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短編No.61-

No.70 Life Eater

作者: 藤夜 要

 ――ネットで【寿命】【売買】【死】を検索すると、まるでブラクラみたいに画面が隅からフェードアウトしていって、“例のサイト”へ飛べるみたいだよ。

 ただ、いつでも飛べるわけではないみたい。

 そのタイミングにアクセスすること自体が難しいようだけど、試してみる価値はあるかもね。

 もし、あなたが自分の命に価値があると思っているのなら――。




 倉田和子はごく普通の主婦だった。名前からしてまず平凡だし、一男一女の母親で専業主婦、というプロフィールも巷に溢れている類のもの。

 とは言っても子供たちはどちらもとうの昔に巣立ち、数年前に自分の家庭を作った。だから母親と言う肩書も、和子自身としては形骸化している感が否めない。

 まだ孫はいない。どちらの子も「このご時世に次の世代を生むことが、果たして生まれ来る命にとってよいことなのか悩んでしまう。結果、伴侶と共になんとなく夫婦水入らずで過ごしている」と口を揃えて言う。

 和子の夫は一流企業を七年も前に定年退職した。仕事の虫だった彼は二年前まで嘱託として働き続けていたが、とうとうお払い箱になり、今は営業で培ってきたゴルフを趣味に変えて遊んでばかりいる。

 和子はバブル崩壊直後に就職したクチだが、夫はバブル全盛期のころに社会人となった、言ってみればまだ昭和の在り様に拘りを持つ世代だ。


 昭和の在り様。

 男は仕事で女は家事。男は一家を外から守り、女は一家の内側を守れ、という暗黙の因習。


 そのため和子は結婚が決まった当時、当然のように寿退社させられた。夫のみならず、彼と自分の両親双方までもがそれを望み、当たり前とばかりに「会社の都合もあるだろうから、退職願は早めに出すように」などと言ったから。

 夫とは一回りも年が離れている上に夫が遅蒔きの嫡男だったこともあり、新婚早々の和子を待ち受けていたのは舅の介護だった。結納時にはそんなことを一言も告げられないまま釣書を交わし、「父は少し体調を崩しているので」とだけ言われ、舅の代理として本家に当たる夫の従兄が和子の実家を訪れた。どちらかと言えば能天気な気質だった和子の両親は特に深く追求することもなく、結婚式の時に初めて夫の父親が介護を要する人だと知った。

 だが揉め事をことのほか嫌う和子の両親は、憤慨しつつも「今更遅い」と離婚を認めなかった。そんな親に育てられた和子が夫に離婚を申し出られるはずもなく。

 ただひたすら、倉田家に尽くす日々を送った。

 第一子懐妊の折には、舅から「男でないと意味がない」と素っ気なく報告を受け取られ、姑には苦笑いをされるだけで何のフォローもなかった。

 そんな両親のもとで育った夫が例外的に和子の人権を認めるはずもなく。

「取り敢えず、まずは男でよかった。女だったら親父に弁解の余地もないからどうしようかと思った」

 難産の末、長男の晃を産み落としたときの、夫の第一声がそれだった。初めて晃を見に来たのは、退院する日、父親に対する沐浴指導の時間ギリギリの時刻だった。その沐浴指導が家庭内で実行されることはなかった。


 時代は平成だ。共稼ぎが当然の世の中になっている。

 和子は、子供たちにだけは精神的物理的苦痛を味わわなくて済むようにと考え、晃にも家事をよく手伝わせた。

 夫はそれが気に食わなかったらしく、和子は晃に家事を教えているところを見咎められては叱られていた。

 男とは。

 女とは。

 家長制度の崩壊が個人主義に拍車を掛けた――云々。

 和子はひたすら耐え忍んで聞いた。長時間にわたる正座のまま微動だもせずに俯いて、夫の気が済むまでじっと耐えてその場をどうにかやり過ごす。

「俺の言っていることが解るか? おまえを妻として認めているからこそ、家族とは、役割とはどうであるかを諭しているのだ」

 それは夫にとって、和子への愛情表現なのだと言う。本気でそう思って叱っている。

「おまえは社会に出て一年足らずで家庭に入った世間知らずだ。だが教えればちゃんとこなせる。そこは評価している。俺はおまえを妻として誇りに思っているのだよ。解るかね?」

 子供たちが眠った後の長い説教のあと、夫は気が済むとそう言って和子を抱いた。それを愛情だと和子自身も思っていた。夫は古い考えなだけで、愛情表現もまた古いだけなのだ、と。

 結婚前までの自分が奔放過ぎたのだ。

 自分の足で生きていきたい、だなんて。

 人生のパートナーとは対等でありたいだなんて。

 末っ子で甘やかされて育って来た自分だから、世間知らずの私が悪いのだ。

 そう言い聞かせる数十年の結婚生活だった。


「母さんも自分の意見をはっきり言い返せばよかったのに」

 晃が苦笑いを零しながらそう言えるような年になるころには、もう遅過ぎた。

「そういう時代じゃなかったのよ」

 くたびれた表情にしがちな後れ毛を耳に引っ掛けながら、和子は可能な限り疲れを隠して晃に苦笑を返す。

「ダンナの教育がマズかったよね。でも~、お父さんには言えないよねえ、あのキャラだもん。未だに“誰のおかげで快適な老後生活を送れているんだ”でしょ? そんなの会社が一流なおかげで年金支給額がいいから、ってだけじゃない。別にお父さんの功績でもなんでもないのにね」

 と、長女の良子が加勢なのかトドメなのか解らない合いの手を入れる。

「お兄さんは長男だから、男同士だからそんなことが言えるのよ。お父さん、お兄さんは跡継ぎだから、って何かと甘かったから。私やお母さんはお父さんに言い返す権利もなかったわ」

「そうかあ? 良子が奔放過ぎるから親父も何かと小言が多かっただけじゃね? 娘は父親にとって最期の恋人とか言うじゃん。良子の泣き脅しって、親父には未だにかなり利くよな。芝居とも知らずにさ」

「芝居って何よ。失礼ね」

「だって、あれがなかったら、あの安月給な亭主との結婚にOKはなかったと思うよ」

「ひどい。安月給なんかじゃないわ。お父さんやお兄さんが全国民のうち上位10%の高給取りな会社に勤められているってだけじゃないの。庶民なのよ、ウチのダンナも、私の感覚も」

「俺も同じ親に育てられてるんだけど。どうしてこうも性格が違うかな」

「お父さんに似たんでしょ。私はお母さんに感性が似ててよかったわ」

「おまえな、言っていいことと悪いことがあるだろ。いくらなんでも俺はあそこまで偏屈じゃない」

「お兄さんだって、お義姉さんを家の中に閉じ込めてるくせに」

「閉じ込めてるだと!? おまえな、言い方ってものが」

「まあまあ、もうその辺にしたら? 良子、あなただって自分の家庭のスタンスに干渉されたら嫌でしょう? 茜さんが好んで専業主婦をしているのだから、それは失礼な憶測よ」

「またお母さんはお兄さんの味方する。だから早くこの家から出たかったのよ」

 良子は不満げにそう述べたかと思うと、「ダンナが待ってるからもう帰る」と自宅へいそいそと帰ってしまった。

 玄関先から良子を見送ったあと、知らず和子の口から溜息が出る。

 二人とも道を踏み外すことなく無事社会人として巣立ってくれた。こんな不出来な自分の割にはいい子に育ったと思う。思うけれど。

「はぁ~……私の人生、なんだったんだろう」

 良子の背中が見えなくなってから、一人ごちたつもりだった。

「どしたの、急に」

 背後から急に晃がそう言うので、びくりと大きく肩が上がった。

「やだ、聞いてたの。ごめんなさい」

「またすぐ謝る。娘息子が一度に独立しちゃって空の巣症候群? の割には何年も経ってるよね」

 晃はまだ帰らないでくれるらしい。和子に背を向けてリビングへ一足先に戻る仕草を見せたので、和子もそのあとに続いた。

「晃の言う通りね。始めが肝心。今更言っても遅いけれど、もっとお父さんに自分の考えを主張すべきだったわ。今となってはウッカリ病気にもなれない。寝込んだところで出前の取り方一つ知らないもの」

 良子の不満も解る。何かあれば当たり前のように夫が彼女を呼びつけて自分の世話をさせるから。和子としては嫁ぎ先のご両親に申し訳が立たない。嫁いだのだから外に出た者だというのに、何かにつけて里側があれこれと……。

「だから良子が就職するとき、これを機に離婚したら? って言ったのに」

 と晃が呆れたように爆弾発言をする。当時は晃がその場のノリで口にしただけだとばかり思ったので、和子は今更ながら晃の提言を聞き流したことに少しばかりの後悔を覚えた。

「だって、二十年以上も専業主婦だったのよ? しかも買い物一つとっても外から電話が来て時間をチェックされたりしてたんだもの。ご近所の方と世間話をする余裕もなくて。資格を取りたくても“俺の給料だけで充分やっていけるだろう”なんて言って何も取り柄がないままだったし。独りでやっていける自信がなかったのよ」

「ま、そう言われてみれば、そうか。俺も当時は母さんを養えるほどの給料じゃなかったし」

「イヤよ、そんなの。それこそ、親、それも母親付なんて思われて結婚すら危ぶまれていたかも知れない」

「いやいや、今はそういう時代でもないから。親と同居してる奴、結構多いよ。家賃が浮くじゃん?」

「今の若い人は、光熱費や食費しか家に入れないの?」

「そんなのすら入れないよ。それしてたら同居の意味ないじゃん」

「呆れた。晃や良子はまっとうに育ってくれて、本当によかった」

「そうそう、ウチは母親がそういうトコしっかりしてるから。茜のおふくろさんが、特に可愛がってくれるよ」

 だからもっと自信を持ちな、と息子に慰められる始末とは。

「……やあね、更年期かしら」

 堪え切れずに零した涙を、そんな言葉で誤魔化した。晃は少し驚いた表情を見せたが、やがて困った笑みを浮かべて「まだそんな年じゃないだろ」と、どこまでも優しい嘘をついてくれた。


「あ、そうだ。母さん、ネットはするんだろ?」

 帰り際、晃が玄関で靴まで履いたのに、思い出したように振り返ったかと思うと突然スマホを取り出した。

「今、メールで送っておいたから。宝くじ気分で検索でも掛けてみな」

「何を?」

「Life Brokerってサイトにアクセスできたら儲けもの」

 どの検索サイトで検索してもいいらしい。特定の文字の並びで検索を掛けると、そのサイトにアクセスできるという。アクセス可能なのはとても稀で、時間帯も一定ではなく、IPなども関係ないそうだ。

「――っていう、都市伝説だけどな。もしアクセスできると、その運営人と交渉できるらしいよ」

「交渉って、なんの?」

「自分の命の価格を査定してもらって、必要な金額分だけ寿命を削る代わりに依頼を遂行してくれるんだって」

 ぞわりと背筋に何かが走った。だがそれは一瞬だけのことで、和子は「風邪でも引いたのかしら?」程度にしか思わなかった。

「何よ、からかってるの? 命の価格とか寿命を削るとか……あら?」

 ふとどこか既視感を覚えた。そんな思いが顔に出たのか、晃がニヤリと少し意地悪な笑みをこぼす。

「思い出した? 俺が高校の時に嵌った小説の内容」

 あ、そうか、とすぐさま思い出す。ライトノベルなるジャンルの小説を好んで読んでいた晃と少しでも親子の会話を持ちたくて(当時は反抗期真っ盛りだったので、晃を理解しようと必死だった)、話題作りのためにお勧めの本を貸してくれと言って借りた本の一つがそんな類の話だったのだ。

「思い出したわ。でも確かあの小説だと、寿命か時間か健康、と選択肢があったわよね?」

「そこはほら、時間だの健康だのじゃあオカルト感が出ないから、寿命に限定してるんじゃね?」

 母さんの命を見積もってもらえば、と冗談百%で笑った晃は、少し照れ臭そうな顔を背けて扉に手を掛け、

「母さんには結構な値打ちが付くと思うよ」

 とついでのように付け加えてから自宅へ戻って行った。

 そのときの和子はそれだけで充分に満たされた。そんな子供じみた遊びに興じてみようなどと思ってもいなかった。




 一人になったリビングでパソコンを立ち上げてみる。晃や良子が丁寧に教えてくれたおかげで、どうにかパソコンは扱えるようになった。だが、未だにスマホは入力方法に慣れないので、ついついパソコンに頼ってしまうのだ。

「【寿命】【売買】【死】、やだ、不吉な文字の羅列。えぇと、このままコピペ? カッコを含むこと――と」

 遊び半分で検索を掛けてみたが、特にこれと言った変化はなかった。

 何かに期待している自分にふと気付き、妙な恥ずかしさや罪悪感ですぐにパソコンの電源を落とした。

「命の査定をしてもらって、それで私は何を依頼しようと言うのかしら」

 ぞわり。

 また悪寒が走った。風邪が悪化したら大変だ。また夫が不機嫌になる。風邪が伝染るとか、また良子の芳しくない味付けの飯を食わないといけないのか、とか。また父娘の冷戦が始まったら、良子が実家に寄りつかなくなってしまう。そんなのは、とても寂しい。

「……疲れる」

 夫の機嫌取りに神経をすり減らす生活には慣れていたはずだったのに。和子は今日に限って酷い疲弊を感じた。


 Life Broker、というサイトの存在を知ってしまったからだろうか。

 和子はその日を境に、夫の言動一つ一つが妙に癇に障るようになってしまった。

「和子。ブルーのチェック柄のシャツはどうした」

 ふらつく身体をどうにか動かして、庭の水やりをしている和子の背中に不機嫌な声がぶつけられた。

「ブルーのチェック柄……昨日ゴルフに着ていかれた服ですよね。それなら今朝洗濯をしたばかりで」

「乾いてないのか。なぜ昨日のことを昨日のうちに済ませなかった」

 帰りにゴルフ仲間と飲んで来て、帰って来たのは日付が変わってからじゃないか。

 いくら戸建とは言え、洗濯場がお隣と隣接した間取りなのだから、深夜に洗濯機など回したら迷惑じゃないか。

「……すみません。急いでアイロンを掛けて乾かします」

 すべての不満を呑み込んで、和子は頭を下げて謝罪した。それこそ、軽い謝罪ではなく夫の正面に向き直って深々と。

「ああ、もういい。グリーンのシャツを着ていく。それよりも、出しっぱなしの水がもったいないだろう。年金暮らしなのだから、もっと考えて物事をしなさい」

 適当に対応したら、それはそれで怒るくせに。

 別の服でもいいなら、いちいち言わなくてもいいじゃないか。

 和子はそんな不満も腹の中に押し込んだ。

 その日、和子はゴルフの打ちっぱなしに行くと出て行った夫を見送ると、急いで病院を受診した。

「逆流性食道炎……ですか」

 このところ胸焼けが酷いので、過食気味かと考え食事を控えていたのに。

「症状が明らかに逆流性食道炎と思われますが、まだ確実な診断ではありませんので、内視鏡検査の予約をしましょう」

 ストレスや加齢も発症の原因らしい。和子にとってはどちらも受け入れがたい理由だった。

 夫に内視鏡検査の件を話したら、また小言が始まった。「いい歳をして健康管理もできないのか」「気が若いのもいいが」云々。

(誰のせいでストレスが溜まっていると思っているのよ)

 ふと浮かんだ自分の言葉に和子自身がぞっとした。

 自分を養ってくれた夫に対して、今自分はどんな感情を抱いた?

「おまえももう五十七だろう。ストレスも原因だそうだな。晃や良子に媚びるのもいいが、ネットのし過ぎが心身ともに負担が掛かっているのだと思うぞ」

 まだ診断結果どころか検査も受けていない内にネットの使用を制限された。

 結果、やはり逆流性食道炎だったことで、夫の不在時にはネットの利用を禁止されることになった。夫がいる時には、彼の管理下の許でのみネット利用を許される。

 それはとても少ない時間で、大物雑貨や産直食品の通販だけでタイムアップが来てしまう。

(唯一の社会との窓口だったのに)

 遂にはネットのSNSを通じて仲良くなった、晃や良子と同世代の友人たちだけでなく、和子と同世代の主婦仲間からさえも連絡が途絶えてしまった。

 今どきの若者世代をどう理解して息子夫婦や娘夫婦に接したらいいのか、同じ目線や若者世代の目線からたくさんのアドバイスを聞かせてもらえたのに。まだそんな彼女たちになんの恩送りも出来ていなかったのに。

「ネットの繋がりなんて、こんなものよね」

 晃や良子から常々そう言われていたから、解ってはいたことだけれど。

 これからよき母親であるために、どこから情報を仕入れたらいいのだろう。ご近所の方とは話し慣れていない。夫の独占欲は近所でも有名になっているらしいので、面倒臭がられているのだと思う。いつも挨拶程度で早々に家の中に入ってしまうから、和子はいつもゴミ捨てや敷地周辺の掃除をしていても、最後には結局一人になる。

 不意に強い孤独感が和子を襲った。

「私の人生って、なんだったんだろう」

 和子の中でそんな思いが日を追うごとに膨らんでいった。




 それ以来、和子の見た目の老いが急に加速し、二年を過ぎたころにはまだ還暦前なのに、一回りも年上の夫と同世代に見間違えられるほどになってしまった。とは言っても、行き着けていない店などで店員にそう言われて一人静かに落ち込んでいるだけなのだが。

 すべてを把握していないと気が済まない夫なので、日記に愚痴をまき散らすこともままならない。中途半端に前向きな人なので、ネットなどは和子と同じくらい知識がある。だからコミュニティにこっそり、というわけにもいかず、和子は益々鬱屈としていった。


 そんな矢先、夫が怪我をした。ゴルフ仲間たちとハーフを回っている途中で、砂場に足を取られて転倒したらしい。大腿部骨折という予想以上に大きな怪我をしたがために、入院する事態となった。

「だからあんな安い靴ではダメだと言ったのだ」

 手術を終えて目覚めるなり、夫はそう言って和子を罵倒した。

「たった二万をケチるから、何万もの入院費が掛かってしまったんじゃないか。そんなみみっちい想いをさせるような暮らしをさせてはいないはずだぞ」

 痛みが夫を余計にイライラさせているのだろうと理性は和子をなだめるが。

「値段を気にしてあの靴を買って来たのではありません。前の靴と同じだったから、お父さんが履きやすいと思っただけで」

「嘘をつけ。モデルチェンジした同シリーズの靴があったはずだ。俺はそれを買ってこいと言ったのに、おまえがケチるから」

「……履き心地が確かな靴を、と思っただけです。翌日には使うと仰っていたから」

 靴擦れの心配は否めないが、せめて少しでも不快にならないようにと思ったのに。

「……そもそも、急に新しい靴が欲しいなんて前日に言われても」

「なんだと? 今、なんと言った?」

 夫の低く唸るような声に、和子はびくりと肩を上げた。

「いえ……気が回らなくて、すみません、でした」

 俯いたまま更に頭を低くし、呻くように謝罪を口にする。口惜しさで歯が勝手に下唇をきつく噛んだ。

「まったくだ。動けないだけで、どこも悪くないのだから、俺が麻酔で眠っている間に雑誌の一つでも買っておいてくれればいいものを、それすらない」

 和子の中で何かがプツリと切れた。

「すぐに」

 今はゴルフ関連のものは避けるべきだろう。また不愉快な靴のことを思い出すから。ならば何が?

「日経関連の雑誌と、それから時代物小説がお好きでしたね。新刊の時代小説を数冊見繕ってきますが、それでよろしいですか」

 和子が恐る恐る述べると、夫の上がり切った眉尻がやっと落ちた。

「さすが和子だな。俺の欲しい物がすぐ解る」

 その笑顔を見ても、ほっとするだけで。

「じゃあ、下の売店で見てきます。十五分以内には戻りますから」

 そこに自分への愛情は一切感じられなかった。

 ――私は、あなたの母親じゃない。

 和子の中でそんな言葉がいつまでもぐるぐると回っていた。


 夫の入院は思い掛けない幸運だった。

 久し振りにネットを繋いでみる。だが、かつてのネッ友たちの発言にはもう入れなくなっていた。自分から声を掛けてみても、前ほどは反応してくれないのだ。

《Kさん、久し振り》

《てっきり引退したのかと思っちゃった。メールも返事がなかったし。病気してた?》

 その第一反応には心が舞い踊った。

《夫の制限が更に厳しくなっちゃって》

《ゴルフで骨折をして、昨日から入院しているの》

 話題を提供したつもりだった。会話が弾めば口には見えない言葉を選んで泣き言の一つも言えるかも、と。

 だが、それっきりだった。皆の関心事は孫の成長だったり息子の嫁と喧嘩をしたなんて愚痴をストレートに語っていたり。

《あ、そろそろ病院へ行く時間だから。また、いつか》

 そのいつかはもう来ないと解っていつつ、和子はそんなメッセージを入れてコミュケーションサイトのグループルームから退室した。

 それから退会ボタンを押す。一時間ほどネットサーフィンをして時間を潰してみたけれど、誰からもメッセージは来なかった。

 ネットの繋がりなんて、こんなもの。

 そんな言葉が和子の乾いた心を更に固化させた。


「そう言えば」

 和子はふと思い出して、スマホから転送した晃のメールを開いた。

 広げた本文から【寿命】【売買】【死】の部分だけをコピペする。

 とにかく、誰かと話をしたかった。胸の内を全部吐き出したかった。

 だけど、晃や良子には心配や迷惑を掛けたくない。良子はさっき帰ったばかりで疲れているだろうし、晃は仕事中だ。嫁の茜に愚痴るなど和子の概念の中にない。

「……え?」

 検索ボタンをクリックし、いつも通りどうでもいい検索結果が表示されたところまでは変わりない画面の中なのに。

 まるでモニターの四隅から墨が滲むように、画面がブラックアウトしていった。

 真っ黒な画面に、ひときわ目立つ白抜き文字。


【あなたの命のお値段、お見積りします】

【お見積りを希望しますか?】

【Yes/No】


「何……これ」

 心臓がバクバクと老体に鞭を打つ。和子は少しためらったものの、Yesの方をクリックした。

 画面のメッセージが切り替わる。


【お名前をご記入ください。webネームで構いません】


 その下には真っ白なテキストボックス。和子はうっかり本名を入れそうになったが、コミュニティサイトで利用していた、名前の頭文字を取った『K』を入力して『次へ』のボタンをクリックした。

「わっ」

 思わず頓狂な声が上がった。突然真っ黒な画面がテレビカメラで映された奇妙な部屋の映像に切り替わったのだ。

 決して暗くはないが、明るいとも言い難い中途半端な照度。たくさんのろうそくが灯っている。画面の向こうに移された空間の光源がそれだけだと和子でも判った。

 その中央、つまり画面中央にはニコニコと屈託のない笑みを湛えた青年が、こちらをまっすぐ見つめている。晃よりも少し年上くらいだろうか。笑い方はとても人懐こい少年のような印象だが、目尻の小皺が薄暗くてもうっすらと解るので、三十代半ばくらい。石の祠を思わせる空間にはそぐわない黒いスーツをだらしなく纏い、前ボタンは開けっ放しだ。髪も自分で適当に切ったかのようなギザギザで、だが不潔感はない。真っ黒なスーツに真っ白なシャツ、そしてその下に見える大きめの珠を連ねた数珠が、なんだかとても異質な雰囲気で目立っていた。

『Kさん、驚きましたか? カメラもマイクも設置していないのに、どうしてこんなものが映るんだろう、って』

 とても穏やかで優しいテノールの声。まるでテレビでときおり耳にするカウンセラーのような語り口調だ。

 なぜか急に警戒心や恐怖心が和子の中から掻き消えた。

 そして和子の意思などお構いなしに、涙がポロポロ、ポロポロ、と後から後から溢れて来る――止まらない。

 そんな自分の変化に驚き、そしてひどく恥ずかしい気分になった。

「す、すみません。ちょっと、自分でも」

『ああ、そうでしょうね。お気になさらず。全部俺がさせていることですから』

 青年はまた不思議なことを言う。そもそも、このやり取り自体がオカルトだ。

「あ、の」

『まずは簡単にご説明からさせていただきますね』

 青年はそう言って、現状の説明から始めた。

 彼は名もなきブローカー、という自己紹介の仕方をした。生い立ちなどは語らなかったが、彼の特異体質なのか特殊能力なのか、とにかく、彼の霊力らしきものが現在の通信方法を取らせているらしい。

『だから、マイクもカメラも必要ないんですよ。今、あなたの声や映像を受信できるのは、あなたが強い信号を発しているからです。俺はそれを受け留め、それを辿ってあなたに返信してる、そういう感じです』

「信号……返信……まるでネットの回線と同じようなものなのね」

『ですね。あなたの中に疑念が生まれたら、突然回路が切れると思うので、その際はご勘弁くださいね』

 むしろそんなときは、自分が彼に疑いを持ったから、ということだ。

 なのに彼は深々と一礼して前謝罪をした。和子は彼のことを、人の心を思い遣れる好青年だと思った。

「いいオバサンなのに、いきなりみっともない姿を晒してしまって。こちらこそ申し訳ありませんでした」

『ああ、そうだ。そっちの説明もまだだった』

 フランクな口調になった彼と話していると、なんだか今の怪奇現象が普通のことのように思えてしまう。

「そっち、ですか」

『ええ、涙の理由、と申しましょうか。今Kさんが最も強く感じている思いが、身体を使って表現することであなたの表層に訴えているのです』

 泣きたかったのではないですか。

「――ッッッ!」

 その言葉に感極まり、和子は両手で顔を覆った。

『あなたの堪えて来たものを、俺は全部受信しています。息子さんも仰っていたようですが、あなたが至らなかったわけではありませんよ』

 優しいテノールの声が、和子を癒す。今まで他人どころか家族にすらもらったことのないいたわりやねぎらいの言葉が、乾いた大地が水を吸うように和子の心に染みてゆく。

『すべて、受信しました。とても綺麗な命ですね、Kさんの命は』

 彼はそう言った後、少し遠慮がちに「顔を上げられますか」と和子を促した。

「……はい」

 鼻声でおずおずと答えて顔を上げると、黒スーツの青年が消えていた。

 代わりに画面の中央を締めているのは、真っ白ですらりと伸びた一本の蝋燭。小さな青い灯火がゆらゆらと揺れて今にも消えてしまいそうだ。

「これは?」

『あなたの命です。醜くもなく、すらりとまっすぐで白い、蝋の部分があなたの本質です。炎の照度や大きさが命の勢い、と言えばいいですかね。まだ不安げに揺らいでますし、力が弱い。さっきまで蝋の部分が薄灰色だったんですが、今はすっかり綺麗になりました』

 画面にもう一本の蝋燭が白い蝋燭の隣に置かれる。

『さて、こちらは誰の命でしょうか?』

 敢えて尋ねるのは意地悪だと思った。

「……」

 皿に大半が解け落ちた、汚い黒と灰色のまだら色。それが蝋の部分。だが、火の勢いは衰えを知らず、不完全燃焼の橙を大きく揺らめかせている。まるで怒り狂っているようだ。

『もうすぐ燃え尽きる命ですが』

 和子の夫の命だと彼は無機質な声で回答を述べた。

『嫉妬と支配欲、それから現実と理想のギャップに悶え苦しんでいる命ですね、Kさんのご主人は。皆を憤怒の感情で支配し、だけど心を許してもらえないので満たされない』

 その汚い蝋燭に相応しい装飾語を並べる彼は、それを夫だと言う。

「でも、とても孝行息子でしたし、義父が半身不随になったときには、義姉たちが嫌がる中、夫が引き取ると啖呵を切るほどで」

『それは、ゆくゆく配偶者に面倒を看させるつもりだったからでしょう?』

 ぎくりとして、肩が上がる。若い頃、何度も過ぎった和子の醜い予測を言い当てられた錯覚に陥った。

 自分の中でよしとしない汚点を暴くかのように、青年が淡々と“私見”を述べる。

『理想で塗り固められて育ったご主人は、いざ実際に介護となるととてもではないが働きながらなどできないと痛感した。そこで初めて、世間知らずな割には気働きがよく利く、素直な新人の部下を意識した。殊更に純朴で平凡な彼女に、免疫のなさそうな美辞麗句を並べ立て、あからさまに好意をアピールする。時には無自覚なまま上司と部下という関係をちらつかせながら、じわりじわりと彼女を追い込み、外堀、つまりあなたのご両親の懐柔から掛かるという周到さ。なかなかどうして、女性遊びをこなされていたわけでもないのに、お父さま直伝の落とし方を踏襲していて巧みでいらっしゃる』

 そう、だったのか……。

 仕事上の指導と称して食事や飲みに連れ出されたのは、上司としての温情ではなく、落とすため、だったのか。それのお蔭でほかの女子社員からあることないこと噂をばら撒かれた。引けない状況の中、当時課長だった夫は部長に呼び出され、こともあろうか「交際している」と勝手に弁明された。部長からこっそりと冷やかされた和子が粟を食っている間に、いつしかその噂もまた広まった末に社内で公認の仲になってしまった。

 愛するが故の暴走と観念したのは、自分の誤りだったのか……揉め事から逃げたせいで。

 沸々とこみ上げてくる、この感情はなんだろう。

 そんなことを考えながら、ぼんやりとモニターへ視線を戻してみると。

「なにを……してらっしゃるん、ですか」

 尋ねる和子の声は震えていた。

 青年が和子の命だと言った蝋燭の蝋の部分に歯を立てている。ほんのわずかに削り取られたそれを、彼は美味そうにクチリと噛み潰した。

『綺麗過ぎると無味無臭でマズいんですよね。このくらいが丁度食べごろだ』

 さっきまでと同じ、屈託のない少年のような笑みなのに、和子はそう言って口を拭う青年を見て、背筋をゾッと凍らせた。

「あ、の」

『大丈夫、この程度なら寿命に影響しませんよ。そうですね、あなたの命のお値段は、一日辺り、ご主人の残りのこれ、全部の五倍です』

「ご、ばい?」

 あの一流企業に勤めて厳しい出世争いの末部長職までの出世を果たし、皆が「あの人がご主人なら、老後の生活も安泰ね」と羨ましがられたあの人より、自分のようななんの取り柄もない平凡な主婦の命の方が五倍も高い命?

「からかっているんですか」

 考えるよりも先に、剣のあるそんな反駁が口を突いて出た。

 そうだ、バカバカしい。これは晃が言っていた、ハッキンなんとか、とかいう不正アクセスに違いない。

 急に現実に返った和子は、慌ててパソコンの電源を切った――はずなのに。

『からかってなんかいませんよ』

 電源ランプが消えたのに、まだモニターに彼が映っている!

「ど、どういうことなの!?」

 悲鳴に近い問いを吐き散らす。

『先ほど説明した通りです。パソコンやモニターは、あなたに認知してもらうためのアクセサリーでしかありません。もう認知してもらえたので電源は不要ですよ』


 ――依頼が来る日を待っています。


『次からは検索ワードに、あなたが私を呼ぶ時の呼称を追加してくださいね。なんと呼んでくれますか』

 思わずうっとりするほどの微笑を浮かべた青年が、甘ったるい声で和子に呼び名を決めて欲しいと申し出た。

「……ジュズ、さん」

 首に掛かった大きな数珠を見て、ふとそれをそのまま呟いた。

『了解です。あなたの寿命に大した影響を与えずにご主人の命、食させていただける日を待っていますね』

 彼――ジュズがそう告げると同時に、モニター画面が真っ黒になった。否、ただ電源が切れただけのことで、黒でさえない、ただの四角い箱……。

「……夫の命を、食べる?」

 腐った肉を連想させるあの蝋を、彼が食すことで死に至らしめると言うことなのか?

 ぞわり。

 また背筋にうすら寒い何かが走り過ぎる。

 だが、何かが違った。恐怖でもなく不安とも違うこの感覚は。

「……誰にも迷惑を掛けないで、夫から、解放も……される?」

 黒に限りなく近いグレーのモニター画面に、和子のゆがんだ笑みが映っていた。


 それから半月ほどが過ぎたころ、和子の夫は骨折とはまったく関係のない脳梗塞で急逝した。




 茜は独りぼっちの部屋で夫、晃の帰りを待っていた。彼の好きな夕食をメニューにして、ずっと待っていた。

 ブブ、とスマホが受信を通知する。テーブルに肘をついたまま舟を漕ぎ始めていたらしい。はっと顔を上げた途端に肘がテーブルから落ちて、危うく転倒するところだった。今は、転んじゃダメだ。自分にそう言い聞かせ、茜はそっと自分の腹をいたわるように撫でた。

《茜、起きてる?》

 茜はすぐさま返信を送った。晃に負い目を負わせるような言い方を避け、

《うん。明日返すDVDを見てた。帰るコール?》

 といつものようにさらりとした内容に留めておいた。もちろん、まだ夕食を摂ってないことは一切告げない。

《悪い。おふくろが飯を作って待っていてくれて、なんか断れなくて軽く食ったんだけど》

《そうなんだ。私も待ち切れなくて食べちゃったから、よかった》

《ごめん。事後報告で。実は結婚相談所で知り合ったって人を紹介されてさ》

(え……?)

 舅が死んでから、まだ三回忌も済んでいない。熟年用のプランもあるからと言って、姑が結婚相談所に登録したのは聞いていたが、早くないか?

《そう。いい感じの人?》

《うん。親父の遺産目当てじゃないと思う。小さいけど自分で会社を経営している人で、おふくろとは社交ダンスの趣味が合って意気投合って感じみたい》

《そうなの。あきくん、人を見る目があるから、あきくんが大丈夫そうな人と思うなら、とても喜ばしいお話ね》

《親父より却って気さくで話しやすい人だった。つい飲んじゃって、おふくろが酔い潰れちゃってさ》

 ああ、今日はだから実家に泊まるということね。

 茜は醒めた想いで晃の言葉を予測した。

《もう終電も終わった時間だものね。お客さまをお返しするのもなんだし、泊まって戴くのでしょ?》

《うん。さすがにおふくろと二人っきりにするわけにはいかないしさ》

《わかった。お疲れさま。でも、こう言ってはなんだけれど、よかったわよね。お義母さん、お義父さんが亡くなってからみるみる若返って、いろんなことを楽しめるようになって》

《それな。俺さあ、おふくろの若い頃の写真を遺影探しの時に初めて見たけど、本当はあんなに明るい笑い方が出来る人だったんだな、って。無理してでも離婚させて、俺が面倒みておけばよかった》

 そんなことをしていたら、今ごろ私と結婚なんかしていなかったくせに。

 茜はそんな文句を押し殺し、晃が目の前にいるわけでもないのに微笑を浮かべた。

《後悔した分、今からでも親孝行していきましょう。私もできるだけのことはするから》

《さんきゅ。俺、マジおまえを嫁さんにしてよかった。戸締りしっかりしておけよ。おやすみ》

《おやすみなさい》

「はぁ~……」

 疲れた手つきでスマホを置き、テーブルに肘をついて頭を載せる。

「……あきくん、いつからそんな口調になっちゃったか、解ってる?」

 離婚“させる”とか。“面倒をみる”とか。そんな上目線の考え方をする人じゃなかったのに。

 子供のことだって、育てていけるか自信がないからと言ったのに。

 義父が亡くなった途端、子供を欲しがり出した。彼が避妊しないで挿れていると判った瞬間、強く拒んだのに、強引だった。夫婦間でレイプなんて他人事だと思っていた。

 それでも妊娠が判ったとき、彼は久し振りに破顔した。仕事の邪魔にならないようにと気付かってメッセージに留めておいたのに、仕事を放り出して帰って来てしまい、困った反面嬉しかった。

 これでやっと茜と本当の家族になれる。

 そう言って抱きしめてくれたから、数ヶ月前に感じたその違和は、自分の不安がネガティブに物事を受け留めさせていただけだと思っていた。

 セックスができなくなった途端、晃は頻繁に実家へ帰るようになった。姑は姑で、第三の人生を謳歌するとばかりに昼間はカラオケサークルやご近所の人とのお茶会に出掛けるようになり、夕方から夜に掛けては社交ダンスの教室へ行ったり、自宅へ友人たちを泊めて騒いだり。

 妊娠するまでは、その給仕を茜がさせられていた。始めこそ快く引き受けていたが、次第に姑も晃も当然のように「今日も友達が来るらしいから」としか言わなくなっていった。

 子供がまるで自分を繋ぎ止める枷のように感じてしまう。

 この子さえいなかったら両親に離婚の意思を告げて支援を願い出ようと思ったのに。

 芽生えた命は既に、大きく存在を主張している。元気よく腹を内側から蹴るたびに、言い知れない喜びを覚えてしまう。

 この子のために、今の生活は捨てられない。

 今ほどではないにしても、実家へばかり足を向ける晃と少しでも時間を共有するために専業主婦を選んだことを今更悔やんでも遅かった。

 ネットで求人募集を見てみても、もう三十過ぎてからでは事務職がない。ただの事務経験だけで雇ってくれるかすら今は怪しい。

 血は争えない、ということなのだろうか。

 ふとそんな考えが、過ぎる。

 日に日に舅に似て来る晃に恐怖を覚えた。


 茜は今日も暇潰しにネットサーフィンで気を紛らせる。

 レシピサイトも一巡りしたし、気になるネット小説も読了した。ネットの子育てサークルに参加してみたけれど、もう自分が知りたい情報は知り尽くした感があって、ロムばかりだ。

 友人たちの大半は兼業主婦なので、姑のようにお茶会なんてものも夢のまた夢。

(そう言えば)

 ふと思い出した。随分昔のことだけれど、晃が笑い話として教えてくれた。


 ――命の値段を計るサイトだってさ。寿命と引き換えに、依頼を引き受けてくれるらしい。


 姑への気晴らしにそれを教えたら、いつだったか、妙な話をして来て、とうとう頭がイカれたのかと思った、なんて言って一時期とても心配していた。

 黒いスーツをだらしなく着た男が依頼を引き受けてくれるという。

 何を依頼したのかと言えば、夫を亡き者に、という物騒な内容で。

 でも、実際には入院中、人のいる中で亡くなったし、死因は脳梗塞だ。殺人ではない。

 それに姑は舅が亡くなってから数ヶ月の間は憔悴していた。実際に何かしらの手を下したわけではないと思うし、一時的に病的な妄想が過っただけだと思う。毎日見舞いと称した拘束で、病室に閉じ込められていたから。


 妙な好奇心が茜を駆り立てた。

 私の値段は一体いくらなのだろう?

 あきくんにとって、私はどれくらいの価値があるのだろう?

 依頼などする気はさらさらなかった。

 ただ、彼の母親から彼を取り戻し、昔の彼に戻って欲しかった。

 茜を一番に思い遣ってくれる優しい夫に。

 だって、姑には新たなパートナーが出来るんですもの。

 いつまでも息子が入り浸るなんて、それももうすぐ父親になると言うのに、みっともないわ。

 その程度の軽い気持ちだった。


『まずはあなたに謝らないと』

 茫然とモニターを見つめる茜に、黒スーツの男は、謝罪などという思い当たることなどまったくない言葉を口にした。

 まさか本当にそんなサイトが存在するとは思ってもみなかった。

 彼はおそらく姑にもしたのであろう説明を一通りすると、

『で、実は倉田晃さんの蝋燭を次の倉田の器へ移動させるとき、ちょっとばかり残っていたご尊父の蝋が混じってしまいましてね。食い残してしまったようで』

「そんな……そんなくだらない理由で、あきくんは」

 彼の父親のような横柄で傲慢な人間に変わってしまったというのか。

 問い質す茜の声が、自然と尖った口調になった。無邪気そうな顔を舌黒スーツ男は、今にも泣きそうな顔をしてこうべを垂れた。

『ごめんなさい。すみません。俺、命の灯を食べないと死んじゃうんだけど、でもこれは弁償だから、あなたの命を削らない状態で依頼を引き受けます』

「そんなものは要らないわ。私はただ」

 ただ……なんだった?

『あなたの命の価値を知りたい、だけ、でしたっけ』

 殊勝な仕草で顔を伏せていた男が、ゆるりと頭を上げる。

「……」

 なんという、極上の笑み。まるで現実世界には存在しないかのような美しい微笑だった。

『でも、あなたの価値を決めるのは、ご主人だけ、なのでしょう? ではなぜ、俺にアクセスしたんですか?』

 本当の願望を言ってみてください。誘惑するように男が言う。極上の笑みを湛えたまま、暴くように茜の瞳を覗き込む――ような、錯覚を覚えた。

「あの人にとって、本当は私って、どういう存在なの?」

 母親代わりなの?

 セックスもできる格安の専属家政婦?

 あの人にとって、一番大切なのは、誰……?

『承りました。今回のミスのお詫びに、その結果をあなたの前に提示させていただきますね』

 男は無邪気な表情に戻ると、一方的に通信を切った。

 茜の目の前にあるのは、黒灰色のモニターに映る、ぐしゃぐしゃの泣き顔になった自分自身の顔。

「……なん、だったの? 今の……」

 名前すら解らないその男が、幻にも関わらず、いつまでも茜の心の中に極上の笑みで居座った。




 岩場の洞窟を模したような空間で、黒スーツの男が一人、満足げに食事を楽しんでいる。

「ウマ……やっぱ、穢れのない命は絶品だね」

 と垂涎しながら齧っているのは、真っ白な蝋燭。少し太めで、なんとなくグラマラスな女体をかたどっているようにも見えるその蝋燭は、身体の中ほどが若干膨らみを帯びていた。

「気付いてよかったなー。蝋燭の数、半端ないもん。危うく見落とすところだった」

 男は中心に膨らみを帯びた蝋燭のそこへ口を付け、ガリリと思い切り歯を立てた。白くて太めのグラマラスな蝋燭以上の白が中から溢れ出す。まだ固形化していない白い蝋が、男の赤い唇を官能的に濡らし、そこで固まった。

「へえ、初めて食った。胎児でも、立派に一つの命なんだな」

 しかも、どんな綺麗に見える命よりも極上だ、と絶賛しながら舌鼓を打つ。

「あ~、でも、量が少ないな。まだお腹がいっぱいにならないや」

 男は自分を取り囲む蝋燭たちへぐるりと一瞥を向け、その中で特にゆらめきの大きな一本で視線を止めた。

「あれ、かなり綺麗な燃え加減だな。美味そう」

 男はその蝋燭を手に取り、そっと瞼を閉じた。

 聞こえる。心の叫び。今度は父を失った娘の嘆きだ。でも父娘にしては――。


【寿命】【売買】【死】


 キーワードが男の額にぽやりと浮かんだ。

 男はにこりと純朴な笑みをこぼし、ゆっくりと口を開いた。

「見積もり希望、呼称はみやぎさん。了解」

 男の前に、妙に艶めいた制服姿の少女が現れる。

『何よ、これ……うそ』

 その驚愕の顔などもう見慣れた。顔つきが違うだけで、毎回似たようなものだ。

「みやびさん、驚きましたか? カメラもマイクもオンにしていないのに、どうしてこんなものが映るんだろう、って」

 男は努めて穏やかな声でそう告げ、少女に隠れて、そっと舌なめずりをした。

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