立ち聞き(2)
のど飴の男の人と、人事課の女性社員との会話を立ち聞きしてから、まったくの他人事なのに、わたしもどこか気持ちが明るい状態が続いていた。
だから、終業間際に滑り込んだイレギュラーな来客にも、いつも以上ににこやかに応対できたのだと思う。
わたしは、受付と同じフロアにある小さめの応接室で、来月から始まるフェアの広告についての最終打ち合わせをした後、お客様をお送りし、片付けにかかっていた。
応接室の奥には最小限のものしかない給湯室があって、ふきんを洗いにそこの扉をくぐったとき、背後の応接室に誰かがバタバタと入ってきたのだった。
「―――っ?」
その騒々しさと、にわかに感じた物々しさに、わたしは思わず身を隠してしまった。
足音と穏やかではない気配は、一人分のものではなかったのだ。
何か揉めてるような話し声が小さく聞こえてきて、わたしは、今日は図らずも立ち聞きすることが多いなと思いながら、息を詰めた。
そしてどうにか自分の存在を空気に溶け込ませようとしたけれど、
「ここなら大丈夫だろう。来客が帰ったのは受付で確認済みだからな。……それで?お前はどうするつもりなんだ?」
廊下側の扉付近から低く聞こえてきた声に、ビクリと全身が反応した。
それは、諏訪さんだったからだ。
ドクドクドクと、脈打つ振動がうるさく響いてくる。
こんな、人目を忍ぶような状況で、諏訪さんが誰かと会っている―――――
いや、もちろん仕事上でそういう場面もあるかもしれないけれど、今の諏訪さんの口調は、職場の人間に対するものではなかったのだ。
だったら、その相手は、諏訪さんと親しい人なわけで。
それはもしかしたら……
「どうして郁弥が怒るわけ?」
艶やかな女性の声に、わたしの胸が小さなヒビを走らせた。
やっぱり………
諏訪さんと一緒に応接室に駆け込んできたのは、浅香さんだったようだ。
「別に怒ってるわけじゃない。お前の無計画さに呆れているだけだ」
隠れているので二人の様子は見えないけれど、その口調は、互いに尖りがある。
そしてそれは、普段は口数も少なくて、話しかけにくい印象を持たれがちな諏訪さんとは思えなかった。
「だって仕方ないじゃない。今ヨーロッパ方面は大幅改革中なんだから、転属なんか郁弥にも予測できたでしょ?それに私はもともと向こうに行きたかったんだもの」
「だからって急すぎるだろ」
「でもせっかくのチャンスなのよ。いい?こんなチャンス、二度とないかもしれないの。急なことだけど待遇は最高だし、今私が預かってる仕事もきりがいいところだし、引き継ぎだってすぐに済む案件ばかりなの。タイミングまでばっちりなんだから」
浅香さんからの言葉で、なんとなく状況は分かってきた。
うちの会社が行っているヨーロッパ方面での事業改編で浅香さんの転勤の話があったのだろう。
そして諏訪さんは、その急な異動を不安視しているようだ。
まあ、恋人である浅香さんが勝手に海外転勤の話を受けたりしたら、いつもはクールで落ち着いている諏訪さんだって平生ではいられないだろう。
そんなことを思うと、チクリと失恋の痛みが再来しかけるけれど、次の瞬間、そんな痛みが小さくなるほどの衝撃が走ったのだった。
「……じゃあ結婚はどうするんだ?」
苦しげに吐き出したような諏訪さんの問いかけに、わたしは、体じゅうの血の気がいっせいに引いていく感覚がした。
結婚――――――――
その一言が、信じられないほどに深く深く、わたしの心を暗い底へ引きずり込んでいく。
「もう親にも報告済みだし、式場探しだってしてるのに、いったいどうするつもりだよ?今さら延期なんて言うなよな。どれだけ周りに迷惑かけると思う?」
らしくなく声を荒げる諏訪さん。
けれどわたしは、”結婚” という言葉があまりに衝撃で、諏訪さんのセリフを冷静に鼓膜に当てることができなかった。
結婚……もちろん付き合っていたらいつかは出てくる話だし、諏訪さんと浅香さんは大学の同級生なのだから、知り合ってからの時間も長いし、そろそろそんな話題があがっても全然不思議じゃないけれど。
でもわたしにとったら、それは急転直下、寝耳に水で、頭の中で受け入れることすらも峻拒してしまったのだ。
「結婚は………考えるわ」
「考える?考えるってなんだよ。お前は自分の都合しか考えてないんじゃないのか?オレだって色々考えて、楽しみにしてたんだ」
「そんな、郁弥が楽しみにだなんて、そんな風に思ってたなんて知らなかったわよ」
「でもお前は何がなんでもヨーロッパ行きは受け入れるんだろ?」
「辞令だったら断れるわけないじゃない」
「今回は急なことだから辞退しても構わないって話じゃないか」
「それは……」
返事を濁す浅香さんに、それまでの激しさとは打って変わった諏訪さんの悲しげな追い打ちが、静かに響いた。
「……結局、お前の気持ちは、その程度だったんだな」
浅香さんは、なにも答えなかった。
少しの間、重たい沈黙がのしかかったけれど、やがて耐えられなくなったのか諏訪さんが「分かった」と呟いて、部屋から出ていった。
「郁弥!」
そう呼びかける浅香さんを、一人残して。
――――――わたしは、一部始終を聞いてしまったことを、とてつもなく後悔していた。
聞かなければよかった。
この場にいなければ、よかった。
いつの間にか強く握り締めていた拳が、ジンジンと痛くなっていった。
見えない内側では、爪が手のひらに痛みを与えて、わたしは無言の悲鳴を飲み込んだ。
やがて浅香さんも応接室を後にして、パタンと、閉じられた扉の音がやけに悲しげに聞こえた。
それが浅香さんの心の内を表しているように感じられて、わたしはさらに苦しくなった。
「結婚………」
呆然と、その言葉を呟いてみる。
今の様子だと、浅香さんは仕事のために結婚を延期させるつもりで、諏訪さんは結婚の予定を変えたくないのだろう。
……それだけ、諏訪さんが浅香さんとの結婚を望んでいるということで。
――――――痛い。
自分で考えておきながら、胸の隅々までが痛くて痛くてしょうがない。
浅香さんとのことは最初っから分かっていたはずなのに。
だから告白なんて大それたことはするつもりもなくて、ただ見てるだけで満足していた。
だけどあの朝、はじめてちゃんと言葉を交わして、名前を知ってもらってたと知り、呼びかけてもらえて、二人の秘密を共有できて…………
それなのに今さらこんなふうに現実を見せつけられるなんて、やっぱり、良いことのあとには悪いことが起こってしまうのだ。
表裏一体で襲ってくる現実に、わたしはもう、手も足も出せなかった。
すると、わたし一人きりの室内に、わたし以外の人物の声が高く響いたのだった。
「ほら、今こそ頬っぺたつねらなアカンやん!」




