拳と拳
「ふぉォッ!」
早朝、多くの住民が未だ寝床で丸まっている時間、ロール・アガンツ邸のトレーニングルームで野太い叫びが木霊する。ロール・アガンツ邸は郊外の土地を安く買い上げ、周囲数キロを私有地にした豪邸。家は三階建てて、土地の半分は邸宅で埋まっている。故に幾ら叫ぼうが近隣住民に怒鳴られる事は無い、最も近い家でも数キロ先のご老人夫婦だ。
ルームランナーから懸垂棒まで、あらゆるトレーニング機器が並ぶ部屋の中心にはリングが存在し、四方二十メートルと通常のリングよりも倍以上大きい。 キャンバスマットを踏み鳴らし、強烈な拳を放つ選手はロール。対峙するのは充嗣、互いにトレーニングパンツとコンバットグローブのみを身に纏い、リングの上で朝から近接格闘を繰り広げていた。
「甘ぇッ!」
ロールの拳を紙一重で躱し、チッ! と前髪が硬い拳に薙ぎ払われる。ストレートを上手く潜り抜けた充嗣はお返しとばかりに腹部へとブローを放った。しかしソレをロールは腕で防ぎ、そのまま充嗣にタックルを繰り出す。
「ふぐッ!」
バチンッ! と肌が強くぶつかる音が鳴り響き、充嗣が大きく距離を取った。ロールは数歩下がった後に白い息を吐き出し、体の熱を冷ます。充嗣も構えを崩さずに何度か拳を握り、ゆっくりと息を吐いた。
「いくぞぅッ!」
「来いィッ!」
互いが叫び、ロールが突っ込む。充嗣が迎え撃ち、百キロを超えるロールが全速力で充嗣にタックルをかました。肉と肉が弾け、キャンバスマットが凄まじい音を立てる。充嗣の体が大きく後方に押し退けられ、同時にカウンターの要領で放った充嗣の膝がロールの腹部を捉えた。ロールのタックルが直撃した充嗣は、胸に凄まじい衝撃が走る。
「う、ぐ、ォ、ぉ!?」
互いに悶絶し、充嗣はコーナーポストに吹き飛び、ポストがギシリと揺れる。ロールは腹部を抱えて数歩後退った。互いに骨折、或は内臓を傷めてもおかしくない一撃だった。充嗣は凄まじい重量を誇るロールが助走をつけてまで放った全力のショルダータックルを食らい、ロールは自ら突っ込んだ勢いをそのまま、化け物染みた脚力で腹部を蹴り上げられた。普通の人間なら胃の中身をぶちまけて気絶モノだ。
「ぐ、ンォ、あァッ!」
先に気力で痛みを押し殺したのは充嗣、胸骨に罅でも入っていそうな痛みを噛み殺し、ロール目掛けて飛び掛かる。半ば跳躍する様な形でロールに殴り掛かった。横合いから殴り付ける様な拳は、腹部を抱えたまま冷汗を流すロールの頬を直撃する。
ゴッ! と鈍い音が鳴り、ロールの顔面が弾けた。口に含んだマウスピースが飛び出しそうになるが、無理矢理噛んで固定。ロールは打たれた反動を利用して腕をぶん回す。
「ン、のッ、ガァッ!」
最早フックに近いラリアット。事実その拳は充嗣を捉えること無く、腕が首元目掛けて飛来した。それを充嗣は腕で防ぎ、バチン! と肌がぶつかり合う。
「う、ぉォッ!?」
しかし怪力はロールの十八番。腕を押し当てた状態から八十キロを超える充嗣を真横に吹き飛ばした。強引に振り抜いた腕がギシリと軋み、充嗣が五メートル程真横に流れる。キャンバスマットの上に叩きつけられ、ゴロゴロと転がり、充嗣は何とか中腰で立ち上がった。ロールの攻撃を受け止めた左腕が震え、その表面は真っ赤に変色している。
「ッ、くっそ、スゲェ一発だ、頭がガンガンしやがる、闘技場でもこんな一撃は食らった事がねェ、連続で打たれていたらぶっ倒れてもおかしくねぇぜ」
ロールが冷汗を拭い、未だフラフラと覚束ない足を強く叩く。充嗣のパンチは脳を揺らし、凄まじい衝撃をロールの頭部に残した。それでも尚倒れないのは男の意地か、その瞳には未だ闘争意欲が満ち溢れている。
「ぐっぅ、それは、こっちも……同じだ、何て怪力しているんだ、ロール」
充嗣は打たれた腕を擦りながらロールの怪力を称賛する。あわよくば連撃で一気に勝負を終わらせようと思っていた充嗣だが、逆に強烈な一撃を返された。防御越しでも頭に響く、強い一発。
攻撃を受けても即座に反撃に転じる耐久値、決して折れない不屈の精神、相変わらず凄まじい男だと思う。
「けどな、充嗣――」
「あぁ――」
勝つのは俺だ!
共に半ばグロッキーな状態で、互いに吠えリングの中央へと駆ける。キャンバスマットを蹴り上げ、驚異的な脚力を以て加速した二人は、闘争心剥き出しで低い姿勢のまま突っ込み、凄まじい速度で衝突した。
リング中央で鳴り響く肉を叩く音、飛び散る汗、ギィッ! とマウスピースを噛み締める音すら聞こえてきそうな程、口元をきつく締め、衝撃を噛み殺す。そして互いに衝突の衝撃を押し殺した次の瞬間、振りかぶった手が二人の間で噛み合った。バチンッ! と掌が音を鳴らし、その場で力比べが始まる。
二人の男の筋肉が盛り上がり、骨がギシリと軋んだ。
「う、ぉォ、あァォッ!」
「ぐン、ガッ、おァッ!」
ロールの丸太の様な腕がギチリと音を鳴らし、充嗣の両腕が血管を浮き上がらせる。体格や腕の太さからしてロールの方が優勢に見えるが、その実充嗣には【スキル】という目に見えない強化が施されている。その結果、両者の力比べは体格に優劣が有るにも関わらず、ほぼ互角という状況を作り上げていた。
しかしロールは驚かない、自身の認めた男、同じBANKERの人間だ。充嗣なら単純な力比べでも己に迫る、乃至それ以上の力があると見込んでいた。故に、こうなる事を予め予期し、既に行動に移っていた。
ロールの頭部が大きく後方に逸れ、一気に巻き戻る。自身の石頭を利用した頭突き、額が充嗣の額に強くぶつかり、ゴッ! という音が脳内に響き渡った。まさか頭突きを繰り出してくるとは思わなかった充嗣は、ロールのそれをモロに受け、「いッ!?」と呻きを上げながら一瞬力が緩む。
「貰ったァぁッ!」
その瞬間を見逃すロールでは無く、力が緩んだ瞬間に充嗣を押し潰さんと全力で力を籠める。充嗣はそのまま後方に倒れ、ロールが充嗣に覆い被さった。マウントを取られる、そう思った瞬間充嗣は倒れる勢いをそのまま、ロールの腹に足を当てた。
「さァ――せるかァッ!」
後方に流れる力を利用し、ロールを足一本の支えで投げ飛ばす。マウントを取ろうと覆い被さっていたロールは、充嗣の驚異的な脚力と自身の勢いに流され、そのまま充嗣の頭上に放り出された。
「うッ、おぉ、ォ!?」
後頭部からキャンバスマットに接地したロールは頭部を庇い、そのままゴロゴロと転がる。そしてロープにぶつかって漸く停止した。目を回したロールが立ち上がって瞼を閉じ、視界を正常に戻すのに二秒、再度瞼を開いた時、充嗣の拳が目前に迫っていた。
拳を認識した瞬間、ロールの頭部は素早く真横に逸れ、充嗣の拳が頬をスレスレで通り抜ける。そしてお返しとばかりに飛び掛かって来た充嗣の顔面目掛けて、ストレートを放つ。それは綺麗に充嗣の顎を捉え、パァンッ! とこ気味良い音を打ち鳴らした。してやったぜ、と思わず笑みを浮かべた瞬間、充嗣のもう一つの拳がロールの頬を打ち据える。「ぶッァ!」とマウスピースが吹き飛び、ロールの口元から血が飛び散った。
「グ、ァッあぁァ!」
叫びで痛みを誤魔化しつつ、充嗣は拳を繰り出す。連打、連打、連打、手を出される前に出してやるとばかりにロールを打ち据える、フック、アッパー、ストレート、ロールの顔面が左右に弾けて青いキャンバスマットに赤い斑点が増える。しかしロールもただやられてばかりでは無い、揺れる脳と視界の中、懸命に自身の腕を動かし充嗣のがら空きだったボディを強く打った。
ズドンッ! と骨の髄まで響くボディブロー、顔面を左右に揺さぶっていた充嗣の腕が止まり、数センチ体がキャンバスマットから浮き上がった。「か、ぁ、はッ!」と充嗣は悶絶、口からマウスピースが零れ落ちる。体がくの字に折れ曲がった充嗣の顎先目掛けて、ロールは足を振り抜いた。
しかしそれは、充嗣の髪を掠めて紙一重で避けられてしまう。腹部を抑えながら充嗣は数歩後退し、ロールと距離を取った。
「ぜっ、えグ、ハっ、お、オイ、充嗣ぅ、ぐッ、お前ぇ、あんだけ殴っといて、俺は、一発、かよ、ぜェ、割に合わねぇ、ぞ」
「う、るさいっ、あ、ぐッ、その一発が、重いんだァ、よ、この野郎っ、ガっ」
ロールは未だ定まらない視界の中、覚束ない足取りで一歩前に出る。充嗣は気を抜けば今すぐ嘔吐しそうなソレを無理矢理飲み下し、ゆっくりと拳を構えた。どちらも表情は蒼褪め、しかし闘志は健在。三度衝突が繰り返されようとして、ピピピ! と甲高い電子音がトレーニングルームに木霊した。
「試合終了だッ! 二人とも、拳を下ろせ、終了のゴングは鳴ったぞ!」
試合をリングの外から眺めていたミルが叫ぶ。二人はお互い目線を交わし、殆ど同時に腰を落とした。ロールはその場に大の字で転がり、充嗣は這い蹲る様にして額をキャンバスマットに擦り付ける。双方既に限界に近く、もう立っているだけで辛かった。
「ぐァあ、くっそ、強えぇ! はぁ、ハァッ、充嗣、お前、ホント強いなァ!?」
「っ、その言葉、そのままッ、そっくり、返す……うっ」
互いの健闘を讃えあい、二人はそのまま胡坐を掻いて互いに打たれた部位を擦る。リングに上がったミルが手にスポーツドリンクを持ち、それぞれに手渡した。ロールはその場でキャップを開き一気に喉へと流し、充嗣はゆっくりと口に含んだ。未だロールの一撃が腹の芯に残っている為、一気に飲んだら吐き出してしまいそうだった。
「プハッ、ぐ、ふっ、あぁ、クソ、前までは、近接だけなら俺の方が、強かった、ってのに、ハァ、充嗣、お前、ジャパニーズ修行でもしてんのか?」
「ングっ、ぱっ、はァ、してない、んハ、ハッ、強いて言うなら、意地で食い付いてる」
豪快にドリンクを煽ったロールが汗と一緒に零れたドリンクを拭い、充嗣に問いかける。充嗣もスキルの事を大っぴらには出来ないので、体育会系の大好きな精神論を持ち出す事にした。要するに、男の意地という奴であると。
「お前達の近接格闘は見ていてゾッとする、一発一発が凄まじい音だしな、俺があの場に立っていたらと思うと……あぁ、ハウンド・ドッグの連中は悲惨だな」
タオルをリングの外から持ち込んで来てくれたミルが、そんな事を言う。充嗣はタオルを受け取ると、目に沁み込んだ汗を乱暴に拭った。じくじくと痛んだロールの一発も、じきに痛みも引き元通りになる。呼吸も段々と落ち着き、上下していた肩が緩やかに止まる。巳継の肉体はスタミナの回復さえも一級品だ。
「充嗣、もう腕は大丈夫そうだな、ロールとこれだけ殴り合えれば問題無いだろう」
「ハッ、あぁ? 腕? そんなモン、大丈夫に決まってるだろう、あんな強烈な一発打てるんだ、それで治りかけ何て言ったら、それこそ鉄板でもぶち抜けるンじゃねぇか?」
ミルが充嗣の火傷痕や縫い痕の残る右腕を見て頷く。対してロールは半ば冗談交じりに、全く問題無いとアピールして見せた。充嗣としても殆ど違和感なく動かせるようになったと思う、普通に動かしても問題はなく、これならいつでも仕事が出来るだろう。
「ハァ、ふぅ、んでよ、充嗣、お前やっとレインとヤッたんだって?」
スポーツドリンクをキャンバスマットに置いて、タオルで顔を拭っていたロールがそんな事を言い出す。充嗣はドリンクの口に含んだ分を飲み下すと、「ん、言い方は気に食わないけれど、まぁ、恋人にはなった」と頷いた。するとロールは嬉しそうに「おぉ、やったぜ、俺達の苦労が報われたな!」とミルに笑いかけた。
「ハハッ、全く、今まで散々レインに脅された甲斐があったって訳だ、アイツ本当に容赦ないからな、今まで何回顔面に蹴りを貰ったかも分からねェぜ」
「ロール、お前、それレインの前では言わないでくれよ? それ言ったら、俺までとばっちりを食らいそうだ」
豪快に笑うロールに対し、ミルは陰鬱そうにそんな事を言った。どうやらBANKER内での色恋沙汰は良くも悪くも、色々と影響があった様だ。
「……俺から言わせれば、充嗣がもっと早く気付いてアプローチでも仕掛けてくれれば、こんな胃痛と戦う羽目にならなくても良かったのだが」
ミルが何か恨めしそうな目線で充嗣を見て、当の本人は肩を竦める。自分とて色恋に疎い自覚はあるが、どうにもならないモノは仕方ない。それにレインにアプローチを仕掛けるなど無茶ぶりも良いところだ、仮に知っていても自分は動けなかっただろうと自己弁護。
「いやいや、無茶言うなよミル、あの充嗣だぜ?」
ロールが何気失礼な言葉を口にするが、ミルは溜息を吐き「レインから蹴られるまで気付かなかったロール、お前が言うな」と呆れた声で言った。
「いや、でもよぉ、普通分からねぇって、それっぽい行動なんて無かったじゃねぇか」
「大ありだ馬鹿、充嗣もロールも、何で分からないか不思議なくらいレインは充嗣にアタックしていたぞ」
「……それ、本当か」
「――まぁ、当の本人が微塵も気付いてはいないが」
充嗣が愕然とした声を上げれば、ミルは手を額に当てて首を横に振る。どうやらミルからすれば非常に分かり易いアタックをレインは仕掛けていたとの事。しかし充嗣には全く、これっぽっちもそれらしい行動が浮かんでこなかった。
そうこうしている内に、ピピピピ! と再び電子音が鳴り響いた。音は試合終了時に鳴り響いたものと同じ。それを聞いたロールが「おっ、休憩も終わりだな」と立ち上がった。五分のインターバルが終わり、練習再開の合図だ。
「どうするミル、一試合やっていくか?」
ロールがロープに腕を絡ませながらそう問えば、ミルは肩を竦めて首を横に振った。
「冗談、俺は普通にトレーニングマシンを使わせて貰うさ、今日はそれ以上試合をするなよ? 完治しても、充嗣は病み上がりだ、それに練習で怪我をして、本番(仕事)で働けませんは笑えない」
ミルがそう言って釘を刺すと、少しだけ不満気な顔をしたロールが「オーケィ、じゃあ今日は緩めでいこう、充嗣もそれで良いか?」と聞いて来た。流石に分別はあるようで、闘争心の赴くままにハードトレーニングには望まないらしい。充嗣も正直第二ラウンドは辛いので、「勿論」と一も無く頷いた。
どこで切ったら良いのか分からなかったので、全部投稿します。
明日はお休みかもしれません、投降するかもしれません。




