立ち聞き(3)
そんなまさかと、わたしは勢いよく振り返った。
けれどそこには、『そんなまさか』の通り、蹴人くんがいたのだった。
応接室の硬いソファに浅く腰掛け、床に届かない足をぶらぶらさせている。
いつもと同じ、幼稚園の制服のような服装で、にこにこ顔をわたしに向けていたのだ。
ただいつもと違っていたのは、蹴人くんが紙パックのジュースを手にしていたことだった。
いやそんなことよりも、なぜ蹴人くんがこんなところに?
今までみたいに、公共の場や道端ではなく、普通の大人でも入館証が必要な社内に、いったいどうやって入り込んだというの?
当然、蹴人くんの首に入館証の類など掛けられておらず、それなのに、まるでここが自分の家のような寛いだ様子でこちらを見ている。
………この子、本当に、何者なの?
「蹴人くん…?」
「うん?」
やっとのことで呼びかけたわたしに、きらきらと楽しげに返事した蹴人くん。
二人の温度差に、目眩がしそうだ。
わたしは給湯室から応接室におずおずと進み歩み、その間、蹴人くんは紙パックのストローを吸っていた。
それはオレンジジュースではなく、りんごジュースだった。
いや、だからそんなことはどうでもいいのに。そんな些細なことで頭を紛らわせていないと、叫んでしまいそうになる自分がいたのだ。
だって絶対、こんなの普通じゃないもの。
こんな子供が、いくつものセキュリティを潜り抜けて、広いオフィスビルの中でわたしを見つけだすなんて、絶対に偶然なんかじゃあり得ない。
それに、この応接室は、さっき浅香さんが出ていってから、扉が開閉した音も気配もまったくなかったのだ。
目の前で無邪気な笑顔を見せる蹴人くんと、”不審者” という単語は繋がらない。
けれど、”普通じゃない” ということは、つまり ”不審” なわけで、わたしは、こんな小さな男の子に対して、ある種の怖さみたいなものを感じずにはいられなかった。
「……蹴人くん、どうやって、」
どうやってここに入ったのかと訊きたかったのに、その前に、蹴人くんが情感たっぷりに言ったのだ。
「なんかあのお兄ちゃん、揉めてたなぁ」
「……聞いてたの?」
蹴人くんの登場に気をとられてしまったけれど、さっきここで立ち聞きしてしまったことを、また思い出した。
諏訪さんと、浅香さんの、結婚……
そのショックは例えようがないけれど―――――あのとき、諏訪さんと浅香さんが言い合っていたとき、蹴人くんはいったいどこにいたの?
「ずっとここにおったよ?」
「え?」
「だから、お兄ちゃんとあの女の人が揉めてたとき、ぼくもここにおったよ?」
「………もしかして、またわたしの心を読んだの?」
つい、鋭く尋ねてしまう。相手は小さな子供なのに。
けれど蹴人くんは、わたしの質問を得意気にかわしてしまうのだ。
「そうやで?」
それのなにがあかんの?そう言いたげだ。
「……ねえ蹴人くん、蹴人くんは、いったい、」
「うわっ!」
どこから来たのか、どうやって入ったのか、その問いは、またもや蹴人くん本人によってかき消されてしまう。
蹴人くんが紙パックを強く握ったようで、ジュースがストローから勢いよく飛び出したのだ。
慌てる蹴人くんに、わたしは給湯室からキッチンペーパーを数枚とって駆け寄った。
蹴人くんからは、ひどく甘いりんごの香りがした。
「大丈夫?顔にはかかってない?」
服を中心に拭いていると、蹴人くんが頼りなさそうな声を吐いた。
「ぼく、ほんまはりんごよりオレンジジュースの方がよかってんけどな。でも、朝、お父さんがくれたから、嬉しくなって、せっかく飲んだのに……」
こぼしてしまったことを嘆く蹴人くんは、年相応の子供にも見えた。
わたしはそんな蹴人くんを見て、そして蹴人くんからお父さんのことが聞けて、ほんの少しだけ、不審が溶けたような気がした。
「お父さんからもらったの?」
「うん。いつもはお母さんがおやつくれるんやけど、今日はお父さんがくれてん」
「そっか。よかったね。……よし、これで大丈夫かな?」
わたしが拭き終わると、蹴人くんは「ありがとう」と見上げてきた。
そして、
「なぁ、オレンジジュースのお兄ちゃん、ちょっと怒ってたみたいやけど、大丈夫なんかなぁ?」
諏訪さんと浅香さんが出ていった扉の方を見ながら言った。
心配げというよりも、ちょっと気になる、という程度に。
「さあ……、どうかな」
わたしは、役目を終えたキッチンペーパーを丸めて握りながら、曖昧に濁した。
すると蹴人くんはチュウ、とジュースを最後まで吸って、プハッとストローを離した。
いかにも子供らしい仕草だ。
「まぁいいや。それで、お姉ちゃんのお願いは決まったん?」
ふいに発せられたこの前の夜と同じ質問に、わたしは蹴人くんに視線を留めたまま、唇をつぐんでしまったのだった。




