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コップ半分の水






その日は、いつもと変わらない朝だった。



いつもの時刻に起床し、朝の支度をして、通勤ラッシュを堪えながら、いつもの駅に降りる。

毎日の風景は劇的な変化もなく、いつもと変わりない通勤シーンが流れていった。


複数の路線が交差するターミナル駅のメイン改札を抜けると、右に進むのがわたしのルートだ。

この時間帯、近辺にオフィスタワーが乱立するこの駅では、ほぼ一方通行で、流れに逆らわない以上、苦痛なこともない。


やがて、分岐をいくつか過ぎると、人波が一気に減る広場に出てくる。

まだ朝の早い時間だから何もないけれど、昼間はカフェのワゴンが出てたり、シーズンイベントが催されたりする場所だ。

ぎりぎり駅ビルの中になるので屋根があるし、外に向いている正面から風が入ってはくるものの、天候に大きく左右されにくいこの場所は、わたしも仕事関係のイベントで使わせてもらったことがある。



ここまでは、何度も言っているように、いつもと変わりのない朝だった。



――――――――――わたしが、その子に気付くまでは。




広場の両サイドに設けられたベンチの脇に、しゃがみこんでいる小さな子供が、視界に入ってきたのだ。



小学校に入る前、4、5歳くらいだろうか。サラサラしてそうな短い髪に、白いシャツ、紺色のベストを着ていて、こちらに背を向けるかたちでしゃがみこんでいる。


その後ろ姿だけでは、男の子か女の子かは分からないけれど、小っちゃくて、可愛らしい。

服装は幼稚園の制服のようで、でも周りに保護者らしき人物は見当たらない。


そしてその横を、大人達が黙々と通り過ぎていってるのだ。


その光景には、明らかに違和感を覚えた。



………あの子大丈夫かな。



そう思った瞬間には、もう声をかけていた。


「どうしたの?大丈夫?」


すると、その子はくるっと顔を向かせて、


「大丈夫ちゃうねん。ぼく、お腹空いてんねん………」


今にも泣き出しそうな声で、わたしに訴えたのだった。




そしてこれが、わたし達がこれから経験する不思議な出来事の、



はじまりの合図だったのだ―――――――――――――








※※※※※








ここにコップ半分の水があります。

あなたは、「もう半分しか残っていない」と思いますか?

それとも、「まだ半分も残ってる」と思いますか?



有名な、ポジティブかネガティブかを診断する質問だ。その信憑性はともかく、一度はどこかで見たり聞いたりしたことがある人も多いだろう。


それによると、「まだ半分」と言った人はポジティブで、「もう半分」を選んだ人はネガティブの部類に入れられるらしい。


確かにその通りかもしれない。その分析に異を唱えるつもりは微塵もない。


でも。



「そもそもこのお水の量は多ければ多いほど良いという仮定なの?お水と見せかけて何か害がある透明な液体ではないの?もしそうなら分量は少ない方がいいわよね?どうなんだろう?だってこのお水、いったい何のために使うの?コップに入ってるからって飲み水とは限らないわよね?だいたい、今そんなに喉が渇いてるわけじゃないもの。でも待って、もしかしたら誰かからの差し入れかもしれない。そうしたらその人からの好意を踏みにじってしまうことにならない?どっちなの?……ああっ!こんな風に悩むのならもうお水なんかいりません。もういらないから、どうか早くお持ち帰りください!」



……というのが、正直なわたしの回答だった。



つまり、ポジティブとかネガティブ以前に、わたしは極度の怖がり、心配性、小心者、そして呆れるほど、物事を考えすぎる性格なのだ。



例えば、なにか良いことがあっても、その代償に何か悪いことが起こるんじゃないかと素直に喜べなかったり、逆に良くないことがあったら、それがもっと酷くなるのではないかと疑心暗鬼になってしまう。


そういった点においては、究極のネガティブと言えるのかもしれないけれど。


……実に厄介な性格だ。



こんな性格だから、人から褒められてもその裏を読もうとしたり、なんだったら何か騙されるんじゃないかと疑惑を持ったり警戒したりすることも珍しくはない。


………実に実に厄介な性格だ。



人からの好意ですら素直に受け取れないなんて、相手にも失礼で、窮屈だ。


けれど、この面倒な性格は昨日今日はじまったわけでもない。

子供の頃、おおよそ小学校の低学年の頃には、もう今の性格が成り立っていたように思う。


だからわたしは、どこか、自分なりの折り合いのつけ方、みたいなものも覚えていった。


厄介な性格はどうすることもできず、一生付き合っていかなくちゃいけないと思ったからだ。



過度な期待はせず、なるべく物事をフラットに受け入れる。良いことがあっても悪いことがあっても、喜びは適度に、不安も適度に。もしネガティブな考えが浮かんでも、周りに漏らすようなことはしちゃいけない。ネガティブはマイナスの空気を生んでしまうから。大丈夫、何かあっても、ほとんどの場合は死ぬわけじゃないんだから。良いことの次にまた良いことがあるかもしれない。悪いことが続くとは限らない。よけいなことは考えちゃだめ!


そんな暗示をかけて、マインドコントロールして………


……を心がけているのだけど、残念ながら、成功する確率はそんなに高くはなかった。



だって、実際、わたしにとって良いことがあった後には、しょっちゅう、何かしらアクシデントが起こったりするのだから、仕方ないじゃない。


お誕生日プレゼントをもらって喜んだ直後にお気に入りのマフラーをどこかに置き忘れてしまうとか、受験に合格した日に電車のドアにスカートを挟んで恥ずかしい思いをするとか、はじめて彼氏ができた夜に家の階段を踏み外して捻挫するとか、ああ、希望の会社に受かって入社式の帰り道に道端で派手に転んだりなんかもあった。


ひとつひとつは大したことないかもしれないけれど、嬉しい出来事に胸が弾んでいた分だけ、落ち込みはより深まってしまう。


“喜んじゃいけない。この後に悪いことが待ってるかもしれないんだから”


そう構えていながらも、悪いことがあるとかなり落ち込んでしまうのだから、有頂天なんかになってたら、きっと、その落差についていけなかっただろう。



そんなこんなで20年以上も生きていると、さすがに、幸せを幸せと、単純に感じることが難しくなっていった。


そして、そういう悲観的な性格は、連鎖的に、わたしから社交性とか積極性を奪ってしまうのだ。


例えば友達との会話でも、『こんなこと言って相手は嫌な思いをしないかな』『今の、感じ悪い言い方じゃなかったかな』『わたしばっかりが喋ってないかな。大丈夫かな』そんな不安が頭に湧いて溜まっていく。


他にも、例えば電車内でお年寄りや妊婦さんを見かけた際は、「こちらへどうぞ」と席を譲ることですら、かなりの勇気が必要だった。


『声をかけて迷惑じゃないかな』『お年寄り扱いして気分を害されないかな』


心の中では譲りたい気持ちが満杯なのに、考えすぎるネガティブ思考が邪魔をして、それを伝えられない、行動に移せないのだ。


……消極的過ぎて情けなくなってくる。



幸い、わたしが考えすぎたり極度のネガティブだというのは、近い関係の人達には認知されていて、仲間内ではネタ扱いされることもあったりした。

そのおかげで、学生時代には、特に大きく困ることもなかった。

友人には恵まれていたのだ。


けれど、大学を卒業後、就職してからは、さすがにこのままではダメだと思うようにもなっていった。



もともと、ネガティブで社交性にも乏しいけれど、意外と人見知りというわけではなく、用があったり必要と判断した場合は、こちらから話しかけることも多かった。

そういう時は、考えすぎてしまう悪い癖が、不思議としぼんでいったのだ。


だから、その気になれば、この厄介で面倒な性格もどうにかできるんじゃないかと思った。

ただ、必要以上に心配して、不必要に考えすぎてしまうのを、どうにか抑えられたら………。


………それが簡単にできないから悩んでいるのだけど。




ともかく、こんな自分をどうにか変えたい、そう思いながら迎えた社会人一年生も終わりかけのある日、地下鉄で。


わたしは、ちょっと頑張ってみたのだ。




その日は外で打ち合わせした帰りで、平日の午後の車内はそこまで混んではいなかったけれど、空いてる座席はなくて。

そんな中、妊婦さんと思しき女の人が乗車してきた。


ちょっと大きくなっているお腹だけでは判断も迷うところだったかもしれないけど、彼女の小さ目の黒いリュックにはしっかりとマタニティマークが付けられていた。


だから、わたしは少しの躊躇いのあと、思いきって立ち上がろうとした。


こちらへどうぞ――――――そう言う準備もしながら。



なのにほんのわずかな躊躇は、大きな出遅れとなってしまったようで………わたしより先に声をかけた人がいたのだった。


『もしよろしかったらどうぞ』


低音の、誰が聞いても良い声だと思うような声が、わたしの座席と扉を挟んだ向こう側から聞こえてきた。


妊婦さんは立ち上がりかけたわたしよりも、そちらの声に反応して足を向けた。

けれどその際、腰を浮かしかけているわたしにも気が付いて、軽く会釈してくれた。


わたし以外にも何人かがそれらしい様子をしていて、彼女は、みんなに同じように、申し訳なさそうに、小さく頭を下げていった。


感じのいい女性だった。


そして一番最初に声をかけた男性に席を譲ってもらったのだが、なんとなく目で追いかけたわたしは、その男性が知っている人物だと気が付いた。


彼は、わたしが春から勤めている食品関係の商社の、営業部の人だった。



諏訪さん。諏訪すわ 郁弥いくやさん。



その当時、研修を終え、広報部に配属されたばかりのわたしは、彼と仕事で直接一緒になる機会はなかったけれど、そのお名前はよく存じ上げていた。


身長は181㎝、少したれ目だけどクール系のイケメンで、有名大学出身。学生時代はバスケ部のキャプテンをしていたらしい。同期の男性社員と二人して、営業のトップ成績を誇っている。どちらかといえば無口な方だけど、愛想が悪いわけじゃなくて、ふいに笑ったりした時の顔が可愛らしいと噂されていた。


だけど、もう一人の営業トップの男性社員が、いつもにこやかにしているようなタイプだったから、何かと比べられて、無口を無愛想に感じてしまう人もいたのかもしれない。二人ともルックスが良くて仕事ができることから、女性社員には人気だったけど、ファンだと公言されることが多いもう一人の男性社員と違い、諏訪さんには、密かに憧れて、真剣に片想いしている女の子が多いのだという。……これも噂で聞いただけ、だけど。



その諏訪さんが、妊婦さんに真っ先に声をかけた男の人だったのだ。


そして席を譲ったあと、反対側の扉付近に立つ姿は、あまりにも自然で、“良いことをした” なんて誇らしげな雰囲気は1ミリも出していない。

その代わり、諏訪さんが座っていた場所に落ち着いた妊婦さんはとても嬉しそうだったけれど。

 


わたしは、吊革を握りながらスマホを操作している諏訪さんを、つい見つめてしまった。


電車で誰かに席を譲ることなんて、そんなに劇的な出来事ではないだろう。

ドラマチックでも、驚くべき話でもない。

でもわたしから見れば、少なくとも、自分にできないことを容易くやってのけ、何事もなかったかのようにしている諏訪さんに、小さな憧れが芽生えたのだった。



彼は他部署のわたしのことなんか知らないだろうから、わたしも遠慮せずにじっと見てしまう。


派手なブランドのものではないけれど、上品な仕立てのスーツを清潔感たっぷりに着こなしていて、細身の方なのに、その背中は大きくて頼りがいがあるように感じる。

ちゃんと声を聞いたのは今日がはじめてだったけど、声までもが素敵だったな………


そんなことを考えていると、ふっと、諏訪さんがこちらに視線を泳がせたのだ。


そして、あ、と思った瞬間には、もう、目と目が合っていた。


ほんのわずかな間、確かにわたしと諏訪さんの視線は絡まって、


それから……………





――――――――もし、恋に落ちた瞬間というものを問われれば、間違いなく、この一瞬だっただろう。




少し離れた場所から、それもたった1秒ほどの短い時間の交わりだったけれど、わたしが諏訪さんを好きになるには充分だったのだ。



だけど、なにも、社内でもトップクラスだと評判の顔立ちや、モデルのようなスタイルに惹かれたわけではない。


ただ目が合った刹那に、わたしの感情が激しく波打ったのだ。


それがどういった類の感情だったのかは分からない。

けれど、よく表現されるような、”ドキッ” とか、そんな安易に形容できるようなものではなくて、わたしの心の中を根こそぎ持っていってしまうような、そんな、嵐のような1秒だった。



もちろん、わたしのことなんか知らない諏訪さんは、混乱しているわたしの気持ちなんか知る由もなく、すぐにサッと顔を逸らしてしまった。


それはごく当たり前のことなのに、わたしは逸らされたことにわずかに落ち込んでしまったりして、さらに感情が落ち着かなくなる。



やがて電車はわたし達の会社の最寄り駅に着いたのだが、なぜだかわたしは、諏訪さんとは別の改札に向かってしまった。

なんとなく、身を隠したかったのだ。


きっと諏訪さんは通常ルートで社に戻るのだろう。

わたしはその背中を探すこともなく、一目散に反対の出口に急いだ。

地上に出る階段を駆け上がっていくと、息が切れそうになって、心臓がドクドク叫んでいた。



外に出ると、そこには見慣れない街並みが広がっていた。

ただ出口を変えただけなのに、まるで全然違う景色が、わたしに、ほのかな緊張感を与えてくるようだった。


だけどその緊張感よりも、まだ激しく打ち続けている、わたしの心臓の叫びの方が、絶対に勝っていた。




そしてその叫びが、日頃の運動不足のせいなのか、それとも恋のはじまりの音なのか、その答えは、いつまで経ってもハッキリしないままだった…………










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