プロローグ
見てはいけないものを見てしまった。
タケルは、足がもつれて転びそうになりながらも必死に走っていた。
ガチガチと歯が鳴っている。背中に冷水を浴びせられたような悪寒が止まらない。それでも懸命に走るのだった。
駅前のアーケード、人通りの多い商店街の中を、冷ややかな視線など振り切ってタケルは走った。人にぶつかろうが、立ち止まるわけにはいかなかった。
「お前! お前! おまえおまえおまえおまええぇぇぇ!! おま、えぇ!! うわおおぉぉあぁぁぁ!」
背後で男がまだ叫んでいる。不潔でだらしない格好の中年の男だった。だが、その声がタケルを追ってくる様子はない。
その事に少し安堵した。
そいつはイカれた男だった。眼の焦点が合わず、突然わけの分からないこと叫びだし、一目で頭のネジがぶっ飛んでいると分かった。
だが、タケルが恐れたのはその男ではない。男の頭上にいた、ナニカだった。
白い靄のようなものが浮かび、その下の方はしっぽのように細くなって、男の首にグルグルと巻き付いていたのだ。
それを見つけた時、一体アレは何だと訝しみ目を擦ったが、見間違いではなく確かに白い靄が浮かんでいるのだ。
だが、周囲には全く見えていないようなのだ。多くの人が奇声を上げる男を遠巻きに見ていたが、靄のことを口する者は一人もいない。タケルにははっきりと見えているというのに。
思わず身震いすると、突然と靄が変化した。
ブルルと渦巻き密集したかと思うと、それは小さな人型となったのだ。全身が真っ白な小人のようなモノに。
それがタケルを、見た。
ドクン!
タケルの背骨の中を、ギュンと刺すような悪寒が一気に脳天まで突き抜ける。凶々しい血の色をした眼が、タケルを射貫いていた。
肌も髪も真っ白で目だけが真紅に光るソレが、ニタリと笑ったのだ。
「う、うわあぁぁ」
呼気とともに情けない声がこぼれるた。
ガチガチと歯を鳴らしながら、タケルは走りだしていた。
頭の中でガンガンと警報がなっている。
逃げるんだ。逃げるんだ。
早く。早く。早く!
理由など分からないが、捕まってはいけないと本能が告げている。一刻もはやく逃げなければならないと。
さっきの男は頭がイカれてる。絶対にそうだ。普通じゃなかった。だが、いくらイカれていてもあの男は人間だ。単に心を病んだ人間なのだ。
でも、アレは……違う。
あの男の上に浮かんでいたモノ。
アレは?
一体何だ?
あの男以上に、異様なモノ。尋常ならざるモノ。この世ならざるモノ。
あれは、魔だ――――。