ごちそうさまのあとで
「ただいまー」
午後8時半。大学での実験が長引き、家に帰ったのは、普段なら夕飯を食べ終わっている時間だった。
玄関に脱ぎ散らかされた黒いヒールを揃え、僕はリビングに入った。
珍しく、僕より早く帰宅していた同居人は、リビングのベッドにごろんと寝ころんで
「お疲れ様。遅かったね」
と労いの言葉をくれた。
榛名綺沙奈。
同居を始めてはや3年。3年も経てば、僕は大学3年になり、4つ歳上の彼女は社会人になった。さらに彼女は今や、僕、芹沢悠人の恋人である。
同居し始めた当初は、付き合うだなんて考えてもみなかったから、人生は何が起こるかわからない。
「すみません。すぐにご飯作りますね」
僕は手を洗ってすぐ、廊下に備え付けられたキッチンへ行った。
僕のあとを追うように、綺沙奈さんが、今日のご飯はなんだろなと歌いながらキッチンにやってきた。
僕は右手に玉ねぎ、左手にトマト缶を持って
「パスタですよ」
と答えた。
その途端、綺沙奈さんの顔がぱぁっと明るくなって
「私、悠人のパスタ好きー!」
と万歳した。
その様子を微笑ましく見ながら、僕は冷蔵庫から出したひき肉とガーリックを炒め、その横で玉ねぎを素早くみじん切りした。
綺沙奈さんは、僕が忙しなく動くのを見て
「何か手伝おっか?」
と聞いてきた。
「全力でお断りします」
間髪入れずに、僕は断った。
頑張りは認める。頑張りは認めるのだが、彼女に家事はさせたくない。というか、彼女に家事はできない。苦手とか不得意なんて可愛らしいものではなく、できないのだ。それはもう、近所の方に迷惑をかけすぎて、アパートを追い出されるくらい、できない。本人曰く、ボヤ騒ぎになったのも、一度や二度ではないらしい。
「悠人のケチ」
小さな子どものようにほっぺたを膨らませながら、綺沙奈さんはリビングに戻ると、ベッドに凭れて三角座りをして、テレビを見始めた。拗ねたからかまえ、という合図でもある。
僕はそんな彼女の様子を見て、そして気付いた。
「洗濯物、取り入れて、たたんどいてくれたんですか!?」
思いもかけないことに僕は目を丸くして聞いた。
その瞬間、綺沙奈さんは膨らんでいたほっぺも急にしぼませ
「そう! 偉いでしょ!」
と胸を張った。
僕が素直に頷くと、綺沙奈さんはたたんだシャツを形が崩れないようにそっと、しかし足早に、僕のところに持ってきた。
端を合わせようとする努力は見える、がシワが目立つ上に、見えないところがくしゃくしゃしている。
「32点」
僕が率直に言うと、彼女はがっかりしたように肩を落とした。
その様子がなんとも言えず可哀想に思えて
「でも、すごく助かりました。ありがとうございます」
と言った。
その途端、彼女の顔が、また明るくなった。
つられて僕も笑ってしまう。
こういうところが、どうしようもなく愛しいと感じるのだ。
僕は、玉ねぎのみじん切りやら水やらが付いた手が当たらないように、軽く綺沙奈さんを抱きしめた。自分より、少し高めの体温が心地よい。
綺沙奈さんは、得意気に
「うんうん、また頼りたまえよ」
と僕の背中をぽんぽんと叩きながら言った。
そこで、僕は一度手を洗い、キッチンペーパーにアルコール消毒をプッシュして綺沙奈さんに渡した。
「これで机の上拭いてきてください」
とお願いすると、彼女は嬉しそうに、おうよと言い、持っていたシャツを元の位置に戻してから、キッチンペーパーを受けとった。
初めまして、朱と申します。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語は短編を集めたシリーズものを企画しております。
できるかどうかわかりませんが、この2人の関係を見ていただければ嬉しく思います。
波乱万丈では決してないけれど、暖かくて優しい物語になれば・・・
最後に、あとがきも読んでくださった皆様に、心から感謝を込めて。