むらびとごっこ
彼が私の元を訪れるのは、日暮れが終わり、それが濃紺に変わった頃だ。
そうして、彼が訪れる度に、私のなけなしの良心は、ジクリと音を立てて痛み、そうして消える。
言ってはならないと分かっているはずなのに、彼には全てを吐露してしまいたくなるのだ。
心を許してしまいたくなるのだ。
「よっ」
「あ、お兄さん。どーも、こんばんは」
「異常は?」
「ありませんよ」
忍ぶように小屋にやって来た彼を招き入れ、内側に取り付けられた、無意味な閂を掛ける。
こんな扉、何の気休めにもならないのだけれど、毎日毎日、私を守るためにと足を運んでは、様子を確認してくれる彼のことが、私は確かに大好きだった。
過去形ではなく、現在進行形で、大好きだ。
しかし、それ故に心苦しく、息苦しい。
そう思うようになったのは、いつ頃だっただろうか。
「毎晩毎晩、ご苦労さまです」
「まぁ、それくらいしか出来ねぇからな。お前のことくらい、守らせてくれよ」
ぺこん、と頭を下げて言った私に対して、お兄さんはへらりと笑って見せた。
それから、私の頭に手を置いて、ぐしゃぐしゃと毛根から掻き混ぜるように撫で始める。
その男らしい大きな手の平は、思ったよりも分厚い皮で包まれていた。
「ありがとうございます……。やっぱりお兄さんがいると、安心します」
「そりゃ良かった。何かあったら直ぐ呼べよ」
私は、うん、と素直に頷いた。
目を細めて窓の外を見つめるお兄さんだけれど、その目に焼き付いた影は一体何だろうか。
随分前に亡くなった彼女さんか、はたまた恐ろしき獣か。
私も同じように目を細めてお兄さんを見る。
昔、彼女が狼に殺されたのだ、と、護れなかったのだ、と、そう教えてくれたのは紛れもなくお兄さんであり、あれは出会ってまだ間もない頃だった。
「お兄さんは、もう少し自分の身を守ることも考えるべきですよ」
「……わぁってるよ」
ロッキングチェアに腰掛けて言えば、お兄さんはやっと私の方を見た。
どうせいつか殺される、という思いでもあるのか、お兄さんは目は酷く濁っている。
きっと何度も復讐を企てたことだろう。
どうして私に、彼女さんの話をしてくれたのか、聞いたことがあった。
その時にもらった答えは、似ていたから情が湧いた、なんてあまりにも愚かで優しくて情けなくて愛おしいものだ。
お兄さんが私に対して、どんな想いで接しているのかは分からない。
けれど、それが例え、私に彼女さんを重ねていただけだとしても、振り返った先にあるお兄さんの言動が、慈愛に満ちていたことだけは、嫌でも感じられる、感じられてしまうのだ。
そう、私はそれが嫌で嫌で、仕方なかった。
「なぁ」
「はい?」
「頼むから、お前までいなくなんないでくれよ」
そう呟いたお兄さんの言葉は痛く弱々しく、それはまるで、私がどこかへ行ってしまうのだと知っているような口ぶりだ。
ヒュッ、と喉が鳴る。
近付くお兄さんの目は、こんな時に熱帯びていて、私は泣きたくなった。
そんな目で私を見ないで。
「最近」
「……うん」
「夜の犠牲者がぱったりいなくなって、最初は誰かがお前を狙ったんだって。俺がお前を守れたんだと思ってたんだ」
ロッキングチェアがゆらゆら前後運動して、私はそれに身を任せて目を閉じる。
これ以上、お兄さんの顔を、目を、見ていられなかったから。
膝の上で指を組み、爪を撫でながら、お兄さんの言葉だけを取り込んでいく。
「もしかしたら、狐を噛んだだけかもしれない。俺が守ったわけじゃないかもしれない。それでも、俺は、みすみすお前を手放すなんてしたくなかった」
この村に狼が現れたのはいつだったか。
合わせて狐がいるなんて言われ始めたのは何故なのか。
その狼が、夜な夜な村人を襲い、その血肉を食らいシャブって、どれくらい経っただろうか。
お兄さんの彼女さんが、ただの肉片になったのは、一本の猟銃を背負ったお兄さんが、毎夜私を守りにやって来るようになったのは――。
「俺に出来ることがあるなら、出来る限り手を尽くしたかった。それがアイツらの、人狼の脅威にならなくたって。少しでも、お前と、長くいられれば、それで良かったんだ」
目を見開く。
ロッキングチェアの前で跪くお兄さんは、私の組んでいた手を掴む。
昼間に整えたばかりの丸い爪。
それを撫でるお兄さんの手付きは、優しくて、優し過ぎて、残酷だ。
「だから、今更、俺を置いて行かないでくれよ」
お前が、狼でも良いから。
落とされた言葉で、なけなしの良心はグシャリと音を立てて潰れて、私は私の手に爪を立てた。
お兄さんの手がそれを解く。
塩辛い液体が落ちて弾けて、もうどうしようもなかった。