駆け巡らない噂(4)
「白河さん、引っ越すんだ。……あれ?でも、確か去年、今のとこに引っ越したんじゃなかった?更新まだ来てないはずよね?」
何か事情があるの?
特に深い意味はなく、なんとなく思い出したことを尋ねたところで、エレベーターがまた止まった。
そして扉が開く前に、白河さんがちょっと早口で付け加えたのだ。
「……戸倉さんと、一緒に住むことになって……」
「え?」
白河さんは言い逃げするようにサッとエレベーターを降りてしまい、同じフロアで降りるはずだったわたしも慌てて後を追った。
幸い、エレベーターホールに人の気配がなかったので、わたしは白河さんにコソッと、ナイショ話のように耳打ちした。
「戸倉さんと…って、それって、同棲?それとも結―――」
結婚?そう訊きたかったのに、
「ちが、違うから!まだそこまで話は進んでないから!」
小声で、だけど強く否定されてしまう。
白河さんは焦りを誤魔化しもせず、オフィスがある方とは逆の壁ぎわまでわたしの腕を引っ張っていった。
「あのね、しばらく戸倉さんの仕事が詰まってて、海外出張とかも増えてくる予定だから、一緒に住んでた方が二人の時間も増やせて、合理的じゃないか…って」
「戸倉さんがそう言ったの?」
こくりと頷く白河さん。
合理的……
確かにその通りかもしれないけれど、さっきの戸倉さんの様子からして、それだけが理由ではなさそうだ。
たぶん、たぶんだけど、戸倉さんは外堀を埋めていってるような気がした。
だって、もうとにかく、白河さんのことが好きなんだと、態度の端々で主張していたもの。
一緒に住んで、なんだかんだと白河さんを言いくるめて、結婚まで持っていくつもりなんじゃないだろうか。それも、迅速に。
わたしは、少し恥ずかしそうにしている白河さんを見つめた。
多少の困惑は抱えながらも、彼女に、迷惑がっている素振りは見えない。
だったら、他人がどうこう言う問題でもないはずで。
わたしはまた白河さんの耳元に顔を寄せて、
「じゃあ、結婚が決まったらすぐに教えてね」
と言ったのだった。
すると白河さんは分かりやすく頬を赤らめてみせた。
「そんな、結婚なんて、まだまだ先だと思うから…」
「そうかな」
あの戸倉さんが本気になれば、きっとあっという間だと思うけど。
わたしの返しに、白河さんは小さく首を振った。
「実はね、もうすぐ総務にも話がいくと思うけど、同じ部署の浅香さんの結婚が決まったばかりなの。だから、そう立て続けには……」
そのセリフに、ギクリと、心が衝撃を受けた。
「浅香さんが、結婚……?」
わたしの反応をどう捉えたのか、白河さんが急いで浅香さんの詳細を説明してくれる。
「あ、浅香さんていうのは、同じ営業部の女の人で、戸倉さんと同期なの。それで、今度浅香さんのヨーロッパ方面への異動が決まったんだけど、それを機に結婚することにした…って、教えてもらったの。数日中には社内メールにも載るらしいんだけど。でもだから、同じ課から続けざまっていうのは、戸倉さんも避けると思うの」
「そう……なんだ。浅香さん、……有名な人だものね。きっと、社内で大騒ぎになるね」
心を奮い立たせて、絞り出すようにして、世間話のひとつを装った。
わたしも白河さんも、あまり人の噂話で盛り上がるタイプではないけれど、戸倉さんと付き合っている白河さんには間接的に関係のある話で、わたしは、”聞きたくない” という思いを堪えなければならなかった。
実のところは、胸が苦しくて苦しくてしょうがなかったのに。
「でもそういうわけだし、わたし達は別に、すぐそういうことになるわけじゃないから……」
白河さんの言い訳のような説明が、なんだか遠ざかって聞こえてくるようだった。
それから当たり障りのない会話を二、三ラリーして、お互いの目的部署に向かうため、わたし達はわかれた。
ひとりになると、わたしは化粧室に立ち寄り、誰もいないのをいいことに、深く、長い、大きなため息を吐き出した。
……諏訪さんと浅香さん、やっぱり結婚するんだ………
応接室で立ち聞きしてしまった内容では、浅香さんの海外異動が決まって、二人の間がギクシャクしてそうだったけれど……まるくおさまったんだ。
結局、わたしなんかが願わなくても、諏訪さんは幸せになれるんだ。
あんなに、浅香さんが海外に行くのを否定していたのに………
わたしは、何を期待していたのだろう。
一旦決まっていた結婚が、浅香さんの転勤によって白紙になることを望んでいたのだろうか。
二人のことを心から祝福できないにしても、破局を願っていただなんて、そんな醜い気持ちを抱いてしまった自分が、ショックで、情けなくて、腹立たしい。
でもそれが、きっと、”片想い” というものなのだろう。
綺麗事で済まされない感情の渦が心の底にあって、油断すれば、すぐにその中心に引き込まれそうになる。
『またね、和泉さん』
そう笑いかけてくれた諏訪さん。
親しげに、わたしの肩を叩いていった諏訪さん。
その距離は間違いなく縮まっていたはずなのに、最終的には、遠いままなのだ。
エレベーターで、息も忘れるくらいの想いをあふれさせたのが、遥か昔のように感じられた。
………ちょっと親しくされたからって、いい気になって。
だけどその一瞬は、浅香さんのことなんてどこかに行っちゃってた………
わたしは、こんなときなのに、ほとんど条件反射的に頬を触っていた。
エレベーターから降りてすぐに、”プラマイ0(ゼロ)” をやっておけばよかった。
そうしたら、今ほどのショックを受けなくて済んだのかもしれないのに。
わたしは、涙の出ない絶望というものを、はじめて知った気がした。
たかが失恋。だけど、絶望と言っても決して大げさでないほどの痛みが、確かに、今ここにあるのだから。
どうかもう、これ以上悪いことが起こりませんように。
痛みが、これ以上酷くなりませんように………
祈りながら、わたしは自分の頬をつねったのだった。




