立ち聞き(5)
わたしは、蹴人くんの感情を掬うように、話に乗るようにして返した。
「そうなの?それはどうして?」
「あんな、その人とは、毎日、会うてたから、いつでも『好き』って言えると思ててん。でも、急に会われへんようになってしもたから……。だからな、お姉ちゃんも、大切な人には、ちゃんと自分の気持ちを言えるときに言っとかな、あとでホンマに言えへんようになったとき、きっと後悔するで?」
後悔………
こんな小さな子が”後悔”という言葉を自然と使うことに、さっきの”命がけ”同様、意外性はあったけれど、いつも子供らしからぬ言動をする蹴人くんならおかしくないのかもしれないと、受け流すことはできた。
それに今は、そんなことよりも、もっとわたしの感情を騒がせることがあったのだ。
あとでホンマに言えへんようになったとき――――――――――
それが、諏訪さんが浅香さんと結婚してしまったときだというのは、すぐに気付いたから。
あの二人が付き合っていて、結婚を視野に入れていること、それはわたし自身にも信じられないほどのショックを与えたけれど、なにも二人を邪魔するつもりはない。
あのお似合いの二人をわたしなんかが邪魔できるとも思わないし、もともと自分の気持ちを打ち明けることだって、考えてもいなかったのだ。
それでも、結婚しているかしていないか、それは相当大きな違いになるはずで……
普通に考えれば、気持ちを伝えるなら、結婚する前だろう。
……いや、わたしは気持ちを伝えないと決めたんだから。
見てるだけで充分。それなら、諏訪さんが結婚したあとも許されるような気がする。
誰に話すこともせず、諏訪さんと浅香さんの幸せを妨げることなく……
……だけど、そもそも私は、二人の幸せを願えるのだろうか。
二人が結婚するかもしれないと知っただけでこんなにも動揺してるのに、二人の幸せそうな姿を目の当たりにしても、平然としていられる?
さっき聞いてしまった話では、どうやら浅香さんにヨーロッパ行きの打診がきてるみたいだから、このオフィスで、新婚の二人と遭遇する機会はないのかもしれない。
でもここで働き続けていれば、いつかは必ず見てしまうのに。
例え、幸運にも、わたし自身の目では見かけなかったとしても、社内でも一番目立つ二人の噂はきっとすぐに耳に入ってくるだろう。
そのときわたしは、今みたいに狼狽えたりしないでいられるのかな………
考えすぎるいつもの癖は、止まることなく、次々とわたしをナーバスの底に突き落とそうとしてくるのだった。
「お姉ちゃん?」
思考の渦の淵に立っていたわたしは、蹴人くんによって引き戻された。
蹴人くんは、急に黙ってしまったわたしを不思議そうに眺めていた。
「大丈夫?お姉ちゃん」
「……あ、うん、大丈夫。ごめんね、ちょっとボーッとしちゃった」
わたしはぎこちなさ満載の笑顔をつくりながら、再び給湯室に入った。
あれこれ考えすぎるのは悪い癖だと自覚してるけど、蹴人くん相手のときはその症状がより重たいような気がする。
小さな男の子だけど、どこかが普通じゃない男の子に対して、心が、惑わされるのだ。
ガタン
空っぽの紙パックを燃えるゴミ用のボックスに落とすと、やけにその音が大きく聞こえた。
わたしの手元から離れていった紙パックを見て、こんな風に、自分の気持ちも簡単に捨ててしまえれば楽なのに……なんて、現実逃避的なことまで考えてしまう。
でもそんなのあり得ないわよねと、無意識のため息をこぼしたとき、応接室から蹴人くんの慌てる気配が聞こえてきた。
「あ、あかん!もうすぐお母さんが来るから、ぼくもう行くわ!」
蹴人くんの異変に、わたしも急いで応接室に戻った。
お母さんが来るって、どこに?
まさか、ここに来るっていうの?
「蹴人くん、お母さんが…」
お母さんが来るって、どういうこと?
そう訊き終わる前に、蹴人くんはいつものように、
跡形もなく消えていたのだった。




