6 銀と妖精と悪果とあかり
タケルの体がビクンと震え固まった。息さえも止まる。
来た。
やはり、と言うべきかもしれない。
背中に張り付くように、すぐ間近からハクの声が聞こえてきたのだ。
「何もそんなにムキになって逃げることないでしょ。ムダなんだから。ね」
声がゆっくりと前に回りこんできた。
そして真っ赤な目を光らせて、動揺を隠せずに引きつるように震えるタケルを見上げる。
全力疾走した上にこの声を聞いてしまっては、もうまともな呼吸などできなかった。タケルは、ガクリと膝を付く。
「さて、早速だけどもう決めたかな? 腹が減ってねえ、堪らないんだよね」
崖っぷちに立たされてしまった。
ああ、どうしたらいい……。
「昨日、オレが喰った夢、面白かったよなぁ。ねぇ君、イジメてちょうだいオーラ出まくってたよ? 現実でもそうなんだろう?」
ハクがキヒヒと笑う。
「ああいうのって、どんどんエスカレートするんだってねぇ? そしたらこの先どーするの、君」
ドクンとタケルの心臓が大きく脈うつ。
言われなくても分かっていることだ。一番それを不安に思っているのだから。
タケルは俯いて、拳を握った。
「そうだなぁ……ここらで、仕返ししとく?」
「……え?」
「あいつ、あのでかい男にもっと悪果に実らせろよ。な」
ハクがタケルに近づいてきた。
この化物は大沢を差し出せと言う。自分もそれを考えていた。しかし本当にそれでいいのかと、この期に及んでまだ迷っている。
大沢が怖い、それは確かだったが憎みきれない自分が確かにいるのだ。彼を身代わりにしたらきっと後悔するはずだ。いや、大沢でなくても身代わりが誰であろうと、恐らく同じことだろう。
「迷うことはないだろう? それとも、もう君を喰っちまおうか」
ああ、もうお終いだ。
タケルはグッと体に力を入れ、歯を食いしばり目を瞑った。
白い手が額に触れるそう思った時、ハクの眉がピクンと動いた。
「おい! 貴様、何を持ってる?」
魔物の声がオクターブ下がっていた。忌まわしげに疑わしげにタケルを見ている。
ハッとあかりがくれた銀の腕輪のことを思い出した。
――――銀はね、あいつらを封じることができるの。
目を見開き、顔を上げた。
やるしかない。
即座にズボンのポケットから腕輪を取り出し、タケルは夢中で目の前にいるハクに押し当てていた。
「グギャーーーー!!」
ハクは銀に触れた途端、ドン! と吹っ飛ばされれた。
雑草の生い茂る放置された土地を囲む金網に、まるで磔にされたようだった。そしてずるずると地面に落ちてゆく。
すかさず立ち上がり、タケルはハクに向かって腕輪を投げる。
「グハア!」
腕輪は胸に命中し、のけぞって倒れるハクの体の上に落ちた。
その体から、シュウシュウと白煙が登り始めた。
ハクは腕輪を払いのけることも出来ず、杭で打たれたようにその場から動けなくなった。
「き、効いた……?」
タケルはへなへなと膝をついた。銀が触れただけで、本当にこの化物が動けなくなるとは驚きだった。腕輪をくれたあかりに、心の中で感謝した。
ハクがゆらりと腕を上げた。
赤い眼に憎悪が満ちている。
「貴様……なぜ銀を……」
ギリギリとにらまれて、タケルは尻をついて後ずさった。
ハクの指がタケルを掴もうとするかのように不気味に動く。だが、ハクはうなだれ腕もパタリと地面に落ち、静かになった。
白煙はまだ上がっている。なんだか、ハクの姿が一回り小さくなったように思えた。
タケルはヨロヨロと立ち上がり、ハクを見つめた。これで、こいつは死んだのだろうか。
「神崎くん!」
あかりの声がした。
振り返ると汗で濡れた髪を頬に張り付かせて、懸命に走ってくるあかりの姿があった。
「た、瀧本……? なんで……」
「神崎くん! 無事!? ハクは?」
苦しげに息を切らせて言った。
自分を心配して追いかけてきてくれたのだと知り、タケルは情けなく目尻を下げた。
「ありがとう、無事、かも。あの腕輪のおかげで」
「……そう、みたいね。」
あかりはハクをチラリと見て言った。
ぐったりとして動かないハクの体からは、ゆるゆると白煙が昇り続けている。
「でも、安心はできないわ」
ゆっくりとハクに近づいていくと、カバンの中からじゃらじゃらと長い鎖を取り出し、大胆にもハクの首にサッと巻きつけた。その鎖にはアクセサリーやフォーク、スプーンが大量にぶら下がっている。多分それらは銀製品なのだろう。
途端にハクが目を剥き、悲鳴を上げた。
だがお構いなしに、あかりは鎖と更に巻きつけ金網に固定した。
「グガアァァ!!! やめろぉ! あかりぃ!!」
ハクが絶叫し、その体がビクンビクンと痙攣する。白煙が増した。
苦悶の声を発しながら、怨念のこもった目であかりをにらんでいた。だがあかりはたじろがず、タケルが投げた銀の腕輪を拾い上げた。
タケルは声も出せずにその様子を見つめていた。
このあかりという少女は、勇敢だとか度胸があるとか言うよりも、まるで恐怖心そのものが欠落しているのでは無いかと思ってしまう。
「神崎くんに手出ししないで」
ハクはもう悶絶していた。
あかりはそう言い置くと、タケルのもとに戻り腕輪を差し出した。
動けずにいるタケルの手を取ると、そっと腕輪をはめた。
「行きましょう」
あかりはタケルの手を握り、にっこりと笑う。
温かい手だった。そして優しい笑顔だった。つい今しがた、全くの無表情でハクを拘束したのが嘘のようだ。
あかりはゆっくりとタケルを立ち上がらせると、手を引いて歩き出した。
「大丈夫。追ってこれないから」
*
二人はファーストフード店で、向い合って座っていた。
店内は客でいっぱいだった。賑やかな話し声が幾重にも重なって、BGMもよく聞こえない。
「食べないの?」
あかりはハンバーガーをかじりながら聞いた。
タケルはさっきからずっと、うつむいたままだった。恥かしかったのだ。女の子に助けられ、女の子に手を引いてもらってここまで来たことが。
「相当ショック受けたみたいだし、しかたないわね」
あかりは平然としている。
それを見るとますます恥ずかしくなり、タケルは落ち込んだ。そのくせ、さっき握ったあかりの手の暖かさを思い出すと胸がドクンと熱くなる。
プルプルと小さく首を振って、聞きたいと思っていた質問を口にした。
「アレって一体何なんだ?」
「難しい質問ね。……本当、何なのかしら……」
そう言いながらも、あかりは自分が知っている限りのことを話してくれた。
彼らには様々な種族があり、人間に害をなすものもいれば、恩恵を与えるものいるらしい。
共通しているのは、超自然的な能力を持っているということ、常に人との関わりを持っているということだった。人間の方ではそれと気付くことは少なかったが。
彼らは、人間の傍らにいつもいる。世界中のどこにでもいる。今もどこかから覗いているのかもしれない。
世界各地の伝説になっている妖精や精霊、妖怪、妖魔といったものは、実在していたのだ。
トキはバクと呼ばれたこともあると言っていたのを思い出した。バクならば、確かに害はないように思えた。
しかし、ハクはトキと違って遙かに邪悪なもののようだ。自らを妖精などと言っていたが、やはり妖魔と呼ぶのがふさわしい。
あかりの話では、人知を超えた超自然的な能力を持つ彼らにも弱点があるらしい。
ハクの種に限って言えば、それは銀だった。それは、タケルが自分の目で確認した通りだ。
「なんで、銀に弱い?」
「さあ。なぜかは知らないけど、アイツにとっては銀が人間にとっての毒と同じ意味を持つのは確かね」
あかりは淡々と話を続ける。
食の進まないタケルを他所に、ハンバーガーを食べきりジュースをチュウチュウと吸いながら。どんな神経をしてるんだと、半ば呆れ気味にタケルが自分のポテトを差し出すと、あかりは嬉しそうに笑った。
そして次に、ハクが食べたいと言っていた悪果のことを話し始めた。人の心の中に育つ木があるということを。
その気は誰もが持っているもので、精神のエネルギーのようなものだという。それは小さな種から育ち、枝葉を広げて成長し実をつける。
種とは一つの行動であり、言葉であり、物事のきっかけとなる事柄。その種は、宿主の感情を栄養にしながら大きくなっていく。
ある一つのきっかけが、ある一つの結果を実らせる。
時間をかけて育つ木もあれば、すぐに実をつける木もある。その木は、木を宿す人間自身なのだ。
一人の人間の中に、何本も生えることはめずらしいことではないし、育つ過程で様々な影響を受けて形状を変化させもする。そして実る果実も様々だ。
「アイツが食べているのは、簡単に言えば人間の心なのよ。アイツは悪果と呼んでいるけど。心の闇の結晶、なのかしら。妬み、裏切り、憎しみ、怒り……あらゆる陰の感情の詰まった心の結晶ね……。もちろん、愛や慈しみといった陽の感情が成長して、実ることだってあるのよ。当たり前よね。ただアイツが食べるのは悪果だけ。悪趣味だわ」
あかりは、嫌悪をあらわにして言った。
「悪果……アイツに心を喰われること自体が、悪果つまり最悪の結果よね。醜い心を持ってしまったがゆえの、悪因悪果」
なんだか小難しい話になってきたなと思いつつ、タケルは必死で理解しようとした。
「つまり、オレは、あいつに心を喰われそうになってたってことか?」
「そういうことね」
「あいつ、オレにはまだ実がなってないから、代わりを差し出せって言ったんだ。取引しようって。そうしたら、オレのことは喰わないからって」
「それで? なんて返事したの?」
「……わかったって言った」
「あなたってバカね。……気持ちはわかるけど」
あかりは急に身を乗り出し、手のひらをタケルの胸に軽く当てた。
驚いて、タケルは立ち上がりそうになった。
「少し動かないで」
あかりは、軽く目を閉じて静かに言った。
「ヤダ。もう育っちゃったみたいね――――」
タケルの胸から手を離した。困ったような顔をしていた。
「そ、育っちゃったって、その実のこと?」
「自分でも見てご覧なさいよ。自分の内側にしっかりと目を向けて。神崎くんなら見えるんじゃない?」
「急にそんなこと言われたって……」
あかりはため息をついた。
「常套手段よ。あなたを惑わし取引を持ちかけることで、心を負の方向に傾けるの。悪意を生じさせるのよ。そして、その黒く濁った心を食べるの」
それからしばらく、二人は無言になった。
タケルは考えていた。自分の中にある木のことを。
ハクは、まだ悪果が実っていないと言ったが、あれは嘘だった。見逃してやるという餌を与えるための嘘だったんだ。あかりの話を信じるなら、そういうことだ。
大沢や武田のことを思えば、何も無かったはずがない。怨みや怒りといった、薄暗い感情が自分の中に確かにある。そして、身代わりを差し出させることで、黒い果実をより大きく育てようとしたのだろう。
タケルは、自分の中の悪意の果実を想像した。
きっとグロテスクな、おどろおどろしいものに違いない……。
それをあかりに見られてしまったのだと思うと、ますます辛くなる。
それにしても、あかりはなぜこんなに詳しくしかも冷静なのだろうかと思う。全く恐れていないように見えるのだ。
なんだか彼女は特別な存在で、人ではないような気がしてしまう。
あまりにも平然としているあかり、そして悪夢を喰らった時のハクの顔を、タケルは思い出しブルっと震えた。
と、膝に何かが乗った気配がした。
足とテーブルの間に目をやると、ぬっとトキが顔出した。
「うわ!」
「し! 声がでかいわ!」
トキがビョンと跳ねて、口に張り付いた。
「な……!」
思わず立ち上がり叫ぼうとすると、ますますトキが口に密着してくる。不気味すぎる。
すぐさまトキを剥ぎ取ろうとしたが、隣のテーブルの女性が不審げに見ているのに気づき、平静を装って静かに椅子に座り直した。
早く、離れろ! 気持ち悪い!
「ふん! わしをはたき落とした罰じゃ」
タケルが苦虫を噛み潰したような顔を上げると、あかりがポカンと目をまん丸くしている。
トキが見えたのなら、当たり前だ。
タケルの顔面に、二十センチほどの小さな人間のようなものが両手両足を広げて張り付いているのだから、驚かずにいる方がが難しい。
「神崎くん? 何、それ」
ゆっくりと探るように小声で言った。