第一話 その三
[9]
そして、遂に…小太郎たちと、千明の時間が咬み合う時が訪れる…。
「おいっ、織田、しっかりしろ。」
失神した織田健を抱き起す、児玉警部。
千明は奥まった空間の手前に立って…児玉警部が暗がりの中で健に呼びかけるのを、辺りにさり気無く注意を払いながら見守っている…。
「健さんは、大丈夫なんでしょうか…。」
千明が痺れを切らしたように尋ねた。
児玉警部は千明の心配そうな声に、力強く頷いて、
「えぇ、大丈夫。気絶はしていますが、ちゃんと生きてますよ。」
と、重荷を下ろす様に、安堵の声を漏らした。
千明も安堵感を隠さずに、白銀に燃える瞳で二人の様子を慈しむように見詰めている。…三人を飲み込むかのように思われた、窪みに溜まる黒い影が…夕陽に、奥へ、奥へと押し込まれていく…。
児玉警部は、体重七十キロは楽に有りそうな健を、軽々と持ち上げると、
「とりあえず、控室に戻りましょう。」
そう言って、児玉警部は千明を見つめるが…彼女はなぜか首を横に向けて、暗がりの正面に伸びる廊下の隅々を窺っている。…もしかしたら、気脈が通じると言うのは…いや、この場合は、『鬼』脈なのかも知れない…こういう事なのかもしれない…。
再び…しかし、先程とは違った意味合いで…千明が児玉警部たちに瞳を向ける。
「差し出がましいことですが…健さんは、可哀想ですが一先ずここに居て貰って…私たちは一度、303号室の確認をしておく必要があると思うんです…。」
千明の女子高生離れした…もとい、人間離れした眼光。
児玉警部は健を抱いたままに、自分より随分と背の低い千明に、気を付けの姿勢をとって対面すると、
「そう、仰いますと…まさか、大野洋平が舞い戻って来ていて…では、織田を昏倒させたのも、大野洋平だと…。」
流石に、この若さで警部と呼ばれる人は飲み込みが早い。
そして、その児玉警部の発する言葉付きから、敬意すら感じさせる態度から…この、蒐祖千明という年若い女性が、目上の…それも社会的に地位のある人物から、並々ならぬ信頼を寄せられている…しかも、事、荒事においてである…その神秘性、ある種の痛快さを、改めて認識させられる…。
千明はまた、気遣わしいそうに気を配りながら、
「大野洋平本人かは解りません。それに、私は攻撃的な方向性の『鬼』を感じませんでした。…ですが、健さんをこんな目に遭わせられるとしたら…それはもう、常人に無理に決まってますから…相手は『鬼人』以外に無いでしょう。そして今日、誰とは知れなくとも『鬼人』がここに現れるとしたら…私や、児玉さんの様に、『鬼』を御する術を持つものが居るここにあえて乗り込んでくるとしたら…それが何者であろうと、大野洋平の事件と関係が有る。それは疑いようが無いでしょう。」
児玉警部は千明が話し終わるよりも早く、また健を暗がりに、そっと寝かしつけた。
そして、児玉警部は立ち上がり、千明と同じ方向を向いて、
「そうなると、その何者かが目指すとしたら、おそらく『犯行現場』だと…。行きましょう。何、目的地は目と鼻の先ですからね。織田の奴が、硬いベッドにうなされる前には戻って来れるでしょう。」
千明は児玉警部に目配せしつつ応じると…冗談に笑みを零すのもそこそこに…定位置に…彼女らしく『舞台』へと先陣を切るのだった…。
小太郎と千明の激突は、存外に…近い…。
千明と児玉警部が三階フロアにたどり着く、少し前。
まるで、千明たちの健発見の瞬間に、歯車を合わせるかのように…小太郎と、夏芽は、303号室に侵入。そして今しも、土屋加奈子の痕跡を求めて、懸命に部屋中を這いまわっているのだ…。
いや、ここで訂正が一つ。…賢明な読者諸賢におかれては、ことらさ指摘の必要もないことかもしれないが…この場で懸命なのは、労を惜しまずに捜索をしているのは、あくまでも夏芽だけなのであった…。
そう、小太郎は、懸命などという言葉が、その人間性の間から抜け落ちてしまった様に…ソファに深々と腰掛けると、骨休めがてら、黒い瞳で面白そうに夏芽の必死な姿を眺めているのだ…ちょうど、あの日の大野洋平がそうであったように…。
立ち込める生臭い匂い。その中で夏芽は、飽く事無く、友人に繋がる一縷の臨みを手繰り寄せようと、視線を動かし続ける。
しかし、すでにこの部屋には、警察の捜索の手が入っているであろうことは自明…。目ぼしいものどころか、髪の毛一本すら…そう、髪の毛一本も残って居ないのである。
ただ、夏芽にとって気になることも…、
「本当、何なのよ。この匂いと言い、この液体は…。」
それは、テーブルの上一杯に広がる様に…ピッチャーから零れたオレンジジュースと混ざった、気味の悪い色の液体…いや、見た目の質感からすると、粘液と言った方が正しいか。
夏芽、そして小太郎にも…これがなんで有るかは定かではない。しかし、まず間違いなく、この粘液が悪臭の源であることは確かなようだ…。
そんな粘液が、テーブルの上だけでなく、部屋の至るところに散らばっている。そんな訳で、無論のこと夏芽はそれを避けながら這いまわっている様な状況で…要するに、成果が上がらない事以上に、『あの日』から余りにも変わってしまったこの部屋の惨状に、夏芽は苛立っていた。
いや、そう言えば…あの日と同じところが、二人の構図以外にも、もう一つ存在している…。
『それ』に気付いたのは、四つん這いでソファの下を探っていた、夏芽だった。
夏芽は不意に耳に入った音楽に顔を上げて、
「あっ、この曲…micoだ…。」
『それ』は部屋の一角にデカデカと置かれた、言わば主役である業務用の通信カラオケ機器であった。そして、そのディスプレイに映っているのは…そう、『あの日』にも確かに流れていた曲…そのプロモーションビデオである…。
夏芽は画面の中で情感を込めて歌うmicoなる歌手の姿を見詰めて、
「好きだったんだよね、加奈子…。このアーティストのことを…って、『だった。』じゃ変だよね。別に、加奈子は…加奈子がちょっと居なくなってるくらいで…。」
夏芽はとても辛そうに、苦しそうに…そんな積りは無いはずが…どうしても、そんな言葉しかでてこない。
それは、夏芽にとってはただの独り言くらいの積りだったはずだ。
なのに…確かに、普段の『スイッチ入り』状態の小太郎には…いや、『スイッチ切り』状態でもかな…とにかく、慰めだとしても、人の感傷につべこべ口を挟む様な小太郎では無いはずだが…。
しかし、どういう風の吹きまわしたか…今の夏芽の呟きに小太郎が興味を示す。
「好きだったって…micoを…。」
考えてもいない人物に、予想外の事を尋ねられて、夏芽は少し意外そうに、どこか可笑しそうに、
「えっ…えぇ、そうよ。」
答えた夏芽の頬が緩む。
小太郎は無表情…そして…何を考えているのか、さらに掘り下げる様に、
「土屋さんが。」
「うん、そうなんだけど…。」
と、夏芽は…どうしたのか…やっぱり、嬉しそうに顔を柔らかくして、
「何、こたちゃん、micoのこと知ってるの。」
小太郎はぼんやりと考えこむ様に、カラオケ機器のディスプレイを見詰めながら、
「あぁ…ミュージシャンでしょ、現役高校生の…。確か皇族で、皇王の継承権は無いにしろ、超お嬢様だとか。後は…人気の程は、熱狂的なファンがいる位だから、そこそこって事くらいかな、僕が知っているのは…。」
夏芽は小太郎の答えるのを、眼を輝かせて聞いた。そしてまた、嬉しそうな、可笑しそうな表情で、「へえーっ、詳しいじゃない、こたちゃん。私、驚いちゃったな。こたちゃんったら、『聞いてるうちに眠れる音楽しか聞かない。』が持論で、口癖だったから…てっきり音楽は、クラシックのことしか解らないと思ってたのに…。」
そんな、面白そうに自分を見る夏芽の好奇の視線を追い払う様に、小太郎はソファに頭を寄せて芽を瞑る。
「詳しいって訳じゃないよ。もちろん、クラシックもだけど…知っているだけだよ。」
「でも、良い曲だと思わない。私も好きなんだよね、mico。」
「そうだね…この娘の歌を聞いてると…実際、声も清涼感があって魅力的だし、上手いよね、歌が…。ただ、聞き手としては、『引きつけられる』と言うよりは…『引き摺られる』様な感覚を覚えるのがどうもね…。」
そんな小太郎の口から出てきた感想に、夏芽は素直に感嘆したように、そしてどこか満足げに苦笑した。
「へっへっへっ、流石はこたちゃんだね。とてもじゃないけどそんな…何て言うのかな、詩的な言葉とかみたいな…どっちにしても、私からは絶対に出ないよ、そんなカッコイイ言葉は。」
「そう思うなら、茶化さないでもらいたいもんだな。…しかし…。」
「んっ、しかし…どうしたの。」
何気ない夏芽の問い返しに…小太郎は少し、不自然な間を置いてから…、
「いや、何でも無いよ…。それより、土屋さんの所在に繋がる様なものは見つかったのかな。」
夏芽は忘れていたことに気付いて、しまったという顔で…が、すぐに、体裁を取り繕う様にムッとして下を向く。
「解ってるよ。だいたい、そんなこと言う位なら、こたちゃんも手伝ってくれればいいのに…。」
そうぼやきながら、探索を再開した夏芽。小太郎はその背中に、やや笑いを交えながら、
「俺が調べても信用できない。自分で調べないと気が済まない。そう言ったのは、夏芽だろ。きっと、今僕が手伝ったとして、それでも夏芽は、結局、自分ひとりで部屋の隅々まで調べないと承知しないだろうからね。だったら、僕はこうして、邪魔しない様に大人しく待っているのが一番いいはずだ。違うか。」
夏芽は、小太郎の皮肉交じりの薄情な台詞に、顔も上げずに、
「はいはい、御説御もっともですよ。…たく、口が減らないんだから…。」
…こうして、夏芽の『問い返し』は有耶無耶に成った。そうして、小太郎は仕切り直す様に、心の中で呟く。まるで…、
(しかし…狭い個室で、『鬼人』と妙齢の女が二人きり…極め付けに、micoの歌か…考えてみれば…まさに人食いをしてくれと言わんばかりだよな、この部屋…。)
と、自分の直感を、陰惨なイメージを噛み締めるかのように胸中で呟いた…。
半ば目を開けて天井見つめる、小太郎。その瞑想を破ったのは…この部屋には二人しかいないのだから、言うまでも無い事だが…、
「おわっ…っと…。」
と、夏芽のすっとんきょうな声。
小太郎は質面倒くさそうに…それでも、夏芽への最低限の気遣いを示す様に問い掛ける。
「今度は、何がどうしたのかな。」
夏芽は四つん這いのまま方向転換…そして、自分の脚に当たった…自分を驚かした物を持ち上げて、
「あぁ、うん…それがね…イテッ…。」
そのまま立ち上がろうとした夏芽であったが、運悪く、気付かずにか潜り込んでいたテーブルの角に頭をぶつけたようだ。そうなると、当然…、
「うぇーっ、ちょっ、何なのよこれ。もう、最悪…。」
何という悲劇だろうか…。
夏芽はテーブルの上に広がっていた粘液を、少量だが頭から被ってしまった。
夏芽は、髪に付いた粘液にさも気持ち悪そうに…しかし、どうやら素手で拭い落す程の勇気は無い様子で…すでに、半泣き状態に成っているのが哀れだ…。
小太郎はそんな四苦八苦している夏芽に、聞えよがしに溜息を吐きだす。それでも…、
「落着け、夏芽。ほら、髪を拭いてあげるから、こっちに来て頭を見せろよ。」
…おお、これはなかなかポイント高いぞ、小太郎…。
…あっ、いや、失礼。…小太郎のその有り難い申し出に、夏芽はやっと落着きを取り戻して、
「うん、有り難う、こたちゃん…。」
と、きっと嬉しいはずだろうが、不快感に顔をしかめつつ…髪に付いた粘液を垂らさない様に、そろりそろりと近づいて、ソファの、小太郎の隣へと腰掛けた。
小太郎は苦笑いを浮かべながら、黒い瞳の焔を優しく揺らす。そして、ソファに転がっていたミネラルウォーターの一本。そのキャップを開けて中身の水をハンカチに少し含ませると…項垂れるように自分に向けて頭を下げる夏芽の髪を、梳かす様に丹念に拭き清め始めた。
小太郎が拭いを掛けるのに重なって、夏芽も首から上を縦に揺らしながら、
「ごめんね、こたちゃん。」
今回は、小太郎の無愛想も好意的に働いている。小太郎は持ち前の飄々とした態度で、真実、何も気にしていなさそうに、
「いいって、気にしなくても。…それより、それ、いつまで持ってる積りなんだよ。」
夏芽は小太郎に言われて、自分の不幸の元凶である『それ』を…しばらく、切なそうに、悲しそうに見つめてから…テーブルの端へと静かに置いた。
小太郎はその、テーブルに置かれたピッチャーを横目でチラリと見る。
ピッチャーはプラスチック制で、『あの日』からこっち散々乱暴に扱われているというのに、丈夫なことにその雄姿を留めていた。…底の方には、まだ…淀みの様に濁ったジュースが、行き場を失った様に取り残されている…。
「夏芽はそれが気になるみたいだけど…何か、理由でもあるの。」
小太郎は自分の手が汚れることなど一切気にしない。夏芽も大人しく、そんな小太郎に従う。
「うん…でも、気になると言うか…こたちゃんには、加奈子が彼氏と別れようとしていたこと、それに、身の危険を感じたから、彼氏とあうのは成るべく人がいて、監視カメラとかが有る様な場所…つまり、この店を選んだってことね。そして、私たちもここに、あの夜は居たことは話したんだったよね。」
小太郎は夏芽から新しいハンカチを受け取って、水を含ませる。
「あぁ、それで…。」
「それで…ね…。どうして加奈子が身の危険を感じたかって事なんだけど…実は、根拠があってのことなんだ。」
夏芽は唇を引き結んで、更に深く俯いて、
「加奈子は結構前から、彼氏に別れたいって伝えてたみたいなんだけど、なかなか承知してもらえなかったらしいの…。それが、先週になって急に別れても良いって言い出して…でもね、それに加奈子の彼氏は…ううん、元彼氏だよね、もう…。それで、加奈子の元彼は別れるのに条件を付けてきたの。…一昨日の深夜零時まで、水以外何も口にしなかったなら、別れてやるって…冗談にしても、悪質すぎるよね。」
小太郎は夏芽の気持ちを慮ったのか、あえて鋭い語気で、
「それでも…悪質な冗談の類と思っていても、受けたのか…土屋さんは…よっぽど別れたかたんだな、その男と…。」
小太郎の淡々とした感懐に、夏芽も多少は緊張の気を緩める。
「そうだね。考えてみると、可笑しい…そんな風に、心底から拒絶されてるのに…どう思ったんだか。条件を飲んだ加奈子に、元彼は本当に絶食させたんだから。考えれば、考えるほど…薄気味悪くて、もう考えるのも嫌になる。…だけど、加奈子を見つけるまでは、私も頑張らなくっちゃね。」
「そうだな。それで…土屋さんはどれくらの間、飯抜きの状態だったんだ。」
「三日…ううん、絶食し始めた日のお昼過ぎからだから…二日と半日だったはずだよ。私、ずっと、寝てる時も携帯握りしめていたから、間違いないよ。…でも、それがどうしたの…。」
髪の汚れを落とし終えて、小太郎が夏芽からゆっくりと手を離した。
夏芽はその動きに続く様に、そして、小太郎の仄暗い瞳に吸い寄せられるように顔を上げて…正面の男性の毅然とした面差しに見入る。
「なぁ、夏芽は正直なところどう思っているんだ。」
「えっ、何が…。」
夏芽が小太郎の問いに、不安そうに息を飲んだ。
小太郎は異彩を持つ瞳で、夏芽をなおも追い詰める。
「土屋さんの安否の事が、一つ。それから…もし、土屋さんの身に何か有った場合の事…その時、夏芽はどうする積りなのか…いや、僕は夏芽がどうしたいのかを知っておきたい。」
「そんなこと言われても、私は別にどうこうしたいって事は…それは、加奈子がどこでどうしているのかは必ず突き止める積りだよ。でも、そこから先の事はまだ…それに、加奈子に身に何か有ったらって…こたちゃんは加奈子が何かの事件に巻き込まれたとでも思ってるの。」
「…そう思ってるのは、僕よりもむしろ夏芽の方じゃないのかな。」
小太郎の遠慮の無い言葉に、夏芽は押し返す様に、少し眼光を鋭くする。
そんな夏芽の積極的な態度に、小太郎は満足そうに口を開く。
「一昨日の晩、この部屋から土屋さんは居なくなった。それも、消えたみたいに、隣に居た夏芽たちに気付かれること無く。その場合、考えられる理由は…まず、土屋さんが大人しく元彼に点いて行った場合があるけど…夏芽はこれ、あり得ると思うか。」
夏芽は小太郎の瞳から眼を離さずに…それでも、眩しそうに二、三度瞬きしてから…首を横に振って答えた。
「…だろうね。まぁ、それに、夏芽に思い当たる節が無いってこと以上に、大人しく土屋さんがこの部屋を出ていたとしたら、部屋の中のこの有り様は異常過ぎる。この荒れ具合と言い、散らばった謎の粘液と言い…それと確か、土屋さんの携帯電話も部屋の床に落ちていたって話だったからな…。つまり…だ。ようするに土屋さんは、どんな状態にしろ…元彼に『黙らされて』、この部屋から居なくなったってことだよな。そのことは、夏芽も解っているんだろ。」
小太郎の微かな悪意すら感じられる、残酷な言葉の数々。夏芽は堪らず、小太郎の瞳から顔を逸らす。
それでも…小太郎が話を止めるはずは無い。
「いったい、どんな方法を使って土屋さんがこの部屋から消えたのか…そんなことはこの際、どうだっていい…。それよりも、僕が知りたいのは夏芽がどんな積りで居るのかって事なんだ。…勿論、夏芽にとってはもしもの話で良いよ。それでも…夏芽は…もし、土屋が元彼に殺されていた場合…どうしたいんだ。」
「やめてよっ。」
じわじわと迫りくるような小太郎の言い様に、夏芽が甲高い声を上げる。…ここがカラオケルームで無かったら、どうなっていたことか…。しかし、夏芽にはそんな才覚すらなかった。…当然だろう。何せ今、自分が考える、最悪の可能性を小太郎に示唆されたのだから…。
夏芽は悲しそうな、寂しそうな瞳を小太郎に向けて、
「ねっ、やめてよ、こたちゃん。…私だって、目を逸らしてる訳じゃないの…そういう事もあるかも知れない…その事を考えない訳じゃないから…。友達の事なのに、そんな殺人事件なんて…そんな事考えるだけでも、そんな風に思っちゃう私は、ずいぶん酷いやつだと思うのに…。でもだからこそ、加奈子のことを見つけるまでは、例え加奈子がどんな姿に成っていても…それまでは私、加奈子を探すことだけに集中したいの…。」
夏芽の慟哭にも似た呟き。
小太郎は小さく息を吐いて、
「夏芽の気持ちは解ったよ。夏芽…きつい事言ったけど、悪く思わないでくれよ。僕は…もし、このまま夏芽が土屋さんを追い求め続けて…それで、夏芽にとって嫌なものを見る様なこと…悲しい結果に終わる様なことがあったとしたら…そう思うと、僕は…。」
瞳の黒い焔を絶やさない様に、頼りなさそうに両手で包み守るかの様に…小太郎は翳りのある表情で、弱音の様な、懇願する様な言い訳を口にした。…こんな弱弱し気な小太郎を見ていると、まさかとは思っていたが…小太郎は、夏芽の事を…。
そんな小太郎を、小太郎の言葉を…夏芽は真心からの気持ちだと確信したように、何度も頷いて、
「うん…うん…そうだね。私てば、何だかんだで、こたちゃんに心配してもらってないと調子が狂っちゃうんだもんね。有り難う、また助けてくれて…。それにきっと、加奈子が無事だって解って、安心出来た後も…すごく頼りにしてるから…。ねっ、だよね、こたちゃん。」
夏芽は苛立ちも、憂いもふっ切る様に小太郎に笑い掛けた。それから、
「それにしても、こたちゃんはどうしてそんなに、私がどうしたいのかを知りたがったの。」
夏芽としてごく普通に湧き出た疑問、そして質問。それに小太郎は…なぜかショックを受けた様に、誠実そうな顔が一変、またもや洒脱な青年に逆戻りして、
「んっ、…あぁ、それはだねぇ。えーっと、あれだ、夏芽さまにはまだ願い事が二つ残ってるいらっしゃいますからね。『ランプの魔人』としては、早めに残りの願いも言って貰いたい。それで、その辺りのことをリサーチしてた…みたいなことかな。でも、これで二つ目の願いは決まりだな。ずばり、『土屋さんを見つけたい。』…そうだろ。」
小太郎は慌てた様に、夏芽の答えも待たずにソファから立ち上がる。…それは、『ランプの魔人』の態度としてどうだろうか…。
だが、夏芽の質問に、そんなにペースを乱されたのか。小太郎はお構いなしに、
「それじゃあ僕も、夏芽の為に本腰を入れようかな。」
夏芽はソファに座ったまま、多少取り残され気味に小太郎を目で追って、
「な、何、いきなり。それに、本腰入れるって、どういうことよ。」
小太郎は夏芽の問いに、待ってましたとばかりに…ある種、不気味な笑みを浮かべる。そして、テーブルの前に立って、
「この場合は、『どういうこと』ではなく、『私の為に、何をしてくれるの。』と尋ねるべきじゃないかな。」
夏芽は、如何にも小太郎らしい胡散臭い言い回しに、眉にしわを寄せる。それから、小太郎の言葉を反復するように、棒読みで…、
「こたちゃんは一体、私の為に何を『しでかして』くれる気なの。」
小太郎は夏芽の言葉に、ことのほか満足したように、会心の『不気味な』笑みを浮かべた。
そうしてから、小太郎は徐にテーブルに手を伸ばして、
「まぁ、夏芽の為に僕がして上げられることと言ったら…差し当たり、僕が『手始め』にやるべきことは…これだね。」
と、小太郎はその自信たっぷりの声振の勢いもそのままに…テーブルの上の粘液を人差し指で掬い取って…何を思ったのか、その指を…自分の口に…そして、下に粘液を乗せる様にして…舐めた。
「ちょっとっ…何の積りよ、こたちゃん。絶対、汚いよ、それ。ていうか、冗談じゃなく、早く吐き出しなさいって…。」
小太郎は、色を失っておろおろと駆け寄って来た夏芽を余所に…味覚に…舌に纏わりつく甘美な味わいに全神経を集中する。
そして…、
「えっ、こたちゃん…ちょっと、どこに行くきよ。」
と言う、夏芽の制止の声も耳に入らない様に、小太郎は二本のペットボトルを引っ掴むと…突如として、何事にも答えぬまま303号室を後にした。
大いに慌てふためいた夏芽も、必然的にその後を追ってドアを開けるのだが…、
「こ、こたちゃん。待ってよ…って、あれ、どこに…えっ、何で。」
…まったく、何という早業だろうか…。
小太郎が部屋を飛び出してから夏芽が後を追いかけるまでに、十秒と経っていないと言うのに…廊下に出た夏芽の視界には、小太郎の『こ』の字も見当たらない。
夏芽は予期せぬ不測の事態に、唖然として辺りを見渡すしかなかった。
さらに…悪くしたもので、この『不測の事態』と言うやつは、当人には対処のしようがない上に、一度振り掛ると雪崩の様に押し寄せてくるものらしい…。
「君、そこで何をしているんだ。」
いきなり男性の声に呼びかけられて、驚いた夏芽の肩がギクリッと震えた。
…夏芽が恐る恐る、声の主を確かめる様に振り返ると…、
「貴女…関屋さん…。どうして、こんな所にいるの。」
「蒐祖さん…あの、それは…第一、貴女こそ、どうして…。」
そう、夏芽は遂にやらかしてしまったのだ…。そして、夏芽が振り向いた先に居たのは、今まさにこの場に馳せ参じた、千明と、児玉警部と言う訳だ。
それにしても、小太郎のやつ…確かに、『不味くなったら逃げる。』とは言っていたが…本気で、逃げの一手を打つとは…らしいと言えば、らしいのだが…。
多分、今、夏芽の頭の中を駆け巡っているのもその一念であろう。…まっ、文字で表すよりも、かなり攻撃的な感情も籠っているだろうが…。
そして、驚きを交わす夏芽と千明に、児玉警部は不思議そうに合いの手を入れる。
「蒐祖さん、この方はお知り合いですか。」
児玉警部の臨機応変な言葉遣いの問いに、千明は頷く。それから、夏芽を紹介する様に手を差し出して、
「こちらは、関屋夏芽さん。私と同じく穂塚高校に通う三年生で…私とは二年の時に同じクラスでした。」
説明する千明の顔は…そして瞳も…穏やかだった。…『鬼』を殺したらしい…。
千明が今度は、夏芽に児玉警部を紹介する様に、
「関屋さん。こちらは、児玉さん。私の…じゃなくて、私の伯母の知り合いで…警察に努めてらっしゃるんですよね。」
千明の発した『警察』という言葉に、一段と表情を硬直させる夏芽。
そんな夏芽を少し訝しげに…だが、児玉警部は社会人としての如才なさで笑みを浮かべて、
「児玉です。よろしく、関屋夏芽さん。」
「はっ、はい、よろしくお願いします…。」
夏芽はしどろもどろに成りながら、児玉警部の会釈に、ペコペコと頭を下げて…しかし、ちゃんと自分が何をしにここに来ていたかは忘れていなかったようで…、
「で、でも…蒐祖さんはどうして、警察の人とこんな所に…。」
夏芽がそう尋ねてくる事くらいは、千明には先刻ご承知のことだろう。
千明は屈託なく、夏芽の不審そうな目付きに、挑む様に微笑む。
「公表はしてないことだから、夏芽さんにもその積りでお願いしたいんだけれど…実は、穂塚ではここの所、生徒の素行調査を行ってるの。それで、事情を良く解って頂いている警察の方に…児玉さんに調査をお任せしているんだけど、出来れば学生の中からアシスタントを一人身繕って欲しい。生徒が放課後に立ち寄りそうな所を見て回るのに協力して欲しいとリクエストが有ったんです。それで、穂塚高校の理事長の姪である私に、白羽の矢が立ったって訳なの。それでここしばらくは、こうして連れ回されていたのだけど…あっ、ごめんなさい、児玉さん。」
そう言って、千明はおどけた様に児玉警部の方に顔を向けると…目配せを送った。
児玉警部も瞬時にその意図を汲み取った様に、温和の顔付きのまま頷いた。…どうやら、千明も児玉警部も…気付いている様だ…『あの日』のこの場所…そこを映した監視カメラが浮上させた三人目…それが…夏芽であることに…。
千明は、気まずそうに作り笑顔を痙攣させている夏芽に、少し申し訳なさそうな顔をしてから、
「それに、今日ここに来たのは…この二、三日の間、土屋さんが行方知れずに成っていることもあったから…貴女も、それでこのお店に来たんでしょ。」
夏芽は、知った顔にさり気無く尋ねられて…つい…、
「うん、そうなの。…あっ、じゃない。うん、そうじゃないの。そうじゃないのね。私はただ…。」
…まぁ、そもそも三階フロアに居る時点で、言い逃れできる状況ではないのだ。それ以前に、周りの景観から見るまでも無く、この夏芽の取り乱しぶりが雄弁に物語っていた。
千明はそんな夏芽を労わる様に、肩を寄せて、
「関屋さん、あの…大丈夫だから、大丈夫だから…ねっ、落着いて。私だって、関屋さんとは同じ気持ちだよ。中学時代からのお友達のことだもの、心配に決まってるよ。それに、関屋さんがここに居たことは、穂塚でも、警察だって問題に出来っこないから…ですよね、児玉さん。」
急に振りかえった千明の瞳に浮かぶ、微かな強制の色合い。それに気圧されたように…児玉警部は心得たとばかりに笑う。
「えぇ、そうなりそうですよ。実際、困っているのは、警察が女子高生を使いっ走りにしてるのを見られたこちら方ですから。迂闊でしたよ。だから、もし関屋さんがこの事を黙っていてくれるなら、今回はこちらも見て見ぬ振り…関屋さんにはお咎めなしと言う事にさせてもらいますよ。理事長先生には申し訳ないですけどね。」
千明と児玉警部の下した寛大な処遇に、夏芽は人心地ついた様に息を吐きだす。
そして、夏芽はそんな二人の対応に…何かを決心したように、口を開いて、
「あっ、あの実は…。」
「あぁ、お話が有るなら、とりあえず場所を変えましょう。こんな所で立ち話もなんだし、それに、関屋さんが土屋加奈子さんの御友人であるなら、こちらからもいろいろとお聞きしたい事がありますから。」
「えっ、えっ…。」
夏芽はいきなり自分の話を切られた上に、状況が悪化している事に今更ながら気付いた。
そして、再び青ざめる始めた夏芽を尻目に…、
「心配しなくても大丈夫ですよ。これは別に、事情聴取とか、取り調べとか、そんな堅苦しことじゃなくて、私個人として、参考までに関屋さんのお話を伺いたいというだけですから。もちろん、お茶も出しますよ。そうなると…この店のロビーを使わせてもらうのが良いかな。」
と、有無も言わせず会見の場所まで設定する、児玉警部。
そしていつの間にか、拘束する様に夏芽の肩を抱いている千明は、
「それが良いですよ。出来るだけ沢山のことを児玉さんにお話しておけば、それがきっと、土屋さんの所在を確認する一番の近道に成るはずだから。それに心配しないで。児玉さんの話が脱線したりしないか、私もその場に同席して目を光らせているからね。あっ、当然、私にもお茶は出して貰えますよね、児玉さん。」
…そして千明と児玉警部は、夏芽を連行するからの様に歩き出した。
二人の様子は実に朗らかで、
「どうぞどうぞ、好きなだけ頼んで下さい。…口の中を空っぽにしておいたら、どんな手厳しい言葉を頂戴するか、解ったものじゃないですからね。」
「ほぉ、良い度胸ですね、児玉さん。でも、期待してもらった分は、『損』はさせませんよ。」
と、楽しげな冗談が飛び交っているが…そんなものは、夏芽にとって何の救いにもならない。
夏芽も覚悟をしてこの場に臨んでいる。…それはそうなのだが、いざ狩りの獲物の如く捕獲されるとなると…ままならない我が身を憐れみながら…今、彼女に出来ることと言えば…そう…、
(こたちゃん…助けてよー。)
夏芽の声に成らない叫びが、虚しく空に溶けていく。
…それで、当のこたちゃんはどうしたのかと言うと…。
いつの間にそれだけの距離を移動したのか…小太郎は今、二階フロアの男子トイレの中に居る。
辺りからてんでに鳴り響く音楽をかき消す様に、小太郎はトイレの洗面台の前でガラガラとうがいをして、口の中のものを吐きだす。
小太郎の手元には、空っぽのミネラルウォーターのペットボトルが二本。つまりは、それ位の回数は、うがいを繰り返していたらしい。…それは、あんなものを口に含むから…。
小太郎はペットボトルの水を使い果たした所で、ようやく気が済んだ様だ。パーカーの袖で口許を拭う。…ずぼらな所は変わらないらしい…。
それから、火照った身体を冷ます様に、小太郎は長い息を吐きだして…豹変…夏芽には決して見せないであろう凶悪そうな笑みを浮かべると…呟いた…。
「…オレンジジュース。それから…それを薄めるのに加えられた不味い水。…そして…女の臓物…か…。」
小太郎の言葉に戦慄したのか、あるいは、彼の集中状態が伝線したのかもしれない…辺りの空気が痺れた様に静かに、そして冷たくなって行くのが解る。
小太郎の、笑顔の余韻を残すそのさらりとした顔から、そして、有りのままを映し出すくすんだ鏡から…『狩り』の時間を予感させる、抑えきれぬほどの高揚感が溢れていた…。
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夜の帳を街の灯りが照らし、地上を撫でる黒い緞帳の裾を暗く、濃くしていく…。
小太郎と夏芽が決死の覚悟でカラオケ店の303号室に侵入。結果として…夏芽が置き去りにされ…舞台が整ったのはその日の夜の事であった。
そこは駅近くの件のカラオケ店の近くで、巨大なショッピングモールを有する所謂、歓楽街である。
街並みの間をすれ違う人々は、役者の如く煌びやかに着飾り。ざわめきは昼間の如く夜を欺く。…しかし…平日とはいえ、普段でも帰宅者の列で賑わうはずのこの場所が…やや寂しく感じられる。
それどころか、徐々に、人通りが少なくなっている様にも見える…。
時間は午後七時半…そんなただ中に凝然として立つのは…千明であった。
服装を穂塚指定の学生服から、ブランド物らしき、グレーのラインの入ったネイビーの軽そうなジャケットへ。下はバッシュの様な厚みのあるスニーカーに、紺色オーバータイツ。そして、シルバーのラップスカートという、なかなかスポーティーで、健康的な装いに見える…ここが街のど真ん中で…今が夜で無かったとしたらだが…。
そう、千明がこんな恰好をしている理由は一つである。…始まるのだ、狩りが…。
また、千明の服装に違和感が加わる。ジャケットのポケットから千明が徐に取り出したのは…高級そうな革製の…指ぬきグローブであった…。千明が本気で有る事が…いやが上にも窺われるようだ。
千明はグローブをはめながら、隣に佇む背広の男性に声を掛ける。
「ところで、健さんの様子はどうなんですか。」
それに答えるのは児玉警部ではなく、先頃もカラオケ店で一緒だったもう一人の警察官の、水上刑事である。
「お陰さまで、元気過ぎる位で…まぁ、多少、興奮気味の様にも見受けられますがね。それでも何とか、警部殿のお許しを得て、もう現場に復帰しとりますよ。」
ずんぐりとした体格に少しよれた背広を着た…まさに刑事一筋を絵にかいた様な、水上刑事。
児玉警部などから見れば、かなり強面の方なのだが…健のことを話すときの柔和な顔は、まるで自分の息子の事を語るかのように楽しげで、どこか気恥かしそうだ…。
そんな水上刑事の心温まる顔貌を、千明は小さく微笑みながら見詰める。
「そうですか…健さんに大事無くて、まずは安心しました。でも、捜査に加わるのは少し早すぎる様にも…あっ、すいません。素人の私が口を出す様な事じゃなかったですよね。」
そう照れたように言いながら、千明は手袋の五本の穴に、革素材らしい鈍い音を立てて、細い指を押し込んだ。…無骨な革の手袋ではあるが、千明のような娘が嵌めると、何となく愛らしく見えてくるから不思議である…。
水上刑事は千明の準備が着々と進むのを見守りつつ、
「いやぁ、お嬢さまにそうまで心配して頂けて、健は幸せ者ですよ。それに白状してしまうと…私も警部も、健の復帰に関しては、ずいぶん思い留まらせようとしたんですよ。それが…あいつは、すぐにでも復帰したい、そうでもしないと気が収まらない何て言いやがって…おっと、どうも口が悪くていけませんね。お耳汚しを失礼。」
千明は、親子ほど年の離れた水上刑事の愛嬌たっぷりの口調に、大人びた笑みを返した。
そんな千明に、水上刑事は年甲斐もなく恥ずかしそうに…咳払いを一つ。そして、どうにか、粛々と話を次ぎ始める。
「えー…そんなこんなで、人悶着あったんですが…最終的には、あいつの熱意に我々が辛抱してられなくなった…。それを、警部に言わせると『まぁ、血気盛んなのは結構なことだろう。』と…そういう経緯 (いきさつ)で、健の現場復帰が叶った訳です。…ただし、私と二人一組で行動する事が義務付けられているんですがね。」
「じゃあ、私が健さんにして上げられる一番の快気祝いといったら…一秒でも早く、水上さんを解放するってことに成りそうですね。」
…夜の盛り場から、また一人、また一人と…まるで櫛の歯が抜けるかのように、歩く人の姿が消えていく…。
大仕事の前にも関わらず女子高生らしからぬ余裕を纏う千明に、水上刑事は漠とした憂いを感じた。
「お嬢さん、やはり私はここに残りますよ。なに、健だって大の男だ。いざとなれば自分のことは自分で何とでもしますよ。だが…お嬢さんには無礼な事を言ってると聞こえるでしょうけどね…お嬢さんは私なんかから見ればまだまだ子供だ…それに相手は女を殺して、肝を食っちまうような野郎だ。…そんな輩が居ると解っていて、お嬢さんを置いてこの場を離れるなんて…わたしゃぁ、忍びなくって…。」
水上刑事は、初め意気込んで啖呵を切ったかと思えば、最後の方は何だか湿っぽい喋り様に変わった。…それだけに、この老境に差し掛かった刑事さんの、千明を心配する心模様が透けて見えてくる。
それが解らない千明では無いのだが…そして、決めたことを曲げぬために、あえてその思い遣りを拒絶して見せるのも…また、千明の一面であることは間違いない…。
千明は何を置いてもまず、感謝の気持ちを伝えるために、水上刑事に深々と頭を下げた。
そんな千明の等身大の姿に、水上刑事は全てを察した様に…残念そうに、しかし、どこか腑に落ちた様に溜息を漏らす。
「どうしてもお一人で行かれるのですか。」
「大野洋平とは私一人で対面する積りですが、厳密には私一人ではないんです。大野洋平を見つけるのに手を貸して頂いた『塊堂』の方に、今、こうして、『鬼膜』を張り巡らせて貰っていますからね。ですから、私がしくじる様なことが有ったとしても、その方がすぐに気付いてくれますよ。勿論、私だって無様なところを見せない様に、出来るだけ上手くやる積りですしね。だから、水上さんは気兼ねなく…と言ったら、折角、心配してもらってるのに失礼な気もしますけど…えーっと、私、頑張りますから、健さんと応援していて下さい…って、やっぱり、失礼なこと言ってますよね、私…。」
照れたように、革のグローブを嵌めた手で口許を隠す、千明。
その暖かみを感じさせる笑顔と、秘めた力の大きさを表し始めた『白銀の瞳』に…どうやら、水上刑事の中で危惧よりも、信頼感が勝った様だ。
水上刑事は、まるで子供を送り出す親の様な晴れがましさに、千明から目を逸らして、
「解りました。貴女はいずれ、我々を引っ張って行く立場に成られる方だ。その貴女に前進する確固たる御意志がお有りなら…私ももう、止めません。」
そう言って、こめかみを掻いて…水上刑事は細めた目を千明に向ける。
「ですが、くれぐれもお気を付けて…。まずは貴女が御無事で返る事、それを第一に考えてくださいよ…この年寄りの為にも…。」
水上刑事は言い終えると、名残惜しそうに軽く笑顔を残して駅の方に歩き始めた。
千明は振りかえり、そのガニ股でヒョコヒョコと歩く後ろ姿を、いつまでも見送り続ける。
…人通りの絶えた、この街の真ん中で…千明は水上刑事の姿を見守りながら、思い出していた…健が言った事を…。
「間違いありません、『鬼膜』です。」
パイプ椅子に座った健が、そう断言した。
寒気を感じているのか、健はモカブラウンの毛布にくるまり、その顔は…身心に相当な痛手を受けた事表す様に歯の根が震え、トイレで胃の中の物を全て吐き出して来ただけあって…やつれた様子で、目の周りには隈さえ浮かんでいる。
…一通りの話を済ませ、夏芽を返してから、千明と児玉警部たちはまた、このスタッフルームに居を構えていた…。
水上刑事と、新たに加わった捜査員たちを店内各所に配置。そのことは、スタッフルームに置かれたブラウン管テレビでの、三台あるうちの左の画面からもはっきりと見て取れる。
だが現在、スタッフルームに居る千明、児玉警部、健が注目しているのは店内の状況ではない。
新たに問題に成っているのは、そう…中央の画面に映しだされた、三階フロアの映像。ただし、それは二時間前に千明が確認した映像とは、当然、違う。
今、三人が目を皿の様にして見詰めているのは…今日、自分たちが警備に当たっている間の映像なのである…つまり、児玉警部や、健にはある意味では失態の記録とも言える訳だ。
それを十二分に理解しているだけに…歯を食いしばって映像を睨みつける健の顔は、怒りと、羞恥に紅潮していた。
…健が自制の枠を越えて、感情をさらけ出しているのも無理は無いのかもしれない。
何せ、健を昏倒せしめた一撃は人間離れして強烈で、常人なら病院に直行、即入院間違いなしと言うほど内臓にダメージを与えていた。
健にとっては、そんなのを一発貰ってしまっただけでも十分に腹立たしい事に違いない。しかし、健を昏倒させた『鬼人』はよっぽど性格の悪い奴だったらしく…確かに、健に向けられたその膂力は、普通の人間にとっては致命的なものではあったが…骨には異常ない事、そして内臓も破裂はしていないことから考えて、どうやら…相手は健が『鬼人』である事を知っていて、必要最小限の力で無駄なく昏倒させるに至った…児玉警部はそう結論付けている。
そして、健にも児玉警部の考えを裏付ける様な心当たりが有ったのも、気の毒だったと。…そう言えばあの時、健の頭を掴んで持ち上げた『黒い鬼人』はそれらしいことを言っていたような…。
そう言う訳で、自分が鮮やかなまでに、きっちりと手加減された事を知って…健は心中穏やかではいられるはずもないのだ。
…話を監視カメラの映像に戻そう…。
己のプライドを気づ付けられた健の眼が、憎しみに曇ってはいないと良いのだが…。健の言葉付きは、平静を装ってはいても、その激した内心を隠し切れてはいない。
「見て下さい。これは、俺が馬鹿みたいに眠りこけている間の、三階フロアの映像ですが…二人にも画面が一段階『暗く』なっているのが解るはずです。」
健の説明に黙って耳を傾ける二人の『目』でも、そのことは確認出来た。健は二人からなんの異論も、質問もないことを…多少、焦り気味にだが…確認すると、話を続ける。
「この暗さは、『鬼』の影響による暗さです。同時刻の、三階の別の場所の映像も見ましたがこれと同じ状況でした。…つまり、この『鬼膜』は三階全体に広がっていた事に成ります。」
千明は健の尋常ではない目付きを心配そうに見つめながら、
「私や、児玉さん、それに水上さんも…誰一人として侵入した『鬼人』存在にも、『鬼膜』の存在にすら気が付きませんでした。でも、流石に、私たちが『鬼膜』に入れば、そのことには気付いていたはずですからね。まぁ、二階フロアにまで広がっていた事は否めませんけど…侵入者である『鬼人』の手際の良さから考えても…まず、健さんの見立て通りで間違いないでしょう。」
その千明の意見に続く様に、児玉警部も、
「該当する時刻に二階に居た客たちには、『鬼膜』に触れた様な兆候は見当たりませんでしたからね。それに、『塊堂の鬼眼』が身落とすとは思えない。一階、二階の捜査員の数は減らしても良さそうですね。」
「そうでもないかも知れませんよ…その証拠に、俺は相手に身体の自由を奪われるまで、相手の存在に気付けませんでしたから…俺には『こいつ』があるっていうのに…。」
千明と児玉警部の言葉を突っぱねる様に、健が忌々しげにブツブツと呟いた。
そして、健が言った『これ』とは…健の羽織っている毛布が少しだけめくれたその右肩には…『赤堂色』に鈍い輝きを放つ、鎧の肩当てのようなものが…。
それは、『あの日』に大野洋平の腰の辺りから現れた『尻尾』に似て、まるで濁りを内に残す氷の様に、表面は透き通ったガラス状。そしてその奥へ進むほどに濃い色が踊っている。
…恰も、生物の甲殻のように、健の背広の上からへばり付いている。そうかと思えば、無機物の様に、人工物の様に…とてもではないが、生き物の一部とは思えない様な気もする。…それはまさに、この『鬼鎧』とやら自体が、見る者を、見る角度によって謀っているから…そう言われても信じてしまいそうな…忘我の内に吸い込まれてしまいそうな…異様な存在感を宿している…。
それと、健の『鬼鎧』が、大野洋平のそれと違うのは色だけでは無い。
『鬼鎧』の肩当てには、浮き彫り細工の様な緑色の『瞳』が…健の腕の付けの根の辺り、鎧の装飾品のような平べった目玉がデカデカと存在感を示している。
だが、健の肩の瞳がただの飾りで無い事は明らかである。なぜなら、獣の眼のような緑の、その中央にある黒く細い瞳孔が…閉じたり、開いたり…音も無くグリグリと、獲物を求めて動き待っているのだから…。
この健の身体に現れた第三の瞳こそ、何度となく話題に上っていた『鬼眼』なのであろう。
まるで水晶の器、あるいは薄膜に覆われた眼球…それが、監視カメラの映像に施された暗いベールをはぐ様に、瞳孔を拡大させていく。
三つの眼を血走らせた健を、児玉警部は彼の上司として注意深く観察しながら、
「しかし、お前が倒されたのは『鬼鎧』や、『鬼眼』を生成し、纏う前だったんだろ。だったら、向こうが全力で自分の存在を隠して近寄って来たとしたら、後手に回るのは仕方ない部分もある。それが、警備をする側の泣きどころでもあるからな。あまり、気に病むなよ、織田。」
児玉警部のそんな慰めの言葉も、今の健の耳には遠い異国の出来ごとの様に心に反響しない。それどこらか、健は一段と画面を忌々しげに凝視して、
「いえ、そうじゃない…そうじゃないはずです。少なくとも、俺は気付けるはずだった。気付かなくてはいけなかったんです。例え、『鬼鎧』を纏っていなくても…。」
健は自分を抑えきれぬ様に声を荒げて…にもかかわらず、急に戦慄…身震いすると、弱弱しげに、抱き寄せる様に毛布を羽織り直した。
「恐ろしい奴ですよ…本当に…。正直なところ、俺が『鬼鎧』を纏っていたところで、奴の姿をこの『眼』で捕らえられたかどうか…。実際、俺には奴が、どこで、いつ、『鬼鎧』を纏ったのかすら解らないんですから。」
健の弱音を気の毒そうに聞いていた千明であったが…話の内容に気になった箇所が有ったらしい…弾かれた様に顔を上げて、
「健さん、それ本当ですか。健さんでも、時間はともかく、どこで、その…健さんを襲った『鬼人』が『鬼鎧』を纏ったか、解らないんですか。」
千明に繰り返し尋ねられて、健は自分の恥を上塗りしてしまったかのように、
「はい…。」
と悔しそうに呟いた。
千明はそんな健に構っていられないほど驚き、そして困り果てた様に、眉間を手で押さえながら溜息を吐いた。
「どうも、とんでもない事に成っているみたいですね…。」
児玉警部は千明の感慨を聞き咎めて、
「いったい、どういう事なんです。私には、二人の言っている事が理解しかねるのですが…。」
そんな児玉警部の疑問に…健はグロッキー状態なので、自発的な説明は期待できない。必然的に、生真面目な千明が解説を入れる。
「『鬼鎧』を纏うのには、一度に大量の『鬼』を結晶化させる必要があります。そのとき収束し損ねた『鬼』は辺りに散らばって、しばらくはその場を漂い、いずれは『鬼人』にも感知出来ないほどになって消えることになります。…この発生した『鬼』を収束しきれないといのは、言うなれば、『鬼人』が『鬼鎧』を纏う時の宿命の様な物なんですけど…それは『鬼』の制御を苦手としている『鬼人』ほど顕著で…ときには、『鬼鎧』を二つ、三つ纏えるくらいの『鬼』を発生さないと、全身を覆えるほどの結晶を生成できない人もいると聞いて言います。…逆に…。」
千明は言葉を切って、悩ましげにまつ毛を伏せて、
「それとは逆に、もし『鬼人』が『鬼』の制御に長けていたなら…それに伴って、結晶化に必要な『鬼』も必要最小限で抑えられることになるのですけど…まったく痕跡を残さないほど『鬼』の制御に長けているというような極端な例は…私も初めてです。」
健は監視カメラの映像を何度も、何度も、巻き戻しては見詰めている。それ様子だけで、大した成果を上げられていない事は解る。
児玉警部はそんな気配を背後に感じながら、千明に尋ね返す。
「しかしそれは、その『鬼人』の制御能力が長けていたという事も否定は出来ませんが…例えば、賊はこの店に潜んでいて、十分に『鬼鎧』を纏ってから時間を置いていたというのはどうでしょうか。それで、千明さまが仰ったような、収束しきれなかった『鬼』の痕跡が消えるのを待ってから行動を起こした…そういうことは無いでしょうか。」
言下に、千明は首を横に振って、
「その可能性はゼロではありませんが、まず、ありえないでしょうね。私の説明が不足していましたが、『鬼』が完全に掻き消えるまでには、思うよりも時間が掛るんです。御存じの通り、万物は全てが微弱ながら『鬼』を発しています。その中で、『鬼人』の発した『個性を持った鬼』は、一定時間その存在を保ってから、辺りの『鬼』に溶ける様にかき消えて行く事に成ります。ですから、私たち『鬼人』がそんな『鬼』を感知出来る時間は、『鬼』が完全に消えるのに掛る時間よりもずっと短いはずです。それでも…私なんかでも、結晶化する寸前まで近づいた高濃度の『鬼』なら、発生から2、3時間は感得出来るでしょうし…ましてや、『鬼人』の中でも、特に感知能力に優れた『塊堂』に縁のある健さんなら、ごく微細な『鬼』の残滓でも、半日くらいの間は察知可能だと思います。…もちろん、そこに僅かでも『鬼』が残っていればの話ですけど…。」
話を進め内に、千明の口調も鋭くなっていく。…そのことがまた、この事態が千明にとっても苦慮の種であることを、如実に表していた…。
児玉警部は二人の緊張感に耐えかねた様に、息を吐き出して、
「なるほど、それで解りました。つまりは…『鬼』が数十分程度で消える代物ではないと…今回の襲撃は賊が、予め痕跡を残さない様に配慮した結果…そうはもい切れそうにないということですね。あるいは、賊は我々の警戒する只中に易々と入り込んで…そして、何物をも残さずに出て行ったと…。しかし、そうなると厄介ですね。まさか、『死返し』を行った『鬼人』が、それほど馬鹿げた力を持っていようとは…まぁ、解っていた事ではありますけど、これは明らかに我々署員だけの力では手に余る。千明さまにご協力をお願いしたこと、正しかったな。」
児玉警部の場の空気を和ませる様な台詞にも、千明、健ともにわだかまりを吹き飛ばせない様子…。
そんな淀んだ空気に手を焼く児玉警部に、遠慮がちに、千明が意見を述べる。
「あの…児玉さん、先ほど襲撃してきた『鬼人』…映像に映っているという『鬼膜』の主のことなんですけど…。私は、多分、違うと思うんです…。」
千明のおずおずとした、手探りのような話し方に…児玉警部は不思議そうに、
「違うとは…何がですか。」
千明は単刀直入に聞かれて、まだ自信が無いのだろうか…言いづらそうに答える。
「はっきりとは断言できないんです。ですがおそらくは…私の見た所、『鬼膜』の主である『鬼人』と、大野洋平が化けたと目されている、一昨日に現れた『鬼人』とは…。」
「…別人ですよ、間違いなく。」
千明の不確かな言い様を補足する様に…いや、千明の言葉を奪い取る様にが、正しいだろう。何を思ったのか、不機嫌を隠そうともせずに、健が横から口を出した。…まったく、『鬼人』にもいろいろなタイプが居るものだ。…自制心が足りないのは、それとは別の問題かもしれないが…。
健の無礼なおこないに、児玉警部の眼差しが険しくなる。
それでも、千明が問題にはしていない様子なので…、
「その根拠は、何だ。」
と、児玉警部が先を促がした。
「一昨日の監視カメラの映像に映っていた『鬼人』。そいつの『鬼鎧』に染み渡っている色は紫…もっと詳細に説明するとなると…そうだな…紫鳶が一番近い色だと思います。」
健が思いの外、博識なところ見せる。
紫鳶とは随分と渋い和色の名前であるが…千明も、児玉警部も、違和感を表明しない所を見ると、『鬼人』の間では『鬼』や、『鬼鎧』に沈着した色を、和色で告げ合う習慣が有るのかもしれない…。
健が続ける。
「それに対して、俺を失神させた奴の『鬼鎧』の色は黒…かろうじて『鬼眼』で見た色は…一切のくすみ、淀みの無い黒でした。これは、一時間前の三階の映像に映った『鬼膜』の色とも一致します。」
健は言い終えると深く息を吸い込む。…そして、今度は少し…嘲る様に、
「だいたい紫鳶の『鬼人』に、今さっきの黒い『鬼人』のやった様な芸当が出来るとは思えませんからね。透過迷彩すらまともに出来ない様な奴に、結晶一粒の無駄も出さない『鬼鎧』の生成、それに、これほど緻密な『鬼膜』を織上げ、広げられるとは思えない。」
「そんなにすごいんですか。その黒い『鬼人』が作った『鬼膜』は…。」
健の言葉に再び喰いついたのは、やはり千明であった。
そんな千明の熱心な素振りに自尊心を傷つけられたように、健の顔から潤いが多少失せたようだ。…だが、健は断固たる決意を示すかのように…自信をもって千明に答える。
「えぇ、とんでもなく目が細かく編み上がっているんです。それも、カメラの映像で見る限りでは、一か所もゆるがせにしていない。これを作った『鬼人』は間違いなくイカレてます。それも、吐き気がする位に滑らかで、鋭く安定した精神構造で…こんな奴が、紫鳶の『鬼鎧』を纏っているはずが無いんです。」
椅子から静かに立ち上がった児玉警部が、健を見下ろして息を漏らす。
「…伝え聞く、『黒い鬼鎧の鬼人』か…。私たち『鬼人』が存在する以上、そういう『鬼人』が現れること自体は、何も不思議な事ではないのかもしれませんが…そんな人物の存在を私は、見たことも、聞いたこともありませんでしたから…今こうして話に上ったことも、捜査線上に登って来た事も、率直に言って半信半疑ではありますね。」
健にとってはもちろん、今の児玉警部の言い様は聞き捨てならない。健は挑みかかる様に、児玉警部を見上げると、
「警部。少なくとも紫鳶の『鬼人』、そして黒い『鬼人』…その二体がこの店に現れた事は間違いありません。俺のこの三つの眼が、はっきりと見たんです。絶対に、見間違いじゃあない。」
…そんなやり取りを他に置いて…千明は健の言った事を確認するかのように、真ん中のテレビをまじまじと見詰める。そして、
「すいません健さん、ちょっと良いですか。」
と千明に呼び止められ、児玉警部に対してまだ何かを言ってやりたそうな顔をしていた健が、しぶしぶと…、
「えっ、は、はい、何でしょうか。」
健が千明の方に首を向けたのに、どこかホッとしたように児玉警部が頭を掻いた。
「黒い『鬼膜』の中には何が見えたんですか。健さんの『鬼眼』なら、『鬼膜』の中の様子も見えるはずですよね。」
千明の問いに健は見るからにたじろいで、
「そ、それが…実は、俺の『鬼眼』でも中の様子は…いえ、全く見えないと言うのじゃないんです。『鬼膜』内で人型のものが二つ、三階の廊下を動いているのは解るんですが…それが誰なのか…顔形はもちろん、性別も解らないような次第で…ただ、二つとも大きさは、身長で言うと160センチメートル前後。それから、二つともが明らかに、『鬼鎧』を纏っている様には見えませんでした。ですから、二人の内のどちらかが『鬼膜』を張り巡らせた『鬼人』だったとして、その場合は俺を倒してから『鬼鎧』脱いでいたと言う事に成りそうなんです。…その、理由までは解りかねますが…。」
「二人の内のどちらか…なるほど…。兎に角これで、黒い方の『鬼人』の…その中身の身長は160センチ位と言う事は解りましたね。『鬼膜』を作った張本人である『鬼人』は、かならず『鬼膜』の内側に居る。それが解っていても、『鬼鎧』の上からだと、『鬼人』の元の身長は測れませんからね。お手柄ですよ、健さん。」
「あっ、いいえ、そんな…。」
千明に褒められて、健も少し頭を冷ましたように、そして次は…急に、落ち込んだ様に肩を落として、
「結局、俺には『鬼膜』の内側を見通すことが出来なかった訳ですし…それに、黒い『鬼人』は、監視カメラの捕らえる事の出来る範囲の外に居たということもあり得ますから。」
そして今度は、またもや自信が湧き出た様に、
「しかし、映像を見ただけでも、身長以外に解った事はあります。黒い『鬼人』の能力に関わることで、これは勿論、俺の推測の域を出ませんが…。」
健は注意深そうな目付きで、そう前置きをした。…児玉警部も特に健を咎めようとはしない。
「黒い『鬼膜』を見て感じたことなんですが…もしかしたら、黒い『鬼人』は透過迷彩が苦手なんじゃないのかと…。いや、苦手と言うのは違うかもしれませんね。現に、『鬼膜』による迷彩でも、肉眼では実態はほとんど見えかった訳ですから…ですが、この『鬼人』の場合…おそらく、『鬼』そのものの安定性の高さが『鬼膜』や、それに『鬼鎧』の濃度を高めているんだと思います。それでどうしても、薄ぼんやりと…視界に墨を溶かした様な、黒い違和感が残るんだと思います。多分…俺を三階の暗がりで待ち伏せて襲ったのは、すぐにあの窪みに俺を引っ張りこめると言う理由だけでなく、暗闇の中なら奴の透過迷彩は完璧なものとなる…それを計算に入れての事だったんでしょう。」
溜めこんでいた思いを吐きだす様に話す、健。
児玉警部は、今の今まで私情に任せて口を噤んでいた健に、溜息がでる…だが、辛そうな笑顔で自分たちの間に収まっている千明の手前、とりあえず自嘲してはいる…今のところは…。
「そこまでの事が解っていれば随分違いますよ。なるほど、黒い『鬼人』は暗闇に潜んでいる可能性が高いってことに成りますよね。これなら案外、簡単に黒い『鬼人』の方は抑えられそうですね。」
千明の笑顔の圧力を感じつつ、児玉警部は、
「確かに、捜査をする上での指針にはなりますね。」
…しかし、そうそう傷心の部下や、思い遣りのあるお嬢様に気を遣ってもばかりもいられない。
「それでもまだ、はっきりさせないといけない事があります。まず、黒い『鬼人』が存在しているなら、そしてその『鬼人』が大野洋平とは別人であるなら…いったい何の目的でこの場に、しかも、我々の警戒している時を狙って現れたのかということ…。」
児玉警部は一度、言葉を切って…それでもなお、きっぱりと、
「そしてなぜ、織田に止めを刺さなかったのかということです。織田、お前なら、何か心当たりが有るんじゃないのか。」
つらい事ではある…だが、こればかりは避けては通れない。それは健も十分に承知している。そして、児玉警部も、千明も、健がそのことを理解していてそれでも、ここまで言い出せなかったことを知っていた。…しかしながら、この重大事に関しては、千明も健をかばう訳にはいかない…。
健は観念したかのように、加えて、はたと思い出したかのように、
「はっきりとは聞き取れなかったんですが、腹を殴られる寸前か、俺が失神するまでの間に何か言われた様な気がするんです…相手が何と言ったかは覚えていないんですけど、多分…俺が『鬼人』だから、この位の力で殴っても死ぬことはないだろう。…そう言う意味のことを言われた様に思います。」
千明は児玉警部が怒りにまかせて何か言いだす前に、機先を制して、
「それでは、黒い『鬼人』は最初から、健さんを殺してしまう気が無かった。しばらくの間、眠らせる事が目的だった。…その、見解は児玉さんのものと一致しますね。」
千明に間を取り持たれて、児玉警部が渋々頷いた。
健の逡巡が加速度的に増していく…。
千明はスタッフルームの壁掛け時計を見る。…時刻はすでに、十七時を回っていた。
今日の調査で、そして予期せぬアクシデントとの遭遇で、幾つもの不安要素が噴き出している。千明にも心の準備が…そしてあまりに速い展開の潮流に、漕ぎ出す事を躊躇する気持ちもある。それでも…いや、だからこそ…決断するなら、今をおいて他には無かったのだ…。
「織田、ロビーに水上さんが居るはずだから、『一度、署に戻ります。店に残す捜査員を五名選んで、現場で待機する様に命じてから、水上さんも捜査車両に乗り込んでください。』と…伝えたら、お前も先に車に乗り込んでいろ。」
児玉警部の厳命を聞きくに及んで、健は即座に身体に巻き付けていた毛布を跳ね除けて立ち上がった。
「待って下さい、警部。俺もこの店に残るべきだと思います。捜査員の中には俺以外に、『塊堂』に連なる者は居ないはずです。…今は、『鬼』の制御に秀でた『鬼人』が今回の事件に関わっていることが解っているのですから…ここで俺が奴から眼を離したとしたら、犯罪者を野放しにしておくことになりませんか。」
健の熱意が最高潮を迎える。…それにしても、児玉警部も、千明も、健の不安定な姿を見ても…気の毒そうにはしているが…警戒感を抱いている様には見えないのはどうしてだろうか。
それに、この躁鬱を行ったり来たりする様な印象…健の場合は『取り乱している』程度の波が連続しているだけだが…もし、これが明と暗が別れるほどにはっきりと、性格すら変わった様に…恰も、電燈の『スイッチ』のON、OFFのように表されたとしたら…なんとなく、誰かさんに似てくる様な気もする。
…しかしそうすると、普通の人間は平静時には『明で暗』であるにも関わらず、誰かさんは健とも違い、常に『明か暗』の状態にあることになる。
それは、常人離れして安定していることから、ある意味では一種の高みに居る様にも、精神の充実の極みともとる事が出来るのかもしれない。しかし…そんな極端なほど平静なバランスに、心はあるのだろうか…多くの人は、そんな人物を天才と呼び奇異の目で見る事はあれ…彼から人間味感じることは無いのかも知れない…。
健の熱弁が続く…。
「俺ならもう大丈夫です。これでも『鬼人』の端くれですから、頑丈さには自信が有ります。二度と、へまもしません。だからどうにか、もう一度チャンスを下さい。」
健の懇願を児玉警部は冷静に聞き分けて、それから、押し殺した様な低い声でピシャリと言い返す。
「そう焦らなくても、お前には時期が来れば、然るべき働きをしてもらうことになる。だが、今のお前では他の捜査員の足手まといだ。警備担当者の中での感知能力が落ちることなら、お前が心配する必要は無い。『五つ家』に登録されている『塊堂』に縁のある方に、俺から助成を頼んでおくことにする。…解ったらとにかく、俺達と署に戻るぞ。元気が有り余っているというならまず、水上さんに俺の言った事を伝えに行くんだな、急いでな。」
にべもない児玉警部の命令に、健は勢い余って、
「駄目なんですよ、それじゃあ。あの黒い『鬼人』は自分の『鬼』で人に高揚感や、一体感まで与える事が出来る…そんな相手に、俺の『鬼眼』なしに当たるなんて…。」
「おいっ、それはどういう事なんだ…織田、さっきからお前、ずいぶんと俺に伝えておくべき情報を言い出すのが遅い様だが…まさか、意図的に小出しにしているんじゃあるまいな。」
健が口走った言葉に、児玉警部が咬みついた。…今度ばかりは、千明のインターセプトも間に合わなかったようだ…。
健は児玉警部の眼光に釘づけにされた様に、その場を動けずに、擦れた声を漏らす。
「ち、違います。俺は決してそんなつもりは…。」
「言い訳はいい…それより要点を、黒い『鬼人』が人心を操れるかも知れないといことを…その根拠を報告しろ。」
「はっ、はい…。」
健は児玉警部の瞳に絡み取られて焦った様に…それでも必死に結果を出そうと…しっかりと頭名の中を整理して、
「根拠は…あの、受付を担当している店員の女性です。彼女自身は『鬼人』ではありませんが…警部も知っての通り、例え『鬼人』でなくても、人間はみな微弱な『鬼』を意思とは関係なく発しています。勿論、彼女も『鬼』を発しているんですが…俺が意識を取り戻して、この部屋に戻るときに感じた彼女の『鬼』は…まるで強力な『鬼』に無理に馴らされたような…多分、制御能力に長けたあの『黒い鬼人』に『鬼』と精神状態を捜査されたんではないかと…。そうでもないと、あの受付の女性の放つ『鬼』の異常な滑らかさも、急に多幸感を感じている気配も…説明が付きませんから…。それでも…そんな証拠を目の当たりにしても俺には…あれほどの『鬼』を容易く用いる奴が、なんで、わざわざ『鬼人』でもない普通の女のテンションを高める様な真似をしたのか…どうしても、納得がいかないんです。」
最初は気まずそうにしていた健だが、話が進むにつれまた…だんだん調子に乗って来たように、持論を展開しだした。…健は解って無いだろうがもう、千明の助けは期待できないと言うのに…。
「織田…お前、そんな重大な情報を…事件に関与しているかも知れない『鬼人』の能力について、知りえた事を隠匿していたのか。」
児玉警部の心中を思わせる、低く、怒りに満ちた声。健はようやくことの重大さに気付いた様に…それとも、児玉警部の言い様が正しければ、これは今気付いた振りとなるのだろうか…ともかく、怯えた様な顔を上げて、健は必死に言明に励むしかない。
「隠匿なんてそんな…俺にはそんなつもりは…。」
「じゃあ、どんなつもりで今まで報告を先延ばしにしていたんだ。申し開きが有るなら聞いてやる。」
健は児玉警部に詰め寄られて、顔を強張らせながらも、何か応じようと唇をパクパクさせていたが…流石に、この期に及んでどんな言い訳もただ見苦しいと悟ったのだろう…。
「申し訳ありませんでした。」
とだけ、話しそびれていたことを謝罪して、それきり押し黙ってしまった。
児玉警部はどこか途方にくれた様に天井を見上げて…それでも威厳を保つように真顔で…。
「他に俺に話していない情報は無いんだろうな。無いのなら、水上さんのところに行け。…お前が捜査にいつ戻れるかは、医者の診断結果が降りてから俺が決める。以上だ。」
児玉警部の冷静な声に、健は…まだ、殴られた腹が痛むのだろうか…腸が捩じ切れそうなほど苦しげに、それでも自分の非を弁えたかのように素直に頭を下げると…あからさまにガックリと来た様子で、スタッフルームから出ていた。
その後ろ姿が、やや乱暴に閉まるドア板の向こうに消えたのを確認して…児玉警部は苦笑いで、溜息を吐く。
「たくっ、近頃の新人は、いつまでたっても学生気分が抜けんのだから…自分が命がけの仕事をしている認識さえ育ってくれればと、私も織田には期待してはいるんですけどね。それも、なかなか思うようには成ってくれなくて…。」
疲れた様に、二度目の溜息を漏らす、児玉警部。
千明は拾い上げた毛布を丁寧に畳んで、パイプ椅子の上にそっと乗せる。
「すいません。私の事ともども、また、御苦労を掛けてしまったみたいで…。」
「いいえ、こちらこそ…またもや千明さまに愚痴を零してしまって…これでは私も、織田の事ばかりは言っていられないな。」
と、児玉警部は少し窮屈そうに襟を正して、
「それに比べて、千明さまの『萩の会』を運営する手腕と言い、熱意と言い、学業と両立させての頑張りには真実、頭が下がる思いですよ。これは…私は一度、千明さまに、同僚と上手く接するノウハウの、教えを請うべきかもしれないですね。」
千明は立ったままで首を横に振って、
「まさか、私が児玉さんに説教をするなんて…そもそも、学業と両立していると言っても…私の場合はもう、進学する大学が決まっているんですから…『サークル』には出来る限りの事はして居る積りですけど、そのことに点数を付ける試験官は居ませんからね。私なんかよりも、これから入試を迎える受験生たち…普通の学生の方がよっぽど大変なはずですよ。」
「でも、普通の人間は…突然減ってしまった自分の寿命の心配や…自分が、肉親や、あるいは…恋人を…喰い殺してしまうかもしれない…そんな心配に苛まれる必要は無い。…まぁ、これは千明さまには関係の無い…むしろ、私や、織田…そして、今度の大野洋平の様な者が心配することで…おっと、また、詰まらない事を言いました。どうか忘れてください。」
そう言って、まるで思いを断ちきる様に、児玉警部は眼を閉じた。…どうやら、リムジンの中で言っていた『同情の余地』とは、この辺りに理由が有るらしい…。
児玉警部はよくある事だと…非常に…そして懸命に洋平のことをふっ切って、あえて明るい口調で千明に喋り掛ける。
「ところで…千明さまには、この店の警備に加わって貰えそうな『塊堂』の方に心当たりがあれば是非…また、お力をお借りしたいのですが…。」
「えぇ、心得ています。健さんの代役の務められそうな方…ハードルはなかなか高いですけど、心当たりはあります。その方なら、この店まで一時間もあれば来て頂けると思いますから…人選を私の一存に任せてもらえるなら、すぐにでも…。」
児玉警部は千明の願っても無い申し出に、安堵の笑顔という全幅の信頼で応えた。
…程無くして、スタッフルームに健と同じくらいの年代の若い捜査員が入って来た。彼女は千明の学生鞄を携えて来たらしい。
千明は足早にスタッフルームを後にしようとした、女性捜査員と二言、三言世間話を交わしてから鞄を受け取る。…なるほど、どうやら警察官に預けていたらしい千明の鞄の中に、彼女の携帯電話が入っていたのだ。
そんな一連の流れを見守りながら、何やら物思いに耽る児玉警部。
千明は不思議そうに、携帯電話の電源を入れていた手を止める。
「どうかしましたか、児玉さん。」
児玉警部は千明に尋ねられて、小さく、悩ましげな息を漏らして、
「いやぁ…どうしたものかと思いましてね。」
児玉の曖昧な言い様に、千明は笑って、
「そんなに心配なさらなくても、健さんなら大丈夫ですよ。きっと、水上さんが慰めて下さるだろうし、いけない所はちゃんと叱ってくれていますよ。児玉さんが気を配って下さった通りに。」
にっこり笑う千明に、児玉警部は照れたように、そしてぎくしゃくとして顎を撫でる。
「いえ…まぁ、確かに織田の事も心配の種には違いないのですけど…今のはそう言う事ではなく…。」
児玉警部は表情を引き締めて、改めて千明に答える。
「今回の事件…随分と大仕事に成りそうですからね。さらに捜査員を増員することは勿論の事、警戒する区域を広げなければ成らないでしょう。ですが…。」
児玉警部にとって、今度の事件は本心からの苦闘を余儀なくされているのだろう。埒もない事とは知りながら、どうしても話が愚痴っぽくなってしまう。…まぁ、これも、千明の仁徳の成させた事とも言えるのかもしれないが…。
「ですが、こうも後手に後手にと回ってしまうとなると…相手の方からこれだけカードを見せびらかされているというのに、こちらはそのカードが何であるかも、まったくと言っていい程に見当が付いていないと言うしまつ…となると、これ以上捜査員から被害者を出さずに捜査を続けるのは、贅沢という事に成りそうだ。考えるだけ…そう、考えるだけ無駄だとは解ってはいるんですけどね。どうあろうと、我々がやることに変わりは有りませんから…しかし、どうしても…どうしたものかと…ね…。」
児玉警部の味の濃い笑みには、まるで彼の人柄が透けて見える様だった。…本当に、健は良い上司を持ったことを感謝しなくてはな…。
そして、千明。…千明は生唾を飲み込んで、折り畳み式の携帯電話を閉じる。…今、千明は密かに決断していた事を実行する時の到来を…こここそ児玉警部に対して我を通す…話を切り出す絶好の機会だと決意した…。
「児玉さん…。」
「なんです。」
少しふわっとした、風船のような心持に成っていた児玉警部。千明が…、
「児玉さんが言った…カードの話ですけれど…。」
…そして、おもむろに…、
「どうでしょう、これ以上後手に回らない様に、こちらから相手のカードを捲りに行くと言うのは。」
と、風船に無造作に針を刺して。…だったら、児玉警部の反応は決まっている。
「えっ、何ですって…どういうことです。…いや、しかし…それはあまりにも危険すぎるんじゃ。」
児玉警部は弾けた様に驚いて、自分でも何を言っているのか解らない風情に…それでも、とにかく千明の短慮を諌めようとしている。…児玉警部には、千明がこの後に続ける言葉が解っているのだ。
それは、勿論のこと…、
「危険はこのまま手を拱いていても同じ事…それだったらいっその事、こちらから先手を奪いに行った方が手っ取り早いとは思いませんか。別に、こちらだって、ルールに乗っ取ってフェアなゲームに付き合って差し上げる筋合いはないのですし…それに、私の方から言い出した以上は、捜査員の皆さんに危ない橋を渡らせる様なことはさせません。言うまでも無く…カードは私が受け取りに行きます。」
と、千明なら紛れもなく、こう言うに決まっているのだ。
それが解っていても、児玉警部には頭を抱えるしかない。
「千明さま、それは余りに…。以前も申し上げましたが…もし、『萩の会』を慮っての事なら…。」
だが、児玉警部は口が酸っぱく成る前に話を止めた。…いつもの事…どうせ、結果は見えているのだ。
それに大野洋平の捕縛に関しては、すでに千明が取り行うと言う事で、話が付いていることもある…。
「私には千明さまのなさる事を止める権利は…いや、止める理由がありません。ですが、『鬼人絡み』の事件の担当主任としてお聞きします。千明さまに具体的な方策はお有りなんですか。」
千明は児玉警部と視線を交えて、順序立てて話を進める。
「まずは、とにかく大野洋平の身柄を押さえます。と言うのも今日、この店に現れた黒い『鬼人』の目標は…おそらく大野洋平自身と私たちが考えている、あの紫鳶の『鬼人』…。それそのものか…あるいは、その形跡を探りに来たのではないか…私はそう思うんです。」
児玉警部は千明に同意するように、軽く首を縦に振った。
千明が話を次ぐ。
「受付の女性にちょっかいを出した事や、『鬼膜』の中の影が二つあったこと…そういう説明の付かない部分は残ります…ですが、健さんを死に至らしめなかった事実から、向こうにはこちらと真っ向から事を構える積りは無い。こちらを出し抜こうと言う気は有るのかもしれないですけど…あくまで、それは『紫鳶の鬼人』に関しての話で…こちらとの敵対は望んでいないんでしょう。そうでなければ、健さんですらあの様ですからね。…今頃は、私たち一人として、生きてはいなかったでしょうね…。」
千明の少し悲観的な言い様に、児玉警部は何か柔和な顔で言おうとしたが…どうやら、気休めか、おべんちゃらの類だったようだ…すぐに、改めて、
「これ以上、厄介な『黒い鬼人』に出し抜かれる前に、『紫鳶の鬼人』を捕らえる。それをもって、事態のイニシアチブを得るということですか…で、どのようにして『紫鳶の鬼人』を籠の中に追い込むお積りですか。」
「この店の警備の協力をお願いする『塊堂』の方の他に、後数人ほど、『塊堂』から私に護衛を兼ねて付けて貰います。当然、そちらの手配も私が…いえ、事の重大さを思えば、消して無体な話ではありませんから…。それから、準備が出来次第、『塊堂』の方たちには『鬼膜』をギリギリまで広げた『鬼気感知』を…とりあえず、現場のこの周辺から始めてもらって…見つからなければ…人数を増やしてでも、見つかるまで探しましょう。…まぁ、『塊堂本家』の方に掛れば、『野良』の一匹見つけるのは、さして難しことではないでしょうけど…。」
児玉警部は、千明の意外なまでの徹底ぶり…若干、呆気にとられていたようではあったが…気を取り直して先を促がす。
「それで、『鬼人』が見つかった後は…。」
「『紫鳶の鬼人』を『鬼膜』に捕らえた一名を残して、他の『塊堂(かいどう』の方には引き取って貰います。…確かに、失礼にあたるのは間違いないでしょうね。ですが、未登録の『鬼人』の勧誘は『萩の会』の…会長である私の仕事ですから…納得はして頂けると思います。…それで、『塊堂』の方の内一人に、その場に残って『鬼膜』を保持してもらって…『紫鳶の鬼人』が気付いて逃げ出さないうちに私も、『鬼膜』の中へ入り込みます。そこで…児玉さんにお願いが有るんです。私が『鬼膜』の中に入ったと同時に、捜査員の皆さんで『鬼膜』の外側を取り囲んで欲しいんです…お願い出来ますか。」
…これは、千明なりの、今度の事件に関わる捜査員たちに対する…特に、児玉警部に向けた…配慮の提案であろう。…それも、強く生まれついた千明の…その内面…本人が気付かないほど淡い、密やかな尊大さが言わせた言葉であった…。
児玉警部は千明の内側…『鬼人』としての部分に無限の畏怖を覚えながら…その心遣いに答えるべく、
「その役目、私どもで慎んで務めさせていただきます。」
と、深々と頭を下げた…。
「それと…あの、児玉さん…こんなことをこちらから申し上げるのは本当に失礼な事とは思いますが。」
と、顔を上げた児玉警部を待っていたのは、いつものお淑やかなお嬢様の顔だった。
児玉警部は釣り込まれるたように、
「はっ、はい、なんでしょうか。」
そんな調子の児玉警部に、千明は一瞬怪訝そうに、それでもすぐに真面目くさった顔で話を続ける。
「その…捜査員の皆さんには、私から『紫鳶の鬼人』に『対処』しおえたという連絡があるまでは、絶対に、『鬼膜』の内に入らないということ…それを、徹底して頂きたいんです。相手は既に、人一人殺している。それに、『死返し』を行って…『どんな状態』であれ気が立って居るでしょう。そんな中で、もし捜査員の誰かが『鬼人』の人質に成ったとしたら…いえ、きっとそんな猶予さえ与えられずに、隙を見せた者を殺していくでしょう。『死返し』を行ってまで『鬼人』として生きる事を選ぶと言うのうは、そう言う事なんです。それは、皆さんに必ず伝えて上げてください。…『鬼絡み』の事件を扱う捜査員の皆さんの、覚悟のある事を知りながら…失礼な事を申し上げました…。」
千明の話に、息を止めて聞き入っていた児玉警部。千明の顔にあらん限りの視線を注ぐその顔…今、彼は千明から、『お前たちは力不足だから、下がっていろ。』そう言われたのだが…そのことを、どう思っているのだろうか。
児玉警部はゆっくりと、深く、肺に息を吸いこんだ。
「千明さまのお心遣いは…我々の中から一人の犠牲者も出さない様に、お心を砕いて下さっていることは大変有り難い事です。それに…我々が『鬼人』として、千明さまと比べて力不足だと思われていることも仕方の無い事だというのも承知しています。ですが、『萩の会』を纏めている。同輩の覚悟を理解している千明さまだからこそ…あえて、私の口から警告はさせていただきます。我々捜査員一同…私や、それに織田も…事に当たる際には、いつでも身体を張る。命懸けで事態に打つかっていく…その気概を持って、日々、捜査を行っています。あいつが…織田があれ程悔しがって見せたのも多分、その気持ちの表れ…多分、自分の覚悟を嘲笑われたとでも思ったんでしょうね…。」
児玉警部のこの発現が、千明には暗に何を指しているのか…それが痛いほどわかるから…それでも我を通そうと言う自分に、ただただ畏まるしかなかった。
そんな気持ちを察したのだろう。
「いいんですよ。」
と、児玉警部に声を掛けられて、千明が奥歯を噛み締めながら、頷いた。
「こっちも千明さまが侮辱しょうなんて気がないのは解ってますから。ただ、我々自身が動くべき時だと判断したときは、お志に背くことに成っても躊躇はしない積りです。その時はどうか、勘弁して下さい。」
と、児玉警部はニッと白い歯を見せて、
「まぁ一先ず…捜査員は全員、千明さまの意向に従いましょう。…それで、話の続きですが…もし、千明さまが引いたカードが『ジョーカー』だった場合…千明さまはどの様になさるのですか。」
…今度は自分の覚悟の程を尋ねられている。千明はそう直感して、知らず知らずのうちに…笑みを浮かべていた…。
「先程も言いましたけど、こちらは相手に合わせて上げる積りはさらさら有りませんからね。もし、相手が提示してきたカードが『ジョーカー』だったとしたら…そんなカードは放り出すなりして、始末してしまえばいいじゃないですか…。」
児玉警部は千明の笑顔から、彼女の出した答えが本音で有る事を確認した。つまり…話は付いた訳だ。
「千明さまがその気になら、ルールだろうと、何だろうと問題には成りませんね。では、お手数ですが、千明さまにも署まで御同行願います。ほとんど、千明さまにお任せするとは言え…そういう場合は、それで…こちらにも各所への通達やら、事務上の手続きがありますんで…。」
児玉警部に促がされ頷いた千明が、まるで勢いを付ける様に携帯電話を開くのだった…。
こうして千明は、乱雑なカラオケ店のスタッフルームから解放されて…この低く垂れこめた夜空の下に居ると言う訳だ…。
『紫鳶の鬼人』の捜索には、『塊堂家』から派遣された十数名のもの人員が辺り。結果、あっけなく、ものの一時間足らずで『紫鳶の鬼人』を発見するに至った。
…水上刑事の幅のある後ろ姿も、とうとう夜に消え…それを合図に、千明は…『人食い鬼』の待つ方へと歩み出した。
歓楽街を黙々と進み、シャッターの閉じた所もあるアーケード街を通り過ぎて…すぐ眼の前の角を曲がったところにある路地裏…この『鬼膜』の主である『塊堂』の『鬼人』からの情報によれば…その先にある開けた空間に、千明の『獲物』が潜んでいる。
…いよいよ、千明が使命を果たす時が…そしてそれは、おそらく…殺し合いに発展するするかもしれない状況まで、起こり得るのだ。
千明は路地裏の前で立ち止まると、無垢なままの瞳で深呼吸を一息。それからは、まるで、日々通う穂塚高校に通学する様な、そんな軽やかな足取りで…死地に赴く。
その千明の背中のなんと華奢な事か、そして…なんと恐ろしい事か…彼女の内面にも確かに、『鬼人』としての何かが、息づいているのだ。
だが、そんな圧倒的な何かを纏う千明にも、どうやら気付く事が出来なかったらしい…彼女が路地裏に入るのと同時に、周りの『鬼膜』が…夜が、暗さを深めた事に…。