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第二話 その三

[21] 

 夜の駐車場を歩む千明の身体から…線香と、煙草の香が抜け出していく。その行方を見やる様に、何気なく見上げた空。潤んだ月に、朧雲が掛る。…明日の晩は、満月に成りそうだ…。

 千明が目線を下ろすと…目の前に、駐車スペースをゆうに二台分は占領している、見慣れたリムジン。彼女が歩み寄るのに気付いたのか。制服姿の男が運転台から車外へと降り立って、千明を出迎えた。

 この風体は…一昨日にも、このリムジンを運転していた運転手だ。千明はこの、帽子を取るとずいぶんと髪が後退している運転手に、

「御苦労さまです。愛美さん達はどうしてますか。」

 運転手は両手で恭しく、つば付きの帽子を胸の辺りに抱えて、

「お連れ様はお二人とも、車内でお持ちになっておりますよ。お嬢様もお疲れでしょう。お二人と御一緒に、お屋敷の方に戻られますか。」

と、何んとも人懐っこい笑顔で話しかけてくる。

 千明も釣られて笑みを浮かべて…しかし、首を二、三度横に振って、

「いいえ、私は歩いて帰りますから…小倉(おぐら)さんは二人を、先に本宅の方へ送って上げてくれませんか。」

 人懐っこい小倉さんは、千明の言葉に吃驚仰天。帽子を揉みくちゃにしながら、慌てて、

「し、しかしですね。聞けば、危険な餓鬼(がき)鬼人(おに)を狙ってこの辺りをうろついているとか…。そんな所に、如何にお嬢様でも、独り歩きをなさろうなどと…やはり、いけません。私にはお嬢様を安全に送り迎え申し上げることが何よりの使命。どうかここは、私や、蒐祖家に使える者たちの気持ちを汲んで下さいますように…お気持ちを曲げて、御乗車下さいますようにお願いします。いえ、御乗車いただきます。私は断固、お嬢様を夜道で一人歩かせる様な真似いたしませんからね。」

 その真剣そのものの顔に、千明は…先程までの自分たちも、こんな感じだったのかな…と、可笑しいやら、こそばゆいやら…。

 千明は小倉さんを安心させ様と、心尽くしの微笑みを浮かべる。そして、二人の左側…駐車場の出口付近を指さして、

「一人歩きが見過ごせないと言う事なら、その御心配は不要ですよ。私には一緒に帰る人がいますから。」

 小倉さんが目を細めて見据える先。そこには夜の黒が有るばかりで、他には何も…いや、確かにそこには誰かいる。そして、その誰かとは…言うまでも無く、あの黒い鬼人(おに)だ…。

 黒い鬼人(おに)は小倉の…何やら胡散臭そうな視線に…右腕を軽く上げて応えてみせた。それで、まぁ…敵意の無い事くらいは伝わったのかもしれないが…大切なお嬢様を、どこの馬の骨とも解らない小童(こわっぱ)に…もとい、鬼人(おに)に託すなど、小倉からしてみれば到底まかりならない事に違いない。

 千明は二人のやり取りから眼を逸らして、リムジンのサイドウインドウを見つめる。

 愛美と、小松と呼ばれた少女が中に居るらしいが、マジックミラーの様に内部の様子を映さないガラスに阻まれて、車内の二人が今どのようにしているのかは窺い知ることも出来ない。

 …千明は改めて、

 「そう言った訳ですから、私のことは一先ず忘れて貰って。小倉さんは二人の事をお願いします。」

と、背後の雑木林もさざめく様な、女子高生離れした艶のある微笑みを浮かべた。

 しかしながら小倉さんとしては、そう言った訳もこう言った訳も無く、これほどチャーミングな千明をほっぽって行くのが尚更に不安になるばかり…。よって、帽子を両手で握りつぶしながら、

「左様ですか…でしたら、せめて私に、あの方がどちら様なのかをお教え下さいませんか。それで私も、幾らかは安心出来るはと思いますので…。」

と、食い下がった。

 千明は、彼女自身よく知らないはずの黒い鬼人(おに)の素性を聞かれて、事も無げに、かつ、にこやかに答える。

 「彼は『萩の会』の新入メンバーなんです。そう言えば、小倉さんにはまだ紹介していませんでしたね。でも、素性は確かな人ですから、何も心配する様な事は有りませんよ。近いうちに、小倉さんに彼の事を紹介する事も有ると思いますけど…その時はもう少し、優しく迎えてくれると嬉しいな。」

 そう千明に、どこか甘えるように請われ、諭されて…小倉さんも恥ずかしそうに、赤い顔で随分と変形した帽子の形を整えている。

 千明が素の笑顔を惜しむことなく、話し続ける。

 「それに彼、ボディーガードとしても申し分ない実力者なのは私のこの目で確かめている事ですから…ううん、小倉さんから見ても彼の黒い鬼鎧(きがい)の強力さは伝わっているはずですね。それに…ふふっ、彼、特に逃げ足が凄いんですよ。だから、いざとなったら彼に担いで貰って、全力疾走で逃げ出しますから大丈夫。もしかしたら、小倉さん達よりも私たちの方が先に本宅に着いてしまうかもしれないですね。」

 千明の根気の良い説得と、あるいは伝説的な黒い鬼人(おに)のあらたかな霊験で…いや結局は、一から十まで千明に信頼があったお陰だろう…小倉さんも納得がいった様だ。

 小倉は別れ際のぎりぎりまで千明に、『気を付けてお帰り下さい。』、『無茶はなさらないで。』と何度となく続けて…それからようやく、多少名残惜しそうにしながらも、最後には千明の言う通りにした…。

 リムジンの細長い車体をくねらせて、車道へと…生きとし生けるもの列へと、愛美たちは一足先に帰って行く…。

 深呼吸をしながら…遠く、近くその様を見守っている、千明。

 鬼鎧(きがい)の硬い足の裏で、指で、アスファルトの上、拍子を取りながら…黒い鬼人(おに)が喪章の(かたわら)へと歩み寄った。

 「それで…鬼姫さまは、ここからどこへ逃げたいんですか。」

 黒い鬼人(おに)のくぐもった声を耳元に感じて、千明が右手で喪章を覆う。

 「行先は…どこでも…。貴方に任せる。だけど…。」

と、千明はおもむろに喪章を外して、味のある笑みと、皮肉っぽい瞳を黒い鬼人(おに)に向ける。

 「さっきは『担いで貰って』なんて言っちゃったけど…一応、私だって女ですから…やっぱり、荷物扱いされるのは嫌かな。」

 千明の首筋の上にかすむあの月の様な、血色の乏しい面差し。

 黒い鬼人(おに)は…言葉無く…千明の前に跪く。そして目蓋を落とすかのように、瞳の漆黒の炎を弱めると…澄んだ薄氷に包まれた太い腕を、ゆったりと前に伸ばす。

 千明もこれには苦笑い。…だが、このいつぞやから続く苦々しさを、今夜は楽しむ様に…。千明はその体重を黒い鬼人(おに)の手に託すように、一歩前へ。

 ハイヒールで階段を踏み外したかのように…倒れ込むかのように自然に…千明は…黒い鬼人(おに)の肩に手を置く。…制服に纏いついた煙草の匂いを気にするかのように…そっと、手を…。

[22]

 ビルの谷間を流れる人の河。携帯電話を操作する手を止めて、不意に…見上げればそこに白い月が浮かんでいる。

 人はこんな偶然にでも、何かしらの運命的なもの…引力を感じて…流れに逆らった脚を止める。

 こんな気まぐれが、今日も世界のいろいろな場所で、そして例外なくこの空の下で起きているに違いない。

 だが、そんな夜空を、一瞬の間にかすめていった影に…街灯の光に紛れこんだ、瞳に焼き付く墨流しの残滓に気付いた者が…いったい、何人いただろうか。

 人の渦を眼下に見下ろしながら…黒い鬼人(おに)が御自慢の高速移動を駆使して、ビルの外壁を蹴り蹴り、目にも止まらぬ速さで夜空を飛び回る。

 不思議な事に、これほど大胆な躍動を見せていると言うのに…彼の動きに目が付いて行かない人々は勿論のこと…黒い鬼人(おに)に抱かれながら耳をそばだてている千明にも、一切が無音。しかも…、

「本当に便利な『能力』よね。」

と、囁く様に言う千明の声も、風切り音に乱されることも無く響く…。息苦しくも無い…。

 どうやら、この黒い鬼人(おに)の『能力』はただ高速で移動するという類のものでは無い様だ。

 黒い鬼人(おに)が音も無くビルの外壁をひと蹴り。二人は暗い空の、高く、高くへ舞い上がる。

 黒い鬼人(おに)に鬼姫さまだっこ…もとい、お姫様抱っこされていた千明の頬を、冷たい大気が撫でた。

 跳躍距離が延びに伸びきったところで、二人はようやく自由落下へと移る。

 人間二人分の…しかも片一方は鎧姿の…重みが有りながら、二人は羽か、綿毛の様に、ふわりふわりと落ちていく。

 ふわりふわりと小夜の風に誘われて、辺りで一際高いビルの屋上に…その背の高いフェンスの上に、音も無く舞い降りた。

 上部が屋上の内側に向かって折れ曲がったフェンスに片足だけで立つ、黒い鬼人おに。おそらくは、鬼鎧きがいは重量を自在にコントロール出来るという特性を利用したろうと思われるのだが…その巨体とのアンパランスさはちょっと、筆舌に尽くし難い。

 黒い鬼人おに)は、彼の姿形からすれば心許無いと言うほかないそのフェンスを踏みこんで、屋上に飛び降りた。フェンスは壊れこそしなかったものの…ゴンと言う鈍い音と、振動が、フェンス全体に伝わっていく…。

 屋上に降りた時の小さな衝撃で、黒い鬼人(おに)の大きな腕の中に居た千明のポジションがずれる。

 出し抜けに上下左右に揺さぶられた千明であったが…絶叫マシーンの安全装置の中で、抑えつけられることを楽しむかのように…愉快そうに、瞳に掛る前髪を気にしていた。

 黒い鬼人(おに)は屈んで、千明が身を預けた腕を前へ伸ばす。

 千明はいつの間にか黒い鬼人(おに)の首に回していた腕を、すんなりと、優雅に解くと…こう言う場面に成れているのか…心得たとばかりのお嬢様…いやいや、お姫さまスマイル。

 だがしかし…やはり、千明にはお姫様は柄では無い様子で…黒い鬼人(おに)の腕に、華奢な肘で体重を掛けると、持ち前の凄まじい腕力で、ヒョイッと景気良く屋上へとジャンプした。…千明はやっぱり、『鬼姫さま』なのだな…。

 グイッと力を入れる様に、起き直った黒い鬼人(おに)。そんな近くなった夜の余韻に浸る彼を尻目に、千明はフェンスへと近づいた。

 「なんだ…もっと高いビルがあるんじゃないの…どうせなら私、あっちの方が良かったかな。」

 千明がフェンスの隙間から見上げる夜空には、確かに、二人がいるビルよりもずいぶんと高いビルが…。圧し掛かるような存在感と、暗闇で、その高層ビルの最上部は見えなかった。

 黒い鬼人(おに)が千明の傍に進みながら、

「今日は風も有りますから、向こうだと落ち着いて話が出来そうもなかったので…。向こうのビルに飛び移るのは、また後日の楽しみにとって置きましょう。…どうしたました。」

と、黒い鬼人(おに)は、フェンスに背をもたれ掛けてクスクスと笑う千明に、怪訝そうに尋ねた。

 千明はニッと口を真一文字に引き延ばして、

「だって、こんな会話を前にもした様な気がして…可笑しくて…。だいたい、私の方は貴方のことを何も知らないのに、『落ち着いて話し』をするいわれがどこに有るのかなって…ねぇ、そこのとこ貴方はどう思ってる訳。」

 黒い鬼人(おに)は、千明の目の前でドカリと胡坐をかいて、

「うーんっ、なかなか手厳しいことを仰る…何か、埋め合わせが出来るといいんですけどね。ですがそれも…申し訳ないですけど、出来れば、大野洋平さんの件が片付いた後にということにして頂きたい。」

 黒い鬼人(おに)はそう言って、頓知坊主よろしく頭を掻いく。千明は益々、可笑しそうに笑って…フェンスを後ろ頭で、コツンと打ち鳴らした。

 「でも…確かに、残りの話は今度の時にって打ち合わせてはいたけれどさぁ。まさか、本当に迎えに来てくれるとわねぇ。」

と、千明はもう一度、フェンスを後ろ頭で打って、

「てっきり、あの時に、私が粘って話した事が貴方の聞きたい事なんじゃないないのかなって勝手に思ってたから…。それで、結局、貴方は何が聞きたいのかしら。」

 黒い鬼人(おに)はトカゲの如き長い尾を、行儀よく、引き締まった(中身の腹具合までは保証の限りではないが)胴に巻き付けて、

「いえ、お察しの通り、鬼姫さまにお尋ねしたかった事は、あの日の内にすべて聞かせて頂いていたんです。ですがあれから…こちらの方でも事情が変わりましてね。」

 黒い鬼人(おに)が意味有り気な台詞を言う。

 千明は相手が何気ない風を装って投げ掛けてきた謎めいた言葉に…さしずめボードゲームで遊ぶかのように…はつらつと、挑む様に笑みを浮かべる。

 「それは、貴方のとこの『お姫さま』に関わったこと…という事は、いよいよ貴方の『お姫さま』の意思が固まったってことね。」

「えぇ、まぁ…それで今夜は、鬼姫さまにぜひお願いしたことがあって参上したい様な次第でして…。後は…ついでのことに、彼に頭を下げておこうかと思い立ちましてね。」

 千明は黒い鬼人(おに)の言葉の意味を思案する様に…ずりずりと背中をフェンスに擦りながら、その場に膝を抱えて座り込む。そして、黒い鬼人(おに)の平静な瞳を目の前に見つめながら、

「貴方も、健さんのことを気に病んでいるんだね。」

 …ビルの谷間から、喧騒が吹きあがってくる…。

 小さく身体を丸めた千明に、黒い鬼人(おに)は首を横に傾けて目線を逸らす…。

 「鬼人(おに)を狙う様に彼をけし掛けたのは僕ですからね。…例え、僕に言われるまでも無く、大野洋平さんが本能的に気付いていたとしても…僕の入れ知恵が、『健さん』の決断を下すまでの猶予を、大幅に間引いたことには違い無いでしょうから…。御霊前に伺うのはかえって失礼かと思いまして、不調法ですが、屋外から御冥福をお祈りさせていただきました。」

と、黒い鬼人おにはそういって千明の方へ、あるいは当て所も無く…深々と頭を下げた。…が、その舌の根も乾かぬうちに、いけしゃあしゃあと、

 「それと、『健さん』にはこれから、お手伝い願う事になるやも知れませんので…勝手ながらそのお許しも頂戴しようと…まぁ、それも、鬼姫さまが僕の願いを聞き届けて下さるか。それに掛っているのですがね。」

 千明は黒い鬼人おにの曲がること無く我意を通す…身勝手さに…天衣無縫の精神に…思わず、顔の筋肉が緩んでいく。

 「貴方も大概、意地っ張りよねぇ。」

「えっ…僕がですか。どうでしょうか、ちょっと釈然としませんが…。」

 千明にニヤニヤと、ベタベタとそう指摘されても…黒い鬼人おには本心から心当たりが無さそうに、何やら珍しく、黒い鬼人(おに)の方が気味悪そうに千明の笑みを覗っている。…本当、いろいろな意味合いで良い度胸しているは、この男は…。

 千明は強く抱き寄せた膝に、軽く傾げた頭を…耳を押し当てて、

「もしかしたらとは思ってたけど、やっぱり貴方、私と同年代でしょ。ねぇ。…でも、まっ、良いわ。そのことはいずれ明かして貰えれば良いから…。それに、健さんのことも…貴方が気に病むことではないのよ。」

 千明の言葉遣いが、うっとりと、女性らしい声音を奏でる。…どうやら千明は、リラックスするとこうなるようだ…。

 「何ら抵抗する手段を持たない一般人を襲わせない様にって…貴方の配慮は今となってみれば感謝してるの。あの時の私には…自分の事ばかりで、とても出てきそうにない発想だったから…。駄目ね。こう、長いこと鬼人(おに)として、鬼人のグループの中で生活していると…自分本位というか…鬼人として生きる事が、自分にとっても、他人にとっても当り前みたいな考え方に成りがちで…もしかしたら貴方が『萩の会』に入りたくない理由って…そういう、人間としての平衡感覚みたいなものを失いたくないからなんじゃないの。違う…。」

と、千明は首を捻って、目線を正面の黒い鬼人おにへと向ける。だが、残念ながら、千明の瞳にも、耳にも、彼からの答えらしい答えは返ってはこない。そこで千明は、

「それくらいの事も明かせないって言うの…ねぇ、埋め合わせとかって言ってたけど、それ、どう心得てんのかな。」

 その笑顔は、膝に隠れて黒い鬼人おにの瞳には届かない。しかし…黒い鬼人おには漏れ聞こえる千明の抑揚に富んだ声に、短く息を吐きだした。

 「そういう高尚な事が頭に有った訳ではありません。単に…以前、鬼人おにとして仕事を貰っていた相手に、飼い殺しの様な扱いを受けていて、その悲惨な記憶が足枷になっていると…そんな程度の事ですよ。」

と、黒い鬼人おに)が珍しく自らを明かす様な事情を話した。

 千明は…どうも黒い鬼人(おに)が素直に答えるとは思っていなかったらしく…顔を上げると、

「へぇ…それってかなり、貴方の素性を知る上で重要そうな事だけど…そんなにあっさりと話して良かったの。」

と、驚いた様な、感心した様な事を言う…。流石に、これには黒い鬼人(おに)も呆れた様に、

「…って、貴女が言わせたんでしょうが。それに…こればかりは警察でも調べられることではありませんから…別に構いませんよ、これ位なら。」

 その黒い鬼人(おに)の言い草に、千明は何故か勝ち誇った様な笑みを浮かべて、

「ふっ、ふーんっ…随分と謎めいてきたじゃない。これは今後の粗探しが楽しみね。それと、貴方の前の飼い主と、貴方の事での苦労話に盛り上がるのも…貴方の新しい飼い主候補としてはね。」

 黒い鬼人おには短く…が、太い溜息を一つ。

 「ですから、僕は『萩の会』に入る積りは…。」

「解ってますって。そう言えば、私に何かお願いがあるって言ってたよね。何。話してごらんなさいよ。」

 見事に千明の思惑に絡め取られて、口の達者な黒い鬼人おにもタジタジ。今更ながら、自分の立場の弱さを思い知る。…著者としては、遅すぎたくらいだと思うが…。

 「はぁ、それは…。ですが、こちらとしてもどう切り出したものかと思いましてね。お願いした事が、事だけに…。」

 そう勿体付ける黒い鬼人おに)に…強者ゆえの特権か、はたまた別の何かの理由からか…千明は最早、警戒する素振りも見せず、かえって軽快に話し掛ける。

 「いいから言ってみないさい。どうせ、言うだけならタダだから…ううん、とりあえずツケってことにしといたげるから。」

 …おっかねぇなぁ、女は…。

 黒い鬼人(おに)は悩み、唸って、

「うーんっ、そう仰っていただけるなら…ところで、『健さん』のことは本当に…。」

 千明は唐突に健のことを混ぜっ返されたのものだから、少しムスッとして、

「だからっ、貴方が気に病む事じゃないって言ったでしょ。彼は彼自身の意思で大野洋平に挑んだの。その結果は残念なものだったけど…でも、健さんの覚悟は、その誇り高い心は、後からぐちゃぐちゃと口を差し挟んで、台無しにしていいものじゃないないわ。…って…。」

 千明は抱えた長い脚、俯いた顔を隠して、

「…って、さっき、私も怒られたばかりなの。だから、もう、勘弁して下さい。」

と、自爆して、太腿へと撃沈していった。…なんだかなぁ…。

 沈み込んでいく千明に、黒い鬼人(おに)は白けた様に、困った様に尋ねる。

 「仰りたい事は解りました。御説御もっともだとも思います。…で、貴女のその反応はどういう事ですか。」

「どうもこうもない。…私たちがまだまだガキだって事。」

と、千明は情けなさそうな声で答えた。

 黒い鬼人(おに)は結晶の内側でそっと息を吸い込む。

 「兎にも角にも…僕はまだ、どうやら彼に挑戦する資格を失ってはいないようだ…。そこで鬼姫さまにお願いがあります。次に鬼姫さまが大野洋平と闘う、その前に…僕から彼に喧嘩を売るチャンスを与えては頂けませんか。」

 黒い鬼人(おに)の話の途中で、千明は凛として、引き締まった容貌を上げていた。そして黒い鬼人(おに)の話が進むにつれて、背筋すら伸びていく。

 黒い鬼人(おに)は千明の緊張感の宿った瞳を見つめながら、

「その顔だと、意外だった…という訳では無さそうだ。気付いてらっしゃったんですか、僕の言い出しそうな事に…。」

 「まぁ、薄々はね…。」

 そう千明は口許だけで笑って見せる。流石に、瞳に()の輝きが加わると、迫力からして違ってくる。…千明が続ける。

 「それで、貴方は私の前に割り込んででも、先に自分があの人喰い野郎と一戦交えたいと…そういうことだよね。」

「貴女が先に彼と闘うとしたら、彼には次に僕と闘えるだけの余力は残らないでしょう。であれば…僕には、お二人の散らす火花の間に割り入ってでも先手に回るほか、彼に『死返(まかるがえ)し』を行った事を死ぬ程に後悔させる術はありませんから。」

 黒い鬼人(おに)の妙に…いやいや、不似合いに意欲的で、攻撃的な言い草。

 千明も不思議そうに、そして少し不安そうに、黒い鬼人(おに)へと会話の手番を返すべく…そして、心底に思っている事を伝えるべく…瞳を閉じた。

 「何か釈然としない所もあるけれど…貴方に自信が有るのは解りました。それに、貴方には彼を後悔させる術があることにもね。だけど貴方、私に対して順番を譲って欲しいなんて…私があいつをどれだけ引き裂いてやりたいか…解って言ってるんでしょうね。」

 千明が白銀燃え盛る瞳を、黒い鬼人へ…。

 目蓋という炉の扉があけ放たれ、黒い鬼人(おに)を、千明の怒りと、殺意が熱気と成って包み込む。

 黒い鬼人(おに)はその熱を厳粛に受け止め…それでもなお、

「彼は貴方の大切な仲間を殺した。身内を失った辛さは、僕にも解る積りです。」

 黒い鬼人(おに)は平静。臆することも、心の乱れも知らない…スイッチのONの時だけはだが…。

 千明も憎悪の炎を驚異的な忍耐力で抱え込んだままに…腹立ち紛れなどでは無い…強く、そして沈着に黒い鬼人(おに)に想いを伝える。

 「それだけじゃない。あいつは健さんの死を汚した。」

「…ではやはり、大野洋平さんは…いや、大野洋平は…。」

 「そうよ。…健さんの遺体が発見された時…健さんの身体から、心臓が抜き去られていたのよ…。」

 鋭さを増した千明の瞳。目の周りの筋肉が、ミシミシと軋みを上げるのが千明には聞こえた。

 「貴方の言う通り。私があいつと闘ったとしたら、次に貴方の出番が巡ってくることはない。今度という今度は、確実に…全力であいつをしとめる。…出来れば貴方には、それを黙って見守って居て欲しいのだけど…。」

 千明自信、その瞳の持つ鬼迫(きはく)で黒い鬼人(おに)の心を乱そうとも、動揺を誘えるとも思っていない。ただ強く、そして只管(ひたすら)に、黒い鬼人へと自分の心情を伝えようと、訴えかけている。…それだけなのだ…。

 鬼人(おに)同士のコミュニケーション。それを幾種類か見てきたが…人の身からすれば…彼らの心の交流の何と濃密な事か…そして時には、精神の弱さを許さない独善すら交渉の手段となる。

 黒い鬼人(おに)は、瞳の色を白銀に染め抜いて燃え盛る、千明の眼光に見入りながら…ゆっくりと頷いて見せた。…が、

「僕は『健さん』とこれといった面識はありません。カラオケ店で…チラッとお顔を拝見した位で…。ですから正直な事を言ってしまえば、僕の中に貴女の程の憤りは有りません。それに、鬼人(おに)に食べられた事も無いですから…『健さん』や、土屋加奈子(つちやかなこ)さんが抱いた様な、恐怖感や、絶望感は共感のしようもないでしょう。」

 「それでも、貴方の言葉を借りるなら…貴方にはあいつと闘う『資格』があると…。」

と、千明が変わらぬ調子で、激しく、淡々と問い掛けるに…黒い鬼人(おに)は千明に見せる様に、大きく、ゆっくりと首を左右に振った。

 「僕が言った『資格』というのは、あくまで、貴女の後ろの列に並ぶ所まで…彼の命を奪う『資格』が有るかといえば…貴女を始め、彼に恨みを持つ多くの方が居る。それに、社会の一員としての彼は、未だ法の裁きを受けてはいない…。(かさね)の代表と言える貴女ならば話は別になりますが…どこにも属さず、鬼人(おに)として好き勝手に生きてきた僕に、そんな皆さんを…貴女を差し置いて彼を断罪する『資格』が有るのかと問われれば…無いでしょうね。」

 平然とそう言い切った、黒い鬼人(おに)。それを詰まらない繰り言だと罵って、黒い鬼人(おに)の口を封じる気に…千明はどうしても成れなかった。

 この黒い鬼人(おに)が単なる冷血漢では無い事は、口振り通りの薄っぺらい男でないことも…ここ二、三日の間の会話で…()という内なるものの触れ合いで…そして今こうしてお互いを見交わし合えば、千明には解っていたのだ…。

 千明は拒絶の言葉を口にしてしまう前に…躊躇う様に、黒い鬼人(おに)に重ねて問い掛ける。

 「ならどうして…そこまで思い詰めていて、貴方はどうして彼と闘いたがるの。…貴方は自分の寿命が残り少ないっていったよね。それに、これまでは(かさね)にも属さずに生きてきた。貴方だったらこれからも、人としてひっそりと生きていくこともできたのに…。それなのにどうして、貴方は鬼人(おに)として生きる方を選ぼうとするの。確かに、貴方は強いと思う。でも、その強さが否応なく貴方の残された時間を蝕んでいく。貴方だってそれは解ってるんでしょ。…なのにどうして…敢えて鬼人として力を振るおうとするの。何が、貴方にそこまでさせるの。」

 それはきっと…鬼人(おに)となるしか生きる術をもたず、そして鬼人となった故に、人として死ぬより外に無かった者たちの…誰しもが胸に抱えた業苦…。

 黒い鬼人(おに)にも何かしら思うところがあったのか…爪の無いその手で、鬼鎧(きがい)の面をベタリと撫でる。それから、小さく苦笑を漏らす。

 「僕はただ好き勝手に生きているだけ…それが信念と呼ぶにはあまりにおこがましいですけどね。多少、遠慮がちな性格が災いしてか、なかなかに我が儘に成りきれていないきらいがありますけど…敢えて、それを僕の信念とか、理念みたいなものとするなら…今この瞬間にも、僕はそれに反して生きていないという確信はあります。だいたい、鬼姫さまとは付き合いが短いですけど…解りそうなものじゃないですか。『思い詰めて』なんて、そんな悲壮感漂う心根を僕が持ちあわせていな事くらいは…。何より、身の丈に合わない服を着て生きるなんて…趣味じゃない。」

 そうおどけて語る、黒い鬼人おに)。千明の白銀の瞳は、彼の漆黒の瞳の奥の…その奥を覗きこんで瞬きさえない。

 黒い鬼人(おに)は数瞬、千明の瞳を覗き返して…それから、千明の心に踏ん切りがつく様に、納得がいく様に、彼らしく、いとわずに口数を増やしていく。

 「鬼人(おに)としての自分の時間。それにも、それなりの価値は有るんですよ。普段の僕は…心が乱れて、()の制御できる容量を小さくしか確保できない…そして寿命の短さゆえに、暇さえあれば死の恐怖に慄いています。ですが精神面に、鬼人(おに)としての…()を制御しようとする働きが強まれば、強制的に躁状態になって、その間は死の恐怖も忘れられる。あくまでも鬼人(おに)としてですが、千明さまと同年代の、一介の男子高校生として前向きにも居られる。…まぁ、躁状態に成った後は…必ず引き戻しが有って、鬱状態になるんですけどね。」

「じゃあ、貴方の精神は、興奮と、落ち込みを行ったり来たりしていると…。そんなの私には信じられない…。」

 千明のあまりの喰い付きの良さに、黒い鬼人(おに)も少しはたじろいだ様に…だが、まぁ…、

(これも、リップサービスの一環としておきますか…。)

と、割り切って、愛想良く応えていく。

 「どうしてですか。躁鬱の変化が顕著なことは、鬼人(おに)にはそれほど珍しい事ではないですよね。

「それはそうだけど…貴方の場合はやっぱり当てはまらない様に思う。確かに私は、鬼鎧(きがい)を纏っている貴方しか知らないけど…少なくともその間に、貴方の精神に何らの乱れも見られなかった。それはもう、気色の悪いほどに安定していたわよ。」

 「お褒めの言葉として受け取っておきましょう…。」

と、黒い鬼人(おに)の軽口をものともせずに、千明は、

「躁鬱の入れ替わりが激しい人に…ううん、鬼人(おに)という内心の制御に長けた生き物だとしても…あんまりにも制御出来過ぎよ。だいたい今、こうしている貴方は躁状態なの、鬱状態なの。貴方の言い分からすると躁状態という事になるのかもしれないけれど…私にはとても、貴方が興奮している様には見えないのだけれど…。」

 千明のそう強調されて、黒い鬼人(おに)もやや思う所があったと見える。今度は大きなその手で、ガラスの様な、鋼の様な頬を何度か撫でながら、

「そう言われてみるとそうですねぇ。」

 「何その反応…自分の事なのに、ちょっと投げ遣り過ぎない。」

「そういう積りは無いんですよ。今までは知人に…いえ、『うちの姫』に…『お前は躁鬱の変化が激しい。』と言われ続けてきて…自分でもそうなのかなぁ…位に、納得していたというだけのことですから。」

 「いい加減ねぇ…。だけど何となくは解ったわ。思うに、貴方の精神において、人か、鬼人(おに)のどちらが表面化しているか…それによって、モチベーションの高低に差が生じる。おそらくは、鬼人のときは行動力があり、高い集中力を維持し続けている。逆に、人のときは…鬼人(おに)の面が強く表れた時に、己の内心に高いパフォーマンスを要求するあまり…貴方の言う所の『引き戻し』の左様で、モチベーションを低く保ち、注意力も低下させることで精神的な疲労を緩和させようとしている…と、そういうことじゃないですか。」

 黒い鬼人(おに)は千明のその分析に、感心したように手を叩いて、

「おぉ、なるほど…そう言われれば一々、頷けます。素晴らしい。大した洞察力だ。」

 …鬼鎧(きがい)を打ち鳴らす、生身の掌で拍手するのと寸分たがわぬ音…鬼鎧(きがい)とはまったく、不可解な素材である…。

 黒い鬼人(おに)にそう軽薄に褒められたとしても、そんなことに慣れっこの千明は…慣れっこのはずの千明は…それなりに嬉しそうに、照れたように後ろ髪を撫でつけて、

「それはほら、だってねぇ。私もこれで、『萩の会』の会長としていろんなタイプの鬼人(おに)を見てきましたから…それくらいのことは経験で解るわよ。」

と、千明は会長として…皮肉では無いが…とにかく威儀を整えるためにも、咳払いを一つ。収まり掛けていた瞳の白銀に息吹を吹き込む。

 「それでもやはり、貴方の様なケースはまれよね。鬼人(おに)に成ったことで、感情のコントロールが難しくなった人は大勢見てきたけれど…貴方の場合、言ってみればそれとは間逆。過剰なまでに精神の統制が取れていて、ぶれが無く。それでいて、集中状態にも安定感が有り、無理が無い。普通なら過集中傾向に陥って、かえって注意力が散漫に成りそうなものなのに…。ようするに、それだけモチベーションが高い時と、低いいときの振り幅が極端ってことなんでしょうね。そのせいで、集中状態のときは常に安定、そうでない時は常に不安定と…傍目にはそのどちらか一辺倒の、恰も、躁鬱の激しい人格の様に見えた訳ね。まるで貴方の中に、明と暗の二つの人格が混在しているかのように…。」

「うちの姫は、僕の内心が鬼人(おに)に傾いて居るときのモチベーションの高さを、スイッチが入っていると言います。」

 「へぇ、それはまた抜群に的を射た表現だね。スイッチかぁ…もしかしたら貴方のお姫様は、貴方のスイッチの切り替わる切っ掛けとなるものを…貴方の原動力である()に満たされた内心の存在に、気が付いているのかも知れないわね。」

「…怖い事言わないで下さいよ。」

と、喉を震わせる様にして懇願する、黒い鬼人。

 千明は曇りない純白に瞬く瞳で、ニヤリと笑みを浮かべる。

 「ふむ、その反応からすると、さしずめ彼女自身がスイッチ…貴方の原動力って可能性が高そうね。…やだっ、私ったら、貴方の精神構造を丸裸にしちゃったんじゃないの。ごめんなさいね、好奇心旺盛で。」

 黒い鬼人(おに)は切れ切れな息を漏らして、

「いいえ、お気になさらずに…元々、鬼鎧(きがい)を纏うことは、自分の内心をさらけ出していると大差ありませんでしたからね。…ですから今日の所は…この寒空の下で、よくぞ丸裸に剥いて下さいました…とでも言っておきましょう。これで少しは、埋め合わせに成りましたか。」

 「まぁねっ。」

と、千明はそう言いながらも、白銀の瞳を閉じようとはしない。

 千明は相槌に続けて、

「でも、貴方が大野洋平と闘いたい理由については、まだ納得はいってない。」

 「ですから、それは…僕には理由らしい理由はですね…。」

「ねぇ、もう…そうやって話をはぐらかすのは、お互いに止めにしない。」

と、千明は黒のストッキングの膝を寒そうに摩りながら呟く。

 「貴方にはあいつと闘いたい理由が、闘って何か確かめたい事でもあるんでしょ。出なきゃ、貴方の様なタイプの人が、殴っただの、殴られだのって事に…例えそれが、殺したか、殺されたかって深刻な事態に陥ったとしても…他人事にこんなに執心するとは思えないもの…。」

 千明は俯いて、聞いているのか、いないのかも知れない黒い鬼人(おに)に見せる様に…膝小僧を手でパッパッと払った。

 「きっと貴方なら勝算というか…あいつとの闘いを私より上手くやる公算でもあるんでしょうね。だけど今回だけは…例え、私が闘うより、貴方が闘う方が無難だったとしても…それだけの理由では譲れない。私たちは今度の事で、本当に多くを奪われたの…だから、あいつの心臓に突き立ててやりたい、この『気持ち』が有る限り、面白半分で…方法があるからあいつを追い詰めてみようとか…そういう考えの人には、絶対にあいつの始末を任せたくない。」

 千明は何の口も挟んでこない黒い鬼人(おに)に潤んだ瞳を向ける…いや、これは目の錯覚だろう。彼女は鬼人(おに)なのだから…。しかし、その白銀が黒い鬼人(おに)に訴えっていることは、涙を流していたころの千明の『気持ち』と何一つ変わっていないはずだ。

 返答を返してこない黒い鬼人(おに)に…千明は胸につかえたわだかまりを押しつぶす様に、ゆっくりと、長い息を吐き出す。

 「貴方があいつを『後悔させられる』っていったこと…そういう貴方の気持ちは、なんとなく…素直に、嬉しかったし…。あいつをどう追い詰めるのかにも、やっぱり、興味はある。でも、その前に貴方がどんな気持ちであいつに挑もうとしてるのか…私はそれが知りたいの。だって…それが私たち鬼人(おに)へと転生させた…人だったころからずっと捨てられずにきた『心』だから…。」

 問い掛ける様な、それでいて諭す様な、ほのかな湿りを帯びた千明の声。

 千明はかすかな期待の光を煌めかせた瞳で、黒い鬼人(おに)を見つめる。それでも、黒い鬼人(おに)は口籠った様に返す言葉を探していた。

 千明はどこか心細そうにまつ毛を伏せると、

「やっぱり、私には話す気にならないか…。」

と、しっとりとした笑みで、表情を柔らかくして見せた。その寂しい笑顔に…、

「そういうことじゃないんですよ…。」

と、黒い鬼人(おに)の語気はいつも通り飄々としたもの…それでも…。その後に続く長い間が、黒い鬼人が自身の心中深くを探っているのだと、物語っていた。

 黒い鬼人(おに)は少し苦しげな吐息を漏らして…それでも大野洋平に挑まんと、決意したように…口を開く。

 「貴女に話す様なことかは…それは確かに、迷います。ですが、どうしても話したくないと言う訳では無くて、何か…自分でも、どう言葉にして良いのか見当がつかないんですよ。それでも、強い、自分の感情の在りか求めるとしたら…。」

 黒い鬼人(おに)は長い人差し指で、千明の唇を指し示して、

「僕は貴女の言った『他人事』という言葉が気に入りません。」

 黒い鬼人(おに)が人差し指を収めて、握ったその右拳に力が籠る。その力の加わり方が増すほどに、彼の鬼人(おに)としての面が、決意が強くなって行くようだ。

 ()のボルテージが上がっていくとともに、黒い鬼人(おに)の舌の滑りも、普段の流暢さを取り戻していく。

 「大野洋平さんは加奈子さんを殺し、『うちの姫』を悲しませた。それだけでも、彼を抹殺するにたる理由は僕の中に出来上がっていたんです。ですが、まぁ…正直なところ…それでも僕自身で手を下す必要などはないと思ってました。しかし…その事情が今日変わったんです。…うちの姫の命令ってやつでして…。僕は是が非でも、彼に、彼がしでかした事を後悔させなくてはならなくなった。そのためにも…少しでも多めに、彼女の気持ちを大野洋平さんに思い知らせるためにも…僕自身、彼に対する憤りが他人事で在ってはいけない。借りものの感情だけで彼を打ちのめした所で意味が無い。…強いて、僕が直接手を下したくなった理由を上げるとすれば、そういうことになります。…が、これではまだ、不足でしょうかね。」

 話の末尾に漂う、高揚感と、裏腹な冷静さ…何よりも、明晰な自己分析が、鬼人(おに)としての彼の安定感の高さを示している。…では、さきほどの僅かな言葉の淀みは…それこそが、千明の言った通り、『彼の姫』が彼にとってのスイッチをONにする何か…原動力である。それが事実であると物語っているのだ。

 千明はその驚異的なバランスに、呆れた様に、鼓舞される様に笑い返す。

 「どうだろうね。だけど、彼を懲らしめたい者の列の、私の真後ろに貴方が居座っているのは実感したわ。…後はそうだねぇ…私が貴方の立ち回り方を、どうやってあいつを翻弄させるのか…。そして、本当に後悔させられるのかってこと…そういう期待感を如何に私に持たせられるかに掛ってるってとこね。」

 千明の口調から…脈ありと見るや黒い鬼人(おに)はすかさず、

「それはまた大仕事ですねぇ…むしろ、大野洋平さんを仕留めるよりも難しそうだ。」

と、どこか勿体ぶった事を言い出した。

 この見え見えの誘い文句に対して、千明は『気に入らない』と言いたげに眉間にしわを寄せる。しかし、『それ』は確認しておくべきことではあるからして…千明は仕方なく、黒い鬼人(おに)に尋ねた。

 「そこまであからさまに言う以上は自身があるんでしょうけど…まっ、良いわ…。一応、聞いておくけれど、貴方は大野洋平に勝つ事が出来るんでしょうね。」

 そう、律儀に問いただす…否、しゃあなしに聞いてやった千明に、待ってましたとばかりに黒い鬼人(おに)が、

「ご期待に添えずに申し訳ないんですけど…とてもじゃないですが、勝てそうも有りませんねぇ。」

 そらっとぼけているのだろうか…さも嬉しそうに、嘯く様にそう答えた黒い鬼人(おに)

 いい加減、千明も怒っていいのか、憐れめばいいのやら…取りあえず、面倒くさそうに、

「貴方それ、からかっている積り…。」

 それに対して黒い鬼人(おに)は、

「まさか、大真面目ですよ。大真面目。」

 …それは、こいつにとってはこの飄々としているのが平常で、なおかつ、ベストの状態なのだろうが…千明は文句なら最後にまとめて言ってしまえと溜息を一つ…それでも僅かに残されたこの黒い鬼人(おに)の興味と、『期待感』に従って尋ね続ける。

 「じゃあ、貴方は勝算も無いのに闘おうと言うの。あいつを後悔させることが出来ると言うのは嘘だったのかしら…。」

「嘘ではありませんよ。と言うより…僕には始めから、彼に真っ向勝負を挑む積りは無いんです。それならば、わざわざ僕がやるまでも無く、貴女にお任せした方がよっぽど良い。僕がやるよりも遥かに確実で、それに早くすむ。…でも、それだと彼に後悔の念を呼び起こさせることは出来ないでしょう。あまりにもあっさりと決着が付き過ぎてね…。」

と、唐突に自分の事を称賛してくる黒い鬼人(おに)に、千明はどうも測りかねる様に眉根を曇らせる。まったく…これでは、黒い鬼人(おに)が本当に大野洋平と闘いたがっているのか、いないのか。千明を差し置いて自分がやるべきだと売り込んでいる積りなのか、それとも冗談ごとで済まそうとでも言うのか…まぁ、そうでないことは…今は、千明が誰よりもよく解っているようだ。

 千明は微妙な当惑感を覚えながらも、黒い鬼人(おに)のペースを乱さぬ様に、話の流れを戻すことなく温順に先を促がす。

 「そうは言っても、あいつはもう既に二度の『死返(まかるがえ)し』を執り行っているんだよ。貴方に高く評価されるのは悪い気はしないけれど…私だって、そう簡単にあいつを始末出来るかどうか…。貴方に勝算が無いというのであればなおさらにね。」

「またまた御謙遜を…貴女は僕なんかより相当に力のある鬼人(おに)ですよ。あの世に片足突っ込んだような状態の僕はともかくとして…鬼姫さまが彼に遅れを取るような事はまずないと…以前にもそう言ったではないですか。それにね、鬼姫さま…。彼は確かに二度に渡って『死返(まかるがえ)し』を執り行い。そして今も、おそらくは、生きてこの月を…現世(うつしよ)の夜風を楽しんでいることでしょう。ですが…今の彼が貴女を上回る程の力を持っていると言うのはどうでしょうか。あるいは、()の絶対量は…単純に考えて三人前だ…貴女のそれを凌駕したかも…。でも、せいぜい、その辺りが限度というものでしょう。」

 黒い鬼鎧(きがい)がぼうっと…黒く大きな人魂の様に、妖しい輝きを増す。

 月光を、星明りを飲み…夜さえも欺く黒い妖光が…対峙する千明の瞳の白銀にも、その手を伸ばす。

 黒い鬼人(おに)がほくそ笑む様に、

「お気付きに成られたようですね。『これ』が今回の『肝』であり…勝算となる部分です。…詳しい所は、当日、見てのお楽しみという事にして置きましょう。」

と…あからさまに中途半端な所で話を切断しようとした黒い鬼人(おに)。当然、千明は待ったを掛けて、

「いやいや、勝手に話を終わらせようとしないでよ。だいたい、何を根拠にしてそのことを勝算だなんて言ってるのよ。そもそも、あいつは『刻騙(ときだま)し』の『能力』を発言していた。詰まりは、あいつは『死返(まかるがえ)し』に成功して『二本角(にほんづの)』に…そして、食べた土屋さんの分だけ強くなっていたんだよ。それに…今は、多分…健さんの力を得て更に…。」

 千明は奥歯を噛んで悔しそうに…だが、意を決して言葉を次ぐ。

 「一昨日、あいつと闘った時に、私自身がその事を確認している。私の()の入った攻撃を受けても、あいつの鬼鎧(きがい)は崩れなかった。それはあいつが、取り込んだ命を…他人の()を我がものにしている証拠でしょう。私にはとても、あいつの『死返(まかるがえ)し』が不完全なものだとは…。」

「貴女の攻撃で彼の鬼鎧(きがい)が崩壊しなかった…その答えは簡単な理屈ですよ。単に、貴女が強すぎた…それだけです。」

 黒い鬼人(おに)があっさりと言ってのけた答えに、千明はやや不愉快そうに、

「貴方…こんどこそ私のことからかっているでしょ…。」

 「今度も、先程も、微塵もからかおうなんて気は…まぁ、それはそれとして…言ってしまえばごく当たり前の事なんですよ。ですが、いざ、鬼姫さまに肌でつかんで貰おうと思うと…やっぱり、見て貰った方が速そうだ。という訳で、先鋒は僕に譲っては頂けないものですかねぇ。」

と、黒い鬼人(おに)は話を苦しく、苦しく…話をはぐらかす。

 千明は、

「ふんっ…。」 

と、怒気を吐きだして、

「百歩譲って、あいつの鬼鎧(きがい)が崩れなかったのは私が強すぎたから…。」

 「言い換えるなら、貴女と彼との実力に大きな開きが有ったからとも言えますね。」

と、口を挟んだ黒い鬼人(おに)に言葉に、千明は鬱陶しそうに話の方向修正…、

「…あいつの鬼鎧(きがい)が崩れなかった理由が私の方に有るとして…それなら、あいつが『二本角(にほんづの)』に成ったことはどう説明するのよ。あれだって、他者の力を完全に取り込んだ証拠でしょ。」

 「それはどうですかねぇ…。」

 再び、黒い鬼鎧(きがい)が妖しく輝いた…。

 「どういう意味よ…それも当日のお楽しみにしろって言うの…。」

「その方が手っ取り早いですから…出来ればそう願いたいと思います。」

 「なら…。」

 千明は白銀の輝きを強めて、静かに眼差しを…送る。

 「最後に三つだけ答えてくれる…勿論、私に対する一切の遠慮は抜きにしてね…。」

 …黒い鬼人(おに)が頷く。

 「あいつを『後悔』させる事は、貴方に出来て、私には出来ないことなの。」

「はっきり言わせていただけば…今の貴女には難しいでしょうね。無論、貴女が彼と闘えば、彼には『後悔』する暇も無かろうという意味も込みで…。それに…最早、彼には何らの説得も効果は無いでしょう。だからこそ、彼を心底から『後悔』させられるとすれば、僕の遣ろうとしている方法以外に無い…と、思っています。暴言をお許しいただけるなら…僕には彼がのうのうと、安楽死で終わるなどという事は認められない。いや、僕が見逃したとしても、なつ…『うちの姫』は決して許さない。となれば、僕にも選択の余地は無い。」

 不意に乱れた、黒い鬼人(おに)の内心…。千明はそれに触れることなく、代わりに、

「始めから…そうやってはっきりと言ってくれれば、私だって…私に出来ないんなら仕様が無いなって、割り切ることが出来たのに…。私は、それ位には貴方の力を理解しているわよ。…貴方の血を…飲んだからね。…って、そんなに気を使ってさぁ。貴方の目には私が、そんなにプライドの高い娘に映ってたこと。えぇえぇ、そりゃもう。私は自尊心の塊ですよ。私だって、それは伊達にお嬢様やってる訳じゃないですからね。…はぁ、良いでしょ、これくらい愚痴ったって…それでなくても、貴方に順番を譲ってあげようかなって気に成って来てるんだからさぁ。…それじゃあ、次の質問ね。」

 千明はどこか拗ねたように、空気を入れ替える様に捲し立てる。…少なくとも今ので、貴女が掛け値なしの苦労症であることは解りましたよ…。

 千明は瞳の白銀を再点火して、二つ目の質問へと取り掛る。

 「とりあえず、あいつの『死返(まかるがえ)し』が不完全なものであると言うことは、あいつとの闘いで実証できると…貴方はそんな口ぶりだったけれど…。『真っ向勝負ではとても勝てそうに無く』て、

『勝算も無い』としたら、貴方はどうやってあいつを『後悔』させるっていうの。面倒くさいから、口で説明したくないんでしょ。でも、もう一言くらいあってもいいでしょうが。」

 …黒い鬼人(おに)は小さく苦笑を洩らして、

「僕は当日の、貴女の楽しみが少しでも多い方が好いだろうと…はいはい、解っております。まぁ、有体に言ってしまえば、土屋加奈子(つちやかなこ)さん、それに『健さん』のお力をお借りする…そういう事になりますね。」

 千明は驚き、大きく、眩い瞳を見開く。

 「…出来るの…そんなことが…。」

 千明はあんなにも欲しがっていた『理屈』や、『方法論』をすっ飛ばして尋ねた。

 …黒い鬼人(おに)は躊躇い無く頷いて、

「まぁ、おそらくは…。それより何より、力をお借りしなければ、彼を『後悔』させることは出来ないでしょうから…いいえ。もし、お二人の力をお借りせずに、独力で彼を打とうするならば…遣る甲斐もない。少なくとも、僕よりもお二人との面識が深い、貴女を差し置いて僕が挑む意味はね…。」

 千明はまつ毛を悩ましげに揺らして、知らずに止めていた息を解き放つ。それから、黒い鬼人(おに)へ頷き返した。

 「三つ目の質問…貴方は今までに、『死返(まかるがえ)し』を執り行った鬼人(おに)を殺したことがあるの…。」

 そう問われ、黒い鬼人(おに)はしばし、千明の真意を推察しようとその瞳のかぎろいを覗って…それから、ポツリと、

「あります。…『死返(まかるがえ)し』に耐えきれずに、餓鬼(がき)に成り果てた者を含めるならば…今までに三人。…仕留めました。」

と、極力、率直に答えた。

 千明は黒い鬼人(おに)の居住まいから…その内心から…外すことの無かった眼差しを、そっと、閉じた。目の裏には、焼きついて離れない…仲間の事、愛美のこと、児玉警部のこと、そして…。

 膝を抱えたままの姿勢で、瞳を閉じて固まってしまった千明。黒い鬼人(おに)は、その鬼鎧(きがい)に感じる、千明の内心の鼓動に、()の流動に…誰にともなく…再び、小さく頷いた。

 僅かに離れた彼女の背中の感触を惜しむ様に、フェンスが微細な吐息を漏らした。

 「確かに、間違い無く彼を懲らしめられる保証はありません。それに、場合によっては僕がやられる様な事も、十分、起こり得る事態でしょう。しかし、僕は別に心配はしていません。何せ、後ろには現若手No.1の実力を持つ鬼姫さまが、高みの見物と洒落こんで下さっている。僕が倒れても、必ずや、貴女が彼を打倒して、お二人の(かたき)を…それに心にゆとりが有ったなら、ついでに僕の敵討ちも果たして貰えるでしょうから。僕にしてみれば、これほど気楽な…もとい、これほど安心なことは無い。貴女が彼に二度も破れるなんて、天地が逆さに成ってもありえませんからね。」

 黙して目を瞑り続ける千明に、黒い鬼人(おに)は構わずに語り掛け続ける。

 「貴女はただ、死に損ない二人がじゃれ合っているのを生温かい目で見守っているだけでそれで良い。そうすれば…上手く僕が彼に『後悔』の念を呼び起こさせ、あっぱれ彼が自首したいなどと言い出したら儲けもの。逆に…僕が下手を打ったとしても貴女は、僕の心臓に齧り付いてる彼の首根っこ掴んで、きついお灸を一発かませば…何事も無かった様に、その日の夜はぐっすりと眠りに就く事が出来るでしょう。彼も、彼に食べられた哀れな魂たちも、それに貴女も…。」

 胡坐をかいた膝に頬杖ついて、さながら鉄火場の博打打の様に、黒い鬼人(おに)は巨体を傾けた。彼の放つ内心の輝き…あるいは、闇か…その妖光と今夜の月の光を分かつ何ものも、とっくの昔に見当たらない。…こんな、どん詰まりの空の間には…。

 「出目がどちらに転ぶかは…贔屓目に見れば、五分と五分というところですか…。」

「思っても無い事を…。」

 千明の口の端が、言葉尻に引っ張り上げられる様に、愛嬌のある笑みを浮かべる。その静穏に閉ざされた(まなこ)に、黒い鬼人(おに)は皮肉な苦笑を返して、

「後は、鬼姫さまが僕の勝利を祈って下さりさえすれば…雲間の月も靡いて、顔を覗かせてくれる事でしょう…。それ以外の全ての事は、どうぞ、僕にお任せいただきたい。」

 そう言って、黒い鬼人(おに)は胡坐の姿勢から腰を折り曲げて、頭を下げた。

 千明は瞼の裏に…神秘的な…まるで皆既日食を見ている様な、黒い光の輪を見つめている。

 ゆっくりと目を開ける、千明。その瞳に、冷たく、乾いた一陣の風が触れ…千明は二、三度瞬きをしてから、首を逸らして月夜を望む。

 ゴツンッと頭がフェンスにぶつけながら見上げた先には…空を裂いて笑う二日月の輝きが、潤んだ瞳を苛む。鳴り止まないフェンスのさざめきが、千明には…まるであの月の笑い声の様に聞こえた…。

 千明は瞳を黒い鬼人(おに)へと下ろす。その眼からは白銀の炎が消え失せ、代わりに月の赤褐色が沈んでいた。そして…千明が黒い鬼人(おに)に向かって物語る…。

 「いいわ。大野洋平の始末は、貴方に任せることにする。だけど…この大役を譲るに当たって、私から条件があります。…それにはまず、貴方に聞いて置きたい事が有るの…。」

 千明は柔らかな表情を引き締めて、『人の眼』で黒い鬼人(おに)に訴えるのだった…。

 「貴方には、今日までの日常を捨てる覚悟がありますか…。」

 …果たして黒い鬼人(おに)の答えは…それは、明日の月だけが知っている…。

[23]

 鬼人(おに)ならばその光景を何と表すだろうか…。

 ()を解するものが眼を凝らせば、その場に、白い霧の様な…あるいは極小のダイヤモンドダストが舞飛んでいるかのように見えただろう。

 雲一つ無い夜空へと繋がっていくその情景は…さながら、今夜の三日月が身捩って降らせる白銀の粉雪…。

 千明と黒い鬼人(おに)の、寒々しいビルの上での熱の籠ったやり取りの翌晩。三人が思い思いにその時を待つこの路地裏は、千明の高濃度の鬼膜(きまく)に包まれていた。

 そして、三人とは勿論…三日前の黒い鬼人(おに)の様に鉄骨の三角山の上に座り、携帯型音楽プレイヤーから流れる曲に、惚けた様に聞き入っている大野洋平(おおのようへい)

 それから、そのすぐ近くにて無言で佇む、黒い鬼人(おに)

 最後に、二人から距離を置いた場所で携帯電話を頬に宛がっている、蒐祖千明(しゅうそちあき)

 「はい、もう例の路地裏に…大野洋平(おおのようへい)も既にこの場に…。大丈夫ですよ、まだ、お互いに鬼鎧(きがい)を纏ってはいませんし、それに、今度こそ彼を逃がす様な事は絶対に有りません。その為に、『萩の会』から一人、同行してもらっているんですから…えぇ、例の新人の…。」

 千明が電話の向こうの児玉警部と話している横目に、黒い鬼人(おに)が鉄骨の上に座る洋平に歩み寄る。…その足の指先は、手とは違い、猛禽類の爪の如く鋭く尖っている。他の鬼人(おに)たちのブーツの様に丸みのある脚部とは違い、改めて見ると、足捌きにも特有の力強さが感じられる…。

 黒い鬼人(おに)は洋平の隣に立って、両手で携帯電話を包み込む様に通話する千明を眺める。

 「不思議に思いませんでしたか。」

と、藪から棒に問い掛ける、黒い鬼人(おに)

 多分、話しかけられた当人であろう洋平は…その声が聞こえているのかいないのか…両耳にイヤフォンを差したまま、黒い鬼人(おに)と同じように千明を眺めていた。

 黒い鬼人(おに)が言葉を続ける。

 「彼女は貴方の捕縛出来なかった…抹殺にも失敗した。それだと言うのに、こうしてあっさりと雪辱を果たすチャンスを得ることが出来る。しかも、大勢の屈強な取り巻きを、否応なく、(かさね)の上層部から押し付けられそうなところを…こうして、部外者の『野良(のら)』一匹お供にするだけで済んでいる。放任が鬼人(おに)の教育方針と言われればそれまでですが…それでもやはり野放しが過ぎる。幾ら、彼女が『蒐祖の総領娘』…鬼姫だからとっていっても、これ程の好き勝手が許される厚待遇。少し度が過ぎているとは思いませんか。」

 …何を言うかと思えば…まぁ、どうせ意図がどこにあるのか解らないことを言うだろうというのは解っていたが…。

 黒い鬼人(おに)に話し掛けられて…洋平は背を逸らして、体重を鉄骨の上にベッタリと押し付けた両手に乗せる。一瞬の静けさに、洋平の耳から漏れた小さな、小さな…歌声が拡がる。

 どうにも、洋平は黒い鬼人(おに)の話を聞いて居なかったのだろう。…と、そうかと思われた矢先のことだった…。

 「俺はそうは思わないな。」

と、黒い鬼人(おに)が隣に居る、左耳のイヤフォンを外して洋平が答えた。

 黒い鬼人(おに)は目線を千明から、洋平へと移して、

「ほう、それはまたどうしです。」

 「実際、彼女には特別扱いを受けるに値するだけの力がある。それこそ、たかが一度の失敗で覆り様も無いほどの力が…俺だって、もし、彼女と『一対一』の勝負をすることになっていたとしたら…今頃は、尻尾を巻いて逃げ出していただろうな。」

 黒い鬼人(おに)は洋平の言葉の中からちょっとした変化を感じ取ると…当たらず障らず、しかし…どこか嘲笑う様に…、

「それは…二日ばかり合わない内に随分と、感覚が研ぎ澄まされた様ですね。」

 「まぁな。実はそれに絡んで一つ報告がある。あんたらには関係の無い事だろうが…他に話す相手も居なくて、うずうずしてた所だったんだ…聞いてくれないか。俺にとって、人間止めてから初めての朗報を…。」

「どんなことです、言ってごらんなさいな。」

と、黒い鬼人(おに)が促がすでも、拒絶するでもなく、上手く会話を繋ぐ。

 洋平は嬉しそうに、少し照れたように…、

「それがな、俺が殺して仕舞って以来ずっと無反応だった元カノと…昨日、復縁したんだよな。」

 …洋平の支離滅裂な告白。黒い鬼人(おに)は不愉快さと、そして一段強い滑稽さを、閉ざされたフェイスマスクの下で噛み殺した。

 そして、心を深く沈めて、冷静に、抜かり無く飄々と答える。

 「良かったじゃないですか。それなら確かに、鬼姫さまに孤独に立ち向かわなくても済む。でも、土屋加奈子さんでしたっけ…よく、あの鬼姫さまに挑むのを承知してくれましたね。彼氏である貴方にとっては随分と危険な行為ですよ、『あれ』と一戦交えるのは…。」

 それに洋平は照れ笑いで頷いて、

「あぁ、そうだよな。俺も本当は不安だったんだ。死ぬ危険を冒してまであいつと闘うことが…それで生き残れたとしても、俺はこの先もずっと一人で生きてかなくちゃいけないのかって…だけど、もう大丈夫…大丈夫なんだ…。」

と、洋平は自らの心臓の上に右手を当てて、

「それにな、加奈子の奴が言うんだよ。勝負を中途半端で終わらせるなんて気に入らない…自分以外の女との関係は…それが敵対関係でもきっちり蹴りを付けて貰わなきゃ困るってね。…やっぱり、解らないもんだよなぁ人の心って…例え、それが恋人だとしても…。俺も、加奈子がこんなにも俺の事を好いてくれていたなんて、一心同体になるまで知らなかったよ。それに、俺も今は…どうしようもなくこいつのことが愛おしんだ…。」

 そう言って、洋平は優しく自分の胸を叩いた。…垂れ下がった左側のイヤフォンが、短く揺れる…。

 千明の声が、野郎二人の会話に割り込んでくる。

 「…解りました。私の鬼膜(きまく)が消えた時はお願いします。じゃあ、終わったらまた連絡しますね。」

 千明が携帯電話の電源を落とした。それに促がされる様に、黒い鬼人(おに)が悠然と千明の方へと歩み寄る。

 千明は自分の肩口をかすめる様にして背後に回った、黒い鬼人(おに)を目線で追いながら、

「二人とも、お待たせしました。もう、いつ始めてもらっても構わないわよ。」

 その千明の一声に…ガラスを引っ掻く様な嫌な音を立てて…黒い鬼人(おに)が応じる様に腕組みする。そして洋平は、

「あぁ…。」

と、とりあえずの生返事を返したものの…僅かに逡巡…それから、

「悪いけど後少しだけ…後、二分だけ待ってくれないか。もう少し、この曲を聞き終わるまで間だけ…。場合によっては、加奈子が好きだったmicoの歌を聞かせてやれる…これが最後の機会になるかもしれないからな…だから、後少しだけ待っていて欲しい。」

 そう言って洋平は、心中に拡がる余韻を閉じ込める様に、垂れ下がったイヤフォンを左耳に戻そうと…だが…、

「例え、その歌が、貴方を鬼人(おに)にしたのだとしてもですか。」

 鼓膜に突き立てられた黒い鬼人(おに)の言葉に、イヤフォンを持った左手が止まる。

 「どういう意味だ…。」

 キッと、千明と、黒い鬼人(おに)を睨みつける、洋平の凄みのある瞳。…が、その程度の事で動じる者などこの場にはいない。

 黒い鬼人(おに)は涼しげに、洋平の瞳に宿る紫鳶(むらさきとび)色の焔をはぐらかすと、

「どうもこうも、貴方にだって…それに貴方の胃袋に収まって彼女にも…ちゃんと心当たりは有るんでしょう。」

 その言い草に、洋平の顔色は変わらない。しかし、千明が不快そうに黒い鬼人(おに)の方を振り返る。

 黒い鬼人(おに)は当て所も無く声を漏らす。

 「まっ、話しの続きは、曲の再生が終わったらにしましょう。加奈子さんの為にもね。さっ、どうぞ、お待ちしていますから。」

 黒い鬼人(おに)ははやし立てる様に、組んだ腕から右手を差し出して、イヤフォンを付ける様に勧めた。その黒い鬼人(おに)の厚意に…厚かましい程の厚意に対して…洋平は、左手から摘まんだイヤフォンを離すと、代わりに、その手でポケットの中の携帯型音楽プレイヤーを掴みだす。

 そして洋平は、それを、黒い鬼人(おに)に見せつける様に、驚異的な握力で粉々に握りつぶした。

 粉砕された回路が、まだ碌に修繕もされていない地面に飛び散る。千明が呆れたように、忌々しそうに鼻息を一つ…。

 洋平は手に残った破片を投げ捨て様に、

「今、聞き終わったところだ。話してくれ。」

 …黒い鬼人(おに)は短く笑気を吐く。

 「それじゃあ、ぼちぼち始めますか…。」

と、千明の背後から、路地裏の中央へと歩み出る黒い鬼人(おに)。解き放たれた腕が、獲物を求める様に蠢く太い指が…いやが上にも猛々しい戦意の程を物語る。

 洋平は三日月の薄明に浮かび上がる『黒』に、眼を細めて…、

「何の積りだ…。」

 黒い鬼人(おに)はふざけて、硬く、重そうなその右手をヒラヒラと揺らして、

「そんなに凄まなくても、ちゃんとお話はして差し上げますよ。ですが、余り待たされると、折角の賓客が機嫌を損ねて帰ってしまうかも…。」

 そう言って、黒い鬼人(おに)が自らを照らす月を見上げた。

 …敵を眼の前にして、遠慮なく、臆することも無く、急所であるその喉を晒す。その黒い鬼人(おに)の余裕とも、無邪気さとも取れない仕草に…サッと、この場に緊張と、戦慄が、木枯らしの様に行き渡る…。

 黒い鬼人(おに)が仄暗い瞳を洋平に戻して、続ける。

 「ですから、月明かりに頼める間に始めませんか。お話は、殴り合いの合間にでも上手いこと挟めば良いでしょう。」

「そうじゃない。」

と、洋平は黒い鬼人(おに)の減らず口を切って捨てて、

「どうしてあんたが、俺とそいつの間に割り込んでいる。俺はその事を聞いて居るんだ。」

 「あぁ、その事ですか…。」

と、黒い鬼人(おに)のどこか詰まらなそうな、だがまぁ、合点がいったという語気。

 黒い鬼人(おに)は更に一歩。ズズイッと洋平に近づくと、その漆黒の体躯で彼の視界から千明の姿を覆い隠してしまう。…洋平が苛立たしげに喉を鳴らす。

 「こちらの判断で、貴方とはまず僕が闘う事に成りました。それだけのことですよ。」

「随分と勝手何だな。…で、どういう思惑が有っての事なんだ。」

 「いやぁ、特別な理由が有ってのことじゃありませんよ。単に、彼女より格下の僕が最初に貴方にぶつかっておけば、それだけ二番で手の彼女が楽を出来ると…それだけの事ですよ。」

「なるほどね。だけど、俺としてはまず、やり掛けの仕事を片付けてしまいたいところなんだがなぁ。それに心配しなくても、前にあんたに売られたケンカのことはちゃんと覚えているよ。…そういう訳だ、退け。」

と言う、洋平の命令にも、黒い鬼人(おに)はただ小さく笑うのみ…。

 そして、洋平が言葉を付け加えようと口を開くのを、遮る様に…、

「おやぁ、まさか怖いんですか。全力で、万全な状態で挑まなければ、とても鬼姫さまには勝てそうもないと…そう思っているのではないでしょうね。そうなると…取りも直さず、この僕と闘う事にもある種の懸念を抱いて居ることになる。そう、つまり、僕との勝負…万が一にも負けまいが…しかしながら…それでもまかり間違えば、深手を受ける様な事も…少なくとも、無傷で勝ち抜く事は難しいという御考えなんでしょうね。確かに…『死返(まかるがえ)し』を執り行った貴方にとって、手傷を負う事は即死に直結しますからね…でもなぁ…。」

 …その瞬間、鬼膜(きまく)を張り巡らせていた千明には、黒い鬼人(おに)の気配が変わったのが解った。背中を向ける彼にいったいどの様な変化が…そのはっきりとした所まで知れない。だが、断言できる、何かが変わったのだと…その兆候が、黒い鬼人(おに)の口調に表れた。

 「臆病風に吹かれたなら、鬼姫の前で跪いて見るのも手ではある。それでどうあれ、『楽』にはらなるだろうな。でもなぁ…お前の女が見張ってんだろ…だったら、少しは良いとこ見せてみろよ。でないと彼女もあんたを見捨てて、今度こそ、あんたにきれいさっぱり消化され、またもや離縁。それが嫌なら、俺を倒して力を示すんだな。」

 そんな黒い鬼人の変化に…千明が不思議そうに、身体を傾けて黒い鬼人(おに)の背中に隠れていた、洋平の表情を覗いた。そこには、惚けたような、驚いた様な、予想通りの洋平の顔が…だが、どうも違う。それは、黒い鬼人(おに)の言葉遣いが乱暴になったから、恐れをなしたという顔では無い。

 どちらかと言えば…思いもしないものを見たと様な…そんな、訝しげな表情。

 黒い鬼人(おに)は洋平の、そんな、奇妙なものを見る様な目付きに気付くと…ハッとして顔を背け…そして何故か、両の眼を隠す様に顔面に手を翳した。

 「おっと、これは失礼をば…自分が闘うとなると、どうにも高ぶりを抑えきれなくて…ですが、御安心を。いざ闘い始めれば、手は動かさなければならない、舌も大いに滑らせなければならない。そうして集中していさえすれば、二度とこのような無礼な口を利いたりはしないはずですから。ですが、まぁ…もしも、僕が貴方に止めを刺す様な事があれば…そのときにはどんな汚い言葉を吐くかは、見当もつきませんがね。」

 黒い鬼人(おに)にそうも悪し様に言われて、洋平も溜息。それから、緊張感の漲る顔に、鋭い目つきで黒い鬼人(おに)へと挑み掛る。

 「いいだろう。あんたが俺の事をどんな言葉で罵るのか…俺も興味が湧いて来たよ。だけどな、あんたが悪態を吐くのは俺を殺す時じゃない。あんたが次にその馬鹿丁寧な言葉を使えなくなるのは、唯一、俺のこの手で締め上げられ、無様な命乞いをする…その一度きりだ。」

 洋平の腹の底から張り上げられた声。その残響と、急激に噴出しだした紫鳶の()に…路地裏の光景が一変する。

 月明かりも、千明の白銀の()も弱弱しくなりを潜め。洋平の()の閃光により、黒い鬼人も、千明も、そしてこの路地裏全体が濃い影の中に落ちていく。

 巨大な()をたっぷりと使い、光輝の中より現れたその姿は…千明から受けたダメージを一切感じさせない、なめらかで、光沢のある鬼鎧(きがい)の雄姿。

 …その傷を癒さんが為に、健は…。千明は眼が潰れる程の光線にも瞳を逸らさずに、悔しさと、憤りを噛み締めた。

 鬼鎧(きがい)が生成し終えた洋平が、弱まる光と、薄れる影の狭間を追う様に、黒い鬼人(おに)の元へ。二人の距離が洋平の一歩一歩で確実に縮まっていく…。

 後、5メートル…3メートル…そこで洋平の脚が止まった。詰まりそこが、洋平にとっての一足一刀の間合いとなるのだろう。

 磁力の様に貪欲に引き付け合い、そうかと思えば、一方では頑なに反発し合う二人の()

 そんな対峙の時が十数秒ほど続いたとき、遂に…黒い鬼人(おに)が口を開いた。

 「いつでも、始めて下さって結構ですよ。」

 対して、洋平が、

「もう、とっくに始まってる…。」

 交差する二匹のくぐもった声と声。

 洋平がそろりと、姿勢を低くして…今にも黒い鬼人(おに)へと飛び掛からんとする、必殺の力を脚部に溜め始めた…その時だった…。

 「ちょっと、ストップ。二人とも待ちなさい。」

と、千明が二人の激突に待ったを掛けた。

 突然の横槍に、全身を一つのスプリングの如くして力を蓄えていた洋平は…、

「おい、なんだよいきなり…たくっ…。」

と、不満たらたらで、力のやり場に困った様に…前のめりで地面に倒れ込むと、そのまま座り込んでしまった。

 黒い鬼人(おに)は黒い鬼人で、やれやれといった具合で背後の千明へ振り返る。

 「何ですか、この切羽詰まった場面で藪から棒に…。」

「始める前に、もう一度だけ貴方に確認しておきたいの。私が貴方に闘いの順番を譲った…その条件の事をね。」

 千明の言明に、黒い鬼人(おに)はまた、やれやれといった具合にフェイスマスクを撫でながら、

「その事ならちゃんと解っていますよ。僕の素性を公明正大に明かし、その上で(かさね)に加入する。それで良いんでしたね。」

 何食わぬ顔で…いいや、文字通り『喰えない』顔でしれっと答えた黒い鬼人(おに)

 その答えに御不満が有った様で…千明は黒い鬼人(おに)に掴み掛かる様に、『喰って』掛ると、

「違うわよ。正体明かして、『萩の会』に入るんでしょうが。何を勝手に、約束を反故にしようとしてくれちゃってるのよ。」

 千明のあまりの剣幕に、さしもの黒い鬼人(おに)もたじろいで、

「あ、あれ、そうでしたっけ…でも、『反故にしようと』なんて言い方は酷いんじゃないですか。ほら、素性を明かすことは覚えていた訳ですし…。」

 そんな言い訳がましい言葉を漏らす顔に、千明は据わりまくった瞳をグイッと近づける。

 「あん、何か文句でもあるって言うのかしら。…なんだったら今からでも、選手交代したって私は良いんだよ。」

 …にしても…生身の、それも華奢な方の千明が…全身を硬質ガラスに似た鎧で覆われている鬼人(おに)に詰め寄る。かなりすごい光景だな…。

 黒い鬼人(おに)は…どうどうと、いきり立つ千明を宥めるように、軽く彼女の肩を叩いて、

「解っていますとも、本当ですってば…今のはだから、ちょっとした冗談ですから…すいません、お願いですから今回だけ見逃し下さい。」

と、最終的には平謝りで、何とか挑戦権は失わずに済んだ様だ。

 千明は、こちらを眺めながらしきりに笑い声を洩らす洋平に、やや不愉快そうに表情を険しくしたが…それでも座り込んだままの洋平に合わせるかのように、

「お待たせしたわね。それじゃあ、いつ始めて下さっても結構ですわよ。」

と、それはまぁ、それなりに、低姿勢で口上を述べた。

 洋平はもう一笑い吐き出して、からかう様に返事をする。

 「おいおい、始めろったって、それはちょっと酷いんじゃないか。流石に、はいそうですかと言う風にはなぁ。仕切り直すにしたって、もう少しなんとかしないといけないだろ。なっ、そうだろ。」

 洋平はそう黒い鬼人(おに)の方へも呼びかける。それに…黒い鬼人(おに)は吐息を洩らしつつ、首を傾げて見せた。

 「何よ、何か私に文句でもあるっていうの。私の事が気に入らないんだったら、この黒いのをきっちり仕留めてから、改めて言ってよね。どんな難癖付ける気か知らないけれど、その時になったら相手してあげるから、これでね。」

と、千明が握った拳を、洋平に見える様に、肩の高さに掲げた。

 洋平は首を横に振りまわして、それを否定して、

「そうじゃねぇって…それに、そう何度も的をとっかえひっかえされるのはもう勘弁だ。俺の言いたいのは、あんたに喧嘩を売ろうってことじゃなくてさぁ。ようするに、さっきはあんたが俺達の闘いに待ったを掛けたんだから、再開するにも、あんたに号令を掛けて貰いたなと思ったんだよ。そうでもしないと、どん底に落っことした戦意を取り戻せそうにないしな。」

と、子供の様に落着き無く、上体を揺らす洋平。

 千明がその様子を見下ろしていると、耳元からも声が続く。

 「そうですね。折角、鬼姫さまに立会って頂く訳ですから…一声頂戴するのも一興。どうぞお願いいたします。あっ、でも…今しがたのような乱暴な合図は無しの方向で、宜しく…。」

と、黒い鬼人(おに)はまた千明の肩を叩くと、もう一方の手でお馴染みの鉄骨の山を指さした。

 千明は…溜息を吐きだすと、さも面倒くさそうに、

「まぁ、良いよ。開始の合図くらい出して上げる。だけど…特に貴方は…ここに私が居るのが闘いの邪魔になるんだったら、はっきりとそう言えばいいの。何でもかんでも、当たり障りが小さければ良いってもんじゃないんだからね。…でもまぁ…お気遣いには感謝しておくとするわ。」

 千明は肩に伸ばされた黒い鬼人(おに)の腕に、自分の腕を絡めるようにして…ポンっと掌で叩いた。それはまるで、誰とも知らないはずのこの黒い鬼人(おに)の、健闘と、無事を祈るかのように…。

 そうとも、これから始まる闘いは、紛れも無く命の奪い合い。…そして、奪い取った命脈を、どの様に弄ぶのか…その高揚感と、おぞましさがこの場の空気を作り上げている。

 詰まりは、鬼膜(きまく)を張り巡らせている…今のところは観客でしかない千明ですら、その様な暗澹たる心境に居るのだ。だとしたら、これから互いを競い合い。そして、必然的にこの後の人生を二手に別たれる二人の胸中は…。生か、あるいは死か…。

 千明が鉄骨の山前に移動するのに合わせて、黒い鬼人(おに)も場所を返る。

 鉄骨というおあつらえ向きの審判席の前で、改めて対峙する黒い鬼人(おに)と、洋平。

 千明は立ち上がろうとしない洋平を一目…だが、まぁ、好きにさせておくようだ。

 そして…大変長らくお持たせいたしました。今夜この場で、黒い鬼人(おに)と、洋平の雌雄が決します。

 千明は、焦燥感と、期待感で胸をざわつかせながら…始まりの…そして、この場に集ったあらゆる者たちの魂への惜別の合図を送る。

 「それじゃあ…。」

「そうそう、鬼姫さま…。」

 「たくっ、今度は何よ。…あぁ、もう後で聞くからね。合図するよ。」

「お約束の事ですけどね。」

 「はぁっ、まさか、ことここに及んでまでごねようって気…その話は後で聞いて上げるから、とにかくもう合図するからね。」

「勘違いしないで、条件の話ではなく、お約束の話ですよ。それはちゃんと忘れずにいること、それだけお伝えしておこうと思ったまでの事ですから。」

 「約束…って、話が見えないんだけれど…何の約束でしたっけ…。」

「ですから、必ず、僕が彼を『後悔』させるという約束を…その事は、しっかりと覚えています。ですので、どうぞご安心を…。」

 その一言で、淀んだ空気は一掃され、激突寸前の二人の間に。鋭く、冷えた緊張感が行き渡る。洋平の低く、喉に張り付いた何かをはがす様な、笑い声。

 …結局、千明の合図を待たずに、勝手に二人して『その()』なってしまった様だな…。

 千明は迷惑顔で大息を吐く。…そして、空っぽになった肺に新たな空気を、二人の()の片鱗を吸いこんで…、

「始め。」

 張りのある声が路地裏に響き渡ると同時に、座った姿勢だった洋平が四つん這いに…そして四肢の力を地面へぶつけて、跳ね上がる様に宙に…。

 また一つ、新たな傷を刻まれた地面。そして、爆ぜる音。

 黒い鬼人(おに)は変わらぬ端然さで、洋平の行方を見上げた。

 三日月をかすめ飛ぶ毒々しい色の影。それを悠々と瞳で見つめながら、凝縮していく時間。

 高く、高く舞い上がった洋平が、工事現場の分厚い骨組に取り付く様に…その側面を蹴った。

 それだけで、洋平は強弓より解き放たれた一本の矢と化して、疾風の如く黒い鬼人(おに)へと襲いかかる。

 急速に接近する二匹の鬼人(おに)

 立ち尽くすのは、黒い鬼人(おに)。そして、研ぎ澄まされた爪を振りかざしたのは、洋平。

 その気の遠くなる様な瞬間の中に…黒く、静かな笑い声が潜む…。

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