1 悪夢を見た日
ドクン! ドッドッドッドッドッ!!!
耳の奥で自分の心臓が、ドラムのように鳴っていた。バッと目を開けると白い陽光が、針のように目に突き刺さってくる。
ガハッと大きな空気の塊を吐き出すと、やっと呼吸ができるようになった。それが荒いものであっても、ようやく長い息苦しさからいくらか解放された気がした。
額を流れ落ちてきた汗が目にしみる。手の甲でそれを拭うと、タケルはベッドの上で上半身を起こしている自分に気がついた。
まだ心臓はドクドクと早い鼓動を繰り返している。
夢を見ていた。なにかとても嫌な夢だ。今はもう、なんの夢だったか思い出せないが、どろどろとした後味の悪い吐き気のようなものがこみ上げてくる。
タケルは時折悪夢を見る。内容は全く覚えていないのに胸苦しさだけは強烈に残る、そんな夢だった。
小学校の終わり頃からそれは始まり最近はとみにに多い。数カ月に一度だったものが、数日に一度になるという具合だ。
目下、タケルを悩ませる原因の一つだった。
時計を見ると朝の五時過ぎを指している。いつもの起床時間よりもかなり早かったが、もう眠れそうにもない。
近所の公園のセミたちも早起きで、既にシャワシャワと鳴いている。
ムッとする熱気が部屋の中に淀んでいる。窓を開けても、そよとも風は通らない。
七月初旬。
もうじき始まる夏休みの間、タケルはここを離れるつもりだった。そうすれば、大沢先輩と顔を合わせることもない。あと少しの辛抱だ、と胸の内でつぶやく。
タケルは大きくため息をついて、汗で湿気たTシャツを着替えた。
体を伸ばすと腹が痛み、ぐしゃりと頬が歪んだ。昨日、大沢に膝蹴りを何度も食らったことを思い出す。
気がつけば、ギリギリと歯を噛んでいた。
制服に着替えて居間のソファに寝転んでいると、ガチャリと玄関の鍵を回す音がした。
母親が帰ってきたようだ。
タケルの母はスナックのママをしている。いつも店を閉め片付けて帰る頃には、とっくに日付が変わっているらしい。
それにしてもすっかり朝になってから帰ってくることなど、今までにないことだった。
居間に一歩足を踏み入れた彼女は、素っ頓狂な声をあげた。
「あらぁ? 驚いた。もう起きてたの」
母親はちらりとも自分を見ないタケルの足元にバサリと新聞を放り、テーブルにコンビニで買ってきた菓子パンを置いた。いつも通り、定番の朝食だ。
「毎日こんなだったら起こす手間がないのに。じゃ、母さん寝るからね。ちゃんと学校行きなよ」
そう言って、さっさと隣の部屋に姿を消した。煙草と酒の臭いがプンプンしていた。
タケルは母の部屋を振り向きもせず、チッと舌を打つ。
母は煙草を吸わない。それが今日は客の煙草の匂いが移る以上に臭っているような気がして、嫌悪が湧いた。
「クソババァ……」
つぶやいて、タケルはなんとなく新聞に手にとった。ただ手持ち無沙汰でとった行動で、新聞に興味があったわけではない。
だが手にした瞬間、白抜き文字の見出しが目に飛びこんできた。
――――また自殺 同じ中学校で三件目
途端に記事に食らいつく。三人目の自殺者が出た中学はタケルの母校だった。
*
いつも一限目の始まるギリギリで登校するタケルだったが、今日は余裕で教室にたどり着いた。
一歩足を踏み入れると、扉のそばにいた女生徒達が息を飲み頬を染めて道を開けた。たったそれだけで、クラスメイトたちが一斉にタケルを見た。
神崎尊はこのクラスで一番背が高い。平均的な高校一年男子よりも十~十五センチほどは高いのだ。だから、注目を浴びるのは身長のせいだとタケルは思っていた。
もちろんそれも理由の一つだが、彼らがタケルを見てしてしまうのは整った容姿のせいだったし、この年頃特有のとんがった態度のせいだった。
スっと通った鼻筋、意志の強そうな形の良い眉、目は二重で大きく寝不足でできたかすかな隈が返って色気を感じさせる。
その恵まれた容姿で、鋭くガンを飛ばして高みから人を見下ろすのだから、威圧感は相当なものだ。
この目付きの怖さが災いするのか、遠巻きに熱い視線を送る女子はいても近寄る者は少ない。
一方、男子からの受けは良かった。
一種の近寄り難さを放ちながらも、なぜか人を引き付ける笑顔や気さくさも持ち合わせているからだろう。
自然とタケルの周りには友達が集まるようになっていた。
「うおぉ! 珍しいなあ。神崎がセンセーより先に来るなんて! 雪でも降るんじゃね? 今日も暑いから丁度いいや」
クラスメイトの柴田が冷やかした。女子達は、それを聞いてくすくす笑っている。
「うっせー」
特に腹を立てたわけでないが、目覚めの悪さから機嫌の悪いタケルは憮然としながら学生カバンを、ダンッと机に叩きつけた。
それは、斜め前の席の武田が丁度椅子に手をかけたところだった。
一瞬タケルと目が合った武田は、体をビクッとこわばらせて、それからさっと目を伏せて自分の椅子に座った。
武田はタケルの肩ほどの身長の猫背の痩せた少年だった。口数が少なく目立つのを嫌うタイプだった。
武田はタケル目が合ったことにで、明らかに怯えてている。
タケルはその様子に苛立ちを覚え、武田の椅子をドッカと蹴飛ばした。なぜだか武田に対してだけは、冷酷だった。友達を惹きつけるタケルの美点は、武田の前では全く発揮されないばかりか、残酷な部分がだけが前面に出てくる。
「おい。俺が早く着ちゃいけねぇのかよ」
武田は椅子の位置を静かに直し、背を丸めて黙って座っている。
「すっげームカつくんだよ! お前!」
タケルはもう一度、ガンッと椅子の足を払うように思い切り蹴った。すると、武田は椅子と一緒にあっけなく床に転がった。タケルはそれを見下ろし、にらみつける。
「かっはっは!」
柴田や、他の男子たちがそれを見て大声で笑った。
誰も驚いてはいなかった。これは、いつものことなのだ。
「なあ、やめとけよ、神崎ィー。朝っぱらから絡むのはさあー」
と柴田がニヤニヤ笑って言った。
遠巻きに女子もこっちを見て、こそこそ何か言ったり笑ったりしている。
自分の粗暴な態度を、笑っているに違いない。嫌なヤツだと貶しているんだろう、そう想像してタケルはまた苛立ちを感じる。
武田は何事も無かったように立ち上がり、また椅子に座った。
途端に、タケルは頭にカッと血が上るのを感じた。
なぜ、何も言い返さない。なぜ、やり返さない。悔しかったらやり返せ!
武田のやる気のない諦めきった態度が、タケルの自尊心に矢を突き立てる。いっそ、むちゃくちゃに殴ってやろうかと思った。
その時チャイムが鳴り、みな席につき始め、タケルは武田を殴る機会を失った。
ドスンと椅子に座ると、蹴られた腹がまた痛んだ。
無様だ、そう思った。
朝から続く嫌な気分は、放課後になっても消えなかった。
なんだかわからない悪夢、大沢に蹴られた痛みと悔しさ、そして意味なく武田に絡む自分、全てが気に入らない。
胃を締め付けるような不快感が、ますます募ってゆく。
タケルはムカムカする胸に手を当てた。
今朝の新聞を思い出す。
次々に自殺していった、中学生のことを思った。
アイツらはなんで死んだんだろう、あの学校で何があったんだろう、と思いをめぐらせる。自分もつい四ヶ月前までそこにいたのだが、極普通の学校で何も変わったところなど無かったと思う。
不思議だった。
死んだ一人は、部活の後輩だった。自殺などとは縁遠い、朗らかで快活で友達も多くて人気のある奴だったと思っていたのだが。
もっとも、内側に何を抱えているかなんて他人には解りはしないのだ。
アイツなりに死ななきゃならない、何かがあったんだろう。だから死んだんだ。
そう結論づけ、ふと死んだ後輩に何の憐憫もわかず、自殺も否定していない自分に気づきゾクリと身震いした。
「神崎ィ! 帰ろうぜ」
柴田が呼んでいた。
おうと答えて足を向けると、背中を固くして座っている武田が目に入った。
タケルより先に教室を出ることに失敗したらしく、できればこのまま何事も無く、タケル達が教室から早く出ていってくれるのを願っている姿だ。
またイライラがこみ上げてきた。
黙ってカバンを肩まで持ち上げ、タケルはわざと後ろを通る。そして、カバンをブンと振り回して、武田の横っ面に思い切りぶち当てた。
バチン!
予想したよりも派手な音が響き、タケルは思わず舌打ちする。
武田は、小さく悲鳴を上げ耳を押さえて机に突っ伏してしまった。その背が震えている。
「あ~あ。またやってらあ」
柴田は、軽く笑うとタケルの肩に腕をまわして言った。いつもニヤニヤと軽薄な笑い方をする柴田だったが、さり気なくタケルをエスカレートさせないようにしてくれている。
「あんま、アイツに構うなよ。チクられるぜぇ?」
「チクらねーさ。だよなあ、武田ぁ……」
タケルは背を向けて言った。
今武田がどんな顔をしているか、タケルにはよく解っていた。
口と目をぎゅっと閉じている。微かに唇が震えている。思い切り首を垂れ、誰にも顔が見えないようにして、歯を食いしばっている。
その後、全く逆らう気はありませんといった媚びる表情を作ってから、顔をあげるのだ。
それは、いつもタケルが大沢の前でする顔なのだ。
タケルはもう一度、胸にそっと手を当てた。
こんなことをして何になるんだろう、気が晴れるわけでもないのに……。