弐:絶望の予兆
それから数日。勇士は病院での生活にそこそこ満足していた。自分の足で書店に行き、気になった本を片っ端から買う、などといったことはできないが、両親に頼めばすぐに本を持ってきてくれる。出される食事も美味しいし、少し年季が入っているものの風呂も使いやすい。何より看護師さんが皆丁寧だった。
以前友人の祖父の見舞いに行った時、そこの病院に勤めていた看護師の対応の煩雑さを見てしまっていたので、少し不安を感じていた。だが、それは杞憂に済んだのだ。行動範囲はベッドの上だけとかなり狭いが、勇士は現在の生活を満喫していた。
そして今日も、ベッドの上で窓から差し込む日光を浴びながら、お気に入りの小説を読みふけっていた。
――ううう……っ――
不意に、誰かが呻いている様な、不気味な声が聞こえた。勇士は本を閉じて辺りを見渡すが、誰もいない。幻聴でも聞いたのだろうかと、再び本を開く。と同時に廊下の方から、
「少し待ってて下さいね明石さーん! 今行きますよー!」
という看護師の声が聞こえた。もしかしたら今のは、その患者さんの声かもしれない。そう結論付けて、勇士は再び小説の世界にのめり込んでいった。
その日の夜。勇士は美味しい夕食を味わって、湯につけたタオルで軽く体を拭いた後、日を跨ぐまでずっと本にかじりついていた。
十一時ごろまで廊下から慌ただしくしている看護師の声が聞こえたが、今はもう電灯もほとんど消灯しており、静寂が支配している。勇士の部屋も例外ではなく、光を放っているのは手元にある小さな洋灯ただ一つ。部屋はしんと静まり返っており、勇士の息遣いと本のページを捲る音だけが、小さく響いていた。
――うううう……っ――
昼間にも聞こえた、不気味な呻き声が再び聞こえた。勇士は小さく体を震わせて、辺りを見る。だがやはり、自分以外の人影は見当たらなかった。何もない事に安堵し、本に目を戻そうとする。
その時だった。
廊下で何かが動くのが視界の隅に映った。何か見間違えただろうかと、勇士は其方を向く。だが、そこには何も居なかった。見えるのは、少し大きめのカウンターと、そこで転寝している看護師だけであった。勇士は再び小説を読み出す。
――がさり。
暫く経って、今度は室内で物音がした。度々読書を妨げられる事に多少苛立ちながらも、勇士は本を下ろして見渡す。例にもれず、何も不審な存在はなかった。勇士は再び本を読み出そうとして――気が付いた。
もう既に時計の短針は十二を回っている。それを認識した途端、強烈な睡魔が勇士を襲った。閉じてしまいそうな瞼を必死にこじ開けて、本に栞を挟む。そして、洋灯の明かりを消して、ベッドに倒れ込んだ。視界の端蠢く何かを見たが、気に留める余裕もなかった。
――深夜二時半頃。勇士は唐突に感じた強烈な悪寒で目を覚ました。全身が粟立ち、大量の冷汗が流れる。心臓は恐ろしいほど早く脈打ち、肺が際限なく酸素を欲している。勇士の本能は、得体の知れない何かに対して、最大の警鐘を鳴らしていた。――ここにいるのは危険だ。勇士はそう直感した。何を見たわけでもない。何を聞いたわけでもない。それでも、その直感ははっきりと、勇士の脳内に木霊していた。だが悲しいかな、勇士は右足に重傷を負っている。一人では歩くこともままならなかった。
「看護師さん! 看護師さん来てください!」
恐怖で掠れかけている声を張り上げて、看護師を呼ぶ。ベッドから見えるカウンターには、未だに同じ看護師が突っ伏して寝ていた。五回ほど読んだところで、その看護師の体がピクリと動く。それを見て、どうにかこの不可解な恐怖心を無くせるかもしれないと、安堵した。そのまま勇士は、看護師を呼び続ける。
「看護師さん、こっちです! 助けてください!」
看護師が頭を上げて、手で目元をこする。勇士はもう一度看護師に声を掛けようとして――違和感を覚えた。何故か看護師の皮膚が爛れている様に見えたのだ。自分の見間違いだろうかと、勇士は目を凝らす。だが、暗闇の中では大して鮮明に見る事などできない。
……唐突に、看護師が勢いよく立ち上がる。その勢いで、看護師の座っていた椅子が後ろへと倒れ、騒音を起こした。それに反応して、カウンターの照明が点灯した。それに照らされたのは、看護師などではなかった。ナース服を着てはいるが、その皮膚は赤黒く変色しており、所々腐って、爛れていた。骨が剥き出しになっている部分もある。顔は形が崩れ、歯茎が剥き出しになっており、右目は血管でぶら下がっている。窪みに収まっている左目も、瞼が無くなっている所為でその球形が露わになっていた。――それは、この世に在る事を赦されない筈の存在。死を迎えて尚、動き続ける屍。ゾンビであった。