壱:始まり
とある初夏の昼下がり。雲一つない青空に、太陽が爛々と輝き、緑が敷き詰められた水田や、その間を流れる小川を暖かく照らしている。その向こう側には、木造の民家や商店が建ち並び、住民と思しき子供たちが楽しそうに駆けずり回っている。更にその向こう側には、木々が生い茂った山々が連なり、人々を見守っているようであった。
窓の外に広がるその景観にベッドの上から羨望の眼差しを向けるものが一人。暫く眺めた後、その者は室内に視線を戻した。
その先にある、温かさの欠片もない、真っ白で無骨なベッドと、その周りに散らばった用途の分からない器具を見て、深くため息をつく。そして、物悲しそうな表情を浮かべてベッドに倒れこみ、布団を被った。
――この者がいる部屋の扉の横には、『二〇四号室』と言う表記の下に『秋田勇士』と書かれた名札。その扉の外は時折、ナース服を着た人が通りかかる。もうお分かりだろう。ここは『二〇四号室』の主、秋田勇士の自宅ではない。ここは、彼の居住地である町の外れにある、古い病院である。
『二〇四号室』の主、秋田勇士がこの病院に入院した原因は、数日前に遡る。
その日は朝から曇っていたため薄暗く、霧も相まって視界が非常に悪かった。勇士はこの日、自身のお気に入りの小説家の新刊を買いに出かけていた。その際、交差点で自動車と衝突してしまったのだ。その自動車は視界不良でありながら結構なスピードを出しており、それ故生身の人間には十分凶器になり得た。
勇士は数メートル飛ばされ、アスファルトの上を転がっていった。全身に酷い擦り傷を作り、更には直接ぶつかった右足が使い物にならないほど複雑に折れていた。全身を貫く鋭い痛みに悶え、散漫とした思考を必死に纏め上げている中で、はっきりと予感した。
――恐らく、もう自分の命は潰えるのだろうな――と。
彼は鈍い体を動かそうともせず路上に寝そべり、周囲の喧騒をどこか遠い地のものの様に聞きながら、ゆっくりと意識を手放した。
次に覚醒して初めに目に入ったのは、シミが至る所に着いた薄汚い天井と、目尻に涙をためて、顔をゆがめた両親であった。視線が合うと、母親は嗚咽を漏らして泣き崩れ、父親は頬に涙を伝わせながら満面の笑みを浮かべた。口々に「助かってよかった」と呟きながら。
勇士は暫く状況を飲み込めずにいたが、両親の様子を見ているうちに、助かったという実感がじわじわと湧いてくる。やがて融資も涙を堪え切れなくなり、両親とともに思いきり泣いた。
一頻り泣いた後、父親が看護師を呼んだ。呼ばれた看護師は僕の顔を見るなり顔を緩ませて、労いの言葉を掛けてきた。少し前まで散々泣いていたが、看護師の言葉を聞いて、再び目尻が潤ってきた。看護師はそんな僕を柔らかい笑顔で見つめた後、改まって説明を始めた。
内容はこうだ。――致命傷では無かった為、傷の手当だけで死を免れることはできたが、右足の複雑骨折だけは完全治癒の見込みがない。表面の傷が塞がるまで安静にしておき、表面の傷が治り次第リハビリを開始。両親の希望により足の切断、及び義足の使用は無し。松葉杖を使う事となる。
――説明を受けて、どうして治せないのかという怒りと、右足は仕方ないという納得感があった。一先ず一度休んで、ゆっくり考えて欲しいと言い残し、看護師は部屋を出ていった。ふと窓の外を見ると、既に空は黒く染まり、星々が瞬いている。勇士は両親にお休みの挨拶をして、すぐ眠りについた。