立ち聞き
「和泉さん、先日の取材の件で、担当された方が褒めてらしたよ」
それは、昼休みが終わってすぐのことだった。
今日は一日内勤の予定だった私は、すでにデスクワークに取りかかっていて、外から戻った先輩から声をかけられたのだ。
「え…。あ、もしかしてロンドン支社の件ですか?」
いきなりだったので少し考えてしまったけれど、思い当たることがないわけではなかった。
ヨーロッパ方面での取引を拡大させた我が社は、EU関連もあって、各支社の大規模な改編を行っているところで、先週、それについての取材を受けたのだ。
もちろんわたしは広報なので、詳細な取材は担当部署の社員が受け答えしたのだが、なにぶん忙しい最中だったので、その段取りやセッティングに少々手間がかかったのは事実で。
けれどその甲斐あって、先方からは労いの言葉をいくつもいただいていた。
「難しいスケジュールをどうにかしてくれたって、喜んでらしたよ。その後の諸連絡も抜かりなくて、感心してらした。関係ない人にまで、きみのところの広報にはできる若手がいるらしいねって言われたよ」
「いえ、そんな…。わたしの仕事をしたまでですから」
関わった相手から評価されるのはもちろん嬉しいけれど、第三者からもそういう風に言われると、さらに嬉しい気もした。認められたようで、自然と背筋が伸びるというものだ。
先輩は「その調子で頑張れよ」とわたしの背中を叩いて、自分の席に戻っていった。
わたしはパソコンの画面を見つめながら、自分の頑張りが結果を出せたことに、大きな達成感と、ささやかな安堵を覚えていた。
けれど次の瞬間には、また、
例の悪い癖がひょっこり頭を出してくるのだ―――――――
良いことのあとには、悪いことが………
ソレが頭に浮かんだとき、わたしは、無意識のうちに右手を頬に持っていった。
『とにかくなんか自分で悪いこと起こして、
それで帳消しにしたったらいいねん――――――』
蹴人くんが教えてくれた ”プラマイ0ゼロの法則” は、必ずしもうまく作用されるわけではなかったけれど、心理的な気休めの意味では、多少の効果はあるのかもしれない。
実際、こうやって、わたしは頬をつねろうとしているのだから。
……でも、本当に、あの子はいったい何者なんだろう。
無邪気な姿で、鋭い言葉を口にする、不思議な男の子。
子供らしいメルヘンなことを言い出すかと思えば、現実に役立てそうな話をしたりして……
蹴人くんが指摘した靴擦れの痛みはもうほとんどなくなったけれど、わたしの中には、あの小さな男の子が、ずっと、居座り続けているのだった。
※※※※※
それからしばらくして、誤って届いた社内メール便を渡しにいくため、わたしは同じ総務部だけど別フロアにある人事課に向かっていた。
ワンフロアしか違わないので、エレベーターではなく非常階段を使う。
うちの会社ではよくあることだ。
フロア中央にあるエレベーターとは違い、非常階段は端にあるので、そこまで移動するのが面倒だと感じる社員も多いみたいだけど、わたしは、エレベーターを待っている間が勿体ないように思えたから。
階段室の扉を開き、人事課があるフロアに出て数歩進んだところで、人の話し声が聞こえてきた。各部署から漏れてくるものとは違う声だった。
こんな人気のない隅で会話してるのだから、きっと周りに聞かれたくない話なのだろう。
わたしは邪魔をしないように、渾身の力で音を消して、廊下を進んだ。
けれどやっぱり、耳に入ってくるものを完全にシャットダウンしてしまうのは無理があって。
「………です。まだ安定期に入ってないから、他の人には話してなくて」
女性の、小さな小さな声で、でも、ハッキリと相手に伝える意志のある話し方だった。
「そうなんですか!それはおめでとうございます!よかった………。本当によかったですね」
そう返したのは男性だった。
なんだかとても嬉しそうだ。それはもう、歓喜と呼んでいいほどに感じた。
「体調は大丈夫なんですか?」
「前のことを考えると、そろそろ悪阻が始まるかもしれませんが、今のところは…」
どちらも穏やかな雰囲気をまとっている会話は、どうやら女性のおめでたを報告するものだったらしい。
それなら、こんな廊下の端で話しているのも頷ける。
まだ安定期に入る前の妊娠初期なら、ごく近い関係の人にしか話せないだろうから。
この二人がどういう関係なのかまでは分からないけれど、きっと彼女はこっそりと報告したかったに違いない。
わたしは二人に気付かれないよう、細心の注意を払って階段室から離れた。
けれど何とはなしに見やった先に、思いもよらない人物がいたのだ。
―――――――それは、あの朝、蹴人くんにのど飴を渡した男の人だった。
首にはゲスト用の入館証が掛けられ、抱えた封筒には、人材派遣会社の名前がある。
あのとき、会話の中で、うちと取引があるとは聞いたけれど、そういうことだったのかと納得した。
人材派遣会社なら総務を出入りすることもあるだろうし、わたしが見かける機会も多かっただろうから。
だから見覚えがあったのだ。
意外な場所での再会に、私はつい、相手の女性の顔も確かめてしまった。
女性は人事課の社員で、わたしとも顔見知りだった。何年か上の先輩だ。総務部内の集まりで知り合ってから、時折、言葉を交わす間柄である。
謙虚で人当たりがよく、わたし達後輩にも腰の低い人だった。
………そういえば、一年ほど前に、体調不良でしばらく休んでいたことがあったはずだ。その直前、何度かトイレに駆け込んでる場面に居合わせたことがあって、彼女の顔色も悪かったので、冷たい飲み物を買って渡した覚えがある。
当時結婚3年目くらいだった彼女が子供を欲しがっていたのは周知の事実だったので、もしかしたら…と、心配する声がちらほらあったのも思い出した。
でもそれじゃあ、あの男の人が蹴人くんに伝えた願いごとは、あの女性社員のことだったの?
『一度は赤ちゃん来てくれたのに、流産っていって、お母さんのお腹の中にいるうちに空にかえってしまったんだよ。だから、その人のところにまた赤ちゃんが来てくれたらいいなと思ったんだ―――――――』
あの朝の、彼の ”願いごと” が、違えることなく頭によみがえる。
……あの男の人の願いが、叶ったんだろうか。
たまたま、偶然、なのかもしれない。
妊娠なんて、高度治療をもってしても100%叶えるのは不可能なのだから、蹴人くんみたいな子供がどうにかできるわけないもの。
だけど……、ちらりと掠め見た二人の姿が、例えもできないほどに嬉しそうだったから。
ただの偶然でも、蹴人くんが言うようなメルヘンでもファンタジーでも、もうなんでもいいように思えてしまった。
……おめでとうございます。
心の中でそっと言祝ぎを呟いて、わたしはその場を離れたのだった。
こんな風に、誰かに ”良いこと” があったときは、素直に心から喜べて、祝福もできるのだ。
なのにその対象が自分になると、とたんに、あの悪癖がでしゃばってくる。
良いことのあとには、悪いことが………
わたしの中のコップは、水を増やすことも減らすこともせず、ただずっと、わたしを悩ませているのだった。




