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脱皮

作者: 山本輔広

 もう脱皮が近いんだろうなと思った。

 乾燥した肌がパキリと音を立てて剥がれる。

捲れた一枚を手に取れば、ざらついた茶色が死んでいる。


 ごく自然に『脱皮』なんて思うが、私は虫でも爬虫類でもない。

当然脱皮なんかしない。

けれど、現実。剥がれた皮膚は確かに私の腕から剥がれ落ちたもので、それは夏の日差しに焼かれた皮膚のような薄さではない。


 ベッドに横たえていた体を起こす。

白いシーツを見てみれば、体中から少しずつ剥がれた皮膚に汚れている。

少しだけ空いた窓からは、身体を芯から冷やす潮風が優しく忍び込み、波のように皮膚を流していく。

落ちていた一枚を潮風に載せれば、ふわりひらりと舞って部屋のどこかへと消えていく。


 寝間着のシャツを脱いで、下着を脱いで。

産まれたときの姿になってみれば、身体はそこかしこにヒビが入っていて、今脱いだ衣類のように脱げるのではと思う。

指先、手首、二の腕と視線を這わせれば、乾燥した皮膚が痛々しくも見える。


 もしも、人間が脱皮したらどうなるのだろうかと考えてみる。

爬虫類のように――例えるならば、蛇のように古い皮を脱ぎ捨てれば、より妖艶に美しくなれるのだろうか。

それとも、虫の様に少しずつ小さな皮を捨てていくことで、次なる成長へと促されるのだろうか。

もしくは、蛹から羽化するように、みにくい姿は羽を得て心のままに空へと遊びにいけるのだろうか。

 

 試しに取れそうな腕の一枚をめくっては見るものの、そこにあるのは見飽きた皮膚。

芋虫から蝶にはなれそうになくて、私は溜息を窓から忍び込む潮風に混ぜた。


 家の浴室を汚したくなくて、家の目の前にある海へと足を運んでいた。

冬場の海辺には人なんかいなくて、そこにあるのは夏の賑やかさが死んでしまったかのような閑散とした景色。

冷たい潮風は水分を奪い去りながら、私の体を通り過ぎていく。

雲の無い空に太陽は輝けども、あの夏の日差しとは程遠い。

灰色の砂浜に足跡はなくて、そこから独り水平線の向こうを見ていれば、世界には私以外誰もいないんじゃないかと思えた。


 誰もいないのをいいことに、その場で衣類を脱ぐと波打ち際へとゆっくりと歩を進めた。

寄せては返す波はまるで熱を奪うために行き来しているようだ。

足の裏の砂を感じながら、少しずつ海の中へと入っていく。

ヒビ割れた皮膚だらけの身体が、海水によって少しずつ、少しずつ流されていく。

この古い皮膚が全て海へと飲み込まれたとき、私はどんな姿になるのだろう。

蝶にはなれそうにないけれど、それでも今まではとは違う私になれる気がしていた。


 胸部まで浸かって、震える身体を抱きしめながら空を見上げた。

海の青さを反射させるような青が、果てしない先まで続いていて、その青の中に一羽の鳥が優雅に自由に飛んでいる。

あんな風になれたなら。

 目を閉じて、耳だけに音を感じる。

波の音、風の音、どこかで鳴く鳥の声。

 冷え切ってきた体は、無意識に身体を強く抱きしめさせている。

目を開けてみれば、古い皮は随分と剥がれ落ちて、雪のような白い肌が見えてきている。

やっぱり、想像していた蝶にはなれそうにはない。見上げた空に飛んでいた鳥のようにはなれそうにはない。


 冷えすぎた足が砂の感覚を掴めなくなる。

バランスを崩して、その場に揺られれば波の機嫌次第でゆらゆら。

水面から手を出して見つめてみれば、新しくなった手が視界を埋め尽くす。

カエルのような、カモの足のような水かきのついた手のひら。

腕の表面には透明な鱗が生えていて、その腕で体を撫でてみれば、同じように鱗の感触がする。


 あぁ、そういうことか。

人間は、いや、私は脱皮して人魚になるんだ。

だから、足の感覚がないんだなと、もうなくなった足を思い出して、その後に戻らない足を過去に置き去りにする。


 海の中へと潜ってみれば、陸にいたときと同じように息が出来る。

足の代わりに出来た尾を動かせば、走るように早く水中を動くことが出来る。

衣類の代わりに纏われた鱗は熱くて、冷たさを遮ってくれる。


 脱皮すると、こんな風になるんだと思いながら、私は海の深く深くへと潜っていった。

やがて明かりの見えなくなっていく底。一度振り返って太陽を見てみれば、あの丸く白い姿は海水に揺れて形を歪めている。

冷たい奥底へ、次なる私がいるべき場所へ。

尾をゆらし、水を掻いて、海の懐へ。


 古い姿を捨てて、人魚へ。

明かりのない場所を目指しながら、思う。

もし、また脱皮したとしたら、私はどうなるのだろう。

もしも蝶になったのならば、空は飛べるのだろうか。

海の底で蝶になってしまったら、果たして空へと舞い上がることが出来るのだろうか。


 波打ち際の灰色の砂浜に、茶色い皮膚が漂う。

一羽の鳥が舞い降りると、嘴に皮膚を咥え空へと舞い上がっていく。

水平線の彼方へ、ただ目の前に広がる海の先へと。


 潮風に吹かれた鳥は、その皮膚を剥がしていく。

広げた翼の先からは、小さな指が脱皮を待っている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 題材が面白かったです。 映像的な作品ですね。
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