自販機
太陽の熱線で首筋がチクチクする。喉が乾く。全身が不快だ。
特に右手。甲の皮膚に横一文字の割れ目が走っている。周辺の薄皮がピラリと捲れて赤々としている。傷自体はその深さからか溜まった血の色からか、一本の黒い毛糸のように見える。
俺は血が苦手だ。傷を確認する度に歩く力が削ぎ落とされるようだ。しかし何度も見てしまう。
左手の親指と人差し指で輪を作り、右手首の辺りをギュっと締めた。
必然的に傷口を掌で抑え込む形になるが、汗と血が混じってヌルヌルと滑る感触がおぞましい。
中指の腹はあの「虫」に刺されたはずなのだが、特に傷跡は見あたらなかった。
礼儀正しくお辞儀をするように両手を体の前で重ねたまま歩く。上半身は裸だ。汗が、ジーンズの腰にまで染みてきている。
わき腹の後ろの辺りが痒くて仕方が無い。痛みに近い程の疼きだ。おそらく得体の知れない虫を叩き潰した箇所……。
死骸を払い落とそうとして、細かい残骸を広範囲に擦り付けてしまったのだろうか、背中全体もむず痒い。しかし両手は塞がっている。
虫の汁まみれになったTシャツは捨てた。ふと、後ろを振り返る。スゲがふさふさと茂る放棄畑の中を、1メートル幅の一本道が続く。学校の校庭1個分ほどの空間を挟んで駅が見える。
あれだけの洗礼を俺にくらわせておいて、何事もなかったかのようにように人気を発する事無く佇んでいる。乗ってきたとはいえ、あそこに電車が入った事など幻のようだ。
トイレはまだしも、水道すらも無いなんて……。俺は眉間にしわを寄せ、前に向き直った。
それにしても……ひたすらに放棄畑の続く、日本にしては大雑把すぎるような景色だ。霞む先には山すそが見えるが、あそこに辿り付くまで何分かかるのだろう。きっと見た目より遠いはずだ。ほかに対照物が無いから近く見――いやまて。途中に何か、あるぞ。
それは最初、ただ四角い影に見えた。建物にしては小さい気がする。そのまま十分ほど進むと、突如として白い光を発した。ギラリと日光を反射したのだ。更に進むと、メッキの剥がれ切った銀色の地肌が分かる。
……自販機だ!
文明の果てのようなこの場所にも貨幣経済が。とりあえず水分を補給できると無邪気にも喜びが湧き上がった。何か違和感を覚えるのは無視した。
俺は血だらけの手をぷらぷらさせながら駆け寄った。
吐く息が血なまぐさくなるほどの消耗と引き換えに目の前にした自販機は、停止していた。少なくとも20年前に。
前面のケースが割られ、1本だけ250ml缶のミイラが横たわっていた。塗料が色あせて全体が殆んどクリーム色になっている。元々がグリーン地のラベルであった事が分かるのは、このヨーグルト風味の炭酸飲料を記憶に宿している者だけだろう。
かつては爽やかな水分補給の象徴として機能していたその炭酸飲料。今はもう販売すらされていない。たしか俺も小さい頃大好きだった。
記憶の中のグリーンラベルに俺の目は吸い寄せられた。
気づかぬうちに伸ばしていた右手が、割れたケースの断面と同時に視界に入ると、錆びたパイプの穴がフラッシュバックした。
はっとして手を引っ込めると、同時に缶の口の部分から黒くて細長いものが伸びて、すぐに引っ込んだ。
俺はゆっくりと2歩、3歩、自販機から後ずさった。心臓が高鳴り始める。
「『また』か。なんなんだ……」
後ろによろけかけたのを寸でのところで堪え、早足でその場を後にする。
ただ虫が多い場所というだけだ、そう考えようとしても一瞬感じてしまった「虫」の俺に対する妙な攻撃性が、なまなましい実感を残している。
駅の「虫」が凄まじいスピードで体に乗り移ったのを思い出し、鳥肌が立つ。いや、今回は触りはしなかった。あの黒い足?が、缶の中へ引っ込んだのを確かに見た。
呼吸を整える。蝉が鳴いている。そして――――
首筋を掴まれた。
俺の体はもはやそうするしか無いと判断したのか、勝手に前かがみに崩れた。声も出ない。
ほとんど頭を地面に擦り付けるようにしながら、後ろを見る。そこに有ったのは、二本の、白い足首だった。