願愛成就
「偶には良いじゃない、私に付き合ってくれても」
「……あぁ」
場所は美しい砂浜、誰も居ないプライベートビーチ。インド洋にポツリと存在するモルディブ共和国、充嗣はレインと二人でこの島にやって来ていた。周りを見渡せば美しい海、白い砂浜、聳え立つ白い木々、暑い太陽、そして素晴らしいプロポーションを惜しげも無く晒すレインの水着姿。今彼女は砂浜にサマーベッドを設置して寛いでいる。
充嗣は己の水着姿を見下ろし、それから何で自分は此処に居るのだろうと考えた。何故も何も、朝起きたら自宅にレインが居て、「旅行に行くから貴方も来て」と抵抗する間もなく拉致に近い形でこの島に連れて来られたからだ。
家を出るときの、あのヴィクトリアの表情が忘れられない。だが一つだけ言いたい事がある、俺は悪くない、本当に。まさか自家用ジェットで連れて来られるとは思わなかったのだ、それに寝起きでもあった、これがドッキリならどれ程良い事か。
「飛行機で凡そ半日、ボートで二時間……モルディブには来た事があるが、この島は初めてだ」
「それはそうよ、この島は私のモノだから」
「買ったのか」
「えぇ、五億円だったわ」
「……それはそれは」
島の値段に充嗣が精通している筈も無く、その値段が高いのか安いのか分からない。島一つを丸々購入するのだから、安いと言われれば安い気がするし、高いと言われると高い気もする、要するに分からない。ただ依頼の成功報酬一回分程度だ、充嗣にとっては非常に高い。
「別荘も建てたし、船も買った、試射場も作ったから射撃訓練も出来るわよ?」
「……それ、必要だったのか?」
「だって貴方、射撃好きなのでしょう?」
その言い方ではまるで、自分の為に作ったみたいではないか。射撃好きは事実なので首を振る事は出来ず、「まぁ」と曖昧な返事で濁した。
「でも、何で俺だけなんだ? ミルとかロールはどうした?」
「……」
充嗣がそう尋ねると、仰向けに寝転がった状態からジッとレインの視線を感じる。綺麗な瞳からは「それ、本気で言っているの?」と無言の威圧を感じた。気のせいだと信じたいが、十中八九責められているのだろう。
既に前回の依頼から二ヵ月近くが経過しているし、恐らくBANKERの面々も誘えば二つ返事で来る筈だ。今回は少し長く仕事のスパンを取るという事で、実に四カ月という休暇をマルドゥックより言い渡されている。今回の仕事で大分体を酷使したため、心身ともに万全の状態にする為の準備期間という事だ。
既に必要な武器、装備の発注は終わって居る為、正直充嗣としても時間を持て余している。だから別段レインと旅行に行くことは問題無い、ただ時間を持て余しているのは他の面々も同じだろう。
「女が男を誘って、プライベートビーチで一緒の時間を過ごす、この意味、分かっていて?」
「……普通に休暇を一緒に満喫する、って意味じゃ」
「―― ……回りくどい方法は、本当に駄目みたいね」
このトウヘンボク、と罵倒を受けて充嗣は首を傾げる。何故己が罵倒されたのかも分からない、ただ不機嫌そうなレインを見て、充嗣は己が何か失敗したという事だけは分かった。
「ねぇ充嗣、貴方私の事好き?」
寝そべったまま、レインは体を充嗣の方に向けてそんな事を聞いて来る。充嗣は一瞬虚を突かれるも、努めて冷静に「勿論」と返事をした。これまで幾多もの戦場を共に駆け抜け、命を預け合ったレインに信頼を抱かない筈がない。BANKERクルーならば当たり前だろう。
充嗣の即答を聞いたレインは、素っ気なく「そう」とだけ口にして、パンパンと二度手を叩いた。すると常夏のビーチに黒スーツ姿の男がゆっくりと現れ、充嗣に向かって何かを差し出す。突然の事に目を白黒させるが、レインの「確認して」という言葉に恐る恐る近付いた。
男は手にボードを持っており、その上に白い布を被せた何かを載せている。男は微動だにせず、沈黙を守って充嗣の前から動く様子がない。これを受け取れという事か、充嗣は一体何だと思いながら白い布を退かす。
その下から出てきたのは綺麗に折り畳まれた紙だった、一枚のペラペラの紙だ、充嗣は困惑する。恐る恐る手に取って見れば、どこにでもあるコピー用紙の様な肌触り、レインは一体自分に何を見せたいのだろうと彼女に目を向けるが、レインは充嗣の動作を凝視し口を開く様子がない。
次いで、目の前の男に目を向けるがサングラスに覆われた瞳は何も映さない。ただ自分の、どこか戦々恐々とした表情が反射するだけだ。暫しの間、充嗣はその場所でフリーズしてしまう。
「充嗣、どうしたの?」
充嗣が中々紙を開かないからだろう、レインはそんな声を上げた。充嗣は「いや」と口にしつつ、手に持ったそれを見つめる。この状況と一枚の紙きれ、全く想像がつかない。分からないものは分からない、一体レインは自分に何を見せたいのだろうか。ただ、あまり良い予感がしないのも確か。
しかしBANKERクルーである彼女が、自分に害を成すことは無いだろうと高を括った貢は、覚悟を決めて紙を開いた。
目の前には『婚姻届』と書かれた紙があった。
「ん~?」
自分らしからぬ、間抜けな声が上がった。一瞬目を逸らし、それから一度紙を閉じる。そしてもう一度ゆっくり紙を開き、恐らく見間違ったのであろう文字をもう一度読む。
目の前には『婚姻届』と書かれた紙があった。
充嗣はもう一度目を逸らした、目の前には黒服の男、横を見ればこちらを凝視するレイン、そのプロポーションは美しい。空を見上げれば蒼天が自分を見下ろし、吹き抜ける風の何と心地よい事か。
見渡す限りの白砂、透き通る海、波音、どれもが素晴らしい。
精神を穏やかに、頗る快調な精神状態にしたところで、もう一度紙を見下ろす。
目の前には『婚姻届』と書かれた紙があった。
「レイン、これ、渡すものを間違っているぞ」
充嗣は渡すものを間違ったのだという結論に至った。
「いいえ、間違っていないわ、右側、私の欄は全て埋めてあるでしょう?」
レインがサマーベッドからゆっくりと身を起こし、そんな事を言う。充嗣が紙を見ると、確かに『妻になる人』の欄が全て埋まっている、レイン・カルロナの文字がきちんと欄に収まっていた。
「あとはそこに、貴方の事を書き入れるだけ、私達はBANKERだから戸籍上での結婚は出来ないけれど、マルドゥックが代わりに受け取ってくれるらしいわ、こういうのは大事でしょう? 結婚式は全額持ってくれるって」
「待ってくれ、少し、いや、かなり待ってくれ」
「もう十分待ったわ、四年と六か月、これ以上待つ何て無理よ、一秒だって待てない」
レインが立ち上がり、水着姿で充嗣に一歩一歩近づいてくる。当の充嗣は混乱の極みに居た。内心で、ロールが言っていたのはこの事かと戦慄する。あれほど察せる機会があったというのに、確かに自分は朴念仁でトウヘンボクだ。
しかし、人の好意などそう易々と察せられるものだろうか。コイツ、俺の事好きなんじゃないか? なんて頭パッパラパーな思考など遠い思春期に置いてきた、今の充嗣にあるのは強盗の為のプロセスと人を殺す為の心構えのみ。恋愛に割けるリソースなど最初から存在していない。
「ロールが貴方を娼館に誘った時は額を撃ち抜いてやろうと思ったわ、後、メイドの雇用を勧めた件についても、言っておくとミルは一発殴った、ロールには顔面に蹴りを入れさせて貰ったわ、もしそれで充嗣が傷物にでもなったら本当に撃っていたかも分からないし、まぁ当然よね、それにしても、ここまでずっと気付かないなんて、日本人は察し合いの文化って言っていたけれど、存外そうでもないのね、こんな事なら最初から口に出していれば良かった」
充嗣の前までやって来たレインが、じっと自分の瞳を覗き込んでくる。綺麗なブルーが視界を埋め、強い視線に充嗣は一歩下がった。しかし下がった分、レインが一歩詰める。
「……レインは、俺が好きなのか?」
震えた声でそんな事を問いかければ、至極真顔で「当然じゃない」と返される。その声色には若干の呆れが含まれている様な気がした。
「さぁ、これで相思相愛ね、婚姻届、マルドゥックにさっさと出しちゃいたいから、早く書いて」
「いや、待て、待って、色々過程を飛ばしているだろう、何かがおかしい」
「おかしく何て無いわ、好きなら好き同士、結ばれるのが普通でしょう? 貴方は私が好き、私は貴方が好き、愛している、なら、私と充嗣が結婚するのは極自然な事だわ、さぁ、早く」
間違ってないのだけれど、間違っている。そんな矛盾が充嗣を襲った、レインの言葉はまるで異国の言語だった。そもそも充嗣にはレインに好かれる理由に心当たりが無かった、四年と六カ月待ったと言ったが、それではそんなにも前からレインは自分が好きだったのかと困惑する。
「お、俺のどこがそんなに良いと言うんだ?」
苦し紛れに、充嗣はそんな事を言い出した。すると目の前のレインは目を細め、スッと笑みを浮かべる。そして細い指先を充嗣の唇に当て、静かに語った。
「私は貴方に、二十七回命を救われたわ」
命を救った、充嗣はその言葉に覚えがない。
「一度目は初めて銀行を襲った時、小規模な街の地方銀行、弾丸飛び交う中を貴方は私を引き摺って助けてくれた、二度目は宝石強盗の時、スナイパーに狙われた私を貴方は庇った、三度目は研究所襲撃の時、重装甲兵に追い詰められた私を、貴方は重装甲兵に素手で挑んでまで救ってくれた、四度目は――」
充嗣は淡々と話される内容に、意識を飛ばしていた。どれもこれも、身に覚えがない。いや、正確に言うのであればある、充嗣としてではなく、巳継としてならば確かにレインを助けていた。
つまりは、そう、ゲーム時代の話である。
一度目の地方銀行の時は、恐らく充嗣が初心者だった頃の強盗だ。強盗プロセスを良く理解していなかった充嗣は早々に通報され、ハウンド・ドッグとの撃ち合いを余儀なくされた。そして撃ち合いの最中にレイン・カルロナがダウンし、充嗣がアーマーに物を言わせて復帰させたのだ。
二度目の宝石強盗の時は、単純に充嗣が囮だったからの話である。充嗣が敵をせき止め、残り三人が宝石を奪い搬送する、そういう役割だ。故に庇ったと言うよりは、ヘイトを自分に向ける為の行為だった。
三度目に至っては単純に縛りプレイだったのだろう、その頃になると中級者としてのプレイが板につき、バイザーを破った重装甲兵など素手で十分と近接で倒したに違いない。
要するに、全部ゲーム時代の充嗣が何の考えも無しにただプレイした結果に過ぎない。そこにレインに好かれたいだとか、どう思われたいだとかの余地は一切なく、ただただ偶然が積み重なった結果だ。
「―― 分かった? 私は貴方に、こんなにも助けられたの」
二十七回分の場面を全て口にしたレインは満足そうに笑う、そのまま充嗣の唇をつっとなぞった。
「……しかし、俺には、その、好意を抱かれる程の魅力は――」
それでも諦めきれず、充嗣は口を開く。何故こんなにも必死になって否定したがるのか充嗣にも分からなかったが、勝手に口が開いた。
「顔が良くて、若くて、お金も持っていて、性格が良くて、危機的状況でも諦めず、肉体的にも精神的にも強く、傲慢ではなく、謙虚で、決して驕らず、名声を持ち、信頼できる男性―― これで、貴方が魅力的でないのなら、世の中の全ての男は塵以下ね」
バッサリと世の全ての男性を切り捨てたレインは、そのまま姿勢を正し充嗣を見据える。充嗣より少しだけ背の低いレインは、半ば睨めつける様に充嗣を覗き込んだ。その瞳には強い意志が宿っている。
「そもそも」
一歩踏み込んだレインの足が、充嗣の足の間に入った。そのまま抱き着く形でレインは充嗣の頬に触れる。その手は驚く程に暖かかった。
「人を好きになるのに、理由が要るの?」
殺し文句だ。
そう思った。
間近から自分を貫く青色は、まっすぐ充嗣と言う存在を見ていた。自信に満ち溢れ、欠片も迷いを持っていない。充嗣は己の反駁する手段が全て奪われたと思った、そんな事を言われたらもう、何を言っても否定する理由にはなり得ない。
何かを絞り出そうとした口が、ぐっと閉じる。言葉は何も出て来なかった。ただ、こんな美人で、何でも出来る様な女性が自分と釣り合うのかだとか、同じBANKERのクルー同士で恋愛だとか、強盗をしている身分の自分がだとか、要らぬ事ばかりが頭を駆けまわった。
その間もレインの瞳は充嗣を捉えて離さない、頷くまで絶対に話さないぞという気概すら感じられた。その迫力と、要らぬ事と、レインへの単純な好意が鬩ぎ合い。
「………ま」
「ま?」
「まずは……恋人からで」
けれど結局、好意が勝った。
明日はお休みを頂ます。
という訳で、凡そ二話分の内容を詰め込みました。
えっ、急展開? 知らない子ですね。




