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第一話 その四

[11]

 大野洋平(おおのようへい)は、湿った空気を靴の裏で踏みにじりながら、地面に座り込んでいた。

 そこは歓楽街の隅にある建設現場。…そして当然のこと…千明の目的の場所でもある。

 まだ鉄製の骨組ばかりが目立ち、遮る者の無いその場所の空は高い。

 洋平は口を半ば開いて緩慢な呼吸を行いながら、のけぞる様に儚げな空を見上げていた。

 ポケットの中の携帯型音楽プレイヤーから伸びたコード…耳に嵌められたイヤフォンから頭の中へと、とめどなく流れてくる曲は、そう…あの日のあの瞬間、あの部屋の中で流れていたと同じ…micoの歌…。

 洋平はmicoのハスキーな歌声の混じって聞こえてきた高い靴音に気付くと、音楽の再生を止めて、イヤフォンをポケットの中へと突っ込んだ。立ち上がったそのシルエットから、身長は180センチメートルはあるのだろう。

 それにしても…不気味な笑顔だ。だが、不愉快そうではない。何と言っても、洋平にとってそれは、彼が待ちに待った『迎え』の到来を告げる、鐘の音にも等しいものだったからだ。

 だからもし、この場で不愉快な顔をしている者が居るとしたらそれは…突然、不気味な笑みを向けられた…既に洋平の眼の前に立ちはだかっている、千明の方であろう…。

 千明は、洋平のポケットからだらしなくはみ出したイヤフォンを横目に、事務的な口調で話を切り出す。

 「大野洋平さんですね。信じては頂かないでしょうが…私は警察から依頼されて、あなたと面談の機会を得るために来ました。…土屋加奈子(つちやかなこ)さん、並びに貴方自身のこと、お話を聞かせてもらいたいですが…応じて頂けますね…。」

 洋平はとてもじゃないが友好的とは言えない千明の表情に…何が可笑しいのかまた、低く笑って、

「なんだ、この空気を作ってるの、あんたじゃ無かったのか…。」

 洋平の発現に、千明の眉がピクリと跳ねる。…洋平の言う空気とは、『鬼膜(きまく)』のことを指していると考えて間違いないだろう。要するに…洋平はそれなりに、自分の置かれている状況を認識している。そう…洋平は『それ』が解っていてこの場に留まっていたのだ…。

 千明は目の前の男が唯の木偶の坊なのか、それとも鋭敏な感覚をもった悪鬼なのか、値踏みするかのように見返した。

 洋平はそんな千明の視線も、この場の図々しい空気も、意に介さないとばかりに鼻で笑って、

「まぁ、そんなことはどうでも良いか。何と言ってもようやくの…待ちに待った『お迎え』が来たんだからな。それじゃあ早速、俺を仲間の所へ連れて言ってくれよ。面談だろうと何だろうと…落着ける所でなら、俺の新しい居場所に付いたら、幾らでも答えてやるからさ。」

 …いったい、洋平は何を勘違いしているのだろうか。いや、この洋平の態度は、確信に近い何かを持っている様にさえ見える…。

 しかし、千明にとってこれはチャンスと言えるだろう。

 この分だと、洋平は言われるがままにどこにでも付いて来るだろうから…労せずに、洋平を留置場まで御案内と言う事も、やって遣れない事では無い。…のだが…多分そうだろうとは思っていたけれど…千明にはその気は無いのだ…。

 「『お迎え』、『仲間』…いったい、何の話をしているんですか。」

 千明の声には、無知な愚か者に対する嘲りの響きが有った。

 「しらばっくれる事は無いだろ。俺にはちゃんと解ってんだよ…本能ってやつでかな…俺や、あんたみたいなのの集まりが有る事は…。あんたはその集団の内のどれかからの、ようするに使いな訳だろ。いやぁ、待てど暮らせど誰も来ないから…これは、俺の方から探して回らないと行けないかなとか考えてたところだったんだよね。でもまぁ、こうしてやって来てくれたんだ。俺の方からどの集団の一員に成りたいとかの注文を付ける気もないし、とりあえず、あんたんとこで良いや。解ったら連れてってくれよ。」

 どうやら洋平は…加奈子を食べた時の様に…本能的に千明たちの様な『鬼人(おに)』の集団組織が存在する事を、そして、そこに所属する事が最も無難な身の振り方である事を知っていたようだ。…それに、『五つ(いつつや)』以外にも集団が存在していると言う事実も…。

 千明は、洋平にさも自分と同類かの様に言われて、腹立たしさに拳を握りしめる。…それでも、仕事は、仕事だ…千明は小さな溜息で己を促がして、答え始める。

 「確かに、貴方を私たちの所属する集団…『五つ()』に勧誘することは、私の役目の一つではあります。ですが…それは、貴方の人となりを、私のこの目で見定めてからのことになりますね…こちらとしても、不穏分子を抱え込む気はありませんから…。」

 千明の刺々しい言葉付きに、洋平は、

「そうかよ。それじゃあ、まっ…気の済む様に何でも聞いてくれ。どうせ、俺の事は調べ尽くしてるんだろうし、隠し立てしても始まらないからな。…ところで、俺は正直に話すんだからあんたも、俺があんたのNGワードを踏んだなら、黙って無いで教えてくれよな。」

と、あくまでも余裕の姿勢を崩さない。…千明を侮っているにしろ…張ったりにしろ…『鬼人(おに)』とは大したものだな…。

 千明の『白銀の瞳』が夜をかき乱す…。その眩さで深まった暗闇に、洋平は感嘆したように口笛短く鳴らした。

 千明が質問を…いや、最後通告を言い渡す。

 「人一人殺しておいて、それを隠す積りも無いということですか…貴方は、人間の生き死にを軽んじ過ぎています。」

 洋平は面倒くさそうに笑って、

「『人間の生き死に』ねぇ…あんたにだって覚えが有るんだろ。自分の感情が薄っぺらくなった日の事…自分が人間で無くなったと解ってしまった瞬間を…。それから俺は、自分のことも他人のことも、どうでも良くなってたんだよな。調べてみたら、そういうの情性欠如って言うんだよな。本当、見つけた時はピンと来た訳よ。」

 洋平は誘い笑いの積りか、繰り返し可笑しそうに声を出して、

「そう言うの解るだろ。俺の同類の、あんた『達』には…なぁ。」

 千明は洋平の言葉の端を聞き咎めて…しかし、『その』確信が持てない以上…何気ない風を装って、

「あんた見たいなの同類にされたら、(たま)んないわね。…私は、あんたみたいに恋人を食い散らかしておいて、恥ずかしげもなく息してるなんて、気色悪くて出来ないわよ。」

 千明の口調が砕けたのと同時に、辺り空気の均衡が崩れる。…千明がとうとう、洋平への憤りという『()』を、抑え込むのを止めたのだ…。

 『鬼膜(きまく)』を揺さぶる様に迫ってくる、目の前スレンダーな女性から噴き出しているとは信じがたい、『()』の圧迫感。

 洋平は指先に痺れを感じながら、恰も、己を鼓舞するかのように…ふざけて、口許に手をかざして息を嗅ぐ真似をすると、楽しそうに顔を(しか)めて見せた。

 そんな洋平の大袈裟な動作すらも、今の千明の目にはどんな害虫よりも醜穢(しゅうかい)に映る。…その姿が、明日は我が身か、それとも見した人のものかも知れないと…心のどこかで解っているだけに…それは尚更、醜悪に…。

 洋平が薄笑いを浮かべつつ、千明の背後に見える存在に注意を払う。

 …どうやら、千明の心の葛藤が作り出した『()』の波に、『鬼膜(きまく)』の主の姿が朧気に…黒く…浮き上がって来ているようだ…。それに千明はまだ勘付いてはいない。

 「酷い事言う様なぁ…で、結局の所あんたには、俺をパーティーに招待しようという気があんのか。それともないのか。…そこんところ、いい加減にはっきりしてもらえないかなぁ。…次の面談も控えてる事だし…。」

 洋平が顎をしゃくって示した場所…千明もようやく、肩をかすめて背後に飛んで行った、矢の様な洋平の眼差し…彼奴(きゃつ)の存在を認識する…。

 千明が、洋平の挙動に注意を払う様に…新たな闖入者との間合いを外すように…身体を反転させながら速やかに距離を取った。

 そんな『二人』の様子を、洋平は面白そうに見ている。…そう、それは、先程まで千明が居た場所の真後ろ…山型に積み上げられた重そうな鉄骨の上に…。

 存在を意識しだした千明にも、蜃気楼の様なぼんやりとした塊が、暗幕のような夜に浮かんで見えた。…そして千明が見抜いたのはそれだけではない…。

 「貴方は…遂さっきまで、この周囲を『鬼膜(きまく)』で包んでいた方は…どうしたのですか。」

 千明は、洋平の無遠慮な好奇の視線を感じながら…暗く、透明な塊に問い掛けた。

 その探る様な、注意深い千明の物言いに対して…あるいは、反してか…塊はあっさりと、かつ平然とした声で答える。

 「ずいぶんとお疲れのご様子だったので、先に休んで頂くことになったんですよ。ですが御安心を、鬼姫さま。変わりは私目がしかと努めさせて頂いておりますから…では、続きの方を、ごゆっくりどうぞ。」

 …『ごゆっくり』と言いながら…その言葉は千明と洋平を、さっさと戦えとばかりにけしかけている。

 そんな『塊』の態度が気に入ったのか、洋平はケラケラ笑い。…気に入らなかった千明は…するどい眼光で鉄骨の上を睨み据えると、

「見ず知らずの方にその様な名で呼ばれる筋合いは、私には有りません。それに、何のために私の仲間と入れ替わり、そして何故、自ら『鬼膜(きまく)』を張り巡らせて下さっているのかは存じ上げませんが…はっきり言って、そのままそこに居られると気に障ります。少なくとも、姿は表して頂きたいものですね。」

 「なるほど、気に障るよりは、目障りな方がまだ増しだと言う訳ですね。流石は鬼姫さま、ジョークも洗練されてらっしゃる。」

 洋平は腕組みして、千明と『塊』の成り行きを待っている。口の端はだらしなく持ち上がっているが、その目は、二つに増えた『脅威』を怠りなく警戒しているようだ…。

 耳鳴りの様な静寂に包まれた静かな夜…。

 それは威嚇の範疇を超えた激しさで、千明の周辺を照らしだした。

 「あんたが『鬼膜(きまく)』を張っている以上、そこに居る人で無しのクズ野郎を始末するためには、あんたに協力してもらうのが手っ取り早い。だから、正体を現して『鬼膜』の主に成り替わってまでここに居る理由を正直に言えば、あんたがこの場にいることを見逃して上げる。…少なくとも、『あれ』との決着が着くまではね。」

 そう言いながら指を差してきた千明に、洋平はどこか不服そうに…腕組みしたままの『気を付け』の姿勢から、『安め』の姿勢に脚の感覚を広げた。

 そして…急に鋭鋒をこちらに向けた千明の、明け透けで、馬鹿馬鹿しい程の『()』の絶対量を感得して…我知らず、固く閉じた歯の間から小さな音が漏れた。…やはり…例え人間を止めたとしても…さらに『鬼人(おに)』からも人でなしと罵られる様な立場に身を落としても…あの、『白銀』の光芒は恐ろしいものらしい…。

 千明は、洋平の見せた僅かな委縮を当然のことと気にも留めずに、堂々と、『透明な塊』への忠告を再開する。

 「解ったら、私があんたの手を借りる気でいる内に決めてよね。透明なまま、霞みたいにこの場から姿を消すか。姿を見せて、私の申し出に従うか。さもないと…あんたもそこのクズと同類と見なして、始末するわよ。」

 千明の声の凄みときたら…口調から丁寧さが消えたと思ったら、代わりに、ずいぶんと好戦的におなりで居らっしゃる。…『()』とそれを使う者との間からは、凶暴性という動物的な情動は切っても切り離せないものなのかもしれない。…しかしだとずれば、健が見た…『()』の完璧な制御とはいったい何なのだろか…。

 鉄骨の上の『塊』はそんな、あらゆる待望を呑気にはぐらかす様に笑う。

 「はいはい、解りましたよ…解ったからそんな怖い眼で睨まないでくださいな。…僕の姿をそんなに見たいなら…今すぐに見せて差し上げますよ、鬼姫さま。」

 『塊』がくぐもった話声を響かせながら、大きくゆがむ。

 …そうして、辺りとの光の屈折率の差が如実に表れ…その逞しいシルエットから、空中に黒が滲みだしていくと…最後には…頑丈な鉄骨上にさらに重厚な…『漆黒の鬼人(おに)』が腰をおろしていた。

 (黒い鬼人か…。)

 現れた者を目視して、最初に千明と洋平が思った事は…同じく、その『色』のことであった。

 …つまり『黒い鬼人(おに)』とは、他の『鬼人』たちに直感的に何かを感じさせる存在ということだろうか…。

 そしてここに始めて、『鬼人(おに)』という生き物の全貌がさらけ出されたのだ。

 その姿は全身を『()』と呼ばれる『鬼人(おに)』の内的エネルギーの結晶に覆われていた。

 そして、全身が隙間なく結晶で包まれた一つの、結晶体としての完成状態を指して『鬼鎧(きがい)』と呼ばれているようだ。

 この黒い鬼人(おに)の姿からもその事は見てとれる。

 洋平の『尻尾』や、健の『肩当て』の様に、濁りを宿した氷の様な外見。そして表面の透き通った部分が、いやが上にも、『鬼鎧(きがい)』内部を染める黒を引き立てている。…まるで漆黒の炎の様に…。

 加えて、鬼鎧(きがい)そのものを見ると、その輪郭の面白さにも気付かされる。

 座っている姿から推量だが、その体長はゆうに190センチメートルはある。…いや、尻尾を含めると、2メートルは軽く超えている…そう、この黒い鬼人(おに)にも尻尾が有るのだ。

 尻尾の形は、洋平のサソリの尾の様な者とは違い。先細りしていく、まさにトカゲの尾の様である。

 その尾には洋平の物の様にアームなどは付いておらず、明らかに『鬼鎧(きがい)』の一部で有る事以外は…至ってシンプルに出来ていた。…鬼鎧の装飾か何かだろうか…。

 次に、五体を覆う各パーツを見てみる。

 細部では、手や、足の指がはっきりと…それに、肩や脚の付け根の位置、頭部のおさまり具合からいって…鬼鎧(きがい)は、おそらくは『中身』の形を踏襲する様に、生成される様だ。

 とは言え、この黒い鬼鎧(きがい)の象った逞しさは…さながら、特撮の怪人か、アメリカンコミックの変身ヒーロー。…ようするに、中身の基本形に対して、鬼鎧は『()』とさらに何かを付加する形で結晶化するということだろう。

 お終いに、どんな生き物でも重要な器官である頭部について記しておきたい。

 ここまでの『鬼鎧(きがい)』の考察で、ある程度イメージ出来る事ではあるが。現代人の視点で見ると、それはある種のヘルメットの様にも見える。

 『鬼人(おに)』という位だから、角らしきものは有るのだが…どちらかというと悪魔に見られる羊や、山羊の角の様な…いや、尻尾が爬虫類風ということから言えば…どちらかというと、恐竜のたてがみのような角とするのがしっくり来るかも知れない。

 両目の部分には、それを示す様な窪みは有るが…眼球が露出している訳ではなく、結晶の比較的に浅い所で瞳を思わせる黒が輝いているのみ。

 そして口許には、これまた結晶で出来たフェイスマスクの様なものが宛がわれている。

 …つまりは…この鬼鎧(きがい)とやらは、人間という形を…かつ、それを纏うもの性質をごく単純に象った『鎧』であり…より、精神性の高い『肉体』ということなのだ…。

 しかしそうなると…問題は、この黒い鬼鎧(きがい)の『中身』が、あえて…こんな形状の結晶を生成しようと望んだのかという事であるが…まっ、そういう類の事は、『鬼人(おに)』のことを見て行けばおいおい解っていくことなのだろう。

 そう言う訳で…また千明が()れてくる前に、物語を『鬼人(おに)』たちに返しておこう…。

 千明が待ちくたびれた様に、苛立たしげに、やっと姿を表した『黒い鬼人』に畳み掛ける。

 「それで、あんたはどうしてこんな状況に首を突っ込むの。」

 その問いに、『黒い鬼人(おに)』は語調に淀みなく、

「そうだなぁ。まぁ、好奇心に過ぎない事は違いないとは思うんですが…それでも強いて言うなら…あんたらの、奮闘をギャラーリーするのが目的かな…それ以降の事は、お二方のどちらに軍配が上がるかを見届けてから考えさせてもらう…ということで勘弁願えると、ありがたいですね。」

 『黒い鬼人(おに)』の言葉使いが乱暴になった一瞬、『()』の波が黒い鬼鎧(きがい)を貫いて、辺りの『鬼膜(きまく)』を一段と鋭く、滑らかに揺らした。

 千明はそんな、『黒い鬼人』の何気ない『表情』が見せる力の片鱗を、しっかりと自覚しながら…それでもなお、微塵も動揺や、ためらいを見せない…。

 「まぁ良いわ。そう言う事なら、あんたはそこで大人しく、引き続き几帳面に『鬼膜(きまく)』を安定させてなさい。ただしっ…故意に『鬼膜(きまく)』を操作したり、私の邪魔をしたりして、そこのクズ野郎を逃がしたり、逃げ出す隙を与えたりしようものなら…その場合、あんたをただでは済まさないから…覚悟だけはしておきなさい。」

 千明の言葉を味見する様に…黒い鬼人(おに)の尻尾が、大蛇の舌の様に艶めかしく蠢く。

 その様子を見ていると、とても結晶とは思えないほど、尻尾は柔らかい動きしている。どちらかと言えばメタリックな質感を思わせていたその結晶体も、その流動性を見ているとまるで、ゼリーか、ゲル状の何かの集まりの様にさえ見えてくるから不思議だ。…単に、人の心に…その材質に…定型は無いと言うだけの話かも知れないが…。

 黒い鬼人(おに)が、千明に応じる様に軽く手を挙げた。

 「はい。結構ですよ、鬼姫さま。」

「あんたのその当て付けがましい物言い…そのうち後悔させてやるから。」

と、千明が威圧するに、黒い鬼人(おに)は面白そうに手と尻尾を降ろした。

 どうやら、千明の了承は得られたらしい。だが、例え黒い鬼人(おに)がこの場を整えるホストといえど…もう一人のプレイヤーを(ないがしろ)にすることは許されない。

 暗闇に焼きついた様に流れる紫鳶(むらさきとび)の眼光が、待ちかねたように黒い鬼人(おに)に向かって瞬いた。

 「どうやら、そっちの話は片付いたみたいただな。それじゃあ今度は、『クズ野郎』にも話す機会を作って貰いたいんだけど、大丈夫かな。あっ、解らないかも知れないから一応言っておくけど…クズ野郎っていうのは、そこの彼女が俺に付けてくれたニックネーム…それで、そう…俺からあんたに…そう黒いあんたに一つ、プライベートな事を聞いても良いかな。」

 千明としても、洋平が何を尋ねるのか…そしてこの黒い鬼人が何を答えるのか興味があった。だから…、

「えぇ、どうぞ。なんなりと聞いてくださいな。それで、貴方の覚えが良かったら、私はこのままここに居座っていても良いでしょうね。」

と言う黒い鬼人の軽口も、千明は黙認して二人のやり取りが本格化するのを待つ…。

 洋平は、あくまで下手に出る様な、馬鹿丁寧な口のきき方をする黒い鬼人(おに)を胡散臭そうに見ながら、

「さぁな、好きにするさ。俺としては、あんたが俺の聞いた事に素直に答えてくれれば、こんな所に用は無くなるんだし…その時は真っ直ぐにねぐらへ帰る事に成るだろけどな。…そこの彼女が今みたいにお淑やかに、俺が居なくなるのを黙って見逃してくれればだけどな。」

 …当然、これは洋平の減らず口だが…それにしてもよく、あれだけの『()』を纏った千明に喧嘩を売れるものだ…。

 黒い鬼人(おに)も同感だったらしく、そんな洋平の無謀な態度に小さな息を漏らした。

 …それから、気を取り直したように…、

「それじゃあ、貴方の舌が鬼姫さまに引っこ抜かれる前に…もとい、滑りが順調な内に、お話を窺っておきましょうか。」

 洋平ややっぱり、そう言った言葉使いが嫌いでは無い様で、ちょっと楽しそうに、

「あぁ、良いねぇ。…でだ、さっきそこの彼女にも聞いた事なんだけど…黒いあんたは、俺の事を迎えに来てくれたのか。」

 洋平の質問に対して、黒い鬼人(おに)の第一声は…言葉ではない…鼻で笑いやがった…。

 途端に緊張の『()』が漲る、建設現場。

 しかしながら、不穏な空気を作った張本人である黒い鬼人は…まぁ、こいつの織上げた『鬼膜(きまく)』はあくまでも清浄だが…しれっとした調子で、和やかに喋り出す。

 「あぁ、申し訳ない。ただね…貴方、余りにも物を知らないのが…そんなんで、よくもまぁ…性懲りもなく人喰いなんかに走った事が、可笑しくって…。」

 こうして、黒い鬼人(おに)は一言で、弁解の余地を失った。…まっ、そんなもの頭から無かった様にも思えるが…。

 それに、黒い鬼人(おに)が弁解できなくなった相手は、洋平だけでないのだ。

 千明は…黒い鬼人(おに)が、洋平が加奈子を食べて『死返(まかるがえ)し』を執り行ったことを知っていたこと…そして、洋平の放つ『紫鳶(むらさきとび)』に光る眼光。その二つの事実から…『あの日』、カラオケ店で教皇に及んだ紫鳶(むらさきとび)鬼人(おに)は洋平…そして今日、ほんの数時間前に、カラオケ店で自分達を翻弄した鬼人こそこの黒い鬼人である。…そう、確信したのだった。

 …洋平は怒りのないまぜになった紫鳶(むらさきとび)()』を纏いながら…でありながらも、意外と冷静に…、

「なるほどね。あんた結構、事情通なんだな。それともあれか…俺が加奈子を喰っちまったことは、その女も知ってるみたいだしな。…あんたの言う通り、俺が無知なだけなのか。」

 洋平の『()』が、その内心を表して、風にざわつく炎の様に揺れて、夜空に舞いあがっていく。

 黒い鬼人は…今度は、笑い声を口の中で押し殺して…なぜか慰めるように、優しく諭す。

 「いいえ、無知というのは言い過ぎですよ。誰だって最初は、自分が何に生まれ変わったのかすら知らないんですからね。僕もそうでしたよ…あっ、そこの鬼姫さまの様な境遇の方は例外ですけどね。」

「生まれ変わった…自分が人間じゃなくなったのは…俺にも解った。しかし…俺はいったい、何に成ったんだ。」

 洋平の声に迫真性が加わる。こうなると…自分のことを良く解っていないのも、教えてくれる様な『仲間』が、『同類』が傍に居なかったというのは間違いなさそうだ…。

 千明は疑問に熱を上げる洋平から、スッと、眼を逸らした…。

 「…教えて上げましょう。貴方が変化したのは…貴方が行き着いたのは、鬼人(おに)です。」

鬼人(おに)っ。鬼人って…昔話とか、都市伝説とかに出てくるあの、鬼人のことなのか。」

 「えぇ、その通り。伝説や、巷説(こうせつ)に言われるところの、『鬼人は人の成れの果ての姿。』…それ、実は現実に起こり得ることだった…って、ことだったんですね。生き証人が言うんですから間違い無しに。」

 黒い鬼人(おに)が愉快そうに、洋平に知識を注入していく。その様子はまるで…一気にドミノを崩す前の、むず痒い高揚感を彷彿とさせる様だ…。『鬼人が人の成れの果て』とは…こういうことを差すのだろうか…。

 渇いていたはずの建材が、霜に濡れる。

 「ただ、鬼人(おに)とは言っても…()という内在する力のコントロール能力を得たこと。それに、それを結晶化させて…今の僕の様に、そしてお二方にも難なく纏える…鬼鎧(きがい)と呼ばれる()の鎧を作り出せること。それ以外はまぁ、ほとんど人間とは変わらない。いや、鬼人と呼ばれる、特殊能力を身に付けた人間ということになるでしょうか。」

 洋平は、黒い鬼人が未知の言葉を話す度に、

「…鬼人…鬼…鬼鎧…。」

と、まるで我が身に馴染ませるかのように、復唱した。だが、残念なことに…もうすでに、洋平は同じではないのだ…。

 黒い鬼人は、洋平が新たな自分に納得がいった…そのころ合いを見計らって、新事実という爆弾を放り投げた。

 「ただし…それも、鬼人が人を喰らうまでの話ですけどね。」

 それには洋平も愕然として、

「なっ、どういう意味だ。」

 …千明は黒い鬼人が話すままに、洋平が驚くままにしている。彼女にとっては解り切った事だ。

 そして何より…その気になればいつでも、二人纏めて捕らえるなり、始末するなり出来ると…その自負がある故だろう。

 そして、洋平にとってはそんな後の事など今はどうでも良い。今は、強烈な渇きを癒すかのように、ひたすらに黒い鬼人(おに)の施す洗礼を待ちわびているのだ。

 「それじゃあやっぱり、俺は人間ではないのか…。」

「細々とした理論的なお話は、後日に回すとでもして…結論から言えば、その通り。貴方は、そして貴方の肉体は既に人間だったころのものとは違います。」

 洋平は息苦しそうに、己の心臓を握りつぶすかのように、自分の胸倉を掴んで、

「…だったら、俺は何者なんだ。」

 黒い鬼人はそんな洋平の反応を…少し黙って見詰めてから、

「ですから、例え生物学的に人間様でなくなったとしても…鬼人(おに)は鬼人ですよ。それで不服なら、人喰い鬼人ということで良いんじゃないですかね。」

と、平然として…つまりは冷徹に…応え返した。

 黒い鬼人(おに)にすっぱりと切り捨てられて、洋平はにわかに顔を硬直させて絶望の色を覗かせた。…が、そこは、比喩ではなく言葉どおりの意味で、恋人を食い物にした『クズ野郎』…すぐにあの、不気味な薄笑いを浮かべる。

 「人喰い鬼人(おに)か…なかなか悪くは無いな。それに、あんたの言う事は面白い。…聞くだけ聞いたら、追い出すなりしようかと思ってたんだけどな。あんたがもっと、俺にいろいろと解説してくれるんなら…もうしばらくここに居ても構わんぜ。」

 …おいおい、まだ続くのかよこの会話は…。そんな男二人のなれ合いに、千明が皮肉めいた溜息を洩らした。そして、そんなことで一々恥を感じるなら、鬼人(おに)なんて因果な生き方が出来るはずもない…。

 だから、黒い鬼人(おに)は満足そうに洋平に返事をする。

 「それは嬉しいですね。嬉しいから頑張ってお答えしなくちゃいけません…差し当たり、はぐらかしていた貴方の最初の質問にお答えしておきましょうか…。まず、僕は貴方を迎えに来た訳ではありません。それと、貴方は僕の事をどこかの『集団』に属していると思ってらっしゃるようですが…実は、そうではなくて…ようするにはぐれ者。それでも、組織だった鬼人たちからは『野良(のら)』なんて呼ばれながらも結構、達者で生きてられていますよ。」

 黒い鬼人(おに)の身の上話に、千明が不平そうに鼻を鳴らした。洋平は千明のその態度の意味が、解らない様子だ…。

 黒い鬼人(おに)が話を続ける。

 「ついでの事に、貴方が思っている様な『集団』が幾つ有るのかも教えておきましょうか。一つ目は、そこの鬼姫さまが所属している…いいえ、彼女が生まれついた日本最古の、かつ最大の鬼人(おに)の集団である『五つ()』。まぁ、事実上、『組織』とか、『集団』とか呼べる代物はこの『五つ家』だけでしょうね…。二つ目は、通称『連絡網』、アウトロー…非保護状態にある鬼人たちの…つまりはこの僕のような『野良(のら)』の集まり…と言うよりは、『コミュニティ』か、情報屋みたいなものかな。まっ、そんなでも一応、『連絡網』には常勤のスタッフが居て、迷える子羊たちの世話を焼いてくれていたりする…勿論、後が怖い。僕もさんざんっぱら、ただ働きさせられました。」

 フィルターを通した様な声の感じからすると、どうも黒い鬼人(おに)は照れ笑いをしているらしい。…こいつの場合、それがどんな意味で可笑しいのか測りかねる…。

 そして、黒い鬼人(おに)の羞恥心のバロメーターになど一切興味の無い洋平が、もどかしそうな声で尋ねる。

 「おいっ、あんたどうやって…その『連絡網』とやらにコンタクトを取ったんだ。」

 洋平の声には期待が浮かんでいた。しかし、千明も、黒い鬼も知っているのだ…そう、

「貴方が知った所で無駄ですよ。『連絡網』は貴方を受け入れません…でもまぁ、参考までにお話しすると…僕の場合は待ち中で呼び止められたんです。…よっぽど挙動不審だったんですかねぇ。」

 「なぜだ、なぜ俺を受け入れないと言い切れる。」

 洋平は黒い鬼人(おに)の冗談など耳に入らない様だ。

 黒い鬼人(おに)は…焦り、もがく洋平に…一抹の哀れを催したのか、静かに息を吐いた…。

 「それは貴方が『人喰い鬼人(おに)』だからですよ。」

 …結局は堂々めぐりして、そこに行き着くのだ…。

 洋平は絶句して、ただただ黒い鬼人(おに)の声に、ぼんやり耳を傾ける。

 「全ての鬼人(おに)が潜在的に人喰いを行う可能性を秘めています。そこに行き着くまでの過程は千差万別…しかし、理由はただ一つに集約されます。曰く、『生きる』ためです。」

「生きる…。」

と、洋平の口から知らず知らずのうちに言葉が漏れた。

 「そうです。そう言う意味では、僕にも貴方の気持ちは解らないでもない。いや、大抵の鬼人たちには、その危うさが伝わるんじゃないかなぁ。…だからこそ貴方は受け入れられない。だって、貴方と言う人は、悪い見本ですからね。やはり、堕落した者として、嫌悪感の対象となるんでしょうねぇ。僕はそうでもないですけど。」

 そして黒い鬼人(おに)は千明の方に目線を向ける。…洋平もそれに倣った…。

 「本来なら、そんな寄る辺の無い貴方を受け入れてくれるのは、彼女の所…『五つ()』のはずだったんですけどねぇ。でも、それも無理の様ですね。何せ、鬼姫さまに嫌われるようではなぁ。」

 黒い鬼人(おに)が洋平に目を戻す。だが…洋平はまだ、クスリともしない千明の顔を見ている…。

 「『五つ()』では…力があって、なおかつ凶暴で手が付けられない『鬼人(おに)』を『札付き』なんて言って、一応、登録はしているみたいですけど…その実は生活の援助っていう餌だけを与えて、後は飼い殺し状態。粗相をしたら、そっこく処分するような体勢になっているみたいですね。」

「例え、そんな悲惨な状態だとしても、今となっては…俺があの女に非礼を詫びて、泣いて仲間に入れくれるようにお願いしないといけない…か。」

 洋平は嫌気がさしたように、千明から目線を離した。…腹は決まっているらしい…。

 黒い鬼人(おに)は自分を見る洋平を…名状し難い静けさで捕らえながら、

「…まっ、僕も聞いた話ですから、本当のところは、鬼姫さまにパンフレットでも貰って下さい。」

 「了解したよ…で、集団はもう他にはないのか。」

「目ぼしいのがもう一つあるにはありますけど…なにぶん、新興のみたいで…それに、鬼姫さまの手前、あんまり適当な事を申し上げるのも…ああ、間違ってもあなたを迎え入れたりはしない『集団』ですから、そこ御安心を…。規模の上でも、他の有力な集団とのシェアの食い分けという面でも…。」

 洋平はつくづく納得したように、うんうんと首を縦に振った。

 それから話を纏めるかのように、軽く握った手の親指で千明を指して、

「いやぁ、勉強になったわ。でも、そんなにあの女が凄いのか。強そうだってことは解るけどなぁ。」

 黒い鬼人は千明の眼光で見つめられて、居心地悪そうに、

「え、ええ、まぁ…強さは折り紙つきですよ、なにせ『五つ()』の、本家筋との縁が薄い若手を従えて、『サークル』活動を主催しているくらいですからね。基本的に、鬼人(おに)は気性に問題のある人物…例えば、極端な例で言うと貴方みたいなのが居ますから…現代社会では、完全な『実力』主義は難しいはずですけど…少なくとも、会の頭が荒事に弱い様では、メンバーの統率はとれませんよね。」

 「まっ、もっともな話だな。それで、そういう『サークル』とかを運営出来る位、良いトコのお嬢ってことでもあるわけか。」

「おっ、ずいぶんと察しが良いじゃないですか。その通りですよ。彼女は家柄的にも、『(かさね)』の根幹ともいえる五つの血族…『五つ()』と言う集合体において、指導的立場にあり通称『本家』と呼ばれる『蒐祖家(しゅうそけ)』。そこの総領娘と目されている方…蒐祖千明(しゅうそちあき)様なのですからね。」

 「ほぉお…何か、すげぇたまなんだな、あれは…。」

 洋平は暗がりにぼんやりと白く光る、千明の姿を横目に眺めて、

「それにしてもあんたの話、解りやすくてためになった。気に入ったよ、あんたのこと。」

と、洋平からの思いがけない賛辞に、小太郎は、

「そう言ってもらえるとこちらも嬉しいですね。人心掌握も、鬼人(おに)の器量の問われ所ですから。」

 …ウィットなジョークもお手のものですか…この黒い鬼人(おに)の機知には頭が下がる思いがする…。

 そう言うのが嫌いで無い洋平も、褒めた側なりの面目を施すことが出来た様で、機嫌良く…ポロリと、こんな言葉を零した。

 「なぁ、いっそのこと、あんたと俺で組まないか。そりゃあ、俺にだって人生がいつまで続くのは解らないけどさ…。とりあえず、あんたとなら上手く、楽しくやっていけそうだからな。何、心配しなくても、俺は人喰いは人喰いだが、好き(この)んで男を喰おうなんて考えは起こさない積りだ。少なくとも、この世の女を喰い尽くすまではな。」

 …洋平の声からは未来への希望とか、期待感みたいなものが感じられた。

 そんな、広い青空を想起させる様な、壮大な詩も…恋人を喰い散らかして、汚物のように扱った口から出たのであれば…空々しく響くだけだ…特に、夜の路地裏では…。

 黒い鬼人(おに)がそんな風に…同じように感じたかは定かでない。それでも…、

「僕が…貴方とですか。」

 「あぁ…とりあえずは一時的でも構わんさ。今はまず、そこの彼女を二人でどうにかしてみると言うのではどうだ。…本契約は、彼女をどう料理出来たかを見てから決めてくれてば良い…。」

「…お断りですね。でも、悪く思わないでください。」

 洋平の言葉で千明が身構えるまでもなく…黒い鬼人(おに)は当り前だと言わんばかりに、洋平の申し出を蹴った。

 洋平の方では、黒い鬼人(おに)が申し出を受け入れるとばかり思っていたのだろう。もともと物騒な眼光をさらに尖らせて、黒い鬼人(おに)を見つめる。

 「…なぜだ…。」

 洋平の声は限りなく低く、確信だけを求めている。…しかし、底なしに人の悪い黒い鬼人(おに)は、まるではぐらかす様な声音で、

「現実問題として、どうしようもないことがあるんですよ。まず…僕と貴方が組んだ所で、そこの鬼姫さまには敵いません。まっ、なぶり殺しにされるのが落ちでしょうね。」

 どこか挑発的な黒い鬼人(おに)の言葉にも、洋平は黙して微動だにしない…。

 「それと、残念ながら僕の寿命は後…もって一年ってところなもんで…。最初から、貴方がパートナーに選ぶ相手としては不適格なんですよ。」

 黒い鬼人(おに)のこの大胆な暴露には、流石に、洋平も、そして千明も目を丸くする。

 「そうかよ…そう言う事なら、仕方が無いな。」

 洋平は黒い鬼人(おに)への執着心を亡くしたようで、呆れたように、つまらなそうに…ぬるい息を吐きだした。

 「それにしても…まぁ、あんたのことは最初から、戦力として当てにはしてなかったけどなぁ…人喰いまでしてる俺でも、あの女には勝てないっての…それ、本当なのか。」

 黒い鬼人(おに)が、

「僕が何を言っても、貴方はそれを信じきることは出来ないでしょうから…究極的には、鬼姫さまとぶつかってみて確認するしかないでしょうね。…それより、あの…戦力にされて無かったって…僕って、そんなに弱そうに見えますか。」

と、他人にどう見られているかなど、気にする奴とも思えないのだが…洋平に尋ね返した。…多少、おずおずと…相手を愚弄する様な外連味(けれんみ)を匂わせて…。

 そんな黒い鬼人(おに)の下心など露ほども意に介さず…洋平は陽気に、意地悪く答える。

 「まぁな。そりゃあ、あんたのその…鬼鎧(きがい)って言うの…見るからに固そうだなとは思うよ、本能的に…。何て言うか、密度が高いって感じで…しかしなぁ、いくら丈夫でもな。これも本能的に何だが…爪も牙もない様な奴だと…いくら鬼人だの言われても…俺から帰宅部って感じにしか見えないわ…。それに尻尾にも、これといった武器とか、仕掛けとか…無さそうだし。」

 洋平の指摘した事はどれも本当だ。洋平が暗闇で見逃したと言う訳ではなく…指は長く、太いが爪は無く…口許はマスクで覆われているのだから、牙どころか歯の一本も剥き出しには無い…そして確かに、洋平が『あの日』にカラオケ店で見せた『尻尾』と違って、黒い鬼人(おに)のそれには毒針の一本、アームの一つも見当たらない。

 だから、洋平の言う通り、黒い鬼人(おに)には鬼人たちの尺度…本能という物差しで測ったときには、足りないものが有るのは間違いない。…あくまで、洋平の物差しで測れる範囲での話ではあるが…。

 どうも、黙って聞いている千明も…どちらかというと、黒い鬼人(おに)の方に興味があるようだ。それは白銀の粒子の、細かな律動に…小さく高く響く、微かな金切り音に…そして、エジプトの神が夜に隠れると言う、猫の目の様に…大きく、煌びやかな瞳がはっきりと物語っていた。

 さて…洋平に弱いと理由付きで断じられた黒い鬼人(おに)。洋平の言い分を知りたがっていた所を見ると、少しは気にしている…と、思いきや、

「ふーん、爪に、牙…あとは尻尾ね。お前が鬼人(おに)として、何を拠り所にしているのか…良く解ったよ。」

と、今度は、聞き取れないほどの小声で呟いた。

 「んっ、何か言ったか。」

「いいえ。それより、ついでにもう一つ聞いても良いですか。」

 黒い鬼人は埃を払い落すかの様な気易さで、話の流れを変える。洋平もそれを咎めるはずもなく。

 「なんだ、言ってみろよ。いろいろと勉強させてもらったからな、言える事には答えてやるよ。」

 黒い鬼人(おに)は洋平の了承を合図に、悪びれもせず、

「それじゃあ、お言葉に甘えて…貴方、なんで『彼女』を…あぁ、貴方が食べてしまったかたのことですけど…しかし、どうして溶かして食べたりしたんですか。それも、わざわざ数日間、絶食に近い状況に置くなんて…そんな質面倒臭い下準備までして…。どう考えても、普通に食べた方が手っ取り早いでしょうに。テーブルマナーは犬に習ったのかと思う位には…酷い喰い零し方でしたよ、部屋中。」

 「あんた…あの部屋を見たのか。それに、俺が加奈子を飯抜きにしてたことまで知っているなんてな。…あんた、俺が思ってたよりも、よっぽど得体のしれない奴みたいだな。」

 「いやぁ、そんなことは…。」

と、黒い鬼人(おに)は洋平の生身の畏怖に対して、恐縮したように鬼鎧(きがい)の頭を撫でた。その、陶器と陶器のすれ合う様な音が鳴り止むや否や、

「ちょっと、下準備ってどういう意味よ。」

 …千明が(こら)え切れずに口を挟んだ。

 洋平は千明の方に不気味な笑みを向けると、

「こちらのお嬢さんは、グロテスクなものに興味のあるお年頃らしい。そう言うことだから、教えてあげろよ、先生。」

と、洋平に促がされて、黒い鬼人(おに)は、

「良いんですか、折角の楽しみを奪う事になると思いますけど。」

 「良いって。多分、俺の口から言うより、あんたに言って貰った方が面白い反応を見られそうだからな。」

 「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて…鬼姫さま…。」

 男たちの穏やかでなさそうな密談の末…千明は黒い鬼人(おに)に名前を呼ばれて、薄気味悪そうに肩を揺らした。…それが面白かったのか、黒い鬼人(おに)が至極淡々と教授し始める。

 「鬼姫さまは、虫を食べるための調理方法って知っていますか。」

「…虫…。」

 突然、脈絡もなく飛び出してきたように思える言葉に…千明は何を言われているのかすら解らない様で…まっ、碌でもない事を離そうとしているは解っている訳だが…。

 「そう、虫です。そうだな…例えば、水生昆虫のタガメとか…それに、身近な虫と言えばあれですよね、ゴキブリ。」

「ゴキブリって…あんた、何言っているの…。」

と、千明が黙っていられずに尋ね返した。その様子から…どうやら、黒い鬼人(おに)が言わんとすることの、予想は付いたように見える…。

 黒い鬼人(おに)が無慈悲に話を続ける。

 「ですから、虫の調理方法のお話ですよ。日本人には虫を食べるっていう習慣はないですし…実は僕も、喜ばしい事にまだその経験は無いんですけど…それでも、鬼姫さまもそういう文化を持っている国があるのは御存じの事です様ね。それで…調理法な訳ですけど…。」

 …どういう訳で調理法なのか…千明にはもう、突っ込みを入れる気にすら成れない。…問題は、話の続きだ。

 「まっ、調理法と言うよりは、下準備に当たる事なんですけど。そう、そこの彼が『加奈子さん』って方にやったのと同じ…『下準備』。だから…これは『加奈子さん』に置き換えて考えてもらっても良い事なんですが…。いざ、虫を…例えば素揚げにするとして、一番困るのは…やっぱり、胃の中に残った未消化物でしょうね。」

 これでも十分に、千明には黒い鬼人(おに)の言いたい事が伝わったろう。それでも、黒い鬼人(おに)はその場に居ない誰かにも話す様に…冷静に話し続ける。

 「何を食べてるのか解ったもんじゃないですから、食中毒も怖いですし…それに『臭み』がねぇ。あれは生き物が排泄を行う以上、避けられないものだから…そう言う訳で、調理前の虫には二、三日くらい餌を与えないでおくっていう下準備が必要になるんです。…どうですか、こんなもんで…。」

 最後の語り掛けは、洋平へのものだった。洋平は面白おかしそうに、笑顔で黒い鬼人(おに)に頷いた。そして千明は…もう聞いてはいない…歯を食いしばって、拳を硬く握りしめる。

 黒い鬼人(おに)は、その分厚い鎧の奥で、静かにそんな二人の姿を見つめている…。

 「でも本当に、なんであんな食べ方を選んだんですか。」

「何でってそれは…幾らなんでも、人間一匹平らげるのはそうとう苦労しそうだと思ってな。なら、溶かして飲みこんでしまえば良いんじゃないかって考えた訳よ。なかなか冴えてるだろ。」

 「あぁ、そう言う事…貴方は御存じ無かったみたいですね。…鬼人(おに)が人喰いをすることを『死返(まかるがえ)し』と言うんですけど…何も、人間の全身を食べる必要は無いんですよ。相手の生き肝…つまり、心臓を食べるだけで良いとされているんです。」

「おい…それ、本当かよ。」

「えぇ、そのはずです。何とも、御苦労さまでした。」

 黒い鬼人(おに)のどこか冷気を孕んだ様な語気。

 洋平はそんな声色の事よりも…自分が遂行した難行が徒労に終わった事が…余程、可笑しかったのだろう。腹を抱えて、大笑いに笑いだした。

 「なんだそれ…いや、参ったわ。まさか、そんなで済んだとは…俺はまた、てっきり…だから、前日から散々頭働かせて考えたってのに…それが、全部無駄かよ。ククッ、全く嫌になるなぁ。おかげで俺は…あんな臭い思いまでしてあいつを飲みこんだのによぉ。いったい、あれだけ吐き出すのを我慢してたのは何だったんだろうな。マジ、笑うしかないわ。」

 笑っては話し、話しては笑う、洋平。そんな彼に、黒い鬼人(おに)はさりげなく呟く。

 「…お前、それは気を抜き過ぎだろ。」

 洋平が気付いた時はもう、遅かった。

 …黒い鬼人(おに)の言葉に、洋平は慌てて千明の方を向くが…すでに千明は、白銀の塊となって目前に迫っている。

 洋平は虚を突かれた事で…いや、そうで無かったとしてもだろう…あっさりと千明の圧力に屈して、度肝を抜かれたかのように身体を仰け反らせる。…これでは、避けようがない…。

 そうして洋平は、まるで白銀の雪崩の様な千明の『()』に絡め取られ…首根っこを鷲掴みにされたまま、3メートルほど後方にあったコンクリート打ちっぱなしの壁に、流れの強さそのままに叩きつけられた。

 洋平は己の『()』の安定性を欠いていために、ほとんど無防備な状態で、しこたま壁に背中を打ちつけた。その上、喉が潰されんばかりの力で締め上げられているので…抵抗どころか、罵声を挙げる事すら出来ない。

 黒い鬼人(おに)がそんな、壁に釘付けにされている洋平を見て…呟く。

 「さしずめ、昆虫標本だな…。」

 そして千明は…自らの喉を、そして己の革のグローブを掻き毟っている洋平に…殺意の煮えたぎる瞳で伝えるのだった…。

 「あんた…今、踏んだわよ。私の、NGワード…。」

[12]

 千明の手首を掻き毟っていた洋平の手が、今は、千明の細腕を握りつぶさんばかりに喰いこんでいる。

 それでも…相当に酷く抉られたようで…千明の手からはポタポタと赤い血が滴り落ちていた。

 静かな路地裏に地鳴りの様に響く音は、果たして…コンクリートの壁が軋む音か、それとも洋平の肉体が悲鳴を上げる音か…。

 洋平は、血ぬれた手の戒めを緩めようとしない千明に、未だ喉笛を締め上げられている。…だが、

「クソッ、鎧も着けてないのに…何て馬鹿力だ。この、雌ゴリラが…グァッ。」

と、悪態をつける程度には、洋平にも余裕が…そして、千明の白銀の()に対抗するべく、彼特有の紫鳶(むらさきとび)()がほとばしり出てくる。…そこで、ゴリラなどと言わなければ、ガチョウの様な声を出さずに済んだものを…。

 「大丈夫ですか。それにしても、少し注意力散漫でしたね。鬼人(おに)同士の関係って、殺るか、殺られるかってこともしばしば起こり得ますから。」

 そう、如何にも他人事として、何とも簡単に言ってくれる黒い鬼人(おに)に…洋平は精一杯引きつった瞼を開いて、眼球を向けると、

「てめぇ…まだ見物してたのかよ。俺を助けようって気が無いなら…気が散る…さっさとうせな。」

 黒い鬼人(おに)と洋平のやり取りの最中にも、千明は腕に、手に、指先に籠る…いや、『纏う力』を弱めようとはしない。

 その女性的な背中に刻まれた、『邪魔するものは容赦しない』と宣言する様な必殺の気合。…黒い鬼人(おに)はその矛先が自分にも向けられている事は承知している…。

 だからという訳では…無いのかもしれないが…。黒い鬼人(おに)が可笑しそうに、(かしこ)まって見せる様に、洋平と、千明の『二人』に応える。

 「まぁまぁ、そうカッカしないで下さいよ…。それはお二人のいざこざですから、僕は手出しする積りは有りませんよ。それでも…こうして見物しながら、いろいろと解説して差し上げますから…例えば、鬼姫さまの馬鹿力の事を…。」

 …意識か、無意識か…黒い鬼人(おに)の声に触発された様に、千明の洋平の首を締め上げる力が強まっていく。

 黒い鬼人(おに)はその様を内側で…小さく、鼻で笑って、

「貴方さっき、『鎧も着けて無いのに』と仰いましたよね。確かに、鬼姫さまの力が大きい事も、鬼鎧(きがい)を纏っていないのに大きな力を出していることも正しい。…ですが、その考え方には、些細なズレが有るんです。…鬼鎧(きがい)を纏うから大きな力が使える…それでも間違いではないのですが、段取りが可笑しい。…つまり、『鬼鎧(きがい)を纏うから大きな力が使えるでは無く。』、『大きな力を使おうとするから、鬼鎧(きがい)が生成される。』…より正しい順序を追求しようと思うなら、そう言う事に成るんです…。」

 洋平は、より深く喉に食い込む、千明の冷たい指先をヒシヒシと感じながら、笑い声のように喉を震わせて応える。

 「い、いいねぇ、面白い。…続けてくれ。」

 洋平に催促させて、黒い鬼人(おに)は尻尾を翻して応じる。

 「貴方の目の前に伸びてる鬼姫さまの腕…そこに纏わりついている彼女の()が、貴方にも見えるでしょう。それがそもそもの、彼女の人間離れした力の正体。貴方も感覚として了解している通りです。」

 話しながら…黒い鬼人(おに)のしなう尻尾が、鞭の様に風切り音を生む。

 「そして最も基本的な事…今しがたお話しした『()』、『鬼膜(きまく)』、そして『鬼鎧(きがい)』。これらは言うまでもなく、全てが同じもの…形状の変化は全て、『()』の密度、あるいは濃度の違い由来するものなんです。ですから…。」

 徐々に、黒い鬼人(おに)の声量が大きく、迫力も増しいく…。いや、黒い鬼人(おに)の声だけではない…千明の『()』の粒子も活発に、煌々(きらきら)と光量を増大させているのだ…。

 そんな白銀の『()』が、(あたか)も、黒い鬼人(おに)の口述に続く様に…、

「ちょうど今、鬼姫さまがやろうとしている様に、ほら…彼女の力が大きくなるに連れて、纏わりつく()の量が…密度が大きくなっていく…そして遂には、結晶化する…。」

 その瞬間、洋平の首筋に掴む手から、指先から…熱が消えた。

 …千明の右肘から下は…白銀の輝きを内に宿した、鬼鎧(きがい)に鎧われたのだ。

 洋平は千明の腕を掴んでいた手を、鬼鎧(きがい)の結晶の中に取りこまれまいと、必死に引き抜く。

 そして指先にこびり付いた結晶をこそぎ落そうと、手を打ち鳴らす様に擦り合わせ…しかし、千明の怪力は待ってはくれない。…洋平は再度、打ち付けられように…コンクリートを砕く様に、壁にめり込まされて行った。

 ちなみに、待ってくれなかったのは千明だけではない。…洋平の姿が壁の中に消えても、黒い鬼人(おに)も解説を淀みなく進めて行く。

 「つまりは、一度に大量の『()』を使おうとするならば、自然と、鬼鎧(きがい)を纏う結果に行き着くということですね。…鬼人(おに)にとってそれは、あらゆる機能の瞬発力が高まっている状態。及び、物理的に守られている状態と言えます。鬼鎧(きがい)さえ纏っていれば、三日位なら飲まず食わず、睡眠を取らなくても平気な位ですから…。ですが、反面…っと言いますか…鬼人(おに)にとって内心そのものとも言える()を、物質化して肉体の外側に晒している状態は…精神的に酷く危ういものがある。まぁ、そもそも鬼鎧(きがい)で己を覆い隠すと言う事は、内心をさらけ出すこと…言葉にするまでもなく、はなはだ矛盾した事象でするから…無理もない事なんでしょうね。実際の所は御自分で、鬼鎧(きがい)をすり減らしながら確かめて下さい。」

 黒い鬼人(おに)への洋平からの返事は無い。だが…代わりに、言葉よりももっと明確な反応が…。

 語る者も無く、一時の静寂を取り戻した路地裏に…いきなり、強烈な爆発音が響き渡る。

 コンクリートに埋められる様に囚われていた洋平が、自らの紫鳶の()を解放したのだ。

 砕けたコンクリートの破片を撒き散らして、無限に膨らむ風船の様に溢れ出る洋平の()。千明は素早く、洋平から鬼鎧(きがい)に覆われた腕を離して、後方に飛び退いた。…そして、洋平に挑みかかる様に、自分も白銀の()の密度を上げていく。 

 …鬼膜(きまく)による外側への遮音効果は施されているようだが、二人の()は雷鳴の様に金属製の建材を震わせて駆け抜ける。

 ボロボロと崩れ落ちた壁から、紫鳶(むらさきとび)の塊が剥がれ落ちた。

 最早、()の粒子の密度が高すぎて姿は見えないが、その塊の中心には洋平が…。そして、千明の方でも同じような変化が…。

 今や、『光る砂』というよりは、『乱反射する煙の塊』と化した、二匹の鬼人(おに)

 その、二つの巨大な力の収束に立ち会った黒い鬼人(おに)は…うそぶく様に呟く。

 「下手くそ…。」

 そのどちらにともなく発せられた…いや、こいつの場合は両人に向けたのだろうが…小さな囁きは、二つの『目』がぶつかり合う嵐の彼方へとかき消された。

 …そして遂に、ブルーシートのはためく静けさの後に…この場に、三匹の鬼人(おに)が揃ったのだ…。

 二人の鬼鎧(きがい)の有り様を眺めて、黒い鬼人(おに)が愉快そうな声を上げる。

 「へぇっ、鬼姫さまが『膂力重視(りょりょくじゅうし)、それで、貴方は『機動力重視(きどうりょくじゅうし)』か。そして二人とも尻尾を持って…僕と同じく、『蒐祖(しゅうそ)』の『異能』を携えて鬼人(おに)へと生まれ変わったと…。」

 黒い鬼人(おに)の言った『重視』という言葉は、なるほど、洋平と、千明の鬼鎧(きがい)…今の姿に良く表れている。

 まず千明の方は、鬼鎧(きがい)の内部に宿る光が白銀であることを覗けば、質感はほぼ黒い鬼人(おに)のそれと変わりない。

 しかし見た目に現れた大きな言違いも…まず鬼鎧(きがい)の形状だが…パワフルな印象は黒い鬼人(おに)と似ている…これを『膂力重視』というのだろうか…だが、黒い鬼人(おに)鬼鎧(きがい)のどこか獣染みたシルエットに比べ、千明のそれは西洋の甲冑を思わせる、どっしりとした重厚感に起因するものだと言える。

 瞳の部分は、黒い鬼人(おに)の漆黒の炎が白銀に入れ替わり。手の指先は鋭く尖り…洋平が言った爪とはこの様なものを指していたのだろうと、推察される。

 他には、黒い鬼人(おに)は足の指が生えそろう様に象られていたのだが…こちらは、手と違い指の先が尖っている…対して、千明の鬼鎧(きがい)ではブーツを吐いた様に、丸みがある。…どうやら、各々の鬼鎧(きがい)には定型が、あるいはコンセプトが有り、全身がそれに従って統一される作りなのかも知れない。

 そして忘れてはいけない口許。フェイスマスクを付けている様な様相は同一…だがそのマスクは、黒い鬼人(おに)のシンプルなものと違い。複雑な切れ目が上へ下へ、右へ左へと走り、独特な…そう、言うなれば『閉じた口』の様な紋様を描いている。そこからは容易に…必要に応じて、その切れ目が上下に分放たれ、まさにマスクそのものが口で有り、牙となることが…窺い知れる。

 その凶暴そうな姿を見るに…洋平が黒い鬼人(おに)鬼鎧(きがい)を捕まえて、『大人しそう』と言った事も…一理ある…そんな風にも思えてくる。

 では次に、その洋平の鬼鎧(きがい)の程を見せてもらおう。

 黒い鬼人(おに)を蔑んだ目で見た位なので当然、尖った爪が有る。それに、千明に比べると単調な模様だが、フェイスマスクにはギザギザが横断して、ワニかサメのような牙も持っているようだ。

 身長は鬼鎧(きがい)を纏う前とそう変わらず。

 特徴的なのは…黒い鬼人(おに)や、千明の鬼鎧には逞しさが前面に押し出されていたのに比べて…洋平のそれはスリムで、あるいはシャープに仕上がっている。例えるなら、レイサーや、ライダーが身に着けるスーツの様だ。

 頭部には角は無く、丸みのある流線型。足元はレイシングブーツを彷彿とさせる。

 そして何より目を引くのが…土屋加奈子(つちやかなこ)を絶命させた、長く伸びる『尻尾』…。そのサソリの尾の様な、結晶の先にあるアームであろう。

 しかし…こうして見ると、サソリと言うよりは…紫色のエビの化け物の様で、ちょっと間抜けだ。

 彼のこの姿を見るに…多分、鬼鎧(きがい)を纏った姿がどんなものに成るかは…自分ではどうしようもない事なのだと推測される。

 …そう言えば、黒い鬼人(おに)は千明にも『尻尾』が有る様な事を言っていたが…しかしながら、それらしいものは伸びていない様な…。

 いや、甲冑の胴の辺りに幾重にも巻き付けられた、細いワイヤーロープの様な何か…あれがそうなのかも知れない。

 見た所…その『尻尾』事態も、細い繊維を束ねて一本のロープ状に編み込んで有る様だが…鬼人(おに)の尾とは、これほどまでに定型が縹渺(ひょうびょう)としているものとは…。

 そうして今、二匹の鬼人(おに)が一触即発の鬼気をぶつけ合いながら対峙している。

 鬼鎧(きがい)を纏った姿は、洋平はそう変わらないものの…170センチメートルたらずだったはずの千明の身長が、確実に190センチメートル近くはある。…つまり、外見の姿形は、中身を測る上でなんら『当てに成らない』ということに…。

 …『当てに成らないか』…なぜか黒い鬼人(おに)にピッタリの言い回しに思えるのだが…果たして、あの黒い鬼鎧(きがい)の中身は如何なる体型の人物なのだろうか…。

 いやいや、今は、その黒い鬼人(おに)もそうしている様に、洋平と千明の睨み合いを注視すべきだろう。黒い鬼人(おに)が…どういう積りなのか…唆す様に、

「いよいよ、来るべき時が来てしまいましたね…。」

 そうかと思えば、押しとどめる様に、

「逃げるのなら、鬼鎧(きがい)を纏った今ですよ。きっと、膂力重視の鬼姫さまでは、機動力のある貴方に追いつけないでしょう…時間はあまりに乏しい、決断は急ぐべきです。」

と…やっぱり唆しているな、どちらにしても…。

 洋平も瞞着されるのはもう十分と、

「そう、慌てなくてるなよ…それにもう、始まってるのさ…あんたには悪いけどな…だから、大人しくそこで観戦しているんだぜ。こいつが終わったら今度は…お望み通り、あんたの相手をしてやることになるんだからな…。」

 ここで、珍しく黒い鬼人(おに)が、洋平を(けな)すかのように、

「良いんですか、そんなこと言って…貧弱で、すばしっこいだけが取り柄の『機動力重視』型の貴方が…果たして、『膂力重視』型の鬼姫さまを破る事が出来ますかねぇ。」

 洋平はどこか楽しそうに、黒い鬼人(おに)の論法を鼻で笑う。

 「違うな。俺が眼の前の彼女を倒せるかじゃない…のろまで、馬鹿力だけが取り柄のあんたが…本当に、この俺から逃げ切れるか。…あんたが今考えるべき問題は、それじゃないのか…。」

 黒い鬼人(おに)が補充した『燃料』は、良く燃えて、洋平の全身の血を沸騰させているようだ。黒い鬼人(おに)は洋平の様子を端然と見つめながら…、

(…のろまねぇ…。)

と、心の中で呟いた。その面影には…どうしてだろうか…むず痒さと、高揚感が…。

 しかし洋平は、黒い鬼人(おに)中身がそんなもので満たされているとは露知らず。かえって…戦慄で縮み上がっているとでも思ったのだろう。

 わざと軽い調子で、黒い鬼人(おに)を威圧する様に、

「それに、俺は力の方にも自信が有るんだ。何せ、人喰い鬼人(おに)だからな。だから、まっ、あんたは自分の出番が来る事を、楽しみにして待っててくれよな。」

 「えぇ、その時を心待ちにしています。」

 黒い鬼人(おに)低く、平静な調子でそれだけ答えた。…洋平が気を良くする事を、十二分に承知で…こいつの人の悪さも、ここに極まったか…。

 そいう訳でリラックス出来た洋平が、腰をかがめる様に…まるで猫科の生き物が飛びかかる様な姿勢をとった。

 対して、その洋平の『勢い』を受ける形になった…良い迷惑としか言えないであろう千明は…後背筋を引き付けて、両手を腰の辺りにまで引き上げた。その様は、空手の型ようだ。

 両者がそれぞれの形を選ぶまで、一瞬。そして、既に始まっている。…だから合図など…無い。

 洋平が千明に飛びかかっていたのも、また、一瞬の出来事だった。

 人間離れした、凄まじい速度で交錯する二つの影。千明は右腕をやや後方に引き、迎撃の力を拳に溜めた…が、その一瞬に割り込む声…。

 「鬼姫さま、お願いします。僕はその鬼人(おに)の力が見てみたい。」

 その言葉が走った刹那。

 千明は何を思ったのか…急接近する洋平を撃墜するのを止め。襲いかかる洋平の両の手をガッチリと掴む。そして千明は…まるで、力比べをするかの様に洋平と組み合った。…千明は黒い鬼人(おに)の進言を入れたのだ…。

 ただ組み合っただけ…されど、それは鬼人(おに)の取っ組み合いなのだ。

 組み合った瞬間に暴力的な衝撃が波状に広がる…。その激突する力は、鬼膜(きまく)を、この場の空気を通して、全ての物体へと伝えられる…勿論、並々ならぬ『集中力』で凝視する黒い鬼人(おに)にも…。

 組み合う二人の力と力に一時の均衡がもたらされたとき…洋平が口を開いた。

 「どうよ…人喰い野郎の力は…鬼姫さんや、あんたと比べて、劣ってるように見えるかよ。」

 言葉は挑戦的…しかし…声に余裕は無い。

 それはそうだろう、何せ…洋平は全体重を掛ける様に、前のめりに成りながら千明を押しているというのに…千明の方はと言えば、両腕を伸ばしきることも無く。難なく洋平の圧力を受け止めているのだ…それも直立不動のまま、微動だにせず。

 これは必至な洋平にとっては受け入れにくい事であろうが…単純な力比べでは、千明が洋平を圧倒していると言わざるを得ない…。

 黒い鬼人(おに)は…まっ、こいつに期待するだけ無意味だろうが…洋平の奮戦にも、大して驚いた様子も見せずに、

「そう言われても…その程度では何とも答え様がないですねぇ。」

と持ち前の洒脱さを漂わせた。

 「そうかよ…。」

 まぁ、洋平としても、黒い鬼人(おに)に何と言われようとやる事は決まっている。

 洋平の鬼鎧(きがい)の内部に宿る()が濃く、そして透明な部分を駆逐する様に広がっていく。…それが、底力に成るのだ…。

 千明は洋平の押し込んでくる力を感じながらも…人間離れした冷静さで、あくまで直立不動。だが、洋平の()の増幅に対抗するように、千明の鬼鎧(きがい)内部の()も濃く、広がって行った。

 …()を振り絞っても、一向に崩れる様子を見せない力の均衡…。

 洋平も流石に苛立って、

「くっ、どうしてだ…何で、押し勝てない。それ以前に、何でこいつは…踏ん張っている訳でもないの、ピクリとも動かないんだよ。てめぇ、体重何トン有んだよ。」

 洋平の悪態に、黒い鬼人(おに)はマスクの奥でけらけらと笑う。

「彼女の名誉のために説明しておきますけど、それも鬼鎧(きがい)の持つ機能の一つなんです。鬼鎧を象った結晶は、()が物質化したものですからね。鬼の密度の大小を変えることで硬度上げる、柔軟性を持たせる、それに今の彼女の様に自重を大きくすることも自由自在。当然、逆も可能ですよ。でも、重くするのとは違って、ただ()を込めて密度を大きくすれば良いというものではないので、鬼の制御能力の低い人には難しい技となるんですけどね。…ようするに、重かろうが、軽かろうが、鬼人(おに)の体重は当てにはならないってことですよ。」

 当然、黒い鬼人(おに)の話がいい加減進んだ時点で、千明も洋平も聞いちゃぁいない。それでも、参考には成った様子で…洋平が…。

 「脱線しがちだが…あんたの説明は解りやすくて助かるよ。…なるほど、密度ね…。何となく、イメージ掴めたよ。」

 もう限界まで振り絞ったかに思えた洋平の()、そして力…だが、黒い鬼人(おに)の言葉から要領を拾って来たのか…洋平はさらに一段大きく、鬼鎧(きがい)()を込めた。

 今度の洋平の押してくる力には、さしもの千明も腕力でまず競り勝つべく、両腕を伸ばす。

 そして…そんな危うさを増した二体の鬼人(おに)のバランスを、鋭い眼光で観察しながら…黒い鬼人(おに)がようやく、

(鬼姫さまの方は…流石と言うほかに無いが…。問題のあの人喰い鬼人(おに)の方は…確かに、『死返(まかるがえ)し』を執り行っているだけあって、鬼鎧(きがい)を纏ったばかりの状態を見た印象に比べ…鬼人(おに)として機能が全体的にグレードアップされているように感じる。間違いなく、生き肝を食べて人一人分の()は『かさまし』されている様だ…しかしそれでも…力を得たと言うのは、どうかねぇ…。)

と、葛藤の様な洞察に決着が付いたらしい。

 黒い鬼人(おに)は声を張り上げて、

「どうもお疲れ様でした。もう『良いですよ』、鬼姫さま…。」

 その言葉を聞いた切な、千明は闘牛士の様に洋平を交わした。…いや、それだけではない、自分の力に引っ張られて、ものすごい速さで横を通り抜けて行く洋平に、その顔面に…千明は無造作に拳を叩きこんだのだ…。

 鈍く、大きな音を立てて吹っ飛んだ洋平は、さらに大きな音を立ててコンクリートの壁に激突。…遂に、壁に大穴を開けてしまった。

 千明はぽっかりと開いた黒い穴から視線を離さずに、背後の黒い鬼人(おに)に、

「何かに感づいた様だけど…体張ったのは私なんだから後で、ちゃんと分け前は寄越しなさいよ。」

 「いやぁ、鬼姫さまのような恵まれた方を提供できるような事は、特には…それに、貴女が彼を捕らえてしまったら、なんら意味を持たない情報になると思いますよ…。」

「…まぁ、いいわ。…ところで、私はあいつを生け捕りにするつもりは無いからね…。貴方の思惑がいったい、どんなもので、どこに有るのかは知らないけど…。私の決定を前にして、貴方はどうする積りなの…。」

 千明の力の籠った断定的な口調に…黒い鬼人(おに)は、可笑しそうに、困った様に、小さく息を漏らして、

「その時は多分、それで良いんだと思います。…僕は貴女ほどには、辱められた土屋加奈子さんに対する哀悼の気持ちの持ちあわせが無いものですから…。だから、彼女の為にも、貴女が人間的な感情を彼にぶつける。それも、人間であることを踏み外した彼に対する、納得のいく裁きの一つなんじゃないかと思えるんです…。」

 その言葉が黒い鬼人(おに)の本心とは限らない…それでも、千明は鬼鎧(きがい)の背中に、じんわりと暖かいものを感じた。

 「へぇ…見直したわ。貴方、ずいぶんまともな人間だったのね…それじゃあ、気兼ねなく、私のやりたいようにさせてもらうから…。」

 そう言って千明は、穴の縁に手を衝いて、ヨロヨロとこちらに戻って来た洋平に、毅然とした眼差しを向けるのだった。

 洋平は…この足取りでは、千明のそんな視線にすら射殺(いころ)されそうだ。

 そして、フラフラと千明との距離を縮めて行くと…違う、これは擬態だ…洋平が猛然と白銀の鬼鎧(きがい)に飛び掛かって行くではないか。

 『機動力重視』と言われるだけあってその動きは驚くほど速く、そして、鎧を着ていることも、空気の抵抗も無視するかのように、奇妙なほどに軽やかだ。

 しかし、残念ながらこの奇襲も失敗に終わる。

 洋平が己に近づくや否や、千明はあっさりとそれを平手で地面に叩き落とした。

 黒い鬼人(おに)は感嘆の声を挙げて、千明の『力』を称賛する。

 「すごいなぁ。まさに、『後の先の極み』って感じですね。」

 …と、地面に這い蹲っていた洋平が、顔を上げ…起き上がりながら、

「どういう意味だ…こいつ、どうして…明らかに俺より出足が遅かったはずが、間に合うんだ…スピードは俺の方が速いはずだろ。」

 洋平の顔は…千明に殴られた衝撃でグシャグシャに砕けて…平手を受けた肩の辺りにも亀裂が走っている。

 そのように鬼鎧(きがい)は惨憺たる有様だが…腰を屈めながらも起き上がったところを見ると…洋平はまだ戦えそうだ…。

 千明もそれを警戒してか…洋平に追い打ちを掛けようとはせず。千明のそんな気安さと、甘さを眺めながら、黒い鬼人(おに)どこかなじる様な、呆れた様な溜息を洩らした。

 「…まぁ、時間が有りそうだから説明しましょうか…幾ら貴方の動きが速くても、鬼姫さまには容易に反応する事が出来るんですよ。どうやら彼女は、()を身体に蓄えることで、五感の感覚機能を底上げ出来るタイプの鬼人(おに)のようですからね…。」

 黒い鬼人(おに)はそこで一端言葉を切って…洋平の方を見る…。

 砕けた鬼鎧(きがい)の裂け目に群がる様に、()蠢き、集まっていく。それは傷口を埋めるためのものなのだろう…。

 そして…破損部分を()が完全に覆うと、裂け目から紫鳶の強い光が浮き上がり。その光が弱まるにつれて、鬼鎧(きがい)の損傷は修復していく…。

 黒い鬼人(おに)はその様子を詰まらなそうに見ながら、

(鬼姫さま…確かに、正攻法には違いないんですけどね…人喰い鬼人(おに)を相手に、上手く立ち回り過ぎなんですよ…。)

と心の中では再び愚痴を、マスクの下からは溜息を零した。

 それでも、じっくりと、洋平に止めを刺すための『下準備』に余念がない千明に合わせるかのように、黒い鬼人(おに)も急がずに説明を続ける。

 「それと…鬼鎧(きがい)は結晶化、物質化している部分が全てではありません。鬼鎧の周りを覆う肉眼では不可視の()…まぁ、ようするに鬼膜(きまく)と同じものですね。その鬼鎧の延長範囲とも言える部分でまず、貴方の侵入を感知。そして、底上げした五感できっちり仕留める、と…。つまり、鬼姫さまと貴方とでは…攻防の際に使用できる感覚器官の差が…言ってしまえば、目をしっかりと見開いている状態と、盲打(めくらう)ちしている状態。…それくらいの差が付いてしまっていると言う事に成りますね。」

 いい加減、こうして話、こうして相手の出方を待っている内に…洋平の鬼鎧(きがい)の損傷は、完全に治癒してしまったようだ。

 亀裂から漏れていた光も、結晶が滑らかさを取り戻すと同時に鳴りを潜め…洋平はその余韻を確かめるかの様に、修復した顔面に指を這わせた。

 復調は確認出来た。しかし…千明との立ち会い。そして、黒い鬼人(おに)の話して聞かせた、攻防のノウハウ。…やはり、自信家の一面を持つ洋平でも、そう簡単には再戦へと腰を上げられない様だ…。

 洋平は指先にこびり付いた結晶の粉を、腹立たしげに払うと、

盲打(めくらう)ちねぇ…で、どうやったら俺の眼は開かれるんだ。」

 黒い鬼人(おに)はさばさばと…それでも形だけは感情を込めて、

「鬼姫さまと同じ事をしようと思っているなら…まっ、やってやれない事は無いでしょうけど…おそらく、それでは彼女との差を埋める事は出来ませんよ。残念ながら…。」

と、まぁまぁ残念そうに答える。黒い鬼人(おに)は続けて…、

「僕の勘だと…貴方は僕と同じで、五感をフル活用するタイプではなく、相手の()鬼人(おに)特有の第六感で感知するタイプだと思うんです。その第六感を使えば、少なくとも常人の五感の働きよりはましに、鬼姫さまの動きを捕らえられますよ。彼女の鬼の、流れや、変化を介して…。」

 「でっ、それはどうすれば身に付くんだよ。教えてくれるんだろうな…。」

 洋平の弱腰に、黒い鬼人(おに)は…まぁ、社交辞令程度には同情する様に…、

「申し訳ないんですけど…やっぱり、ノウハウみたいなものは教えようがないんですよね。一応、僕が今やっているような事を感じ取って、技を盗むってのが手っ取り早いんですけど…あぁ、解りませんか…。」

 黒い鬼人(おに)は舌なめずりする様に、尾で鉄骨の山を擦って不快な音を立てた…。

 「じゃあ、兎に角、鬼姫さまと闘うんですね。それが間違いなく、貴方が鬼人(おに)として大成する為の近道になるはずです。…何、大丈夫ですよ。貴方が生き残るために『彼女』の生き肝を喰らう事を選択したように…今回も本能が必要な事を、それを成すための方法を、ちゃんと教えてくれますよ…生きるか死ぬかの瀬戸際ともなればね。…おっと、これ以上は鬼姫さまも待ってくれない様ですよ。」

 千明の鬼鎧(きがい)の首が自分の方を向いているのに気付いて、黒い鬼人(おに)がおどけた様に言葉を切った。…随分、遅ればせながらも千明の痛い視線に気付いたのは…まぁ、流石は第六感とでも言っておこうか…。

 洋平が再び身を低くして、襲いかかるタイミングを窺う。

 千明もその姿を正面に捕らえて…しかし今度は、両腕をダラリと下げて余裕の構え。

 黒い鬼人(おに)はワンパターンな攻防を退屈そうに待ちながら、

(本能に聞けとは言ってみたものの…この時点で『逃げる』ことが選択肢に無い以上は、それも大して期待できそうな代物じゃないだろうなぁ…決着は、見えたかな。)

 洋平が、黒い鬼人(おに)の予想通りに、がむしゃらに千明に挑んで行った。

 …先程より速い、それに千明の鬼鎧(きがい)を引き裂こうとする爪は一層鋭くなって見える。

 それでも千明は洋平の攻撃を巧みにかわして…カウンターで拳を叩きこむ…が、何とその攻撃は空を切る。洋平が地を這う様に低く、低く、身を伏せてかわしたのだ。

 これはまさに、洋平にとって千載一遇の好機。今、千明は腰を捻る様にして、フックの様な空を切った一撃の、打ち終わりまでの刹那の時間を消化している。…つまりこの間は…この体制では…次の洋平の攻撃に対して、千明は手も足も出す事が出来ないのだ。

 洋平はその尾のアーム部分を、千明の顔面目掛けて、フックショットの様にぐんっと伸ばした。…これは防ぎようがない。それに、この距離だ。

 いくら千明の腕の回転の速さでも、掴むのも弾くのも困難を極める事は確実。…もし、洋平がそう思っていたとしたら…間違いではない。しかし、忘れている事が有るのではないだろうか…。

 洋平の放ったアーム動作が、さらに強い力を持った『何か』の介入で中断させられる。

 その『何か』はツルの様に、幾重にも洋平の尾に巻き付くと…遂には、その動きを完全に掌握してしまう。

 そうして洋平は、『何か』の存在を忘れていたために、無様にも…まるで、幼子に指で尾を摘まみ上げられ、身動きとれずに哀れにもがくトカゲの様に…軽々と宙へと吊り上げられてしまったのだ。

 洋平が失念していた『何か』とは…そう…千明の『尾』の事であった。

 洋平はすっかり自由を奪われてしまった者の…言葉だけは強く、

「てめぇ、降ろしやがれ。」

 そこですかさず黒い鬼人(おに)が、

「降ろして貰うのを待って居ないで、尻尾を切りはしたらどうですか。」

 当然…黒い鬼人(おに)のその進言が入れられる前に、千明が洋平の体中をワイヤーの尾でぐるぐる巻きにした。

 今や雁字搦め、良い所のまったくない洋平は…逆さに成った視界の隅に居る黒い鬼人(おに)を睨む。

 「お前、解ってて…余計な事を…。」

 黒い鬼人(おに)は洋平の殺意も穏やかに受け流す。

 「確かに、余計なことを言ってしまったようですね。…でも、僕が言わなきゃ、貴方、そんな脱出方法があるとは気付かなかったでしょ。」

 洋平は戒めを解こうと必死に身を捩りながら、

「クソッ、何なんだこの綱みたいなのは…。」

と、黒い鬼人(おに)の不快極まりない言い訳など構って居られない様子だ。

 黒い鬼人(おに)は、ここぞとばかりに人の悪さを全開にして、懲りずに洋平の悪態に合いの手を入れる。

 「彼女の尻尾ですよ。言いましたよね…。」

「何っ、尻尾だぁ…いったい何メートルあると思ってんだよ。」

 「まぁ、そういうものなんですよ。第一、僕と貴方の尻尾でもずいぶん形が違っていますからね。そして、それこそが『蒐祖(しゅうそ)』に連なる鬼人(おに)達の、『異能』の象徴でもあるんですよ。」

「まったく意味が解らん…どういうことなんだ…。」

 「鬼人(おに)にも大きく分けて五種類…いや、六種類居るんですよ。そしてその分類の基準が今言った…例えば『蒐祖家』の『異能』。あるいは『塊堂(かいどう)家』の『異観(いかん)』を感得するのに適しているところとか、そう言った…鬼人(おに)が生まれ変わった際にそなえる天賦の才の様なもの。そのどれが発現するかによって、『五つ家』のどの血族かを判別するんです。」

「それが、何なんだよ。」

 「そう焦らずに…つまりは、彼女の尻尾にも特殊能力が有るっていう事ですよ。ちょうど…どうやったかは解りませんが…あなたがその尻尾の能力で『彼女』を、どろどろに溶かしたようにね…。」

「それで…こうして俺を縛ってる事が、この女の尻尾の能力だって言いたいのか。」

 「僕はただ…貴方が聞くものだから答えていただけで…あっ、でも、それが特殊能力かどうかは判断付きかねますけど…少なくとも貴方の渾身の奇襲を刈り取って、そうして貴方の全力をも抑え込むほどの『力』があるのは…自明でしょうね。」

 洋平は黒い鬼人(おに)の言葉に対して、二の句を継げない。…本人がすでに、身を締め上げられながらひしひしと感じているのだ…どうあがいても、力では千明に勝てないのだと…。

 洋平の心に結論が出たところで、千明が恬淡(てんたん)に口を開く。

 「それで…もう始めても良いのかしら…。」

 それは洋平にと言うよりはむしろ、黒い鬼人(おに)に向けられた問いだろう。

 洋平は逆さになったままに固唾を飲み…黒い鬼人(おに)は気安く、

「あぁ、やっぱり待たせていましたか…どうぞ、いつでも始めてしまって下さい。…今となっては、貴女にも、彼の命乞いに貸す耳も無いでしょうからね。」

 黒い鬼人(おに)がさりげない口調で、洋平の最後の退路を断った。

 千明は気を引き締める様に小さく息を漏らし…眼の前まで逆さ吊りに成った洋平の顔面を下ろした。

 眼前でみたその眼光は…煮えたぎった憎悪で凶暴に輝き…これから自分に起こるあらゆる仕打ちを耐え抜いてやろうという、洋平の覚悟を物語っていた。

 そして黒い鬼人(おに)が黙して見守る中…ゆっくりと、千明が右拳を振り上げる。

 その次の瞬間…洋平の顔面に鮮明すぎる衝撃…。そして余りの力に、衝撃は貫通して洋平の頭部全体を揺らした。それから、千明はおもむろに、洋平の鬼鎧(きがい)(つら)に突き刺さった拳を引き抜いた。

 …その一連の動作が終わるまで、洋平は自分が何をされたのかが理解出来なかった…。

 ただ、千明が振り上げたはずの拳が、あっという間に消えて無くなった。その後に、謎の衝撃が続く…見て、感じた事はそれだけ…。

 言うまでもなく…洋平の感覚は、千明の腕振り運動にすら付いていけていない。蓋を開けてみれば、それ程の力の差が有ったと言う訳だ…。

 千明がもう一方の腕でも同じ動作を繰り返す。

 振りかぶっては消え…次の瞬間には衝撃。それから、千明が拳を、やおら、視界の真ん中の鼻っ面から退く。洋平に解るのはそれだけ…。

 そんな単調な『作業』が五、六度繰り返されたころ…ようやく、千明が腕を止め、洋平の様子を確認した。

 鬼鎧(きがい)の顔面は潰れ、無数の亀裂が走り、最早、相好の区別もつかない様な有り様だ。

 しかしながら、内心の表出たる鬼鎧(きがい)は砕けようと…洋平の心は折れていない様だ…。

 洋平は湿った、苦しそうな大息を吐いて…、

「ただじゃ済まさねぇ…殺してやる…。」

と、瞳の光だけはあくまで強く、憎まれ口で健在なアピールした。

 くぐもった、愉快そうな笑い声が耳の底に響いた。…声の主はこいつしかいない…黒い鬼人(おに)だ…。

 「驚きました。人喰いとは言え、タフですねぇ貴方は…。」

 そんな称賛とも、侮蔑ともとれない黒い鬼人(おに)の言い草にも、洋平は碌に言い返せない。加えて…今度は、鬼鎧(きがい)の自己再生も追いつかない様だ。

 そうい訳で…まさか寂しいということも無かろうが…黒い鬼人(おに)が勝手に続ける。

 「他人の生き肝を食べると言うのは、鬼人(おに)とって、その者の()という名の生命力得る事。そして、相手の()に潜む『力』を受け継ぐことに等しい。人を喰らうメリットは、鬼人(おに)に生まれ変わることで減った寿命の延長。()の絶対量の増加だけには留まりません。…貴方はいったい、どんな『力』を『彼女』から(さず)かったのでしょうねぇ…。」

 千明にしこたま打ちのめされた洋平には、黒い鬼人(おに)の話が完全に聞きとれたとは思えない。

 …だが、洋平はサンドバッグの様に惨めに揺れながらも、

「おいっ、何をぼーっとしてんだよ。殴るんなら殴れ。それとも、俺を倒す自信が無いんだったら…殺してやるから、この縄を解きやがれ。心配しなくても、お前みたいにもたもたした事は、どう頑張っても俺には出来ないからな。…苦しめない保証は出来ないが…成るべくは楽に仕舞いにしてやるよ。」

と、尻を叩く様に千明を罵った。…黒い鬼人(おに)の言葉が何か、気に障ったのだろうか…。

 「そんなに焦らなくても…それに、人喰いのデメリットについてもまだお話していませんし…。」

との黒い鬼人(おに)の声を振り切る様に…洋平は己を縛る千明の尾に、引き千切らんばかり力で…まっ、それでも緩める事さえ叶わないのだが…抗い始める。

 千明はにわかに暴れ出した洋平に少々戸惑ったようだが…ぼやっとしている所に、振り子の様に勢いを付けた洋平の頭突きをかまされて…意は決まった。

 千明は静かに、額の辺りに付着した洋平の鬼鎧(きがい)の欠片を払い落として、呟く。

 「いいわ。そんなに(とど)めが欲しいなら、お望み通り私の拳骨(げんこつ)をプレゼントしてあげる。ただし、絶対に苦しいだろうし、楽な訳は無いわよ。」

 千明がそう言い捨てた直後、撃鉄の打つ様な、(たが)の外れるような音と…そして、千明の『口』が開く…。

 洋平は分放たれたマスクの間から、その中にあるもの覗きこむ。それは…暗く、湿った…まさしく、生き物の内部…。

 洋平は言い様の無い怖気に、そして頭上に感じる重力に…瞬きするのも忘れていた。しかし…洋平にも、そして千明にも猶予は無い。…こうなってしまったからには、時間は有効に使わなければ…。

 そのことは黒い鬼人(おに)も知っていた。だからこそ、こうして…マスクが上下に割れたとき、瞬時に、異常なまでに活性化した千明の()の…止めどなく水を流し込む滝の様な…爆発的な流れで水を噴き上げる源泉の様な…白銀の濁流をとっぷりと見つめている。

 千明は鬼鎧(きがい)から溢れ出るほどの強い輝きを放つ()の、その激しい流動のエネルギーを全て洋平にぶつける様に…洋平の顔面を殴る、殴る、殴る…。

 より速く、より重く。千明の鋼をも易々とくたびれさせる拳が、洋平の壊れかけた頭部を、滅多打ちにした。…その間、およそ九秒…。

 洋平の顔を拳が叩く鈍い音に…びちゃ…べちゃ…っと、気色の悪い音が混じり始めたころ、ようやく千明の振るう力がおさまった。

  千明は、吊るされた血みどろの洋平の顔を真っ直ぐに見る。

 亀裂からは赤黒い血が染み出し、悪罵の類すら吐けそうにない洋平に代わって、一定の間隔で舗装された地面に滴り落ちる。

 千明は鋭敏化した聴覚で、ぽたぽたと言う音をはっきりと聞きわけながら…奥歯を強く噛み締める様に、開いたマスクの『口』を閉じた。

 同時に、先程までは荒れ狂うようだった白銀も、何事も無かったかのように沈黙。…むしろ、前よりも穏やかな位だ…。

 黒い鬼人(おに)は十数秒の内にサンドバッグから、破れたずた袋に格下げされた洋平の姿を眺めながら…だれに対して説明をするつもりなのか…淡々と話し始める。

 「今の鬼姫さまの急激なパワーの上昇は、『(ながれ)』と呼ばれるやつですね。…まっ、名前の事はともかく、牙をむき出しにしたらこうなるのは、貴方もご存じの事でしょうけ…。人間の凶暴性の発露か、それとも野獣だった頃のなごりか…本当のところは解りません。しかしなぜか、『口』を開くと一時的に()の密度が高まり、鬼鎧(きがい)内部で爆発的に活性化する。…火事場のクソ力的なものなんでしょうね。ちなみに制限時間は、個人差はありますけどおおよそ、九秒。それに、『(ながれ)』を使用してしばらくは、反動で平時よりも()の絶対量が下がりますから…正直、命懸けの勝負では使い所が難しい。…ゲームのレアアイテムとか、ゲージ大量消費の必殺技みたいにね。」

 …もしかしたらとは思ったが…黒い鬼人(おに)はとてもじゃないが聞いているとは思えない洋平に語り掛けている。

 それよりさらに重要な事…黒い鬼人(おに)の話が本当なら…洋平が、『爪も、牙も無いから、黒い鬼人が強いはずが無い。』と言った事…こう言う意味も含まれていたかもしれない事に成る。…そのことが、黒い鬼人(おに)を内心の行方を、どの様に表しているのだろか…。

 千明は長い尾で洋平を吊り上げたままで、黒い鬼人(おに)の方へと首を向ける。…さぞ、不可解なものとして見えていることであろう…。

 「それはそうと…貴方にとってはずいぶんと不味い状況に成りましたねぇ。…鬼鎧(きがい)から血が流れ出している事ですけどね…。」

 …黒い鬼人(おに)の漆黒に燃える瞳が洋平の傷口を、さらに深くえぐる様に見据える。

 「鬼鎧(きがい)が幾ら耐刃、耐ショックと言っても、処理しきれる鋭利さ、衝撃の大きさには限度が有るんです。…人の心が、底なしではない様にね…。例えば、今の貴方の様に鬼鎧を砕かれ、出血する様な状況がまさに、処理しきれないダメージを生身に受けたサイン。もし今、その状態で鬼鎧を(ほど)いたなら、肉体への損傷は勿論、精神的なダメージが後遺症として残る可能性も…ほら、言っている傍から、鬼鎧が(ほど)け掛けている…。」

 黒い鬼人(おに)の語り口に誘導されるように、千明が洋平の姿を見降ろす。

 無残な頭部の状態には…修復の兆候も見られず…何も変わりは無いように…いいや、良く見れば()が動いている。洋平の鬼鎧(きがい)に宿っていた()が…まるで、泡が水面に浮き上がるかのように…鬼鎧の内部から、表面へと…そして、鎧から除けだそうとしている様にも見える…。今の洋平には、己の内心すら繋ぎとめては置けないというのだろうか…。

 黒い鬼人(おに)は手遅れとも思える洋平に、指南し続ける。

 「せめて、正規の手順を踏んで鬼鎧(きがい)(ほど)かないと…死にますよ、貴方。…それにはまず、()を強く保って、鬼鎧(きがい)を安定させることに集中しなくては…そんなに…。」

「もうよしないさいよ。どうせもう、聞こえてはいないから…。」

 千明が不毛に言葉を並べる黒い鬼人(おに)をたしなめた。それから…自分の喋った事が、胸につかえたのだろう…千明は殴りつけていた時とは真逆の丁重さで、くたびれ果てた洋平の身体を、仰向けで地面に横たえた。…痛々しい亀裂に、星明りが実に滲みそうだ…。

 そんな、憎らしい相手にすら礼儀を忘れない、千明の心の広さ。黒い鬼人(おに)はそんな彼女を湛えるべく、千万の称賛の表明を…する訳もなく…。

 短慮に、詰めの甘さに毒気を抜かれた様に…腹の深い所から溜息を吐きだした。

 「鬼姫さま…。」

と、息も吸わずに(鬼鎧(きがい)の中では呼吸は不要らしい)黒い鬼人(おに)が自分を呼ぶその声色が、言葉の意味が…驚きでも、嘲りでもない…。

 千明は内心に波乱の予感を覚えながら、声の主の顔を見る。当然、表情は解らない。だが、彼の鬼鎧(きがい)が失望の色をありありと浮かべている事だけは解ってしまった…。

 諭す様に、文句を言う様に…黒い鬼人(おに)は厳粛に、低く、ゆっくりと、千明に呟く。

 「鬼姫さま…僕は彼に、『そんなに攻撃する事ばかりに意識を割かないで…』と言う積りでした。…彼はまだ、気絶すらしていませんよ。」

 その警告を信じて…千明が、見事なまでの慌てぶりで洋平に全神経を向ける。だが、洋平は腹這いでぶっ倒れたままだ。…今度ばかりは、黒い鬼人(おに)の勘違い…あるいは、彼らしいところで冗談ということも…。

 第一、これと言って可笑しいところは…千明の眼に映る洋平の姿は、顔面の深い亀裂と…それと、浅い亀裂が広がっている光景だけ…それも全身に…。

 残念ながら、その異常に千明が気付くよりも…どこかで聞いた様な…『箍の外れる音』が渇いた空気を貫いたのが先だった。

 これは弁護のしようも無い。千明は見逃したのだ。…あらゆる理由がない交ぜに成って…兆候に目を閉ざしたのだ…万難を排して、跳ねあがり様に尋常でない殺意を向けて来た、洋平の切れ味鋭い最後っ屁を…。

 ビックリ箱の中身の如く…飛びつく様に、覆いかぶさる様に急接近する洋平。

 千明は流石に冷静に、迎撃の構えを…そしてゾンビを墓穴に押し戻す様に、眼の覚める様な強烈な気付け薬を再び、洋平の顔面へ。…しかし、如何に千明が、黒い鬼人(おに)の言うところの『後の先の極み』に到達していたとしても…相手の攻め手に対して、あまりにも無防備すぎた。そして洋平の必殺の気合に、あまりにも無警戒過ぎた…。

 文句の付け様の無い威力と、スピードで打ちこまれた千明の拳。…が、そのまま洋平をベッドに直行させるはずの一撃が…押し戻されていく…。洋平が額で受け止めた千明の圧力を、全身で押し返しているのだ…。

 この洋平の奇襲は、嵌りに嵌まったのだ。

 その効果は千明の一撃をしのいだだけではない。千明から先手を奪い、さらには精神的に優位にも立ったようだ。

 そう、折悪しくも真剣勝負の最中に、千明は混乱してしまったのだ…。

 (嘘でしょ…。)

と、千明が心の内で呟いたのも無理は無い。

 洋平も千明に習って『(ながれ)』を使った様だが…先程までの戦いぶりを鑑みれば…とてもじゃないが、それだけではこの力の増加の仕方は説明がつかない。

 そう考えれば考えるほどに、千明は心理のどん底に沈んでいく。…自分は相手を甘く見過ぎたのではないかと…。

 それでも力関係には変化は無い…とは言え…内心を物質化したものである鬼鎧(きがい)をぶつけ合う、鬼人(おに)同士戦いにおいては…(こと)、形勢と言う面では洋平に分が有る。こんなにも些細な一瞬で、完全に逆転してしまったのだ。

 そして…そんな心の隙が、致命的な傷を千明に与えることに成る。

 千明は今度こそ…左腕に咬み付いた洋平の尻尾のアームを、くい止めることが出来なかったのだ。

 すぐさま、千明の腕の中に激痛と共に、毒針が打ちこまれた。

 千明は力任せに洋平の尾を掴むと、膂力に物を言わせてそれを握りつぶす。

 それでも…尾を引き千切られんがらも、洋平の高笑いはおさまらない。

 「馬鹿が。尻尾が潰れても、毒針がお前の腕に残っちまったぞ。可哀想だがもう助からない…お前の腕はとろけて、千切れ落ちる。…俺の尻尾と御相子…まっ、こっちは痛くも痒くもないがなぁ。」

 黙っていられないとばかりに捲し立てた、洋平。

 …痛みが過ぎ、より強く悪寒を催す麻痺が左腕を侵し始めたころ…千明が何かと戦う様に、堪える様に地面に膝を着いた。…響く、勝利を確信したかのような洋平の笑い声…。

 戦場に木霊する耳障りな響きに…フェアプレイだとか、正々堂々だとか…強者ゆえに千明に自然と備わっていた感覚を…素直すぎる怒りと、殺意の激情とが凌駕した。

 …鬼鎧(きがい)の胴に絡まり戻っていた彼女の尾が…張力を失った縄のように、スルスルと地面に落ちて行く…。

 そして、そのワイヤーの尻尾がほつれながら、元々の細い糸状に戻り蠢き始めたのを見て…黒い鬼人(おに)が確信した…、

(ここまでだな…。)

と…。

 洋平も千明が何かを始めたのには気付いているが、どうやらその認識は黒い鬼人(おに)のそれとは違うようだ…。洋平は、一向に直り始めない己の鬼鎧(きがい)に、忌々しそうに爪で顔面の歪みを抉り、正しながら、

「たくっ…酷ぇなれりゃあ…良いだけ殴ってくれてよ。でもまぁ、それも…これからはあんたの『番』と思えば…こうして顔が突っ張るのも、ヒリヒリ痛むのも…かえって興奮して良い具合だ。そうそう、左腕のとろけ具合はどうよ、鬼姫さま。」

 洋平に尋ねられるまでもなく、千明にとってそれが最大の関心事。そして…肘から下の感覚が鈍く。しかも指が思う様に動かせない…その事にはとっくに気付いていた。

 千明の心情を表すかのように、今や細い糸の群れと化した彼女の尾が…獲物を求める様に、怨敵(おんてき)を逃がすまいと結界を張り巡らせるように…二人を包んで広がり、波打ち始めた。

 洋平の危機感も、この場の状況の危険度の高さは感じ取っている。…この期に及んで、なお圧倒的とは、まったくをもって千明には驚かされる…。

 だが洋平の中で…そんな死を連想させる否定的な情報よりも…スリルに酩酊した楽観と、仮初めにも千明に膝をつかせ、屈服させえたことによる加虐心が上回ったのだ。

 男性諸兄には、洋平のこの感覚がお分かりいただけるのではなかろうか。

 そう…此処まで行ったら、手足をもぎ取られて棺桶に詰め込まれるまでは…自分に酔った男は、死んでも止まらない…と。

 千明の決して低くは無いプライドが、あまりにも無邪気に勝ち誇る洋平を見過ごせずに、我知らず彼女に口を開かせる。

 「…『餓鬼』が…殺してやる。」

 声質はあくまで清楚に…だが、文言も、迫力も、とても十代の少女の口から飛び出したとは思えない。立て前や、形式、それに単なる宣戦布告などではない。まるで、人が害虫を殺す時の…心の深い所で成される、己の意思に先行して下される決定。その無意識のレベルの呟きを耳にした様な…絶対零度の呻き。

 洋平はこれ以上砕かれるものは無いとばかりに、一層、高らかに笑った。

 「良いねぇ。俺も最初は、あんたの腕が完全に使い物に成らなくなるまで待とうかとも思ったけど…やっぱり我慢できねぇ。今すぐ、その腕に齧り付いて、あんたの溶けた肉汁を啜ってやるよ。」

 そう言うと、洋平は真っ向から千明目掛けて走り出した。…正気とは思えない。何せ、踏みだす脚の力も、スピードも…滑稽ほどにまで落ちているのだから…。

 だが、千明にも余裕は無いのも事実…。

 笑うのを止めても、相変わらず牙を剥き出しにしたまま駆け寄る洋平に…千明の尾は、襲いかかる力を溜めこむ様に動きを止める。

 そうして、動かない左腕をかばっていた右手を振り上げる。…これは、どちらが勝つにしても、有りっ丈の力をぶつけ合うような…泥仕合に成る事は間違いなさそうだ…。

 そういうスマートさに掛ける勝負を見たくない…多分、そう言う理由も手伝ったのだろう。

 千明と洋平の距離があと2メートルほどにまで近づいた時に、突然、バチンッという鋭い音が二人の間に割って入る。

 洋平は、音と重なって自分の鬼鎧(きがい)に打つかって来た何か揺さぶられて…不意によろめいたことに驚いて、一足飛びに3メートルほど後方に退く…。

 腕力でも、毒でも無い…それでも自分の進行を挫き、後退させた何か。

 洋平は腹立たしげに…千明は驚きを深めつつ…それぞれがそれぞれの思いを抱き、同じように奇怪な音の発信源を…黒い鬼人(おに)の姿を見た。

 黒い鬼人(おに)はまるで拝むかのように胸の辺りで手を合わせている。…あの音はどうやら、彼が手を叩いた音だったらしい。しかし、それが解っても洋平には合点がいかない事が有る。

 「てめぇ、何しやがった。」

と、決め手を打つ瞬間を邪魔されて、お冠の洋平が黒い鬼人(おに)に喰って掛った。

 黒い鬼人(おに)は公明正大に手の内をさらす様に、両の手の平を差し出して、

()を両手に込めてぶつけ合う。そうすることで任意の波長の()の波を辺りに放ち、()を纏っている者を…特に、真っ直ぐに突進していく様な手合いの調子を狂わせてやることが出来る。…()は自らにのみ影響を及ぼすものではないんですよ。こうして、他人の肉体及び、精神、その両方の面に働きかけることもできるんです。…まぁ、『死返(まかるがえ)し』を行った貴方には、釈迦に説法でしょうが…。」

と、言い終えると黒い鬼人(おに)はゆるりと立ち上がって…次の瞬間には、いつの間にか千明と洋平を結ぶ一本のラインの間に、割って入っている。

 驚きのあまり、洋平の深くさけた『口』から、意味の無い疑問の音が漏れる。

 洋平が驚くのも無理は無い。黒い鬼人(おに)が突然、目の前に立ちふさがったと言うのに…音もなく、この闇の中では影さえ掴めず。いつ動いたのかも、いつ眼前で止まったのかも解らなかったのだから…。

 洋平の感覚では、意識の外。ただ驚くしか無い。…しかし、千明にはかろうじて見えていた。

 (速い…。)

 黒い鬼人(おに)が鉄骨の上から、自分に背後を晒して仁王立ちをするまでの…一秒の何十分の一にも満たない様な僅かな間だけ…だが、あまりにも短い移動時間だったからこそ…なおさら雄弁に、黒い鬼人(おに)の秘めたものの鋭さが、鬼鎧(きがい)で底上げした感覚を通すまでも無く、まざまざと伝わってくるのだ。…黒い鬼人(おに)はうすのろの『膂力重視』型では無かったのだろうか…。

 千明は様子を探る様に、拳を下ろし、尾を束ね始めた。

 黒い鬼人(おに)は辺りから退いていく、細い白銀の糸を視界の端々に捕らえながら、

「お二方の勝負、今日の所は一先ずここまでと言う事にしましょう。」

 相変わらず丁寧な黒い鬼人(おに)の口調。だが…丁寧さとは裏腹に、きっぱりと、舌鋒に異論の余地を挟ませない鋭利さが有る。

 千明も洋平も、この乱入に、そして彼の声に…場の空気が全て入れ替わる様な清々しさを、胸苦しさを感じている…。

 今、仮面の奥で…確かに黒い鬼人(おに)が微笑みを浮かべた。

 「後日までお二人の勝負は、この僕が預からせて頂きます。」

 三人の鬼人(おに)を閉じ込めたこの夜と、悪魔の鍋の底が…夜空の星に黒煙を巻き上げる様に、グツグツと煮えたぎっていく…。

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