刺激的な世界へ
果てしなく続く幸せ色の空があった。
それを眺めながら深い溜息をついている、年老いた夫婦がいた。
「あぁ、つまらん」
金髪の夫が つぶやいた。
「えぇ‥‥」
銀髪の妻が小さく うなずいた。
「まったく、退屈で死にそうだ!」
夫がイライラして声を荒げると、妻が隣りで、穏やかな笑みを浮かべて言う。
「あなた、いくらなんでも〝死にそう〟は、おかしいでしょう?」
夫は我に返ると、思わず苦笑いした。
「おっと‥‥すまん。しかし‥‥何とかならんのかこの状況は」
妻は、無数の虹が架かる美しい空をゆっくりと見上げると、遠い目をして微笑んだ。
「本当に‥‥不思議なものですねぇ‥‥。何の苦労もなく、何の心配事もなく、病気も貧しさもなく、究極の幸せを手に入れた、と喜んでおりましたのに‥‥」
妻も夫と同様、今の状況を受け入れられずにいた。
「まったくだ‥‥。この恵まれた暮らしが、こんなに つまらんものだったとは‥‥。
美味い物も腹一杯 食ったし、行きたい所も全部行き尽くした。好きなだけ遊び、好きなだけ眠り、何もかも自由に、やりたいことはすべてやった」
「えぇ、えぇ。そうでしたわね。本当に幸せでしたわ‥‥」
妻は楽しかった思い出を振り返り微笑み、夫は再び大きな溜息をついた。
「しかし、すべて終わった。すべてやり尽くした。今となってはもう‥‥することが何もない。何一つ残っていない」
「えぇ‥‥。ここまで幸せを極めますと、幸せボケで生活にハリがないですわ。こうなると、何か苦労や心配事の一つも欲しくなりますわね」
夫が大きくうなずく。
「何でもいい、何かこう‥‥刺激が欲しいんだよ!刺激が!とにかく、この幸せ漬けの退屈な毎日がたまらんのだ!おまえ、何か良い案はないのか?」
夫がまたイライラを爆発させると、今度は妻が溜息をついた。
「‥‥では最終手段しかないですわ。アレをしましょうよ」
妻が冷静に言い放つと、夫の顔が醜くひきつった。
「アレって‥‥まさか」
「そう、アレですよ、アレ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ、心の準備がまだ‥‥」
「もう準備は充分ですわ。私も、あなたも。人生の再出発は、今しかありません」
すでに覚悟を決めていた妻は、きっぱりとそう言った。
「‥‥わかった。おまえがそう望むなら‥‥」
弱々しく答えた夫に妻は〝アレ〟をどのように進めて行くのかを流暢に説明し始めた。
「あなたは‥‥すぐにイライラする所が良くないですわね。ですから、穏やかな家庭に入ってはどうでしょう?少しは短気が治るかもしれないですし」
「あ、あぁ。わかった、おまえの言う通り、試してみよう。おまえは?」
「私を必要としている所へ行きます。これから介護で大変になる家庭があるので、私が力になれるかわかりませんが、そこへ。精一杯、頑張ってきます」
「そうか‥‥まぁ、元看護師のおまえなら、立派にやれるだろう。頑張れよ」
「あなたも。いつかまた、必ずお会いしましょう。では‥‥お元気で。さようなら」
夫は立ち上がった。
そして、すべての未練を断ち切るために大声で叫んだ。
「さぁ、刺激的な世界へ、出発だ!」
こうして二人は、この究極の幸せの地を去った。
何の苦しみも存在しない場所、
どんな望みも叶う夢のような場所、
〝天国〟という名の、
究極の幸せの地から
二人は今、旅立った。
そう、二人の魂は決断したのだ。
再び、人間の子として、
この世に生まれることを。
幸せになれる保証などない、
この世の人生を、
再び歩み始めることを。
勇気あふれる決断をした二人の目前には、
幸せと不幸せが混ざり合った
刺激的な未来が、
まぶしいほどに輝き始めていた。
〈完〉
〝アレ〟とは、
この世にもう一度
生まれ変わることでした。
あの世から見たら、
この世はきっと
羨ましいほどに刺激的で、
楽しい世界に違いありません。