彼の願いごと
不思議なことに、あれから、諏訪さんと浅香さんの結婚話はどこでも噂されることはなかった。
社内一の有名人の二人だから、誰かが知れば、あっという間に広がるに決まってる。
だからきっと、二人が誰にも知られないよう、慎重に事を進めているのだと思っていた。
二人のことを考えるとき、わたしの心情が落ち着くことはなかったけれど、その心のざわつきも、ほんの少しだけは、慣れてきつつあった。
こんな風に、いつか諏訪さんが結婚してしまったときも、いつの間にか慣れていくのだろうか。
それはそれで寂しいとも感じてしまうのだから、”片想い” というものは、本当に厄介だ。
そんな片恋の矛盾をひしひしと感じていたある日のこと、わたしは、社内でまたあののど飴の男の人と出会った。
昼休みを利用して部内の書類を運んでいたときだ。
ちょうど人事課のフロアを横切っているところで、廊下とオフィスの境あたりに、ちょっとした人垣を見かけた。
人の集まりには特に興味はなかったものの、そばを通り過ぎる際、なんとなく目をやった先に、あの男性がいたのだ。
偶然、男性もふとこちらに視線を流したので、ばっちり目が合ってしまう。
「あ」
男性が、はっきりと声に出してびっくりしていた。
わたしも無視することはできず、ささやかに会釈してみせた。
すると男性が人の輪から抜け出して、わたしに歩み寄ってくる。
必然的に、わたしも足を止めた。
「こちらにお勤めだったんですね」
にこやかに、仕事上というよりはどこか親しさも含ませて話しかけてくる。
「こんにちは。そうなんです。……でも実は、この前駅でお会いしたとき、以前どこかでお見かけしたような気もしていたんですよ」
わたしの返事に、男性は「そうでしたか」と、意外そうに答えた。
そしてハッと思い出したように、
「ご挨拶がまだでしたね…」
と言いながら、ジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出した。
受け取った名刺には、安立 嘉一と記されていた。
「申し訳ございません、ただ今、名刺を携帯しておりませんので…」
わたしがそう告げると、のど飴の男性、安立さんは、
「いえいえ、お気になさらないでください」
と返した。
穏やかな性格が推察できる人当たりの良さだ。
そして、
「なんだか変な感じですね」
と、クスリと笑った。
確かに、仕事外で知り合った人と仕事で関わってしまうと、その態度のギャップに互いに妙な感じを覚えるものだ。
「そうですね。あ、申し遅れました、わたくしは和泉みゆきと申します」
わたしは仕事用だった表情をやや和らげて挨拶した。
「和泉さん、ですね。ああ、そういえば、あのときご一緒した男性もこちらの方ですよね。営業部の諏訪さん。有名な方なので、すぐに分かりましたよ」
安立さんはただの話題提供の一つのつもりで言ったのだろうけど、わたしは、思わぬところで出会った諏訪さんの名前に動揺が走った。
「……そう、ですね。仰る通り、諏訪さんは、社内でも有名な方ですから……」
「あれ?でもあのときは、お二人とも初対面みたいな様子でしたよね」
「ええ。わたしの方は諏訪さんを存じ上げていたのですが、諏訪さんはわたしのことなんかご存知ないと思ってまして……」
苦笑いしながら説明しているときだった。
「え、妊娠されたんですか?おめでとうございますー!」
安立さんの後ろで、甲高い女性社員の声が響き、思わず言葉を飲んでしまった。
自然とそちらに目がいくと、今度は、その集まりの真ん中にいた人物と目が合った。
それは、人事課の、この前応接室で忘れ物のボールペンを渡した女性だった。
互いに小さな会釈をしたけれど、先ほどの甲高い声のせいで、女性はどこか照れくさそうなお辞儀だった。
「……あの人のことなんですよ」
ふと、一緒に声の方を見ていた安立さんが呟いた。




