きぬは 2
顔にかかった髪を、手を使わずに振り払いながら女は立ち上がり、ドス黒い血しぶきが宙に傾いだ「0」を描いて、砂地に散った。
痛みは無かった。むしろ無駄毛を毛穴に沿ってスムーズに抜いた時のような快感があった。
俺の中指は根元から無くなり、一関節分の皮が垂れ下がっている。
女が咥えたままでいる「元」俺の中指らしい物体は、どう見ても二倍以上の体積に膨れ上がり、うねうねと蠕動していた。逃れようとするように動きは次第に激しくなる。
女は一瞬イラついたような表情になり、顎の筋肉が動いた。
発泡スチロールが軋るような音を立てて「元」俺の中指から白っぽい小枝のような物体が束になって噴出した様子は、青空に投網がかけられたかの様だったが、それは一瞬の映像で、急速に逆回しされて女の口内に収束した。
蝉が鳴いていない。
「擬態……」
女は言った。
「食った……のか?」
俺の質問に、女は口元を拭く仕草で答えた。ついに俺は気を失った。
仰向けに寝ている。日差しを感じない。屋内だろうか。あれは夢だったのか?
指。そうだ、女に指を食われた。指を確認しなければ。いや……まだ、目を開けるのはよそう。心が整っていない。
顔を風が撫でた。はっきりと生臭い。目を見開く前に全てが現実だったと悟った。
俺は飛び起きようとして女の顔に激突した。
「うきゃあ!」
女が額を抑えて横に転がり、俺も反対側に転がった。
金属の壁にぶつかる。そこは自販機の裏だった。右手は……やはり中指が無い。
「俺の指!」
「いってー……」
「俺の指!!」
「擬態だってば」
「はあ?」
「ぎ た い。頭わるいんか? お前の手に虫がついてたんだよ。中指に擬態してな」
そんな虫きいたこともない、と返そうとして、やめた。見てしまった現実を優先するべきだ。
「それを、なんでお前が食うんだ!」
「ほっといたら、擬態が進むんだよ。指だけじゃなくおまえ全部が虫に乗っ取られる。ほれ、礼くらい言え」
女は立ち上がり、腰に手を当てたポーズをとると地面をバシンと踏みつけた。よく見れば、男物のスニーカーを履いている。
その下で見覚えの有る黒くて細いものが一本、プルプルと震えている。自販機の缶から飛び出そうとしたヤツだ。そして、止まった。
虫を、女が食った事を追及するのは、やめておこう。得体が知れない。女が何者であるにせよ、こうして人間らしい会話をしている現状を大切にして、穏便にさよならするのが賢い。
「あ……りがとう。ありがとうございました」
女は満足そうに微笑んだ。