第二話 その二
[19]
「ごめんね、こたちゃん…。」
夏芽のその声が、その言葉が、昨夜の短い逢瀬を回想していた小太郎を、現実へと引き戻した。…とたんに、耳にこびり付いて離れなくなる雨音…。
少し、雨脚が強まったかも知れない…。
夏芽は涙をグッと飲み込む様に膝を抱えて、
「今朝ね…また、加奈子のお母さんの所に行って来たの。そしたらね…おばさん泣いてた。離婚してやるんだって…。」
しゃがんだままで振り返る夏芽の視線に…透明なビニール傘を差し掛ける、小太郎の腕が震えた。
「昨日の晩に、加奈子のお母さんと、お父さん…警察署に呼ばれたんだって、いきなり…加奈子の遺体を引き取って欲しいって…。あんまりだよね。おばさん、加奈子が見つかっていた事も、それに…加奈子が死んでいた事も…呼び付けられた警察署で初めて知ったんだよ。それにね…。」
千明は墓石の花入れの周りの、湿り切った泥を指で拭いながら、
「遺体だって渡されたのは、もう焼かれた後の…骨も残って無い様な灰…遺灰の入った壺だったんだって。御丁寧にどこかの大学病院のDNA鑑定書付きで…。何か、発見された時の状態が余りに酷い有様だったからって、本人かを確認したみたいな事を言われたらしいけど…どうしても意味が解らないのは、変死体として病理解剖した後に、加奈子の身体を焼いた事…それも、加奈子のお父さんが許可したんだって。…『妻に見せるに忍びない状態だったから。』とか、勝手なこと言っちゃってさぁ。」
徐々に…悲鳴のように大きくなっていく、夏芽の声…。小太郎は安っぽい労わりの言葉を掛けたくなる衝動を、奥歯を噛み締めて堪えていた。
「本当にもう…無茶苦茶だよ…。」
夏芽は小太郎の強張った顔の上に、何の答えも語られていないことに…若干の失望を覚えながら、また…加奈子が眠るらしい墓石へと首を垂れる。
「加奈子のお母さんとお父さん…あんなに仲が良かったのに…。おばさんが言うの、おじさんは加奈子が居なくなってから変わったって…。自分に黙って火葬をしたこともそうだけど、警察から引き取った加奈子のお骨を…おばさんは、自分たちでどこかの大学に持って行って鑑定し直したいって考えてるんだけど…おじさんが許してくれなかたんだって…。それどころか、自分が知らない隙に、お骨をどこかに持って行ってしまったんだって…自分には、ここに…このお墓の下に納めたらしい事を言ったそうだけど…おばさん、それも信用してないみたいなんだ。」
「お前は、どう思ってるんだ。」
「えっ…。」
と、夏芽は、不意に小太郎が背中に落っことした質問に…、
「だから…夏芽は、この墓に、土屋の遺骨が入ってると思ってるんだろうかって…思ってるから、こうしてるんだろ。」
それは…小太郎のその言葉は…無思慮なだけに、夏芽の心を深く切り裂いた。夏芽は抱えていた膝を、泥まみれの地面に下ろして…、
「知らないよ、そんなの…。」
と、ポツリとつぶやいた。…あとに続く、感情…ややもすると、この雨にかき消されてしまいそうな感情…。
小太郎はその小刻みに震える背中を見つめながら…深く、深く…呪っていた…自分が知っている事を、夏芽に話せない自分を…否、話そうとしない自分を…。
そう、小太郎は知っているのだ…夏芽が想像する様な加奈子の遺体など存在しない事を…そして、加奈子の父親が何故、その様な理不尽な行いをしたのかと言う事を…。
…昨晩に再び遡る。
『加奈子の両親についての事を教えてやる。』と言う千明の申し出に…黒い鬼人はいつも通りのこだわりのなさで、喜んで飛びついた。
千明も黒い鬼人の崩れる様子を見せ無い平静さに、半ば呆れながら、一方ではどこか予想の通りと言うか…安心したように話を始めた。
手始めに千明が話して聞かせたのは、加奈子の家族に関してではなく…洋平の家族の事だった。
「…大野洋平には…彼には中学生の妹がいるそうよ…。だから、累と警察側では、主にそこを突いて交渉したの…まぁ、鬼人の世に慣れているだろう貴方には、言うまでも無いかもしれないけれど…。」
そう淡々と話す千明の表情から…この話が彼女にとって、決して、愉快なものでは無い事を雄弁に物語っている。
千明はそんな顔色を読み取られるのを嫌ったのか…そのまま、路地の暗がりから出ようとはせずに続ける。
「鬼人である事を伏せたとしても…現代の日本で人一人が蒸発したとしたら、それをおざなりにしておく訳にもいかない。失踪者の家族は、勿論、その事を警察や、マスメディアに訴え出るだろうし…今度の事の様に、人の法の領域に当てはめれば、刑事事件として扱われることに成るような場合はさらに厄介…。それでなくとも、鬼人の起こす『災い』は、一般の人のそれにくらべれば異常としか言い様の無いものが殆どなんだから…。」
「だから累や、累の意を受けた警察では…『事件』として世間の耳目を集める前に、先手を打つのが通例と成っている…っと。しかも今度の事は、表ざたにすれば猟奇殺人ですからね…特に、加害者側家族を丸めこむのは、容易かったでしょうね。」
黒い鬼人のシニカル面が色濃いのは解っていたが…千明が厚意で話してくれているのに対してこの皮肉は…痛烈を通り越して、残酷だったと言えよう。…それが、自分がその世界の住人だと、自覚すること根深い千明だからこそ…凄惨に…。
黒い鬼人の言い様に一時、次ぐ言葉を取り損ねた様に黙っていた千明。だが彼女は…おそらく、その高潔さゆえに…そんな内心の動揺を見せる事を潔しとせずに、
「否定はしないわ…。」
と、黒い鬼人の乾いた氷の様に冷たく、明瞭な発現を受け止めて、
「日本人の中には今でも、何だかんだ言って信賞必罰っていう道徳観念が強く残ってる。殺人を犯した人物の家族も、例え直接は犯罪に加担していなかったとしても…その人の傍に居ながら、兆候に気付けなかった、犯罪を未然に防ぐ努力を怠った。監督不行き届きとして…殺人を犯した人同様、罰を受けるべきだって考え方を持っている人が少なくない。実際、父親が殺人を犯した事で、それまで親しくしていた人達とも絶縁状態に成ったとか…嫌がらせを受け続けて、当り前にしていた生活が送れなくなった。誰も、自分たちの事を知らない土地に移り住まなければいけなくなったとか…そんな話に事欠かないんだから、呪わしい話よね、実際。」
吐き捨てる様に物語る千明の純粋さに…黒い鬼人は静かに…まるで、爪を押し付け、抉る様に、
「そして我ら鬼人は、そんな人の弱みに付け込む訳ですね。まったく、唾棄すべき存在だ。」
と、何が楽しいのか楽しくないのか、相変わらずの軽さで…だが、どこか押しつけがましく…口を挟んだ。…にしても、きつい毒舌…。それと言うのもやはり…黒い鬼人の脳裏に、彼の言うところ彼の『姫』の顔がチラついているからなのだろうか…。
だとしたら現実に、今こうして、黒い鬼人の二つの暗い瞳に移りこんでいる『鬼姫さま』としては、良い迷惑この上無い話だ。
「そうね…その通りだわ。」
と、千明の肌は、そして精神の清廉さは月の白きを欺くかの如し…。
それなのに…だが、それ故に…こうして気の重くなる、目の前の鬼人とは異なる『ドス黒い』話をしなくてはならないとは…。そう、話さなければ誰よりも…蒐祖千明(しゅうそちあき』の気が済まないのだろう…。
「大野洋平の家族とは、彼が人を殺した事…それもむごたらしい方法を用いてって事は、十中八九、間違いないと言う事を教えて交渉したらしいわ。さっきも言った通り、被害者の次に酷い目に会うのは多分、加害者の家族。私たちはその事を十分に彼らに認識してもらって…そう、貴方の言う様に弱みに付け込んだ訳。今回の場合は…『こちらには、息子さんの殺人及び失踪をひっくるめて、事故死として処理する準備が有る。もし、貴方達に彼の『事故死』を受け入れて貰えるのならば…貴方達は二度と、『息子さんが凶悪犯』だなどと言う不快な言葉を聞かなくて済むと…。そうなれば、お父さんは今まで通りに会社に通えるし、お嬢さんは、貴方達の事を誰も知らない様な僻地の学校に転校せずに済むと…ようは、脅した訳ね。」
黒い鬼人はそんな千明の自虐的な口調に、困った様に苦笑い。
「こちらも少し皮肉が過ぎました。謝りますから、あまり気を悪くしないでください。鬼姫さまのご厚意で話して頂いているのに、大変失礼いたしました。」
と…まっ、やっぱりわざと遊んでいたのかと…。
千明は暗がりから乾いた瞳を黒い鬼人の方へ向けて、
「別に、私も貴方も何も気にする様な事は無いよ…結局、私は鬼人で、貴方も見た目通りの鬼人だったと、それだけの事だからね…早めに当り前の事に気付けて、かえって良かったわ…。」
…何だ、このアンニュイな感じは…。単に、テンションが下がっただけなのか。それとも千明も、小太郎の様にスイッチが入ったとか…まぁ、そこまででは無いか…。
千明もそんな自分の感情をもてあましている様に、息を一つ吐き出して、
「それじゃあ、そちらから聞く事が無いのなら…土屋さんの両親の話に移るけど…良い…。」
と、陰鬱に話す千明。…口では移ると言いながら…そういながらも何故か、この場にとどまりたがっている様な、うじうじとした彼女らしくない心情が見える…。
黒い鬼人はどこか腫れものを扱う様に、
「あぁ、えっと、じゃあ幾つか質問を…。あの、話の流れからすると、大野洋平の家族は累の申し出を快諾…いいえ、皮肉のつもりじゃ無くて…とにかく、加害者側は口封じに応じたんですね。」
黒い鬼人は千明の心の琴線を踏み乱さ無い様に、ピエロの様におっかなびっくり…だが流石と言うか、話の終わりにはしっかりと、ある種の緊張感が付与されていた。
千明はそんな黒い鬼人の悪戦苦闘にも一層、憂鬱そうに、
「そうよ。」
「それにしても、よく説得に応じたものですね。息子が失踪したと言うところまでは、きっと…連絡も取れていなかったろうし、自分たちの前にしばらくの間は現れていなかったろう事から…何とか、納得がいくかも知れませんが…。ですが、息子が凶悪殺人犯だと言われても…俄かにはねぇ…。まず、自分たちなりに事実を確認して、心に踏ん切りを付けてから…それから自分たちの身の振り方を考えたいと思う。それが人情で、親の情ってものだと思いますがね。鬼人の僕でもそう思いますよ。」
と、黒い鬼人の口調は、落語の人情物でも話しているかのようであった。
千明はその軽妙な舌の滑りに、薄笑いを浮かべる。
「解っている癖に…。」
それに黒い鬼人は短い息と、微かな真剣さを交えて、
「まぁ、見当は付きますけどね…。」
黒い鬼人はそういうが…正直、その理解は足りなかった…。
千明はギュッと目を瞑り、唇を咬む。そして、腹の底からわき上がる様な苦悶を、全身に受け入れた。
「貴方の考えている通りよ。当然、お膳立てとして大野洋平の家族には、こちらで用意した真実の証拠と、それにこちらに都合の良い偽りの証拠を見てもらった。そしてその後に、鬼を使って思考を改変させてもらったの…。丁度、貴方が、あのカラオケ店の受付の女性にやったようにね…。」
千明の言葉に、鬼人は恐縮したように、照れたように笑う。…まだ彼には、彼女が辛そうにしまでて言わんとする事が…言いたくて堪らない事が…解ってはいない…。
黒い鬼人は千明がうらやましくなる様な、ものにとらわれない口振りで、
「あっ、やっぱりバレていましたか。いやぁ、あれは思考の改変なんて便利なものじゃないんです。ただ少々…彼女に、こちらのスパイごっこに参加するのに乗り気に成って貰おうと思ったまでで…。そもそも、彼女は鬼人では無いから、鬼に対して耐性が有りませんでしたし…。それに、事前に、僕の情けない姿を見られていましたからね。彼女には頭から、僕への侮りが有った。それで彼女の心に付け込み安かったんです。言い方を変えれば、僕の鬼に少ない拒絶で漬け込まれてくれたと…。そういう訳で、貴女の思う様な、そんな良いものでは無いんですよ。だいたい、いくら僕でも、やれるのは精々が、相手の表面的な気分を任意の方角に変える程度。それも、鬼人には効かない様なレベルですから。何と言っても、根が受動的なもので…だから、思考の改変なんて洗脳紛いなことは…とてもとても…。あっ、こんな時に何ですが、僕の素性をしばらくは調べないでおいてくれるお約束、よろしくお願いしますね。…って、あれっ…どうかしましたか。」
よほど調子よく話していたからか…それとも、御自慢の集中力の成させた技なのか…と言うのは、単なる皮肉として…。しかしながら事実…黒い鬼人は千明の小さな異変に気付いたのは、たっぷりと、自分の言いたい事を全て言い尽くしてしまってからであった。
千明は黙って俯いている。彼女の見下ろすのは、無数の街灯の光に引き裂かれ三方に伸びるビルの影、それより仄かに色濃い己の影…そして…。
黒い鬼人はその彼女の纏う鬼…鬼人となったものが知らず知らずに己を包む、その翳りに…矢庭に気付いた。
「まさか、その『思考の改変』とやらは…貴女がやったのか…。」
黒い鬼人の驚きと、疑問に満ちた声。答えるように見返す千明の瞳には…『ようやく、気付いたのか…。』とでも言いたげに、街灯の余光が妖しく写り込んでいる。
強いて肯定されぬでも、黒い鬼人は深く納得していた。それでなくとも、彼は感じていたのだから…つまりは、
(これは…湿った真綿を押し付けられているみたいだな。それ程に、鬼姫さまにしてみれば不愉快だったんですね。)
という具合に、千明の内心に欝屈した不快感、嫌悪感を肌で…もとい、肌の上に剥き出しになった『内心』で感知していたのだから…。
だからこそ、黒い鬼人は鋭く、もしくは、超然とか…察知した。まず一つは…。
「それにしても、どうやって…失礼ですけど、それほど超越的な鬼の制御が出来るとは…。そもそも、思考の改変と簡単に仰いましたけど、ある意味では、そこまで行くと制御と言う範疇を超えている。むしろ、鬼による人格の支配に近い様な…いいや、もしかして…なるほど、そういうことですか。」
と、黒い鬼人は何やら圧倒されたように、度が過ぎる事に呆れる様に、愉快愉快と笑いを放つ。
「貴女の『尾』の持つ能力が、『それ』なんですね。」
と、黒い鬼人が嬉しそうに尋ねるのに、千明は隠し立てするのすら面倒だとばかりに、物憂げに、
「そうよ。」
…黒い鬼人はうん、うんと頷いて、意味深な呻きを漏らす。
「うーんっ…貴女が若手NO.1の実力の持ち主だと言う事は聞き及んでいましたが…よもや、それ程に破格の力をお持ちだったとは…でも待てよ…。」
ふと思い付いて、黒い鬼人は何とも云えない顔の千明に向けて、
「貴女の能力が催眠や、洗脳に通じる類のものなら…もしかして、僕が貴女を止め事は、ただ徒に被害を拡大させただけ…本当は、貴女の尻尾の力に任せた方が良かったんでしょうか…。」
この黒い鬼人の意見には…今更、何を…という気持ちを禁じえないが…。
千明はどう思ったのか…。黒い鬼人の問いに首を横に小さく振って答えた。
「そんな事は無いと思う。私の能力は、相手が鬼の絶対量が多いほど、鬼制御に長けている程に、相手を術中にはめる事が困難になるの。だから元々、相手が鬼人だと思考を改変も速やかには終わらなくなる。そこに持ってきて、私は左腕をやられて、精神統一が出来なかった…上手くいったとかどうか解らないもの。」
「確かに…貴女の『能力』は、鬼人の発現しうるであろう限界を逸脱している。そんな神掛った…馬鹿げたと言い変えたくなるような力を行使するとなると…かなり安定した精神状態が要求されるのは間違いない…か…。」
「改めて、貴方に言われた『集中しろ』って言葉…耳が痛いわ。」
と、千明が唇で、鋭利に頬を切り裂く様に笑う。
…黒い鬼人は千明の『能力』を『神掛っている』と形容した。その様に言い表した事は的確だったろう。
大野洋平、黒い鬼人、それ千明の、各々の『尻尾』の『能力』を比較してみれば一目瞭然。
大野洋平の『能力』は毒針で物体を溶かす。それ自体かなり危険な力ではあるが、同じように生物や、無生物を溶かす事はある種の強い薬品を使えば、おそらくは代替可能な力と言える。それだけでも、後の二人の『能力』に、水をあけられていると言わざるを得ないだろう。
次に、黒い鬼人の『能力』だが、千明の見立てでは超高速移動…本人が言った『青森や、鹿児島まで二、三十分で着く』という旨の言葉が事実ならば、それどころか超音速で移動する『能力』となる。
無論、それはかなりすごい事だ。だが、それですら物理現象の領域内で収まってしまう事。
それにどうやら、高速移動をする際には全てが尻尾任せと言う訳では無く、しっかり鬼鎧の脚力を利用しているのだし…結局は、運動能力の補助的な意味合いの強い能力なのかもしれない。
第一、『うすノロ』呼ばわりされた『膂力重視型』の中では、それは動きの早い方に違い無かろうが…『機動力重視型』の鬼人は何も大野洋平だけでは無いはず。
他の『機動力重視型』の鬼人の中に、超音速で動ける者がいないとも限らないのだ…。
まぁ、そういうことを思えば…黒い鬼人の『能力』の評価は、この辺が妥当ではなかろうか…。
さて、それでは…洋平と、黒い鬼人には、只の比較対象…あるいは前置きに成り下がって貰うとして…いよいよ花形たる、千明の『能力』について検討してみよう。
まず、彼女の『能力』は『思考の改変』を相手に施す事。ストレートに言ってしまえば、暗示や、洗脳の類だそうだ。
今、この文章をお読みの方はこう思われたのではないでしょうか。
『暗示や、洗脳などは、それが日常的な行為で無いにしろ、言葉で当てはめる事が出来た以上は、それは人間活動においては既存のものでしか無い。…ていうか、小難しい言葉並べるまでも無く。むしろ、人一人を溶かして無くすとか…新幹線もビックリ、戦闘機も裸足で逃げ出す様な超高速移動の方が…『能力』としては凄くねっ。』
と…。
しかしだ、二人の『能力』が持ち得ない特性を、千明の『能力』は備えている。それは、過去、現在、未来の全てにおいて、影響を及ぼし得ると言う特有性。こればかりは、洋平や、黒い鬼人の『異能』程度では、逆立ちしても真似できないだろう。
その事が、千明の『能力』を神掛り的なまでに別格なものとしているのだ。
考えてみて欲しい。洋平と黒い鬼人の二人の『能力』では、過去に起こった事の情報をすり替える事が出来ないのは勿論のこと…影響を及ぼす事が出来るとしたら、たかだか現在と未来の間にあるごくごく小さな、それでいて短い事象に置いてのみ。
なぜなら、時間の概念とは他者が居て始めて成立するもの…その広大な、絶え間ない流れの中では…如何に物体を崩そうとも、如何に高速で動こうとも…人が、すなわち時が…今こうある事を変えることは出来ない。物理的な変化とはかならず、時間軸を進んだ先で起こる事なのだから。
そして、未来に人が起こす事象を定めようも無い。仮に、人を脅してある行動を強制したとしても、それは単に結果が発生したに過ぎない。それでは、『現在』に居ながらにして『未来』を操った事には…『未来』に影響を及ぼしたことにはならないのだ。
ところが、千明の『能力』にはそれが出来る。過去、現在、未来…それを生み出し、補間し続けている『時』であり、『人』に事実を誤認させることによって…千明が大野洋平の家族に施した行為も、それの一種と言える。
つまり、千明は『そうでは無かった』と忘れさせ、『そうだった』と錯覚させる。
その『時』、ある『人』にとっての過去は不変性を失い、『現在』は実感と言う尊い価値を捨てる。そんな、不確かな『もの』が積み上がって出来た『未来』など…言わずもがなであろう。
思えば、千明の『能力』は神聖なまでに罪深く、そして心有るが故に何よりも恐ろしい…。黒い鬼人はその本性を、力の規模を見抜いたからこそ…過剰とも言える表現を適切に使って、彼女の力を称えたのだろう…。
だから…黒い鬼人はしみじみと、千明にさせてしまった仕打ちについて悔いる…。
「まぁ、『能力』から言っても、貴方が『思考の改変』を行った事は適当だったんでしょうが…本来は雑用の様な仕事をさせられた理由は、やはり…大野洋平を取り逃がしたことへのペナルティだったんでしょうね。だとすれば、貴方に対して謝るべき事がまた、一つ増えましたね。」
黒い鬼人がそう言うのに、千明は何故か、そしていつの間にかふっ切れた様に、
「さっきも言ったでしょ。あくまで私が自分で決断したことだから、貴方に謝って貰う道理は有りません…。それより、時間も無い事だし、他に質問が無ければ、早めに被害者側家族に関しても話して起きたんだけど。」
と、ほんの少し前までは、あれ程重苦し気配を撒き散らしていたのに…まったく、どういう変わり身だよと…。
黒い鬼人はそんな、ころっと変化した千明の心の空模様にも、別段、驚きもせず。それどころか、さも当り前とばかりの語調で、
「そうですか。では、お手数ですがお願いします。」
…それと言うのも、千明の沈鬱な、真綿の様な質感を持った鬼に巻き付かれたときに、黒い鬼人は感じ取っていたのだ…。
健の件もあり、本心では一刻も早くこの場を立ち去るべき…黒い鬼人の方からもそう進めているのだから、気兼ねなく帰るべきだと思いながらも…千明がうだうだとしながらこの場に留まり、黒い鬼人との話を続けた…否、話を打ちきれなかった理由。心情の核心…。
要するに彼女は、自分のしでかした事を、自分に強制された事の…それを言われるがままに行った自分の、哀調を帯びた心臓の音に、耳を傾けてくれる相手が欲しかったのだろう。
そしてその光栄な相手に選ばれたのが、この黒い鬼人。
多分、話を聞いて貰う相手には…信頼感や、友情、それに恋愛感情などから…千明と言う確固たる存在が、心中に描かれている様な相手では駄目だったのだろう。それでは、話を聞いた相手にも、話をした千明の方にも…話の内容が内容だけに…内心にしこりが生まれ、きっとお互いに余計な重荷を背負う事に成る。
(それだけは嫌だったんだろうな…。だからこそ…。)
そう、だからこそだ。黒い鬼人の感じた通り、千明は相手にとって自分がまだ何者でもないという心境を…丁度、自分の事を『鬼姫さま』などと呼び、頑なに茶化す事を忘れない…まさに、黒い鬼人の様な、もやもやした気持ちを全力で放り投げられ…それでもなおキャッチボールが成立する様な相手を求めていたのだろう。
(確かに、僕は相手から投げ掛けられた言葉を…ボールに書かれた文言を、一々吟味する様なタイプではないからな。…って、もしかして僕…鬼姫さまに直感的に馬鹿扱いされているのかな…まぁ、構わないけど…。)
…と言う訳で…これで黒い鬼人も御用済み。
(話していた方がストレス解消になるとは聞いて居たけど…女は怖いな…。)
と、黒い鬼人は、気が晴れた千明が『帰る』と言いだす前にそそくさと、
「それじゃあ、土屋加奈子さんの両親についてを…やっぱり、鬼姫さまが彼女の両親にも『思考の改変』とやらを…。」
と、何故かこう言う状況に置かれた男が反射的に取ってしまう様な態度…遠慮がちに、相手に付いた埃を払う様な…そんな妙に謙ったような態度で、黒い鬼人は尋ねた。
いや、ちょっとまてよ…『こう言う状況』とは述べてみたものの…この二人の関係はいったい、どうの様なものだったか…。
まぁ、どうあれ…例え興味の無い相手から敬われ、それが形ばかりの尊重でも…まるで貴婦人か、それとも鬼姫さま…もとい、お姫様のように扱われるのは…女性にとってもそう悪い気はしないだろう。
それはリアルお嬢様の千明でも変わらないようで…。多少、感受性に難は有るが…まぁ、物分かりの良いと言う事は掛け値なしの、この『黒衣の騎士殿』を人気の無い宵の口に侍らせて、それなりに居心地の良い時間を楽しみ始めたようだ。…現実と、敗北の憂さを吐き出した…空虚で、心躍る時間を…。
薄雲一枚に覆われた空が、今でも泣きだしそうだ。
「ううん、彼女の家族に関しては、その必要は無かったの。…この先は、そうする事を余儀なくされないとも限らないけれどね…。」
と、千明はまだ、微かに虚しさを引き摺っている。…だが流石に黒い鬼人には、ビルの影をぼかす様な笑みを送って、
「そうだ。もし貴方の知り合いに、『思考の改変』が必要そうな人がいるなら…例えば、恋人とかね。それで、浮気がバレそうとか、円満に別れたいとかっていう問題を抱えているんなら…貴方と私のよしみで、一回だけなら融通を利かせてあげない事も無いよ。どう、何かあるなら言ってよね。」
と、千明なりに彼からの『借り』や、彼を苦い感情の捌け口に…結果的に…してしまったことを負い目に感じているのだろう。…プライドの高い癖に、どこかこびる様に可愛子ぶって…強引ともとれる程に、黒い鬼人に見返りを払わせろと詰め掛ける姿は…彼女の責任感の強さを、そして背負うもの大きさを連想させて…いじらしい。
こんな場面くらいでしか、普通の女子高生ぶれない千明。そのざわついた心情を鬼鎧で、雲を照らす街灯の反射光で捕らえながら…黒い鬼人は少し困った様に、
「は、はぁ…生きている間に、その手の、人並みの経験が出来る事が在ったとしたら、まぁ、今わの際にでもお願いしましょうか。」
と、相も変わらず、本気とも冗談ともつかない事を言う。それから、畏まった風に、
「あの、大変有り難い申し出で、感謝の言葉も無いんですけど…そのうち、鬼姫さまの『能力』をお借りする時までには考えて置きますので…今は、どうして土屋加奈子さんの両親に『思考の改変』を行う必要が無かったのかという、その話の続きを窺って…まず、その事のお礼を申し上げたいんですけどね。」
この男は…どうしてこう、皮肉めいていると言うか、慇懃無礼な言い回しを敢えて選ぼうとするのだろうか。
千明は短期間で集中的にこの厭味ったらしい文句に晒されたため、『もう慣れた』とばかり。…それよりも、彼女の苦労症の方が強く顕在化しているようで…自分に借りを速やかに返させようとしない黒い鬼人に、この不満顔。…勤勉さで言えば、どこぞの『ランプの魔人』よりも優秀な事は間違いなさそうだ…。
千明は…まぁ、一先ずは頼られているのだから…と、詰まらなそうな顔をしながらも、話を次ぎ始める。
「解りましたよ、そんな急かさなくても…って、急がなきゃならないのは私だったか。えっと、じゃあ前置きなしで言わせてもらうけれど…土屋さんのお父さんがね、『鬼子』だったの。」
…その時の千明の言葉を思い起こす、小太郎。場面は、不意に強くなった傘を打つ雨音に、墓地へと引き戻された。
雨の雫が額を伝わり、頬へと流れ落ちる。その抉る様な、軽い痺れを伴う感触に…小太郎は何とも云えない心持に成る。小太郎には、土屋加奈子の父親の気持ちが痛いほど解った…解っていたのだ。
昨晩の千明の言葉がまた、むせ返るような、土の匂いの傍らから蘇ってくる…。
「『鬼子』…つまり、自分は鬼人では無いけれど、鬼人とは縁がある…血筋ではあるけど、鬼人へと転生しなかった…または、転生する前段階に居る人の事…。土屋さんのお父さんは、『鬼籍』には登録されているのだけど、本人はもう転生の芽は無いみたい…幸せな事にね。」
千明の、この笑顔の甘酸っぱさは…鬼人同士にしか解るまい。
千明は何らかの反応を期待していた訳では無かろうが…黒い鬼人の鬼鎧の、その瞳の奥の黒い平静さに…気持ちの良い笑顔を広げて、
「だから、親族にも結構な数、鬼人へと転生を遂げている人が居て、当然、彼は鬼人や、鬼存在を知っていた。土屋さんが、鬼人へと転生する寸前に有ったこともね。」
「なるほど…それで累の方からは、どの程度の事までを彼に説明したんですか。」
黒い鬼人は物分かりの良い所を発揮して、話を振られる前に千明に押し返した。
それが、凄惨な話を一秒でも早く終わらせてやろうとする千明への配慮なのか。それとも、気まぐれに興が乗ったからかは解らない。
千明も黒い鬼人の冷静すぎる物言いに思わず問い返す。
「どの程度って、どういうこと。まだ話の途中だし…って言うか、何で説明する側の私がこんな事を聞かなきゃならないのよ。話は最後まで…まっ、もういいわ。…で、何だけ。」
そう言って千明は、『皺に成るな』と念じる様に眉間を指で撫でる。
黒い鬼人は申し訳程度に首を傾け会釈して、
「土屋加奈子さんの父親に、累が、彼女の死を伝えたろうことは解ります。そして未だ生まれ変わってはいなかった土屋さんの死に関して、わざわざ累がしゃしゃり出てきた以上は…当然、その死に鬼人が関わっている…その事を彼女の父親に伏せて置くことは出来なかったろうことも…。ですが、土屋さんの父親が『角無し』であるというのなら、もしかして…累は土屋さんの死に様を…彼女がどの様な末路を辿ったのかと言う事も、話に付け加えたのではないのかと思ったものですから。だってそうでしょう。そこまでの話を聞いていなければ、どうあれ…土屋加奈子さんが殺されたことも…死体が無い事も…累と警察側がこの件を表ざたにせず、刑事事件としても取り扱われそうに無い事も…どうして、納得できると言うんです。…まぁ、ここまで言ったら、敢えて鬼姫さまのお口を汚す必要は在りませんね…。もし、僕の言う事が合っていたら頷いて下さい。それでも、よろしいですか。」
黒い鬼人が尋ねた先…千明は胸の辺りに小さく差し出した掌を上に向け、しとしと泣きだした曇り空を見上げていた。…雨雲は、こんなにも白さを留めているのに…そう思うと、胸が詰まりそうになる。
千明は、一時訪れた心の平穏を惜しむ様に…静かに頷いた。
黒い鬼人が問う。
「累は彼女の父親に…彼女が肉体を溶かされて、鬼人に喰われた事を話した。そうではないですか。」
…千明が一度だけ頷く。
「そうでしょうね…そこまでやるのが効果的でしょう。…それともう一つ。土屋加奈子さんの父親は『鬼子』だそうですけど…貴女の話し振りからすると、もしかして…彼女の母親は普通の人間なんですか。」
…千明が再び、一度だけ頷く。
「そして土屋さんの母親は、自分の娘が亡くなった経緯を知らない。…それとも、累や、警察がでっち上げた話を信じ込まされているという訳ですか。」
…千明は、今度は頷かずに空を仰いだ。
「そうでは無いと…ですが、警察から何らかの話が言っているはずでしょう。先手を打ったと言うのなら…いや、そうか。土屋加奈子の母親は警察の話を信用していない…そういう事ですね。」
…千明は雨に瞼を閉じたまま、どこか眠たげに二度頷いた。
「まさかとは思いますが…土屋さんの母親の説得は、土屋さんの父親に一任したと言う事ですか…。」
…千明は頷かずに…しかし、今度は大きな瞳を見開いて薄暗い空を見上げている。
黒い鬼人は千明から反応を待つ。そうして数秒、黙していると…千明は雨に濡れた口許を手で拭って、
「…彼が自分から言い出したそうよ。『娘の遺体の代わりに成る様なものだけ用意して欲しい。』って、『娘の身代わりを作り出す様な真似は自分には出来ないけれど…それさえ累の側で用意してくれのなら。その後の事は、自分でケジメを付ける。』…『だから、妻にも、自分にも、娘の記憶を捻じ曲げる様な事は、何もしないでくれ。』…そう言ったと聞いてる…。」
千明の喉元に留まっていた手が、ダラリと下がった。
「そうですか。ところで土屋さんの父親は、自分の娘を殺した相手の事を…大野洋平については御存じなんですか。」
「どうかな…元々は、娘と付き合っていた相手だし…薄々は気が付いているかもしれない。でも、累側からは教えはしないと思うな…累も、その構成員の都合をモラルとして回ってるところがあるし…それに…。」
千明は掠れた自分の感情の代わりに…自らの本質である鬼人の代わりに…瞼に溢れ、頬を濡らす雨に瞳をしばたかせる。
「土屋さんのお父さんが一番よく解ってると思う。累の不興を買う様な行動を起こせば…借りに土屋さんの敵討ちが出来たとしても…その代わりに全部失う事に成るって。…敵討ちの達成感も、後悔も、土屋さんを思う気持ちも…彼女の事を忘れ得る事を恐れた気持ちも…全部…。私はきっと…。」
と、千明は嘲る様に、躊躇う様に…暖かい雨のうずきに耐えながら、
「私は…累に土屋さんの両親から、彼女の記憶を消す様に言われたとしたら…それを断らない。ここまで関わって置いて、汚れ役だけ他人任せにする様な事はしたくないから…。だから、私には祈ることしか出来ない。もう、誰の『心』も傷つきませんようにって…鬼人が祈る事を、神様が許してくれるのなら…だけどね。」
千明の声音はしっかりしていた。それに、もう俯きはしなかった。
黒い鬼人は一枚の絵の様なその光景を見つめながら、ひっそりと、空から瞳を逸らさない千明に呟く。
「酷な話だ…。」
それが誰へと向けられた言葉なのかは、千明にも解らなかった。
それでも千明は、冷めやらない雨をあやすかの様に…、
「解ってる…解ってるよ…。」
千明はあの時…そう何度も呟いていた。
小太郎は背筋をなぞる冷たさに思う。…雨はあの瞬間から、今まで、ずっと降り続いているのでなかろうかと…。それが正しいのであれば、もしかしたら…夏芽がこうして泣き濡れているのも、自分が悪いのではないかと…また、小太郎の脳裏に、加奈子の父親の事が浮かぶ。
小太郎には解る。それは、人と人との共感などと言う生易しい次元をとうに超えて、小太郎の深い部分に…内心に…彼の中の『何か』に突き刺さった。
加奈子の父親も、ちょうど、今の小太郎の様な気持で加奈子の母親に真相を語らずにいたのだろうか。
…娘が殺されたなどは言えない…ましてや、ドロドロに溶かされて化け物に飲み干されたなどとは口が裂けても…例えそれで、加奈子の母親が遣り切れない思いを抱え続けることになろうとも。それで…自分への信頼が亡くなってしまおうとも…。
(俺は…俺も出来る事をやろう。…今回の件で『未来』を、『残りの人生』に変えられた人たちへの手向けとして…それで、鬼姫のことは勘弁してやってくれよな。)
そう心中で独り言ちて、小太郎は始めて目の前の墓石を真っ直ぐに見詰めた。まるで、墓石の面に刻まれた『土屋家代々の墓』というただの文字の背後…遥か遠くに居る誰かに、語り掛ける様に…。
(それから…夏芽の心からあんたの面影を薄れさせることに成るかも知れない。このままじゃ、夏芽の為に成らないからな。あんたも知ってるだろうけど、こいつ、結構物事を引き摺るタイプだから…。その時は…いや、その後も…夏芽をあんたの様な悲しい目には合わせないと誓うよ。だから…あんたを過去に置き去りにする夏芽を、許してやってくれ…。)
夏芽の袖に、雨だれが一滴…。
夏芽はハッとした様に、背後の小太郎に振りかえる。
「こたちゃん、ずぶ濡れじゃないの…。」
と、何やら言い掛けてすぐに、泣き腫らした顔を背けた。
夏芽は小太郎に向けた横顔の分だけ、小じんまりとした笑顔を作って、
「あははっ…ごめんね、ずっと屋根代わりにしてて。」
精一杯に気丈に振舞ってはいるが、喉を震わせる声にまだ…涙の名残が…。
夏芽は恥ずかしそうに、唇を引っ張って笑みを浮かべる。
「…そろそろ、帰ろうか。ずっと、こうして居ても仕方ないしね…。」
夏芽はそう言うと、濡れた顔を拭おうと…しかし、自分の両手が泥まみれなのに気付くと…両掌を地面にペタリとくっ付けて、力無く項垂れる。
…それは、底なし沼にゆっくりと呑まれていく様な…地の底から夏芽を引き摺り込もうとする者に身を任せる様な…。
小太郎はそんな放心状態の夏芽に不安を感じながらも…測りかねていた…。自分が夏芽の為にしてやろうと考えている事は、ただのエゴなのか。やはり…夏芽の望みは『これ』なのかと…。
そして小太郎は思う…内心の狂喜に鳥肌が立つ思いを…それは、
(俺は夏芽の精神の危うさにずっと前から気付いていた…そして、そのどうしようもない危うさに、俺の内心の『鬼人』が引かれていたことも…。多分、俺の躁鬱のチャンネルの切り替わり方の異常さも…夏芽に合わせるため。夏芽のおぼつかなさに付け込むためなんだろう。それが…そしてその事を知りながら生きることが…俺の鬼人としての業…。)
小太郎が握りしめる傘の柄から、ギュッという嫌な音が漏れる。
(俺は俺を許せない…。だからこそ、俺の人としての意識がはっきりしている間は、絶対にお前の心を支える。守って見せる…それが、卑しい鬼人としての眼でお前を見てしまった…俺に出来る償いだと思ってる。)
小太郎は鬼人では無く、人としての本能で知っていた…。
人と人との心の触れ合いは…それが、安っぽい思いやりだったとしても…それがお姫様にとって、スーパーヒーローの様な王子様に全ての問題を片付けて貰うよりも、尊い問題への立ち向かい方になることを…。
そして、一瞬でも千明の『能力』を宛てにした己を恥じた。
(だから、一緒に帰ろう。そして壁にぶつかったらまた、ここに戻ってくればいい…俺は、人としての俺が、何度でも付き合うから…。)
小太郎は独り、気持ちを暖かくして、
「あ、あの、夏芽…その…。」
と、きっと、自分が思った事をそのままに伝えたかったのだろうが…なかなかどうして、上手くはいかないものだ。
そしてこんな風にもたもたしている間に、世の多くの男たちは気付かされるのだ。『彼女の為を思って』…それが、何も言わずに彼女を抱きしめなかったばかりに…やるせない独りよがり終わったんだと…。
夏芽の薄ら寒い笑い声が…小太郎の言葉を、甘さをかき消す…。
「ごめんね、こたちゃん。本当に、ごめんなさい…謝ってばかりで…。でも、こうして誰かに謝ってると、何か落着くんだ…。今週中に起きた事が全部、嘘だったみたいに…全部、他人事みたいに思えてくるから…正直、少し楽なんだよね。…本当、最低だわ、私。加奈子の事も心のどこかでは、誰かに押し付けられたらって思ってる…それは、解ってたの…終わりにしなきゃね…もう…全部…。」
目を覆う様に、無限に広がる地面に縋り付く夏芽。涙は波紋を作りながら地面に溜まる雨に混じり…ただ後悔だけが溢れ、浮かぶ。
「終わりにするね、こたちゃん。それに、加奈子…。だから、最後にもう一度だけ言わせて…こんな卑怯者な私でごめんなさい。…加奈子、何も出来なくて、本当にごめんね…。」
夏芽の深い慟哭。無情にも溢れる涙雨が、夏芽の指を沈めていく。
そんな時、小太郎の胸の奥で…小さなうずきが…。
それは棘に刺された様な、鮮明で、甘い痛み。…そう感じたのが人としての自分なのか、それとも鬼人としての自分なのか。小太郎にはそれが解らなかった。
それなのに…気付いたときにはすでに、小太郎は夏芽に語り掛けていた…。
「夏芽は卑怯者なんかじゃない…それに、まだ、終わらせることも無い…。」
小太郎の言葉に、夏芽は驚いたように顔を上げる。そこには今までに見せた事無い…怯えているようでも無い、おどけた様でも無い…小太郎の凛々しい眼差しがあった。
小太郎の、奥底に鮮烈な『黒』を宿す瞳が訴えかける。
(卑怯者は俺の方だ…お前のことを一緒に生きる相手としてじゃなく、一緒に死にたい相手として見てる…自分にはもう、夏芽を心中相手として邪な眼で見る時間しか…精神的にも、肉体的にも残って無い…。卑怯なのは、それと知りつつ夏芽から離れられない俺だよ…。だからせめて、俺が終わらせてやる。お前が俺の内心に着けた火で…命の火勢を取り戻した俺の『鬼』で…『僕』が夏芽の望み通りの『終わり方』を用意してあげるよ…。)
小太郎の瞳の、音も無く、静かに燃える漆黒が…夏芽を包み込むように、喰い尽さんばかりに、雄弁に彼女に物語る。…人として、言葉では上手く伝えられないから…鬼人として、その方が都合が良いから…。
夏芽は小太郎の強靭な視線に晒されて、ようやく足首を、指先を濡らす雨の冷たさに気付く。
身体の末端の方から夏芽の心臓へと流れ込む震えは、別種の生き物への怯えだろうか。…否、違う。
夏芽の瞳はまさしく人間のそれなのだ…他の何者でも無く…本能を殺す理性に支配された、人だけが持ちえる眼光。
そこには恐怖も、後悔も無い。有るのは、小太郎がどうしようもなく引き付けられた…我が身すら滅ぼしかねない危うさだけ…。
小太郎は…黒い鬼人は…彼女の瞳に吸い寄せられるように、満足げに笑みを零した。
(解ってるよ。もとより僕には、彼女を傷つける積りは無い…滅相も無い。当然、彼女を僕の短い人生に付き合わせようと思うほど、利己的でも、寂しがり屋でも無い。…そんなバイタリティは、鬼人に生まれ変わるときに、使い切ってしまったからね。それでも…。)
小太郎は柔らかく瞼を閉じると、視界に広がる黒…自らの鬼人に…そして、その黒の先に小さく見えるもの…人としての自分に…抑えきれぬばかりの高揚感を浮かべた笑みで、語り掛けた。
(それでも、残りの人生を夏芽の為に使う。鬼人として命を燃料に、夏芽の望む事を叶えながら燃え尽き、暖かみのある灰に成りたい…それくらいは、構わないよな。)
その何百篇ものおとぎ話を語り聞かせる様な…慈愛と、儚なさの入り混じる『黒い瞳』。
勿論、夏芽にはその瞳の黒さは気付き様が無いことだが…そんなものを易々と越えて伝わるだけの時間を、夏芽は小太郎と過ごして来たのだ。
「こたちゃん、あの…。」
と、夏芽は小太郎の言葉を促がす様に、苦い笑いを浮かべる。…いつの間にか、夏芽の背後から、死の影は消え去っていた…。
小太郎は、地面から手を離し、正座する様な格好の夏芽に、
「あのさぁ、俺…聞いてなかったよな、まだ…。」
「えっ、何、何の話。私はまたてっきり…。」
夏芽は、泣き腫らしたそのままの顔でニッコリと微笑んで、
「てっきり、こたちゃんが私の事を慰めてくれようとしているのかと思ったんだけどな。ほら、だって、そういう話の流れじゃ無かったかなぁ。」
そう真正面から言われて、小太郎はこの曇天の下で眩しそうに、照れたように赤い顔を伏せた。
夏芽は小太郎の『がんばり』に笑顔を、この雨雲のような寂しげな色に染めて、
「でも、残念。当てが外れちゃったか…それで、私ったら、何をこたちゃんに言ってなかったんだっけ。」
小太郎は耳たぶの発熱を急いで冷まそうと、息を吐いて、吸って…そして、
「まだ、一つ残ってるだろ。」
「えっ、何が。」
「だから、夏芽の、その…ご『主人様』の、『ランプの魔人』への最後の願いがまだ…残ってるから。」
「へっ…。」
時間が止まった様に…今は、夏芽の頭の中で、世界中の雨音だけが響いている。
数秒後、夏芽は服が汚れるのも構わずに、泥まみれの手でお腹を押さえると…、
「あっ、あはっ…あははははっ、ははっ。何言ってんのよ、こたちゃん。あははははっ。」
夏芽は身体を折り曲げて、あらん限りの息を…憂さを…吐きだす様に、大笑いに、笑い転げ始めた。
そう言った夏芽の反応を、小太郎はまったく予想していなかったのか…少し、ムスッとした顔で、
「言えよ、聞いてやるから。」
小太郎の追い打ちに、夏芽は一層…可笑しそうに、涙を流して…。
「もう、笑わせる様なこと言わないでよ。こんな時に、こんな場所で…可笑しいったら無いわよ。だいたい、スイッチも入って無いくせしてさぁ。」
夏芽が指摘した通り…確かに、外見の雰囲気や、態度、口調からは…小太郎の『スイッチ』がONの状態に成っている様には見えない。
それに心の中ではあれほど高らかに宣言していたと言うのに…夏芽との現実のやり取りではまだ、言いたい事も思う様に伝えられていない。…少なくとも『スイッチ』がONの状態の時は、夏芽の内面の空模様が快晴だろうが、土砂降りだろうが…物おじする様な事は無かった。
でも…眼光だけは、『スイッチ』がONの状態にも、負けてはいないんだがなぁ。
著者が思うに、もしかしたら…小太郎の内心で燻ぶる『鬼人』が、強く、彼を突き動かすのにも…何かの切っ掛けが必要なのではなかろうか。さしずめ、カラオケ店で織田健に睨みつけられた時の様な…小太郎の精神を卵の殻の様に覆う、モラルや、常識などの、抑圧を打ち砕く衝撃…そんな切っ掛けが…。
夏芽は申し訳無さそうに…が、やっぱり可笑しそうに、
「ごめんね、笑ったりして…だけど、以外だったから…スイッチ入ってる時のこたちゃんがそういう言い回しをするのには、最近に成ってようやく慣れたけど。まさか、私の知ってるいつものこたちゃんにまで、遂に、そんな頼もしいこと言われる日が来るなんて…ううん、嬉しんだよ。ありがとうね、こたちゃん…でも、無理しないで…。私の為に無理して、自分からスイッチを入れようとしなくても…こうして居てくれるだけで、私は十分だから。」
夏芽の慰めにも似た言葉。
それは人として小太郎が辿りついた答え。そして、人として小太郎が夏芽にしてやりたかったこと。…それも今はなぜか虚しい。
今や小太郎の中では、内なる鬼人の自分が『彼女の為に出来る事をすべてしてやれ。』と持ちかけてくる。…あるいは、小太郎は自らの鬼人に屈したのかも知れない。
それでも、夏芽の心が解ったら…何かせずにはいられない…。
「関係無い…スイッチなんて関係無い。」
小太郎は、鳥の雛が卵の殻を内側から破ろうとする様に、敢えて危険な外界へ身を投じることを選ぶ様に、自らの言葉で夏芽へと…待ち受ける生存競争へと…踏み出していく。
「俺はスイッチが入ってるとか…そうじゃない時の情けない俺だとか関係無く…お前の力に成りたい。夏芽がこれだけ苦しんでるのが解るんだ…俺だって何かせずにはいられない。…夏芽の為に、自分の時間を使える俺で居たいんだ。だから…その…。」
出だしの口上はなかなか見事だったが、どうにもその熱情は、話の端々にまで行き渡らなかったと見える。
小太郎は精一杯に恰好を付けた興奮と、思いのたけを相手に晒したことの羞恥心で顔を真っ赤にしていた。
それでも小太郎は、真っ直ぐな視線を夏芽のたゆとう瞳から離そうとしない。
夏芽は…小太郎のそんな気持ちを嬉しくも思いながらも…。彼のその澄んだ瞳に移った自分の…その苦悩と…無力さを…他者を通してまた、見せつけられたことに胸苦しさを覚えた。
所詮、お仕着せの思い遣りでは…自分が相手の問題をまるごと片付けてしまえば、それで済むという安直な考えでは…結果的に、守りたい人の自尊心を蝕んでいくだけなのかもしれない。
人と、鬼人との狭間で、小太郎はその事をどれほど理解しているのだろうか…。
小太郎は羞恥の火照りで、顔面の皮が解け落ちそうな錯覚に飲まれる。それでも、夏芽を追い詰めながら、夏芽に問い掛けながら…、
「俺は、土屋のことはほとんど知らないし…夏芽の代わりに成って悲しんでやれないのは解ってる。さっさとこんな状況を終わらせて、夏芽から土屋への…友達への気持ち…今の辛いこととか、寂しこととか、奪い取ろうなんて…出来っこないのは知ってる。それに…。」
(…夏芽が俺のことを、弟くらいにしか思っていないことも…知ってるけど…。)
小太郎はそう、次に続くはずの、更にその次に繋がる可能性のある言葉を…硬く、胸にしまいこんで、
「俺は…例え今回のことに解決策が存在しないんだとしても。どうにかしようとすることが間違っているんだとしても…俺は、夏芽の心が引き裂かれて終わるなんて見過ごせない。…何も出来ないだってことも、解ってるんだ…それでも、夏芽の気持ちを少しだけ…夏芽が堪え切れずに流した涙の分だけで良いんだ。ほんの少しだけ、俺にその気持ちを分けて欲しい。俺が必ずその苦しみを、何かに…それは自己満足とか、納得感以上のものには成らないかもしれないけど…夏芽が笑顔に成れる何かにして、必ずその気持ちを返しに来るから…だから、夏芽の気持ちを聞かせてくれよ。」
小太郎の言葉に聞き入る様に、雨のスクリーンに塗り込まれていた景色が、夏芽の視界の中に帰って来た。
夏芽は圧し掛かる様な現実感と、しめやかな雨の音の中で…小太郎を見上げた。
「こたちゃんは優しいね…ねぇ、加奈子、こたちゃんがこう言ってくれてるの。私、こたちゃんの言葉に甘えて、加奈子の悔しい気持ち…預けてみようかな。こたちゃんは、この気持ちを何かに変えて返してくれるそうなんだって…。だから、加奈子。もし、『薄情者』とか、『人任せにするな。』とか、私に文句があるんなら…加奈子ならそれが幽霊だろうと、生霊だろうと構わないから…せめて私の夢枕にでも立ってよ。私だって…貴女には言いたい事がたくさんあるんだから…。」
と、誰にともなく離した、夏芽。言い終えてしばらくの間、口を最後の言葉の形のまま開けっぱなしにしていたが…背中の筋肉が悲鳴を上げそうな、力無い溜息を吐いた後に…諦めの気持ちを噛み締める様に、上唇と、下唇が重なり合う。
『夢枕』…夏芽がどこか躊躇いがちに吐き出したその言葉…。
夏芽は鬼人では無い…だから、五感以外の感覚では加奈子の死を感知出来ようも無い。だが、夏芽にはどうしようもなく、加奈子の死が感得されているようだった…。
それは、直感とも違う。自分が相手の事をよく知っている。そして相手は、自分の性格をよく知っている上で今も姿を見せられない…連絡すらない。
おそらく、そんな単純な事実を、夏芽はこれまでの加奈子の人と成りから、加奈子へ自分がどう接してきたかと言う事から…重い、あまりに重い真実と受け取ったのだろう。
夏芽だってそれは、加奈子が死んでいるなどとは信じたくないのだ。しかし今までに築き上げた二人の信頼感がうるさく警鐘を鳴らす。
信頼感と言うもっとも単純で、か細い繋がり…それ故、その細い糸を掴み続けるために、人はどんな利害関係を守るよりも辛苦を強いられる。それだからこそ…自分がこの糸を離さない限りは、相手も糸を手放すことはしないと信じられる…。
きっと夏芽には、加奈子の現状を知るのに、この『信じられる』という理由以外に何も必要ではなかったのだろう。
それだから、小太郎は心配していた。…そして、半分は期待していたのかも…。
夏芽がひしと握りしめたその絆の糸が…泉下の人となっている加奈子へ繋がるものが…夏芽をもそちらの世界に引き摺り込むのではないかと…。
小太郎が夏芽に訴えかけたのは…紛れもなく、人としての意思だった。
…夏芽がそんな小太郎の、人の部分を曇らせる様な溜息をもう一つ。
「お願い事かぁ…そんなの決まってるよ。加奈子に戻って来て欲しい。加奈子に無事で居て欲しい。それに…加奈子の家族が、もとの仲の良い家族に戻れるといいなって…。」
夏芽はまた、突っ伏す様に項垂れる。それを追う様に、傘を持つ小太郎の腕も伸びた…。
「でも…もし…それが叶わないなら、せめて…謝って欲しい。洋平さんに謝って欲しい…。私はまだ加奈子が死んでるなんて受け入れられない…もしかして生きてるんじゃないのかって…でも今は、そういうことも、頭がこんがらがって考えられそうにない。…ううん、本当は加奈子がもう生きてないって知ってるからなのかな…。ただ、解らない。どうしてこんな事になったのか…解らないことだらけだから…誰に何て言えばいいのか、誰に何て言われれば納得できるのか解らないよ…それでも、せめてあの人には謝って欲しい。私、馬鹿だから…加奈子がどんな理由で死ぬことに成ったのかも、よく解んないけど…けど、私にははっきり解るよ。加奈子がどんな気持ちで死んでいったのか。解るよ。解るに決まってるじゃない。だって、洋平さんが何を加奈子にしたんだとしても、本当なら加奈子は助けを呼ぶことが出来たのに…隣に居る私たちを呼べば、加奈子は死ななくても済んだかも知れなかったのに…加奈子はわざとそうしなかったよね。私ね、あの日…あの部屋の中で加奈子の携帯を見つけた時…すぐ解ったよ。あぁ、加奈子は私たちのことをかばってくれたんだなぁって…きっとあの人が、加奈子が私たちの事を心配する位、酷い事をしようとしたんだよね。だから、加奈子は自分が一番危ない事も忘れて、私たちを守ってくれたんだよね。」
小太郎に、加奈子に、そして自分に言い聞かせる様に、夏芽は思いのたけを闇雲にぶつける。
小太郎は…夏芽の、血のにじむ様な痛々しい声に静かに耳を傾け…ひっそりと墓前に頭を下げた。
「私にはそんな加奈子の気持ちが解るから…どうしてもこの気持ちを誰かにぶつけたい。加奈子がこんなにも頑張って生きてたってことを、誰にかに知って貰いたいの。加奈子は人に…ううん、私たちに誇れることをしたよ…私たちを守ってくれたんだもん。どんなに小さなことでも、それを誰かの、私たちの記憶の中に残しておきたい…私たちの…でも、やっぱり駄目。それだけじゃ、私は納得がいかない。許せる訳無い。だって、加奈子の気持ちを本当に知るべきなのは、洋平さんだもん。私は、あの人がちゃんと加奈子に対して悪かったって思うまでは、どうしたって…この気持ちを終わらせられない。当然だよ、加奈子は最後はまで私たちの事を優先してた…思ってくれた。その気持ちは今、私のところにある。…それを感じておいて、加奈子の無念を無視することなんて出来ない。…だから私は、加奈子の代わりに言う。…言うからね…よく聞いてよ、神様っ。」
夏芽は濡れた墓地の石畳の上に手を突き、爪を立てる。
「私は…私と加奈子は、もうこの世では会えない…だったらせめて、お互いが前に進むための踏ん切りが欲しい。神様でも、仏様でも、『鬼人』でも良いから…聞いてるんだったら、洋平さんに…大野洋平を…あの人が生きてるのか、死んでるのか知らないけど。幽霊だろうと、化け物に成って居ようと構わない。兎に角、あの人をこの場に連れてこさせて謝らせてよ。この場に土下座して、地面に額を擦りつけて…。」
夏芽が、振り上げた手を地面にたたき付ける。
「せめて、せめて…加奈子に本当に申し訳ない事をしたて、心から加奈子に謝って欲しい…。それだけしてくれたなら…あの人がその後、自殺しようが、どこへなりと消え失せようが、どうだったって良い。ただ、加奈子に謝ってくれさえすれば…それが、私の願いだよ。」
夏芽は涙の一滴まで、血涙の一滴まで絞り出すように…声を振り絞り、腹立たしさをそのままに虚空へ…。
夏芽が投じた心を受けたのは…必死の思いで両手に溜めた涙を飲み干したのは…それは…。
夏芽のなりふり構わない背中…その激情に…小太郎の中で今、彼女をここまで追い詰めた者に怒りと、そんな彼女の危うさに惹かれる内心が…咬み合い…地鳴りの様な鼓動と共に動きだした…。
「仰せのままに…。」
穏やかで、優しい声。
夏芽は不意に耳を訪れたその声に、驚きと…何やら胸騒ぎを覚え…振り返ろうと身を起こす。すると、
「…っ。」
ふわりと肩越しに覆いかぶさる感触に、ギクリとして…まるで寄り掛かる様に手元に滑り込んできたものを掴む、夏芽。…それは…傘だ…。
「えっ…こたちゃんっ。」
夏芽は傘を握りしめたままで勢いよく立ち上がると…小太郎の姿を追い求めて、辺りを見渡した。
だが、どれだけ見回しても…そこにはもう、小太郎の影も形も無い。
雨に霞む視界の中で、折り重なる無数の柱が現れては消える…。
夏芽はただ呆然と、墓石の群れの先の景色を…遠くに見える街を、家並み眺めるしか無かった。
ほんの少しの孤独感。そして、思いを吐き出した悪くない虚脱感…。
強く、強く、握り返す傘の柄には…まだ、小太郎の熱さが残っていた…。
[20]
そこには厳粛さが有った。故人への哀悼の想いも有る。しかし…疲弊の極みに居る児玉警部の眼に、涙は無かった。そして、物憂げに彼に歩み寄る、千明の瞳にも…。
警察署から程近いセレモニーホール…健の通夜はここで営まれていた。
正面エントランスの巨大な自動ドアを通って、荘厳かつ華やかに彩られた本館ロビーへ。
そこには高級なホテルの様な、豪奢なカーペットの敷かれた広々としたスペースが…。
カーペットの上には、これまた、上質のウール素材にしっくりとくる高そうなソファとテーブルが置かれている。それがまた…近すぎず、離れすぎず…絶妙の間隔で配置され、各々に適度なプライベートスペース作り出している所もにくい。
このさながらサロンの様な空間で、遺族や、弔問客は故人との思い出を忍ぶのだろう。
しかし、これ程のセレモニーホールなのだ…このロビーに居るのが児玉警部と、千明だけと言うのは…何となく寂しい。…雨が上がっても、その名残は、路面に、夕闇に、ない交ぜに成っている…。
そんな、昼と夜の狭間を行き交う車を見つめながら、児玉警部はぼんやりと煙草を吸っていた。
千明はその隣に立つと、柔らかな微笑を浮かべて、
「ご一緒しても、構いませんか。」
頭上から降り注ぐ、絢爛豪華なシャンデリアの光。その木漏れ日の様な灯りに混じって聞こえる千明の声に、児玉警部は…少しやつれた様な笑みを返して、
「えぇ…どうぞ、お掛けに成って下さい。あぁ、これは…どうも御苦労さまでした。」
と、千明の左腕に巻かれた喪章に気付くと、両膝に手を突いて頭を下げた。
「いいえ、私にとっては『家族』同然の…姉のフィアンセを見守ることが出来る、最後の時間ですから…私がお手伝いするのは当然の事です。」
千明はソファにちょこんと座ると、背もたれに身体を預けるでもなく、行儀よく揃えた膝の上に両手を重ねた。…こうして見ると、儚げな少女としか見えない…。
千明も何気なく窓の外を見た。セレモニーホール前の道路を、振り返りもせずに走り去っていく車たち…それが当然の事だと解っていても…無表情の車体を見るとどうしても、これまでの自分の思慮の浅さに嫌気がさしてくる…。
ふと、児玉警部が気付く。
「あっ、これは失礼しました。」
と、慌てて、テーブルの上の灰皿で、煙草を揉み消そうとする児玉警部。千明はそれを腕を伸ばして止めると、
「あぁ、いえ、どうぞそのままで。私の事は気にしないで下さい。」
児玉警部に釣られた様なその慌て方には、やや疲労が窺える。
千明は腕を下ろしながら、微かな溜息を吐いて、
「どうか、そのまま続けて下さい。…こうして児玉さんの煙草の匂いを嗅いでいると、あの式場の中に拡がっていたお線香の香りを…健さんが亡くなった事を…ほんのしばらくの間だけでも、忘れられるような気がして…。すいません、こんなことを言うのは不謹慎ですよね。」
「…それは私もです。」
児玉警部は表情を動かすのも忘れて、そう短く答えると…煙草を口許に運ぶ…。
児玉警部の吐き出した煙が、ロビーを照らす存在感のある灯りに吹き消されていく。だが、鼻孔を焦がす様な香が十分に、この悪夢を見ている様な浮遊感を和らげてくれた。
「今日のお通夜と、明日の告別式…こちらの思う通りにさせて頂いて、有り難うございました。」
そう言って、腰を折り曲げ、頭を下げた千明。児玉警部は何かを振り払う様に小さく、二、三度首を横に振って、
「こちらこそ、式の準備は『萩の会』の皆さんにおんぶに抱っこで頼り切って仕舞って…急な事で、通夜の式場を見つけるのにも難儀していた所を、千明さまにはこんな立派な式場を手配して頂いて…感謝の仕様も有りません。」
「そう言って頂けると、私も助かります。…ただ、そちらで設けて頂いていた段取りを蹴ってしまった形になったことは、私も本当に失礼だったと…だけど、愛美さんの気持ちを思うと…。」
「いいんです。」
と、児玉警部は普段の彼には似つかわしくない、強張った、跳ね付ける様な物言い。千明はまつ毛を伏せて、気の毒そうにその様子を見つめていた。
児玉警部がわだかまりを解こうとやっきに成るかのように、煙草を持つ右手を当てども無く動かす。
「彼女が私たちを…私を怨んだとしても、不思議は無い…。それに今の彼女には、そういう事が必要なんですよ。」
そう言いながらも、煙草を加えた児玉警部の瞳には…歯痒さと、遣り切れなさが揺れていた。
…千明も、児玉警部も、そして愛美も…本当は、みんな解っている。今日の不幸の理由は…その最たる要因は、健の軽挙妄動だったと…。そんなことは解っているし、今となってはどうでも良い事だ…。
今、この場に集う者たちが欲しているものは…この様な立派な式場を用意しても…捜査に当たるについては、捜査員をかならず複数人で行動させる自衛策を講じていた。その事実を引っ提げていたとしても…誰かを怨むことが、お門違いだと解っていても…満たされない何か。その何かを、自分と同じく悲しみ、式に参列する誰かから得んとして…人は葬儀をするのかもしれない。
千明は大きく、深く、煙草の匂いを吸いこんで…飽き飽きしてきた、自分へのいまいましさを麻痺させる。
「そう言えば、水上さんの姿が見えなかったようですけど…どうかされたんですか。」
「あぁ…水上さんは、今夜は欠席していますよ…とてもじゃないけど、織田の死に顔を見れないと…自分の監督不行き届き織田を死なせてしまって、愛美さんにも面目ないからと…。ですから…明日は、織田との最後の別れに成る…かならず水上さんを式場へ引っ張ってくる積りですが…今夜は…一人で織田の死を悼んでやりたいと思う、不器用な親父の気持ちを察してやって下さい。水上さんは、部内でも特に織田のことを可愛がっていましたから。織田も父親を三年前に亡くしたばかりで…そんな事情も手伝ってか、あいつ…水上さんにはよく懐いていたんですよ…。」
児玉警部は遠い目で、一つ一つの出来事を思い出し笑った。
「水上さん…監督不行き届きだったと…『大野洋平をぶっ殺して健の敵を討つ。その後は職を辞して、生涯掛けて健の菩提を弔い、責任を取る。』と…ったく、浪花節なんですよね、あのじぃさまは…。だけど、水上さんの方でも織田のことは、息子か、孫の様に思っていたのを…そんな水上さんを欺いて、一人で大野洋平を捕らえようとしたんだから…織田は、どうしようもない馬鹿野郎なんですよ。」
児玉警部はそう憤りにあかせて言葉を吐くと、煙草の吸い口を噛み潰した。
千明は何とも良い様が無く。ひたすら、額に掛る自分の前髪を見つめていた。
児玉警部は小さく息を漏らす。そして煙草を灰皿でもみ消して…落着かない様子で、次の煙草にライターで火を付ける。
「すいません。千明さまの前で…私も、こんな…故人を悪く言う積りは無かったんですが…後に残された人のことを考えると…いいえ、この話はここまでにして置きましょう。」
と、児玉警部はライターをそっとテーブルの上に置いた。
千明はその手元に目線を下ろして、何気なく…、
「そう言えば…健さん、お父様を亡くされてからは天涯孤独の身の上だったそうですね。…フィアンセの愛美さんを除いては…。私、『萩の会』でかなり親しくしていた積りでしたしけど、家族とは疎遠になっていると聞いていましたから…。そんな事情が有ったとは…恥ずかしい話なんですけど、今日こうして式のお手伝いをすることになるまで、知りもしませんでした。…児玉さんは御存じだったんですか…。」
児玉警部は千明がなぜそんなことを訪ねて来たのかと訝しげに、
「えぇ、織田が入署する際に一通りは確認しましたから…。それに常々、織田は言ってました。愛美さんの大学卒業を待って、早く結婚したいんだと…。今も、同棲しているから、生活自体はそう代わり映えはしないだろうけど…同じような身の上の愛美さんと、ちゃんと籍を入れて…。誰はばかることなく家族に成りたい。その時は…結婚する時は、婚姻届の証人の欄に…水上さんに名前を書いて貰うと約束しているんだと…あの、馬鹿は…。」
児玉警部がまだ幾分も吸っていない煙草を、乱暴に灰皿に突っ込む。
テーブル上にパッと灰が飛び散り、丸い灰皿がテーブルの上で悲しいステップを刻んだ。
児玉警部は灰に薄汚れた手で、三本目の煙草に火を付けた…。
「そうでしたか…私は、二人が…鬼人となって頼れるものの少ない日々を、身を寄せ合い、お互いを支え合ってきたことを…ずっと、見ていました。それが…健さんが居なくなってしまって、愛美さんは、これから…いったどうしたら良いのかって。私、それを思うと…可哀想で、可哀想で…だけど、私や、『萩の会』のメンバーでも…どうしようもない。割り込んじゃいけないことも解っているんです。…でも、やっぱり不安で…。健さんが亡くなって、今更の様に思ったんです。鬼人という業を背負った二人には…お互いだけが唯一確かな、人の世界との接点だったんじゃないかって…。それを失った愛美さんは…。」
千明はそこで口ごもった…今、この瞬間に、健の喪に服している愛美の存在までをも否定してしまいそうな気がして…。最愛の人を失いながらも、気丈に、喪主としてこの場に臨んでいる愛美を…。
児玉警部はそんな千明の心を汲み取ってか、穏やかに語り返す。
「考えてみればそうかも知れませんね。織田が婚約したい言い出した時は、まだ二十年も生きてはいないのに、もう少し様子を見てからでも良かったのではと思ったりもしましたが…もしかしたらあいつなりに、一刻も早く、自分と愛美さん二人で築く…社会との結びつきみたいなものを欲していた。愛美さんにそういう絆みたいなものを上げたかったのかもしれませんね。…やぁ、なかなか、口はばったい事を申し上げて…すいません、変な話を聞かせてしまいましたね…。」
と、煙草を灰皿の上に突き出して…ほろ苦い笑みを浮かべる、児玉警部。
千明も心中に広がる、溶けたビターチョコレートの様な…濃く、どろりとした感情を…上弦の三日月の様に艶やかな唇で掬い上げる。
「私にも、その気持ちは何となく解ります。育った環境のせいもあって、私は皆さん程は鬼人に転生する前の孤独感や、疎外感を感じることは有りませんでしたけど…それでもあの時の、潰されそうなイメージは…暴力的な鬼を使った日の夜には今でも、夢に見ることが有りますから…。私も、『こんな時に、意地っ張りな心の中に割り込んで、無理にでもお節介焼いてくれる様なやつが傍に居たら』って、そんなことを思うときがあるんですよ。」
「千明さまに限って、それは意外だ…と、申し上げたならやはり、失礼に当たりそうだ。それにしても…千明さまのお力を知ってなお、貴女の心の中へ飛び込んでいける勇士が…さて、いるでしょうかね。」
児玉警部が茶化す様に言うに…千明は顎に手を当て、何かを思い浮かべる様に、天井に吊るされたシャンデリアの細部に瞳を凝らす。だが、残念ながら…クリスタルガラスには、理想の誰かさんの顔は移って無かったようだ。
腕を下ろして、千明はニヤリとした顔を児玉警部に向ける。
「意外な事に、それが私にとっての一番の大問題みたいですね。」
と、千明は笑顔をそのままに俯いて、
「健さんは…愛美さんが居て、幸せだったんですね。不謹慎かもしれませんが…なんか、羨ましいです。」
児玉警部はその辛そうな顔を…笑顔に掛った影を、ただただ見守るよりなかった。
突然、児玉警部の指先に熱さと痛みが…。知らぬ間に、煙草は燃え尽きていたらしい。
児玉警部は淡々と、短くなった煙草を灰の山に押し付けて、次の煙草を取り出す。
千明は表情に乏しいその顔で、児玉警部の手慣れた動作を眺めている。眺めている内に…どうしても、言わなければ…。迷惑になるかも知れないと知りながら…どうしても、言わずにはいられない…胸の張り裂けそうな苦しみを…千明は遂に、堪え切れずに吐露することにした。
「あの、児玉さん。大野洋平を自らが捕らえると言っておきながら、それに失敗し…。あまつさえ、凶暴な鬼人を野に放ってしまった。その張本人として私は…これだけは、児玉さんに聞いて頂ければいけないことが有ります。聞いて頂けますか。」
千明のその思いつめた様子に、シガレットケースを胸ポケットに閉まっていた児玉警部が、上目使いに彼女の様子を盗み見る。それから、敢えて何気ない風に、
「どういったことでしょうか。」
と、煙草を口に運びながら問い返す。…咥えた煙草に火を着けるその仕草が物語っていた。…『何を言いたいかは解っている。』と、『そんな言葉は聞きたくないと。』…。
だが、ここでブレーキを掛けたとしたら、千明は…自他ともに認める意地っ張りの弱音を聞いてくれる人物など…千明自身が言った通りに、おそらく誰もいないだろう。そもそも、相手が話せと言って、話す様な千明では無い。
だから児玉警部は、年長者の務めとして仕方なく(大人だって、それ位の事を思うのは悪くはないだろう。)、火の着いた煙草を唇から離した。
その促がす様に腕を動かす仕草に口火を切られる形で、抑えの利かなくなった千明が堪らず喋り出す。
「大野洋平を取り逃がしたこと、以前にもお詫びしました。ですが、ことがこう言った事態に至ってしまった以上は…私には、改めて児玉さんに謝らなくていけないと思えてならないんです…。ですから…。」
千明の言い分に、児玉警部は溜息を洩らして、
「待って下さい。…もし、織田の死に責任を感じてそう仰られているのでしたら…失礼な言い方に成りますが、それはお門違いというものです。」
と、安易な謝辞へと傾きかけた千明を諌める。
児玉警部は、それでもなお済まなそうに、息苦しそうにしている千明に、
「貴女には貴女のやるべきことがあった。そして、私たちは私たちのすべきことがあった。当然、織田にも…。あいつは、あいつがすべきだった重大な責務の一つを…自らの身を守るという仕事を、大野洋平を捕らえることと天秤に掛けたんです。それが間違い無い以上、千明さまが気に病む必要はありませんよ。」
と、何かを押し殺す様に、粛々と続けた。
それでも千明は、ガックリと項垂れて、短く息を漏らす。
「ですけど…もし、私があの時に、大野洋平を逃がしたりしていなければ…健さんは…。」
千明の心痛は、そこに極まるのだろう…。
人は誰しも、降りかかる不幸の原因が自分に有ると考える。そう思いたがるものだ。…自分さえ気を付けていれば、自分がミスをしなければ…この事態は避けられたのではないか。
別に、自分が世界を動かしている…自分が世界の中心だなどとは思ってはいない。どこか、子供染みた、身勝手な考え方をしているのは解っている。
それでも、ほんの小さな可能性でも自分の行動と繋がっていなければ…次、こんなことが起きる時、どのように対処すればいいのか解らない。…これからの未来の自分たちに、何の救いも残すことが出来ないとしたら…自分にとって彼の死が…この悲しみが…形だけのものに成ってしまいそうで怖い。
健が死んだことに対する素直な悲しみ。隣り合わせにあるそんな感情を持て余して、千明は自分の図々しさに酷い自己嫌悪を覚えていた。
人間の持つ後悔という感情の最たる罪は…喪失感さえ濁らせていくことに有るのかもしれない。
心の穴は後悔という実感に埋め尽くされ…その後悔が生き続ける限り、人は永遠に『あの日』失った何かを失い続けていくのだ…忘れることなど許されずに…。
児玉警部は再び溜息を吐いて、煙草の灰を灰皿に落とす。そしてようやく、千明の泣きごとに口を開いた。
「千明さま、それは違います。物事の起こりには、確かに原因が有ります。貴女がそれに何の関係も無いとは申し上げません。ですが、貴女は何も悪くなんてないんです。貴女が大野洋平を勧誘したことも、貴女が彼を逃がしたことも…そのこと自体は、織田が大野洋平を捕らえようとしたこととは、まったく別個の問題です。織田は大野洋平が逃げたのを知っていたからこそ、捜査員として行動した。だが、不適切な部分が有った。…ですが、貴女が織田に一人で闘う様に仕向けたわけでもなければ…貴女が織田の退路を断っていた訳でもない。あいつだって鬼人であり、一人の人間だ。あいつ自信の判断で選択したんです。そこには他人の入り込む余地など無かった…だから、貴女には何の非も有りはしないんですよ。」
と、児玉警部は自ら、煙草で口を塞いだ。
千明とて、児玉警部の言う事には一々納得させられる。それ故に、受け入れる訳には…簡単に許しを受ける訳にはいかない。…それでは世界中でただ一人、蒐祖千明を許すことの出来ない自分自身だけが取り残されてしまうではないか…。
千明は縋り付く様に、自分を非難し続ける。
「…それでも、やっぱり私が大野洋平を捕らえておいたら…いえ、今となっては殺しておくべきだったんです。それで少なくとも、健さんを大野洋平と闘わせる様な…そんな危険な状況を生みださずに済んだんです。児玉さんは、私が強制した訳ではないと言ってくれましけど…大野洋平を発見した時点で、健さんには他の選択肢何て無かったんじゃないでしょうか。私は…あのカラオケでの健さんの追い詰められた気持ちに気付いて居ながら…私が大野洋平を殺す覚悟が無かったばかり…健さんを…。」
「もう、止して下さいっ。」
児玉警部が千明の言葉を阻んで怒鳴った。
千明はその声に顔を上げて、しかし…鬼人としての彼女がそうさせるのか、それとも生まれ育った境遇の為か…恐れず、取り乱さず、緊張感のある顔を児玉警部に向ける。
冷静さを取り戻したかに見えるその顔に、児玉警部は頷く様に息を一つ吐き出して、
「大きな声を出して申し訳ありませんでした。ですが、どうか…御自分を責めるのは、それ位にして下さい。」
「でも、私は…。」
と、それでも続けようとする千明に、児玉警部は務めて平静な声で、
「貴女自身を責めるその言葉が、織田を侮辱することへと繋がります。」
…千明には二の句も無い。ただただ、胸から喉元まで這い上がってくる羞恥の炎に、身を焼かれるに任せるしか無かった。
児玉警部はシガーケースを握りしめながら、死という自然の理に慄く若者に語り掛ける。
「周りの者が…特に、私や、水上さんなどは…上司として、目上の者として織田の軽挙を察知することが出来なかったこと…それは、織田の死に責任を感じるべきことでしょう…。監督不十分と罵られてもいたしかたない事です。ですが、それを声高にふれてまわろうなどという気は…織田の死を悼む人たちへ片っ端から頭を下げて回ろうなどという気は私には、勿論、水上さんにも毛頭ありません。それは…私たちが申し訳なかったなどと言って、一人の大人の…社会人として立派に生きていた織田の決断を無にすることになる。確かに、他人から見れば、織田の取った決断は軽率にも見えましょう。功名心が先にたった結果、多くの人を悲しませることにもなった。しかし織田が危険を顧みずに行動したのは、一秒でも早く社会に平穏をもたらす事が最良であると心得ていたから。自分が属する集団を、先頭に立って守る覚悟を持ち続けていたからに他ならないんです…。鬼人となり、それまでとは異質な世界に身を置くこととなった彼ですが…恐れずに、憎まず、良心のみに従い職務を遂行する。その警察官としての心得に反する様な事を、織田は断じてしてこなかった。私は…少なくとも、そんな織田の覚悟を蔑にするような真似だけは…したくはないんです。」
千明は児玉警部の話に、何度となく頷いていた。やはり彼女は心が強い。
そして、読者の皆様に見守られているこの二、三日の間で、千明はその心の強さを糧に…人としても、鬼人としても…さらに一回り強く、大きくなったことだろう。
…あっ、そう言えば…何か、黒い鬼人の言葉遊びに付き合ったり、あいつの血を飲んだりもしていたけど…まっ、それは関係ないだろうなぁ…。
児玉警部は安心したように…少し、照れたように…新しい煙草から、真っ白い煙を吐き出した。紫煙の先には、かすむ様な千明の微笑みが揺れる。…それにしてもこの二人…悲しんでいるのは間違い無い様だが…一滴の涙すら溢さないとうのはどういう料簡なのだろうか…。
勿論、泣けば良いというものではないのだが…特に、千明などは自らを責めるほどのストレスを感じているのだから、そろそろ感極まっても可笑しくは無いと思うのだ…そう、例えば、今日の昼間に、夏芽が墓地で見せた様に…。
あるいは今…分厚い扉から、読経の声を振り切る様にして抜け出てきた愛美の様に…。
その、低く、伸びやかな僧侶の声に誘われて、千明たちはロビーに現れた愛美の方へ目線を向けた。鋼製の防音扉が閉まると同時に、耳鳴りの様に残った愛美の嗚咽が痛い。
愛美は、千明と同じ穂塚高校の制服を来た少女(見た感じを、そのままに伝えればだが…。)の肩を借りて、よろよろと、危なっかしい足取りで正面エントランスに向けて歩んでいく。涙の枯れ果てたその顔は生気が無く、ものに憑かれた様に瞳の焦点は定まらない。
だが、そんな愛美の弱弱しい瞳が、不意に鋭さを取り戻す。…児玉警部の姿を目にしたからだ…。
愛美はその煙草を指の間に挟む姿を、湿っぽい横顔を、刺し殺しかねない様な強い視線で睨みつける。
肩を貸していた少女は足取りが止まったことに戸惑い、それから愛美のそんな憎悪に満ちた瞳に二重に戸惑って…おろおろとこの場の人物の顔を見比べていた。
ここで助け船を出せそうなのは千明なのだが…今夜に限っては、サークルを取りまとめる彼女の大船も沈没気味…。
そういう訳で、少女には可哀想だが、深い川を挟んだ様に遠くに見えるあちら側からの救助は期待できない。
さりとて、此岸に居る少女にもどうしようもない御様子。
そんな…パチッパチッと、閑かに燃える焚火の火に焼かれる様な時間が…しばしの間、続いた。
それから児玉警部が…彼岸と此岸を別つ夜の川…その水面に映る篝火の陰を見つめる様に…ゆっくりと愛美の方へ向って顔を向ける。それに対抗するかのように、愛美の瞳が大きく見開かれた。
愛美の真向かいに晒された児玉警部の顔、面持ち…。そこに映し出されているのは、児玉警部の苦しみや、悲しみ…いや、時として相対した人物の顔は、己の心を移す鏡となる…。
今の愛美の目に移るのは…能面の様な児玉警部の端正な無表情。そこに…暗い川面に移りこんだ愛美自身の心は…光の差さない深い川底の様な悲嘆。激流に翻弄される様な喉の渇き。川縁を当てども無く彷徨う様な不安。そして、何よりも苦痛なのは…健の死という現実を見せ付ける…その、憐れみを含んだ眼差し…。
その瞬間、愛美は今にも泣き出しそうな顔になると…許し請う様に…ガクンと、最後の力をも失って頭を垂れた。
愛美に肩を貸していた少女は、啜り泣き出した愛美を労わる様に…自分の肩にまわされた手をぎゅっと握り締めると、また、正面エントランスへと歩み始めた。
その際、最早なすがままになっている項垂れた愛美の首筋越しに…少女が千明に何やら目配せをする。千明は先程までと変わらぬお行儀の良い恰好で、確りと視線を返しながら、小さく頷くのだった。
それにしても…どうでも良い事だがあの少女…。
愛美は完全にへたばっていて一人で歩く事も出来そうに無かったが、そんな愛美を…相手が女とは言え…一人で軽々と連れて歩いているところを見ると…結構な力持ちだな。やはり、彼女も鬼人なのだろう。…おっと、これは失礼した。話を戻そう…。
言葉も無く自動ドアから吐き出されていく、愛美。
千明はゆるゆると長い息を吐き出しながら、その背中を見送る。頬の辺りが強張る…。
児玉警部はまだ半分ほど残っていた煙草を…どこか寂しそうな、諦めの滲んだ横顔で揉み消した。
それが最後の煙草だったのだろうか。児玉警部は次の煙草を取りだそうとはしなかった。
「愛美さんと…確か、彼女は小松さんでしたか…お二人だけで大丈夫なんですか。愛美さんの方は足取りもおぼつかない様子でしたし、あの格好ではどこかの店でちょっと休むと言うのも難しいでしょう。」
と、児玉警部がその場で二人を見送っていた千明に問い掛けた。…なるほど、言われてみれば…愛美の服装は一目で喪服だと解る、ジャケット、ドレスともにカラスの様に真っ黒な、フォーマルアンサンブルスーツ。
それに、自分の心を引き裂く様に泣きに泣いた愛美。瞼を腫らし、放心状態にあるその血相では…このセレモニーホールから出たとして、児玉警部の言う通り、人目を気にせずに呼吸を落着けることの出来そうな場所を見つけるのは…さぞ、困難な事であろう。
千明は児玉警部の当を得た配慮の心に、
「お気遣い、ありがとうございます。」
と、穏やかな笑みと、失せた紫煙の代わりに仄暖かい心情を浮かべて…首を傾げる様な、可愛らしいお辞儀を返した。
「二人には先に、駐車場に待たせてある車の方へ行って貰ったんです。今日は、二人には私の家に留まって貰う事に成っているので…。」
「あぁ、そうでしたか…その方が、愛美さんにとっても気が紛れて…いえ、それが無理でも…とにかく今夜は、織田と暮らしていた部屋に一人で返すのは酷ですからね。…千明さま、愛美さんのこと…よろしくお願いします。」
深々と、テーブルに額が付きそうなほど大きく頭を下げた児玉警部。
千明はその姿に、先ほど彼に諭されたときよりも強く、改めて胸を締め付けられるように感じた。…自分だけではない、誰だって責任は感じているのだ…。
千明は努めて快活に、そして黒い鬼人を真似る様におどけて、
「言われるまでも有りません。言ったでしょ、彼女は私の家族だって…児玉さんにとって、健さんがそうだったのと同じですよ。」
…児玉警部は少し弱弱しく微笑んで、もう一度、深く頭を垂れた…。
それから、児玉警部はスクッと立ち上がると、
「それでは私は、この後の手配りを皆さんにお願いしてきましょう。」
「あっ、お願い出来ますか、児玉さん。」
「えぇ、後のことは私に任せて頂いて、千明さまは愛美さん達の方をお願いします。」
シャンデリアからの光を遮った児玉警部の影を眩しそうに見上げて…千明は座ったまま、
「それでは、お言葉に甘えてお世話に成ります。」
「いいえ、どうかお気になさらずに…。ただ私も、織田と愛美さんの為に…二人の為に最後に何かしてやりたいと思っただけですから…。織田の為に涙の一つも流してやれなかった…せめてもの詫びとして…。」
千明は児玉警部の言葉に、せつなげに瞳を揺らして、
「貴方だけじゃ有りませんよ。私だって…『萩の会』の皆さんもそうです…鬼人となってから、みんな、涙を失ってしまいましたから…。今日は、解っていた事ですけれど…何だか、改めて虚しくなってきました。…健さんという大切な家族を失ったのに、愛美さんの様に涙を流すことの出来なかった自分に…。私はこれからも、大切な人が先に逝ってしまう度に…悲しみを吐きだすことが出来ずに、その全てを胸の内に仕舞って生きていかなければならないのかなって…。そんな私に…私が死んだときに涙を流してくれる人が居るのかなって…。」
その時の千明の脳裏には…ある青年の面影が…これが、噂の『人間の彼氏』なのだろう。千明はその面影を噛み締めるように、そして…強靭すぎる顎で噛み砕いて仕舞わぬ様に…どこかたどたどしく続ける。
「健さんが亡くなった時に、本当に無神経だなって思いますけど…そんな風に考えると、何だか…愛美さんが羨ましくって…こんなこと思うなんて私、骨の髄まで鬼人ですね…。」
千明の自嘲的な言葉…。児玉警部は煙草を吹かしていた時と同じように息を吐き出して…、
「鬼人と成らなければ、出来ないことも有ります。」
児玉警部の意味深な物言いに、千明は問い返す様に次の言葉を待った。
「千明さまは、我々の部署に新入りの鬼人が配属される際、その鬼人が選考に通る為に必須の条件があることは、御存じですか。」
「はい、確か…それまでに人か、あるいは鬼人を…殺した経験があるか…という事でしたね。」
答えの内容が内容だけに…千明の声も知らず知らずのうちに低音に落ち着く。
…と、千明の回答で有っていたらしい。児玉警部が薄らと緊張に頬を染めた千明に向かって、軽く…首を縦に振った。…救われない話がまた、ここにも一つ…。
「要するに、この部署に居る以上は私にも…無論、織田にも…鬼人殺しの経験があった訳です。」
「それは、そうなのでしょうけど…でも、それを言ったら私だって…。」
と、言い掛けた千明がみなまで言う前に、児玉警部はやんわりと手で制して、
「この条件に基づいて、鬼人だけで構成された集団を人の組織の中に設ける。その集団の原型は、餓鬼や鬼人から社会の治安を守る目的で、この国に警察組織が誕生する前からすでに存在していたそうです。…法で捌けぬ悪を、同じ鬼人の力を振るって捌く…と言えば聞こえは良いですがね。やっていることの実態は…力ずくで被疑者を捕縛する。その為なら、被疑者の手足を千切る事も、廃人にしてしまうことも厭わない。それだけでは飽き足らずに…捕縛も叶わない様な場合には、被疑者の権利を言って聞かせる事もせずに、被疑者を我々の手で葬ったことも一度や二度ではありません…。」
児玉警部は立ち尽くして、愛美たちの消えた自動ドアの行く手に見入りながら続ける。
「しかし、そんな汚れ仕事を進んでこなして来た我々でも、一度、自分たちの力量をしのぐ鬼人が現れれば…被害を拡大させないためにも、千明さまの様なより強力な鬼人のお力添えをお願いするしかない。我々のもっとも重大な責務の一つ。人々の鬼人という存在への認識を、迷信という段階から、より明確なものにしてはならない。その、我々捜査員の命よりも思い使命がある限りは…。折角、徒党を組んで居ても…たった一匹の鬼人を捕縛する事すら許されない場合が起こり得る。しかも、相手が強ければ強いほど、凶悪であればあるほど…真に我々が身体を張るべき時に、それは否応も無く訪れる。そんな張り合いの無い、溝さらいの様な毎日の中…時折は、自分の無力を歯痒く感じたりもします。」
…千明は良く磨きあげられたテーブルに映り込んだ、児玉警部の姿を見つめる。児玉警部はそんな千明を見下ろして、
「それでも私は、この仕事に誇りを持っている。…私たちがやっていることは…人の社会、そしてその中でしか生きる事のできない鬼人たちの人生を守ることに繋がる…命懸けでやる価値のある仕事だと…そう実感させてくれたのは織田健であり…蒐祖千明さん。貴方なんですよ。」
テーブルに映る児玉警部の顔が、柔らかくぼやける…。
「人が涙を流すのは、泣く事で感動や、痛み、恐怖から、激しく揺さぶられる心を守るため。つまり、涙を流すということは、ストレスを軽減させる行為…。私たち鬼人は自らの内心を制御することに、人よりも長けた生き物です。…鬼人と成ってしまったその日から、感動だろうと、恐怖だろうと…敢えて涙を流すまでも無く、心の整理が付いてしまうようになる…。鬼人となってなお、辛い時に泣かなくてはならないのは、転生して後に『二本角』以上に複数の『能力』を持ったものくらい…。彼らは二種類以上の性質が、内心に、鬼に、不規則な歪を…擬似的な感情を作り出し…いや、違いますね。彼らには人が当り前に持つ心の乱れが残っている。…それは大多数の鬼人よりも顕著に…。だから、嬉しければ嬉しいと…悲しければ悲しんだと…素直に涙を流す心が、人並みの心が残った。…織田が、愛美さんのことをそうのろけた時…あの時は、署員と一緒に成って茶化す様な事を言ってしまいましたが…そんな言葉でも嬉しそうにしていた織田が眩しかったのを、今でもはっきりと覚えています。」
児玉警部は天井を見上げる。…何度も瞬きしながらも、ただ一点を見上げ続ける…。
「あの時の織田の顔が瞼の裏に残って居る限り…私は鬼人になった事を恥じることはしない。むしろ、誇らしい事にすら思える様な気がします。…涙を久しく流していないことも、自分の心が鈍化したからでは無い…人として…鬼人として…強くなったんだと、そう思えるんです。」
児玉警部は一瞬の間、感慨深げに俯いて、
「まぁでも…こういう場面で泣けないのは、何となく損をしているなとも思いますがね…。」
と、何とも優しげな笑みを、テーブルの褐色に溶かした。そして、
「さて、陰でコソコソと、織田ののろけ話に花を咲かせるのはこれ位にして…私もそろそろ、あいつと直接、別れ話をしてくるとしますか…。千明さま、それではこれで失礼しますよ。」
言い終えるや、児玉警部はくるりと千明に背中を向けた。
テーブルを黒く染めるスーツの背中に、千明が、
「あの、ちょっと…出来れば最後に、その…話してもらえませんか。健さんが、児玉さんを勇気づけていたことは解りました。でも、まだ聞いていません。私が…児玉さんをどんな風に勇気づけていたのか。無粋かもしれませんけど、どうかお願いします。」
と、見上げたその顔には力強さが、凛々しさがあった。そして…その白銀の眼光で、千明は何を見つめているのか…。
児玉警部はかすかに笑みを浮かべると、ただ…、
「我々は今晩も、大野洋平の捜索を行う積りです。千明さまはいつでも現場に赴けるだけの準備をしておいて下さい。それまでは、愛美さんのことを…どうぞ、よろしくお願いします。」
と、それだけ言うと、冷たい扉で仕切られた式場へと消えていった。
千明は黙ったままで、晴々しい…とは、とても言えそうにも無いが…どこかすっきりとした表情で、その後ろ姿を見送った。
うら寂しさに、線香の香がぶり返して来る…。