きぬは
細い足首からふくらはぎまで丸々出している。大根足というと足の太さをからかう言葉になるのだろうが、浮かんだイメージは形の整えられた大根だった。それだけ、ぎょっとする程なめらかで白い。
木綿であろうスカートは随分ゆったりと広がっていて、腰を太い紐でゆるく縛ってある。紺色のワンピースだ。
顔は……起き抜けのような、どこかうつろな表情。ボリュームの有りそうな黒髪もボサボサで、風呂の後乾かさずに寝たような……。
って、背景が放棄畑じゃなかったら、まるきり起き抜けの三十路女だ。そして、起き抜けだとしたら、すっぴんでこれは結構美人なのだろう。
俺は女をぼんやりと見つめながら、ただ待った。首筋を掴まれたとか女が急に現れたとかの異常な現状を推理するには、疲労と熱射で脳が茹り過ぎていた。
「おーい。びびんなよ」
女が言った。
ミステリアスな出現に反して、意外なほど普通の人間の、どちらかと言えば下品な言葉だった。
お陰で少し生気を取り戻した俺は、女から目を離さぬまま首に手をやって確認した。どうもなっていないようだ。
「びびんなって」
語尾を笑いで崩しながら女が言った。目が笑っていない。何かを観察でもしているような冷めた視線だ。やはり警戒は解かない方がいいだろう。女がまた触れようとしてきたら、ダッシュだ。
俺はなんとか立ち上がるべく脚に力を込めようとした。だがその指令は下半身に伝わらなかった。
なんということだ。腰が、抜けている。
バランスを崩しかかったのを誤魔化すように地面に尻をついて、のんびりと座る予定だったかのように振舞った。どうにかこうにか胡坐のような体制で女と向き合った。
女は、俺を見下ろしている。口元に薄ら笑いを浮かべているように見える。
「な、なんだよお前」
そう言うしかなかった。声量が思っていたように出ず、ちゃんと聞こえたかどうかも怪しい。
だが、女は答えた。
「きぬはだよ」
(キヌハ、だよ? 自分の名前だろうか。どうもこの女、少し頭が幼いのだろうか)
「いや……。ていうか、どこから出てきたんだよ」
「…………自販機の裏」
(そんなスペース有っただろうか。気配も何も無かったが)
「……じゃあなんで、いきなり俺の首さわったんだ?」
「ああ、きぬは知らんのか。じゃあいいわ、ほれ」
よく意味のわからない事を言って手を差し出してきた。
「立ち上がれんのじゃろ、掴まれや」
女の表情が始めて変化した。ぶっきらぼうな言葉とは裏腹の女性らしい微笑みに、俺は数時間ぶりに「人間」を見た気がした。
なんとなく吸い寄せられるように、怪我したほうの手を差し出してしまう。
「おまえ、その手」
女の動きが止まった。元の冷めた表情に戻っている。
思わず引っ込めようとした血塗れの手を、がっしりと掴まれた。
「痛ッッ!!」
その細腕の力は異様に強く、柔道の寝技のような拘束力を持っていて、俺の右手は抜け出す事が出来ない。
「パイプで切ったんだ、もう血は止まりかけてる」
なぜか言い訳をするように俺は言う。
女はしゃがみこんで、顔をグイと近づけてきた。
「そっちじゃない。指」
そう言って女は形の良い唇を小さく「エ」の形に開いた。少し生臭い、しかしもう一度嗅ぎたくなるような匂いが俺の鼻腔に届いた。(寝起きの女の息ってこんな感じかな)などと思ってしまった瞬間俺の中指を、パクリと咥えた。
そして、俺の目を見て少し微笑んだかと思うと、そのまま子猫が鳴くように口角を上げて、一気に、喰いちぎった。