関西弁の男の子
電車で席を譲る諏訪さんを見かけて以来、不思議と、社内でも彼を見かける機会が増えていた。
でもそれは、わたしが彼を意識しだしたからで、本当は不思議でもなんでもないのかもしれない。
諏訪さんはおしゃべりな方じゃないので、誰かといてもあまり声を聞く機会は少なかった。
だから、あの日聞いた『もしよろしかったらどうぞ』のセリフが、ひどく記憶に残っていた。
営業部の諏訪さんも、広報部のわたしも、常に社内にいるわけではなかったけれど、ときどきエントランスですれ違ったり、社外に出るタイミングが近かったり、そんな些細なことを喜んだりもした。
……でもそのあと、“良いことのあとに待ってる良くないこと” に、ちょっとだけビクビクもしていたのだけど。
こんな性格だから、好きな人は、見ているだけで充分だった。
昔から、性格同様、恋愛ごとにも積極的にはなれなかったから。
気持ちを伝えて、もし相手に迷惑をかけたらどうしよう…そんな不安がつきまとってしまうのだ。
考えすぎて、臆病になって。
だからもちろん、諏訪さんのことも、ただ、ひっそりと想ってるだけだった。
そもそも諏訪さんは、それ以上を望んだりしちゃいけない人だったのだ。
………なぜなら諏訪さんには、同期の彼女がいるともっぱらの噂だったから。
その噂が真実だと確かめたわけではないけれど、万が一噂通りなら、わたしの気持ちなんか迷惑でしかないわけだから。
だからわたしは、見ているだけで充分だったのだ。
そんな、誰に打ち明けるでもない片恋を燻らせていたある日のこと。
その朝は、いつもと何ら変わりのない朝だった。
わたしは、いつもの通勤風景に身を任せて流されて、電車に吐き出されるようにしていつものターミナル駅に降り立った。
中央改札を出ると右に折れて、人波にうまく混ざる。
いくつかの分岐を通り過ぎ、混雑が解消された頃、広場に出てくるのもいつもと同じだ。
多くの人が、この広場を突っ切り、駅ビルと隣接するオフィスタワーを目指していた。
一方通行の大きな流れに従い、やや俯きながら、わたしもひたすら歩いていた。
けれど、ふと、気付いてしまったのだ。
広場の両側に規則的な間隔で置かれたベンチ。
そのひとつの足元に、小さな子供がうずくまっていることに。
こちらに背を向けて、きゅっと丸まっている。
その姿は、まるで何かから隠れているようにも見えた。
実際、広場を行く通勤途中の大人達は、誰もその子に目もくれない。
だけどわたしはその子が気になって、ちょっとずつ、さりげなく、近寄ってみた。
ぱっと見では、小学校に入る前くらいの年齢に思えるのに、周りに親御さんの影もない。
迷子かな?だったら、駅員さんのところか交番につれて行ってあげなきゃ………
そう思ったけれど、昨今の幼児や児童に対する事件の多さを考えると、もし善意で声をかけたとしても、変な誤解を与えてしまうかもしれない…………
また、ネガティブが顔を出してくる。
だって、現に他の人は誰もその子に声をかけたりしてないのだから。
みんながそれぞれに朝の限られた時間の中ペースを崩したくない、遅らせたくない人が多いのは分かるけれど、あんな小さな子が一人でしゃがみこんでるのに、完全無視できる人ばかりだなんて。
わたしは、明らかに平常ではないだろう小さな子供に、ちらりとも視線を投げない大人達に、違和感と、ささやかな怒りを覚えた。
小さな子供が何か困ってそうなのに………
ネガティブでもあるが心配性でもあるわたしは、どうしても気になってしまい、迷いながらも、さらに、そばに寄ってみた。
歩く速度をゆるめ、人の流れを縫うようにして左側に進む。
毎日履いているのにまだ慣れないパンプスは、規則正しかった音を乱して斜めに鳴らしていった。
そうしてベンチに近付いたとき、その子の小さな肩が、上下に震えているようにも見えて―――――――
………あの子、大丈夫かな。
そう思った瞬間には、ネガティブな躊躇いはどこかへ吹き飛んでいったのだった。
「どうしたの?大丈夫?」
わたしが声をかけると、うずくまっている可愛らしい背中は、ピクリと反応した。
サラサラしてそうで、ちょっと色素の薄い、短い髪。
白い長袖のシャツに紺色のベストを着ていて、足元は、革靴かな?お出かけのときに履くようなかっちりした靴だ。
幼稚園の制服のようにも見えたけれど、それにしては、バッグも帽子もない。
男の子か女の子かも判断できなかったその子は、わたしの方をくるっと振り向いた。
そして、
「大丈夫ちゃうねん。ぼく、お腹空いてんねん………」
今にも泣き出しそうな声で、目を潤ませて、わたしに訴えてきたのだった。
前屈みになって尋ねたわたしを、力いっぱいに見上げて言った男の子。
その必死感が、とても愛らしく見えた。
少し舌足らずの関西弁も、紅潮させたほっぺたも、もう、絵に描いたような可愛い男の子だったのだ。
「あ……お腹、空いてるのね。何かあったかな……」
小腹を満たせるようなものがあっただろうかと、肩に掛けたバッグの中を探った。
けれどあいにく、この男の子に差し出せるようなものは何も入ってなかった。
それに、もし何かおやつ的なものを持っていたとしても、それをこの子に食べさせて、後で保護者から何か言われたりしたら悲しすぎる。アレルギーだってあるかもしれないし……
短い時間であれこれ考えてしまったわたしは、見上げてくる男の子に「ごめんね…」と返事した。
「今、食べられるもの何も持ってないの」
「そうなんや……」
分かりやすく残念がる男の子。
たまらず、わたしはポン、と男の子の頭を撫でると、
「大丈夫。今何か買ってきてあげるから。何がいいかな?」
安心させるように、笑って訊いたのだった。
すると男の子はぱあっと花火が開くように表情を明るくさせた。
「え?いいの?えっとな、ぼく、玉子サンド好きやねん」
「玉子サンド?お家でもよく食べてるの?」
「うん!お母さんがよく作ってくれるねん」
玉子サンド……卵は子供のアレルギーでもよく聞くけれど、普段から食べてるなら問題はないだろうか。
………うん、大丈夫、よね?
”大丈夫” の結論に至ったわたしは、笑顔のまま頷いた。
「わかった。じゃあそこのコンビニで玉子サンド買ってくるから、ちょっと待っててね」
男の子に告げてから立ち上がる。
幸い、コンビニはすぐそこにあるし、会社の始業時間まではまだ余裕がある。これくらいの寄り道はタイムロスにもならないだろう。
わたしはコンビニに駆け出した。
そのとき、
「あ、お姉ちゃん!」
男の子に大きく呼び止められてしまった。
「なぁに?」
振り返ると、小さな男の子は満面の笑みで、その小さな手を振っていた。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
はっきりと、明朗に。
男の子は全力でわたしに ”ありがとう” を伝えてきたのだ。
これには、なぜだかわたしが赤面してしまいそうになった。
こんな、どストレートに、無邪気に礼を言われることなんて、最近はほとんどなかったから。
男の子はピンと腕を伸ばし、ブンブンと左右に振っている。
可愛いなぁ……
わたしも、男の子ほどではないけど、手を振って返した。
声をかけてよかった。
いつものネガティブも、このときは引っ込んだままでいてくれたのだった。
それから急いでコンビニに入ったわたしは、男の子のリクエスト通り、玉子サンドを買った。
そして来たときと同様、小走りで広場に戻った。
手には玉子サンドが2つ入った袋を持って。
ちょっとしたお菓子も買おうかと思ったけど、男の子の好みも分からないし、チョコはダメだとか、添加物がどうの……みたいな親御さんの意向もあるかもしれないから、とりあえず、男の子が普段食べているという玉子サンドだけにしたのだ。
これで、あの男の子が元気になってくれたらな。
そんなことを考えると、気持ちが明るくなった。
けれど、男の子がうずくまっていたベンチに戻ると、明るくなった気持ちが、今度は急に早鐘を打ちはじめたのだった。
そこにいたのは、男の子だけではなかったから…………
広場のベンチ横には、諏訪さんの姿があったから――――――――
座り込んだ男の子を囲むようにして、男の人が二人、女の人が一人、立っていたのだ。
スーツを着た若い男性、
わたしの母と同じ年代に見える女性。
女性は見覚えがなかったけれど、若い男性はどこかで見かけたような印象があった。
そして、諏訪さんが…………