きぬは 3
「ありがとうついでに」
女はかかとを踏んでいたスニーカーに指を突っ込んで、ちゃんと履いた。
「散歩でもしよっか」
「へ……?」
強引に俺の手を取ると、歩きだした。
「イテッ」
また怪我の右手だ。
「痛くないでしょ」
「指のとこは確かに、痛くないが……あれ? 今の黒い虫は」
女の立っていた所には何もいなかった。
放棄畑は一つが一辺十数メートルの四角形で、それがタイルのように敷き詰められてこの広々とした空間を形作っていた。駅からの一本道よりも更に細い農道で、それぞれが区切られている。
俺と女――キヌハ――は、その農道を歩いていた。
「ところで、離してくんないかな? 手の甲の怪我が痛いんだ」
「やだ」
キヌハはニヤニヤ笑いながら、断った。
うかつにも一瞬、この女がカワイイ気がした。相手は得体の知れない虫を食う、更に得体の知れない奇人なのに。
俺は何してるんだろう。微妙に現実離れした事が起こっているのに、指が、無くなっているというのに、妙に平静な気分だ。いや、むしろ気分がいい。いっとき前まではあんなに死にそうに疲労して乾いていたというのに。
そういえば、もう喉が渇いていないな。渇きすぎておかしくなったのだろうか。そうかもしれない。化物じみた、見も知らない三十路女と、手をつないで散歩している。
「そのワンピース」
「あっぱっぱ」
「あっぱっぱ?」
「あっぱっぱ。かわいかろう」
「うん、まぁ。(あっぱっぱって何だ……)足とか、そんな出してて大丈夫か?」
「?」
「ここは虫が沢山いるだろ、やばい虫も」
「あ、、はいはい。どうもご心配ありがとう」
大丈夫なんだろうな、と思った。
俺は、女が右に曲がれば右に、左に曲がれば左について行った。がっしりと掴まれているのだからしょうがない。
まぁ、どう歩こうと見渡しのいい放棄畑の中。駅と、山と、一台の壊れた自販機しかない。迷う心配は無かった。
日差しがゆるくなって、さすがに暑さもやわらいできた。
「いや、俺の方こそどうも。日陰に運んでくれたんだろ、自販機の裏に」
「死にかけてたぞ、『水~ 水~ ゆび~ ゆび~』」
「俺の真似?」
「うん」
キヌハは笑っている。
「そういえば、喉が渇いていない」
「飲ませてやったからな」
「え、ありがとう。水なんてどこにあった?」
「水なんてここにはないよ」
「じゃあ何飲ませたんだ」
キヌハは笑っている。
「おい、何飲ませたんだよ」
「……ヨグール」
「まじで!?」
俺は自販機の中で干からびていた缶を思い浮かべた。
まさかだろ。
「えっと、、」
「なんだ」
「もう、ない?」
「うん。おしまい」
また暫く無言で歩いた。二十年前の缶ジュースが、どこかに残ってたのだろうか。そんな物飲んで大丈夫なのだろうか。
指を食いちぎられた日だというのに、つまらない事が気になっている俺を導いて、キヌハは右へ左へ畑の角を曲がる。辺りは薄暗くなり始めた。キヌハの白い肌がぼんやりと浮き上がって見える。
さすがに繋ぎっぱなしの手が、おそらく汗だろうが、ビチョってきた。
「手、はなそうか」
「やだ」
「…………」
農道を進み、左に曲がる。時折カサカサと何かが逃げてゆく音がする。
農道を進み、右に曲がる。いや、左だったか。
「ところでおまえさ、なんで死ぬの」
キヌハが、にこやかな雰囲気のままとんでもない事を言ってきた。
「は!?」
「自殺しにきたんじゃないのか」
「失礼な! 俺は、ド田舎に移住しようと思ってここまで来たんだ」
「ここをどうやって見つけたんだ?」
「いやネットでさ」
「ネット?」
まさかネットも知らないのか。さすが検索サイトに名前も出ない辺境だ。
「ネットを知らないやつに、ややこしい事言うようだけど、そのネットで調べられない部分を、ネットで推測して、ここを探し当てた。ネットと言うのはその名の通り情報のアミみたいなもんで……」
「わかるわかる。蜘蛛の網な。規模は?」
「そりゃ、世界中だよ。てかお前異常に物分りいいな」
「世界中! おまえ、凄いな。弱いくせに!」
「よわ……(そういえばなさけない一日だったな……)お前のが凄いよ」
「まぁな。もうすぐ村だ」
「村なんてどこに……山の向こうか?」
「そこを曲がれば」
そう言って十何度目かの左折をした。するとどうだろう、いつの間にか山裾が目の前に。そして家屋が建ち並んでいるではないか。
「あ、、れ……」
「きをつけろよ」
「お前は来ないのか?」
「戻る」
「戻るってどこへ。家があるのか?」
「ああ。自販機の裏だ」
「何言ってるんだ」
下、下、とキヌハは地面をつつくような仕草をして見せてきた。
「あんな所に地下があったのか?」
「ほら、村が消えるぞ」
ポンと押されて数歩前につんのめると、キヌハはもう数メートル後ろで手を振っていた。村が消える? 陽が落ちて見えなくなる、ということか。
俺も手を振りかえす。
キヌハが自分の指をさし示すポーズをとる。中指だ。
「え、俺の?」
見ると俺の中指は、生えていた。
そう、生えていたのだ。虫の足のような黒く細長いキチン質の中指が。
「それは擬態じゃないぞー、お前のもんだ。サービスでつけてやった!」
キヌハの影が嬉しそうに飛び跳ねている。
「あ…………りがとう……ございました」
やはりそう呟くしかなかった。