第一話 その二
[6]
話を、小太郎と夏芽が『スイッチ』云々で押し問答しているところに戻そう…。
…いやいや、どうやら…『スイッチ』という言葉で、小太郎のどこかにあるスイッチを押すかのように、彼に問い続けているのは夏芽ばかりで…、
「こたちゃん…やっぱり、貴方…スイッチ入ったんでしょ。」
夏芽はまだ、ポケットを手探りする様な好戦的な瞳で、小太郎の一挙一動に気を配っているようだ。対して、小心翼翼とした人格が服を着て歩いていた…と思われた…小太郎は…、
「夏芽の言いたいことは解るよ。でも、いつも言っているように、人ってそんなに簡単に、点いたり消したりするような気やすさでは性格をころころ変えることは出来ないよ。逆に、いつでも、どんな場合でも、どんな相手に対しても、まったく同じ反応を示す人間もいない。だから…仮に僕のそれが、夏芽に…まさしく『スイッチ』が切り替わる様に、はっきりとした変化として見えたとしても…それは、夏芽自身がその度ごと、僕の方に向ける『色眼鏡』を掛け替えているからと言うだけの事だよ。…まぁ、それとしても、僕のテンションがここに着て上がってきてるのは認めるけれどね。」
ベージュ色の壁に悠然ともたれ掛かるその姿は…相変わらず、小柄なことには変わりないのに…小太郎の存在感が、ロビーに居たころよりも一回り大きくこの空間を埋めているように感じられた。
夏芽は少し慎重さの見てとれる目付きで、真実味の無い話を切り返してくる小太郎を、注意深く見詰める。
「良く言うよ。私、最初にこたちゃんが、今みたいに、人が変わった様になったのを見たとき…多重人格者にでもなったのかと思ったよ…。」
そんな夏芽の探る様な様子に、小太郎は口の端を押し上げて笑う。
「そんな心配しなくても、僕、相坂小太郎は、いついかなる時でも、関屋夏芽とこうして過ごしたことを忘れたりはしないよ。…はいはい、解ってるよ。そんなことは心配していないし、している暇も無いんだよな。解ってるって。…それにな、もう一つ解っていることもあるよ…。」
変わらぬ笑顔で夏芽に笑い掛ける、小太郎。しかし、その目付きは不気味な程に穏やかで…そう、『安定』という言葉が奇妙な位しっくりくるような…。
それは、小太郎自身が口にした『いつでも、どんな場合でも、どんな相手にも、同じ反応を示す人間はいない。』という言葉を、容易く打ち消してしまいそうなほどの…不自然な『安定感』を秘めた瞳…。
小太郎は夏芽が微かに落とした陽炎を、短く一笑に付して、
「解っているよ。夏芽は僕のモチベーションが高まっていること…夏芽の言葉を借りれば、『スイッチ』が入ったこと…なんだかんだ言ってもこの状況では、夏芽にとっては好都合だって思っているよね。」
小太郎の指摘は、夏芽の心中の正鵠を射ていたようだ。
夏芽はやや硬い表情で、喉を小さく鳴らす様に息を吐く。そして、意を決したように…、
「あのね、こたちゃん…。」
言いかけた夏芽を口をノックする様に、優しく…かつ乱暴に、彼女の口元に掌を押し当てて…いつの間に近付いたのか、小太郎は夏芽の喉まで出掛かった言葉をやんわりと押し戻す。
「だから、解っているって言ったろう。…で、だ…。解っているから、改めて御忠言させて頂くけど…店の前でも言った通り…いや、事態がことここに至った以上はなおさらに…僕たちは一刻も早くこの場を退散した方が良いのじゃないかな。」
小太郎の冷静そのものな振る舞いに接していると、この場の空気の流れが、自分自身の頭の中でさえも、冷涼で調和のとれた状態へと変わっていく…夏芽は現実に、そんな理の中に居る。
そして、正当性と言う安定した説得力が確保された、小太郎の忠告は続く。
「夏芽の身になれば、ロビーでのこと…変に目立つ様な振る舞いをする事になった…その張本人の僕からこんなことを言われれば、それは当然不快だろうし、簡単に納得は出来ないのは仕方がないよな。でもそれを承知で、曲げてお願いできないか。一先ずこの店を出ることを…。」
淀みの無い語り調子からは、『今の』小太郎の知性と、集中力の高さを窺わせる。…しかし…あるいは、それだからこそか。…鬱鬱としていた時に比べて、口調は丁寧になっている様なのだが…なんとなく…慇懃無礼と言う程では無いにせよ…ある種の、底意地の悪さが見え隠れしている…。
それでも…少なくとも低姿勢では無いとは言え…掛け値なしの思い遣りを携えて、小太郎は丁寧に訴える。
「何も僕だって、理由が無くて言ってる訳じゃないんだ。夏芽も気付いたかもしれないけど、階段の上に立っていたスーツ姿の男性…あれ、間違いなく警察官だよ。」
小太郎の指摘に、気を張る様に肩を怒らせた夏芽が…彼の手の中でモゴモゴと呟く。
「どうして、そんなことが解るのよ…。」
「それ以外に今日、あんな目立つ所で、あんな営業妨害にしか成らない三枚目の看板を立てておく理由がないだろ。」
勿論、これは夏芽にも、あえて説明されるまでも無いことだったのだが…しかるに、これでは小太郎に言いくるめられ形で、夏芽も引き下がるしか無いのだろうか…。
小太郎が悠然と夏芽から手を離して、続ける。
「それに今しがた、別の警官が店内に入った様だし…。まぁ、おそらく顔は見られている。それに、夏芽は会員カードを提示してしまったから…向こうがその気になれば、僕らが今日ここに居たことは、すぐに調べが付くんだろうな。…それでも今、ここで警官と鉢合わせになるよりはかなりマシなはずだ…少なくとも、噂を広がる猶予は出来る。」
「どういう意味…。」
「今は表ざたになって無いようだけど、人一人蒸発したなんて事情は、必ずどこから漏れ出して噂になる。」
「それが、何…。」
夏芽は小太郎の隣の壁にもたれ掛かかった。小太郎は少し気を良くしたように、舌の滑りも滑らかに、
「そうなれば…噂なんて、いつから広まり始めたかなんて調べようがないだろ。仮に…今後、教師や、警察官に呼び出される様なことが有ったとしても、とりあえずは、『居なくなった友達が最後に居た場所だと噂で聞いたから、店に行きました。』で事足りるだろうしな。まっ、なんなら僕たちで噂をばら撒いても良いしね。」
「でもそれじゃあ、私の友達に迷惑が掛るんじゃないかな…。」
「それを言うなら、夏芽の会員証から、早い段階で一昨日の深夜に、カラオケ店に居たことが知れるのも十分に不味いんじゃないか。『穂塚』はあれでなかなかお堅い学校だから、悪くするとそれだけで、三人そろって停学なんてことも…あぁ、自分のことを忘れていた。四人そろってだな。」
努めてユーモラスな物言いをする小太郎の言葉が、手厳しく夏芽の心を鞭打つ。…実際に、ここが夏芽の窮地であるからには、小太郎にもまったく躊躇が見られない。
…どうやら、夏芽の心は決まったらしい…。彼女らしからぬ辛気臭い顔で俯くなり、
「ごめん…。」
受けて、小太郎が変化の無い落着きはらった表情に、満足げな笑みを浮かべて、
「いいんだ。それじゃ、まずはこの店を出ようか。」
…しかし、その笑みはすぐに打ち消された。
「ごめん…。」
夏芽の口からもう一度その言葉が発せられるや…小太郎は即座にそれを理解した。
「どうしても、この店に残るっていうのか…。」
夏芽は店の前で問答した時のように、強い意志を見せて、
「ごめんね。お店に入る前も言ったけど…私、どうしても引き下がれない。ここに、加奈子に繋がる何かがあるかもしれない…その可能性がある限りは、絶対に…。」
…これは…どうやら著者が間違っていたようだ…夏芽は今、決心した訳ではない。彼女は、この店に入る以前から、小太郎の意見すらもはねのける程の強固な決意を抱いていたのだ…。
その意思の強さが小太郎にも伝わったのだろう。小太郎は溜息を吐いて…だが、そうした割には驚くわけでも、怒る訳でも、取り乱しもせずに…変わらず平然として壁から背を離した。
「そうか、なら、仕方ないな。…じゃあ、僕は帰るけれど夏芽も気を付けて、状況が悪くなったと思ったらすぐに店を出るようにな。」
…まさか、小太郎の奴…夏芽を置いて帰るつもりなのか…。
こんな状況で夏芽を置き去りにするなど、少なくとも鬱状態の小太郎には出来なかったはずだが…だがしかしだ…この小太郎の理性的な表情を見ていると…どうやら、本気の様だ…。
それは確かに、『夏芽も帰って良い』、『どうしてもと言うなら一人でも…』と店の前で小太郎に言っていたが…それでも、いささか冷淡に過ぎるのではないだろうか…。
…鬱状態のときは優柔不断で、度胸も無い。それでも、思い遣りは深く、友達を心配する夏芽の心に、共感しようとする姿勢があった。
対して…躁状態のときは…行動力と注意力、そして集中力に優れ、その上、大胆に物事を運ぶ術を知っている。…だがその反面…酷薄で、無神経と取られかねない程に精神の安定度が高く…高すぎて、その異常さに浸りきっている。…その上、皮肉屋ときているのだ…。
人間どちらに進もと…例え、その先が『鬼人』と化す道だとしても…身に圧し掛かる欠点の重みからは、逃れようも無いのかも知れない…。
多分、それが正しいのならば…今、我が身を振り返る自己嫌悪と格闘しているのは、無神経な方の小太郎ではなく、夏芽なのであろう。
それは、小太郎が感じていたことも忘れたような『無力感』。そして…他人に頼りきりになることへの『後ろめたさ』…それでいいとは夏芽も思わない…絶対に思いたくは無いだろう。
だが、小太郎が看破した通り、夏芽にはなりふり構っている余裕は無いのだ。
そして、これまた小憎らしくも小太郎の読み通りになるのだが…夏芽は小太郎の『スイッチ』が入ったことを確認してからすぐに考えていたことを…実行しようと…いや、実行させようと…遂に、決断したのだ…。
夏芽は…今日だけで何度目になるか…それでも、前に発現したときとは百八十度異なった思いを込めて、繰り返し呟いた。
「ごめん…。」
と…。
「んっ。」
すでに、何の余韻を残すことも無く家路に就こうと歩み始めていた小太郎であったが…夏芽の囁いた、本日に限って言えば耳慣れた言葉の、声音に滲む含意に引き戻された様に…寸でのところで振りかえる。
「ごめんね、こたちゃん。…でも、帰らないで。…ううん、違うね…帰るな、相坂小太郎。」
にしても…小太郎もずいぶんと性格が様変わりしたものだ…。
夏芽の真剣さが、反って、どこか可笑しく見えたのだろう。軽く咳払いする様に、夏芽の思い詰めた表情を笑って、
「ここまで付き合って上げた僕に、報いる見送りの言葉が…僕の善意に見合った労いは、命令口調ですか。」
飄々として夏芽に軽口を飛ばす、小太郎。…本人がどう思っているかは解らないが、少なくとも興は再加熱されたらしい…また、のこのこと、小太郎は夏芽の元へ足を向けた。ここまでは夏芽の言葉選びの妙に軍配が上がったと言えよう。
ただ、言うまでもなく…この薄情者をその気にさせることが出来るかは、ここからのスピーチ次第である。
夏芽はずいずいと無遠慮に、息の掛りそうな距離にまで寄って来た小太郎に、闘志の燃える、迫力のある頬笑みを浴びせかける。
「命令…そんなことしないよ。ただ、思い出しただけ。スイッチ入ったこたちゃんも、スイッチ入って無い時のこたちゃんも、面倒見はいいけど、ある一線を越えるまではなかなか手を貸してはくれないタイプだったって…。」
「へぇっ、他ならぬ夏芽にそんな風に見られてたとは…刺激的だな。」
その熱気の薄い瞳の奥からは読み取りづらいものの、小太郎の口ぶりは…これはどうやら、結構、興味を引かれているようだ。…流石は夏芽。『こたちゃん』、『夏芽』と呼び交わし合うだけのことはある…。
「こたちゃんが私にどう見られてるのか気にしているなんて、私も驚きだよ。だったら、私と居る時くらい、もう少し髪をキチンとして欲しいかな。…跳ねてるよ、寝ぐせで。」
ここで、小太郎が薄笑いで髪をワシャワシャしている間に、一拍置いて…夏芽が立て続けに言葉の矢を放つ。
「後、もう一つ。忘れそうになってたけど…今のこたちゃんには、遠回しにお願いしても無駄だったんだよね。そんなんじゃ、こたちゃん本当は気付いていても、面倒臭いがって気付いてない振りして、避けられちゃうんだったよ…本当、無駄の無い、良い根性してるわ。」
小太郎は夏芽の言葉の矢を、やすやすと掴み取ると、
「褒め言葉として受け取っておくよ。それで…命令ではなく、はっきりと、夏芽は僕に何を『お願い』したいのかな。…あぁ、それと、誤解の無い様に言っておくけど…別に、僕が夏芽を置いて帰ろうとしたのは、悪意があっての行動じゃなくて、夏芽にとっては、悲鳴を上げて目立っている僕と一緒じゃない方が、都合が良いだろうと思っての事だから…そこのところは、悪く取らないでもらえると嬉しいな。」
悪く取るなとはどの口が言う…いや、それよりも、このタイミングで小太郎が言い訳がましい弁解をするとは…。…意外と言うか…案外と、小太郎にとって夏芽は…。
そんな小太郎の心中を、『はっきりと』どのように受け取ったのか…夏芽は優しい口元を見せて、頷く。
「うん、こたちゃんは『スイッチ』はいると意地悪だし、他人にはクール通り越してドライなとこあるけど、根っこはどっちのこたちゃんも変わらないのは解ってる。だから、お願い…さっきこたちゃんに言われた通り、そう、私、こたちゃんの『スイッチ』が入ると都合が良いなって…ううん、そうなることを最初から期待してた。でも、こたちゃんを利用しようとは初めっから今まで、一度も思ってないよ。私はただ、こたちゃんに力を貸して欲しい、助けて欲しいだけなの。…厚かましいこと言ってるのは解るけど、ここまで言わなきゃこたちゃんがその気にならないのを知っているから…それ以上に…いつだって最後には、『スイッチ』入ってるかどうかなんて関係なく、こたちゃんは私のこと助けくれること、知ってるから…。」
小太郎はどこか感情の透ける様な溜息を漏らした。
「あのねぇ…夏芽は、僕の逃げ場をそこまで丁寧に潰して、僕に何をさせる気なんですか。」
…馴染んできた表現の乏しい顔のせいか…小太郎があまり嫌そうでないのがこの際不思議ではあるが…なるほど確かに、夏芽の経験則は正しいようだ。ずいぶんと話が早い。
夏芽は胸に手を当てると、勢いのままに言葉を吐きだした。
「こたちゃん、お願い。私を加奈子の居た部屋に連れてって。」
小太郎は表面上、顔色を変えずに…それでも心なしか、困った様に、苦しそうに、つるりと頬を擦り上げると、
「そう言われてもなぁ。夏芽の願いを無下にするのは心苦しいけど…僕は『ランプの魔人』じゃないから、どんな無茶な願いも言われるがまま、叶えてやるって訳にもいかないよ。」
「嘘だね。」
打てば響く様に、あっさりと夏芽に言葉を打ち返されて、流石の小太郎も驚いて目を見開く。そんな小太郎の間抜け面に勇気づけられたように、夏芽が自信満々に言葉を続ける。
「無茶なんて嘘なんでしょ。だって、もし本当に無茶だなんて思ってるんなら…こたちゃんのことだもの…言い合いなんてする暇も与えてくれないよ。その上で私のこと引っ括ってでも、とっくに私をここから連れ帰ってるはずでしょ。…勿論、私の意見なんて100パーセント黙殺してね。…こたちゃんじゃなくても、私にだって解るよ…幼馴染の考えてることくらい…。」
夏芽に言及されても、小太郎の顔色は変わらない…だが、目線は逃げた…。そんな小太郎の態度に、夏芽はどこか嬉しそうに、安堵の吐息を吐いて、
「それとね、こたちゃんのお株を奪う訳じゃないけど…私にも、もう一つ解っていることがあるの。…こたちゃんさっきから、面倒くさそうに、早く帰りたそうにしてる。…それに、私のことこの店から連れ出そうとしてるけど…それって、私のこと追い出してから、自分ひとりでこの店の中を…加奈子の安否が解る様な何かを、調べようとしてくれてるってことじゃないのかな…そうなんでしょ、こたちゃん。」
小太郎はどこか詰まらなそうに、スルッと視線を夏芽の瞳の上に戻して、
「それは、夏芽の買い被りだよ…。」
と、呆れたように、鼻息で返すものの…その先の言葉が続かない。…そして遂に…。
「私が居ると、こたちゃんの邪魔になるかも知れない。…けど、これは私が自分の目で見ないと…こたちゃんのしつこい位に注意深いところ、信じてるけど…今度だけは、私以外の誰の目を借りて調べても、きっと後悔することになるから…ねっ、お願い。無茶苦茶言ってるのはもう、私が一番良く解ってる。それでも…やっぱり…駄目かな…。」
夏芽がいくらか不安そうな顔つきに成り掛けたのを契機に、さしもの小太郎も折れたようだ…。
「はぁ…解ったよ。解りましたよ。…その代わり、僕の都合もあるから…いよいよとなったら、夏芽を置いて居なくなるかもしれないからね。そうなっても、恨むなよ。」
小太郎の『始める』前から疲れ切った様子に、夏芽は元気づける様に肩を叩いて、
「うん、こたちゃんならそんな冷たい真似しないのは解ってるけど…大丈夫、もしもの時なんて無い様にちゃんと、こたちゃんからはぐれない様に付いて歩くからね。」
小太郎は再び呆れた様に頬を撫でた。
「それで、一つ目の願いは何でしたっけ、ご主人様。」
そう小太郎が『ランプの魔人』よろしく願いを聞くと、新米のご主人様はどこか照れたように、思い返す様に口許に手をつがえて、
「えっと、ね、願い…は、ねぇ。つまり、私は…そう、私、一昨日の夜に加奈子が居た部屋…ここの三階にある『303』の部屋に入りたいの。入って、加奈子の手掛かりを探さなきゃ。」
よし、これで二人の進むべき方向は定まった…しかしだからと言って、臨むべき場所に直行できないのもまた、世の常で…。
小太郎は腹が決まったからか、けれん味たっぷりに…まるで本物の従者がそうしたかのように、胸に手を当てて、恭しく首を垂れると、
「承知しました、ご主人様。…じゃあ、『303』号室に入れる様に、段取りは僕が何とかしておくからさぁ、ご主人様は駅中のコンビニまで一走りして、ミネラルウォーター買ってきて来て下さい。」
「えっ、だけど…。」
夏芽としては、今すぐにでも三階へと殴りこんで行く位の積りだったのだろう。それはそれは驚き、呆れて…それでも、とりあえずは…、
「えっと、ここの店のドリンクバーの飲み物じゃ…駄目かな…。」
もじもじと従者にお伺いを立てるご主人様に、『ランプの魔人』はにっこりと余裕の笑顔で答える。
「駄目。カラオケ店の飲み物なんて、かさ増しに不味い水道水が混じってるだろ。そんなもの、絶対にのまないからな…ほら、ご主人様、私は喉が渇きましたよ。だから、早く行って来てくださいな。」
「で、でもね。この店、多分、飲食物の持ち込み禁止じゃないのかな。」
「だったら、見つからない様に、服の中にでも隠して持ってくればいいだろ。さぁさぁ、急いだ急いだ、急がないと、心優しい『ランプの魔人』も家に帰っちゃうかもしれませんよ。」
ぎりぎりまで抵抗して見せた夏芽も、小太郎の声に尻を蹴飛ばされる様に歩きだした。
「解ったわよ。ミネラルウォーターだったね。…もう、なんでこんな立て込んでいる時に…。」
そうブツブツと呟く夏芽の小さな背中に、
「あぁ、二本ね。それから、螺旋階段の下を通るは避けた方が良い。遠回りになるけど、向こうから行ってください、ご主人様。」
夏芽は螺旋階段の方へ進みかけていた足を止めると、Uターンして、小太郎の前を通り過ぎる。その時に、ギロッと小太郎を睨んで行くことを忘れずに…。
「ていうか、なんで私がこんな…なんで使いっ走り見たいなことしなくちゃならないのよ。…まぁ、今日の私に、文句を言う権利は無いんだけど…。」
そんなことをブツクサ言っている夏芽の姿が曲がり角に消えると、やおら小太郎も…螺旋階段の方に…歩き始めた。
目の錯覚だろうか…その『逞しい』背中に…背中と言わず、身体全体に、ガラスの粉のような、砂埃のような黒い何かが、煙の如く纏わりついている…。
黒い粒子が蛍光灯のオレンジの光を、そして自らが放つ怪しい光を、乱反射させてキラキラと輝いている。小太郎は益々、多く、大きくなる黒い煙をお構いなしに…むしろ受け入れるか、さらには、集めるかのように淡々と螺旋階段の下へ…。
すでに黒い光の粒に覆い尽くされた姿で、小太郎は上を見上げ…そして、白い歯を見せて笑った。
(幼馴染か…僕も甘いよな、夏芽には…。まぁ、どうせ先の短い身なんだ。今更『力』だの、素性だの出し惜しんでも仕方は無いよな。…そんなこと正当化しようとする辺りも、甘いだろうけどね。)
小太郎は自分の心中に惚ける様に、可笑しそうに息を吐きだした。
そして、誰を見るでもなく、引き締まった顔で正面を見据える。
「それじゃあぼちぼち、愛しいご主人様の為に、一働きいたしましょうかね。」
その言葉が合図だったかのように…言い終えると同時に、まるで空気の中に溶けていくように、小太郎と彼を覆う黒い粒子の存在は掻き消えてしまった。
…織田健が何者かに暗がりで襲われ、昏倒させられたのは…この数秒後のことであった…。
[7]
小太郎が何やら暗躍している一方。千明と児玉警部たちはスタッフルームに陣取って、一昨日深夜の監視カメラ映像を確認していた。
児玉警部が千明に椅子を勧めている隣で、もう一人居る男性が…おそらく、彼が件の水上刑事だろう…映像を再生する準備を始めている。
水上刑事が背中を向けながら、随分古めかしいVHSデッキのスイッチを入れて、
「当夜の映像を真ん中の画面に映しますので、そちらをご覧ください。では、こちらの準備は出来ました。後はいつでも、千明お嬢様の良い時に始めさせて頂ければ…。」
そう言って首だけ振りかえって見せた水上刑事の顔は、児玉警部よりもずいぶん年上に見える。…それでもこの、画面の前に姿勢正しく腰掛けた、まだ少女の風貌の残る千明に対する侮りの気配は感じられない。
…児玉警部にしろ、織田健にしろ、そして、この水上刑事にしろ…皆一様に、千明に対してはある種の敬意を持って接しているように思われる。
それは彼女が、そう、所謂、『お嬢様』という強い後ろ盾を持っているから…それだけではなく、彼女自身が何か、強い…それもかなり強いであろう…『実行力』を備えているからだと見受けられる。
おっと…どうやら、その『力』の一端が、垣間見える様だ。
千明は水上に促がされ軽く頷くと…『力』を…いや、彼女たちが言うところの『鬼』を放ち始めた。
それは先程、小太郎が発していたのと同じ粒子。だが、決定的に違う事が有る。それは、輝く砂粒の様なものの色…。
小太郎のそれが『黒』であるのに対して、千明の『鬼』は『白』…いいや、正確には『白銀』である。
千明は小太郎の『鬼』よりも更に眩い、『白銀の鬼』を身体の周りで煌めかせて…しかし、小太郎の様に身体を覆う様な事はせずに、すぐに消えてしまう。
その僅かな時間だけとは言え、彼女の『鬼』に触れた児玉警部と水上刑事…おそらくは、彼も同類として千明の『力』の強大さを感じ取ったのだろう。二人はただただ息を飲んで、驚嘆している。
そんな圧倒的なものに包まれた空気の中、千明の準備は整った様だ。
「準備できました。始めて下さい。」
しかし、その千明の声にも…よほど彼女の『力』凄まじかったのだろう…水上刑事は痺れたように固まっている。見かねた、児玉警部が、
「水上さん、始めてください。」
「あっ、あぁ。では、始めます…。」
こうしてようやく、上映会がスタートした。
…と、その前に…目の前にある、これまた年期の入った三代のブラウン管テレビの、それぞれの役目と、内訳について説明しておこう。
まず、千明たちから向かって左側にあるテレビだが…これは画面が四分割されていて、今現在の別々の場所の監視カメラの映像を映し出している。その映像も、一定時間経つと別の場所の映像へと切り替わるように成っているようだ。どうやら、店内全域のリアルタイムの監視映像は、この一台でカバーしているらしい。
次に、三人が今、熱い視線を注いで注目している真ん中のテレビ。…これは、ビデオデッキをテレビに繋いでおり、後から監視映像の確認をするための専用のテレビとして置いてあるらしい。それを今、三人が使っている訳だ。
最後に、右端のテレビは…これは電源すら入っておらず。壊れているのか、それとも他の二台のスペアの積りなのか…ただただ、埃まみれの画面に、店員たちの荷物がてんでに置かれている乱雑なスタッフルームを描き出している。
それでは、千明の見ている真ん中の画面に話を移そう。
画面は、ある一台の監視カメラの映像がピックアップされているようで、分割されてはいない。それでも、映像事態がモノクロな上に、低解像度のブラウン管画面で再生しているので、なかなか細部までは見難い様に思う。
しかしながら、誰が見ても一目で解るのは、その映像がカラオケ部屋の並ぶフロアの廊下であること…そして、先程から十分近くも、人っ子一人その廊下を通らないこと…いったいこの映像のどこに、わざわざ千明が見るべき何者かが映っていると言うのだろうか…。
映像がさらに幾らか進んでから、ようやく画面に映った人物たちが…どうやら、夏芽と二人の友人たちのようだ。『303』号室の前に連れだって現れて、何やら中の様子を窺っている。
…今のが、零時十五分の定時連絡に、応答が無かったことからの行動とすると…三人娘が異常をスタッフに伝えに走り出したこの映像の時点は、おおよそ零時二十分頃になろうか…。
そしてやはり、夏芽たちが居なくなり再び無人となった画面にも、些細な変化すら見当たらない。
…と、ここで水上刑事が、ビデオの一時停止ボタンを押した。どうやら、見るべき部分は此処までだったらしい。
児玉刑事は固まった灰色の映像から、千明の方へと目線を向けて、
「どうですか。何か、見えましたか。」
千明は静止した画面に瞳を落したままで、
「えぇ、健さんの仰った通り、『鬼人』ですね。…間違いありません。」
児玉警部は千明の簡潔な回答にも、今一、要領を得ない様子で、
「やぁ…織田と言い、貴女と言い…実際、良く解るものですね。私には、何も映っている様には見えないのですけれどね。」
千明は顔色一つ変えずに、水上刑事に二、三分映像を巻き戻させると、
「見て下さい。今、三人の女性が…あれっ、女性は三人いますね。あぁ、調査中でしたか…それで今、画面の一人が303のドアを開け放って…ほら…。その場に居た人たちも気付いてはいない様ですけれど、ドアを開けた隙に蜃気楼の様な、靄みたいなものが出ていきました。児玉さんたちも御存じの通り、『鬼鎧』を纏う事が出来るならば、『透過迷彩』で自分の姿を見えなくするくらい訳無いですから…。それにしてもこれは、はっきり言って探し物に適した映像とは言えないですね。私でも、『鬼』で感覚を底上げしなければ、絶対に解らなかったと思いますよ。」
千明は唇だけで軽く笑って、
「それと、これは何でしょうね。画面に潜んでいる『鬼人』の姿が、辺りの風景に溶け込んだり、妙に立体的になったり…所々、『透過迷彩』の精度にばらつきがある様ですけど…どういう事でしょうか…。」
「あぁ、それは…。」
と、映像を千明の背中越しに眺めていた児玉警部が口を挟む。
「織田が言うには、『元々、大して鬼の制御が得意で無い所に、一度に大量の鬼を取り込んだため、内側に溜め込んだ鬼が燻ぶって、奴の透過迷彩を乱している。そのことが、この鬼人が死返しを行った良い証拠。」…だそうです。しかし、すごいものですね。『塊堂』に連なるものの洞察力は…。」
「そうですね。『鬼眼』の無い私には、流石にそこまでの事は解り様が有りません。…それにしても大野洋平が…いえ、犯人と目されている『鬼人』が『死返し』を執り行ったことが確定的となると…いよいよ今回のことを、『札付き(ふだつき)』の『鬼人』の起こしたちょっとした波風としておく訳にもいかなくなりましたね。」
児玉警部は千明の見解を聞くと佇まいを正して…それから、軽く微笑む。
「それでは今回の事件を、私どもの方でも『鬼人絡み』の事件として取り扱わせて頂きたく思います。この件に関しまして、『蒐祖本家』の御承認、頂戴出来ますでしょうか。」
児玉警部が、一層、仔細らしく千明に許可を求めた。
千明はそれに、警部の方へ向けて居住まいを正し…そして、奥底に白銀の焔を宿した瞳を向けて答える。
「私、蒐祖千明が、当主である父、康助に代わって承認します。」
その瞳の例えようもない程に苛烈な残光は…。どうやら、消えてなくなったと思われた『鬼』はこの場に、千明の内側に、紛れもなく存在している。そして…『鬼』とは『このような』現れ方もするもののようだ…。
児玉警部は、千明の瞳に揺らめく白銀を畏怖する様に、末頼もしそうに窺いながら頭を下げる。
「有難うございます。千明さま並びに当主のお許しを得まして、私どもも心置きなく職務を全う出来ようものです。」
…と、こうしてもっともらしい口上を述べ終えると、児玉警部はペロッと舌でも覗かせそうに、自分の口ぶりがさも滑稽だったと言いたげに破顔して、
「千明さま、ずいぶんお時間を取らせてしまいましたが、お陰さまで恙無く捜査を勧められそうです。それでは、迎えの車をすでに、店の前に待機させておりますので、そちらに…また、缶コーヒーとケーキと、いつも代わり映えしないもので申し訳ないのですが、車内に用意させていますので、どうぞ召し上がって下さい。」
千明はそんな児玉警部の申し出にも、瞳に憑いた『鬼』を落とさずに、
「いえ、お構いなく。」
と、さっきまでの彼女からは、少し感情に乏しくなった声で答えた。
それは、児玉警部には別段、珍しかったり、不思議に思う類の事ではなかったようだ。こちらは変わらず愛想良く、
「それじゃあ、水上さん、織田に連絡を…お嬢様を駐車場までお見送りするように言って下さい。」
…しかし、
「それより、児玉さん、お願いが有るんですが…。」
警部の見事な手際に待ったを掛けたのは…当然と言えば当然に彼女しかいない…『鬼』に憑かれた瞳も怜悧な、蒐祖千明嬢であった。
「事によっては、折角そちらで車を用意して頂いたのに…その御好意を無にすることになるかもしれませんが…今回の事件を起こした『鬼人』の捕縛…勿論、大野洋平がまだ生きていればの話ですけど…私にやらせて頂けませんか。」
この展開は児玉警部にも、水上刑事にも、真実、予想外だったようだ。
千明の放った、まさに爆弾発言に…二人は、動かない右のテレビの代わりでもするかのように、眼を白黒させて驚いている。
そんな警察官たちの狼狽をどう思っているのか…目下の千明の瞳からはそれすら、そして、なぜこのような申し出をしたのかさえも読み取れない…。
「当然、このお願いは私個人のもので、『蒐祖本家』とは関係のないものです。ですから、警察の皆さんの捜査に私が協力させて頂けるかどうかは、児玉さんの判断にお任せします。」
きっぱりと言い切った、千明。だからと言って、児玉警部としても当り前の様に、『ハイそうですか。お願いします。』とは行かないらしく…。
「しかしですね…こちらとしても、千明お嬢様のお手を煩わせるからには…立場上、それなりの手続きを経る必要がありまして…やはり、私の一存ではどうにも…。」
そんな苦しにそうに言葉を探す児玉警部に、千明は…境遇の磨いた技か…いかにも慣れた様に、適当な『理由』を投げ渡していく。
「もし、『蒐祖千明』個人を使うのが難しいのなら…『萩の会』の会長として、改めてお願いします。『サークル』の活動の一環としてなら、伝統として、家柄は考慮されない。会員の誰もが一介の『鬼人』として扱われることに成ってますから…これなら、どの方面からも大した文句は出てこないのではないでしょうか。」
千明はよほどこの件に御執心と見えて、矢継ぎ早に児玉警部に訴え掛けた。…それにしても、千明が何度も口にしていた『サークル』とは、どうやら『萩の会』と言うらしい。まるで、どこかの文学同好会を連想させる様な名前であるが…果たして、どのような性質をもった『サークル』なのであろうか…。
児玉警部がさも言い出しづらそうな表情で、髪を撫でつける。
「まぁ、千明さまのお父様を始めとする、『五つ家』の当主方は、その手のことを気にはなさらないでしょうが…むしろ、今度の件などは、我々の様な三下に任せるよりも、千明さまに任せたいとお思いになるでしょう…。それは、私ももっともな事だとは思うんですよ。…しかしですね、組織と言うのは、不便な場合もありまして…。」
あくまでも、お茶を濁す様な児玉警部の態度にも、千明は根気よく語り掛けを続ける。
「手続きを省いての急なお願いですから…不躾なことは重々承知しています。ですが、失礼だと解った上でお尋ねしますけど…確か、事が『鬼人絡み』と決まった場合には、捜査や、『鬼人籍』に登録されている『鬼人』に協力を依頼すること…それに、依頼する場合には、どの『鬼人』を使命するかの権限は児玉さんにあると…そう窺っています。でしたら、例え『鬼人』が私であったとしても…こちらから申し出でいる以上…児玉さんの承諾さえ頂ければ、私がこの『狩り』に参加することには、何の問題も無いはずですよね。…それでも、もし…御懸念が児玉さんの方に御有りなのでしたら…関係各所には、私の方から連絡する積りです。その時は、勿論、『萩の会』の会長として…。」
ずいぶん考えあぐねている様子だった児玉警部であったが、千明の言葉に、
(あぁ…実績作りも兼ねているのか…。)
口には出さないものの、何か、千明の執心ぶりに心当たりがあるのだろう。顔つきに腑に落ちた様な、納得感が見えた。
千明は瞳の輝きも、弁舌の発音も緩めずに、
「どちらにせよ、捕縛された大野洋平との面談、そして彼の意思の確認と…その内容によっては彼を『勧誘』することになるのは、私でしょうから…。こんな、手間を省力出来るくらいのことで協力を申し出るのも本当に、はしたないことと思います。ですが一つ、私にチャンスを頂けないでしょうか…。」
真剣に請う千明の顔貌には、それでも、媚びも、へつらいも見てとらない。これが生まれ持った品と言うやつなのか…それとも、生まれ持った『鬼』のなせる技なのか…。
児玉警部はもう決まっている返事をするのを…大人しく、千明のペースに預けるように、じっくり、一呼吸、二呼吸と間を置いて…それから笑顔で喋り出す。
「解りました。では、『萩の会』のメンバーである、蒐祖千明さんに御助成をお願いします。…あぁ、何、問題ありませんよ。千明さまからそれだけのお言葉を頂いていれば、どこに出しても、事後報告で事足りるはずですから。…でも、もしもの時は、お願いしますよ。」
千明にも自分の事情を児玉警部が組んでくれたのが解ったのだろう。腰掛けたままの姿勢ではあるが…千明は憂いの焔を宿した瞳で、深々と頭を下げた。
そんな千明の仕草に照れたのか…児玉警部が今度は、大袈裟に安堵のため息を漏らしてみせると、
「でも、まぁ…こちらとしても正直、千明さまの方から申し出て頂いて助かりましたよ。何せ、今度の相手は『死返し』を行ってる奴ですから…ねぇ、水上さん。」
呼びかけられた水上刑事も、猫背をパイプ椅子にもたれ掛けて、
「えぇ、今回ばかりは駄目かもしれないと…生きた心地がしませんでしたよ。それに、元気過ぎる新米が、無鉄砲なことをしないかと…うちの部署は心配の種が尽きないものですからね。心強いですよ、お嬢様が先頭切って下さるとなれば。」
と、ほぐれた顔で笑って見せた。
千明は…瞳が白銀色に揺らめいているせいもあって…何となくぎこちないが、優しげに口許をほころばせて年配の刑事応えた。
それにしてもだ…児玉警部と水上刑事のこの様子からして、案外と、この部署の人員は危険な立場にあったと見える。だが、それにしては…あのハリキリ型の健青年を始め、これまでの児玉、水上両捜査員の態度は平然としていたように見える。…こんなことには、慣れっこということなのだろうか…。
「それで、『萩の会』の方からは…まず、千明さま。それから、誰に来てもらえるんでしょうか。」
児玉警部が実務的な面に付け変えて尋ねた。…水上刑事もすでに、携帯電話で駐車場に待機している別の警察官に連絡をしている…。
そんなベテランの刑事たちの中に混じって、千明は見た目とは裏腹な逞しさで、忌憚ない会話を交わしていく。
「今回は私一人でやらせてもらえませんか。」
「…っと、仰いますと…『萩の会』からの増援は寄越すつもりはないと…。いえ、こちらは千明さまのお力をお借りできれば、それだけで十分ですけど…会の方の運営としては、よろしいのですか。」
千明は児玉警部の明快な質問に、気恥かしそうに、
「はい、こちらとしても…やっぱり、今回の『狩り』は危険度が高そうですから、下手に人数を増やさない方が良いと思います。それで、繰り返し厚かましいことを言って申し訳ないのですが…『狩り』の際にはぜひ、警察の皆様のご支援を頂きたいのですが…出来たら、特に健さんの…。」
児玉警部は快心の笑顔で、千明を励ます様に首を縦に振って、
「それはもう、喜んでお手伝いさせてもらいます。元々、千明さまに、そう、丁寧に御依頼されるまでもなく、それが私たちの職務ですからね。…それにしても、なぜ、織田をそれ程に…。」
聞かれて、いよいよ千明は気恥かしそうに…まっ、社交辞令の範囲でだが…、
「黙っているのも、何か後ろめたいので白状しちゃいますけど…実は、協力を申し出ようと思い立った時からずっと考えていはいたんです…今回の『狩り』で『サークルメンバー』に活躍の場を与えられないなら、『萩の会』OBの健さんにアシスタントをお願いしようって…健さんに頑張ってもらえれば、刑事として実績を作って貰えたなら、会の後輩たちにも何かとプラスに働いてくれるはずですから…すいません、身うちの事ばかりで。」
自然に火勢の小さくなった眼光で、照れ笑いする、千明。その華奢な姿に内包されたものに感じ入った様に、児玉警部は、
(まったく…この若さで如才のない。…織田の奴が羨ましいな。俺の世代にもこれだけ親身になってくれるリーダーがいたら…俺もサークルとやらに参加していたかもしれないな。…まっ、その後、間違っても警察官を志す様なことは無いだろうが…。)
そうしみじみ思う気持ちは、児玉警部だけではなく、水上刑事にも同じようだ。こちらも、出来の良い…それこそ、娘ほど歳の離れた千明に注ぐ視線は、意図せずとも慈愛に満ちたものになってしまう。
しかし…そんな、良い歳の男たちの恵比須顔を台無しにしてしまう事態が起きる。
「良いでしょう。こちらでも出来るだけ、千明さまのリクエストに添える様に…どうかなさいましたか。」
不意に、真顔に戻った千明の焼きつく様な白銀の眼光が、左のテレビ画面に注がれる。
そのただならぬ気配に、この場にサッと緊張の気が漲る…。
「千明さま…。」
再び呼びかける児玉警部に対して、千明はにわかに焦りのある声で、
「左の監視カメラの映像なんですが…さっきから、三階を映しているものの中に…健さんの姿が見当たらないんです。」
千明の言葉の言下に、水上刑事はテレビ画面に食らいつく様に映像を凝視し、児玉警部は携帯電話で健に連絡を試みる。…しかし、呼び出しのコール音が十回を数えても、健からの何の応答も無い。
児玉警部はコールを続けたままに、血の気の引いた様に見える白い顔で、
「水上さん。店の周辺の警戒をさせている署員から、数名、店内の警備に回る様に支持して下さい。それから、本署に補充人員の要請も…とりあえずの配置は、水上さんにお任せします。」
この間にも鳴り続けるコール音。それを聞く者たちには最早、焦りしかないであろう…。
水上刑事が興奮と、やるかたのない憤りに顔を紅潮させながらも、自分の指示に力強く首を縦に振るのを後押しされる様に…児玉警部はスタッフロームドアノブをガシリッと掴むと、
「じゃあ、俺は織田の状況を確認しに行きますから、後のことはよろしくお願いします。…千明さまも、申し訳ありませんが、安全が確かめられるまでは…。」
「児玉さん、私も一緒に行きます。」
児玉警部の言葉を待たずに、千明もすでにドアの前に居る。
「危険ですから、千明さまはここに居て下さい。千明さまの身の安全を守るのも…。」
と、児玉警部は一瞬、逡巡して見せたものの…千明の瞳で揺らめく焔を見止めるや…すぐに、自分の言わんとしていることの矛盾に気付いたらしい。自嘲する様に息を吐き、ドアの方に、右肩を落とす様に傾かせて、
「…そう言えば、今しがた千明さまに協力を依頼したばかりでしたね。それに、千明さまの程の『力』のある方の安全を、我々で保証しよう…保証出来るなんて、酷い勘違いでした。…いや、詰まらないことを言いました。では、千明さまにも御同行願います。…『私』の護衛を兼ねてということで…。」
児玉警部は姿勢を直す勢いそのままにドアを開け、足早にスタッフルームの外へ…もう、カウンターの外へ出て行っている。
その足取りに遅れまいと、小走りに付いて行く千明の顔は、困った様な瞳に、味のある苦笑…。
そんな二人を唖然として見送る女性スタッフには顔には、驚きと…なぜか、ほんの少しの怯えの…暗澹とした色が浮かぶ。
天井の高いロビーには…おそらく健の携帯電話のものだろう…三階から届く着信音の反響が、うるさく泣き喚いていた…。
[8]
織田健が『何者』かに昏倒せしめられ…だが未だ、スタッフルームの千明たちがその異変に気づいてはいない…その僅かな時間のこと…。
そこには、いつの間に上がったのか…三階フロアから悠然と螺旋階段の方に近づく、小太郎。…そして、簡単な作りの踊り場から見降ろすその先に…女性スタッフが何か言おうとするのにも気がつかない様子で、猛然とロビーを駆け抜け、外に走り出た夏芽の姿があった。
小太郎は満足そうに軽い笑気を吐くと、夏芽とは大違いの呑気さで階段を降り始めた。
ステップを踏みならす音に気付いた女性スタッフ…反射的に見上げた視線の先で、飄々とした顔で自分を見る小太郎の視線とカチあってしまった。
女性は見てはいけないものを見てしまったかのように、驚き、慌てて、首の筋を違えてしまいそうな勢いで真正面に向き直る。…まぁ、気持ちは解る…。
そんな、随分とつれない態度を取られた小太郎は、女性スタッフの強張った容貌にまたまた一笑を催すが…彼にしては思い遣りのある行動と言えるだろう…これ以上彼女に取り乱されない様に、取り済ましてカウンターの前へと歩み寄った。
多分、大半が女性スタッフの錯覚なのだろうが…この場に、嫌な緊迫感が溢れだす。
果たして、自分の目の前でニコニコと、朗らかに微笑む少年(まぁ、彼女にはそう見えたのだから仕方がない。)は、自分へどのような宣告をする積りなのだろうか。…先程、小太郎が高らかに悲鳴を上げた…その記憶も鮮明な女性スタッフは、小太郎の豹変ぶりに言い知れぬ不気味さを感じていても仕方がない。
女性スタッフが息を飲んで見詰めるその、当の小太郎は…彼女の胸中などお構いなしに、カウンターへさらに一歩、歩み出た。
女性スタッフは一層自分との距離を縮めた小太郎の存在感に、逃げ出したい様な衝動に駆られる。…でも、蛇に睨まれた蛙のように身体が動かない。
女性スタッフの中で、まるで死刑が執行されるのを待つかの様に、刻一刻と恐怖の時が刻まれていく。
そして女性スタッフが、恰も、これから自分が取って食われるかのように…自らの捕食される瞬間から眼を逸らす様に、ギュッと、かたく目をつむってその時を迎えたのだった…。
「…いいですか。さっき、チェックインの時に貰いそびれた端末を受け取りに来たんですけど…あの、大丈夫ですか、田上さん。」
目を閉ざした女性スタッフの耳に届いて着たのは、大口を開けた巨大生物の息遣いではなく…自分の身を気遣う、小太郎の優しげな声であった。
「えっ、何が…。」
本当に何を考えていたのか…女性スタッフは予想とは大違いの結果に戸惑った様子で、ほおけた様な、欠伸の様な声を上げた。
小太郎はその見た目とは不似合いな、包容力のある苦笑いを女性スタッフの方へ差し出して、
「だから、田上さんは本当に大丈夫なんですか。何ならお仕事の方はしばらく僕が代わりますから、田上さんは僕の代わりに、夏芽と歌ってきませんか。気が紛れますよ。」
そんな小太郎の冗談に優しく揺す振られている内に…ようやく、田上女史も正気に帰ったようだ。
一転して、カウンターに突っ掛かるように前のめりになって…慌てて、
「だ、大丈夫。そんな、心配して貰わなくても大丈夫だからさ。それに、仕事変わって貰いたいなとか思う事はよくあるけど、まさか見ず知らずの人に仕事押し付けて、その代わりに自分はカラオケだなんて…あれ、そう言えば、何で私の名前、知ってるの。」
と、女性スタッフは顔を赤らめて捲し立てる。…それにしても、少し馴れ馴れしいと思うのは気のせいだろうか…。
小太郎は、寝起きの醜態を見られたように顔を火照らせている田上を、いたわる様に、共感する様に、かえって可笑しそうにそのあたふたする姿を笑って見せる。
それから、ほんの少しだけ真顔に戻って、小太郎は女性の胸元を指さした。
「そこでずっと、宣伝してましたからね。場所が場所だけに、頭から離れなくて…。」
そう言って、田上に同調する様に、小太郎は照れ笑いを浮かべた。
エプロンの胸元に安全ピンで留められたネームプレート。そこには確かに、マーカーで極彩色にデコレーションされた真ん中に、でかでかと『田上』と律儀に振り仮名まで振ってある。
田上店員は胸元を隠す様にネームプレートを鷲掴みにすると、露骨に目くじらを立てて、
「なるほど、それでねぇ…ところで、その指は、もう下ろして貰っても結構よ。」
小太郎はさっきまでの夏芽相手の時とは別人のように、絶え間なく愛想良く田上店員に接する。
「そうですか…まぁ、そう言うなら。」
と、言葉だけは残念そうに言って、小太郎は人差し指の第一関節から順序良く、折り畳むように腕を下ろした。…やはり、『スイッチ』が入っていようと、話す相手が誰であろうと、小太郎は小太郎だ…傍から見ていると、何となく嘘っぽい…。
それでも、田上店員にとっては…それが自分の為に散りばめられ、ばら撒かれた嘘だからだろうか…小太郎のとの『距離』は気安いままに、カウンターの下から端末の入った籠を持ち出して、
「そう言えば、貴女の『彼女』の夏芽さん…今、お店の外に出て行っちゃったみたいだけれど、貴方はこんな所でのほほんとしてて良いのかな。」
そう言って、なぜか小太郎の方に籠を寄越そうとしない、田上店員…。小太郎はそんな田上店員の仕草に左の口の端を持ち上げて笑顔を見せる。
「あぁ、夏芽には…ちょっとお使いに行って貰っているんです。…あれっ、僕は田上さんに夏芽のこと話してないのに…それに、夏芽と僕が付き合ってるなんて、どうして解ったんですか。」
そう白々しい顔つきで尋ねる小太郎に…田上店員はブーツの踵を鳴らして、頬杖つく様にカウンターに前のめりになると、
「それ、わざとでしょ。」
そう言うと、仕返しだとばかりに今度は、田上店員の方が小太郎の眉間の辺り、鼻先まで人差し指を突き出した。
小太郎はその指先を見詰める様に、一瞬、寄り目をして見せて、
「何の事やら。」
その小太郎のあやふやな反応に、田上店員は得意げに歯を見せる。
「やっぱりねっ。駄目駄目、そんな見えすいた手で私を持ち上げようたって百年早いよ。」
「あらら、それは御見それしました。確かに、ちょっと見えすいてましたね。でも、夏芽と付き合っていることまでは言ってなかったはずですけど…。」
田上店員は指を下ろして、代わりにしたり顔を突きだすと、
「そんなの、見てれば解りますよ。どこの世界に、彼女でもないのにあれだけ甲斐甲斐しい娘が居るんだって話だよ。」
この田上店員の台詞には、流石の小太郎も苦笑い。…おそらく、これは小太郎の本心からの笑いではなかろうか…。
「でもいいのかな。折角、あんな可愛い彼女が居るのに…私なんかにちょっかい掛けて…。」
田上店員もかなり乗って来たようだ。本当に面白そうに、小太郎をからかっている。…自分が不自然にハイに成っていることに、彼女は気付いていないのだろう…。
小太郎は小太郎で、そんな田上店員の好奇心を、誘う様に、いなす様に巧みに巻き寄せていく。
「いやぁ、こっちとしては別にそんな積りは無いんですけどね。…それにこれは夏芽の為でもありますし…知ってるでしょ、夏芽のこと…。」
「えっ…。」
小太郎の何気ない問い掛けに、なぜか動揺を示す田上店員…。それには、小太郎も気付いたはずだが…素知らぬ風に、
「ですから、田上さんも知っているじゃないですか。夏芽が面倒見が良いってこと…。」
「あっ、あぁ…そうだね。で、それが、どうしたの。」
と、田上店員は小太郎の言い分に半分納得したように、先を促がす。…指先はリラックスしたように、知らず知らずにカウンターの縁を撫でている…。
小太郎は『隠し立てすることなど無い。』とばかりに、田上店員の視界の端、カウンターにその腕を乗せて…まぁ、少々、身長が足りていないのがつらい所なのではあるが…耳打ちする様に話しだした。
「だから、はるばるカラオケに来ているんだし、出来るだけ迷惑をかけない様にしたいんです。…それでなくとも、今日はもう、夏芽に迷惑掛けてしまいましたから。」
「なるほどねぇ…。」
と、小太郎の白状するような口調に、田上店員は残りの半分も納得したように…しかし、
「でも、夏芽さんに面倒を掛けないようにすることが、彼女の為になるっているのは少し大袈裟な様な…そうは思わない。」
小太郎は田上店員の諭す様な、窘める様な口調に…さわやかな、自身に満ちた笑顔を浮かべる。
「ごもっともですね。…そこで、田上さんにお願いがあるんです。」
そう言って、カウンターから身を離し、小太郎がスクッと姿勢を伸ばした。…その瞳の奥に…瞬きするほどの時間、『黒い焔』が揺らめいていたことに…田上店員は気付き様も無い…。
しかし、吸い寄せられる様に、魅入られた様に、田上店員も自然と起き直っていた。
「お願い。お願いって、どんな。あっ、何かサプライズのネタがあるから、彼女を驚かせるのを手伝って欲しいってこと。」
「いいですね、それ。夏芽を驚かせるのも悪くない。でも、僕の方はまったくアイディアが手ぶらの状態で来ていまして…それで田上さんには、夏芽を喜ばせる方法はないか…何をして上げるのが一番喜ばれるかを、考えてもらいたいんです。…あぁ、もちろん、考案者となって頂いたあかつきには…手伝ってもらえると有り難いんですけどね。」
「えっ、私が…そう言われてもなぁ。夏芽さんとは今日初めて会って、何の面識もない訳だし…。私じゃ何も思い付かないよ。」
「そんなことはないでしょう。」
小太郎のずけずけとした言い様が癇に障ったのか…田上店員は多少ムッとして、
「本当だよ。私、貴方の彼女と親しい訳じゃないから。」
と、何をどうしてそう言うに至ったのか、過敏な反応を示した。
小太郎にとってそれは…やはりこの男、田上店員に何かしているのであろうか…思惑どおりと言いたげに、大袈裟に頭を撫でながら、
「それは解ってますよ。でも、田上さん位に察しの良い人なら、もう夏芽の驚きそうなこと…それに、喜びそうなことも見当がついてるんじゃないんですか。」
田上店員は小太郎の言い様に、思いなおした様に、急に毒気を抜かれた様に我に返って、
「あぁ、そういうことね…。でも、それは、ちょっと思い付かないなぁ。そっちこそ、本当に何も考えてないの。」
田上店員は可愛らしく小首を傾げて、真剣味の窺える顔つきで頭を捻っている。…よほど暇なのか、それとも他人の事情に首を突っ込むのが趣味なのか…どちらにしても、店員と客の間柄で、行き過ぎているとは思わないのだろうか。
まぁ、それもこれも小太郎から彼女に請うた事であるし、別段、問題と言う程の問題でもないのではあるが…。
まるで品定めをするように熱心に、田上店員は小太郎に問い返した。それに、小太郎はごく自然に、相手に場所を譲る様に、
「それが実は…カラオケに誘われたのも、ほんの二、三時間前。授業が終わった途端に引っ張ってこられたんで…それも、わざわざ、学校の近くにも別のカラオケ店があるのに、ここの店を選んで…だからてっきり、この店でキャンペーンでもやっているものだと思っていたんですよ。…でも、田上さんには失礼ですけど、目ぼしいものは見当たらないし…有ったといえば、怖いお兄さんに睨みつけられた事くらいですからねぇ。」
「アハハッ、あれは災難だったよね。でもあの時、夏芽さんったら、三階に居るあの人を凄い目で睨み返したりして…私も、これはすごいなって思ったわよ。大切にしなきゃだよ、あんな良い彼女は…解ったらほら、休んでないで『夏芽ちゃん』の為にがんばんなきゃ。夏芽ちゃんがあえてここを選んだろうってことまでは解ってるんだから、そこまで解ってるならあと一息だよ。ほら、何かあるはずでしょ、彼女が言った事とか、匂わせていたこととか…。」
…まるで、ゲームの攻守が交代する様に、小太郎は田上店員との能動と受動の立場を、巧みに入れ替える。いつの間にか、小太郎を田上店員が急きたて、けしかけている様が当然のことだと、この場の空気すらも受け入れていた。…そう、何がおかしいかと言えば…この場を包む『空気』からしてすでに、不自然なのだ…。
それでも、それらの条件の全てを活かしているのは、紛れもなく小太郎の口先である事は…彼の舌の滑らかさを借りて語るまでもない。それに今は、小太郎は聞き手に回っている…。
「うーんっ、それらしいことは無かったと思うんですけどねぇ。」
と、いつまでも、煮え切らない様子の小太郎の態度。
そんな様子に、田上店員は、
「いやいや、必ず何かあるでしょ。ねっ、良く考えなよ。」
と、どこか焦れったそうにしている。…小太郎の言う通り、田上店員は何か知っているのであろうか…。
「やっぱり、僕には良さそうな案が思い付かないな。…だから、お願いしますよ、田上さん。女性の目線で、何か夏芽が喜びそうな事…有りませんか。」
再び小太郎にそう切り出されて、不意に、田上店員の視線が螺旋階段の上…三階フロアへと注がれる。そして…、
「…あのさ、君はさっき、三階の方から降りてきたみたいだけど…どうかしたの。」
田上店員の少し調子の下がった声に、小太郎は恐縮した様に、だがどこか厚意に甘える様に、
「見られてましたか。すいません、三階は使えないと言うのは、僕も夏芽の後ろで聞いてはいたんですけど…あの男の人…階段の上に立っていたあの人に、僕らが悲鳴を上げたり、睨んだりしで脅かした事を謝ったおかないとって思って…すいません、二人揃って営業妨害みたいな真似して…。」
田上店員は小太郎を放免する様に、柔らかく微笑むと、
「ううん、その事は別に、問題無いよ。…あの人、お客さんという訳でもないから…。それより、ちゃんと『あの人』には謝れたの…。」
「いいえ、それが階段を上がって、ちょっと見回してみたんだけれど見当たらなくて…まぁ、ずいぶん勇気を振り絞って謝りに行ったのに、空振りに終わったと言う訳です。」
そう、屈託なく…見える様に装って…恥ずかしそうに笑って…見せている…小太郎に、
「ふーんっ、今は居ないのか…。」
と、田上店員は口許に手を当てて、考え深そうに呟く。そして…。
小太郎に、打ち明ける様に、そして小太郎の『真意』を探る様に、口を開いた。
「あのさぁ、さっきは、少し矛盾してるなと思いながらも流してたんだけどね。…確認するけど、君はこれ以上、夏芽ちゃんに迷惑を掛けたくない。だから、彼女を驚かせ、喜ばせる様な…彼女が何がしたのかを知りたい…そうだったよね。でも、それって、何か順序が可笑しくない。」
田上店員は、そう言う笑顔のまま、それでも注意深く小太郎の返答の具合を見詰めている。
そんな有るか無しかの警戒感にも、小太郎は事も無げに笑い返すと、
「可笑しくは無いですよ。迷惑を掛けたくないのは本当ですし、驚かせたい、喜ばせたいって言うのも、田上さんが『サプライズ』って仰るのを聞いて、そう言うのも面白いなと思ったんです。それに、夏芽が何をしたいのか知っておきたいって言うの…これが一番ですね。御存じの通り、僕は度胸も無いし、粗忽者だから。夏芽が何をしようとしているか知っていれば、あまり迷惑を掛けずに済むかもしれないでしょ。それに、結果としてそれ自体が、驚かせ、喜ばせることにも成るかもしれないですからね。」
そう、ペラペラと流暢に答える小太郎に、田上店員はどこか呆れたよな、許すよう優しく微笑んで、
「度胸がないか…確かに、あの姿を見たら疑いようがない…。」
そう言って、ロビーの方を顎で示して…そらから、小太郎をねめつけるように目を細めて…、
「…っと、でも、私が言うと思った。もう、どこからどこまでか解らないけど…全部、演技なんでしょ。」
突如、語調まで変えて小太郎を詰問しはじめた、田上店員。小太郎はそんな田上店員の態度にも、これといった反応も示さずに、
「まぁ、僕も少しでも良く見られようとは努めてますからね。」
そうニコニコと応じる小太郎に、田上店員は…こちらも責め気が強い。能動の極地にありながらも…どこか楽しそうに、白い歯を見え隠れさせながら、
「また…それで、君の腹積もりでは、私にどんなことまで言わせるつもりだったのかな。」
「取りあえずは、三階に居たあの人が警察官である事。それと、田上さんは、夏芽が何で三階に上がりたいのかを知っているって事…それくらいでしょうかね。」
いけしゃあしゃあと答える小太郎の口ぶりに、田上店員は荒っぽく鼻息を一つ。
「なる程ねぇ。貴方達が始めに受付に来た時の夏芽ちゃんとの会話で、私は彼女が三階に上がりたがっていることを知っている。その前提で話している…様に装った言い回しな訳ね。賢い君のことだし、どうせ…私が、夏芽ちゃんが『あの事』のあった夜にこの店に居たのを、ちゃんと覚えていることも…解ってるんでしょ。」
「えっ、そうだったんですか。」
と、小太郎は、あえて『あの事』とやらには深くは触れずに、
「参ったなぁ。田上さんが夏芽のことを覚えていると解ってたら、夏芽を遣いになんて出さなかったのに…。それにしても夏芽のやつ、田上さんに見られていたのにも気付かないとは、とっぽいなぁ。」
田上店員は、小太郎の言葉を否定する様に、ヒラヒラと右手を振って見せて、
「それは仕方ないよ。あの日は、私、受付担当じゃなくて、清掃係だったから。こっちの方はともかく、夏芽ちゃんは騒ぎに紛れて、スタッフの顔になんて一々、気を配る余裕無かっただろうからね。だからね…そりゃあ君が頑張ってるのは見止めるよ…でも、彼女のこと責めちゃいけないよ。責めるんだったら、彼女の窮地に傍に居なかった、自分を責めるんだね。」
小太郎はいったい、田上店員にどのような鼻薬を嗅がせたのだろうか…。確かに、人に打ち明け話をされると、自分の事も打ち明けたくなるとは言うが…むしろ、今の田上店員と、小太郎の状況は…どう見ても、田上店員が一方的に打ち明け話をしている様にしか見えない。…しかも、ノリノリで…。
小太郎はそんなヒートアップした田上店員をさらにけしかける様に、わざとらしい口調でおどけて見せる。
「いやぁ、僕も出来る限り夏芽とは一緒に居たいとは思うんですよ。でも、女の友情ってやつは、思いのほか強固に出来ていまして、僕もなかなか切り込めずにいるんですよ。」
田上店員は腕組みすると、小太郎の軽口を鼻で笑って、
「ハッ、白々しい。どうせ、君は何一つ本心は言ってないんでしょ。」
そう言うと、田上店員はまた小太郎の方に前のめりになった。しかも今度は、小太郎の顔に息が掛る程に自分の顔を近づけて、
「嘘付いてるとまでは言わないけどさ…君のその話し方も、この場の空気も、私が君の思惑に気付いてるのも全部、君の演出…ねっ、そうなんでしょ。」
田上店員の束ねた髪が肩を滑り落ちて、後れ毛が露わに成る。
小太郎は…夏芽が疑った様に、多重人格なのかと疑いたくなる程に…眼前に迫った田上店員の瞳にも一切たじろぐ様子を見せず、かえって不敵な笑いで迎えていている。
「思惑だなんて、そんな…人に聞かれてどう思われようと構いませんけど…こんなに良くしてもらっている田上さんに誤解されるのは心苦しいな。」
そんな小太郎の素振りでさえ、今となっては、田上店員の楽しみの一つの様だ。小太郎とは対称的なさっぱりとした言い回しで、
「いや、それは流石に嘘でしょ。しかも、見えすいた…明らかに私に解る様なね。本当に、そういうの腹が立つわぁ。それに、見事なまでの雰囲気作りとか、いつの間にか、君の良い様に乗せられてる私とか…しかも、ギリギリのところで全部私に解る様な話し方を選んで、私に恥をかかせない様に気を使ってる姑息な心遣いとか…それ以前に、私は普段から、こんなに論理的に物を考えて生きてる訳じゃないの…何でか、君のそういう…何度も言いたかないけど…心遣いみたいなのがあること…。君は間違いなく私を騙そうとしてるくせに、私に対する悪意が無い事とか…どうしてか、伝わってくんのよ。そう言うところも、腹が立つけど…正直、お見事とも思うわ。…そう思う自分に、またもや、腹が立つ。」
「何のことやら、解りませんけど…もし恋愛マニュアルを出版するつもりなら、ぜひ連名でお願いします。」
どこまでも掴みどころの無い小太郎に、田上店員は姿勢を正すと、こった腰を解す様にストレッチしながら、
「はぁっ、私も、君に騙されてることは解ってるんだけどねぇ。でも、どこからどこまで嘘吐かれてるのかだけが、さっぱり解らない…。」
そう言って、腕を天井に向けて筋を伸ばした田上店員が、仕上げとばかりに、深呼吸のような深い溜息を吐きだした。
その様子を見ながら…スッと無表情に戻った小太郎が…いつの間にか、自分と田上店員の二人を覆っていた…仄暗く輝く、『黒い粒子』を自らの『内側』に引っ込めた。…おそらく、もう必要ないと考えたのだろう…どうやら、巨大な生き物に捕食される様な錯覚を覚えた田上店員の生物としての『本能』は…まんざら、間違ってはいなかったらしい…。
田上店員は何故だかストレッチの効果以上の解放感に、晴々と…そして少し冷めた様子で熱っぽい息を吐きだした。小太郎は味の濃い笑みを浮かべながら、仕上げとばかりに彼女に話しかける…。
「結構な事じゃないですか。僕は嘘なんか付いていませんけど…田上さんは騙されている積りで居れば、僕の本心を知らなくてもすみますから。」
「それ、言ってる意味が解らないのだけど…。」
「だから、それで良いんですよ。…言ってたでしょ、僕の気持が伝わってるのが解るのに、腹が立つって…。これで、万事解決ですね。それじゃあ、僕と夏芽のことを手伝って頂けますよね。」
小太郎はヌケヌケと言い放つと、こちらに引き寄せようと、端末の入った籠に手を掛ける。
…が、そうはさせじと、田上店員が憤懣を溜めに溜めた様なふくれっ面で、籠のもう一端に掴み掛った。
「何で私が、君達を手伝わないといけないのよ。…と、私としても…私の本心は言いたいはずなんだけど…。」
田上店員には、まだ、怒りをぶちまけるだけの不満が溜まっては居なかったらしい。…一転、煮え切らない様な、何か物足りなさそうな表情を浮かべて、
「まぁ、確かに、君は私に嘘ついたのかも今となってはあやふやの様な…何となく、私が勝手に、思い込みで、君の事を嘘つき呼ばわりしてた気もするの。それは、君が『嘘なんかついてない。』って言った事が正しいかもしれない。ううん、事実、それらしい事は言ってなかったよね。その事は、謝るわ。ごめんなさい。」
田上店員は小太郎との決戦を前に、後顧の憂いを断っておく積りなのだろう。申し訳なさそうに、でも、しかつめらしい顔を崩さずに、仁義を通した。
そんな田上店員の心の琴線を、小太郎は、
「そんな事、気にしないでください。こちらも否定しませんでしたからね。」
と、今となっては故意か、偶然かも解らないが…いや、十中八九は故意だろうが…無造作に掻き鳴らす。
…おっ、今の小太郎の態度が癇に障ったようだ。
田上店員は怒りのボルテージを上げて、小太郎の挟んだ茶々が無かったかのように、自分の言葉を続ける。
「だ・か・ら、事と次第によっては…私の聞いたことに君が、正直に答えてくれるんだったら…君たちのこと、手伝ってあげるわよ。どう、嘘つかないし、嘘っぽい空気も作らないって約束できる。」
小太郎に勿論、それを否む理由は無い。小太郎は無邪気な『作り』笑顔で、田上店員の言葉に、首を縦に振った。
田上店員は…未だ、煮え切らない内心を苦々しい笑顔で抑えつけながら…我慢強く、平静を装って、
「本当、言い性格してるよね。…で、君の大切な彼女の夏芽ちゃんも、私と同じ手で『落とした』のかな…。」
そんな意地の悪い、田上店員の質問に…小太郎は初め、キョトンとしていたが…すぐに、朗らかに、清々しく笑い飛ばして、
「まさか。夏芽は田上さん程には捻くれてませんからね。泣き落としで十分でしたよ。」
小太郎の最早、嘘か真か見当もつかない他愛無さそうな解答。
田上店員の吐きだしかけた溜息も…余りの、戯言っぷりに…途中から、軽い笑いに変わって空に浮き上がっていく。
田上店員は肺の奥深くから、小太郎への煩わしい憤懣を吐き出す様に、短い笑気を漏らした。
「たくっ、本当に口の下手ない子ねぇ、君は…。夏芽ちゃんも、君みたいな男の子に思われて幸せだね。」
そう言うと、田上店員は小太郎の胸を殴るかのように、力任せに籠を突き出した。
小太郎は咳きこみながら、籠を受け取る。
「そ、その…最後の幸せって部分…夏芽が、どんな場合でも俺を思い通りに動かせる事だって、勘違いしてないと良いんですけどね…。」
小太郎の胸を摩る姿と…本心か、定かでは無いのはいつもの事だが…少し、不貞腐れた様な言葉。それだけでも、少しは田上店員の溜飲が下がったようで…ニッっと、快活な笑顔を見せた。
「良い。言っとくけど、私が手伝って上げるのは、君じゃないよ。あくまで、君の夏芽ちゃんへの気持ちに免じて、彼女を手伝ってあげるんだからね。まぁ…夏芽ちゃんが何する積りかは知らないけど…君が一緒ならまず問題は無いだろうから…。」
と、何を思ったか、田上店員は最後に小太郎を信頼するような台詞を残した。…大人の女性とは、この様なものなのかもしれない…。
「それから…私は手伝うって言ったけれど、出来ることはせいぜい、君たちがどこに行こうと見て見ぬ振りする位だからね。そのことは解っておいてよ。」
小太郎は終始乱さなかった笑顔そのままに、
「助かります。…と言ってから、加えてお願いするのも厚かましいと思うんですけど…僕は一足先に三階に行って『準備』しているので…夏芽が戻って来たら、三階に追ってくるように伝えてもらえますか。」
まどろむ様に、田上店員はカウンターに寝そべって、小太郎に返事をする。
「それくらいなら…まぁ…いいわよ。…それにしても、三階に居た警察の人が居なかったって…。」
田上店員はカウンターテーブルに映るぼやけた顔を、可笑しそうに歪めながら、
「どうせ、その人のことも、君がどうにかしちゃったんでしょ。…あぁ、別に答えなくていいよ。君が嘘をついてないって言うんなら…私から、そうするように仕向けるのは可哀想だからねぇ。…そうそう、それよりも、君たちは103号室を使う事に成ってる訳ですけど…。」
と、田上店員は寝そべったままで、小太郎の右手に提がった籠を指さして、
「本当は、部屋を使い終わったら、改めてここに来てもらって料金を支払って貰うんだけど…もし、君も、夏芽ちゃんもここに『寄れない』ようだったら…そのまま帰っていいよ。君たちの…ううん、君のことを信頼して…今回だけは私が立て替えておいて上げる。あぁっ、でも、端末はちゃんと103号室に置いておいてよね。」
小太郎は、田上店員の幾重にも折り重なった有り難い厚情に、つくづく感じ入った様に…虚飾でしか無い笑顔を払い落すと、この男には珍しくなっていた真顔で、しみじみと、深々と頭を下げた。
その意外な感謝の表明に対して…田上店員は脱力したように、籠に向けられていた腕を下ろすと…ポツリと呟く。
「君のそういうところ、何かずるいなぁ…。夏芽ちゃんも…ううん、何でも無い…。」
小太郎は千明が見せた様な…生真面目さを結晶化した様な緊張感のある瞳で、本来の笑みを浮かべると…螺旋階段の方へと、背筋正しく歩き始めた。
その背中に、田上店員が余韻を惜しむかのように声を掛ける。
「あのさぁ…別に、お金を貸すことに成るかも知れないから、聞いておこうって訳じゃないけどさ…私には、君の名前くらいは教えて行ってもいんじゃないのかな…。」
階段に足を掛けて、田上店員の言葉を聞いていた小太郎は、
(夏芽がこの店で会員登録をしている以上、調べれば解る事だからな…。)
と、しばし天井を見上げながら考えて…そして、
「相坂小太郎と言います。親しい人は…っと言っても今は、夏芽だけなんですけど…『こたちゃん』なんて呼び方をされたりもしてます。」
そうれだけ答えると、小太郎はさっさと三階へと上がって見えなくなった。
田上店員はその姿を横目で見送って…次に、カウンターの上に寝そべった体を引きずりながら、パイプ椅子に腰掛け…店の入り口を静かに眺める。
それからまた、ポツリと呟く。
「…本当、ずるいなぁ…。」
小太郎が三階に上がってから程無くして、夏芽がカラオケ店の入り口を潜る。
ロビーを一望して小太郎を探し求めながら…洋服のお腹の部分を抑えているのは多分、ミネラルウォーターのペットボトルを二本も隠し持っているからだろう。
そんな夏芽に…彼女がぶつくさと小太郎への文句を言い出す間もなく、田上店員の声が掛る。
「…ちょっと…夏芽ちゃん…。」
突然、誰とも知れない潜めた声に自分の名前を呼ばれれば、それは驚く。
夏芽も当り前の反応として、慌てって辺りを見渡して…そして、カウンターの田上店員がニコニコ笑いながら手招きしているのに気付いた。
夏芽は早足でカウンターに歩み寄ると、
「あの…。」
不安そうに語りかける夏芽に、訳知り顔で微笑みかける田上店員が、
「『こたちゃん』から伝言だよ。三階で待ってるから、貴女もお出でってさ。」
夏芽は…ほんのわずかの間、自分がこの店を離れている間に、受付のお姉さんからメッセンジャーに変わった田上店員の態度に…それこそ、驚いた。…しかし、
「あっ、あの…ありがとうございます。」
と、田上店員に礼を言うと、碌に何も聞こうとせずに…小太郎を追って螺旋階段の方へ…。
田上店員はその後ろ姿を微笑ましそうに、見詰めて…、
「へぇ…やっぱり…何にも疑わないで行くんだね。」
その声に、自然と階段を半分ほど上っていた夏芽が振り向く。
田上店員は不思議そうに自分を見つめる夏芽に、可笑しそうに、嬉しそうに笑顔の皺を深めてエールを送る。
「聡明で、傲慢な彼氏によろしくね。」
田上店員はそれだけ言うとそれっきり、優しい笑顔のまま正面を向いてしまった…。
夏芽が三階に上がると、そこは…意外や意外、音楽で溢れかえっていた。
三階フロアの使用を控える様に、警察の方からお沙汰が出ているはずなのだが…。これは、許しさえ出れば、その場で三階フロアの営業を再開させようという、店側の意気込みだろうか。…だとしたら、迷惑この上ない話だが…。
さて、店の経営方針にいちゃもんを付けている間に、夏芽が小太郎を発見したようだ。
螺旋階段を上がってすぐ右手、そこに連なって配置させたカラオケルームと、長く伸びる廊下…その、ちょうど真ん中の辺りで、小太郎が端然としてこちらを見ている。
夏芽は一度辺りを確かめてから…全力疾走で小太郎のもとへ駆け寄った。
荒い息を吐いて、服の中からミネラルウォータを取りだす夏芽に、小太郎は眉一つ動かさないで、
「御苦労さまでしたね、ご主人様。お代は勿論、そちらが持つという事で…。」
小太郎は涼しげな顔でそう言うと、おもむろにペットボトルを受け取ろうと手を伸ばす。
一方、そんな小太郎を恨めしそうに睨んでいた夏芽は、小太郎の手が伸びてくるや…バッ、両手を上げて、ペットボトルの奪取を阻止する。
「それで、こたちゃんはこんな所に突っ立って…どうしたの、あの階段の上に立っていた男の人とかは…。」
言い切ってから、ようやく、夏芽は大きく息を吸って…小太郎の解答を待つ。
小太郎は口許だけで簡単に笑い返す。そして、さも当り前の様に、
「どうしたって…無論、『どうにかした』んだよ。ご主人様の御所望の通りにね。」
夏芽は小太郎の話を聞きながら…息を吐いて、吸って、
「ていうか、その『ご主人様』っての止めてね。私、これでも必死なんだから。」
と、夏芽が答える息遣いを面白そうに見つめる、小太郎。夏芽は不愉快そうだが…とにかく、質問を再開する。
「まっ、どうやったかは、もういいわ。…聞いたら聞いたで、後が怖そうだし…。それより、あの受付の人…あれは何なのよ、あれは…何で、私の名前とか、こたちゃんのこととか知ってんのよ。まさか、あんたが教えたんじゃないでしょうね。」
小太郎はどうやら、夏芽からミネラルウォータを受け取る事を一先ずは諦めた様だ。先に立って…いよいよ…ずいぶん掛ったがいよいよ侵入する…303号室へと近づくと、
「そうだよ。それ以外に、その人が僕たちのことを知っている理由がないだろ。」
小太郎にそう、白けた様な顔で言われたのが余程腹に据え兼ねたのだろう…もとい、小太郎の軽率のきらいのある行動が許せなかったのであろう。夏芽は顔を真っ赤にして、
「ちっ、ちょっと、何てことしてくれてるのよ。わ、私が折角、私や、友達や、こたちゃんが、後から困ったことにならないように…出来るだけ、目立たない様に…いや、別にロビーでのことを責めてる訳じゃないんだけど…でも、この店の人に三階に上がる手伝いをさせるは、私たちの名前を話すは…私のプランを全部ぶち壊しだわ。どうしてくれるのよ。」
と、大声で捲し立てる、夏芽。…もし、彼女が自分の『プラン』とやらを振りかえる日が来るとしたら…きっと、こんな状況でも各部屋の設備を稼働させていてくれた、店の経営方針にかんしゃすることであろう…。それにしても…夏芽の口走しった『私や、友達や、こたちゃん』の順番が少々気に成る…。
しかし、まぁ…そんなこんなは、小太郎にとっては大した驚きにも、呆れる理由にすらなってはいなさそうだ。
小太郎は至って冷静に、当り前の事をほざき出す。
「目立ってしまったことは、さっき謝ったから問題にしないとして…そうは言うけど、こうして店内に居るからには、監視カメラからは逃れられないんだし、有る程度は諦めが必要になるだろうな。」
と、言いつつも、後から小さな声で、
「まぁ、カメラに関しては最低限の対処は試みてますけどね。」
最後の呟きは聞こえなかった様子だが、小太郎に諭されて夏芽はたじろぐ様に反論に詰まる。
そういうことで、言い訳としてはこの辺で十分…あるいは、この辺で許しておいてやるべき…なのだが、『スイッチ』の入った小太郎はなかなか几帳面な性格らしく…無情にも、夏芽の手番を待たずに詰めに掛る…。
「名前の事に関しても、同じようなものだよ。夏芽が会員証を使った時点で、どう隠し立てしようと、警察がその気になれば必ず明るみ出ることになる。それと、受付の女性の方から、進んで警察に僕たちの事を話し様な事は無いから。断言するよ。」
小太郎の、学生でありながら教師の様な、極め付ける様な口調。
夏芽はペットボトルを掴んだ両腕を、重そうにぶら下げながら、
「何だか、嫌に強気だね…まぁ、今に始まった事じゃないけれどね。…で、自身あるのは結構な事だけど、根拠は有るんでしょうね。」
「根拠と言える程のものは無いなぁ。でも、僕が誠意を込めて(『鬼』も込めて)説得したから…大丈夫なはずだよ。」
「なるほどね。また、口先三寸と、催眠術まがいな何かで、言い包めて利用したって訳。…確かに今回は、私、そんな方法で道が開けたんだとしても、お礼を言わなきゃいけない立場なんだろうね。でもねぇ…こうも被害者が続出すると…誰もこたちゃんに丸めこまれてる事に気付かないから良い様なものの…私、このままだといつか、幼馴染が訴えられることになるんじゃないかと、心配で、心配で…。」
小太郎は303号室のドアに取り付けられた窓ガラスから中を覗いて、ニヤリと笑う。
「心配してくれるのは嬉しいよ。特に、それが夏芽なら…。でも、杞憂だよ。僕は人を騙して何かを強いるような事はしてこなかったし、それは今日の受付の女の人に対しても変わらないよ。それでも、彼女が夏芽の事を手伝ってくれたのは、僕の『熱意』が伝わったことと、それと彼女の厚意が理由だろうね。感謝しないと。」
当然、いつもの夏芽なら、小太郎に上の空で、擦りガラスで隠された様に真実味のない戯言を並べられれば、お叱りのお小言の一つも有りそうなもの…。今度も、例に漏れずに夏芽は小太郎に突っ掛かって行く…が、それは、小太郎の与太話の被害者を増やさないがためでは無い。…して、その理由と言うのが…。
「あぁっ、そうだ、『彼女』。彼女って言えば…なんで私がこたちゃんの彼女になってるのよ。」
夏芽は自分の大きな声に少し照れたように頬を赤らめて、ボクサーの様に、ペットボトルを握った右手を小太郎の顔面に向けて差し出した。
小太郎は相変わらず、顔までは後5ミリ程の近さというところまですっ飛んできた拳にも、何のリアクションをも見せずに、
「あぁ、それは、向こうが勝手に勘違いしたんだよね。それで、話を進めるのに何かと都合が良かったんで、あえて訂正しなかった。ただ、それだけだよ。」
小太郎が…何も…気にしていない風だったからか、夏芽は少し恥ずかしそうに、拳を納めると、
「で、でもさぁ…それって、騙すつもりが無かったっていうのとは矛盾しない…。騙すつもりが無いなら、そこはやっぱり、多少は面倒でも訂正しないと…ねぇ。」
そう、口の中でもごもごと呟いている夏芽を、小太郎は黒い瞳で見つめながら、平静に…だが、どこか可笑しそうに…ドアのレバーハンドルに手を掛けた。そして、少し、間を置いて…、
「まぁ、夏芽の言う事にも一理あるね。だけど…田上さんには本音ばかりを話していたからな…一つくらいは、勘違いしたままにしておくのも、悪くはないんじゃないかと思ったんだ。」
…あえて説明の必要もなく、相坂小太郎とは文句なく、イイ性格をした野郎だ…。
そして、小太郎はイイ性格している訳であるから、必然的に…夏芽の小言の出掛かっていた口を閉じさせるべく…ハンドルを捻り、ドアを開けた。
「じゃあ、話も済んだところで…夏芽は、それこそ一刻一秒が惜しいんだろ。それじゃあ、邪魔が入る前にやることやってしまおうじゃありませんか、ご主人様。」
小太郎の軽妙な軽口の向こう側…重いドアが開いた瞬間に、部屋に密閉されていたあらゆるものが這い出してくる。
…耳を打つ機械的な音楽…そして、顔に当たる風…。
…おそらく、夏芽は生涯忘れる事が出来ないだろう。
…この匂いを…この悪臭を…。
…大切な友人の、死を告げる香を…。