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第一話 その五

[13]

 「それでは、今回は痛み分けという具合で、お開きという事に…お二人とも異存はありませんよね。」

 多少なりと強引では有ったが…間違いなく絶好のタイミングで、黒い鬼人(おに)が仲裁に入った。

 尋ねられた二人は…この路地裏のどん詰まりにある空間一杯に意識を広げながら…相手の出方を窺っている。

 夜は二人の決着をまたずに、刻々と、天幕の煌びやかな模様を変え…だが、緞帳(どんちょう)の下りた後の部台ではまだ、役者たちのやり取りが続いている…。

 黒い鬼人(おに)があっさりと洋平に背中を向けて、小さくなっている千明の方を向く。

 「鬼姫さまには無論、お許しいただけますよね。」

 あまりにも豪胆な黒い鬼人(おに)態度に、洋平も千明も言葉が出ない…。黒い鬼人(おに)はいつ背後を襲われてもおかしくない状況で、なおも穏やかに語り続ける。

 「何にしても…こんな詰まらない事で、大切な貴女の腕一本…失う事も無いでしょう。ねっ、考えても見てくださいよ。それは…もしかしたら千切れても、上手くくっ付いて元には戻るかもしれませんよ…。ですが、幾ら鬼人(おに)とは言え、一度離れた四肢を定着させるのにどれ程の時間が掛る事か…。未だ学生の鬼姫さまには、いろいろ不都合が生まれるのではないか…そうは思いませんか…。」

 痛い所を突かれて、千明には一言も無い。物騒な鎧を身に纏ってはいるが…そこは女の子。

 千明は決断しきれずに、困り果てて俯いてしまった。

 黒い鬼人(おに)は物分かりの良さそうな顔…を鬼鎧(きがい)中でしている、絶対に…兎に角、千明の心境を察したように、うんうんともっともらしく頷いて、

「これで鬼姫さまにはご了承いただけたと…。」

と…今度は洋平の方に向き直って、

「貴方も良いでしょうね。」

 なんとなく、千明の時よりも不調法な感じがするのは…それはどうしようもないというもの…。

 洋平も…むしろ背中を向けられた事に自尊心を傷付けられたようで…、

「そこの彼女が、俺との勝負をお流れにしたがる気持ちは解らないでもない。でもなぁ…なんで勝ってる俺の方まで、ハイそうですかと勝負を中断しなきゃならないんだ…。そんな道理は無いだろ。」

 一応、黒い鬼人(おに)の勧誘に抗って見せる、洋平。…ボロ雑巾の様ななりで、よく吠えて見せたものだ…。

 そんな洋平の虚勢に千明も敏感に反応…腰に巻き付いている尾が再び、緩められ…しかし、攻撃が実行に移されることは無かった。懸命にも、黒い鬼人(おに)に指摘されたことが気に成っているのだろう。

 黒い鬼人(おに)はそんな一触即発の状況の狭間で、巧みに舵を操りながら…千明と洋平の心理を、大しけの波間から、凪いだ海の方へと誘導して行く。

 「そんなこと言って…さっきから、鬼鎧(きがい)が再生しないことに気付いているくせに…。」

 黒い鬼人(おに)が的確に洋平の弱り目を射た。

 洋平は口籠って、自分を宥める様に背筋を伸ばした。

 「知ってたのか。それじゃあ…これもあんたには予想できた事態ってことなんだろうな。」

「えぇ、まぁ、そうなりますかね。というのも、それが僕の話しかけて、鬼姫さまに中断された…人喰い鬼人(おに)に成ることのデメリットに関係する事なんです。」

 黒い鬼人(おに)の話が自分の直面している状況に触れるものとだと認識して、洋平の紫鳶の鬼鎧(きがい)の奥で害意が和らいだ。…黒い鬼人(おに)は身ぶり手ぶりを加えながら、より遠い心理の沖合へと、洋平の目線を誘導していく…。

 「人喰い…鬼人(おに)が古くから使い習わしてきた表現を用いるなら『死返(まかるがえ)し』。生物として肉体までが人間で無くなるものの…心臓を一個食べるだけで、強い鬼人へと生まれ変われる。老化も止まる。それに、多少は寿命も延びる。もし、人の肝を食べ続けられたなら…それこそ不老不死ですね。まぁ、あくまで、食べ続けられればですけど…。ですが、そのことを皆も解っていながら…鬼人(おに)の中でも生き肝を喰らおうとするものが滅多に現れることは無い…それは何故でしょうね。」

 黒い鬼人(おに)の言わんとすることに、洋平には『実体験』として心当たりが有った。洋平は何かを思い出す様に、慎重に…、

「言いたい事は何となく解る積りだ。俺の経験から言えば…危険なんだろ。死返(まかるがえ)しは…。」

 黒い鬼人(おに)は洋平のらしくもない冷静さを小さく苦笑を漏らして、

「御明察の通りです。死返(まかるがえ)しにおいて生き肝を喰らうと言う事は、儀式の様なもので、実際には人間の主要な器官である心臓を介して、相手の生命力…つまりは()の根本を奪い、自らのものとする摂食の過程に過ぎません。しかし…実際におやりになった貴方には先刻御承知の事でしょうが…他人の鬼を取りこむと言う事は、単に、同族の肉を喰らうと言う禁忌の行為という以上に、自分とは明らかに違う精神波を放つ生き物の、その内心という大きな圧力を自分の器の中に収める。…そういう危険な賭けでもあるんです…。」

 洋平は黒い鬼人(おに)言葉が途切れるのを待って…どこか遠慮がちに、

「なるほどねぇ。それで、あんたの目から見て…俺はその賭けに勝ったと思うかい…。」

 その声は自負の表れでもなければ、おそらく質問とも言えないだろう。何よりも、洋平自身が己の不安定さには気付いていたのだから…。

 黒い鬼人(おに)は洋平に対して明言を避けて、二、三度、首を横に振って見せる。

 「圧力に耐えたか、それとも器が崩壊したのか…それを見定めるのに必要な期間、その目安は、おおよそ三日間…つまり、貴方にとっても今晩あたりが峠だった訳です。」

 続けて、黒い鬼人(おに)が聞こえない程の小さな声で、

「まぁ…鬼姫さまが上手くやり過ぎたせいで、もしばらく猶予が伸びそうですが…。」

と、その声は洋平の耳には、幸か不幸か届かなかった。

 洋平は黒い鬼人(おに)の話に勇気づけられたように、少しはいつもの調子を取り戻して、

「ふーんっ…それなら、今の時点まで耐え抜いている俺なんかは、なかなか有望そうじゃないか。」

 「それを確かめるために、鬼姫さまは貴方との対峙するタイミングを急いだんでしょうね。もしも…という事も有りますから。」

 「『もしも』…。それは、下手をしたら俺は死んでたってことか。」

「失礼を承知で正直に言わせてもらえば、貴方が死ぬだけなら大したことは無いんですよ。問題は、その後なんです。」

 黒い鬼人(おに)は面白そうに話に含みを持たせつつ、続ける。

 「死返(まかるがえ)しをしくじった場合。良くて、あの世逝き。悪くすると精神が砕け散って…ポッカリ穴が開いた心の真ん中に…『餓え』を満たそうとする欲求が済みつきます。…例えるなら、死への恐怖を忘れるための渇望。貴方や、僕にも…まんざら無縁の感覚では無いものですよね…。」

 洋平は黒い鬼人(おに)の粘りつくような、意味あり気な台詞を拭う様に、

「で、そうなったら俺は…いったい、何に成っていたんだ。」

 洋平に急かされ、黒い鬼人が先を続ける。

「おっと、そうでしたね。…まぁ、何てことは有りませんよ。もしそうなっていたとして、どうせ貴方の自我は保たれてはいなかったでしょうから、気楽なものです。それにこれは、死返(まかるがえ)しの失敗だけでなく、鬼人(おに)に成り損なった時にも起こり得る事なんです。その可能性を、鬼姫さまが所属している『(かさね)』ないしは、『五つ()』が極力小さくしようと画策。その結果が、僕たちみたいな半端で、哀れな鬼人(おに)を生み出すかと思うと泣けてきませんか。そもそも、micoの…。」

 「おいっ、また話がずれてるぞ。」

と、洋平にたしなめられて、始めて気付いた様に舌の回転を止めた黒い鬼人(おに)

 照れたように鬼鎧(きがい)の頭を掻いて見せるその姿…この多弁な所や、要点から脱線しがちな説明は…絶対に、スイッチがOFFの時の寡黙さの反動だろう。

 「これはすいません…えぇっと、何の話でしたっけ…。」

 黒い鬼人は悪びれた様に口振りで、洋平の御所望する方へと話を戻す。

 「そうそう、失敗した場合…その最悪の結果、起こりえた貴方の成れの果てについてでしたね。…そうなったものを、我々、鬼人(おに)は『餓鬼(がき)』と呼びます。」

 黒い鬼人(おに)がほんのり脅し文句を使ったのは…照れ隠しだったのかも知れない。

 兎に角、彼らしい強靭な精神力で、黒い鬼人(おに)は威儀を取り戻して、

「餓鬼…餓えた鬼人(おに)ですね。心理の()じ蓋の下、増大し過ぎた()が心という鍋の中から噴きこぼれ始めた時…それを制御し、自分の意思で纏い、また、(ほど)く事が出来た者は鬼人へと、そして…もし、制御するだけの自制心が、あるいは他人に向ける敵意が芽吹か無かったとしたら…その者は人生で、最初で最後の鬼鎧(きがい)…『化装束(けしょうぞく)』をその身に纏うことになる…。『化装束』は鬼鎧と違い、一度纏ったなら餓鬼が死ぬまで脱ぐことを許されない。そして餓鬼は自ら()を生み出すことが出来ない。勿論それは、内心という器が壊れている故にね。…だから、餓鬼は『化装束』を維持し、生き延びるために本能的に人を襲う。その肉を喰らい、骨をしゃぶる。そうやって、少しでも多くの()を、自分とは違い心に潤いが保たれている他人からかき集めるんですよ…なにせ、始終、死の恐怖と、空腹とは異なる飢餓感に苛まれていますからね。連中は()の中枢である心臓が、言うまでもなく大好物ですが…()さえ得られるならば、皮でも、内臓でも好き嫌いせずに平らげる。まっ、人の末路の一つとしたら…これ以上の地獄は存在しないかもしれませんね。…大抵、餓鬼の最初の餌食になるのは、その者が人だったころに親しかった者、特に肉親。餓鬼は獣と化して、モラルとは縁遠い存在ですから、近親者だからと言って、選り好みしたり、忌避したりはしません。…そう言えば、恋人を溶かして、ほぼ全身を飲みほした人がいましたけど…果たして、その人の心は大丈夫なんでしょうかねぇ。」

 長い、長い、黒い鬼人(おに)の悲しい話…。それに聞き入っている内に、まるで…洋平は人喰いであるはずの自分の心が、徐々に、黒い鬼人(おに)に噛み砕かれていく様な錯覚を覚えた。…彼の口許は、隙間なく、滑らかだと言うのに…。

 黒い鬼人(おに)は小さく、笑う様に息を漏らす。

 「まぁ、その様子なら人の心は残っている様ですね…今のところは…。」

 洋平が、黙りこくって蹲る千明を横目に見ながら…、

「それが、俺の鬼鎧(きがい)が修復しないことと、どういう関係が有るんだ。」

 その、重苦しく、低い声に、黒い鬼人(おに)は訳知り顔…を鎧の奥でしているんだよ、この男は…ともかく、洋平を宥めすかす様に…無い『口』の内側から、軽い調子で応える。

 「まぁまぁ、傷が疼くのは解りますけど、物事には順序というものが有ります。そう焦らずに…。」

と、黒い鬼人(おに)はこの場に居る者にとって、何の益体(やくたい)も無さそうな前置きを述べてから、

死返(まかるがえ)しのデメリットはもう一つあります。それは、肉体が人間のものから造りかえられることに起因するんですが…まぁ、有体に言ってしまえば…深手を受けた場合、肉体が治癒しなくなると言う事なんですがね。」

 洋平は間違いなく驚いた。そして思ったことだろう。…面倒な前置きは抜きでも良かったと…。

 そして勿論、頼まれるまでもなく黒い鬼人(おに)が、治癒しない理由の部分の解説を始めるのだった…。

 「肉体を人間のものから造り変える時には、生き肝を介して取り込んだ他人の()を利用します。…その時に、余所から得た鬼を使う事に味を占めると言いますか…。かすり傷程度なら問題ないはずですけど…()による大掛かりな変化が必要だと貴方の潜在意識が判断した時には、一端、貴方の中で鬼による治癒が無意識に中断される。新たに鬼を外部から摂取して、一気に修復、再生が出来る機会を待つ…どうやら、そう言う風に定着してしまうらしいんですよ。ですから、今のままでは幾ら待っても、その傷は癒えませんし、鬼鎧(きがい)もそこまで砕けて仕舞うと…肉体が無傷の時ならともかく…抱き合わせで修復が待機状態に成っているみたいですね…無茶な荒業を使うからですよ。」

 黒い鬼人(おに)が言う無茶とはいったい…。とにかく、洋平もそれは承知のこと…まっ、当然だろうが…それよりも当面の問題は、

「俺にまた…人を喰らえと言う事か…。」

 洋平には確かに、まだ、人の心が残っているかもしれない。黒い鬼人(おに)に呟いたその声には、隠しきれない苦悩の色が有った。

 「そう言っている様に聞こえたとしたら、誤解させるような言葉を弄した事を、僕は謝らなければいけませんね。ただ…貴方に残された道は二つ。気の進まないかもしれない…死返(まかるがえ)しを行ってその傷を癒し、次の死返しにまでの寸時を生き残るか。それとも、人倫に背いた事の苦痛を受け入れて、死を選ぶかです。…何、今の貴方の状態なら、()を取り込まずに鬼鎧(きがい)を解いただけでも、三途の川を渡る事が出来ますよ。」

 黒い鬼人(おに)の説く言葉は何故か、洋平の心を諭す様に、導く様に聞こえた。…自分も先の無い身の上だと…だから洋平の気持ちが解ると言った事…嘘ではなかったのだろう…。

 だからこそ、洋平に選択を迫る黒い鬼人(おに)の声は、鋭い白刃の如く冴え冴えと…妖しく輝いて、洋平のひたすらに不安にさせるのだ。…死へ恐怖を思い起こさせるように…。

 「良いだろう、今日の所はここまでにしておいてやる。あんたに免じてな…。」

と、しばらく考えていた洋平が、さらなる時間を欲する様に、少し頼り無げに応えた。

 千明は、黒い鬼人(おに)のシルエットの向こうに見えるその姿を、どこか幻想的な驚きをもって見つめる。…まざまざと死を感じた者にしか抱えられない現実感…それを遠眼に見る様に…。

 黒い鬼人(おに)は気安く、尾を二、三度振り回して、

「それは光栄の至り…では、この続きはまた後日に、場所は再びここで…何、それだけ決めておけば、当人同士がその気なのだから…近い内、自然と(まみ)えることに成りますよ。…それと…。」

 …唯一の退路である千明がこの場所に入り込む時に使った、路地。伏兵の存在を気にする様に、その細い道を盗み見ていた洋平に…黒い鬼人(おに)が、

「それと…こちらの申し出を入れてもらったお礼…という訳ではないんですが…僕から一つ、アドバイスさせて頂きます。」

と、左手を軽く持ち上げて、ジェスチャーを加えながら、

「もし…貴方がこの先も生き続けるつもりなら、貴方は、少なくとももう一度、死返(まかるがえ)しを執り行うとこに成ります。その時には…貴方は餌食にする相手を、鬼人(おに)以外から選ばなければ成りません。…まぁ、あくまでも、その方が無難という意味ですが…。ですがもし…まかり間違って、鬼人の生き肝を喰らってしまったとしたら…。鬼人は無論のこと、そうではない普通の人間に比べて、()の潜在量が大きい。確かに、鬼の回収効率や、死返しでの大幅なパワーアップが望めるでしょうけど…その分、貴方の内心という器が、急激な圧力の増加に耐えきれずに崩壊するリスクも大きくなる。…そうなったら…貴方という存在がどう変わるのか…それは、お話した通りです…。まっ、無理は身体に毒ってことですね。」

 洋平は黒い鬼人(おに)の意図を探る様に、しばらかその立ち姿、手振りを見つめていた。…が、どうやら彼の姿からは、彼の言葉ほどは得る者が無かったらしい…。

 洋平は小さく鼻で笑って、

「…折角のアドバイスだ…有効に活用させてもらうさ。」

と、路地の方へと踵を返して…その時だった…いきなり耳元で、

「そうそう忘れる所でした。授業料を頂くのを忘れていましたね。」

 洋平は突如、超至近距離で聞こえたお馴染みの声、不気味なほど滑らかな気配に…瞬時に振りかえる。

 だが、それこそは『黒い鬼人(おに)』の狙い目だったのだ。

 一秒と掛けずに洋平に接近していた黒い鬼人(おに)が、洋平の振り返る動作にタイミングを合わせる様に、さっきまで友好を表現する様だったその黒い左手の…爪の無い五本の指の先を…あっという間もない程速やかに…洋平の鬼鎧(きがい)の首筋に…突き入れた。

 首に感じる、針を刺された様な冷たさ。そして、じわりと追いかけてくる痛みの暖かさ。

 洋平は、不快感と、黒い鬼人(おに)の圧迫感を追い出そうと、凪ぎ払う様に腕を振って、裏拳で黒い鬼人(おに)に殴り掛った。

 黒い鬼人(おに)はさっと腕を引っ込めると、瞬時に洋平の眼の前から消える。

 洋平が次に黒い鬼人を見つけたのは、自分の拳を振り終わった目線の先…さっきまで黒い鬼人(おに)が話していたのとまったく同じ場所。…またしても、洋平は黒い鬼人(おに)の動きに、全く付いて行けなかったようだ…。

 首筋に穿たれた穴を摩りながら、洋平が今更に睨む黒い鬼人(おに)の手元。…その左手の本来は透明で有る部分が、朱に染まっている。そう…黒い鬼人(おに)鬼鎧(きがい)が、洋平の血を吸い取ったのだ。

 洋平の鬼鎧(きがい)の頭部を走る亀裂。そこからまた思い出したように滲みだす血潮が、彼の驚きと、怒りの程を物語っているようだ。

 黒い鬼人(おに)は、漆黒の揺らぎの上で深緋(こきひ)の踊るその左手を、洋平の強い視線の上に翳しながら、

「どうですか、こう言う使い方も有るんですよ。なかなか便利なものでしょう。それに…。」

と、赤く濡れた指で紅をさす様に、黒い鬼人(おに)は手を自分のマスクの方へ寄せて、

「それに…人喰いをやった貴方だ…今度は、自分の一部をこうして奪われると言うのも、満更でもないんじゃないですか。」

 黒い鬼人(おに)の悪質な冗談に、洋平は右手できつく、五つの穴の並んだ首筋を締め上げた。

 「お前の様な変人と、一緒にすんじゃねぇよ。」

「あららっ、これは参ったな。てっきり、気持ちよく献血してくれるものだと…。」

 「嘘つけ。そう思ってんなら、なんで不意打ちする必要が有るんだよ。」

「それはあれですよ。子供に注射する時と同じで、怖がらせない様に、出来るだけいつ指が差し込まれるかを悟らせない方が親切かな…と思ったものですから。」

 どこまでが本気なのか…。洋平は掴みどころの無い黒い鬼人(おに)の、その馴れ馴れしげな態度を振り解くかのように、鋭く舌打ちをした。

 「俺の血なんか吸い出してどうする気なんだよ。第一、俺とそこの鬼姫さんの勝負を観戦したいから、迷惑料代わりに、俺にいろいろ教えるって話じゃなかったのかよ。」

 洋平のもっともな疑問に…はてさて、黒い鬼人(おに)はどのような屁理屈を捏ねるのやら…少し楽しみな気もする…。

 黒い鬼人(おに)はそんな、千明も含めた満座期待を一身に集めながら答える。

 「貴方が言う迷惑料というのは、僕がもともと貴方にお話しよう、知恵を付けて上げようと思っていて話した…言わば情報料。そして今頂いた分は…。」

と黒い鬼人(おに)は、洋平の血の浮いた左手を軽く挙げて、

「これは、貴方の方から僕に対していろいろと質問をなさった…それに僕が答えて差し上げたことに対する…つまりは授業料だと思って下さいよ。これでも、こちらとしては大負けに負けたつもりなんですからね。」

 黒い鬼人(おに)ののたまった理屈、なるほど…とは、間違っても言いたくないが…だが、黒い鬼人(おに)が洋平の問いに甲斐甲斐しく応えてやる義理が無かったのも事実。…それでも、黒い鬼人の言った事の全てが事実かどうか確認の仕様が無い上は…洋平にとって、今の黒い鬼人の吐いた文句は…盗人に追い銭としか思えなかったろうが…。

 元々、黒い鬼人(おに)に奪った洋平の血を返す積りも…洋平の方でも返せと言う積りも無いだろうが…この場の空気が、そして二人の間にもたれていた交渉が今、決裂した。

 「次に会ったとき…当然、あんたには、預けた今日の勝負の続きを見届けてもらう事に成る訳だが…鬼姫さんとの決着を付けた後で…その後であんたにも俺と闘って貰う。あんただって鬼人(おに)なんだ…構わないだろうな。」

「えぇ、良いですとも。その時になったら、今度は、どうして貴方が鬼人(おに)に生まれ変わったのか…その理由をお話してあげましょう。…あぁ、お題の方は心配しないで下さい。貴方が僕を殺せれば勿論、自動的にロハになりますし…逆の場合は…まぁ、次回までに貴方の死体の使い道を考えておくことにしましよう。」

 無限に続く、悪夢の様な平静さを繰り返す様な、黒い鬼人(おに)鬼膜(きまく)…。

 洋平も、黒い鬼人(おに)の芯の以上な強度の高さは先刻承知の事。最初の頃に戻った様に軽快に、だが真実、心の底から…、

「俺はあんたを殺して、あんたの心臓を食べる積りだ…。」

と挑戦する様に、尋ねる様に憎まれ口を叩いた。

 黒い鬼人(おに)鬼鎧(きがい)の胸の辺りを指で小突いて、

「どうぞ。僕を殺したなら、お持ちいただいて結構ですとも。死んだら、ここで鼓動を打って貰う必要もなくなりますからね。…ですがお話しした通り、こいつが動いていられる時間は、元々、一年と限られていますからね…新鮮な内に食べたいのなら、なるべく早い内に取りに来て下さいよ。もたもたしていると…鬼姫さまとの再戦にも、踏ん切りが付かなくなるかも知れませんからね…。」

 血を奪われた洋平は、黒い鬼人(おに)との口当たりの良い皮肉の応酬を堪能して…小さく笑い声を漏らす。

 「…楽しみだ…。」

 洋平はその言葉と、鬼鎧(きがい)の破片を残して、路地の闇の中へ…そして姿は徐々に、細り掻き消えて行った。

 黒い鬼人(おに)は今度こそ茶々を入れずに、その見えなくなる後ろ姿を行儀よく見送っていた。

 …たった一人減っただけで…しかも決して好ましい存在とは言えないはずの洋平が居なくなっただけでも…千明には、この路地裏の空間が急に広くなった様に感じられる…。

 あるいは、そんな微かな心細さを気取られたのかもしれない…。

 黒い鬼人(おに)が無遠慮に、千明の傍へと歩み寄って来たのだ。

 黒い鬼人(おに)が千明の緊張の気を読み取って、

「そう構えないでくださいよ。何も取って喰おうとは思ってませんから…だいたい食べようにも、僕には『口』も牙も備わってはいないんですからね。」

と、滑稽な様子で、継ぎ目の見当たらないマスクを指さして見せた。

 …敵意が無い事は、自分を包む黒い鬼人(おに)鬼膜(きまく)からも解っていた…。それでも、反射的に千明が臨戦態勢を取ろうとしたのは…彼女にとっても、これ程のダメージを受けたのは初めての事なのかもしれない。しかも、そのダメージは未だ、悪化の一途を辿っているのだ。

 黒い鬼人(おに)も一番猶予が残されていないのが、千明の左腕の状況だと言う事は了解している。それだけに迅速に、

「とにかく、貴女の腕の中の毒針だけはどうにかしてしまいませんと…今からでも、貴女が信用のおける仲間の所に移って、毒針に対処することも出来なくは無いでしょうが…貴女のその様子では、彼の毒針が腕を溶かすのを貴女の()で妨げながらというのは難しいでしょう。それに時間が無い。下手をすると手遅れなんて事も…その点、僕なら貴女が針を打ちこまれた瞬間も見ていますし、何より今すぐこの場で作業を始められる。…どうです、ここは一つ、僕の事を信じて任せてみませんか。」

と、単刀直入に千明に言った。

 この申し出は、正直、千明にとっても有り難いことではある。だが…一刻を争う様な重大事だからこそ、このような、どこの馬の骨とも解らない輩に委ねても良いものなのか…。

 黒い鬼人(おに)は千明の内心の葛藤を見透かす様に、

「決断は早い方が良い。事が溶解性の毒となると、手を拱いていればいるほど、回復にも時間が掛りますからね。…それに貴女だって…『彼』を取り逃しているんですからね…これ以上の不面目(ふめんぼく)はよろしくないんじゃないですか。」

 黒い鬼人(おに)の最後に放った一言が、殺し文句に成った。

 千明の鬼鎧(きがい)から、白銀が消えていく…。黒い鬼人(おに)は何故か慌てた様子で、

「あっ、いけませんよ。今鬼鎧(きがい)を解いたらそれこそ、毒針を抜きとる前に貴女の腕が崩れ去って…。」

 黒い鬼人(おに)の制止の声もむなしく、既に、千明の鬼鎧(きがい)はほぼ全体が透明に…中に居るはずの千明の姿は確認できないが、あの力強い白銀は消え失せ…それを合図に、透明な鬼鎧に亀裂が…そして次の瞬間には飴細工が壊れるように、次ぎ次と砕けて地面に落ち…さらに細かく砕けながら、夜の大気の中で氷解して行った。…どうやらこれが、『正規』の鬼鎧の解き方だったようだ…。

 そんな、千明の鬼鎧(きがい)の崩壊を、最初こそ焦った様に押しとどめようとしていた黒い鬼人(おに)であったが…その内に、何かに気付いた様子で、

「あぁ、そんなことが出来たんですか。逆ならともかく、腕だけ残して鬼鎧(きがい)を解くとは…結構、器用なんですね。」

 黒い鬼人(おに)の言った通り…鬼鎧(きがい)のほとんどが砕け散り、中から可憐な少女の姿が現れ出ても、左手の結晶だけはそのままに残っている。…しかしそうなると、よりはっきり、千明の左の指の動きのぎこちなさが目に付いてしまう。

 そんな危機的な状況でも、黒い鬼人(おに)の慌てた姿を見た千明が…少し溜飲の下がったような顔をしていたのが印象的だった…。

 黒い鬼人(おに)は千明の鬼鎧(きがい)の左腕を、赤く染まった左手で掴み上げる。

 「確かにそれなら、()の制御範囲が限定されて、コントロールしやすいかもしれませんね。じゃあ、さっそく毒針を拝ませていただきましょうかね。」

 千明は黒い鬼人(おに)の成すがままにされながらも、やはり…多少は不安そうに、

「どうする積りなの。」

とそれでも凛とした声で問い返した。

 「『どうする』って…それは無論のこと、貴女の腕に僕の指を突っ込んで、摘まみだすんですよ。」

 …千明だって多分それしかなさそうだと…それが手っ取り早いことは十分に理解していた。だが…そう臆面もなく言われるとなると…。それにしても、あの黒い鬼人(おに)の爪の無く、太い指にこれから抉られるのかと思うと…すごく痛そうだ…。

 千明も小さく眉をしかめたものの、覚悟はとうに出来ているのだ。

 すぅっと目の前で構える様に掲げられた黒い鬼人(おに)の右手と、こちらの踏ん切りを持ちうける様な黒い瞳に…千明はどこか力無く、こくりと頷いた。

 「鬼鎧(きがい)を貫いて、貴女の腕の中を探ります。…かなり痛いですよ。砕けない程度に、歯を食いしばってください。」

 千明は硬く目を瞑ると、口を真一文字に引き結んで、耐える様にその時を待つ。

 千明の我慢が始まってから数秒を置いて…黒い鬼人(おに)の親指と、人差し指が素早く、精妙に…洋平が穿ったのよりも一回りも、二回りも大きい穴を穿つ。

 千明の鬼鎧(きがい)の亀裂が毛細血管の様に腕中を走り回り、所々で舞い上がる鮮血。

 堪え切れずに大きく目を開いた千明の表情には目もくれずに、黒い鬼人(おに)はグイグイと千明の腕に開けた穴を広げながら、洋平の置き見上げをしっかりと指で挟む。

 しかし、このような過酷な局面においても千明は…顔は血の気を失って、病的な程に真っ青だが…表情は凛々しく、悲鳴一つ上げないのは、流石は鬼姫と言おう。例え、苦痛による放心状態で、表情筋を動かす余裕も、声帯を絞る余裕すらも無かったとしてもだ。…常人ならば、痛みがその段階に達する前に根を挙げることになるだろうか…。

 ようやく…千明にとっては本当に、百年の長きにすら感じられた…痛みと、麻痺とが交互に襲い来る苦しみから解き放たれる瞬間が訪れた。

 黒い鬼人(おに)が毒針を摘まみだしたのだ…その間、およそ四、五秒…千明が体感したそれに比べれば、刹那にすら満たない時間であっただろう。…鬼人(おに)とは、存外に不自由な者なのかもしれない…。

 黒い鬼人(おに)は優しく、丁寧に千明の左腕を膝元に下ろして、

「はい、終わりました。もう、傷口を閉じても構いませんよ。」

 千明は鈍い痺れの後に流れ込んでくる、血の通うむず痒い暖かさと、それに伴ってぶり返して来た痛みを噛み締める。

 千明の深い息が穏やかになるにつれて、彼女の鬼鎧(きがい)も、白銀の光で溝を埋めながら確実に修復を果たしていった。

 黒い鬼人(おに)は摘まみ上げた洋平の残した毒針を…まるで一つまみの星明りに透かすように…興味深そうに見つめている。

 それは、紫鳶(むらさきとび)の洋平の鬼鎧(きがい)から飛び出したとは思えない程にカラフル。鉛筆くらいの太さのある表面を、極彩色の光が毒々しく揺らめいている。…見ているだけど、眩暈を起こしそうだ…。

 黒い鬼人(おに)は毒針の尖った先端を見せつけるように、千明に向ける。

 「ほら、これを見てくださいよ。この針にはどこにも穴らしいものが見当たらない。つまり、この毒針はもともと、相手の体内に打ちこまれると()の結晶体である針そのものが溶けだして、肉体を溶解する仕組みに成っていたみたいですね。言うなれば、座薬みたいなものですか…形もそれらしいし。」

 黒い鬼人(おに)の面白そうな声にも、千明は聞きたくもないとばかりに顔を背ける。…当然だろう…。

 黒い鬼人(おに)はからかう様に千明のそんな仕草に笑い漏らしてから、

「それにしても、尻尾で土屋加奈子さんを溶かしたことまでは想像できましたけど、これはまた…毒針とは随分にチープな『能力』もあったものだな…まぁ、一般人相手ならこれでも十分でしょうけど…。」

と言い捨てて、黒い鬼人(おに)は摘まんだ毒針を、強固な指先からの圧力と、黒い()で押し砕いた。

 綺麗に二つにへし折れた毒針は地面へ…そして、ドライアイスの様に怪しげな瘴気を上げながら、掻き消えて行った。

 顔を伏せた千明が、不意に口を開く。

 「それ…私に対する当てつけの積り…。」

 黒い鬼人(おに)が不思議そうに千明の方を見やると…睨んでいる訳ではない…だが、その瞳の白銀は強い。

 黒い鬼人(おに)は苦笑を交えた息を漏らしながら、千明の目の前に(ひざまず)いた。

 「いいえ。少なくとも僕は、貴女が彼より弱かったから、貴女が遅れを取ったとは思っていませんよ。貴女だってそうなのでしょう。」

 目の前に頭を差し出した黒い鬼人(おに)の態度は、いつものはぐらかすような調子は無く、率直で何らの(てら)いも無い。…いったいどちらが、黒い鬼人(おに)の本性だろうか…そう言えば誰かが、『いつでも、誰に対しても、同じ態度をとる人間はいない。』と言っていたことが思い出される…。

 「なら、どうして私たちの闘いを止める様な事をしたのよ。」

 …これこそ、千明が今一番に知りたい事そのものなのだろう…。返答次第では…手負いとは言え…千明にも黒い鬼人(おに)と一戦交える覚悟が有る。

 黒い鬼人(おに)はそんな千明の…火の付いた導火線をそっともみ消す様に…柔らかい声で、

「それは言うまでも無く…貴女が彼を殺すと思ったからですよ。」

「なっ…。」

 やはりと言うか…声質だけ好意的でも、肝心の内容が伴わないことには意味は薄いか…。

 千明はしばらく、唖然として口を半開きにしていたが…キッと黒い鬼人(おに)の黒い眼差しの奥を見据えて、

「貴方、それが解っていて…私を妨害したって言う訳…。」

 「そうなりますね、ですが…。」

 黒い鬼人(おに)は淡々と答えて、同じような調子で続ける。

 「ですが、その事を…あの状況でも御自分の力が相手を上回っている事を、一番良く御存じだったのは貴女自身でしょう。もし貴女にその気が有ったなら、僕の仲裁など聞き入れずに、彼の息の根を止めればよかった。止めることも出来た筈です。その事実を忘れて…今に成って、僕を責めるのは止めて頂きたい。」

 黒い鬼人(おに)の言い分はつくづく妥当。千明も怒りの矛先を納めて、どこか申し訳なさそうだ。…黒い鬼人(おに)に片腕寸断の危機を救って貰った経緯もある。…だが、こういうタイプが急に真面目腐って言う正論は…何故か、素直に聞き入れられないなぁ…。

 と、著者が捻くれた考えをしている間にも、黒い鬼人(おに)は乙女心へのアフターケアを怠らない。

 「まぁ、兎にも角にも、貴女の腕に大きな障りが残らなかったようで良かった。それじゃあ…。」

「待って、貴方にはまだ、聞きたい事があるわ。」

と、千明が黒い鬼人(おに)の言い掛けた言葉を遮る。

 「えーっと、人喰い鬼人(おに)の彼が、貴女のお仲間の所に行き着かないかを心配してらっしゃるのでしたら…それは僕が、鬼膜(きまく)で彼のことを軽くは誘導しておきましたから…鉢合わせるような心配は無いと思いますよ。」

「…それだけじゃないわ…。それと、取りあえず…気を利かせてもらったことにお礼を言わせてちょうだい。感謝してます、ありがとう。」

 黒い鬼人(おに)は優しげな顔(を鬼鎧(きがい)の内側ではしていると思う…多分…。)で頷いた。

 そして、千明の顔色がずいぶん良くなったのを見て取ってから、穏やかに、

「それで、聞きたい事とは何です。」

 千明はすぐに応える。

 「貴方は…いったい何者なの…。」

 それに対して黒い鬼人(おに)は、即座に…、

「いやぁ、何者かと言われましてもねぇ…何程の者でもないとしか。もし、僕に対して少しでも、借りが有ると思いなら、出来れば…今のところはそれで満足していて頂きたいのですが…貴女がその気になれば、すぐに知れてしまう事でもありますし…。」

 最初のジャブはこんなところだろう。千明もこれが決め手と言う訳ではない。

 千明は黒い鬼人(おに)に次の質問を放つ。

 「まぁ、いいわ…じゃあ、貴方の目的は何。大野洋平(おおのようへい)を泳がせておいてどうする積りなの。」

 黒い鬼人(おに)も、千明に尋ねられ事の見当はそれなりに付いているはずだが…それでも、逐一困った様に口籠りながら、

「うーん、どうするのかと聞かれても…今のところは、こちらの『姫さま』の腹積もりが定まっていない様だから…とりあえずは、うちの姫がどうしたいのか決まってからでしょうかねぇ、それも…。」

 「それでも、あいつを私に殺させなかったよね…。」

「それはだから…彼の命と貴女の腕を天秤に掛けたとしたら…僕はともかく、貴女のお仲間たちは後者を選ぶでしょうから。この鬼膜(きまく)を張り直す時、多少、『強引』に役目を譲っていただいたことも有りますのでね。その事に関しても、僕が成り替わって良い様に処しただけ…その程度に考えておいて下さい。」

 「それじゃあ…いっその事、私があいつを殺してしまっても構わないって…そんな風に言った事は何だったの、貴方の真意はどこにあるの…。」

「真意ですか…もし、貴女があっさりと彼を殺して退けるようならば…それも幕引きとしては良いのかなと思ったのは…間違いなく本心からですよ。ただ、貴女は上手く立ちまわり過ぎました。上手くやり過ぎた結果が…少なくともあれでは、彼に食べられた方の()は…魂は浮かばれない。貴女と彼の泥仕合を僕が嫌ったのは…そういう意味合いもあるかもしれませんね。」

 「貴方の言っている意味が私には解らない…それでも…。」

 千明は眉根を曇らせ、指先の冷たさも忘れて語り続ける。

 「それなら…食べられた人の無念を思う気持ちが有るなら…どうしてあんな事を…人を食べたければ傷が癒えない事を教えたり…あんな、鬼人(おに)を食べろとけしかける様な真似をしたというの。」

 …どうやら、次に死返(まかるがえ)しを執り行う時は鬼人(おに)の生き肝を狙うのを避けろと、黒い鬼人(おに)が忠告した事を指して言っているらしい。…千明にもその様に聞こえたのであれば…ほぼ間違いないだろう…。

 黒い鬼人(おに)は…おそらく、『魂が浮かばれない』と言ったのは言葉の綾だったのだろう…いよいよ困った様に…、

 「それはですねぇ…まっ、自分で人を喰らうことを選んだ方ですから、仮に情報を伏せておいたとしても、いずれはもう一度、死返(まかるがえ)しを執り行うという結論に達していたでしょう。それ位なら、あらかじめ知らせておいた方が…空腹で辛抱堪らなくなって、目に付いた人間を無差別に襲われるよりはましでしょうから…。それに彼に襲われるのが、抵抗しうる力を何らもたない普通の人間でなく、鬼鎧(きがい)を纏える鬼人(おに)ならば、何とでも抗う事が出来る。そう思ったのは確かです。…それに今の手負いの彼ならば、返り討ちにするのも難しくは無いでしょうから…。」

 黒い鬼人(おに)の思慮は、対処は、けだし正しい。それは千明も異論は無い。…だが、割り切れない。

 血に飢えた野獣のごとき凶暴な鬼人(おに)に、見知った仲間が襲われるかもしれない…自分の力不足が、その様な危険な状況を野に放ってしまったかと思うと…責任ある立場の自分がそう思う事は、どこか後ろめたくもあるが、それでも…千明にはどうしても割り切れないのだ…。

 そう思うと、我知らず…いや、十分に解っているからこそ…千明の舌は迂闊な言葉の方へと滑って行く…。

 「どうして…どうしてあそこであいつを逃がしたりするの…。貴方なら…私と違って…あいつを仕留めることも容易だったんじゃないの…。」

 堪え切れない、内心を深く抉る様な言葉の本流。千明は、洋平に腕に針を打たれた時よりも、黒い鬼人(おに)にその傷口を抉られた時よりも…そしてある意味では、仲間の身を案じる時よりも…激しく、重い、悔しさを噛み締める。

 そんな自制心と、鬼人(おに)の自我との間で揺れ動く、千明の白銀の眼光を見上げながら…、

「彼はまだ人間ですよ。確かに、理性の箍はずいぶんと甘くなっています…ですが、それだけで死ぬに足る理由だと言うのであれば、我々、鬼人(おに)の全ても等しく同じようなものになる…ずいぶんとぬるい考え方かも知れませんけどね、僕もそう長くは無い身の上ですから…。」

 「だから…あいつの人間性に任せて…自殺する機会を与えてやろうと言うの…。」

「まさか、僕もそこまでお人よしじゃありませんよ。」

と、黒い鬼人は言下に打ち消して、軽い笑いを漏らすと、

「ただね、傷つき抵抗力を無くした彼が、自分の食べた女性に苛まれて死ぬチャンスを上げたに過ぎません。どうやら、心に引っかかりを覚えているようでしたから…上手くすれば、もやもやと悩んでいる間に取り返しが付かなくなって絶命ってことも有りそうだし…それならまずもって、うちの『姫』も納得してくれそうですからね。」

 千明は、またはぐらかされるのを忌避したのか、あえて『姫』に関しては尋ねようとしなかった。それを黒い鬼人(おに)が詰まらなく思ったかは…知る由も無い。

 黒い鬼人(おに)が滑らかに話を次いで、

「だいたい…実際問題として、鬼姫さまでも遅れを取った相手に、僕なんかで敵うとは思えないですから。やっぱり僕には、あの場合はああするより他には無かったんでしょうね。」

 黒い鬼人(おに)の本気かどうか測りかねる、何故か他人事の様な言い回し。

 千明は地面に座り込んだままで、不愉快そうに小さな声を吐く。

 「あのねぇ、その『鬼姫』って言うの、いい加減に止めてくれないかしら。…生まれてこの方、そんな呼び方され事なんて、私だって数えるほどしか無いんだから…それよりも…。」

 そこで何故か、千明の瞳がどこか恨めしげに…意図的になのだろうか…頬が可愛らしく膨れた。そして、ポツリと…、

「私…別にあいつに負けた訳じゃないから…。」

と、卑屈そうではないものの…代わりにえらく子供染みて聞こえる言い訳を、地団太踏みそうな脹れっ面で呟いた。

 これには流石の、ドライな黒い鬼人(おの)も笑いに濡れるより無い。

 そして、その遠慮がちな笑い声が、ますます千明の御不興を買うのであった。

 黒い鬼人(おに)は前に出した手を振って、

「あぁ、いやいや、すいません悪気は無いんですよ。」

と淀んだ夜を混ぜこぜに広げる様に謝って、

「何度も言いますけど、僕だって貴女が彼に負けたとは思っていませんよ。そもそも、鬼人(おに)同士の勝負の決着が、どちらかの絶命を待たずに着くはずも有りませんから…そういう意味では、どう転んでも貴女の勝ちは動かない。到底、彼でも、当然の事に僕でも、それを覆し様がありませんよ。あっ…。」

と、黒い鬼人(おに)が、如何にも今気付いたと言いたげに声を上げた。

 千明は、黒い鬼人(おに)とあってまだ間も無い。その上、こいつが何もで、何の目的を持っているのかすら知らない。それでも…女の勘とか、そう言った類のもので察知したのだろう…。

 千明は黒い鬼人(おに)が意地の悪い事を言い出しそうな気配に、さも面白くなさそうに顔を顰めた。

 「でも、もしかしたら彼の方では…自分が勝ったと思っているかもしれませんね。」

 千明だって、ああいう幕引きだったのだ…その可能性は十二分に承知していた。

 それでもこうして、はっきりと言葉にされて聞かされると…どうしても臍をかむ様な思いを押し込めておくことが出来ない。…そう、千明にとって痛恨の極みなのは…腕に穴が開いた事よりも、不手際で敵を逃がしたことよりも…一時でも格下に、自分が勝っているのだと思われている事。その一事に尽きるのであった。

 可憐な容姿に、暖かみのある人間性を備えながらも…逃がした獲物が勝ち誇っていること看過しきれない。ゲームならともかく…これは現実の事であるのに…そこに安堵や、虚無感の入る余地さえなさそうだ…。その圧倒的な冷酷さを間近で見た者は皆、黒い鬼人(おに)と意を同じくして思うのだろう…やはり、彼女は『鬼姫』なのだと…。

 「さて、それじゃあ早々に、やる事をやってしまいましょうか。」

 黒い鬼人(おに)は血を内側に沈めた左手を差し出す。そして、指を隙間なく揃えて、手を皿の形に整えた。

 自然、その空っぽの『盃』に注がれる千明の視線。それと混じり合う様にして杯を満たすのは、そう…鬼鎧(きがい)の内側から染み出した…未だ鮮やかさを損なわない、深紅の…洋平の生き血…。

 「これを…。」

 恭しく献上された生け贄の血…黒い鬼人(おに)の手ずから寄越した意味の解らぬ千明では無い。

 当然…その供物を…飲み干せと言っているのだ…。

 千明は、恰も盃に穴が開いて、その紅酒が零れ落ちることを望むかの様に、針の様に細めた眼差しを黒い鬼人(おに)の手へ…。

 黒い鬼人(おに)は眼に痛いほど鮮やかな赤を揺らしながら、

「飲んだ方が良い。毒に対する免疫…と言える程ではないかも知れませんが、何もしないよりは治りも早いはず。何よりも血は、鬼人(おに)には効果的な滋養となりますから…それに…心配しなくても、生き肝を食べない限りは、死返(まかるがえ)しには成りません…それは貴女だって御存じのはずでしょう。」

 眼の高さにあるのが、気に入らない男の血液であることもさることながら…黒い鬼人(おに)の、如何にも…注射を嫌がる子供を励ます様な言い様も…癇に障る。

 否、そんな回りくどい理由を詮索するまでも無い。

 そもそも、あらゆる筋合いを置き去りにして、千明が洋平の血を飲みたがらない事実に、一直線に到達する自明の理が存在するのだから…そんなものに口を付けるなど、千明のプライドが許さない…。

 千明は鬼鎧(きがい)を纏わぬ右手で、人としての尊厳を示すかのように…黒い鬼人(おに)の善意と、裏腹に蓄えられた汚らわしい血を…平手打ちに、払いのけた。

 黒い鬼人(おに)の手から勢い良く舞い散った鮮血が、湿った路地裏に点々と飛沫の痕を残す。

 「あーあっ、勿体ないなぁ。」

 黒い鬼人(おに)の声には相変わらず覇気が薄く、真実味を聴き取ることが出来ない。…そもそも、払いのける千明の右手を避ける事は、出来なかったのだろうか…。

 …たったこれだけの動作でも、千明の息が荒い。これは思った以上に衰弱している様子。それだけに、洋平の血を飲まなかったことは…まぁ、千明は死ぬとしても、舌先で舐めることもしないだろうな…。

 黒い鬼人(おに)は瞳だけは勇ましく、力を失わぬ千明に、

「それで貴女の気は済んだかも知れませんけど…貴女のお仲間はどうなるのでしょうねぇ。特に、貴女をバックアップしているであろう警察の方々は…。五つ()の、それも蒐祖(しゅうそ)家の総領娘である貴女が負傷したとなれば…それは、貴女が恥を掻くと言うだけでは、とてもじゃないけど済まないでしょう。きっと、監督不行き届きというような名目で…人喰い鬼人(おに)を仕留めきれなかったこと、それと(かさね)のビップ中のビップである貴女の身体に、経歴に傷が残った事…それらの責任を取らせるために、誰かが槍玉にあげられることに成る。…そうじゃないですか。」

 千明は黒い鬼人(おに)の見解に一瞬、驚いたように眼を丸くして…だが次の瞬間には、黒い鬼人(おに)を睨んで眼を三角にする。…なんと雄弁な瞳だろう…。

 千明の視線には最早、黒い鬼人(おに)への敵意は無い。

 千明は悟ったのだろう。この鬼人(おに)には、この黒い男は…自分に対して悪意も、善意も抱いていないと…有るのは、愉快犯的な意地の悪さと、何くれと人の世話を焼かせる親切な好奇心…それだけだと…。

 こんな相手に敵意を抱くなど…数珠繋ぎに光の糸を引く、今夜の星空に誓って…馬鹿馬鹿しい事に違いないのだから…。

 それでも千明が黒い鬼人(おに)を睨んだのは、鬼人(おに)の…いや…人の…いやいやい…多分、女の(さが)だったのだろう。

 「しょうがないなぁ…まぁ、そう言う訳ですから、貴女にも思う所は御有りでしょうけれどもね。…せめて傷だけは、日常に支障が出ない程度には癒しておきましょうよ。だから…今度は、打ち払ったりしないでくださいよ。」

 そう言って、黒い鬼人(おに)はもう一度、血曇りさえ無くなった…ちょうど今の空の様な黒く、透明な左手を千明に差し出す。

 それから、右手の人差し指を這わせる様に左手首に宛がうと…最初にガラスの砕ける様な音。黒い鬼人(おに)は自分の手首にズブズブと指を突き入れた。

 「最終的に決定権は貴女に有りますけれど…出来れば素直に、僕の厚意を汲んでもらいたいものですね。それが貴女の為でもある…とは、言い切れませんけど。」

 黒い鬼人(おに)が穴の穿たれた手首を、見せびらかす様に千明の方へ…。

 千明はその赤黒い窪みと、漆黒の眼窩(がんか)を見比べて、

「人喰い鬼人(おに)の血の次は、今度は自分の血を私に施して…それで、貴方の目的は何なの。」

 千明が黒い鬼人(おに)に疑問をぶつける最中も、ただただ無為に『吸い口』から流れ落ちる暖かい血液。千明はその光景をどこか不安そうに、そして、どこか申し訳なさそうに見つめている…。

 黒い鬼人(おに)は左腕を微動だにせぬままに、千明の疑惑に応える。

 「僕の目的なんて瑣末なものですよ。少なくとも、貴女方の様に彼の生き死にをどうこうしようという積りはありませんから…今のところはね。」

 …そう、『ご主人様』の…もとい、『姫』の裁可が下りるのを待っているのだった…。

 「それと、僕としては施している積りもありませんよ。まず、人喰いとの雌雄を決する時を僕に預けて頂き、確実に相手を貫くはずだった鉾を納めて頂いたこと。それに…どうやら、この件が片付くまでは僕の素性を気に留めないでもらいたいというお願い…そのことも黙認して下さっている様だし…。十分な見返りは頂戴していると思っています。後は…今回の件に関係した人たちの情報を、ちょこちょこっとこちらにリークして頂けたらなぁ…っと。そこまでして頂けたらもう、僕の方からは言う事無し…ですね。」

 黒い鬼人(おに)の願い…それは、血を分け与えることに吊り合う程の要求なのか…そもそも、千明と黒い鬼人(おに)の立場は対等なものではないはずだ…。

 そんな事をすっぽかしてしまう様な千明の人格と、黒い鬼人(おに)の人の悪さ。…まっ、育ちの違いは明白だが…。

 いずれにしろ…下々の者にこうも下手に出られては、お嬢様としては無下にはし辛い。

 だからこそ、千明は良い様に丸めこまれた自分を、面白半分で我が身の一部を差し出す黒い鬼人(おに)に、腹立たしげに奥歯を噛み締める。

 「いいわ、情報は必ず貴方に差し上げます。それと、貴方の厚意…黒い鬼鎧(きがい)を纏えるものの純度の高い『心血(しんけつ)』…有り難く頂戴するわ。…でも。」

 千明は黒い鬼人(おに)の左腕を、右手で引っ手繰る様に自分の方に引き寄せる。その、可憐な見た目とは掛け離れた怪力に黒い鬼人(おに)はわざとらしくよろめく。

 千明は黒い鬼人(おに)の手首をガッチリと捕まえながら、まだおさまらぬ腹の虫を諌めるように、腹の底から力強い声を出す。

 「もし貴方が、あの人喰いみたいなクソ野郎だったら。絶対に許さないから。」

 そう言って、千明は…赤黒い手首に口を付け…その血を啜り始めた…。

 …微かな水音だけの、静かな時間…。

 千明は幾らも経たない内に黒い鬼人(おに)から顔を、そして手を離す。

 生肉でも貪ったかの様に…実際は、さらに強烈な事をしていたのだが…血濡れた顔を、千明はジャケットの袖で一度だけ、しかし強く口許を拭った。

 黒い鬼人(おに)が漆黒の光で手首の破損部分を修復しながら…千明のそんな勇ましい姿に一言。

 「これでまた一つ、貴女の武勇伝が増えましたね。」

 それから気付いた様に、

「おやっ…。」

 千明も黒い鬼人(おに)の瞳の差す方を、自分の左腕を見る。

 千明の鬼鎧(きがい)の白銀の中に、薄墨を溶かしたように淡い黒が広がり…一瞬で、白銀に飲み込まれるように消えた。

 「はぁっ…流石と言いますか…解っていた事ですけど、ここまで力の差を見せつけられると、正直なところ情けなく思いますね。」

 どうやら、黒い鬼人(おに)の興味の一端は、自分の()が千明に吸収される様にあったようだ。だが、ごく普通に失望した様な青年の声からは…ここまであっさりと駆逐されるとは思っていなかったようだ。千明を見る黒い鬼人(おに)の瞳にも、そう言えば…底なし井戸を覗き込む様な、惚けたような虚無感が…。同じ男として、気持ちは解る…。

 千明の方は、立ち上がると鬼鎧(きがい)を纏った左手を閉じたり、開いたり。指の感覚も良好。…つまりは、黒い鬼人(おに)の、千明の言うところの高純度の()は、洋平の毒の()に打ち勝ったという考え肩も出来そうだ…。

 「まっ、問題に成っていたのは彼の毒だけだったとは言え…あっさりと復調とは、まったく脱帽ですね。」

 黒い鬼人(おに)言葉に、帰り支度をする者の余韻を感じて…千明は黒い鬼人(おに)の居た場所を…しかし、既にそこには姿は無い。

 今、黒い鬼人(おに)は…千明が見上げた先、建設中の建物の鉄製の骨組の上…その一角に…。

 「高速移動が貴方の能力って訳。」

と、星空の一部を黒く塗りつぶすシルエットに、千明は声を張り上げた。左腕の鬼鎧(きがい)を解いた姿には、代わりに余裕が蘇っていた。

 黒い鬼人(おに)はめっきり冷えてきた空気に、良く通る声で、

「さぁ、どうでしょうね。」

 千明は首を下ろして、路地裏の隅々を見渡し、俯いたままで…また、声を張り上げる。

 「明日の今頃、もう一度ここに来なさい。その時に、貴方の知りたい事を何でも話してあげるわ。」

 自分の決意の進んだ先…千明はそれを確認する様に黒い鬼人(おに)の姿を探すが、そこにはもう夜の寒空しか広がっていない。…本当に、神出鬼没な奴だ…。

 千明は、取り残されたこの路地裏一杯に肺を広げるかのように、ゆっくりと、確かな、深呼吸を一つ。

 すると、路地の入口の方から…慌てたように近寄ってくる、児玉警部たちの気配が…。

 千明は誰にともなく微笑むと…残った僅かな時間…地面との一体感と、骨組の間から覗くプラネタリウムに、静かに身を委ねるのだった…。

[14]

 「ちょっと、起きなさいって…いつまで寝てる積りなの、こたちゃん。」

 ぬくぬくと掛け布団に(くる)まっていた小太郎を揺り動かす者が…小太郎は煩わしそうに寝返り追うった。耳に刺さっていたイヤフォンが、枕と擦れて抜け落ちる…。

 声の主が、まだベッドの上で粘っている小太郎の、その耳を引っ掴んで…かろうじて聴き取れる、イヤフォンから漏れるクラシックの音の代わりに…景気良く大きな声を流し込む。

 「起きろ、小太郎。」

 ようやく小太郎が、掛け布団をひっくり返して、跳ね起きた。まだ頭の中を声が行ったり来たりしているのか…しょぼついた目を白黒させている。

 小太郎はこめかみを掻いて、残ったもう一方のイヤフォンを引き抜くと、

「…夏芽か…何の用だよ、こんな時間に…。」

 そうぶつくさ言いながら、携帯音楽プレイヤーの電源を落とした。

 夏芽は小太郎の呆れた醜態に溜息を洩らす。

 「『こんな時間』って、こたちゃんは今が何時か解ってるの…もうとっくに、お昼過ぎてるんだけど…。」

「解ってるに決まってるだろ…昼飯食べてからまた、寝なおしたんだから…。」

と、小太郎は決して威張れるような事では無い事を不機嫌な顔で答えて、くるりと首を回して辺りを見回す…。

 六畳ほどの殺風景な部屋…。あるのは小太郎が今いるベッド。学習机…その上にある、意外に新しいノートパソコンと、教科書や参考書が適量…。

 それと唯一ある観音開きのガラス戸付きの書棚には、本の代わりにクラシックのCDがびっちりと詰め込まれている。

 フローリングに、汚れの目立ちそうなチョコレート色のカーペットが敷かれ…部屋の真ん中には、万年床の様な、潰れた渋柿色の座布団が一枚。

 これが小太郎の部屋…小太郎の世界…。

 小太郎はペタリと張り付く様に寝た前髪を、鬱陶しそうに分けながら、

「それで、何の用なんだ。」

 夏芽はそうつっけんどんに尋ねられて…何かこう…口の端を思いっきり引き延ばして、凄いとしか言い表し様の無い笑みを浮かべた。

 「『何の用』ですって…。」

 本当…この笑顔はおっかない…。小太郎などは、あっという間にその迫力に気圧されている。…そう言えば、こいつ…夏芽が自分の部屋に上がり込んで、寝起きにベッドの隣に居た事には驚きを見せなかった…幼馴染か…。

 小太郎は相変わらず自信の無さそうな顔で、夏芽の圧力に屈する様に、ベッドに肘をつく。…姿勢は寛いでいる様にも見えなくはないが、表情から…その状況が対して良いもので無い事は伝わってくる…。

 「な、なんだよ。」

  この様に抗議の意思すら最早、言葉として表明されることは無い。…まったく、カラオケ店で八面六臂の役回りを演じて見せた青年と、同一人物とはとても思えない…。

 …カラオケ店。そう、おそらくは…否、間違いようもなく…今こうして、夏芽が小太郎の部屋に居る理由は…まさしくそれなのだろう。

 …別に著者としても、幼馴染が習慣として起こしに来てくれるという展開を…絶無な事だと突っぱねる積りは無いので…場合によっては悪しからず…。

 夏芽が不穏な笑顔を張り付けたままに唇を動かす。

 「決まってんでしょ、報告よ、報告。昨日あれから、どうなったのか知りたいでしょ。…あの後、いろいろと大変だったんだから。」

「何だ、そんなことか…。」

と、どうしてそう不用心に安心できるのか、小太郎は肺で止まっていた息を逃がす。

 しかしながら…と言うよりも、当然に…折角だが、その行為は無駄に終わる。

 油断した所に、ぬっと夏芽の恐ろしげな笑みが近づいて、またもや小太郎の息が詰まる。

 「『そんなこと』だぁーっ、ずいぶんと舐めた言い方してくれるもんねぇ。…逃げ場の無いあの店の中に、一人取り残された私の不遇…そこんとこ、こたちゃんはどう思ってんかしらねぇ…。たく、『危なくなったら一人で居なくなる。』って…確かに、こたちゃんは言ったよ。でもまさか…本当に私を捨てて行くとはねぇ。これだけ言えば…少しは私の気持ち、解ってくれるよね…。」

と、急に真顔に戻った夏芽の顔が、さらに小太郎に近づく。

 小太郎は、一切、手も触れられることも無く…夏芽の成すがまま、追いやるられるままに、ベッドに仰向けに成った。そして…、

「その…ごめん…。」

と、小さく、夏芽に…さもなくば天井に、呟く様に謝った。…つくづく、感情の読み取り難い声だ…。

 夏芽は、小太郎の焦点の定まらない、揺れる瞳を見降ろして…疲れ切った様な、だが、どこか安心した様に溜息を一つ。

 「まぁ、良いんだ…結果的には、あの時、警察の人や、それに蒐祖(しゅうそ)さんに見つかって…それで事態が進んだって言うか…私たちの…『あの日』にカラオケ店に居た、私と友達の状況は改善したから…。それに、ちゃんとたこちゃんの『スイッチ』がOFFに成っているのも確認できたから…。」

 夏芽は小太郎から顔を逸らす様に、彼の枕元に腰掛けて、

「今回は、私がこたちゃんの『スイッチ』がONに成る様にけし掛けて…それで便利に利用したみたいな…ううん、事実、利用したんだよね。…だから、こたちゃんのテンションをハイにするだけしておいて…普段の、大人しいこたちゃんに戻れてるかだけ気には成ってたんだ。…本当言うと、私…こたちゃんにお礼が言いたくて来たの。その…こたちゃんには迷惑掛けたし、ずっと嫌がっていたのは解ってたけど…それでも、無理強いしてでもこたちゃんに手伝って貰って本当に良かった…ありがとう、こたちゃん。」

 夏芽はそれから、

「あのね…それでね…。」

と、何やら(はばか)って、口を重たそうに動かしていた。

 そんな気の毒な様子の夏芽に…流石は幼馴染…人一倍ずぼらで、小心者な小太郎も…見かねた様に…それでも、ぶっきら棒に、

「聞かせてくれよ。」

 「えっ。」

 会話の隙間を埋める夏芽の声。小太郎は、そんな驚いた様子を煙たく思いながらも言葉を次ぐ。

 「あるんだろ、報告。…俺、あの後、夏芽がどうなったかとか全然知らないから…それ、教えてくれよ。」

「あぁ…うん、解った。」

と、夏芽は小太郎の珍しく積極的な様子を不思議そうに、そしてすぐに、顔を嬉しそうに柔らかくして、快く首を縦に振った。

 それから、夏芽は昨日の事情を小太郎に話して聞かせた。

 警察官と、その人物に同行していた蒐祖千明(しゅうそちあき)に鉢合わせになったこと。それが元で根掘り葉掘り経緯(いきさつ)を話すことに成り、自分が(くだん)のカラオケ店にいた理由を…最終的には、土屋加奈子(つちやかなこ)の蒸発事件が有った晩に、自分もその場所に居たという事情をも白状してしまったこと。

 その段階で、『自分の命運も尽きたかな』…っと半ば以上自暴自棄になった夏芽だったが…居合わせた千明が上手く取り成してくれ、事なきを得た…その辺りを、夏芽は小太郎に話して聞かせた。

 「…うん、だからね。蒐祖(しゅうそ)さんは普段から、警察官の人たちのお手伝いでああいう、放課後に生徒の溜まり場に成りそうな所を巡回していて…学校側が、生徒の校外での素行を把握して、生活態度を引き締めるべきところ調査してた…みたいなことを言ってたよ…私、話の半分以上は、沈んだり、喜んだりで、聞き取れてなかったから…。あぁ、でも、蒐祖さんは理事長の親戚だし、そう言う事もあるのかな…って。なにより、学校側が生徒を使って、放課後の学生の行動のリサーチをしてるって知られるのは不味いから…だから私が昨日、警察の人と蒐祖さんが一緒に居た事、聞かされた事を口外しなければ…『あの日』の深夜にあの店に居たのも、それは友達の身を案じての事だからって…私と、友達二人のことは不問に、学校側で特に処分する様な事は避けてくれるって…私、それ聞いたら安心して、身体の力抜けちゃってさぁ。」

 …夏芽…速攻で口外するのは如何なものか…。

 夏芽はその上におまけを乗せる様に、取りとめの無い話をし続ける。…安心したというその気持ちが、夏芽の心をまだ、浮き立たせているのだろう。…友達思いの好い娘じゃないか…。

 小太郎はそんな安堵感を共有することも無く、瞳を閉じて、敢えて考える…おそらくは、夏芽の為に…、

(夏芽へのこの好待遇…少し『鼻薬』が効きすぎたかもな…。まぁ、悪くしても、俺の素性が鬼姫にバレるくらいで済むだろうが…。そう言えば…鬼姫も三年だけど、受験勉強とかは大丈夫なのかな…。)

 小太郎はどうやら、スイッチがONなら話の内容が脱線。OFFなら思考の内容が脱線する様だ…。というか、そのまま眠りに落ちそうになっているようだ…。

 「ちょっと、こたちゃん、ちゃんと聞いてるの。…聞いてないでしょ。」

「聞いているよ…。」

と、小太郎は夏芽に鼻を摘ままれて、息苦しそうに答えた。

 夏芽は小太郎の鼻から指を離すと、行き掛けの駄賃に小太郎の額をピシャリと叩いて、

「幾ら今日が休日だからって、いい若い者が昼間っから寝こけているのは良くない。私、これから友達と、加奈子のお母さんに会いに行くんだけど、こたちゃんも良かったら一緒にどう。」

 夏芽の誘いを小太郎は半目で、枕にグリグリと頭を押し付ける様に首を横に振って、やんわりと断った。

 「そう、まっ、そう言うと思ったけど…。」

 夏芽は立ち上がると足早に一つだけあるドアの方へ…っと、そこで思い出したかのように、

「こたちゃん、また、夜眠れなくなるから、いい加減に置きなさいよね。」

 「あぁ、解ってる…。」

 夏芽は小太郎の生返事に苦笑いを残して、部屋を後に…だが今度は、小太郎の方が彼女の後ろ髪を引いて、

「夏芽…。」

 「んっ。」

 呼びかけて、夏芽が振り返り…それから数秒おいて、

「また、何か…土屋の事で解ったら、俺にも教えてくれよな。」

 夏芽は小太郎に…大して興味の無さそうな声で、そう頼まれ…。しばらく、ぼんやりと天井の白い壁紙を見上げてから…ふと…何かに気付いたかのように微笑んだ。

 「うん、解ったそうするよ、こたちゃん。それじゃあ、昨日は本当にありがとうね。また、明日。」

 続けて、ドアを開けて部屋から出た夏芽の声が追いかけてくる。

 「後…もし、どうしても今晩眠らないんだったら、私の所に電話してくれても良いんだからね。」

 夏芽はその言葉を小太郎の部屋に詰め込んでいくように、勢いよく、風切り音を残してドアを閉めた。

 小太郎はやれやれとばかりに息を吐いて…やおらイヤフォンを耳に指し直し、ポツリと、

「そう言ってもらえると、俺も…夜更かししてまで頑張った甲斐があったよ。」

 小太郎は携帯音楽プレイヤーの再生ボタンを押すと、寝返り打つように掛け布団を引っ被って…早くも、安らかな寝息を立て始めた。

 それでも…残念ながら小太郎が夏芽に電話を掛けることは無いのだろう。なぜなら…小太郎には既に、先約が有る…。

 昼間だというのに薄暗い部屋の中…活発なのは音楽プレイヤー位なのものだが…。

 ときに、携帯用音楽プレイヤーと言えば、小太郎の愛用のものと同じ機種を使っている者がいた様な…そうだ、大野洋平(おおのようへい)もこれと同じプレイヤーから音楽を聴いていたのだった…。

 ボディカラーは違うが、洋平もこれと同じものからイヤフォンを通じて…聞いていたのは確か、micoというミュージシャンの楽曲。

 …mico…この物語に置いて、何度か名前の出てきている人物。彼女は、鬼人(おに)たちにとって、それ程に特別な存在なのだろうか…それはまだ解らない…だが、小太郎がこうしてクラシックと現実の狭間で船をこいでいる間にも、彼女の歌声に聞き入っている鬼人がいるようだ…それは…。

 「おいっ、何をボーっとしているんだ。そんな所に突っ立ってないで、早くしろよ。」

 水上刑事に急き立てられて…街頭の大型ビジョンに映し出されるmicoのライブ映像を、惚けた様に見つめていた織田健(おだたける)が慌ててその後に続く。

 場面は…休日の昼間、芋の子を洗う様な人混みの歓楽街から、すぐさま…昨晩、千明と洋平が死闘を演じた路地裏へと移ろうとしている。

 どんどん人混みを避ける方向に進んでいく、二人。水上刑事は、健が追いついて来たのを見計らって、

「しっかりしろよ。…それとも、まだ本調子でないなら…。」

と、言いかけた水上刑事に、健は少し強い調子で、

「いいえ、大丈夫です…ただ、micoの声が聞こえたものですから…ちょっと気を取られてしまっただけです。」

 健のその弁明は…どうやら水上刑事に通じたらしい。…micoとは…いよいよ不可思議な存在に思えてきた…。

 「まぁ、そりゃあな…お前も立派な社会人で、刑事だからな…調子がよろしくないからって、それで一々、仕事を疎かにすることは出来ないわな。悪かったな、変な事を言って…。」

と、水上刑事は労わる様に言ってから、どこか照れたように、

「そう言えば、お前の彼女の名前…愛美(まなみ)さんとか言ったよな。」

 「そうですが、何か…。」

 洋平は、何となくきまりが悪そうにしている水上刑事に、不思議そうに問い返した。

 水上刑事は脂汗が滲んだ額を…この人には似合わない…きちんとアイロンの掛けられた、折り目正しいハンカチで拭う。

 「いやぁ、だからな…まぁ、彼女に心配を掛ける様な事だけはするなって事だ…それだけは、覚えておけよ。」

 そう言って、水上刑事はハンカチを大事そうにポケットに戻した。

 健は何も答えられずに、やる瀬無さそうに、そんな水上刑事の姿を見つめていた。

 水上刑事は後に後悔することに成る…。このときの健の様子を…張りつめた健の表情を…その翳りに包まれるように存在していた、頑なな決意を見逃してしまった事を…。

 二人は表通りから折れて、例の、路地裏へと入り込んだ。

 低い青空と、据えた様な白雲の臭い…それ以外は昨晩のまま…誰のものとも知れない血を吸った地面も、変わらずに冷たい表情をしている。

 「ここは昨夜のまま…作業員にも工事を中断して貰っているからな…千明お嬢さんが人喰い野郎を半殺しにしたそのままの状態に成っているはずだ…。どうだ、何か解った事は有るか。相手の状態とか、相手が今どこに居るかの手が掛りとか…。」

 大きく広がった血痕の前に屈んで、水上刑事が健に尋ねた。

 当の健は…真剣に捜査をする気が有るのだろうか…真っ黒いビルの舳先に見える空を見上げながら、一言…、

「いいえ…。」

 健の乾いた声に、水上刑事は心配そうに…しかし、思い直して立ち上がると、

「そうか、お前の眼から見て、これといって目ぼしいものが見当たらないのなら問題無いだろう。…とりあえず一度、署に戻るか…。」

 健も一端は水上刑事の号令に従って、歓楽街の一角、駐車場に止めた警察車両の傍まで移動した。だが…、

「すいません、水上さん。ちょっと、トイレに行って来ても良いでしょうか…この分だと、本署までは持たないみたいなんで…。」

 健が当然、馬鹿に明るい声で、はにかんだ様に口を開いた。

 そんな健の態度を、すでに乗り込んでいた警察車両のサイドウインドウの隙間から受けた、水上刑事は…。

 「おっ、おう…しょうがねぇな、ここで待っててやるから、さっさと済ませてこいよ。」

 健が彼らしい人懐っこさを取り戻したのが、水上刑事は余程嬉しかったのだろう…。

 水上刑事は不覚にも…児玉警部に、健を一人にするなと言われていたにも関わらず…健に独断で行動する機会を、彼に与えてしまったのだ…。

 その事を…助手席のシートに寝そべって、ショッピングモールの人混みに見えなくなる健の背中を、上機嫌で見送る水上刑事は…知る由も無かった…。

 そうして…水上刑事を駐車場に一人残して、健が赴いた先は…やはり、あの路地裏だった…。

 健は、昨夜に黒い鬼人(おに)が腰掛けていた鉄骨の上に、背広の上に羽織っていたコートを投げる。そして、ネクタイを緩めながら路地裏の中央に歩み出て…『誰か』に向かって声を掛ける…。

 「出てこいよ。お前の望み通り、一人に成ってやったぞ。」

 ゆったりとその場に佇む健の声…なんとそれに答える者が…それは当然…、

「へぇ、良く気付いたなぁ…俺がここに隠れてる事はもちろん…俺が、あんた達のどちらかが一人に成るのを待ってたって…。」

 まるでトカゲの様に、ビルの壁面をするすると下りてくる影…そう、紫鳶(むらさきとび)鬼鎧(きがい)を纏った、洋平である。

 路地裏に降り立ったその姿は…未だ頭部の裂傷は、蜘蛛の巣の様に脈々と刻まれたまま…どうやら、死返(まかるがえ)しは執り行っていない様だ…今のところは…。

 洋平に直面したことで、緊張感と、闘志を抑えきれぬ様に、健の瞳に赤銅(しゃくどう)色の輝きがともる。

 「簡単な事だ。お前の意地汚そうな視線にはすぐに気付いたからな…それでも、俺達に襲いかかって来なかった理由を考えれば…お前の思惑が自ずから見えてくる。」

「なるほどねぇ…昨日の奴らと言い、本当に鬼人(おに)って奴は多彩で、多種多様みたいだな。色とか…。それにしても、あんた馬鹿なんだな。」

 洋平はなぜか、すぐに健に襲いかかるような素振りは見せずに、ゆっくりと歩み寄って行く。

 健はそんな洋平の挙動を不審に思いながら…しかしながら、警戒を解く訳にもいかず、ただひたすらに相手の出方を待つしかない…。

 ゆっくりとした歩み…それでも、洋平と健のとの距離は、数メートルにまで近づいた。

 「俺が何を考えてるかが解る位だ、あんたなら、一対一じゃ絶対に俺に敵わない事も解っただろうにな…それでもあえて一人で戻ってくるわ、その上、襲って下さいとばかり俺をけし掛けるは…馬鹿としか思えないな。」

 言い終えて、健の言い分を待つかの様に歩みを止めた、洋平。

 健は眼前に迫った恐怖に挑みかかる様に、身体じゅうから赤銅(しゃくどう)()を噴き上げて、

「そうでも無いさ。何しろお前は手負いだからな…今の弱った状態なら、俺一人でも十分に倒しうる。俺はそう判断したからここに居る…。」

 (それに、危険だからこそ…命懸けの闘いに成るからこそ…掻かされた恥を、おかした失態を拭い去ることが出来る。なにより、俺自信が蟠りを捨てされる事が出来るはず…だからこそこの闘いには、やるだけの価値が有る。)

 強い日差しが生みだしたビルの影。皮肉にも、そこにこそ映える健の赤銅。()を纏い始めた健に、洋平が笑い声を漏らす。

 「何が可笑しい。」

「何、良い度胸だなって思ったもんだから…それに、安心したよ。鬼人(おに)に成ってから、同類にあったのはあんたで三人目だけども…二人目まではスカした奴だけだったからな。ちゃんと、あんたみたいな親近感の持てる奴も居るんじゃないか。…それでこそ、喰いでが有るってもんだ…。」

 黒い鬼人(おに)が言っていた、鬼鎧(きがい)の周りに有る、鬼鎧の一部でもある不可視の()。それを通して健に伝わるのだ…ヒシヒシと…洋平の殺意が…。

 残念ながら、闘争の前の心構えにおいては、死線を潜りぬけてきた経験を持つ洋平の方が、一枚上手の様子。

 今しも飛び掛からんと身を屈める、洋平。

 健も鬼鎧(きがい)を纏うべく、()を収束させに掛る。…その最中に健は思う。

 (水上さん、すいません…でも、愛美(まなみ)の名前を聞いておいて、おめおめと逃げ帰る様な真似は出来ません。)

 幾重にも重なる陰が作り出した白昼夢の様な檻。逃げ場の無い心でこの場に来た健にとって、果たしてここは、勝利に酔いしれる華やかな酒席となるか…それとも現実の、肉眼でとらえたそのままに…日の届かぬ死地となるのか…。

 不揃いに頭上に伸びる、太く、長いビルの影が指の様に連なり…太陽を掴まんとして…薄れゆく黒い手で、空を引き裂いた。

[15]

 洋平が健へと飛び掛かる。

 千明との闘いでも、初動は必ず、強靭なバネと重ね持った俊敏さを活かすこの攻撃方法を取っていた。確かに、ワンパターンと言えばワンパターン。しかしながら、初太刀を飛び掛かりざまの爪の一閃に頼り切りたくなるのも解る…手負いの身でもなお、鬼人(おに)以外の生き物には再現不可能なほどに速い洋平の躍動。

 言いかえれば、それだけ千明の強さが際立つとも言えそうだが…今は、洋平と健の闘いに集中しよう。

 真上に広がるあけすけな青空の表面を、一瞬で飛び越える洋平の影。

 赤銅(しゃくどう)()の群れの中に潜む健の、首筋を狙った鋭利な一撃…その明確な殺意をかろうじてかわし…ブロンズに煌めく砂粒を割いて、健の鬼鎧(きがい)が姿を現した。

 洋平は脚を休めて、遠慮なくその造形に視線を注ぐ。

 「ふーん…。」

と、砕けた物知り顔で眺める様は…間違いなく、黒い鬼人(おに)が授けた知識が招いた好奇心だろう。

 その感情が、健にとっては吉と出るか、凶と出るか…。

 赤銅(しゃくどう)の閃光が収まり、路地裏に、気だるい午後の日差しが戻る。

 洋平は紫鳶(むらさきとび)の眼光を(しばたた)かせて…形だけ、瞼の上に手で(ひさし)を作ると、

「しっかし、鬼鎧(きがい)とやらは人それぞれ、まったく個々で千差万別だよな。…ところで、あんたのそれは…膂力重視なのか、それとも機動力重視なのか。」

 洋平がにわか仕込みの知識を披露して、健に問い掛けた。

 そう言われてみれば…なるほど、その姿形には、逞しさも、しなやかさも際立ってはいない。その代わりと言っては何だが、両方の性質を重ね持ったような…ある意味では、良いとこ取りの形態とも見えなくも無い。

 千明や洋平、それに黒い鬼人(おに)の様に、蒐祖(しゅうそ)の『異能』の象徴である『尾』は備わっておらず。肩に、カラオケ店の控室で見せた、塊堂(かいどう)の『異観』の象徴である『鬼眼(きがん)』が浮き彫りに成っている。

  兜となる部分では、頬から後頭部に掛けての部分が緩やかに反り上がり…頭頂部には矢尻の様な鋭い角が一本…鬼鎧(きがい)全体を包括するイメージは…さながら、古代中国の兵士の様な…。

 赤銅(しゃくどう)の眼光はけいけいと強い。さらに、フェイスマスクには、ブルドウザーのブレードを思わせる角張った切り込みが入っている。

 だらんとぶら下がった腕の先…太陽の滴に濡れる爪の先が、いやが上にも、健の不屈の闘士と、底に秘めた嗜虐心を、見る者の心の内に刺し通していく…。

 健が肩当ての象眼を盛んに動かし…いつの間にか洋平が張り巡らしていた鬼膜(きまく)の規模と、精度の具合を測る。…少なくともこれで、無用に被害を拡大させずに済む。それに、闘い終わるまでは邪魔も…勿論、助けも入っては来ないだろう…。

 カラオケ店で見た、黒い鬼人(おに)のそれに比べればお粗末な出来だが…それ故に健は、洋平が昨日、自分を襲った鬼人(おに)とは別人であったと言う確信と…己の力に対する自負心を深めるのであった。

 健が、ビルの影の中から一歩前へ…。

  鬼鎧(きがい)表面の浅く透明な部分が、日差しに白く霞む。都会という筒の中で、二匹の鬼人(おに)の姿が白日の元にさらけ出される瞬間。

 一頻(ひとしき)りの戦況分析を終えて…今更ながら不利を痛感した健が…それでも逃げる素振りを見せずに、洋平の問いに答える。

 「俺のは膂力重視型でも、機動力重視型でも無い。中間型…あるいは、人によって『万能型』とも呼ぶ。」

 間を置いての返答であったが、洋平は返事が有ったことに気を良くした風に、

「『万能型』ねぇ…。」

と嘲る様に、蔑む様に笑い声を漏らした。

 健はその明らかな侮蔑の意図に、堪え切れずに声を荒げる。

 「何が可笑しい…。」

「だってなぁ…中間型ってのは解るよ。二つの型の間を取った感じって言うのは、何となく腑に落ちるからな…でも、万能型は無いんじゃないか。」

 よほど可笑しかったのだろう。話の最中にも、洋平は自分の喋る言葉の滑稽さに噴き出しそうに成っていた。

 健は…鬼人(おに)と言うのは皆、そういうものなのか…自らの内心の具現化である鬼鎧(きがい)を愚弄されたことに、内に宿る()を怒りに燃え滾らせている。

 洋平はその様子を値踏みする様に、

「何だよ、怒ったのか。すまんすまん、悪気は無かったんだ。ただ、昨日からこっち、凄いのばかり見ているんでな。例えば、化け物見たいな…まぁ、俺達も人の事は言えないけど…とにかく馬鹿みたいな怪力女…鬼姫とか呼ばれていたな…。とにかく一方向にとは言え、突出した力の持ち主だった…。それに、見た目は膂力重視型のはずが、どうやってんのか消えたり、現れたり…俺の勘では、超高速で移動してるんじゃないかと思うんだよな。それがあの黒いのの『異能』に関係する事なんだろうが…俺が思うに、『万能型』なんて大層な呼び名が真に当てはまるのは、あいつみたいな奴だろうな。」

 洋平が挙げた二人の鬼人(おに)。健はそれが千明と、自分を昏倒させた黒い鬼人(おに)を指していると言う事を敏感に感じ取る。…感じ取っただけに…自分自身で体感した力の差を知っているだけに…なおのこと歯痒く…ぐうの音も出ない。

 洋平は…昨晩、黒い鬼人(おに)に丸めこまれたことが忘れられなかった様子で…鬱憤でも晴らす様な勢いで、健の痛い所を突っついて回る。仕舞には…、

「しかし、黒くて、速いって言ったら…あれだよ。夏場、台所の隅とかによく出没するあの虫…あれ見たいだよな。」

と、健への嫌がらせを外れても、笑い声は止まる様子を見せない。…それは、疲弊しきってハイになっているのは解るけど…かなりキテいるな、これは…。

 「ところで、あんた幾つなの…。」

 健が苛立たしげに無防備な洋平の態度を窺っている…その隙間を擦り抜ける様に、洋平の笑気の冷えた声が届く。

 健は相手の声だけとは言え、不意を突かれ、警戒感を緩めていた自分に驚き…慌てて防御する様に両腕を上げる。それがただ悪戯に、洋平の嘲笑を誘うと解っていながらも…。

 「そんなに警戒するなよな…まっ、あの鬼姫さんみたく完全に舐めて掛られえるよりは良いか…。それで、あんたの歳は幾つ何だ。背広なんか着てるからてっきり年上かと思ったけど、もしかして俺と同じ位なんじゃないのか…あんた、俺の歳とか調べて知ってるんだろ。高校はどこ出身なんだ。」

「戯言はもう良い、もう沢山だ。」

 「あらら、怒らせたか…俺もあの黒い鬼人(おに)の態度見て、気を付けなくちゃとは思ったんだがなぁ。それじゃああんたの殻が、恐怖で硬く成っちまう前に…ぼちぼち続きをやりますか。」

 洋平の宣言に、健が身構えを改めようとしたその瞬間…強靭な踏み足が大地を蹴った。

 洋平はその勢いで…こんどは身体を低くしたまま…一呼吸で健の間合いの中に走り込む。

 機先を制され、腕の構えを崩された健。しかし…その瞳が、見開かれた『鬼眼(きがん)』が、はっきりと洋平の存在を、駆け巡る紫鳶(むらさきとび)()の流動を見切っていた。

 研ぎ澄まされた爪で顎を撫で上げる様な洋平の一撃。健はそれを臆することなく最小限の動きで避ける。

 顎をやや上に、状態を後ろに傾け…その余りに無駄の無い動きに、洋平も気付いた。

 (やはり、さっきかわされたのも偶然じゃない。)

 洋平は…湧き上がる興奮に突き動かされる様に…両腕を健に向けて至近距離で振り回し続ける。

 「ハッ、ハハッ、やっぱりそうだ。お前、相手の()の流れを読んで闘うタイプなんだろ。実は、俺もそうらしいんだが…ハハッ、なかなか参考に成る。あの黒い鬼人(おに)のは、滑らか過ぎて…それに短い時間しか接近できなかったから良く解らなかったが…あんたのは感覚で解る。なるほど、そうやって敵の()を認知するのか…じゃあ、これはどうだ。」

 洋平は叫びながら…突如、リズムを変えて…健の正面から、右脇へと密着。そしてそのままの勢いに、添えた指で抜き手を健の脇腹に…まさに、相手の虚を見事に付いた一撃。

 …が、それにも関わらず…またもや洋平の攻撃は空を切る。

 その結果、不測の事態に囚われて、洋平の反応が遅れた。それは(ひるがえ)って、健にとっては値千金の好機となる…。

 流石に警察官だけの事はあって、洋平の伸びきった腕を取る、健の捕縛術はなかなかに堂に言ったもの…そして、これは道場での稽古でも…ましてや、単に相手の動きを止める事を目的としている訳ではない。

 洋平はガッチリと腕をロックされながらも、

「これはすごいな。あの黒い鬼人(おに)が、鬼鎧(きがい)は自由に重くも、軽くも出来るって言ってたからな…それを知ってれば、鬼鎧の表面の摩擦力をでかく出来たとしても不思議は無いよな。」

と、鬼鎧(きがい)の外見の材質の割に、自分の腕が戒めからすっぽ抜けない理由を看破して…その上で、

「それならだ…お前が摩擦を大きくしてるんなら…こっちは逆に小さくしてやれば良い。要するに、そう言う事だろ。」

 言葉を言い終わるや否や、洋平の鬼鎧(きがい)の腕に薄らと光が走る。

 それを合図に、洋平は身をくねらせて腕を引いた。

 一秒と掛らずに…まるでウナギの様に、ドライアイスの様に…健が力を込めるほどに、その戒めから滑り落ちて行く洋平の腕。

 あと一気で完全に脱出というところで、洋平は引き寄せる肘に、肩に、力を込める。…が、あともう少しという所で出し抜けに、さながら咬み合わせが合ったかのように、再び動かなくなる洋平の腕。

 …違う、そうでは無いのだ…動かないのは洋平の腕だけでは無い。

 頭も、胴も、脚も…洋平の全身が動かない…そして洋平はもう一つの事にも気付いた。

 (俺の鬼鎧(きがい)が…脆くなってやがる。)

 金縛り状態となった洋平は、悲鳴でも上げるかのように腹の底から、

「なっ…。」

 その時、口を塞ぐように、健の手が洋平の頭部に宛がわれた。そうして耳元で響く、鼓膜をつんざく様な、箍の外れる音。…『(ながれ)』だ…。

 瞬時に、洋平には健が何をしようとしているのかが解った…しかし、未だ五体は言う事を聞かない…。

 健は訪れた好機を逃すことなく、その手中に…持てる全力を注ぎ込んで、脆くなった洋平の頭部を…全身で圧し掛かる様な勢いを付けて…そのまま、地面へと叩き付けた。

 予想通りに鈍く、重い、コンクリートの砕け散る音。そして、舞い上がる破片と、()とは明らかに違う砂埃。

 その一つ一つが、健が込めた力の絶大さを雄弁に物語っていた。そしてそれこそが…残念なことに、健の一撃が不発に終わった事の証明でもあるのだ。

 そう…もしも脆くなった状態の洋平が頭部が、コンクリートに直撃していたならば…如何に鬼鎧(きがい)と言えども、これほど威力が地面へと逃げる事は無い。飛び散っているものの中には、鬼鎧(きがい)の破片に、鮮血、それに、洋平の脳漿も盛大にばら撒かれていてしかるべきはず…。

 だが、その状況へと至っていない所を見ると…洋平の鬼鎧(きがい)の頭部が地面を打ち砕く寸前には、洋平に()の制御権が戻っていたことに他ならないだろう…。

 ではいったい、洋平にコントロールが戻るまでの猶予を与えたもの何だったのか。…それは、健が知っていた…。

 健は腹に硬いしこりの様な存在感を…失敗したという現実の、絶望感を味わっていた。その原因こそが…洋平の頭部を力一杯打ちつけようと、健の腕が伸びきるその刹那…健の首に絡み付き、その腕が伸びきるのを妨げた…まさに命綱に等しい働きをした、洋平の『尾』であった…。

 強度の回復と、尻尾に寄る力の減退…その二つが、健の手により、洋平の頭がザクロの様にかち割られるのを回避させた。洋平は…それを遣って退けたのだ…。

 「『殺したと思ったのに』…っか…。」

 健の心を見透かす様な洋平の声。またと無い機会を逃して、我を失っていた健は…はたと気づいて洋平を地面に押し付けようと…しかしながら、明らかに遅いのだ。…行動も、身のこなしも、そして意思も…全てが死闘の最中にあっては遅すぎるのだ。

 洋平は、健の体勢が入れ替わる、その瞬間の隙を付く。

 息つく間もなく、まずは尾を緩め…そうして生まれた空間を存分に活かして、まるでブレイクダンスを踊る様に地面をクルクルと回転。

 そして事態の急激の変化に目測を誤っている健を、勢いそのままに、間髪入れずに蹴り飛ばす。

 腕でブロックされた為に、飛距離は大したことは無い。だが、鬼人(おに)同士の闘いでは、それで十分…今の健の様に、ほんの数秒ふら付いている時間が命取りとなるのだ。

 遂に勝負は決した…かに思われたのだが…大方の、そして健の予想ともに反して…洋平は追い打ちを掛けて来ない。

 それどころか、後頭部に張り付いたコンクリートの粉塵を払いながら、何やら考え深げな声を漏らしている。

 「()を読み取る作業は、つまりは相手の()の流動を、その向かう方向を知ること…だから、()の流動をフェイントに…それを一度置き去りにして仕舞えば読みを狂わせられるかと思ったんだがなぁ。どうやら、あんたには()の流れが視覚的な情報として見えてるらしいな…それが噂の『鬼眼(きがん)と言うやつか…。なんか、自分でも驚くほどに持って回った言い方をしてるけどな…解るんだよな、何でだか…これも、あの黒い鬼人(おに)の影響かもな…。」

 洋平の気配、そして振る舞い。それは圧倒的な優位の内にある者にのみ許された、高揚感のなせる技だろう。…気のせいか、治る様子を見せない傷口が、大人しげに固着しているようにも見える…。

 「それに、あんたのお陰でもう一つの疑問も解けたよ。…実は、あんたにやられるまでは、勘違いかと思ってたんだがな。」

 洋平は話しながらもじりじりと…健の退路を牽制するかのようににじり寄って行く。

 その異様な圧迫感に、洋平の攻撃など易々とかわせるはずの、健の脚が押し広げられて行く。

 苦笑を交えながら、洋平が話を次ぐ。

 「鬼人(おに)の闘いも、とどのつまりは力のぶつけ合い。ただの人間の闘いと…そりゃあ、規模は随分違うが…やってることはそう変わりはしない。そう思ってたんだがなぁ。まさか、相手の()を乱して、弱くなった所を突くなんてやり方も有るとはな。まっ、俺には無理そうだけども…。」

 健はあの一瞬の間にその様な芸当を…だが、洋平の意見ではそれは驚くべき程の事で無いようで…、

「黒い鬼人(おに)やられた時は良く解らなかったんだ…まぁ、本当のところはあいつが俺に気付かせない様にしていのかも知れないが…だけど、あんたのは解ったよ。あんたは俺の鬼鎧(きがい)内部の()に揺さぶりを掛ける時、それの作業にゆうに一秒は掛けてたからな。そして何より、俺の()を乱すためにまず、自分の()を乱すことから始めた。…流石にそこまで不自然だと、幾ら鈍い俺でも解る…。でも、あの黒い鬼人(おに)は違うんだな…終始、鬼は気色悪い位滑らかで…その滑らかさで普通の感覚をしているこっちの鬼を乱してくるんだもんな…第一、あんたとは比べ物に成らない位に速い。何せ、指を首筋に付き挿して来た時、()集中させていた程度にしか…んっ。」

 健の鋭い舌打ちが洋平の足取りを止める。…しかし、二人の距離は既に2メートル弱…鬼人(おに)にとってそれは、必殺の間合いにも等しいだろう。

 すなわち二人は、火ぶたの切られた状態のままで、相手を貫く事以外を優先していることに成る。…生死に関わるやり取りの間で、他のことを優先するなど最早…人間の感覚では無い。

 いや、それでも二人が、自分の生き死にを横に置いてでも捨てきれないものこそ…自尊心こそが…鬼人(おに)になっても人としての己を保ちうる、最後の砦なのかもしれない。

 健は今、自らを盾にしてその砦を守ろうとしている…。

 「うだうだと煩ぇんだよ。餓鬼(がき)の分際で一丁前に頭使ってる振りなんかしてないで、さっさと掛ってこいよ、この薄ノロが。」

 眼前の敵へと吠えかかる、健。

 『(ながれ)』は終わり、そのマスクは閉じているが…歯を剥き出しにして威嚇する様な姿が、眼に浮かぶ。

 さて、ずいぶんな罵倒を頂戴した洋平の方だが…、

「あぁ、なるほどね。こうして苛立ってるあんたの傍に居ると良く解るよ。…まさか、あんたもあの黒い鬼人(おに)に一杯喰わされた口だったとわなぁ…ククッ、どうりで親近感が湧く訳だ。」

 相手の感情をすら読みの範疇とする鬼人(おに)の闘いにおいて、虚勢の言葉などはもっとも役に立たない…そして、統御しきれていない感情もまた然り。

 雌雄は決した。もう、この二人の勝負は…勝ち負けなどと言う次元には無い。あるのは、捕食と…人間としてもっとも受け入れ難い死を迎えるための…心の整理の時間だ。

 そして、それすらも…洋平には待つ気はなど無いのだ。

 「これではっきりしたな、俺とあんたの差が…俺はあいつに土を付けられて、それをバネに力を付けた…あいつが懇切丁寧に説明してくれたことも、まっ、正直有り難かったけどな。それでも…あいつにやり込められて、苛立ちを強くしただけのあんたとは大きな違いが有るのは間違いないだろ…。人の縁てのは不思議なもんだ。」

と、ここに来て、健の鬼眼(きがん)が、洋平の()に紛れこんだ微妙な感情の変化を見つける。…切なく、か細い…人の心を…。

 「…可笑しいな…人間だったころの俺は、こんなこと考えもしなかったのに…。鬼人(おに)に成って、そして加奈子を食べて…その果てにこんなことを思うなんてな。…いや、そうか…そういうことか…。」

 …洋平の()が、『理解』という人間が感じる原始的な喜びに、打ち震え始めた…。

 「まったくあいつの言った通りだな…本能が教えてくれるか…。そう言う事だったか…それで俺は加奈子を食べた…人として生きるために…力を付けて、より高みへと登るために…それなら、俺があいつを食べなきゃいけなかった理由にも納得がいく。」

 健の鬼眼(きがん)が不意に、洋平の()の奥に…女性の…特別な何かの面影を見通した。

 (俺は…どうして、こいつに勝てるかもしれないなんて思ったんだ…こいつには、俺と比べて足りないものなど何も無かったと言うのに…愛美、俺は…。)

 葉が剥がれ落ちていく様に、羽が抜け落ちる様に…あまりにも呆気なく力を失っていく健の()…。

 それは意欲とか、決断とかでは支配出来ない部分が、人間の心の奥底に存在していると言う事に他ならないだろう。もしも、そんな不確かで、不自由なものに振り回されるしかないと言うのであれば…鬼人(おに)とは何と脆弱な生き物なのだろうか…。

 洋平は無感動な声で、

「あんたからはいろいろと学び取らせてもらった…例えば、言葉であんたの痛い所を突くのも、立派な鬼鎧(きがい)への攻撃に成るとか。…俺もやられた事だからな。ざわつく身体中を掻き毟りたくなるようなその気持、よく解るよ。」

 その情動を押し殺した様な()は…健の命脈を、鬼を断たんとする前に…己の鬼を沈めたと言う事だろうか。…だとしたら、それはなんと人間的な無関心だろう。考えてみれば、人の心を掻き乱す時、自分の心が乱れたとしても…何も悪い事は無いのだから…。

 生きる者と、死ぬ者の絶望的な違い…この作り物の地面の上では同じ目線の高さでも…洋平は明らかに見下ろしているのだ…あの世に吸い寄せられている、健を…。

 そして死んだ鬼人(おに)の行く先は…きっと、地獄しか無い。

 洋平は神妙に健に頭を下げて、

「だから、俺の糧に成るあんたに感謝する…なによりも、俺にとって加奈子がそうであった事を教えてくれて事にも…。食べ物には、命を頂いていることを自覚して感謝の心を忘れるなか…こうなって始めて理解できたとは、俺もつくづく馬鹿だよな…でも、それでも構わないんだ…これからは、足りない所はあんたに補って貰う事にすればいいんだからな…勿論、引き続き加奈子にもな…。」

 洋平はもう、どうあろうと健を食う積りでいる。それも、まるで、健が既に、食卓に並べられている様な口ぶりを…それだけではない。洋平の人格そのものにも微かな変化が感じられる。

 しかし、例え洋平が食事や、食材に対して素晴らしい哲学を持った聖人君子であろうと…そして、自分の無意識下で、『他の生物の糧に成る事も止む無し』とする部分が有ったとしても…健は死ぬ訳にはいかないのだ。

 「安心してくれ。あの黒い鬼人(おに)に対する悔しい気持ちは、ちゃんと俺が引き継いで、鬱憤を晴らしてやるからよ。」

 洋平の言葉に見え隠れする、どこか女性的とも言える粘着質の優しさ、感触…。

 健はそれを腹の底が冷たくなる様な不気味さを覚えながら…だが今は、そんな感情を振り払って、一心に、洋平が振り上げた尾に集中する。

 洋平の尾の先端では、アームが広がり、毒針が突き出しているのが良く解る。そして、その狙いも…。

 洋平の上体が屈む。…それと同時に、健のへ向けて伸びる尾…。

 速い、そして一切の迷いも無い。それでも健は、健の鬼眼(きがん)は、しっかりとその動きを、健の鬼鎧(きがい)のどこ目掛けて飛んでいるのかを先取りしていた。

 ずばり、狙いは健の左脚。

 洋平の放った止めの一撃となるはずの攻撃だが、健は今までの全ての攻撃と同じく、あっさりとかわして見せた。…目標を失って、地面へと鋭く付きたてられた洋平の尾。

 アームで地面を掴む様にコンクリートを少し削り取ってから、洋平の背後へと戻ろうとしている。…健が洋平との距離を取るなら、今しかない…。

 健は軸足である左脚で強く地面を踏みこんで…が、硬いコンクリートの踏み応えのあるはずが、洋平の左脚は、足首の辺りにまで泥の様なものに沈み込んだのだ。

 健の両目が原因を探るより速く、鬼眼(きがん)が足元に生じた変化を看破する。

 ブクリッと、煮え滾る溶岩から飛び出す気泡の音。そして消えたあるべきはずの感触。そう、洋平の突き挿した毒針が、コンクリートの地面を溶かしていたのだ。

 それでも健には、逡巡する時間も、悩んでいる時間も無い。…無い無い尽くしで遂には、物理的な優位さえも無くしたのだから…。

 さらに追い打ちを掛ける様に、健の足元の、溶けたコンクリートが急速に固まっていく。

 …健がこの場から距離を取り始めるのは、そう言う訳で完全に出遅れてしまったのだ…しかしながら、それは何秒もの遅れて言う訳ではない。鬼人(おに)にとってコンクリートを砕くなど造作も無いのだがから…。それ故、固まったコンクリートから脚を引き抜くなどと言う動作は、一瞬あれば済む…そう、一瞬あれば…そして、一瞬あればこと足りるのは洋平とて同じ…その事を、二人は良く解っていた。

 洋平の鋭く研ぎ澄まされた爪が、健の首筋を深く割いたのは、皮肉にも健が脚を引き上げたのと同時だった。

 健の鬼鎧(きがい)が全身の力を失い、地面に仰向けに倒れ込む。…洋平は知っていた。苦い経験から、鬼鎧(きがい)が深手を負うと、一瞬だけ硬直し制御が難しくなる事を…おそらく、害敵の攻撃に対する無意識の防衛反応だろう。

 すなわち、硬直が解けた刹那が最大の攻め所となる…加えて、健の今の状態では洋平の次の攻撃をかわし様が無い…健すらも、この後に訪れる凄惨な場面を想像する他に無かった…。

 だが、洋平が取った次の行動は…なぜか、健のへの追いうちでは無かったのだ。

 洋平は棒立ちに成ってまま、健の血に、濡れた中指の爪の先を見つめながら、

「そうか…あんたにも思い人が居たんだな…心配しなくても良いって。その人には手を出さないからさ…その人の名前は、何て言うんだ。」

 健は自分が闘っているのが、大野洋平という鬼人(おに)では無い事に気付いた。…そして、それは洋平も…。

 洋平が勘付いている通り…洋平の内心の中に、加奈子の精神が解けだしている。どうやらそれは…間違いない様だ…。

 健は思った…、

(こうして寝転んでいると…まるで海の上を漂っている様だな。空が近い…。)

 そして…洋平の紫鳶(むらさきとび)の瞳をぼんやりと眺めながら、健は…ポツリと…呟く。

 「刈谷愛美(かりやまなみ)って言うんだ…空腹のところ悪いけど…どうか、彼女にだけは手を出さないでくれ。」

 洋平は跪いて、人差し指を健の眼の上に…そして、

「承知した。」

 瞬間、洋平の指がすんなりと、健の鬼鎧(きがい)の中の眼球を貫いて、脳を破壊した。

 健は一度だけ大きく痙攣したのちに…二度と動くことは無かった…。

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