大切な人(4)
諏訪さんが、大切に想ってる人…………
それは、浅香さん以外にいないと直感した。
『郁弥!』
親密さを隠しもせずにそう呼んだ浅香さんが、容易くよみがえってくるのだから。
わたしは思わず、ギュッと瞼を閉じてしまった。
「お姉ちゃん?どうかしたん?」
蹴人くんの心配そうな呼びかけに、ゆっくりと目を開くも、わたしの中から浅香さんが出ていってくれる気配はなかった。
「お姉ちゃん?大丈夫?」
蹴人くんがもう一度訊いてくる。
わたしはそれに応える代わりに、おずおずと、探りを入れるように尋ねた。
「ねえ蹴人くん、諏訪さん…オレンジジュースのお兄さんの大切な人の名前は、聞いたの?」
「え?ううん、聞いてへんよ?そんなん聞かんでも、お兄ちゃんの心ん中はその人のことでいっぱいやったもん」
なぜか得意気に答えた蹴人くん。
「……諏訪さんの心も、見えたの?」
「うん!」
「そう……。それで、諏訪さんの心の中は、その人でいっぱいだったの?」
「そうやねん!お兄ちゃん、めっちゃその人のことが好きなんやって!」
まるで自分のことのように言葉尻を弾ませる蹴人くんとは相反して、わたしは、失恋のだめ押しをされた気分になって、心が痛みながら沈んでいった。
………諏訪さんの心にいる人は、きっと、浅香さんだ。
分かっていたことなのに、蹴人くんから言われたことで、より、リアルに傷を付けてくる。
分かっていたはずなのに………
「んー、お姉ちゃん、やっぱ顔色悪いんちゃう?」
なにも返せないでいるわたしに、蹴人くんが声のトーンを落とした。
「そんなことないよ?」
力なく笑ってみせるも、うまくできていない自覚はあった。
「そんなことあるよ。風邪でもひいたん?じゃあ、ひどくなったらあかんから、ぼく、今日のところはもう帰るわ。だから今度会うときまでに願いごと決めといてな」
今度、なんてあるのだろうか。
でも現実に、蹴人くんはこうやってわたしに会いに来たわけで……
わたしはもう、蹴人くんのこととか、諏訪さんの大切な人とか浅香さんとか、これ以上考えごとをするのが億劫だった。
あれこれと余計なことまで考え過ぎる性格で、考えることを止められずに悩んでいたはずなのに、今夜に限っては、もう、考える体力が残っていなかったのだ。
はやく帰って一人になりたい。
強くそう思ったわたしは、
「分かった……。蹴人くんは、お母さんかお父さんが迎えにくるの?」
すぐにでも帰る気で、そう言った。
「ぼくは大丈夫。それよりお姉ちゃんが心配やから、早よ帰った方がええよ」
蹴人くんは言いながら、わたしの自宅マンションの方を指差した。
やっぱりわたしの家を知っているのかと疑惑が胸をよぎったけれど、今のわたしには、それを問うだけの元気はなかった。
だからだろう。こんな小さな子供を夜道に一人残していくことにすら、抵抗もしなかったのだ。
「……それじゃ、もう行くわね」
「うん、またな」
「蹴人くんも気をつけてね」
「お姉ちゃんもな!」
わたし達は手を振り合った。
すると蹴人くんが、「あ、そうや、」今思い出したような口振りでわたしを引き止めたのだ。
「まだ何かあった?」
「あんな、お姉ちゃん足怪我してるから、気ぃつけや」
「え?足?」
わたしは反射的に自分の足を右、左と確認した。
けれど、それらしい傷は見当たらない。
「怪我なんかしてないと思うけど…」
答えながら、蹴人くんに顔を向ける。
けれど蹴人くんは間髪入れずに首を振った。
「ううん。怪我してる。お風呂入るときにたぶん痛くなると思うから、帰ったら絆創膏貼っといた方がええかも」
あまりにも蹴人くんが言い切るものだから、わたしは再度足先に視線を落とした。
すると、
「ほんじゃ、気ぃつけてな。バイバイ」
もう用済みだとでもいうように、サッパリと、蹴人くんが別れを告げたのだ。
『バイバイ』に反応してパッと顔を戻したわたしだったけれど、そこには、もう蹴人くんの姿はなかった。
……あのときと同じだ。
一瞬よそ見をした間に、忽然といなくなってしまった。
まるで、手品か魔法みたいに……
「蹴人くん……?」
呟いても、誰も返事をすることはない。
つまり、たった今、不思議で、にわかには信じられないことが目の前で起こったわけだ。
けれどもう、今のわたしは、訝しむことも後回しにしたかった。
だってあの朝と同じだとしたら、いくら探したところで蹴人くんの行方は見つからないのだと思ったから。
だから、謎を深追いはせず、謎のまま残して、わたしは自宅に戻ることにしたのだった。
……急に消えてしまうなんて、やっぱり蹴人くんは普通の子供じゃないのだろうか。
そんなことはぼんやり頭の中を浮遊していたけれど、それ以上深く考えるのは避けて、思考に蓋を乗せていた。
ところが、鍵を開けて玄関に入り、パンプスを脱いだところで、ツッ、とした些細な痛みが走った。
「―――っ!」
壁に手を突き、片方の膝を曲げて痛みがあった箇所を見ると、ストッキングの上からでも分かるほどに、踵が靴擦れしていたのだ。
『お風呂入るときにたぶん痛くなると思うから、帰ったら絆創膏貼っといた方がええかも』
蹴人くんが言ってたのは、この靴擦れのこと?
でもこのパンプスは履き慣れていたはずなのに、今さら靴擦れだなんて……
自分で驚いていると、今日、このパンプスで息切れするほど走ったことを思い出した。
「……あのときの?」
そっと、傷に触れてみる。
やっぱり、痛みがあった。
たいした痛みでもないけれど、ヒリヒリとするような、ジンジンと微かな熱を発しているような存在感だ。
そうしてその痛みの存在感に、それができるほどに走った理由も、むざむざとよみがえってくるのだ。
『郁弥!』
何度も何度も、壊れたスピーカーのように再生される浅香さんの声が、幾重にも響いてきて、わたしを押しつぶそうとする。
わたしは、ズルズルと、壁に体を沿わすようにして床にしゃがみこんだ。
せっかく、思考に蓋をしたばかりなのに、まったく意味がない。
頭の中は、もうメチャクチャだ。
失恋の痛みも、蹴人くんのことも、全部全部、わたしの中から出て行けばいいのに。
『郁弥!』
『二人だけの秘密にしておいてくれないか?』
『お姉ちゃんの心の真ん中におるんは、あのお兄ちゃんと違うの?』
今日あった出来事は、どれもがイレギュラーで、その取扱いにはいちいち戸惑うけれど、たった一つ、現実に対処できるものがあるとすれば、それは靴擦れの手当てくらいだろう。
わたしは座り込んだ体に重さを感じながらも、ゆっくり立ち上がった。
ズキリという痛みは、ますます自己主張を強めているようにも感じた。
……やっぱり、良いことのあとには必ず悪いことが起こるんだ。
久しぶりの靴擦れは、今日わたしが感じた喜びの、つまり ”良いこと” の、代償だと思うことにしたのだった。




