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大切な人






その日の残りの仕事は、自分でも驚くほど集中することができた。

少しでも思考に隙間ができてしまえば、超スピードであのシーンがよみがえってきそうで、必死で仕事をこなしていったのだから、当然と言えばそうなのかもしれない。


けれどその結果、追加の頼まれごとを請け負うことになり、わたしは二時間ほど残業して退社したのだった。



帰宅途中も、今日のできごとを思い返さないように、懸命に頭の中をどうでもいいことで満たしていた。

明日の天気とか、今夜のテレビ番組とか、耳に入ってきた人気アイドルのゴシップとか、前に立ってる人の名前と年齢を予想したりとか……


とにかく、あの二人の光景を頭から追い出すことができるなら、なんでもよかったのだ。



そうすると、努力の甲斐あって、自宅最寄り駅で降りた頃には、無理矢理にではなく、自然と、あの二人以外のことを考えられるようになっていった。


会社という、あの二人との共有エリアから離れたことで、少しは気持ちの方角も変わったのかもしれない。


もともと、片想いといっても、打ち明けるつもりなんか1マイクロもなかったんだし。

それに、諏訪さんが浅香さんと付き合ってるという噂は、もうずっと前に知っていたのだから。



そう、今更、なのだ。


……まあ、目の前で二人が ”恋人” をしているのを目撃してしまったのはショックだったけれど。


でも、前から分かっていたことなんだから、今更失恋とか嘆いても、ただの噂の答えあわせでしかないのだ。




自宅を目の前にして、わたしは心が強気になっているのを感じた。

もちろん、世間一般的にはそれを ”空元気” と呼ぶのも知っている。

でも今は、考えすぎる超ネガティブな悪癖が出るよりはマシだと思っていたのだ。





いつもと変わらない、駅から自宅へ戻る道。


コンビニや飲食店、マンションが続いているので、人通りもあるし、夜の一人歩きも問題はない。

大きな通りの反対側には救急指定の総合病院もあるから、もしものときも安心だ。

就職してから住みはじめた街だけど、毎日通る道はもうすっかりホームであり、どこかがいつもと違っているとすぐに気付くほどだった。


今日も、どこも変わらない、わたしの日常がそこにあって、賑やかな表通りを過ぎたあと、自宅マンションに向かう道を右に曲がった。


けれど……

少しだけ静かになった通りをほんの数メートル進んだところで、わたしは、ふと違和感を覚えた。



そこは、とあるマンションの玄関で、植木を下からのライティングで照らしているのだが、その植木のシルエットが、いつもと違っているように感じたのだ。


すると、その影が、ふわりと動いた。


え?と思った次の瞬間には、



「お姉ちゃん、お仕事おつかれさま!」



小さな子供の声で呼び止められた。



「え…?」


突然のことに、ギクリと体を竦める。


そして目の前を凝視してしまうわたしは、信じ切れない思いでその名前を口にしていた。



「……蹴人しゅうと、くん?」



こんな夜遅い時間に、こんな場所に、蹴人くんは、あの朝と同じ、幼稚園の制服のような恰好で、わたしの前に現れたのだった。




「そうやで?まさかもう忘れたん?」


聞き覚えのある関西弁が、コロコロと夜の道路に転がった。



――――――――どうして?

こんなところに、どうして蹴人くんがいるの?



偶然、にしては出来すぎている。


わたしは頭を整理させる必要があった。



「本当に蹴人くん……?」


確かめるように尋ねると、蹴人くんは面白そうに笑った。


「だからそうやって言ってるやん」


「……蹴人くん、この近くに住んでるの?」


出来すぎた偶然のうち、まだ考えられそうな可能性を持ち出してみた。

けれど蹴人くんには「違うよ」と即答されてしまった。


「…………じゃあ、お父さんかお母さんと一緒に、この近くのお店に来たのかな?」


次にありそうな偶然を訊いたものの、それも秒殺されてしまう。


「お父さんもお母さんもおらへんよ」



……お手上げだ。

他に有りうる仮定が考えつかない。


わたしは蹴人くんをじっと見ると、もう一度尋ねた。


「蹴人くん、なんだよね?この前、駅でサンドイッチ買ってあげた……」


「うん、そうやで?お姉ちゃんにはサンドイッチ買ってもらって、お兄ちゃんにはオレンジジュースもらった。あ、コーヒーは飲まれへんかったけど、のど飴もおいしかったなぁ」


オレンジジュースと聞いて、真っ先に諏訪さんが頭に浮かんだけれど、今はそれよりも、この蹴人くんのことだ。



間違いない、この男の子は、あの朝出会った蹴人くんだ。



心の中の疑いが尻尾を巻いて消え去ったあと、わたしは、目の前の小さな男の子とどう接したらいいのか、戸惑うばかりだった。











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