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第四話 その四

[35]

 鬼人(おに)の振るう膂力とはかくも破壊的なものなのか…。

 路地裏を抜けた先にあったはずの、文明の歪を体現した様な作業現場。そこが今や…辺り一面に朝焼けの色を纏った、葦の長い草原の様な景色にも…まぁ、想像力を働かせれば見えなくもない。

 そして、何やらきな臭い匂いがして来たと思えば…瓦礫に埋もれた一角が持ち上がっていくではないか。

 「お疲れ様です。正直、助かりました。なにぶん、片手が塞がっているもので…。」

「お前が俺に礼を言う必要はないだろ。天井を持ち上げてるのは俺だが、俺を持ち上げてるのはお前だからな。…よっと。」

 洋平は大きな石畳の様な、十数秒前まで天井だった物の瓦礫をわきへと投げ捨てた。

 「話が中断してしまいましたね。…確か、最後に貴方が仰ったのは…貴方の中のもう一人の鬼人(おに)が…というところでしたよね。それは…んっ…。」

と、黒い鬼人(おに)が何かに気付いて、左に首を向けた。洋平は…結局は何も変わらなかったという事か…黒い鬼人の右手首を両手で掴み直してから、同じ方向に視線を向ける。

 「ほんのちょっとは、死んだんじゃないかって期待してたんだよな…生身だし…。本当、素直にスゲェなと思ったわ、今度ばかりは…。」

 そんな洋平の憎まれ口が聞こえていたのだろうか。瓦礫の中からむくりっと起き上がった千明の表情は…お嬢様とか、女子高生とか、女の子とか…その手の有り余る物が吹っ飛んだかに思えるほど、もの凄まじいものであった。…無論、女性と言う常識的な範囲内で…ですけどね。

 千明はぜーはーぜーはーっと肩で息をしながら、その華奢な背中で、崩落した天井の一部と(おぼ)しき瓦礫を跳ね上げていく。見れば、洋平が持ち上げたものの一回り余の大きさはあろうかと言う難敵。

 しかし、そこはやはり鬼姫の貫録勝ちである。

 千明が背負った瓦礫を屈伸の威力で後方へと弾き飛ばすと…、

「おぉっ。」

と、すっかり野次馬を決め込んでいた野郎二人から、感嘆の声が上がった。まぁ、それも無理は無いかも知れないな…。何と言っても、流石の黒い鬼人(おに)でさえも思わず冷やかそうと…もとい、感心したように、

「見て下さいよ。あれこそ、鬼人(おに)の中の鬼人の…まさに鬼姫と呼ばれるに相応しい威容じゃないですか。」

 そして洋平も、あまりの驚愕に口を塞ぐのも忘れて、

「あぁ…そりゃあ…そうだような。スッゲェなあれ…。」

 さて、ではここで、僭越ながらこの著者が、黒い鬼人(おに)の言うところの『鬼姫の威容』とやらを解説させて頂こうと思う。

 身長165センチ程度の小柄な身体で、落盤事故と言っても通じる規模のこの状況を乗り切っただけでも相当のものだが…ここで、なぜ彼女が両腕を瓦礫を起こさずに、背中でそれをやったのかに注目して頂きたい。

 その方が力が入るから…なるほど、細腕を使うよりもそちらの方がより大きな力で瓦礫を押しのけられるだろう。だがしかし…彼女は鬼姫なのである。

 黒い鬼人(おに)も、洋平も、千明が瓦礫を生身で押しのけて見せたことは驚きだったであろう。とは言え、それが彼の想像の範囲を逸脱していたかと問われれば…さにあらず。

 ならばいったい何が、彼らをかのように驚嘆せしめたのであろうか。…そう、その答えこそがまさに彼女の両手に…そして彼女がその腕力ににもの言わせることが出来なかった理由へと繋がっていくだ。

 …と、大袈裟にのたまってみたが、実際のところは、起き上がった時点で彼女の両手が埋まっていたということに過ぎなかったりもする…しかしながら、その様相たるや凄まじいものがあるのだ。

 左手には金属のプレートを、恰も、マジシャンがトランプをそうするかの如く指で挟み込み。右手には鉄筋から、赤錆びたワイヤーまで、一纏めに握り締めている。おまけに、ぼさぼさに乱れた黒髪に、粉塵まみれに成っていると来れば…これはもう、鬼神かと見紛うばかりの迫力。

 これならば、丑三つ時に、藁人形に釘を打つ白装束の女も裸足で逃げ出すこと間違いなし。そしてこれだけものの見事に両手が活用されているのであれば、女らしさなどは十万億土の彼方(かなた)に投げ捨てられて当然のことなのである。

 …と、まぁ、馬鹿な長広舌はこれ位にして…千明の怒りの矛先がまかり間違って此方(こちら)に向く前に、話を進めさせて頂きます…。

 千明は両手に携えた建材を放り捨てる。そして口を開けて…溜息かと思いきや、大きな欠伸を一つ。その拍子に瞳が潤んだ。

 千明は薄汚れた手を服で拭うと、ポケットからハンカチを取り出して…汚れていなことを確認の上、剛力無双とは相反する一面を見せるかの様に、ハンカチを優しく瞼へと押し当てた。

 それから…ここで、黒い鬼人(おに)と、洋平の、物見高そうな視線に気付いたらしい。千明はギロリと二人をねめつけると…『こっちでやれ。』と命じる様に、顎で路地裏の方を示した。

 そうして千明は、『二人の返事など聞くまでも無し。』と、瓦礫を踏みしだきながら一人、先に路地裏の方へと歩いていくのであった…。

 頭の上に被ったコンクリートの粉を落としながら歩く、千明。そんな彼女の後ろ姿を紅黒い瞳で追い掛けながら、

「鬼姫さまは、『ああ』仰せに成っていますけど…どうしますか。僕の方が貴方に付き合っている訳ですから、貴方がこのまま足場の悪い状況で『遊び』たいとお考えなら、それに従いますよ。」

と、可笑しそうに黒い鬼人(おに)

 洋平は、紫鳶(むらさきとび)の瞳で、路地裏の端に積まれた鉄骨に再び腰掛けた千明を眺めて…、

「別に、どこがコートかなんて決めなくても、今まで通り全面つかってやりゃあ良いだろ。」

 「まぁ、それもそうですね…。」

 黒い鬼人(おに)が洋平の方に向き直って応えた…。

 「けどまぁ、とりあえずは、鬼姫さんの顔を立てて、向こうで仕切り直しといくか。」

 その洋平の提案に、黒い鬼人(おに)は含み笑いも忍ばせずに、

「それじゃあ、いったんはこのままで、僕が貴方をあそこまで運んで差し上げればいいんですね。」

 「舐めんなって言ってんだろ。だれがこれ以上、お前を楽しませるために恥の上塗りをしてやるかよ。」

 そう言って洋平は、一層、黒い鬼人(おに)手首を強く握りしめた。それこそ…その爪が腕の奥深くまで、深々と食い込んでいく程に…。

 「どういう心境の変化があったんでしょうかねぇ。…随分と爪の使い方が良くなってるじゃないですか。」

と、黒い鬼人(おに)は相変わらず淡々と呟いた。だが、その右腕は洋平の爪の侵入を何んとかして堪え様と、黒い()をこれまでに無いほど濃く、そして腕の内部の広範囲へと行き渡らせている。

 そのせいで、黒い鬼人(おに)の右腕が、左腕よりも大きくなって見えた。

 洋平は強く発光する鬼鎧(きがい)の中でも、一際まばゆい光を放出している尾を振り上げて、

 「今なら『これ』でも、お前の鬼鎧(きがい)を貫いて、内側の肉体に届くかもな。あそこに座ってるモルモットの犠牲を無駄にしない為にも…いっちょう、試してみようぜ。」

 洋平はそう言うと返答も待たずに、毒々しさの増した針を先端に備えた尾を、黒い鬼人(おに)の心臓へ一直線に打ち出した。

 黒い鬼人(おに)もその提案に応じる前に、左手で洋平の尾を掴み取って、

「遠慮しておきます。少なくとも貴方の『能力』は御しきれるでしょうけど…鬼鎧(きがい)の内側に入った貴方の毒素を中和しながら、外側では貴方自身の相手をするというのは…少々、きつそうだ。」

 これは暗に、洋平の毒針が自分の鬼鎧(きがい)を貫通しうると、黒い鬼人(おに)が認めたとみて間違い無かろう。

 それを裏打ちするかのように…黒い鬼人(おに)は更に、左の中指で局所的に洋平の尾を締め上げ、切断した。

 その上、千切れ落ちた尾のアーム部分を蹴り飛ばし、瓦礫の中に紛れ込ませる徹底ぶり。

 洋平は…黒い鬼人(おに)に掴み取られた後は、尾にまったく力を入れていなかったことからも解る通り…この一連の黒い鬼人(おに)の手際に動じる様子も無く。それどころか、清々したとでも言いたげな語気で、

「最低限の力で、お望み通りの効果をあげるか。器用に鬼鎧(きがい)を…いや、内心をコントロールするもんだな。」

 「そんな大層なものじゃないですよ。貴方の尻尾の一撃に、受けて立つだけの度胸が無かっただけとも言えるでしょうからね。」

「それでも、俺の尻尾をきっちり握れたのは、冷静に俺の()の流れを感知した結果だろ。やっぱ、お前ほど鬼人(おに)らしい鬼人は居ないんじゃないか。…勿論、鬼姫さまみたいな正攻法とは真逆の意味出だけどな…。」

 黒い鬼人(おに)は洋平からの高い評価に対して思わず…嫌味な笑いの衣を僅かにずらして、どこかくすぐったそうな笑気を漏らした。

 「僕に尻尾の毒素が効かないものだから、褒め殺しにしようという魂胆ですか。…それなら、危なく術中に嵌ってしまうところですよ。これは、鬼鎧(きがい)だけじゃなくて、プライドの方も引き締めて掛らなくてはいけませんね。」

「お前の好きにやれば良いが…これでもかってくらい上手く、鬼姫さんを引き合いに出す地均(じなら)しをするよな。お前の内心がそれだけ毒気に溢れてりゃ、多分、俺の毒が効かないのも通りだろうよ。…ていうか、そもそも…。」

 洋平は一拍開けてから、思い出し笑いを少々。それから言葉を継ぐ。

 「俺の尻尾の毒だけどな…。あれ、今から思えば、弱いものいじめとか、俺より強いやつへの嫌がらせくらいしか、こと闘いでは使えそうにない『能力』だからな。タイミングよくお前にまた断ち切ってもらったことだし、すっぱり、人生最後の大一番で頼りにするのは諦めるとするよ。」

「良いんですか。僕は、治癒の難しさから相手に継続してダメージを与えたり、獲物を確実に仕留めるための『能力』っていう切り札としての存在感とか…動物的でなかなかバランスが良いと思っていたんですけどね。」

 「お前…ちょっと前にはあれだけ人の『能力』のことを扱き下ろしたくせしてよう…。まぁ、今なら、お前らが口を揃えて『大したこと無い』と囃したてた理由も解らなくはないけどな。だが、それを抜きにしても、俺は尻尾の『能力』には頼りたくないと思っただろうけどな。」

と、洋平は尻尾を、自分と、黒い鬼人(おに)の前でゆっくりと持ち上げた。

 その切断面は良く磨きあげられた様な滑らかさを持っており、一目でその先に繋がっていた部分があったことを推察するのは困難であろう。

 それでも、洋平は現状では不満足だと…まるで、傷口を朝日で焼き清めるかのように尾を掲げる…。すると、氷を圧縮する様な鈍い音とともに、尾の先が内側にくぼむ様に小さく潰れた。

 (『能力』を使わない…その、意志表明ってこと…。)

 粉まみれという…なりのみすぼらしさを払拭するかのように、千明の白銀の瞳が視力が、鋭く洋平の動向を読み解く。

 そして黒い鬼人(おに)も洋平からのアピールに応えて、

「何もそこまでしなくても…。だいたい、そんな真似するまでもなく、『死返(まかるがえ)し』を執り行った貴方に、尻尾の再構成という離れ業は二度とは出来ない事くらい解っていますよ。」

 「…『だから仕方なく現状に甘んじている』…っとかな。お前たちに…まっ、特にお前にだな、そんな風に思われたくねぇんだよ。精神衛生上。それに、『遊び』とは言え、これだって勝ち負けのある勝負ごとには違いないからな。」

 黒い鬼人(おに)は『ふーん』と面白そうに、感心した様に鼻を鳴らす。…それから噛み締めた口元から笑いを漏らして、

「それじゃあ、尻尾の『能力』の優劣で言えば、僕の方に軍配が上がったと認めてくるんですね、貴方も…。」

 「おいおい、それを話が飛躍させ過ぎだろ。俺が言いたいのは単に、俺の『能力』はお前のに比べたら、使いどころが微妙だってことだけだ。イコール、お前の『能力』より劣ってるなんて言った積りはないぜ。」

「でも、僕には『微妙』って表現がすでに、貴方と僕の『能力』の間に差があることを認めてる様にも聞こえるんですけどね。」

 洋平は黒い鬼人(おに)()に押し返されつつある爪に、グッと力を込めながら、

「よっと…まっ、それは差はあるさ。ただし、それが『能力』の優劣っていう差のこと言ってるんなら、それはお前の勘違いだろ。俺たちの『能力』の間にあるのは、『時間差』だ。つまりだなぁ…。」

と、洋平は、やはり、黒い鬼人(おに)の様に流暢に説明をこなすのは不得手と見える。

 黒い右腕に突き刺した両手の人差し指から小指までを、まるで楽器でも演奏するかのようにうねうねと動かしている。…と、その甲斐あってか、どうやら頭の中で話すべきことの整理が付いたようだ。

 「例えるなら、俺の『能力』はサソリとか、蜘蛛の毒が相手を痺れさせたり、溶かしたりして動けなくさせる様なもので…お前のは、チーターがすごいスピードで狩りをする様なものだってことだ。」

「それ…僕らの『能力』に似たもの挙げただけで、『時間差』を表す例えとして成立してないんじゃないですか。」

 「いや、待て…これは俺が間違ったっていうか…そうだっ、これはまだ話の途中なんだよ。お前は俺の話の腰を折らない様に、黙って聞いてろ。」

「それは失礼いたしました。ステージ最前列から拝聴させて頂きますからどうぞ、続けて下さい。」

 「…たっく、一々引っ掛かる言い方をするよなぁ…。」

 洋平はくたびれたように、末を摘み取られた尾の緊張を解いた。…ところで、黒い鬼人(おに)が最前列に居るとすれば、やはり千明の座る鉄骨あたりが最後列に成るのであろうか。二階席は崩落してしまったことだし…おっと、これは、観覧中に隣の席から不調法いたしました…。

 洋平はぶつくさと文句を垂れながらも、オーディエンスからのアンコールの声に応えて、言葉を続ける。

 「えーっ…だからな、俺の言いたいのはあれなんだよ。…つまり、俺の『能力』はだなぁ。毒を受けたやつが動けなくなるまで待たなくちゃいけない…そう、それだ。要するに、まどろっこしいってことだな。それと…なにより、お前の『能力』みたいに相手の動きを追い抜いて、感覚を出し抜くみたいな。そんな、実感て言うか…直接、俺の鬼鎧(きがい)をお前の鬼鎧にぶつけたとしたら、こっちの()がお前の鬼鎧で弾けて…それと同時に、俺の鬼鎧にもお前の鬼が…そう、『爆発』するみたいな。俺はそんな感覚が欲しいんだと思う…首から下を失った俺が、中身の入って無い、この空っぽの内心の塊を木端微塵にするとしたら、多分、もうそれしかなさそうだからな。」

 洋平はそうしんみりと語った…かと、思えば、

「だが、本当に良いのか。『爆発』だの、『後悔』だのが、お前の望みだとして…その瞬間が来たらどうなるのかは、この俺自身、解らんぜ。」

と、へらへらと…しかし、どうも投げ遣りと言う風ではない。

 これはそうだ、黒い鬼人(おに)の笑い声に混じる独特の…あの、見透かした様な得体の知れなさが、洋平の軽薄な笑いにも籠っているのだ。

 黒い鬼人(おに)はそんな洋平の笑う調子に唱和する様に、煽る様に苦笑を漏らす。

「中身の詰まって無い殻をそれだけ上手く操れる人が、『解らない』とは情けない。せめて、『俺の鬼鎧(きがい)が爆発したら、この辺り一面が消し飛ぶぞ。』くらいの台詞は言って欲しいものですね。」

 「これから死ぬっていうのに…むしろ、俺の言葉を上手く巻き込んで、お前がどんな返事をしてくるのか…それをおっかなびっくり待ってる方が、俺にはよっぽどスリリングだよ。それと元を正せば、空の鎧の動かし方のヒントをくれたのもお前だからな…俺を派手に爆死させたければ、俺に期待するより、自分からぶつかって来た方が効果的かもよ。」

「まっ、貴方たっての希望がそれなら、僕も心に留めておくとしましょう。…ところで、僕は貴方にヒントなんて差し上げましたっけ。」

 洋平はその黒い鬼人(おに)の素っ惚けた様子を可笑しそうに、そして…内心にこびり付いた薄い皮を剥がして…解放感を心ゆくまで楽しむ様に、笑う。

 「それは俺に気を使ってるってことだよな。あるいは加奈子にってこともあるか…まっ、どっちにしても…。」

と、ここで洋平は横目で、千明の方に視線を走らせた。

 その、当の千明は…紫鳶(むらさきとび)の瞳に、もの問いたげな目付きを返している。

 洋平はクックッとまた、堪えられないとばかり笑ってから…気を取り直す様に、咳払いを入れた。

 「俺がやったことは…いや、止めたことは…ただ、俺の中の加奈子を…そして、鬼人(おに)の内側にいる俺自身を、知らず知らずの内に押し込めていた…そのことだけだよ。」

「なるほど、貴方は鬼人(おに)として生きる為に、あらゆるものを抑圧していた。そしてその事が、貴方の()を内向きにして、出力を制限していた。…って、それって、もろに僕の遣り口の真似じゃないですか。まったく、目の前に最高のお手本が居るっていうのに、その結果が劣化コピーとは何事ですか。」

 黒い鬼人(おに)の冗談に、洋平は鬼鎧(きがい)から伸びる紫鳶(むらさきとび)の光芒を収めもせずに、空っぽの腹の底から笑った。

 「悪ぃな。多分、無意識にお前の()を参考にさせてもらったのは間違いないとは思うんだが…流石に、俺はお前ほど性格が捩れて無いんでね。どうもこの方法、上手いこと俺の内心には馴染んでくれなかったみたいだな。でも、まぁ、お前の反面教師っ振りもなかなかのものだったぜ。」

「それはどうも。出来のいい生徒よりも、出来の悪い生徒とほど可愛く見えるって言うのは本当のことだったようだ…。ところで、無意味な抑圧を止めたのは賢明だったにしても、そこまで開けっ広げに()を解き放ってしまって危なくないんですか。貴方が無意識にでも、()抑圧、圧縮に向かったのも、恐れを処理しきれなかったり、『二本角(にほんづの)』になったりと、内心の不安定化が進んだからなんでしょ。今のところ、精神状態の方は大丈夫なんでしょうねぇ。」

 「あぁ、お陰さまで今は、恐怖で内心がはち切れそうなくらいに充実してるよ。煩い位にな…。後は、膨らんだ風船に針を入れるだけってとこだな。」

「その風船を僕が持っているのかと思うと…ぞっとしますね。」

と、ニィーッと笑った様なフェイスマスクで暁の空を見上げて、

「もうそろそろ、僕の右手を解放してはくれませんか。」

 洋平は、顔を下ろした黒い鬼人(おに)の、朝焼けの色を吸い込んだ瞳に向けて答えた。

 「今更、『お前がその手を離せばいいだろ。』なんて強情を張る積りも無いが…。良いのかよ、右手の指を切られちまって。まぁ、鬼人(おに)なら、指くらい拾ってくっつければ元通りで済むのかもしれないけどな。…多分、痛いぜ。物凄く。指って神経が密集してるって言うし…。」

「その点なら御心配には及びませんよ。鬼鎧(きがい)さえ纏っていれば、痛覚くらい何とでもなりますから…。それに、僕からは絶対に離さないとお約束しました。これだけは僕のプライドに懸けて、意地でも離したくないんですよ。」

 「お前も変なところで強情だよな。…だが、そういうやつだからこそお前に、お前自身の内心も応えたのかもな…全てを黒く染め上げることで。…とにかく、そう言う事なら仕方が無いよな。ここまで俺のくたびれ果てた鬼鎧(きがい)を支えてくれた『こいつら』には申し訳なく思うが…俺にはとにかく時間が無い。悪いが切り落とさせてもらうぞ。」

 そう言って洋平は、黒い鬼人(おに)の腕から右手の爪を引き抜いた。それから…ゆっくりと…黒い()の余韻滴る人差し指を、黒い鬼人(おに)の親指の方へと近づけて…そして…、

「やっぱり止めた。」

と、洋平は、何事も無かったかのように、右手をまた黒い鬼人(おに)の右腕に戻した。

 「ちょっ、えっ、どうしてですか。…時間が無いって言ったのは貴方ですよね。」

 これには抜群の精神の安定性を誇る黒い鬼人(おに)も、多少は驚いたと見える。…もしかしたら頭でっかちなだけに、この手の…不合理的というか、砕けた言葉を使う様なガキっぽい反応には、虚を突かれ易いところがあるのやも…。

 洋平はそんな黒い鬼人(おに)の、置いてきぼりにされた様な、持て余している様な珍しい姿を子供の様に喜んで、

「嘘だよ。俺の迫真の演技にまんまと騙されただろ。」

と、楽しそうに笑った。…まっ、この黒い鬼人(おに)相手にドッキリが成功したのだ…気持ちは解らないでも無い気はするが…。

 洋平はまだ釈然としていない黒い鬼人(おに)を宥める様に、今度は、年相応の語調で言葉を続ける。

 「確かに時間が無いとは言ったし、事実、俺にはお前以上に時間が残されていない。解るんだよ、自分の体…は、加奈子たちと一緒に喰っちまったんだったな。まっ、そう言う訳で胃袋も無い様な状態だ。今から、お前や、鬼姫さんの心臓を喰ったところで…それは、俺が死んだ後に残る一匹の餓鬼(がき)に栄養をくれてやることにしかならないだろう。けどな…そんなことははっきり言ってどうでも良いこと何だよ。死んだ後のことなんて考えてもしょうがないしな。俺にとって、今、大切なことは、残り時間をどうやってお前たちと『遊び』尽くすかってことだ。」

「では、どう『遊んで過ごすか』を考え抜いた結果が、この周りくどい方法なんですね。…ゲームの出だしから時間を無駄にしている様な気がするんですが…気のせいでしょうか。」

と、黒い鬼人(おに)は右腕にへばりつく、洋平の両手をしげしげと見つめながら呟いた。

 洋平は黒い鬼人(おに)の視線に引っぺがされるのを堪える様に、両手で潰さんばかり握り締めて、

「気のせいだ。それに時間が無いからつってお前の指をバラバラにするのも…なんか、こっちが我慢比べに負けた気がするからな。ここはやっぱり、何としてでもお前に俺の首を離して貰うことにするわ。」

 「勝負事に懸けるその覚悟は御立派ですが…残念だな。これでは、貴方の時間切れで、僕の不戦勝が決まった様なものですね。」

「そいつはどうかな。幾ら俺の両脚が死の淵に()かっているとは言えだ…俺の好みの手段を選ぶ時間は残ってるってところ…今、見せてやるよ。」

 洋平は黒い鬼人(おに)の右腕を、更に、そして強く、全力を持って締め上げる。黒い右腕が、紫鳶(むらさきとび)の両手が、鈍く、悲鳴のような軋みを上げた。

 最後尾から二人の全身全霊の姿を見取る千明は…、

(かなり大きな力があの両手には込められてる。…それでも、あの黒いのの腕を握り潰すのは、無理。第一、手首を切断するのも、指を切り落とすのも、同じじゃないの。…本当に、何を、どうする気なんだろう…。)

 千明は白銀の瞳で洋平の出方を注意深く覗って…と、よく見れば口許では、ハンカチを押し当てつつ欠伸を噛み殺している。…作業現場の倒壊を乗り切ったことで、緊張の糸が切れたのだろう…それは、眠いに違いないのだ…。

 続けざまに、千明は、口の端がハンカチからはみ出る様な大きな欠伸をした。はしたないとは言ってやらないでくださいな…これは、彼女が睡魔と懸命に闘っている証なんです。

 見れば千明の潤んだ目尻が下がって、ふにゃけた…もとい、柔和な優しげな表情になっているではないか。

 そして…洋平が行動に出たのも、まさしく、その時だった…。

 その瞬間…刹那の感覚にまで研ぎ澄まされた洋平の感知能力は、おそらく千明の欠伸という動作でさえ捉えていただろう。だが、そんな事象は神経の端の端にまで追いやられていく…その時の洋平には、一心に黒い鬼人(おに)の右手の指先から、肘までの間に注意を注ぎ込む。それが全てだったはず。

 なによりも、圧縮した時間の、その更に紙一重の間合いに…己の力をぶつける為に…。

 そして洋平のテンションがピークを迎えたその刹那…洋平は力任せに、自分の首を黒い鬼人(おに)の右手から引き抜いた。

 十数分かぶりに地面に着いた脚はよろよろと…しかし、肉も、骨も無い、魂魄のみ力でしっかりとその仮初めの五体を支えている。…どうやら第一関門は、洋平自身の脚で踏破することが出来たようだ…。

 洋平は黒い鬼人(おに)の指の形に抉れた首を、内側から抜けだそうとするものを押し戻す様に、そして傷口を無理に塞ごうとする様に、更に自らの握力で握り潰している。

 そしてまだ、腕をまっすぐに伸ばしたままの黒い鬼人(おに)に、

「あーあっ、離すなって約束したのになぁ。」

と、洋平は首をグイグイと押しつぶしながら、勝利の笑みを浮かべた。

 黒い鬼人(おに)は…伸ばした腕を捻って、手の平を上に向ける。その黒い(たなごころ)の中には幾つもの、洋平の鬼鎧(きがい)の破片が散りばめられていた…。

 「これは…完全に、してやられましたね。」

 そう溜息を吐く様に笑って、黒い鬼人(おに)(てのひら)の上の結晶を粉々に握りつぶした。

 ここで遂に、力の上では劣っていても立ち回りでは常に優位であり続けた黒い鬼人(おに)が、洋平の技量に兜を脱いだのだ。…千明でさえ…手にしていたハンカチを膝に落としてようやく、我にかえることが出来た程…茫然自失の態で愕然としている…。

 (あの黒いのを、呼吸の制し合いで出し抜くなんて…あの人喰い野郎…『死返(まかるがえ)し』の恩恵をほとんど失った今に成って、()のコントロールがかなり切れてる。…まさか、あそこまでの潜在能力を秘めてたなんて…。)

 千明の黙考する通り、それは、これ以上と言うもの存在しない完璧なタイミングであった。

 力を入れるのが一瞬早ければ、全身の力を一点に結集することは出来なかった。そうなれば、例え黒い鬼鎧(きがい)の指の高い強度を利用したとしても、そして、例え自分の首を削る覚悟があっても…黒い鬼人の右手の束縛から抜け出すことは叶わなかったであろう。

 また、逆に力を入れるのが一瞬遅ければ、異様に優れた感知能力を有するあの黒い鬼人(おに)のことだ…必ず、髪の毛筋ほどのタイミングを握り締め、手繰り寄せ、易々と洋平の逃走劇の幕を閉じていたことであろう。

 そう、だからこそなのだ。

 (刹那のタイミングを逃さずに()を、そして力を、完璧に制御してみせたあの人喰いの勝ちだわ。…だけど、自分と、土屋さん、そして健さんの、三人分の命を背負っても出来なかったことが…二人分の死を背負ったことで出来る様になるんだから皮肉なものね…。)

 千明は頬を押し上げようとする欠伸を、ハンカチを握りしめた堪えた。

 「安定とか、冷静さとか…そういう、集中力って範疇なら、俺よりもお前の方が上手いぜ。それは俺も認めるしかないな。…けど、ここ一番に全力つぎ込んだり、一気にテンションを引っ張り上げるみたいな…熱中力なら、俺の方が上だ。」

と、洋平は首の具合をゴリゴリと整えながら、興奮冷めやらぬ声で熱弁を振るった。

 黒い鬼人(おに)も右腕に何本も引かれた線を修復しながら、

「『熱中力』ですか…なかなか利いた風なこと仰るじゃないですか…と、言うのは、僕の負け惜しみですけどね。しかしこれも、内心を凝縮することを止め、反対に解放しっぱなしにすることで、貴方の精神で何かが噛み合ったと言うことでしょうか。」

と、応じた。…それはそうと、フェイスマスクに付けられた真一文字の傷…これは、いつまでこのままにしておく積りなのだろうか…。

 黒い鬼人(おに)の返事を聞いた洋平は、首の状態を触診する指の動きを止める。

 「さぁな。だが、お前の見立てなら、それが正しいんじゃないのか。…それよりもだ。お前、今の本気で負け惜しみだったのか。」

「なんですか、藪から棒に…。」

 黒い鬼人(おに)は苦笑しながら、()で埋めた右腕の表面の結晶に、凹凸が出来ていないのかを入念に調べている。…洋平が、関心の薄そうな態度の黒い鬼人(おに)に、改めて尋ねる。

 「いやな…お前が、俺との意地の張り合いに負けて、悔しかったのかって聞いてんだよ。」

「あぁ、そう意味でしたか。また随分と率直な言い回しだ…。」

 「気が利かなくて悪りぃな。そう言えば加奈子にも、ことあるごとに節操が無いって小言もらってたっけ…で、結論はどうよ。マジで悔しかったか。」

 黒い鬼人(おに)は右腕を撫でまわす手を止めた。

 「…悔しいですよ、それはもう…ねっ。何と言っても、僕が鬼人(おに)に生まれ変わってから、今日までの約四年の間には…それは人間なら文句無しに死んでいる様な目にも遭わされたことも有ります。仲間欲しさのあまり、絶望的に不利な状況と知りながらも、敢えて扱き使われたことも有りました。ですが、この手に捕らえた獲物にまんまと逃げ(おお)せられたのは、これが初めてですよ。…あぁ、しかも…こんなことなら、やっぱり、『虚抜(うろぬ)き』を使っていればよかった。使っていれば、逃がしていたはずない…とか、如何にも手遅れな事を思っているところを見ると…我ながら、マジで悔しいみたいですね、これは…。」

「ほぉ、そこまで悔しがって貰えるとは、俺も精神構造えぐられるのを覚悟で馬鹿やった甲斐があったな。」

 洋平はそう言って不敵に笑うと、黒い鬼人(おに)がやっていた様に強く、自分の首を鷲掴みにして、

「よしっ。」

と、荒業で補修した頸部は、明らかに以前よりも細い。だが、なぜだろう…細くなった喉首に宿る()の輝きは、少しも衰える事は無い。それどころか、前にも増して生命力に溢れている様にさえ感じられるのだ…。

 「お前が悔しがってるんなら、俺にもようやく、一匹の鬼人(おに)のとして全力でぶつかる張り合いが出来たってもんだな。」

 洋平は左肩に開いた穴を右拳で殴って塞いで、次に、腰を屈めて膝の具合のチェックを始めた。…これなら大丈夫そうだ。鬼人(おに)の巨体を支えても、膝は笑わずに平然としている…。

 「へへっ。」

と、かえって、己の内心の頼もしさに、洋平自身が笑いを漏らした。

 そうして洋平は、黒い鬼人(おに)の方へ視線を送る。

 「後は…。」

と、洋平は牙を剥き出しにした顔で、朱色(あけいろ)の瞳の眼差しに見入る…子供のころ見た夕陽が…こんな風に眩しかったことをよく覚えている…。

 「ぶっ倒れて、脚が動かなくなるまで…腕が千切れて這って進むことも出来なくなるまで…前のめりになって、お前に突っ掛かっていくだけだ。」

 洋平は地面に片膝を着いて、身を屈めた。当然、お得意のあれをやろうというのだろう。

 掌を、脚を、尾を、そしてぼんやりとした紫鳶(むらさきとび)の視線を…恰も、感触を確かめるかのように地面に着けて…洋平は視界の外の、しかし真正面に必ずいる黒い鬼人(おに)へ向けて、全身の力を溜め込んでいく。それこそ意識が遠のいていくほど強く、無心に…。

 そんな、この瓦礫の山に出現した一個の岩石となった洋平の、今しもバラバラに弾け飛ばんばかりのエネルギー。

 黒い鬼人(おに)は白銀の鬼膜(きまく)に味の濃い笑いを溶かして、

 「鬼姫さま、遮音の方くれぐれもよろしくお願いしますね。」

「言われなくても、全力で音が外に漏れない様にしてるわよ。そっちの、建設中の建物が崩れ始めた時にはとっくにね。だから…貴方たちはそんな事に気を回さなくても良いから、気兼ねなくやりなさい。」

 千明は…欠伸をするも忘れて、そう二人に応えた。

 黒い鬼人(おに)は胸の前で左の掌を、右拳で力強く叩く。…洋平に自分はここだと重ねて教える様に…。

 洋平もそんな黒い鬼人(おに)に、頷く様に、更に深く首を垂れた。

 「決着は、心が音を上げて鬼鎧(きがい)が動かなくなった方の負け。そして負けた方は…貴方が勝った場合は、僕は貴方に食べられて、行き先が死後の世界だろうとどこだろうと付き合う。僕が勝った場合は、貴方が生きている間だけで構いません。ちょっと一緒に来て欲しい場所があるので、そこまで付き合って貰います。大丈夫、こっちの場合は、死後の世界よりもずっと気の利いたところにご案内しますよ。…それで、構いませんね。」

「あぁ、どっちにしても楽しみだ。それに…敗北条件も上等だ。俺やお前が、ただ殴り合う様な眠い勝負をどれだけ続けたところで、音を上げる訳が無い。俺達のどちらかが、もう死なせてくれと懇願するようなことがあるとすれば、それは…互いの女に、間引かずにこの思い全部を押し付けられるのか…それが俺達には絶対に出来ない事を知ってて…それでもなお、世を儚みもせず図太く生きてることが出来なくなったと…それっきりしかないからな。だが、そうなると俄然、一刻も早くお前とぶっ殺し合いたくてうずうずしてきた。何といっても、こっちの意中の相手はもう『あっち』に居るからな。俺が片道の切符だけ渡して無理矢理に天国逝き乗せたんだから、当り前だけな。ハハハッ…。ともあれ、その分だけ俺の方がお前より、あの世に近いことだけは間違いない。」

 「まさか、僕を踏み台にして地獄逝きを免れる魂胆ですか。」

「駄目か。なら、風船みたいに膨らんでる俺の鬼鎧(きがい)にお前の指で穴でも開けてさぁ、天国までぶっ飛ばしてくれるって方法でも俺は良いぜ。…だからくれぐれも…俺に負けてくれるなよ…。俺だって心まで餓鬼(がき)そのものに成って、生き恥さらしてることすら解らなくなるなんて嫌だからな。それに…。」

 洋平は地面に深々と爪を、そして指を、喰い込ませた。表面のコンクリート言うに及ばす、その下の土、それどころか地層そのものを引っぺがす様な強大な力が、その手から、その足から、今、地球へと圧し掛かっている。千明にはひしひしとそう感じられた。

 「生き恥は…お前には、お前の女の前でたっぷり(さら)して貰いたいんだよ。…経験者として言うけどな、心の底から惚れた女に告るのは…生きた心地がしないもんだぜ。」

 洋平の経験談に、黒い鬼人(おに)は噴き出す様な苦笑を漏らして、

「貴方に言われるまでもなく…僕はずっと前からそういう心境の中で…生きた心地も無く生きてきましたよ。…人として死んで、鬼人(おに)へと生まれ変わった日からね。そんなことより、僕にはもっと重大な…貴方に是非ともご教授願いたいことがあるんですよ。」

 「へぇ…で、何が聞きたいんだ。」

 …洋平の鬼鎧(きがい)全体から眩しいほどに放たれていた光芒が鳴りを潜めた。それは、太陽が雲間に隠れる様に目に痛く、そして、嵐の前の静けさの様に胸が痛む…そんな光景だった。

 黒い鬼人(おに)はそんな洋平にもたらされた変化を正面に見据えながら…しかし、黒い光は妖しく、その精神はどこまでも滑らかに、平静を乱すことは無い。…たった一瞬、この小さな笑いの間だけを覗いて…。

 「生きた心地もしないそんな状態で、貴方みたいに精神の耐久性に乏しい人が、どうやって彼女に告白したんですか。」

 黒い鬼人(おに)の問いに、洋平は肩を震わせて笑った。そして…、

「んなもん、死んだ気に成ってに決まってんだろうがっ。」

 …瞬間、抑え込まれていた洋平の紫鳶(むらさきとび)が、全てを飲みこんでいく。

 崩れ去った作業現場、路地裏、千明の座る鉄骨、そして朝焼けの空も…だが、一つだけの紫鳶(むらさきとび)に染められていないものがあったようだ…。

 それは何ものをも反映しない色、それは全ての色彩を内に秘めた色…。

 次の瞬間…洋平は両手で地面を後ろへ投げつける様に、更に、両脚で大地を蹴倒す様に…その色へと向けて飛び出していく…。

 一方では、なんと黒い鬼人(おに)も真っ直ぐに飛び出しているではないか。

 長い尾を引きながら、紫鳶(むらさきとび)の光弾と成った洋平。そして、墨の様な残影を流しながら、スピードに乗る黒い鬼人(おに)

 二人が激突するのには最早、一瞬さえ必要とはしないであろう。

 交点に引き寄せられる様な、反発する様な、そんな瞬きすら追い付かない時の隙間で…遂に…二つの対照的な光が交差する。…かに、思われたのだが。

 二つの光の余波が重なったその瞬間に、直進する黒い鬼人(おに)の挙動が、物理現象に逆らう形で湾曲した。

 「ホント、お前は期待を裏切らないよな。」

と、すでに自分の背後へと回っている相手に対して、洋平は背中越しに言葉を投げかけた。

 黒い鬼人(おに)は重ねてその期待に応えるべく、尾の『能力』をこれでもかと発揮して、洋平の延髄に蹴りを…加えようとした途端に、黒い鬼人(おに)の上体が洋平の方へと引き寄せられた。…それは、なぜか…。

 黒い鬼人(おに)は自分の置かれている状況にようやく気付いて、

「いつの間に…よく、僕が左に避けると解りましたね。」

 それは、黒い鬼人(おに)が『能力』を使って一瞬だけ制止した、その間隙(かんげき)を縫って…首へと巻き付けられた、洋平の尾に向けての賛辞であった。

 二人の鬼人(おに)の間でピンッと張った洋平の尾。その張力で二人はゆっくりと回転しながら、黒い鬼人(おに)が元居た位置の方へと推進力に引き()られていく。

 …地面への激突まで、あと一秒弱。だと言うのに二人は…、

「いや、俺にはお前がどっちに避けるかなんて解んなかったぜ。だからヤマを張ったんだよ。それがものの見事にハマったてことだな。」

 「なるほど、偶然の力を利用しての先出しで、こっちの感知能力を擦り抜けた訳ですか…明確な意思が無い分、その手の動きは避けづらいんですよね…。」

 …などと二人が言っている間に地面へと着弾。瓦礫を舞上げてもまだその威力は衰えない。衰えないどころかますます、景気良くポンポンと瓦礫や、建材が空へと飛ばしていく。どうやら、これは激突の衝撃だけでは無い様だ。

 そう、二人は地面に着いた傍から、激しく立ち位置を交換しながら殴り合っているのだ。

 黒い鬼人(おに)の鋭い貫手(ぬきて)を洋平は頭を肩に押し付けてかわした。しかし、黒い手は勢いを落とさずに、洋平の尾を引き裂く。

 洋平はその反動でよろけて、二、三歩後ずさる。

 「爪も無いのに良くやるよな。…んっ、そうか。俺が爪で敵を引き裂くときには、爪の先で()を凝縮させて、強度を上げた。よくよく考えてみれば…お前は常に、鬼鎧(きがい)の全体でそれをやってる。詰まりは、お前の鬼鎧(きがい)全部が鬼人(おに)の爪みたいなものか。なら確かに、わざわざ鬼を凝縮するポイントを作る必要もないわな。」

 黒い鬼人(おに)は巻きついた洋平の尾を首から引き摺り落して、

「良くお解りで。」

 「あぁ、お前が苦労症で、実は鬼人(おに)らしい負けず嫌いなところがあるってことはよく解ったよ。」

と、洋平が一足飛びで黒い鬼人(おに)と近づくと、その頭へと蹴り放つ。黒い鬼人(おに)はその(すね)を左腕でガードした。

 その、人間ならばかなり無理が掛りそうな体勢から、洋平が言葉を続ける。

 「お前は、爪や、牙が無くても、()を限界まで圧縮して作り上げた自分の鬼鎧(きがい)と、内心に、それなりの自信があった。だからこそ、俺の力技に屈して、俺の首を手放しちまったのが悔しかったんだろ。…爪さえあればなんて、思われるのもまっぴらだろうしな。」

 黒い鬼人(おに)は、洋平が脚を下ろす動きに追い打ち掛けながら、

「その口振りだと、どうやら…鬼人(おに)の爪が何で存在するかが解ったみたいですね。」

 「あぁ、勿論だ。」

 洋平は黒い鬼人(おに)の拳を真っ向から鬼鎧(きがい)の胸に受けた。そして怯むこと無く…否、怯んでいる暇すら惜しむ様に、胸を突く黒い鬼人(おに)の腕を左手で掴む。

 「鬼人(おに)の爪は、野獣のみたいに獲物を引き裂くために在るんじゃない。それだと、力を込めた時の()の活性状態と、爪の強度を上げた時の不活性状態を一本の腕で両立しなくちゃならない矛盾が起きるからな。だから答えは…。」

と、洋平は黒い鬼人(おに)腕に左手の爪を喰い込ませて、

「こうやって、捕まえた相手が逃げられない様にするためにある…だな。そうすれば、手隙のもう一方の手に腕に二本分の()を込めて…。」

 洋平は右手を強く、それも爪が掌に食い込んでいくほど強く、強く、握り締めた。そうして、

「お前が逃げられない状態のところに、全力のを一発お見舞い出来るって寸法だな。」

 洋平の右拳が黒い鬼人(おに)頭部を殴りつけた。鈍い音が響き渡り、そのあまりの威力に黒い鬼人(おに)の首が明後日の方角へと(ねじ)れる。

 淀んだ空気が一掃されていく…。黒い鬼人(おに)は何事も無かったかのように首を正面に戻して、

「正解です…。」

 …だが、平気なはずが無いことは、左のこめかみに刻まれた深い傷が物語っている。遠目からでも、千明の目にはその鮮やかな色が眼に入った。

 「あっ…血が…。」

 詰まりはそれ程の傷、そしてそれ程の威力の攻撃だったと言う事だ。

 洋平は自分の攻撃が黒い鬼人(おに)にもたらした『成果』に満足そうに笑う。

 「おっ、正解か。やったな。…にしても、この右手…爪はこういう使い方をするのも悪く無いかもな。一々、拳固める手間要らずだし。」

と、余裕の高笑いで洋平が、目線を黒い鬼人(おに)から、自分の右拳に移した…それと寸分たがわず同時に…黒い鬼人(おに)が素早く洋平の脚を払って、その体勢を崩した。

 洋平もすぐさま対応すべく、紫鳶(むらさきとび)の瞳を拡張させ…さしあたって黒い右腕に支点にして、バランスを保とうと…しかしながら、人の悪いことに定評のあるこの黒い鬼人(おに)が何の含むところも無く、こんな手ごろな支えを残しておいてやろうはずもない。

 洋平が黒い鬼人(おに)の腕に力を込めようとした途端に…洋平の手が黒い腕の表面をつるりと滑った。

 「くっ…。」

 その洋平のうめきは、力を込めた手応えの無さからくる苦悶の声。…黒い鬼人(おに)が意図的に、鬼鎧(きがい)の右腕の摩擦力を極小にまで制限していたのだ…。

 このままでは、洋平の身体は横倒しで地面と激突することに成りそうだ。…など考える者はこの中には居ない…読者さま方の中にも居られないことでしょう。

 洋平の紫鳶(むらさきとび)の瞳も、黒い鬼人(おに)朱色(あけいろ)の瞳を凝視している。

 するとそこに、洋平の視界の下からせり上がってくるものが…黒い鬼人(おに)の右脚だ。

 その洋平の鳩尾(みぞおち)に向かってくる蹴りに…驚くべきことに…洋平の両手は視認するよりも早く対応していた。しかも、これは、ただのガードでは無いな…なんと、咄嗟の事態に力で返答する様に、洋平は握り合わせた両手をひと振りの大槌(おおづち)の如く振り下ろしているではないか。

 …鋼鉄と(つち)が出会ったとしたら…そこに残るのは鋭い金切り音と、火花散る激突のみ…。

 そして今度の場合もそうだったようだ。

 二人はお互いの力に弾き飛ばされて、軽々と5、6メートルは距離を開いた。…そうは言っても、二人間合いがそれほど開いているのは、ほんの一時だけのことだろう。

 放っておいても洋平辺りが飛び掛かっていて…否、どうやら今回は、路地裏の隅々を明滅させるのは、紫鳶(むらさきとび)の閃光ではないらしい。

 洋平が地面に着地した時点で黒い鬼人(おに)が、音も無く、そして声に出して言うまでも無く速やかに、洋平へと肉薄していたのだ。

 その様を天から見たならば、瞬時にこの地上で走った、墨の一筆と映ったことであろう。

 黒い鬼人(おに)の墨流しの残像を纏った貫手が、洋平の頭部へと突き出された。

 洋平は首を浅く切り裂かれながらも、それを何とかかわして、

「てめぇ、やっぱり手加減してたんじゃないか。超高速の身体の動きに、突きとか、蹴りの動きが付いていかないんじゃ無かったのかよ。」

 洋平が喋っている間にも、黒い鬼人(おに)の手刀が、蹴りが続いた。そして洋平の方も、それを危なっかしい動きで…しかし、結果的に見事にかわしているのだ。

 黒い鬼人(おに)が右脚を蹴り上げる。それを胸の表層の部分のみの傷で避けた、洋平。…その様子を見て…黒い鬼人(おに)は次の貫手を放ちながら、

「身体全体で超高速移動をしながら、それを超えるスピードで突き、蹴りが出来ない事に嘘はありませんよ。だからちゃんと減速してから、手脚の動きのロスを消しているんじゃないですか。」

 「お前、手脚を動かすだけの場合でも、超高速のスピードがつかえたのかよ。」

「そうですよ。言っていませんでしたっけ…でも、僕の『能力』自体は説明したんですから、お話ししたも同然ですよね。」

 「ば、馬鹿じゃねぇのか。…クソッ、お前の『能力』、超高速じゃ無くて、『超姑息』なんじゃないのか。」

「アハハハハッ…ちなみに尻尾でも、超音速くらいなら楽々いきますよ。」

 「のわぁっ。」

と、洋平は身を低くして、頭上を掠める尻尾をなんとか避ける事に成功したようだ。…よくぞここまでの猛攻をかわせるものだ…案外、こいつも日頃の行いが良かったのかもしれないな…人喰いだけど…。

 洋平は屈んだ姿勢から起き直ることもままならず、防戦一方で逃げ惑う。

 「チッ、死にかけの俺にしてやられたのが、そんなに悔しかったのかよ。…てか、悔しいなら悔しいで、拳でガツンと来やがれ。てめぇだって、あの鬼姫さまと同じ、膂力重視型ってやつなんだろ。」

 黒い鬼人(おに)も手脚で容赦なく洋平を責め立てながら、

「すいませんが、そう言う訳にもいかないんです。知っての通り、僕の『能力』には重さが邪魔になる。当然、手脚を高速で動かす場合にも、鬼鎧(きがい)から重さを消さざるを得ないので、打撃系の技の威力が絶無に成ってしまうんですよね。…でも御安心を。パワーが無い分は()を鬼鎧の強度を上げるのに回していますから、打撃力はゼロの軽い一撃でも、当たればザックリッ、スッパリッといくはずですから…むしろ、もともと膂力重視型にしては非力な僕の打撃技より、ダメージは大きいかもしれません。」

 「んなことはお前に言われなくても解ってんだよ。解ってるから…こうやって頭下げて…拳で攻撃して下さいってお願いしてんだろ。クッ、ヤバいくらいに鋭い…裸で居るところを、刃物で切りつけられてるみたいなおっかなさだな。」

「ですが、そう言う割には、見事に僕の攻撃をかわしてくれちゃってますねぇ…本当、どこまで僕のガラスの自尊心を傷つければ気が済むんだか…。」

 「俺は突っ込まないからな…そんな余裕ないっての。それにな…俺自身お前の攻撃が当たって無いのが不思議なんだよ。なんせ、さっきからお前の指や、脚が、鬼鎧(きがい)を突き抜けて、押し入って来てる様な感覚がある…。それで吃驚してお前の手脚を身体から引き抜こうとすると…何でか、避けられちゃってるんだな、これが…。」

 黒い鬼人(おに)は超高速で、体当たりするほど洋平に接近。それすらも洋平がかわす。

 …それを見越した様に…黒い鬼人(おに)は洋平の心臓の位置目掛けて、深々と貫手を放つ。しかし、如何せん洋平の体勢が低い。

 洋平は黒い鬼人(おに)二段構えの攻撃さえも裂けてしまえるようだ…これは間違い無く、偶然の域を越えた回避能力だと言えそうだ…。

 その確信は、黒い鬼人(おに)も共有するものだったと見えて…洋平に攻撃をかわされ続けていることにも大した反応は見せずに、わき目もふらずに貫手を、蹴りを、打ちだし続ける。

 「ほぉ、それはおそらく、貴方が内心を解放状態にしっぱなしにしていることが原因でしょう。…いいえ、きっとそれだけじゃないですね。」

 その黒い鬼人(おに)の苦笑を折り重ねた語り掛けに、洋平も笑い返して、

「あぁ…加奈子が俺の内心を内側から押し広げてやがる。多分、その所為だな。…って、おいっ。そっちから話し掛けておいてだな、尻尾で横っ面叩(はた)こうとはどういう料簡だよ。」

 「言葉で、油断や、精神の乱れを誘うのは、鬼人(おに)の闘いに置いては常道。それは貴方だって、認めたことじゃないですか。」

「…調子に乗りやがって…そっちがその気ならな、こっちだってなぁ…。」

と、洋平は両手を握りしめ、尻尾を逆立てると…三方から同時に黒い鬼人(おに)への攻撃を開始した。

 とは言え、流石は黒い鬼人(おに)。洋平の両方の鉄拳を交互にかわして…いや、これはどうも雲行きが怪しい。

 黒い鬼人(おに)はどうやら、洋平の三方から連続して飛んでくる攻撃を、その場に留まっては避けきれないようなのだ。

 一撃目の左拳、二撃目の尻尾とかわして…三撃目の右拳をかわすのに、一歩後ろへと後退している。…三撃目が尻尾の今度の場合もそうだ…やはり、一歩後ずさっているのだ。感知能力に優れている黒い鬼人(おに)でさえ、押され気味になる程の連携の取れた攻撃リズムとは…そしてそのことに、洋平も徐々に…。

 それは黒い鬼人(おに)が…まったくらしくない…焦れからくる軽挙で反撃しようとした時に起こった。

 放たれる寸前だった黒い鬼人(おに)の右の貫手を、洋平の尾が叩き伏せたのだ。

 その無意識のレベルにまで達する自らの尾のスムーズな動きによって、洋平の脳裏に電流の様な確信がもたらされる。

 「おっ、これはもしかして…。」

と、そこに生じた有るか無しかの隙を、黒い鬼人(おに)は見逃さない。今、自分の右手を叩いたばかりの洋平の尾を、その右手で、そしてついでに左手でも掴んで…両手がかりで、ぶんぶんと洋平の身体を振り回すと、瓦礫の山の方へと投げ飛ばした。

 洋平はよっぽど気を抜いていたのか、鬼鎧(きがい)纏っているとは言え受身もとらず瓦礫の中へと突っ込んでいく。…んっ、どうやら、上の空だったと言う訳でも無さそうだ。

 瓦礫の上に尻もち付いた洋平が、黒い鬼人(おに)に向けて怒声を上げる。

 「お前、今、『虚抜(うろぬ)き』使っただろ。明らかに反則だよな、それ。」

 …まぁ、反則とか、そう言うのが在るのかは置いておいて…どうやらそう言う事だったらしい…。

 黒い鬼人(おに)は…申し訳なさの演出か…後頭部を撫でながら、

「いやっ、すいませんでした。闘い方のスタイルがいつもの調子に戻ってきた所為か、遂うっかり…。」

と、悪びれた風も無く応え返した。…そういうやつだよ、この男は…。

 洋平もこれは腹に据え兼ねた様子で、

「この野郎…。」

が、手元に転がっている『物』に気付くや否や、

「…そっちがそう言う積りなら、こっちも凶器を使わせてもらうからな…。」

と、洋平は不敵な笑い漏らしながら、それを取り上げた。…それは勿論、黒い鬼人(おに)が蹴飛ばした洋平の尾の先…アームと、毒針のある部分。洋平との接続が立たれた後も、砕け、塵に成ることも無く残っていたようだ。

 黒い鬼人(おに)は面白そうに、そして皮肉っぽく笑い返す。

 「故意にはでは無いにしろ、こちらから反則行為を犯してしまった以上、認めざるを得ませんね。だけど、『死返(まかるがえ)し』をして、鬼鎧(きがい)の再構成能力に支障がある貴方で…なるほど大した凶器だとは思いますが…果たして、それを装備することが出来ますかねぇ。」

「さぁな…だが、お前がそんなに嬉しそうにしてまで頭を悩ませる様な問題でも無いだろ。やってみれば、今すぐにでも答えは解るんだからな。」

 そう言って、洋平は尾を器用に操って、手にしたアーム部分と密着させた。密やかにガラスのコップを合わせ乾杯する…そんな音が零れる。

 数秒経っても、洋平の手は尾のアーム部分を(つが)えたまま離れない。まだ、断面は再生していないのか…そして更に数秒…洋平も微かに焦りを覚えてか、

「何してんだ。さっさとくっつきやがれ…てめぇは、俺の身体の一部で、心の一部なんだろうが。だったら、俺の言う通り、思う通りに成りやがれ。」

と、声を荒げる。それに、横合いから、

「脅し文句で、身体や、心が思い通りに成るなら、誰も苦労はしませんよ。」

 「うるせぇな、お前にはまだ一年くらいの寿命は残ってんだろ。そういう無駄に長生きできる奴は、黙って年長者の準備が出来るまで待ってやがれ。」

 洋平のその無茶苦茶で、それでいて…何やら順序はあっている様な気もする、言い草。黒い鬼人(おに)は可笑しそうに、楽しそうに、含み笑いだけ返すと、両腕を組んで見物の…もとい、待機の姿勢を取る。

 顔も上げずに、懸命に自分の尻尾に語り掛ける…。そんな動物の人間染みた仕種を見ている様な…ある意味では滑稽とも言える、洋平の苦心惨憺は続行される様だ…。

 「着け、着け着け、着けよっ。遠慮しないで、俺の首から上を要るだけ喰っちまっても良い。だから着けっ。」

 洋平の尻尾を押し付ける力が増す。そして言葉付きも比例して強くていく。

 「よし、だったらこうしようぜ。あの黒いやつの心臓喰ったら優先的にお前んとこに()を回してやる。お前が俺の心の端っこだったとしても、絶対に後回しにはしない。だから今は、お前のとこにある()を貸しとけ。」

と…洋平の尾の密着部分が、紫鳶(むらさきとび)の光で埋まる。そして…程無くして、洋平の手がそっと、尾の傍を離れた。…どうやら洋平の尾は、一人で漕ぎ出すことが出来たらしい…。

 「嘘でしょ…あいつら、本当にルールを無視してるって訳…。そんな馬鹿な話が…。」

 千明も驚き呆れて…自分が欠伸をしながらフガフガと呟いていることすら理解できてはいない。

 洋平は、切断面がきちんと再構成されていなければ、修復したばかりのアーム部分が千切れ飛んでいくであろうほど強く、尾を振り回して塩梅を確認する。…その様子からは、何ら問題が無いことが見て取れる…。

 「どうにか、言うこと聞いてくれたみたいだな。まっ、その為に俺の頭のどこかしらが、溶けちまった可能性は否めないけどな…ククッ…。」

と、洋平は黒い鬼人(おに)の方へと歩み寄りながら、

「じゃあ、俺の脳味噌が流れ出しちまう前に、早速、新しいフォームの試運転といくかな。」

 洋平は黒い鬼人(おに)の正面2、3メートルのところで身を低くした。

 「この段階ではまだ、以前までのパターンと同じみたいですね。それで次は、とりあえず飛び掛かってきますか。」

「その通り。では、正解発表に映るとするぞ。」

 洋平はそう言うと、黒い鬼人(おに)へと飛び掛かる。…しかし、これでは黒い鬼人(おに)の言う通り、洋平はこれまでのパターンから抜け出せていないとも思える。

 だが、真実は…今度の洋平の攻撃が、今までの突進からの打撃一辺倒とはまったくの別物であると…他ならぬ黒い鬼人自身、よく(わきま)えていた。

 それは、自分の目の前の地面を削って急停止した洋平に、黒い鬼人(おに)が身構えたことからもうかがえる。…洋平からのどのような突撃に晒されても、このような(はな)から受けを前提として行動したことは無かったのだが…。

 凶器を見せつける様に、身を屈めた洋平がずいっと尾を前面に押し出す。黒い鬼人(おに)はその洋平の一連の動作に対して、

 「やはり、そうきますか。」

 そう言うと今度は気構える様に、自分の、トカゲのものに似た尾をふわりと持ち上げた。

 二人の尾が落とす影が、朝焼けの赤の上に異形の影絵を踊らせる。それにしても長い、長い、朝焼けだ。

 もう二人が闘い始めてずいぶん経つと言うのに…まだ、この路地裏は朝焼けの黄昏色に染まったまま…それはまるでこの空が朝の訪れを拒んでいる様な…黒い鬼人(おに)と、洋平が『遊び』続ける限り、永遠にこの逢魔ヶ時もまた明ける事が無い…そんな錯覚すら覚える様だ。

 しかし、この決着はつけなればなるまい。二人が、朝に、生者に、そして死者に置き去りにされてしまわぬためにも…。

 だからこそ、二つの(いびつ)な影は決して寄り添う事は無く、重なるのだ。この赤い空の下で…。

[36]

 赤くなだらかな丘を抜けてそよ風が流れる。その先には、二つの影が揺れながら遊ぶ形が浮かんでいる。

 千明はそんな厚みの無い世界から、視線を上に…そこでは、常人の目では計り知れないであろう、二匹の鬼人(おに)の攻防が飽くことなく繰り返されて居る。…まぁ、世の中なんて、一皮剥けばこんなものなのだろう…。

 夢想から覚めた千明は、大きく欠伸をして酸素をたっぷりと吸い込む。口元に宛てた手…その指の隙間からは、黒い鬼人(おに)の貫手をかわす洋平の姿が見えた。

 洋平は身体全体で黒い鬼人(おに)鋭利な一撃を横に交わす。紫鳶(むらさきとび)の瞳が、大気に焼きついた様に線を引いた。

 「どうよ、俺の新しいフォームの出来具合は…。」

 洋平がそう尋ねるのを…黒い鬼人(おに)は洋平の左のジャブ、右のストレートを巧みにかわして…続く、アームで掴みかからんとする尾の攻撃を左手の甲で払いのけてから、

「かなり良いですよ。機動力重視肩の持ち味は活かせてはいないようですけどね。」

 「ハハッ、それはお互い様だろ。」

と、洋平は笑いに笑いつつも、両手と尾の三位一体の連携攻撃で、黒い鬼人(おに)を追い込んでいく。

 「これは参ったな…攻撃を止めれば、貴方の猛攻に押し込まれるだけ。そうなると流石の僕の鬼鎧(きがい)でも厳しそうだ。さりとて、手捌きを続けるとなると…高速移動で距離をとる余裕が確保できない。それどころか前後左右どこに飛び退いても、貴方の尻尾に撃墜されそうだ…。ついでに、今にも舌を噛みそうなのに、喋るのを止めることも出来ないと…これは、どうにも八方塞がりの様相を呈してきましたよ。」

と、話している内容の割には、おどけたような言い回しをする黒い鬼人(おに)

 洋平は戦況では黒い鬼人(おに)を追い込みながらも、話の流れでは引き込まれて行く様に、

「それは難儀だな。それに引きかえ、俺自慢の、この尻尾の餌食になるのは簡単だぜ。悩む間もなく痺れさせてやるよ。」

と、歯切れよく話しては、歯切れよく笑う。黒い鬼人(おに)の方はと言うと…、

「とりあえず、遠慮しておきます。でも…こっちのスタミナが切れたらお願いしようかな…きっと、麻酔の効果とかもありますよね、貴方の毒…。」

 「さぁ、どうだろうな…。」

と、そこで、二人の首が揃って千明の方を向いた。…その間も、手や、尾の動きを休める事も無く…。

 千明は鼻息一つ吐き出して、

「確かに末端の方の感覚は薄れる…けどっ…いったいわよ、肉が溶かされるのは…。」

と、弱音を吐く黒い鬼人(おに)を脅かす様に、歯をむき出しにして…このお嬢、しれっと嘘を吐きおった。

 それを知ってか知らず…まっ、どちらにしても反応は同じだろうが…洋平はまた、可笑しそうに、屈託なく笑う。

 「だってさ、残念だったな。」

「えぇっと、じゃあ、いよいよ生き肝を取ろうと言う時には、(とど)めだけはきちんと打ってもらう方向で…。」

 そう言って、黒い鬼人(おに)が笑気を漏らした。

 だがしかし…十中八九は冗談であろうが、黒い鬼人(おに)の頭に、一つか、二つ、何やら嫌な予感が過ぎったとして…それは不思議なことではない様に思う。それ程、今の洋平の攻撃は手際の良い。…いや、敢えて言い換えよう、洋平の攻撃はまさに、『型』にはまっているのだ。

 腕の振り、尾の突き、ともに今までの大ぶりが無い。三本の連携を乱さぬことに重点を置いたこの型が、上手く、そしてしっくりと機能していのだ。

 そこから生まれる洋平の、間断ない攻撃、真の意味での手数が…まず相手との(せん)の取り合いに読み勝つことで優位に立つ、黒い鬼人(おに)の次の手筋を封じ込めてしまっているのだ。…これでは、さしもの黒い鬼人でも、妙手、奇策の類を用いる隙が無いではないか…。

 「それにしても、機動力重視型の貴方なら、もう少し間合いを開けてのやり取りの方が都合が良いのでは…。貴方さえ良ければ接近戦から、中距離での立ち回りに変えるのもやぶさかではないですけどねぇ。」

「折角の心遣いを袖にするのは心が痛むよ。…が、この距離が。俺の尻尾を使う上での…詰まりは俺とってのベストポジションなんだよな。そう言う事だから…構わねぇ、このまま続行しようぜ。」

 「そうなんですかぁ…。それは残念。」

と、そう言った黒い鬼人(おに)の様子は本心から残念そうであった。とは言え、なんのかんのと言いながらも、未だ致命傷となるような攻撃を受ける事も無く、黒い鬼人が言葉を続ける。

 「それにしても、一度は貴方自身がその尻尾を見限った様な言葉を口にしたのに…どういう心境の変化から、またもや、その尻尾が貴方の切り札に返り咲いた訳なんですか。」

と、黒い鬼人(おに)は淡々と問い掛けるそのリズムを無視して、怒涛の様な連続貫手で応戦する。

 それには洋平も、一瞬は、進軍の脚を止めて、

「俺の尻尾は切り札なんかじゃねぇよ。そもそも、切り札なんだみたいに決め付けてたから、こいつの真価を発揮するのに時間を喰っちまったんだよ。」

と、洋平は返答で勢いを付けたかのように、再び、絶え間無い連携攻撃を仕掛けに前と歩み出た。

 「人喰いの貴方が、たかだか数日くらいの時間を喰ってしまったからといって何を弱気な事を仰ってるんですか。鬼人(おに)にとっては第一に、心の持ちようが資本。仮に自分を騙すことに成ったとしても、強気で居る方が良いですよ。」

「お前にそう言われると、なんか…俺が尻尾の使い方を間違ってたことも、お前に仕組まれてた事だったって気に成るなぁ。…いや、俺が尻尾を使いこなせていない…どころか、変に意識し過ぎてお荷物に成ってるってお前が知ってたなら…。また耳触りの良いこと言って、俺が尻尾をすぐにでも元に戻す様に仕向けたはずだよな。…そう考えると…。」

 「でも、僕が貴方の為にと教えて差し上げたとして…貴方はすんなりとは、それを信じてはくれなかったのではないですか。」

「それはそうかも知れないけどな…。や、駄目だ。多分、どんなに考えてもこのことに答え出ねぇ。」

と、洋平が上り調子にギアを上げていく拳を、黒い鬼人(おに)は、

「信用ないなぁ。さんざん悪事を働いたんですから、手近なところから信じる癖を着けないと、天国に逝けませんよ。」

 そう言いながら黒い鬼人(おに)は、洋平の突きを鬼鎧(きがい)の顎に掠らせながらもかわして見せった。…そしてまた、流れる二つの影が重なる…。

 千明は二人の手に汗握る攻防を見守りながら、今更ながらに思うのだ。

 (恐ろしくなるわね…自分の無知さ加減が…。私の同世代には、『五つ()』の子弟以外で私に敵う鬼人(おに)なんて居ないと思ってた。だけど…現実は、私に匹敵する…ううん、私より強かったとしてもおかしくは無い程の鬼人(おに)を、こうして私の目の前へと送り出して来た。しかもそれが、『(かさね)』にも、『萩の会』にも所属していない…当然、『鬼籍(きせき)』にも名前が登録されている訳もない、『野良(のら)』だなんて…。本当は、今見てるもの全部が夢なんじゃないのかなって…本気でそう思えてくる…。) 

 千明は足元にまで伸びて来た二つの影を見つめながら、眉間にしわを寄せて欠伸を堪えた。そして、そんな渋い顔そのままに小さく微笑む…。

 (…って、私、ホントにずいぶんとプライドが高いわね…やれやれ、なんであんな社会不適合者二人組にそんなこと気付かされなくちゃなんないんだっての。お前らは、お互いを映し合ってればそれでいいんだっつぅの。…だけど、『鏡』か…あの黒いのは実際、面白い…それもどんぴしゃに的を射たことを言ったもんよねぇ。)

と、千明の白銀の瞳が、影をなぞりながら視線を上へ。すると、千明のイメージの中の二人の存在感に、厚みが加わっていく。

 (片や、膂力重視型でありながら超高速移動を可能にする『能力』を有し、そしてそれを活かしきる為に、膂力重視型本来のパワーを殺してまで強度を高め、攻撃の鋭さを追求した。それも、爪や、牙を抜きにした、鬼人(おに)の常識を覆す鋭さを…。一方…こっちらも、常識を覆すと言う意味では負けてないわね…機動力重視型なのに結局は、スピードで相手を撹乱する戦法を否定。そして、腕と、尻尾の連携による至近距離からの単純なまでの力押しが、憎らしいまでに高い水準で機能している。…ううん、憎らしいのは、あいつが最高のフォームを手に入れたことじゃない。それが最善の型であることに気付くほどにあの人喰いを追い詰め、そうして、結果的にあの人喰いのポテンシャルを最大限に引き出させたのが、あの黒いのだってこと。そして何より、それすらあの黒いのの思惑通りだったんじゃないのかってこと…あぁ、腹が立つ。でも、私、何でこんなムカついてんのかな。…あぁ、もう、一発殴らなきゃ、絶対に()が収まらないわ。)

 そう心中で愚痴を並べつつ、プライドお化けが小さく頬を膨らました。…なんだ、千明の憤懣もその程度のことか…と、侮るなかれ…。

 彼女が可愛らしく頬を膨らました『その程度』のことで、辺りを包む鬼膜(きまく)は泡立ち、かくして…、

「あっ。」

と、黒い鬼人(おに)、洋平、二人の対称的な口元から、全く同じ無様(ぶざま)な声が漏れた。

 その刹那…黒い鬼人(おに)の蹴り脚が、洋平の左肩表面1ミリほどをそぎ飛ばし…洋平の左のジャブが伸びきったところで、黒い鬼人(おに)のわき腹とカチあった。

 「危ねぇ…。今のは、芯から冷っときたわ。」

「まったくですよ…二人して、間の抜けた声が辞世の言葉に成るところでしたね。」

と、二人ともそれなりに薄ら寒い思いをしたと見える。呼吸を整える様に二言ずつ言葉をかわしてから、激しい攻防を再開した。…のだが、

「あいつ、真面目に見届け人やる積り無いんじゃないのか。レフリーでもあそこまでは自己主張しないぞ。」

 「まぁまぁ、鬼姫さまにはずいぶんと夜更かしをさせてしまいましたからね。御眠(おねむ)だと、いろいろと、感情を持て余すこともあるんでしょう。」

「あれがそんな生易しいレベルの話かよ。俺は一瞬、頭からおろし金ですり下ろされたかと思ったぜ。…本気で、洒落になんねぇんだよ。」

 「ですから、そんな彼女の業の深さを思えば、許して差し上げられようというもの…と言う話をですねぇ…。」

 激しい攻防からは想像しづらい…ある意味では軟弱とも言えそうな言葉の応酬を、水面下で継続する二人。…これは、薄ら寒いどころの話では無く…冷え切った肝を温めるのに時間が掛りそうだ…。

 そう言う訳で…洋平には肝が無いという意見は置いといて…再び、粛々と観戦を続ける千明へと目を移そうではないか。

 千明が今度は、相手の攻撃を寸でのところでかわしている二人の回避能力について考えを巡らせる。

 (二人とも甲乙つけがたいくらいに上手く、相手の動きを読んで避けている。でも、一見したところ一様の手順を踏んでいる様に見えて実態はそうじゃない。…それは…私は()の感知能力は低いけれど…鬼膜(きまく)で触れてるんだから、それくらいのことは解るわ。)

と、千明がまた…誰に文句を垂れている積りなのか…機嫌を損ね始めたようだ。…学生の割にはしっかり者かと思いきや、純粋培養のお嬢様はこれだから…とにかく、もっと臍を曲げられない内に言葉を次いで頂くとしようか。

 千明は白銀の瞳を閉じる。そして、まず、鬼膜(きまく)から伝わる黒い鬼人(おに)の感覚に触れた。

 (あの黒いのはまるで、内側に、相手の()や、意識を吸い込んでいくみたいにして感知している。そうやって、瞬時に相手の(せん)を取って…一方で、自分の方からは皆無と言って良いくらいに情報を漏らさない。だから行動の先読みでは常にリード出来るし、攻守の面でも…スペック的には勝っていたはずのあの人喰いに、実力を発揮させる事も無く…これまでずっと優位を保ってきた。)

 …何となく、千明の両手の中に収められたハンカチが、揉みくちゃに成っているのが気になるのだが…。そんな些事は横にやって…千明が今度は、閉じた瞼の奥の白銀の瞳を、洋平の方へと向ける。

 (それを…あの黒いのの演出した見せ掛けの均衡を破ったのは、明らかに、あの人喰い。しかもそれを、直に鬼鎧(きがい)を接触させてでもいなければ、まず、次の一手の兆候さえ知り様が無い…あの黒い鬼人(おに)を相手にやって退けるだなんて…。『見た』ところ、今のあの人喰いは一個の大きな球体。それも膨らみ切った風船の中に居る様な状態にある。いったい、どういう精神の働きがそうしているのかは見当もつかないけど…あいつ自身が内側から鬼鎧(きがい)押し上げて、五体を覆っている()をも押し広げている様な…そんな感触がある…。多分、高圧で噴出し続ける()が、あの人喰いの感覚の範囲を劇的に拡大して、そこに侵入するものの動きを実感としてフィードバックしているだわ。あいつら…ったく、二人してとんでもないものを持ってるんだから…。)

 千明の思索の果てに、擦り切れ、ボロボロになったハンカチ。それが今、黒い鬼人(おに)と洋平の衝突によって起きた突風に煽られ、彼女の手を離れていく。

 そよそよと舞い上がる前髪に細い眉を撫でられ…それでも千明の瞼は閉じたまま…まさか、眠ってしまったのではあるまいな…。

 洋平も著者と同じ心配を感じている様で、

「おいっ、またかと思えば…あれ眠っちまってんじゃないか…。」

と、今しがた、二度目のニアミスにより肩をぶつけ合った黒い鬼人(おに)に問い掛ける。

 黒い鬼人(おに)は、投げ掛けられた言葉の後から飛んでくる横殴りの尾を、スウェイバックでギリギリかわしておいて、

「確かに、鬼膜(きまく)の質が変わったようですね。それも今度は、さっきの沸騰する様なイメージと違って、ずいぶんと平坦に…。」

 黒い鬼人(おに)はそこで言葉を言い置いて…後方に掛った加重を利用してのオーバーヘッドキックで洋平を脅かす。

 「それでも眠っていると言う事は無いですよ、これなら…。」

と、黒い鬼人(おに)は巨体で軽々と後方宙返りを成功させて、言葉を次いだ。

 洋平は、黒い鬼人(おに)が『能力』を発揮できるだけのスペースを確保できぬ様に、強引にその間合いに入り込んで、

「そうかぁ…。俺は寝てる様な気がするんだよなぁ…。」

 「そこまで言うのなら…一つ、試して見ますか。」

「悪い奴だよな、お前って男は…で、どうするんだ。」

 「別に特別なことは必要ありません。貴方は…かわせるものならかわし下さい。」

「あっ、それはどういう…。」

と、洋平尋ね様としたその時、洋平の感覚の中で黒い鬼人(おに)が巨大化した。

 その錯覚がコンマ一秒…洋平が黒い鬼人(おに)の接近に気取るのを送らせた。

 洋平は息を詰まらせながら必死に、黒い鬼人(おに)の肘鉄をかわそうと横っ跳びで右にかわす。…だが、あとほんの一瞬あればと言うところで…逃げ切れない。このままでは右肩からそぎ飛ばされてしまいそうだ…ところが…。

 洋平は不図(ふと)、何か気付いた様に、あるいは思いだした様に…数センチのところまで接近する黒い鬼人(おに)の左肘に…左拳を合わせた。

 だが、それでは左手の指をそぎ飛ばされてしまうのでは…。

 どんな制止も、どんな躊躇いも割って入ることなど出来ない。そんな刹那の見切りがこの小さな激突の勝敗を決める…。

 脆くなった瓦礫を砕く様な、研ぎ澄まされた衝撃音の波を四方八方に放って…この小競り合いのみで言えば勝ったのは…洋平。

 黒い鬼人(おに)は結晶の表面を潰された左肘を引いて、

「バレていましたか。流石に対応が的確だ。」

 洋平も左拳を退いて…だが、すぐにその左手で黒い鬼人(おに)のリズムと、間合いを制圧する。

 「正直言うと最小はビビったけどな。いきなりお前がでかく成った様な気がしたは、それにあの風圧だろ。完全に、こっちの皮膚感覚を狂わされたよ。だけどな、よくよく見てみれば、お前の身体が残像みたいなのを引きつれて無かったのに気付いて…それで、お前が尻尾の『能力』使ってないのに気付いたんだよ。」

「だから、僕の体当たりが単なる虚仮脅(こけおど)しの類に過ぎないことを、文字通り看破することが出来たと…やぁ、まったく大したものですね。貴方も、鬼姫様も…。」

と、二人の目線が、千明の方へと注がれた。

 「なっ、俺が言った通り寝てただろ。…って、俺が言いだして置いてなんだが。この状況で居眠りとはどんな神経してるんだか。ああいうのが王者の貫録ってやつなのかな。」

「どうでしょうか…どうも僕の様な小者とはスケールが違い過ぎて…。それにしても、本当に眠っていたんですね。言いかえるなら…眠った状態でも彼女の()はあれだけ凶悪な訳ですか…。あの分だと、彼女と同衾することさえ、並みの鬼人(おに)には命懸けの行為になりそうですね。」

 そう二人して千明の底知れない力を湛えつつ、『遊び』の手は緩められることは無い。

 千明は…白銀の瞳をパチクリさせ、仄かに耳たぶを赤らめながら…夢現(ゆめうつつ)に見ていた二人の影を瞼の裏から追い出して、彼らの実像を見つめ直した。…少し眠ったせいか、表情が凛として魅力が増したようだ…まったくタフだな、鬼人(おに)にと言うのは…。

 「…これじゃあ、埒が明かないなぁ。二人とも死力を尽くして攻撃を繰り出していると言うのに、互いに決め手に欠けるとは…どうしたものでしょうねぇ。」

 それは弱音か、それとも何やら意図があっての言葉なのか。黒い鬼人(おに)は洋平の攻撃を避けながら、そして自分からも攻撃を仕掛けながら、誰にともなく語り掛けた。

 洋平はそれに、黒い鬼人(おに)と同じく避けて、そして攻撃を仕掛けながら、

「問題無いだろ別に、俺達はどっちが生き残るかを決めようとしてるんだ。だったら、どっちかが死ぬまでやりゃあ良いさ。」

 「でも…そうなると、先に力尽きるのは首から下の無い貴方ってことに成りますよ。」

「んっ、そう言われれば…それも、そうだよな…。」

と、洋平が不意に悩ましげな声を…死闘の最中に、一瞬にも満たない時間とは言え、訪れてもいない死に心奪われるとはあまりに迂闊な…それでは如何に感知能力に優れていたとしても、忍びよる白刃(しらは)の感触を気取ることは出来ない。

 「その隙、もらいましたよ。」

 黒い鬼人(おに)は予めそうなることを知っていたかの様に…否、事実していたのだろう…頭を狙う洋平の尾を掴んだ。

 内心の端である尾を敢えて狙ったことも功を奏した面も有っただろう。かくして、洋平が自らの尾に迫る墨染の残像を視認した時には、すでに黒い左腕が勝負を決していたのだ。

 そして、超高速の攻防が行き着く次の一手は無論のこと…、

(『虚抜(うろぬ)き』)

 …洋平も、千明と同じことを思っただろう。それとも、すでに『実感』しているのであろうか…。

 どちらにしても、洋平の鬼鎧(きがい)から自由が失われるまで、後ほんの数瞬のこと…つまり『問題』は…その数瞬を如何に使い、如何に過ごすかと言う事に集約される…。

 黒い鬼人(おに)の『虚抜(うろぬ)き』が尾を伝って駆け上げってきた。

 全身に、黒く安定して()が伝わるまでにはもう幾ばくも無い。…ならば、ここは…こんな時こそ沈着冷静に自分のフォームを守って、残された時間を最大限に利用するように努めなければならない。それでこそ、小細工を弄した黒い鬼人(おに)へ、拳にものを言わせることが最良だと知らしめることが出来る。

 したがって、洋平が今やるべきこと、頭を悩ませるべきことは…右腕を突き出すか、左腕を突き出すのかと言う事のはずだ。…それだと言うのに…。

 洋平の尾の根元から、鬼鎧(きがい)の身体中へと拡がっていく波紋は、遂に、洋平の四肢の動きを殺してしまう…何をやっているのだ。

 確かに、黒い鬼人(おに)の『虚抜(うろぬ)き』の伝播(でんぱ)は思ったよりもずっと早い。だがしかし、洋平の、鬼人(おに)の性能を持ってすれば、黒い鬼人(おに)に対して一矢を報いることは十分に可能だったはずだ。それだと言うのに何故…何故、洋平は『口』を閉ざしてしまったのだろうか…。

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