まらせたように、トントントンと胸を叩き出した。
「大変、大丈夫?」
急いでその場に膝をつくと、わたしは男の子の背中をさすった。
「何か飲んだ方がいいよな」
「コーヒーなら持ってるんだけど……」
女性がバッグからペットボトルのコーヒーを取り出した。
わたしはそれを受け取り、男の子に「飲む?」と訊いてみた。
すると男の子は大きな動きで口の中のものを飲み込み、
「んっ…。……あんな、ごめんやけど、ぼく、コーヒー飲まれへんねん」
ものすごく申し訳なさそうに、女性にそう答えたのだった。
女性は「あら、じゃあダメね。ごめんなさいね、他には持ってないのよ……」と、こちらもさらに申し訳なさそうな口調で言った。
言葉の音も、表情も、何もかもが優しい雰囲気だった。
男の子が飲めないと言うなら仕方ない。わたしは女性にコーヒーを返したのだけど、その直後にまた男の子がゴホゴホ言い出して、やっぱり飲み物があった方がいいなと思った。
「あ、じゃあもう一度コンビニ行って何か買ってきますよ。皆さん、お時間大丈夫なんですか?」
女性の優しさが伝染したのか、”ここは任せてください” の意を込めて、わたしは三人に告げた。
すると意外にも一番に返事したのは、諏訪さんだった。
「でも君だって出勤途中だろう?」
「そうですけど……」
はじめて言葉を交わしたことに喜ぶよりも、そのよそよそしい言い方に、やっぱり諏訪さんはわたしのことを知らないんだなと、再確認した。
今、一人きりだったら、盛大に落ち込んでいたかもしれないけど、『ネガティブは悪い空気を連れてくる』ことを思い出し、ちょっとだけ頑張って、笑顔を作ってみせた。
「…大丈夫です。まだもう少し、余裕ありますから」
ダッシュでコンビニ行ったら大丈夫なはず。
商品を選ぶ際の時間を無駄に使わないように、また男の子に訊いてから行こう。
頭で段取りを組んだわたしは、「皆さん、もう行ってくださって大丈夫ですよ」と言い切ったのだった。
ところが、
「あら、私も大丈夫よ?ただデパートにお買い物に来ただけだもの。開店までまだまだ時間があるから、どこかで朝食にしようと思ってた以外、特に他の予定もないわ。あなたが戻ってくるまではここにいるわよ」
女性は優しい雰囲気を保ったまま、わたしにも笑いかけてくれたのだ。
「僕も大丈夫ですよ。実は取引先との約束に早く来すぎちゃって…。だから何だったら、僕がコンビニ行ってきますよ?」
男性はちょっとバツが悪そうに頭をかきながら言った。
そしてわたし達の会話を聞き終えたあとで、諏訪さんが最後に口を開いた。
「………オレンジジュースなら、飲めるかい?」
それはわたし達大人へではなく、男の子に尋ねたものだった。
「オレンジジュース?うん!ぼく、オレンジジュース大好き!」
男の子は元気に答えた。
「そうか。良かった。じゃあ、どうぞ」
諏訪さんはビジネスバッグから紙パックの飲み物を出すと、ストローをさしてから男の子に手渡した。
あの諏訪さんが紙パックのジュースをバッグに忍ばせていたことが意外だけど、男の子は嬉しそうだ。
「うわぁ!ありがとう、お兄ちゃん」
男の子は玉子サンドを持ったまま片手で受け取る。そしてすぐにストローをくわえてチューッと吸った。
「おいしぃー!」
興奮したように叫んだあと、男の子はパクッと玉子サンドをかじり、またオレンジジュースに口をつけて。交互に顔を動かすのが、小動物のようでまた可愛らしい。
本当にお腹が空いてたんだなと思わせる姿だった。
見ているこちらまで満たされるような、ホッとする光景だ。
普段は無口で感情を読みにくい諏訪さんも、少し目元が柔らかいような気がするから。
「良かったわねぇ」
「美味しそうに食べるなぁ」
女性と男性も、無邪気な男の子に目を細める。
すると、おもむろに諏訪さんが身を屈めて、男の子の目線にまで下がってきた。
膝をついて男の子のそばにいたわたしは、急に近付いたその距離に心臓が飛び出しそうになるけれど、諏訪さんの顔つきが些か真剣さを乗せていたので、一瞬顎を引いただけで、後はそのままでいた。
「ところで、君はひとりでここまで来たのかな?お父さんかお母さんは一緒じゃないのかい?」
顔をのぞきこむようにして男の子に尋ねた諏訪さん。
男の子はオレンジジュースをグッと口に流し入れると、
「ぼく、ここでお母さん待ってるねん。もうすぐお母さん来ると思うから」
ニコッと幼児らしい笑顔を見せたのだった。