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第四話 その三

[34]

 二枚の『鏡』が…二人の鬼人(おに)が…映し合い、交わし合った仄暖かい光は…なぜか乱反射して…どうやら、千明の向こう面の上に焦点を結んだようだ。…桑原、桑原…。

 洋平が『鏡』の端を傾げて…もとい、掴み上げられた頭を傾けて、黒い鬼人(おに)に算段を立て掛ける…ではなく、持ち掛けた…。

 「それじゃあ、まずは、きっかけ作りと言う事で…いよいよ鬼姫さんに頼むとするか。」

「本当にやるんですかぁ…彼女は僕たちよりもずっと情緒の安定している方だし…特別、僕たちがサンドバックになって上げることも無いと思うんだけどな。…て言うか、位置関係からしても、的になるのは僕だろうし…。」

 「そう言うなって。これから死ぬ俺が少しでも、安らかに逝けるように協力してくれよ。なに、お前なら、鬼姫さんが全開でフラストレーションをぶつけて来たとしても、死ぬことはないだろうさ。だいたい、お前、俺を叩きのめした後で、さらに何か俺にさせる積りなんだろ。だったら、このタイミングで鬼姫さんの怒りのボルテージを下げて置くのは損じゃないんじゃないか。…だろ。」

「…どうもさっきから、僕の断り辛い方、辛い方へと、上手く話を持っていかれている様な気がするんですけど…貴方の言葉をおうむ返する積りも有りませんが…しもしかして、僕の考えていることが読めるんですか…。」

 洋平は、自分の指した妙手を褒められた子供の様に無邪気に、

「バレたか。…まぁ、朧気にな。お陰さまで一々、俺が上手い文句を考えなくても、だいたいでお前が教えてくれるから、ずいぶんと助かってる。」

 「想像以上の感知能力の向上具合ですね。…加奈子さんたちの内心からの声に耳を傾けずに済んでいる。それだけのことでここまで僕の思考をなぞって見せるなんて…やはり、僕と貴方は…。」

と、黒い鬼人(おに)がなにやら未練がましそうな口ぶりに成ったのを見計らって、洋平が自分の首まで伸びるその黒い腕を、ポンポンッと叩く。

 「あぁ、はいはい、お前の言いたことは解るよ。…解ってるから、取りあえず、俺を落っことすなよ。どうやらもう足腰立ちそうに無い。次に地に足を付けたら、この脚が削れて無くなるまで動かし続けるしかなさそうだ。流石に、鬼姫さんがちゃんと怒りを『爆発』させるのを確認するまでは、人でも、鬼人(おに)でも無く、今の冷静な俺で居たいんでな。」

「貴方が…今、僕が考えない様に、考えない様にしていることを口走らない限りは大丈夫ですよ。だけど、もしもその話題が出た時は…『うっかり』とか、『思わず』なんてことが起こるかもしれませんねぇ。」

 洋平はもう一度、黒い鬼人(おに)の右腕を軽く叩いた。それから、その腕を手で引き付け、更には少し顎を上げて、黒い鬼人がより掴み易く成る様にと、鬼鎧(きがい)の喉笛を掌に押し付ける。

 さぁ、それだけの万全の準備を整えて、洋平は如何にも何気なさそうな口振りで、

「んっ、あぁ、夏芽のことだろ。勿論、気を付けるさ。しっかし、俺が加奈子のことを話題にしないでくれって頼んでおいて正解だっただろ。お前にとっては加奈子は、夏芽という大きな存在の延長にしか過ぎない。そうなると必然的に、お前が加奈子を話題にする度に、俺は夏芽のイメージを見せつけられることに…おい、だから離すなって。ちゃんと言いたい事は通じてるよ。そう言う事だからお相子に、お互いの女についての言い合いをするのは、一時休戦にしょうな…と、俺は言いたかったんだよ。…たく、思ったよりも融通が聞かない所があるんだな、お前にも…。」

 「でしょうね…現時点で、おそらく僕よりも感知能力に優れた貴方がそう言うなら…。で、互いの女難に関して舌戦を繰り返すのは止めて…それを、第三者の鬼姫さまの元に持っていこうと言いたいと…。」

と、黒い鬼人(おに)詮方(せんかた)なしの鼻息を読んで、洋平は満足気に、

「その通りだ。あっ、なんだ、まだ気乗りしないのか…なら、俺だけで鬼姫さんをからかって遊ぶとしようかな。」

 その不謹慎な発言に対して、黒い鬼人(おに)…、

「誰もやらないとは言っていませんよ…じゃあ、先攻はそちらで、僕はそれに合わせる形で続きますから…。」

 「…ちょっと貴方達、大の男が額突き合わせて何してんの。立会人をこうして待たせてるんだから、密談以外に、もっとやることがあるんじゃないの。」

 千明が遂に我慢できずに、二人を消し掛けた。黒い鬼人(おに)と洋平は…これ幸いと、

「ほら、鬼姫さんも待ちきれないとさ。…それじゃあ、上手くやれよ。」

 「貴方の方こそしっかりと、貴方らしさを前面に押し出して下さいね。」

 そう段取りを付けて…そして…、

「うっせぇな、戦力外は黙って大人しくしてろよ。俺の尻尾の毒を受けたんだ。どうせその左腕、まだ、満足には動かせないんじゃないのか。」

 洋平にそう指摘されて…千明の奥歯を噛み締める悔しげな音が響く。そして無論のこと、尖り切った視線が洋平へと突き立てられる。…これもまた言うまでも無く、黒い鬼人(おに)の大きな背中を貫通してだ…。

 「んっ、なんだ。あんた、本当に左腕が使い物にならないのか。…はっはぁん…そうか…。喧嘩っ早いあんたを差し置いて、この黒いやつが俺に挑んでくるなんて可笑しいと思ったんだよなぁ。…だろ。実は、そうなんだろ。実際のところは、あんたが止めをさせる程度に俺を弱らせるために、この黒いやつが先に俺と闘う…いや、『遊ぶ』ことを許した。当然、こいつじゃ、俺を倒しきれないだろうと踏んでな。なるほどねぇ…確かに、言われてみれば、初めからあんたが美味しいところだけ掻っ攫っていくことに決まっていたなら…そりゃあこいつだって、『お遊び』だって言いたくなるよな。納得いったわ。」

 …恰も、黒い鬼人(おに)が乗り移ったが如き見事な嫌味。それも、黒い鬼人(おに)が一時は千明の憤懣を買い掛けた、『遊び』発言を引用するにまで及ぶとは…ところで、洋平は黒い鬼人(おに)の思考をなぞって言葉を紡ぐことが出来ると言っていたが、まさかこれも…いや、水掛け論は止しておこう…。

 千明はそんな洋平の言葉への対抗心からか、左拳をぎゅっと握り締めた。しかしながら、自分の左腕に何の異常も無いと言いたてることは…、

(あの黒いのに血を与えられた事を喋ることになる…。)

と、そんな思惑が、明確な言葉ではなくイメージとして、千明の白銀の瞳の後ろを掠める。

 …たったそれだけのことが悔しくて、千明の口は反論する作業を拒んでしまったのだ…底抜けに、変わった性格をお持ちのお嬢様だ…。

 黒い鬼人(おに)は、振るえるほど力の籠った千明の左腕をチラリッと目視。それから、小さな溜息を漏らしつつも…流石と言うか、パッと切り替え早く、

「ちょっと、あんまり鬼姫さまをいじめては可哀想ですよ。…にしても、怒りが感情に先立って腕力の方へ行くんですから、これぞ生粋の鬼人(おに)。鬼人の中の鬼人と言っても過言ではないでしょうね。…あれっ、なんの慰めにも成らない…そうかなぁ。」

と、軽く呼吸を整えるかの様におべんちゃらを吐いて、

「まぁ、それはそれとして、鬼姫さまはすでに復調を果たしておられますよ。左腕だって、問題無く動かせるはず…この僕が保証します。ですよね、鬼姫さま。」

と、千明が答えを濁すのを承知で尋ねる、黒い鬼人(おに)

 そこへ、返事ともつかない声で応じようとしている千明を遮る様に、

「はぁ、ホントかよ。人喰った俺から見ても、化け物並みだな。」

 …鬼姫と呼ばれることにすら抵抗感を示した千明には、かなりきつめの台詞だろうか…。

 ここで平常なら…いや、こんな鉄火場で平常も何もないかもしれないが…少なくとも、黒い鬼人(おに)が茶化しつつもフォローしてくれていたかも知れない。…が、今回に関しては、残念ながら談合済み。

 黒い鬼人(おに)はさも楽しそうに…もとい、断腸の思いで、

「あっ、気付かれましたか。それには、人喰いの方でも大いに納得できる理由がありましてねぇ…それがですよ。」

 千明が咳払いを一つ。それでやっと気付いた…かの様に、黒い鬼人(おに)が、

「おっと、これはいけない。二人の大事な秘密をばらしてしまうところでした…そう言う訳ですから、ここから先が知りたければ、今度こそ僕の『口』を裂いてから聞きだして下さい。」

 「それでお前の口が減るんなら、何度でも裂いてやるよ。…でもまっ、お前たちの仲がどの位のものなのかは、正直、興味あるな。」

「僕も話したいのはやまやまなんですけど…ほら、鬼姫さまの彼氏にも悪いですから…。」

 「おいっ、あいつ、彼氏いるのかよ。…人間じゃないのは間違いないとして…そりゃきっと、ガタイが馬鹿丸出しに良くて、如何にも鬼人おにですって奴なんだろ。んで、当り前に、暑苦しいぐらい体育会系標準装備の奴な。」

「そうだと思いますよね。でも…違うんだなぁ、これが…。それと言うのはですね…。」

と、宅配ピザでも注文する様な気易さで、自分のことを好きかってに言ってくれる野郎二人に、千明はまたも咳払い。それでも今度は…黒い鬼人おにの軽口が気に障ったのか…左手は広げられたままで…筋肉のけいれんは止まらない。

 全くもって、大らかなのは朝映えの光景だけのなのだ。

 黒い鬼人おにが和やかに笑う。

 「おっと、どうも僕は、舌の滑りが良すぎるのが困りものだ。これなら、さっき抵抗しないで、貴方の毒針を放り込んで貰えば良かったかな。薄荷の飴でも舐めてれば、僕の舌の滑らかさもカケラ程は落着いていたでしょうに…。」

「薄荷とは言ってくれるな。…なんなら、今からでも試してみるかよ。俺は舌が痺れる程度じゃ済まないと思うぜ…なっ、そうだろ、鬼姫さんよう。」

 洋平に話を押し付けられて…だが、千明はそう明快には答え返せない。…が、なぜか、このタイミングで一斉にこちらへと向けられた二人の視線に促がされて…千明はしぶしぶ、ミントの葉を噛み締めた後の様な、麻痺した舌を動かした。

 「その黒いのの鬼鎧きがいの強度が物凄いのは確かよね。私の鬼鎧のはその人喰いの毒針に貫かれたのに、黒いのの鬼鎧には…少なくとも、ちゃんと真っ黒い状態の時には、傷一つ付けられなかった。…だけど…私だって、何も鬼鎧を溶かされた訳じゃない。毒針を埋め込まれたことで生身の腕が溶かされたに過ぎないんだから…。だから私も、はっきり言って、鬼鎧の内側にその人喰いの『能力』の結晶を通してみろ…っていう安い挑発は、無謀だったと思う。そんなこと聞かされたら、私だって…『馬鹿言ってんじゃないの。これ以上私を苛立たせたら、実力で訴えるよ。』…くらいのことは言いたくなるかもね。その人喰いと同じように…。」

 最早、完全な脅し文句と化した鬼姫さまの有り難いお言葉。

 しかしながら、脅されている方も鬼人おに。気安く千明の言い分に乗っかって、

「ほらな、鬼姫さんだってこう言ってるだろ。…鬼鎧きがいを溶かされた訳じゃないってとこは、引っ掛かるが…まぁ、いいさ。それでも十二分に、俺の尻尾の力は証明されたのには違いない。なにせ、実体験が元に成ってるんだから、説得力あんだろ。」

 千明を挑発するだけならばここまででも十分だったかもしれない。現に、千明の右足が浮き掛けている…。だがしかし…几帳面な性格の相方からするとまだまだ、千明をその気にするのにはメッセージが足りていない。…そんな思いに駆られたのかは定かでは無いが…動きだした黒い鬼人おにの滑らかな舌の回りは、あらゆる摩擦を無視するかのように留まること知らないのだ。

 「それはどうでしょうかねぇ…生身の肉体が溶かされたのだって、腕の中に侵入してきた大野さんの、そしてそれが作り出す毒素を、鬼姫さまの鬼が制することが出来なかったのがそもそもの原因とだって言えるでしょうし…その証拠に、鬼姫さまの腕が使用不能状態になるまでには、幾らかの時間が掛っていましたよね。それは抗いきれないまでも、内部を侵食する大野さんの鬼に、鬼姫さまの鬼が抵抗を試みていということに他ならない。要するに、鬼姫さんの鬼が貴方の鬼に遅れを取ったと、そう言う事でしょう。そんな低次元な小競り合いの勝敗がどうなろうと、別段、僕が貴方の『能力』を恐れる理由にはなりません。…僕だって、そのくらい先刻承知で、貴方の『能力』をこき下ろしたに決まっているじゃないですか。」

 そう、黒い鬼人(おに)に自信満々に言われると…洋平は目的を一端脇に置いて、

「いや、結論出すの、ちょっと待て。鬼姫さんの()は俺達の鬼より、相当、強力なんじゃなかったのかよ。」

 「その通りですよ。今だって、彼女の()が凶悪過ぎて、僕達の方では鬼の出力がかなり制限されているくらいですから…だけど、その問題は密度の違いによって簡単に解消されるんです。現に、鬼鎧(きがい)の周りを覆っている目に見えない鬼の粒子は、彼女の鬼にあっというまに喰い尽くされてしまいますが…対して、結晶化した目に見える鬼は、微塵も彼女の鬼によって齧られたり、削られたりはしていないじゃないですか。…逆を言えば、もしそういう恐ろしい目に遭うのだとしたら、僕が一生懸命に貴方を殴り続ける必要もなかった。」

 この話は千明にとっても関心のある事柄だったようだ。…多少とも、腕の力みがとれ、震えが収まっている…桑原、桑原。

 洋平も、我が身に迫る死の影をも忘れた様に、黒い鬼人(おに)の朱色の瞳を真っ直ぐに見据えて、

「密度の高さがネックに成っていたのか…それならお前の黒い()に太刀打ち出来るかは難しいところか…いや、やっぱ、やってみたら案外と、解らないかもしれんぜ。」

 洋平は緩慢にくねる尾を持ち上げて、尾の先端から伸びる如何にも毒々しい毒針を見せつけた。さり気無くその尾を右手で掴んだのは、今にも黒い鬼人(おに)へと飛び掛からんとする、内心の端に追いやられた人外の激情を抑制せしめるためだろうか、それとも…。

 洋平はともすれば糸の切れた様になる尾と、腕を、なんとか堪えさせながら、

 「異様に密度を高めたお前の黒い()なら、鬼姫さんの鬼みたいな駆逐力はなくても、なるほど少量で十分に他人の鬼の活動を制限できるみたいだな。どうりで、お前だってこの鬼膜(きまく)の内側に居る上に、俺よりも運動量は多のに…やけに元気がありあまってるなと思ったぜ…。お前、この薄ら白い靄に『俺達』の鬼が喰われてると言う割には…実のところ、『俺達』の中でも、『俺』の喰われてるウェイトの方がずっと多いんだろ。」

と、洋平は黒い鬼人おにの頭からまたもや言葉を拾ってき様子で、

「…そうか、鬼姫さんのが他人の鬼に干渉する力が極端に高い。反対に、お前の鬼は干渉する力が低いどころか、マイナスに振りきれてるってことか。成程な、それが滑らかさで、安定になるのか。」

 洋平のその黒い鬼人おにの内心に触れる認識に感銘を受けた様に、千明が感に堪えた様な口振りで、

「マイナスか…言われてみればその表現がしっくりくるかも…。それに、これでようやく納得いったわ。鬼膜きまくを通しても、そいつの動きだけは感知することが出来なかったこともそう。それに、本来はを乱すことで相手の動きを制限するはずの『虚抜うろぬき』を、その黒いのが何事も無かったかのように行えていたこともね。まさか、干渉しない、干渉させないなんていう干渉の仕方があったとはね。…ところで、一つ引っ掛かってるんだけど…その黒いののの密度が高いのは知ってる。でも、『異様に密度を高めた』ってどういう意味。それが、あの血生臭い色からの変化と、何か関係有るの。」

 千明にそう理路整然と尋ねられて、黒い鬼人おには、

「さぁ、どうでしょうかねぇ…。」

と、お馴染みの生返事、そしてすっとボケていることを隠そうともしないのは右に同じ。…とは言え、こうも言いっ振りのノリが悪いとと成ると…どうやら、からかっていると言うよりは、本心から話し辛い内容だったと見て間違いないのだろう。

 そんな黒い鬼人おにの窮状を見かねて…か、どうかは定かではないが…洋平は兎にも角にも、何らかの使命感に突き動かされる様に、口を挟む。

 「おい、俺にはただでさえ時間が無いっつってんのに、何を解り切ったことを聞いてんだよ。んなの、俺が死んだ後でも聞きだせることだろ。だいたい、なに人が喋ってることを横取りしてんだ。泥棒と一笑だぜ、それ。もちっとお嬢だって自覚もたないとパパが泣くぜ、本気で。」

「あっ、それ、禁句ですよ。」

 そう忠告する黒い鬼人おにの言葉は遅すぎた…っていうかお前ら、言葉にしなくても意志疎通出来てんじゃなかったのかと…。

 千明が凄い顔で笑っている。

 「なんか、へらへら笑ってるが…とてつもなくおっかないな。…にしても、こっちに突進してこないぞ。まだ嫌味が足りなかったか。」

「知っての通り、彼女、プライド高いですから…なかなか、鬱憤を『爆発』させるのも難しいんでしょう。『あんな格下どもに、この私が…大人げない。』みたいに…。だけどあの笑顔を見る限りでは、まぁ、あと一押し。彼女の羞恥心に付け込む様な事でも言えれば、それが決まり手に成るじゃないですか。」

 「そこまで言うからには…あるんだな、思い当たるのが…ちょうどお前の番だぜ。」

「はぁ、気楽なもんですねぇ。自分がまだ成仏してないことをお忘れなく…。」

 「当り前だろ。死ぬよりも前に、お前との決着を付けなきゃないからな。」

 …黒い鬼人おににとって、洋平と言う存在はいったいどのようなものだったのだろうか。

 どうやら、死が年内にもという間近に迫るまでは、他の鬼人おにとの何かしらの交流を持っていたようではあるが…おそらく、これほど似通った内心を持ったものとの接点は無かったのではないか…。

 黒い鬼人おには洋平との…おそらくは最後に成るであろう冗談交じりの会話を…心の底から吐き出した様な、小さな笑いで締めくくった。

 「まぁまぁ、折角の鬼姫さまの貴重なご意見なんです、構わないじゃないですか。それに、鬼姫さまには、手間を一つ省くお手伝いもして頂いたこともありますから…。」

 その黒い鬼人おにの物言いに、千明は白銀に輝く瞳をパチクリ。頬まで伸びた口の端が多少は緩む。…なんだと思ったのだろう…。

 「手間を省く…それは、毒針を放り込んでみるまでも無いってことか。」

と、怪訝そうに尋ねる、洋平。そして…何か不穏なものを感じているのか、笑顔がへばり付いたままの千明。

 そんな二人に向かって、黒い鬼人おに)が淡々と言い放つ。

「僕の不可視状態の()では、貴方の鬼鎧(きがい)を削ることは出来ない。それと同じように、貴方の毒針がもし体内に侵入して来たとしたら…それを見えない鬼で破壊することは不可能。それは、幾ら僕の鬼が、貴方の不可視状態の鬼と比べて密度が勝っていたとしても、固形化した…目に見える程の高密度で収束した貴方の鬼とでは、貴方も先刻ご承知の通り、当然のことながら軍配がそちらへと傾く事に成るからですよね。そして更に、貴方はこうも考える。…固形化した自分の鬼が、密度で僕の鬼に勝るのなら、毒針から分泌される液体の鬼でも、僕の見えない鬼より密度の上で勝つことが出来るのではないかと…今にして思えば、液状化した鬼と、不可視状態の鬼の密度の差こそが、自分より明らかに強力な鬼を持つ鬼姫さまとの、せめぎ合いにおける勝因だったのではなかったか…とね。」

 洋平はやや気に食わなそうな声で、

「そして、鬼姫さんとの小競り合いを制した理由は、その密度の差とやらで正しい…と、お前は言う積りなんだろ。…で、どうして、お前の不可視状態の鬼が、俺の液状化した鬼より勝っていると結論付けたのか…そこんところを聞かせて貰おうか。」

 黒い鬼人(おに)は洋平に促がされるままに、だが妙なところで強情さを見せる様に、あくまでも自分のペースを崩さすに応じる。

 「貴方の液体の()が鬼姫さまの鬼に勝っていたというのに、どうして彼女の腕は千切れていないと思います。…ちなみに、貴方が彼女の左腕に残した置き土産は、僕が取り出して差し上げました。」

「そうか…お前はどうにかして鬼姫さんの中に、お前の黒い()を送り込んだのか…。そして、それが鬼姫さんの左腕に残った俺の鬼を駆逐したんだな。」

 「より正確さを求めて推測するなら、僕の()が貴方の液状化した鬼を無効化して、それを鬼姫さま御自身の鬼が駆逐したと言ったところでしょうか。でも…。」

と、黒い鬼人(おに)の語気の端々にまで行き渡る、明らかな悪戯心。

 千明はそれを鬼膜(きまく)の力でか、あるいは経験がものを言ったのか…敏感に感じ取って…何やら寒気にも似た嫌な予感に、身震いしている。

 気の所為か、洋平の腕力にも揺るがなかったフェイスマスクの傷を広げて…黒い鬼人(おに)は言葉を次ぐ。

 「本当は貴方から頂いた血を飲ませて、時間を掛けてゆっくり解毒させようと思っていたんですよね。それが結局、『そういう次第』になってしまったもんですから…とは言え、僕の()が貴方の『能力』から作り出される毒液を中和できることが解ったのは、予期せぬ収穫でしたね。それもこれも、鬼姫さまが…おっ…。」

 俯く千明がスタスタと足早に近づいて来るのに気付いて、黒い鬼人(おに)が話を中断した。

 千明は黒い鬼人(おに)の背後で脚を止めると、ポツリッと、

「そいつの血を飲むのを拒んだのは、私。だから…貴方が私の身体を使って、自分の()がそいつの毒に対抗出来るかどうか、それをはなから調べようとしていたなんて思ったりしない。それに我が儘言った私に、『心血(しんけつ)』を分け与え、回復の手助けをしてくれたことも有り難いと思っています。」

 下を向いた千明の艶やかな黒髪を、薄紅の光が濡らす。そんなたおやかさがありありと浮かぶ景色の中で…酷く恐ろしいもの見せられている様な気がするのは、なぜだろうか。

 千明は前髪の隙間から白銀の瞳を向けて、

「だから…これっきりで、すっぱり許します。」

と、千明は髪を振り乱して優雅に一回り。そしてその勢いで、長い脚を黒い鬼人(おに)の背に向けて…。

 「おいおい、マジかよ。そこまでやるとはな。」

「まっ、怒らせた僕らが言うのも何ですけどね…しょうがないなぁ。」

 そんな二人の奇妙に冷静な言葉をかき消して、千明が大声で言い放つ。

 「あんたら、最低だっ。」

 そして、まさに抜群のタイミングで、千明の回し蹴りが黒い鬼人(おに)の背に捩り込まれる。…そう、まごうことなく捩り込まれたのだ。

 黒い鬼人(おに)鬼鎧(きがい)の背が、ゴムの様に千明の脚力を受けて内側に凹んでいる。それは当然、細い脚をピンッと伸ばして蹴りを入れた千明にも伝わって…朝焼けを塗りつぶしてしまうかの様な、鮮麗な白銀の瞳を真ん丸にして驚いていた。

 そして、慌てた様に黒い鬼人(おに)の背中から靴底を離すのだが…もうどうしようもない。

 黒い鬼人(おに)は突きだした手に洋平の首を掴んだ形で、正面の柱へと激突するのだった。

 押し込められていたものが解き放たれたように、柱の根元から勢いよく噴き上がる粉塵。

 ポカンとした表情で、現実感と夢うつつの境界を眺めていた千明も…その粉煙に取り巻かれて、ようやく我に返ると…咳払いをしつつ、煙をかき分け、在りうべき二つの影を探し始めた。

 一方、粉塵の最中。砕け散った柱のあったスペースに潜り込んだ洋平が、目の前に凝然として立つ黒い影に語り掛ける。

 「ずいぶんと優しいんだな。それに、本当に器用な野郎だ。この鎧、使うやつが使えば、あれだけ柔軟性を持たせることも出来るのか…しかも咄嗟にそれを遣るんだから、感心するよ。」

 粉煙が少しずつ引き…洋平の目の前に現れた黒い鬼人(おに)が応える。

 「僕はただ、なけなしの()をこれ以上、鬼鎧(きがい)の修復の方に回したくはなかったと…それだけのことですよ。」

「そうかぁっ。そうは思えないなぁ。鬼鎧(きがい)を傷つけられたくないだけならもっと楽な、鎧の強度を上げるって手が有ったって言うのにか。」

 「そう言われればそうでしたね…それこそ咄嗟のことだったので、どうも思考が遠回りしてしまったようだ。」

「遠回りして、頭が鬼姫さんの脚を守る方に働いたってか…隠すな、隠すな。あのまま、いつも通りのお前の鬼鎧(きがい)の強度で鬼姫さんの回し蹴り受けてたら、あの娘の脚の骨、間違いなく折れてただろうな。…やぁ、俺も、まさか鬼姫さんが全力で蹴りいれてくるとは思わなかったから…お前の寸でのところでの配慮があってくれて助かった。…それに、まっ、鬼姫さんだって、あれだけ思いっきりければ、ストレスなんてどっかに吹っ飛んだろうな。結果的には、これで良かったよな。」

と、そうこう話している間に砂埃はすっかり晴れて、千明の目にも二人の姿が…それと、黒い鬼人(おに)の大きな背が映る。

 黒い鬼人(おに)背中には、千明の靴の跡がまだくっきりと残っていたが…柔らかいものが容易く元の形状に戻る様に…その靴跡も千明の目の前で、隙間を埋めていく様にスッと消えていった。

 その様子を見て…ほんの数秒前までどこか心配そうな、そして、微かな罪悪感で顔をやや青ざめさせていた千明が…なんとも呆れた様な、それでいて諸手を挙げて降参する様な、そんな苦笑いを黒い水晶の背中へと送る。…この千明の僅かな表情の変化のみで十二分に、洋平の言った通り、黒い鬼人(おに)が造作なくやってのけたことが、他の鬼人にとっては至難の技であったことが理解できるようだ…。

 だが、洋平が真に褒めているのは、『そこ』ではないのだ。

 「お前は鬼人(おに)としては最悪ってレベルで性格悪いけどな…多分、咄嗟(とっさ)に人間の部分が、人情味って形で顔を出すんだろうな。そして、それは鬼姫さんに対してだけと限ったことだけじゃない。お前は俺を鬼人として殺しに来た癖に、人として始末しきれなかった…それは俺を殺そうとするのを、自分を殺そうとしている様な錯覚を覚えるからなんだろ。…それだからこそ、俺に力の全てを『爆発』させて、自分の中の生へ未練をも断とうとした…そして、それは俺も同じか…。」

「僕に優しいところがあるのは正しい…ということは有るかも知れませんが…貴方が優しいかどうかは、僕には定かではありませんね。」

 「確かにな…そこら辺が、お前が俺に対して攻撃的に成りきれない理由かもな。」

 洋平はその紫鳶(むらさきとび)の瞳で朝日を見つめた。…瞬かない瞳が一瞬、白く閃く。

 「笑ってくれ。」

「えっ…。」

 「性格最悪の鬼人(おに)として笑ってくれれば、俺はそれで満足だ。例えこの『お遊び』が、どんな結末を迎えたとしてもな。後は、お前の望通り、どこへなりと付き合ってやるよ。」

 洋平は小さく笑うと、身を起こす様に肩を柱から引き抜いた。

 …と、まさにその拍子に、作業場全体が地鳴りの如き音を立てて鳴動しだした。これは…。

 「短時間ですけど、二人で良い様に荒らしまわりましたからね。そこに持ってきて貴方の『能力』。そして鬼姫さまの怪力と立て続けに重なった日には…当然、どんなにしっかりした構造物でも保つはずがありませんよね…これは、基礎工事からやり直しかな。」

「かもな。だがそれも、これから死ぬ俺には関係ねぇな。それよりもだ…解ってるとは思うが…。」

 「言われるまでも有りませんよ。…絶対に離しません。」

 黒い鬼人おには再び直立不動で洋平の首根っこを吊るし上げにする。

 洋平はやおら両手を黒い右腕に近づけると、

「そうか、なら、俺も安心して本音を吐き出せるってもんだな。」

 「えぇ、僕からもぜひお願いします。弱音も、悪態も、残らず吐き出して下さい。喉まで出かかった言葉が喉につかえるときは、僕が全力で締め上げて差し上げましょう。」

「ククッ、そいつは頼もしい。じゃあ、お言葉に甘えて…。」

 頭の上から、作業現場の二階部分が潰れる音がする。そこかしこからも、金属がへしゃげ、コンクリートの割れる音が追いかける。

 それは誰の耳にも明瞭な、崩壊を告げるシグナルであり、断末魔の咆哮であった。

 唐突に忍び寄る暗闇に…千明は作業現場の天井に視線を走らせて、

「ちょっとお二人さん。これは場所を移した方が良いんじゃないかな…。」

と、予想通り動く気配の見当たらない黒い鬼人(おに)と洋平に声を掛けた。

 (別に期待していなかったけど…。)

 やはりと言おうか、返事は来ない。

 千明は目線を下げて…今しがたの軽挙の気恥かしさからか…お節介とは知りつつも今一度、二人に向かって声を掛ける。

 「ねぇ、そこに居ると二人仲良く瓦礫に埋もれることになるかもよ。あんたたちは性根は曲がってても、暑苦しいのが好みってタイプでも無いでしょ。だからさぁ、意地張り合ってるのは私も知ってるけど、とりあえず、ここは一時退避したほうが…って…えっ…。」

 眩さを弱めていた白銀の瞳が、二人の方へと向けられたその時…千明は、予期せぬ瞳孔の拡大に眩暈(めまい)にも似た感覚に囚われる。

 驚きを交えた瞳でパチパチッと瞬きを繰り返しながら、千明は改めて二人の姿に目を凝らした。

 …二人の姿だけがありありと、周囲の暗がりよりもなお暗く沈みこんでいる…。

 鳴動は絶える事はなく、三人を包み込む影を薄く、濃く、練り上げていく。

 そして遂に…三人の頭上で崩壊が始まった。

 降り注ぐ瓦礫、建材。その一つ一つが当たればただでは済まない重量と、硬度を有しているのだ…固唾を飲む千明の右踵が、自然、後ろの路地裏の方へと引き付けられる。

 (これは…かなりヤバい…。鬼鎧(きがい)を纏えば…でも、ここで私の()が急に活性化したら、二人の闘いに水を差すことに…。)

 もどかしさに息が詰まる。肩もやや仰け反り、後ろを振り返ればすぐにでも走りだせる体勢になっている。

 …と、いきなり耳元を風切り音が掠めたかと思えば…最上部に積み上げられていた建材が落ちて来たのだろう。足元から数センチメートルの所に、細長い鉄筋が突き刺さっているのだ。

 千明は唇の端をピクンッと痙攣させて、冷や汗の滲む背を二人に向けると、

「もう付き合ってらんないわ。」

と、口の中でもごもごと呟いて、その場を立ち去ろうと、だが…地面を擦りながら反転した千明の軸脚を、鉄筋ならぬ、思いがけない罵声が釘付けにする。

 「てめぇ、さっさと離しやがれ。」

 千明がハッとして、肩越しに背後を顧みた。…その瞬間、千明は二人の周りだけが一層濃い闇を纏っている理由に気付いた。

 己の肉体を蝋の如く溶かし、それでもなお、芯と成って、鬼人(おに)としての姿態を止めさせた内心の糸。洋平は今まさにその全てを燃やし尽くさんと、消えかけた命の炎に息吹を吹き込んでいるのだ。

 …人として存在した過去を、そして、鬼人(おに)としての今を…未来など無い、自分の全てを息吹と代えて…まさしく一本の蝋燭と化したその生命を、一秒でも長く燃焼させるために…。

 『(ながれ)』と、絶え間なく『爆発』を繰り返すことで活性化された洋平のが強く耀き、まるで当たりの光の粒子すら吸収しているかのように、また一段と闇が深く成っていく。

 千明はゆっくりと、黒い鬼人おにと洋平の方を振りかえる。

 (この私が、一晩の内にこうも何度も諭されることになるとはね。)

 頃合いを待ってはくれない欠伸を噛み殺して、緩み掛けた涙腺を力ずくで引き締める。

 白銀の瞳を爛々と煌めかせ…千明はどうやら、逃げる事を止めたようだ。

 その白銀が見据える先…朝の光を飲みこんでなお目を焼く様な、紫鳶(むらさきとび)の強い光輝。そしてそんな閃光の只中にあってなお、まざまざとその存在感を見せつける様な、黒く、妖しい光。

 千明の眼光が二つの眩い光をかき分けて、その接点へと注がれる。

 不動の姿勢で、掴んだ洋平の離そうとはしない黒い鬼人(おに)。対して、先程まではある種の親しみすらも見せていた洋平が、その戒めを解かんと、必死に成って黒い右腕を掻き毟る。

 加奈子の()を内心の深くに取り込んだせいか…加奈子と(たける)二人分の鬼を内心に引っ被っていた頃よりも、洋平の爪は鋭さを増しているようだ。…浅くではあるが、黒い鬼人の鬼鎧(きがい)を削り落している…。

 洋平が今度は、黒い鬼人(おに)の右腕に爪を喰い込ませて、その手から首を引き抜かんともがき始めた。

 「クソがっ、この状況が解らねぇのかよ。このままだと二人してペシャンコになるぞ…俺は絶対に、てめぇと一緒に瓦礫に埋もれるなんて御免だからな。」

 そう悪態を吐きながら…洋平は研ぎ澄まされた両の爪を更に深く、あと1ミリ、あと1ミクロンと、どうにか押し込もとするのだが…どうしても、肝心な黒い()の宿る領域に歯が立たない。

 洋平は牙を振りかざすフェイスマスクの奥で鋭く舌打ちして、

「こんな牙も、爪も無い様な半端な奴に…。」

 「あれっ、そこを蒸し返すんですか。まぁ、でも確かに、貴方と僕の違いを明確化した様な部分ではありますよね…貴方としては、僕のように鬼人(おに)としての強みを捨て去る勇気があったならと、そう考えても『後悔』しても可笑しくは無いか…フッ、だけど、僕がそんな貴方の未練を可笑しく思うのも、まったく仕方の無いことですよね。フッ、ククッ…。」

と、洋平の思考を見透かした様に、黒い鬼人(おに)は笑い声を漏らした。

 そんな黒い鬼人(おに)の侮るかの如き反応に…黒い右手から伝わる相手の内心を読み解く術を忘れてしまったか…洋平は暴力的に、黒い鬼鎧(きがい)の腕の浅い部分を引き裂いて、

「牙も生えそろってねぇ半端者が、舐めるなっ。」

と、洋平は左手で黒い右腕を掴んだ。そしてその腕に身体ごと乗り出す様にして、右手の爪を黒い鬼人(おに)の顔目掛けて突き込む。

 その強引に爪を押し込んでくるような攻撃を、黒い鬼人(おに)は首を右肩の方へ傾けると、

「ハハッ、なかなか上手いこと言いますね。だけどそんなスローな動きじゃ、僕の口におしゃぶりを突っ込むことすら出来ませんよ。」

と、滞りなく戯言で舌を滑らせながら、易々と洋平の付きをかわした。…のだが、

「そいつはどうかな。」

 黒い鬼人(おに)の伸ばされた右腕が死角となって、並はずれた反射神経を持つ千明ですら気付くのが遅れた。…黒い鬼人(おに)が爪の一撃を回避している…その一瞬の間隙を縫って…今まさに、洋平の尻尾が黒く染まったフェイスマスクへ向かい、空を切って打ちだされたのである。

 「おしゃぶりが欲しいなら、俺が『刺激的』なのをくれてやるぜ。じっくり味わえよ、坊や。」

 尾の先端が、勢いを付けて目前へと迫り来る。この体勢では、さしもの黒い鬼人(おに)でもかわすことが出来ないかも知れない。…それだと言うのに…毒針が黒い鬼人の『口』に突き立てられる寸前まで近接したこの状況で、千明の瞳には動揺の曇りが見当たらない。

 それは信じている…と、そんな色気のある感情では無いかも知れない。だが千明は、この黒い鬼人(おに)が窮地に直面する度ひらりと、小憎らしくなるほど鮮やかに洋平の必殺の一撃をはぐらかしてきたのを知っている。…だから…、

(今度だってきっと、当然みたいに…ほら、やっぱり。)

 千明の期待にこたえる様に、そして彼女の確信に吸い寄せられるように…黒い鬼人(おに)は、洋平の尾を余韻も残さぬ程に軽々と掴み取ると、クイッと捩り上げて二の句を継がせない。

 「ね、僕の言った通り、『こんな』おしゃぶりみたいなものじゃ、どうにもならなかったでしょう。…あれっ、もしかして…この程度の仕掛けで、この僕を出し抜けれなんて…ククッ、本気で思っていたんですか。心外だなぁ、それは…。」

 黒い鬼人(おに)が洋平の浅知恵をさも滑稽そうに嘲笑う。…これまでにも、洋平の短慮に対して冷やかす様な物言いはあった者の…ここまで露骨に馬鹿にする様な発言をするとは…。

 半分は、洋平の『願い』を聞き届けての事という可能性もあるが…もう半分は確実に、己の内側から湧き出る鬼人(おに)としての衝動がさせている。そう、鮮血の朱に塗りつぶされた黒い鬼人(おに)の瞳が、面白半分に物語っていた…。

 黒い鬼人(おに)は洋平の尻尾を捩り上げて、言葉を続ける。

 「貴方がこの位の手に打って出るだろうことは想定済みという積りで、『出来ない』と言ったに決まっているじゃないですか。死の淵に脚が掛って生き急いでいるは承知してますけど…こちらこそ、そんな、もうろくしたみたいに外れた顎で舐められたくはありませんね。」

と、ケラケラと笑い続ける黒い鬼人(おに)に、唸り声の様な呻きを上げる洋平が再び爪を突きたてようと…が、それも…。

 洋平の唸りが絶句の吐息に変わった。…なんと、頭上から落ちてきた鉄筋の一本が、洋平の右手の甲を貫いたのだ。

 さらに追い打ちをかける様に、だが今度は三人の上に等しく、パラパラと砂粒大のコンクリートの破片が舞い落ちてくる。

 髪に積る破片の粒をパッパッと払って…その間も、千明の白銀の目線が二人からはずされることは無い。…まっただ。また、一際、野太い音と成って崩壊が軋みを上げた。

 洋平は下敷きになる恐れも、黒い鬼人(おに)に吊り下げられていることも忘れたかのように、がむしゃらに右手に刺さった鉄筋を引き抜こうとしている。…穿たれた穴の周りには、最早、血の気は無い…。

 黒い鬼人(おに)はそんな、棘を抜くのに難渋している洋平を見かねたように、

「力任せに引き抜くのが怖いのなら…どうでしょう。折角なら、御自慢の爪を活用した方が良いと思いますけどね…。」

 洋平は手を止め、紫鳶(むらさきとび)の瞳孔を動かしてジロリッと黒い鬼人(おに)を一瞥した。…とは言え…彼の忠告に従っておくのが賢明であろうと判断したようだ。

 洋平は左の爪で、さっさと突き刺さった鉄筋の根元を断ち切る。そして今度こそ、半分にまで短くなった鉄筋を引き抜くと、乱暴に地面へと打ち捨てた。

 「俺の鬼鎧(きがい)がこんな小枝みたいなものに…さてはお前、なんかやりやがったな。」

「僕は何もしてはいませんよ。何か余計な事をしていたとすれば、それは貴方でしょうね。」

 洋平は手の上にぽっかりと空いた風穴をしげしげと見る。そして詰まらなそうに、かざした手の覗き穴を黒い鬼人(おに)のニヤけた顔の方へと向けて…、

「つくづく、俺のやることに難癖を付けるのが趣味みたいだな。」

と、右手を下ろしても、それで黒い鬼人(おに)の口元が引き締まる訳でも無ようだ。…洋平自身が『刻み込んだ』笑いだということもある…。

 「貴方のなさり様があまりにも未熟なものだから、ついつい…こっちも一言、物申したくなるんですよ。ちょっとした老婆心からのこと、悪しからず。」

 黒い鬼人(おに)は鼻で笑ってみせてから、続ける。

 「貴方の受けた痛手。それはそのまま、貴方の右手が鬼姫さまの左腕。そして、その鉄筋が貴方の尻尾の毒針に置き換える事が出来ますね。…と、こう言われても、まだピンッと来ないですか。そうですか。じゃあ、はっきりと…お前ら、相手を殴る力を込めるのに、意識が行き過ぎなんだよ。この下手くそ共が…。そんなだから、身体を貫かれてみるまで、鬼鎧(きがい)に十分な強度を与えられてない事にすら気付けないんだろうが…要するに、きー抜き過ぎだってことだ。バーカ。」

 その黒い鬼人(おに)の的確すぎる指摘に、洋平は鬼鎧(きがい)全体が硬直したように動けず、千明は…見開いた瞳で瞬きさえ忘れた様に、頬を痙攣させている。…まっ、二人とも言い返そうとしないだけ、殊勝な態度と言える…いや、言っておこうか。

 ところで、あどけなささえ感じさせる様な口調で、千明と、洋平を叱責した黒い鬼人(おに)の方はと言うと…。声も出ない二人の、不穏な笑いと、大口を開けた表情を見比べてから、

「それに引き換え、僕の()の運用法は力技に頼らず、高めた鬼鎧(きがい)の強度、硬度を武器としているからには…まさに攻防一体。故に、この僕が鬼人(おに)としての究極の境地に居る。そして、そのことをお二人の手際の悪さが証明して下さったんですから…一応、感謝しとこうかなぁ。」

と、黒い鬼人(おに)は、この場を取り持とうと言うのかと思えば…なんのことは無い、ペラペラと自画自賛を始めた。そして、呆気に取られた洋平に、

「僕にとっては、貴方から頂ける何よりの餞別でした。本当に、有り難うございます…なんちゃって。」

 そしてまた、黒い鬼人(おに)がクスクスと笑い始めた。千明は…溜息を吐いている。

 …と、洋平の()が不意に弱まった様だ。辺りが一時、穏やかな朝日に包まれる。しかし…、

 「攻防一体だぁ、笑わせてくれるよな。」

 武者振るいする様に、鬼鎧(きがい)に宿る紫鳶(むらさきとび)を揺らして、洋平がせせら笑う。それと同期して、洋平の鬼の輝きも息を吹き返した。

 「俺も、それに鬼姫さんも、お前があらゆるい意味でバランスの良い鬼人(おに)だってことは認めるよ。だがな…それが即、鬼人として完璧であるってことに繋がるもんじゃない事を俺は知ってる…多分、鬼人の本能でな。」

 洋平はギョロリッと紫鳶(むらさきとび)の瞳を落として、自分の首を手中に収める右手を、そして毒針の付いた尾を捻る左手を見る。

 「例えバランスに優れていたとしても…敵を引き裂く爪が無いんじゃ、鬼人(おに)として半端も良いとこ。それどころか、この上さらに…。」

と、洋平は穴の開いた右手をグイッと伸ばして、黒い鬼人(おに)のフェイスマスクをむんずと鷲掴みにする。黒い鬼人(おに)はこれといって抵抗する様な素振りは見せずに、二本の腕が平衡に並ぶ状況を受け入れる。

 「あんたは、鬼人(おに)が自分の底力を引き出す為に必要な牙さえも持ってねぇ。そんな様で攻防一体ってのはないだろ。まっ、百歩譲って、『防戦一方』って言うんなら認めてやらなくもないけどな。…おっ、俺、今、けっこう上手いことを言ったんじゃないか。」

と、洋平は、黒い鬼人(おに)の腕力に支えられるのがやっとの死に体ながらも、快活に嘲笑った。

 それは傍目からも…そして真正面に見ている千明にとっても、緊張感が漲り、かつ、異様な光景に映っていた。フェイスマスクに重なった、洋平の右手に設けられた空白。それが黒い鬼人(おに)の言葉を引き出そうとも、一方では口を閉ざそうとしているようにも見える…。

 「で、俺の言い分に対して何か言い返したいこと、あるか。」

 そう言って、洋平が右手の洞を覗き込む。すると…紫鳶(むらさきとび)の揺光を放つその手中で、まるで魚眼レンズに映し出された様に、黒い鬼人(おに)の口元の裂傷が歪んで見えた。

 洋平はいささかうろたえた様に、右手を黒い鬼人(おに)のフェイスマスクから離して、

「言い返せないところを見ると…やっぱりだな。お前は鬼人(おに)として不完全な事を自覚してるんだろ。哀れなもんだよな。」

と、黒い鬼人(おに)から感じた得体の知れない感覚から頭を切り替えるべく、洋平はことさらに底意地悪そうに言い捨てた。

 遮るものが無くなり、ひたすらに妖しい光を湛える黒い鬼人(おに)の口元。

 洋平はなぜか言い返してこない黒い鬼人(おに)に調子を狂わされた様に、また舌打ちすると、その爪を朱色(あけいろ)の瞳に向けて突き付ける。…と、今度の黒い鬼人は避けるでも、掴み取るでも無く、

「貴方には僕が哀れな鬼人(おに)に見えているんですか。」

 洋平の一撃は今回も、黒い鬼人(おに)の頭を貫くことが出来なかった…。

 洋平は、爪の先に微かに触れる黒い妖光に怯えた様に…だが努めて何事も無さそうに振舞うと…スッと右手を引っ込める。

 「だからさぁ、何度も言ってんだろが…お前は牙も、爪も無い、半端者だって…。それを俺達、真っ当な鬼人(おに)が哀れんでやりたくなるのは当然のことだろ。…第一、お前にもちゃんと鬼人らしい牙と、爪があったならなぁ…。」

「もし僕にも爪や、牙があったなら…貴方の様に人喰いを成っていたはずだ…とでも、言いたいんですか。」

 引っ込めた洋平の指先が、ピクリッと動く。…黒い鬼人(おに)は可笑しそうに、そして満足そうに息を吐き出して…、

「当たりです。…良い勘していますね。」

と、黒い鬼人(おに)はジロリッと朱に染まる瞳を向けた。

 洋平はその瞳に映る己の爪から…目が離せない。そして長い耳鳴りが続く。

 …と、耳鳴りの後ろで聞こえる、ミシミシと止めどなく波立つ崩壊の音。洋平はその轟音にようやく自分を取り戻したようだ。

 「…こんなことしてる暇は無かったんだったな。お前もいい加減にして、この手を離せっての。だいたい、このままだとお前も、俺と一緒に瓦礫に潰されることになるんだぞ。それでも良いのかよ。」

 洋平の言葉には際立った焦燥感の色があった。それは黒い鬼人(おに)の手を振り解かんとするような、あるいは…黒い鬼人の右手と重なって自分の首に巻きつく…恐怖や、失意の感情を、どうにかしてかなぐり捨てんとするようだった。

 黒い鬼人(おに)は、そんな必死な洋平の脅し文句にも、黒い()のイメージそのままに、

「構いませんよ。ぜひ、一緒に潰れましょう。」

と、恨めしくなるほど涼しげに答えた。…それに洋平は、

「馬鹿野郎。てめぇが良くても、俺は御免だ。」

と、カッと夏の日が照る様な、まさしく鬼人(おに)の形相で声を荒らげた。

 しかし、ここまでこの作品を読み進めて下さった酔狂な…もとい、賢明な読者諸兄姉には先刻ご承知のことでしょうが…この黒い鬼人(おに)に何かを要求する場合、恫喝の類はことさらに効果的では無い。

 そして…人の(さが)悪いのか、それとも鬼人(おに)の本性がそうさせているのか…性根の曲がったこの黒い鬼人(おに)にとって、他人が慌てふためく様も、憤懣を露わにして喰って掛るような事態も…けだし、大好物なのである。少なくとも…短い天寿を全うするその日まで、惚れた女の生き肝の誘惑から、血に飢えた朱色(あけいろ)の瞳を逸らしてくれる…それっぱかしには…。

 ギラギラと光る、赤漆を塗り重ねた様な瞳だった。洋平はその誘う様な、喰らいついてくるような迫力に本能的な嫌悪感を強めて、

「考えてみれば、お前に頼んでどうにかしようとしたのが(はな)から失敗してるようなもんだ…俺が馬鹿だったよ。俺には牙も、爪も有る。お前みたいな屁理屈こねる口か、喉を締め上げるのが精一杯の指しか持ってないやつとくっちゃべって無いで、こっちの得意分野にものを言わせればよかったぜ。…はぁあ、これでようやくせいせいしたわ。」

 それは感知能力において劣る千明にも、造作も無く解る洋平の強がりだった。どうしてか、それは…、

(なぜってそれは…あの黒いのが嬉しそうに笑いながら、一刻も早く、あいつの揚げ足を取りたそうにしてるのを見れば一目瞭然でしょ。またネチネチと何を言うのかまでは解らないけど…それだって、彼の並べる理屈を聞けばすぐに解るでしょう。…まっ、また話が脱線しなければだけど…本当、徹夜で『遊び』に付き合わせるのも、いい加減にしてちょうだいよ。)

 千明は欠伸を目蓋と、奥歯で擦り潰した。…と、まぁ、鬼姫さまがその様に仰せなのだから、黒い鬼人(おに)が話を脱線だけはさせないことをお祈り申し上げておくとしましょうか…。

 黒い鬼人(おに)は手の中で縦横無尽に暴れても手放さなかった洋平の尾を…まるで花束でも投げる様に、手首を振って放り出した。いったい、それは何故にか…その真意は、洋平にも、千明にも理解しがたい事…。

 そして、大仰な仕草で手隙になった左手を使い何を始めるのかと思えば…黒い鬼人(おに)はおもむろに左手を口元へと運んで、それから…それから、何をしているのだろうか。ゴリゴリと何かを削る様な音を立て始めた。

 「あれっ、牙や、爪の力を遺憾無く発揮しても、どうにもならなかったから、言葉でどうにかしようとしていたんだとばかり思っていました。…もしかして、手加減してくれていたんですか…あぁ、いえ、別に責めているのではないんですよ。僕は貴方が『後悔』さえしてくれれば、手順に拘る積りはありませんので…今更、最短の道則をうんぬんしても、無意味ですからねぇ。」

と、出だしから、若干、脱線気味に始まった黒い鬼人(おに)の言葉。

 洋平は両手をじわりじわりと、黒い鬼人(おに)の肘から手首へかけて爪で引っ掻いて、

「意外だな。俺はまた、お前って男は一から十まで自分の思い通りに運ばないと気が済まない性質(たち)かと思ってたよ。」

 手首まで浅く十本の線を引いて、爪の動きが止まった。…と、洋平の両手が、予告通りとでも言いたげに、ガッと黒い鬼人の手首に掴みかかる。おそらく、いいや、間違いなく凄まじい力が掛っていることであろう…。

 それを黒い鬼人(おに)朱色(あけいろ)の瞳で、チラリと、手首の辺りに一瞥くれただけで、

「自分でも詰まらないなとは思います。でも、鬼人(おに)の面が強く出ている時は、自分でコントロール出来ない事に興味を抱くのが難しく成るんですよね。…これも、老化の一種かもしれませんね。」

 「そうかよ…じゃあ、どうして、俺の『後悔』の仕方にまでそんな拘りを見せるんだよ。形はどうあれ、俺は一応、『後悔』してると言っちまったじゃねぇか。…まっ、確かに、あの瞬間の俺が正気だったかどうかは保証できないけどなぁ…それでも、あんたがコントロールできる範囲では、俺は『後悔』させられた事には変わりないと思うぜ。それとも何か…お前にはまだ、俺の内心をどうにかしてコントロールする術があるってことか。」

「まさか…。」

と、黒い鬼人(おに)は思いがけず洋平の推測を一笑に伏した。洋平の井戸の底を覗きこむ様なおぼつかない視線を受けている間にも…まただ。また、フェイスマスクの口元に寄せた手の中で、ゴリゴリと言う音が聞こえている。

 数秒を経て、黒い鬼人(おに)がようやく指の動きを止めて、言葉を継ぐ。

 「流石の僕でも、心を読むことは叶わない。これはお話ししましたよね。それに加えて…逆の、こちらの望む方向に相手の感情を誘導する様な真似も、僕には出来ないんですよ。出来ることと言えば、相手の情動のリズムを…その鼓動を聞き分けること…。それと、相手の内心の流動を一時の間、『虚抜(うろぬ)き』で止める…と、その位が限度でしょうね。良くも悪くも、僕の他人への影響力なんて、そんなものなんです。だから…。」

 黒い鬼人(おに)が小さく笑い、言葉に間を置く。洋平は…黒い鬼人(おに)の話の続きを大人しく待つ積りなのだろうか…黒い鬼人の手首を握った両手は、そのまま動かなかった。

 黒い鬼人(おに)がその洋平の様子に、出方に、今一度、苦笑を漏らした。

 「だから、貴方の内心が『後悔』の念で溢れかえらない限りは、僕も、貴方が確実に『後悔』していると信じる事は難しいかもしれませんね。あぁ、でも、安心して下さい。僕に限って言えば、貴方を『後悔』させることを途中で投げ出したりはしません。例え、墓場まで御一緒することに成っても、必ず貴方の内心を…その鬼鎧(きがい)の内側を『後悔』の念で満杯にして差し上げますから…貴方は何の心配もしなくて良いんですよ。…って、聞いてますか。折角、僕の話が良いところだったのに…。」

と、非難していると言うよりは茶化している様な、そしてどこか探る様な、黒い鬼人(おに)の語調。

 心ここに在らずという塩梅で、ひたすら黒い腕に力を込めていた洋平は…。心臓の鼓動の回数を数え上げられる様な…悪寒にも似た感覚を黒い鬼人(おに)声色(こわいろ)から感じ取ってから、やっとのことで…、

「…聞いてねぇな。何しろそれどころじゃないんでな…チッ、本気でいい加減に離しやがれ。このままここに居ると潰れるしかないってことが、本当に解って無いんじゃないのか。」

と、洋平は思い出したかのように、黒い鬼人(おに)の手首に爪を立て始めた。

 …だが、実際のところ洋平の言う通りなのだ。折々、石ころ大という言葉では済まないサイズの瓦礫や、建材が落ちてきている。これではいつ、先程の様に、二人の鬼鎧(きがい)のどこかに風穴が開いても不思議ではないのだ。

 洋平がこれほど焦れているのはそれだけ理由では無い。しかし、頭の上に覆いかぶさる様なこの重たい問題が、彼の焦燥感を煽っているのは疑いようもないことだ。…ていうか…対称的にずいぶんと落着いている様に見えるが…黒い鬼人(おに)ご本人様に置かれては…身の危険は感じていないのだろうか。いいや、お前に限って、『もしも』なんてことは無いんだろうな。…まったく…。

 とにかく今は、黒い鬼人(おに)の要領の良さと、千明の平静で、確信に満ちた瞳を信用するとしよう。

 「クソがっ、どれだけ硬いんだよ。てめぇだって、甲羅背負った亀じゃない…一端の鬼人(おに)には違はないんだろうが…それをこんな、甲羅に引きこもる様なせこい抵抗の仕方しやがって…お前、本当に、俺と闘うなり、『遊ぶ』なりする積りがあるのか。」

 己の吐く悪態にますます苛立ちを募らせ、そうして続々と連なるフォラストレーションに歯止めが効かなくなる。洋平は今、その様な悪循環の中に居た。…そして、洋平自身、この魔の…いや、鬼人(おに)の連環を断ち切るすべを認識していると言うのに…、

「甲羅の中に閉じこもってないで、お前も攻撃しろよ。それとも、今の俺と殴り合いをするのが怖いのか。だったら、こんな所で粘ってないで、この手離してさっさと逃げちまうんだな。俺だって、すばしっこいことだけが取り柄のお前を追っかけまわそうとはしないさ。…朝飯には、鬼姫さんもいる事だしな。…くっ、どうしてこの手が外れないんだよ。」

と、洋平の爪の先は確固たる手応えに、どうしても到達することが出来ないのだ。…それさえ、黒い鬼人(おに)に痛手を負わせていると言う実感さえ得られたならば…そうすればこんな、得体の知れない感覚などは、疑いの余地なく消え去っていくだろうに…。

 「別に、お前が怖い訳じゃねぇ…。」

 怒りか、それとも対抗意識からか。そんな言葉が洋平の口をついた。

 「ただ、お前の手が鬱陶しくてしょうがないだけだ。」

「なら、御自慢の爪で僕の手を引き裂いてくれて構いませんよ。それが貴方にとっても一番、手っ取り早い方法のはず…。ほら早く、僕…じゃなくて、降ってくる建材が怖いのなら、成丈、急いだ方が良い。」

 「お前にけし掛けられるまでもねぇよ。…って言うか…現在進行形でやってるだろうが。節穴か、お前の目は…。」

「えーっと、僕の言っているのはそう言う事じゃ無くてですねぇ…そう、もっと先の方の話をしているんですってば。」

 「あっ、先だぁあ。先ってのはどういう意味だ。まさか、もう俺を倒した気でいるんじゃないだろうな。それは少し、気を急がせすぎじゃないか。…あんまり、俺を舐めるなよ。」

「いえいえ、そうでは無くて…。」

と、黒い鬼人(おに)はまたも、左手を被せたフェイスマスクの内側でゴリゴリと何やらやり始めた。すると…顔に寄せた黒い鬼人(おに)の手元から零れ落ちる何かが、洋平の目にとまる。

 ボロボロと黒い粒が地面へと落ちて、落ちては淡雪のように消えていくのだ。

 首を横に振り向け、眉間に皺を寄せた千明の、薄気味悪そうな顔色に尋ねてみるまでも無く…洋平は、黒い鬼人(おに)がさっきから繰り返している手慰みが何かを悟った。

 …削っているのだ。普通の鬼人(おに)ならば…否、あえて言い換えよう…『本来なら』牙を噛み締めた紋様が刻まれているべき場所を、フェイスマスクの口元に伸びる一筋の傷痕(しょうこん)を、黒い鬼人はむず痒そうに削っているのだ。

 洋平も、それに千明も、その仕種(しぐさ)が放つ違和感を、そしてある種の禍々しさをも感じ取っていた。

 それは鬼鎧(きがい)を纏い異形の姿に身をやつしたものが行う、白々しい程に人間的な素振り…それだけでは無い。それだけでは当然、この背筋が寒くなる様な感覚はあり得ないはずだ。

 この悪寒の正体はいったい何か…その答えは、黒い鬼人(おに)と洋平の『遊び』に用いられた芸当の中に、加えて、千明の思索の中でも芽生えていた。

 そう、この仕草の育む不穏な気配とは、要するに…、

(あの人喰いの鬼鎧(きがい)を、少しずつ、自分の鬼鎧(きがい)との強度の差を利用して削っていったことと同じ…ううん、他人の鬼鎧を削るのと、自らの鬼鎧(きがい)を削るのが同じな訳無い。だってそれは…自分で、自分の理性を削っているのに等しい行いなのだから…。鬼人(おに)である私にはよく解る。この行為の意味するところは、その忌わしさは…はっきり言って、殺人や、人喰いの比じゃない。そしてこのことは、言葉に出来るところまで伝わって無いかもしれないけど、あの人喰いにも伝わっている。…きっとあいつには、私が感じるよりも遥かに不気味に、それにおぞましく感じられているでしょうね。…何と言っても、理由はどうあれ、命をつなぐ為に自分の恋人にまで手を掛けた男だから…。)

と、千明は、居すくむ洋平から黒い鬼人(おに)へと目線を戻して、

(あいつら確か、()の圧縮がどうのって言ってたわよね…もしかしたら、あれがその代償ってことなのかな。…そうじゃないわね。代償なんて考えること自体、私がこちら側の…鬼人(おに)としての考えにどっぷり浸かっていることの良い証拠じゃないの。私も心のどこかで、『何かの代償としての行為なら、それがモラルに反することでも許される。』って思ってるってことかな…。)

 鬼姫が寂しげに微笑む。

 (命の代償として恋人を喰らい、勝利の代償として自らの鬼鎧(きがい)を砕き、そして自らの()を強く保つための代償として理性さえも削る。…他人を傷つける事と、自傷行為を同列に考えてるなんて…やっぱり、私は人間失格だ…。この目から、涙が枯れ果てるのも当然ね。)

と、目尻を意識した途端に、燻ぶっていた睡魔が再燃し出した様だ。それでも千明は、緩んだ顔を引き締める、瞳に力を込め直す。

 (でも、今は…この『遊び』はそれで良いのよね。それだからこそ、この人喰いの始末は、そして最期を看取るのは私たち鬼人(おに)の役目。貴方もきっと、鬼人(おに)と人の間で、そう思ってるんだよね。)

 黒い鬼人(おに)は人差し指の動きを止めて、やや委縮した様子の洋平に語り掛ける。

 「『先』とは言いましたけど、その『先』ではありませんよ。貴方の両手が掴んでいる、そして爪で引き裂こうとしているところの、その『先』の話をしているんです。つまりは、ここ…。」

と、黒い鬼人(おに)、洋平の首を鷲掴みにしている右手の人差し指でコンコンッと、洋平の首の後ろを小突いた。

 「ここ、今貴方が握り締めている僕の手首の『先』。貴方の首を掴んでいる手の…それも特に、指のことを言っているんですよ。…僕に言わせれば…本当に、貴方がどうして僕の指にその爪を立てないのか、不思議でならないんです。」

 そう言って、黒い鬼人(おに)はまた、二、三度、洋平の首の裏側を小突いた。

 ちょうど延髄の辺りをノックする硬い音が小さく響く。だが、洋平はそんな雑音など耳に入らぬかの様に、

「お前の指に爪を…てめぇ、今度は何を企んでやがるんだ。」

 洋平は用心深いところを、あるいは余裕が残っているぞと凄んでいる積りなのか。そう言うと、黒い鬼人(おに)の意見を鼻で笑って見せた。しかし…、

 「本当の、掛け値なしに…その黒い鬼人(おに)の言っていることがまったく理解できないっていうその態度が、あんたの置かれてる状況の深刻さを物語ってるわね。むしろ、ここで動揺することが出来ていたとしたら、その方が救いがあったでしょうに…。まぁ、それも、鬼人としての自己防衛の一つ何だろうけどね。」

と、横からもたらされた、意味深な千明の発言に…洋平は紫鳶(むらさきとび)の瞳をギロリッと向けたものの…どうやらまだ千明の言わんとしていることが飲み込めていない様だ。

 感情が追い付いて来ていない所為か、洋平の瞳には探る様な平静さが満たされていた。

 千明は口を挟んだことを洋平に咎められないのを良いことに、黒い鬼人(おに)が言うはずだった台詞を続ける。

 「だって、そうじゃない。その黒いのの手首を輪切りにする労力を思えば、その先にある指をどうにかする方が簡単だとは思わないの。例えば、自慢のその爪を、黒いのの指とあんたの首の間に差し込んで隙間を作るなりする。あんたの方がその黒いのよりも力は上なんでしょ。だったらそれで、そいつの手を振り解くことが出来る筈じゃないのかな。それが嫌ならもっともっと単純に、黒いのの指全部をその爪で切断してしまうって方法も有るわね。この鉄筋を切り裂いた時みたいに…。」

と、千明は、足元に転がる鉄筋の切れっ端をつま先で蹴った。

 洋平はコロコロと地面を転がってくる鉄筋を見つめながら、

「それは…そうだよな。なんでそんな事が思い付かなかったんだ、俺は…。」

 洋平の放つ紫鳶(むらさきとび)の輝きをかき消すように、さわさわと朝日が差し込む。その光の盛衰の様は間違無く自然界ではありえない…精神の光にのみ表れる特性なのであろう。

 実際、それを証明するかのように、黒い鬼人(おに)の纏う妖しい光芒は広がらず、かといって弱まることも無く。陽光の上にくっきりと、その存在感を止めていた。…黒い指が『唇』に触れる度に、稲妻のような閃光を放ちながら…。

 洋平は鉄筋が足元で止まってもまだ目を離すことが出来ずに、

「こいつの指を全部切り落としてしまう方が早い…そうに、決まってるよな…。」

 そう自らに言い聞かせる様に呟く、洋平。だが、その両手は黒い鬼人(おに)の手首から離れる事は無く…視線はどうしても鉄筋から外れない。

 「そう思うんだったら、さっさと引き裂いちゃってよ。…怖くないんでしょ。その黒いののことが…。」

「怖い…いや、怖くない…俺が…何を…引き裂く…。」

 底に鉄筋の切れ端を捉えた洋平の視野が、千明の足元の方へ伸びていく…と、突然、一目で今までで最大級だと解るサイズの瓦礫が、千明の足元スレスレの地面に激突した。

 それは洋平との距離で3メートルは優に離れた場所での出来事。…洋平にとっては、引いては鬼人(おに)という生き方の只中に居る者にとっては、申し分なく他人事と言うに足る間合いである。

 そもそも、そんな鬼人(おに)の道徳観念を問答するまでも無く、千明がどの様な厄災に見舞われようが、その程度の事…少なくとも一昨日の晩の時点で有れば、洋平は毛筋ほどの反応も見せ無かっただろう。それが…、

「おいっ、お前、生身の奴にいつまでもそんなところに居られたんじゃ目障りなんだよ。良いから、もっと向こうに行けよ。」

と、心配しようという気は更々無い様だが、それはまぁ千明だって…、

(私だって、この人喰いに心配して貰おうだなんて期待はしてない…ていうか、人喰い野郎なんかに心配して欲しくなんかないし…。)

 だが洋平は、思い遣りの感情などはおくびにも出さないにしろ…なぜだか気忙しそうに、千明の方を気に掛けているのだ。

千明はそれでも、頑として動く気は無い様だ。

 「私の事は気にしないで良いから、早く作業を始めなさいよ。」

と、千明がそう答える最中にも、コンクリートの塊が地面に叩きつけられては、その破片が千明の脚にボロボロと当たる。しかし、千明はそれらを避けようとする様子すら見せようとしなかった。…もしかして、洋平の頼み方が悪かったせいで…ちょっと御立腹ですか…。

 それに対して、洋平はしかるべき態度として苛立ちを隠そうともせずに、

「お前の事なんてどうでも良いんだよ。俺はな、瓦礫を避け損なったお前が気絶して、そこらへんに寝っ転がられると目障りだって言ってんだよ。ガキみたいにぐずぐずと意地張ってないで、さっさと失せろよ。」

 その洋平の言葉の端々に…普段ならきっと、もう少しは節度ある行動を取ると思うのだがなぁ…どうやら千明は、カチンッときたらしい。白い歯を見せて猛然と、

「『さっさと』って言うのは私の台詞でしょ。そんな細い指を前に臆病風に吹かれてる様な奴に、私の真似して欲しく無いわ。…何、その眼は…まさか悔しいの。でも全然、駄目ね。健さんの鬼眼(きがん)に比べたら、迫力なんてこれっぽっちも感じない。凄んだって無駄無駄。悔しんだったら、その黒いのの手を引き千切って、直接、私にその爪を突き立ててみなさいよ。まぁ、あんたみたいな野良に出来ればの話だけどね。」

 これだけ千明に好き放題言われたというのに、洋平は苦々しげに唸るだけで言い返すことが出来ない。直面する黒い鬼人(おに)の戒めを退ける事にも抵抗を感じている…ということもあれば…もう一方で、烈火の如く白銀の()を噴き出し、噴き上げ怒りを露わにする千明の力の大きさにも脅威を感じている…それも否めそうにないようだ。

 見れば、千明の周りを覆う白銀の()に触れた破片が、バチッバチッと小さな稲光を起こして弾け飛んでいく。…こんなの見せられれば…それは鬼人(おに)だってビビって当然だろう…。

 「まぁ、何より怖いのは…彼女の自尊心と言う名の白銀の炎。そして、その炎が燃え広がら無い様に在るはずの、理性と言うガラス細工の壁の脆さであり…その危なっかしさと言ったところでしょうか。それにしても…二人とも、少し大人げ無さ過ぎじゃありませんか。」

 もし黒い鬼人(おに)が声高にこんなことを述べていたら、きっと…、

『お前にだけは言われたくない。』

と、千明と、洋平に口をそろえて言い返されていたことであろう。

 しかしながら…なにしろ、黒い鬼人(おに)はその冷静さが売りなのだからして、抜け目なく小さな声で呟いておいて…そして今度は洋平にしっかりと聞こえる様なボリュームで声を掛ける。

 「貴方もよく解っている通り、今から彼女に立ち向かっていったとして…それは大人と子供の喧嘩の様なもの、100パーセント敵いっこありませんよ。ですから彼女に再挑戦するのは、手始めに僕の生き肝を喰らい、英気を養ってからにするんですね。」

と、これまで二つの天秤の間で水平を保っていた黒い鬼人(おに)の腕が、ほんの僅かではあるが、洋平を上へと持ち上げた。

 黒い鬼人(おに)が腕を傾けた分だけ天井に近づいた洋平は…大きく息を吸っては、吐き出し、また吸っては、吐き出す。…ひしひしと感じているのであろう…恐怖の対象に近づいた実感を…。

 覆い被さる千明の()でさえ我関せずと、黒い内心を纏う鬼人(おに)が言葉を続ける。

 「さぁ、いつでもどうぞ。そこからなら、僕の心臓も、『口』も、指も狙い放題ですよ。自慢の爪でも、尻尾の毒針でも、なんならその牙で噛みつくという手もあります。瓦礫の下敷きに成りたくなければ一刻も早く、僕の鬼鎧(きがい)を引き裂いて、この状況を打開するのが得策でしょう。さぁ、さぁ、僕の手首などに拘っていないで、もっと…この僕の命の深みまで、入り込んで来なさい。」

 洋平は黒い鬼人(おに)にそう煽りたてられて、悔しそうな、そして苦しそうなうめき声を上げる。だが…その何ものをも切り裂くはずの鋭利な爪はまた…黒い鬼人(おに)の手首へと向けられる。

 黒い鬼人(おに)はやや目線より高い位置に掲げた洋平の…その濁った紫鳶(むらさきとび)の瞳を見上げ…苦笑交じりに呟く。

 「それとも…鬼姫さまの言う通り…怖いんですか。」

「怖い…だと…。馬鹿言うな。」

 洋平は頭上に迫るコンクリートの塊を左手で粉々に砕くと、返す刀で、両手をの爪を黒い鬼人(おに)右手の指へ…自分の首へと向けた。 しかし…、

 「俺は、振られるのが怖く告ることも出来ないやつなんか、怖かねぇよ。」

 一秒と掛らずに黒い右手を、それこそ己の首ごと掻き毟ることの出来る状態にある。それだと言うのになぜか…、そこから『先』へは遅々として踏み込めない。

 「これはまた、痛いところを突かれました。…だけど僕を痛めつけるのなら、口を動かさなくてもその手を動かして、この指を切り落とされた痛みを味わわせて欲しいものです。…あぁ、それと、僕は何も、貴方は僕が怖いんですかと聞いた訳じゃありませんよ。」

「あぁっ…じゃあ、お前は…俺が何を怖がっているって言いたいんだ。」

 「知りたいですか…どうしても知りたいのなら貴方のその爪を、ほら、もうほんの少しだけ僕の右手に…いいえ、貴方の首へと近づければ…そうすれば、貴方が感じている恐怖の正体が、貴方にもはっきりと解るはずですよ。」

「俺の爪を…お前の…俺の首に…だけど、それは…。」

 「『それ』、が、どうしたというんです。…しょうがないな。どうしても自分で出来ないというのなら、僕が手伝ってあげましょうね。」

と、黒い鬼人(おに)は、『唇』を削り出していた左手をズイッと伸ばす。そうして、反発する磁石の様に震えてばかりの、てんで己の首の方へと寄せ付けられない洋平の右手を掴んだ。それからは…言うまでも無いか…。

 「ほぉら、あと少しで僕の親指ですよ。これを切り落としてしまえば、僕の束縛から逃れるなんて容易いことですよ…ほらほら、腹を括ってズバッといきましょう。」

 黒い鬼人(おに)が自分の指を切断しろとけしかけ、洋平は…これは明らかに、黒い鬼人の指に爪を立てるのを拒否している。…あれほど、黒い鬼人の右手の戒めから逃れたがっていたと言うのに…。

 これは化け物同士の闘いなのだ…言い出したところで今更だろうが、それでも…なにかとてつもなく不自然なものを見ている様な、この二人のやり取りはまさにそんな構図を描き出しているのだ。

 洋平は黒い鬼人(おに)の、自分の指に近づけようとする力になぜか抵抗しながら…紫鳶(むらさきとび)の瞳をキョロキョロさせて逃げ場を探している。…そこに、千明が蹴って寄越した、鉄筋の切れっ端が飛び込んできた。

 洋平は救いを求める様にその切れ端を凝視して、だが…黒い鬼人(おに)がその切れ端を明後日の方角に蹴り飛ばして、呟く。

 「そんな所をどんなに探しても、僕の指は転がってはいませんよ。…あぁーあっ、貴方がもたもたするものだから、遂に、本降りに成ってしまいましたよ。」

 洋平は黒い鬼人(おに)の放った言葉の意味を瞬時に察して…さりげなく黒い鬼人(おに)の左手を振り払うと…天井を見上げる。

 その刹那…洋平の頬を掠める近さで、岩かと見まごう様な大きさのコンクリートの塊が地面と激突した。

 腹の底に響く様な音響…。洋平は悪寒をありのままに表わすかの如く、鬼鎧(きがい)に宿る紫鳶(むらさきとび)を寒々しく煌めかせて、

「おいっ、ここに居ると本気で不味いだろ。俺に解る位なんだ、お前にだって、このままだと二人ともおだぶつだってことは解ってるんだろ。なぁ、鬼姫さんあんただって…。」

と、洋平が千明の方に眼を向けると…千明は引き締まった表情で天を仰いた。

 そして、その両手はリラックスしながらも、閉じたり、開いたりと、群れを成して襲い来るであろうものに備えて、牙をといでいると言う風情。…要するにその細腕を、小ぢんまりとした手を、彼女の掌の様には柔らかくは無い破片の群れに、真っ向からさらすという決意をしている…そういうことなのだ。

 今もまた、頭上でワイヤーの解ける音がしたと言うのに…。

 「お前ら、気は確かかよ…死ぬかもしれないんだぜ。それも、落ちてくるのが解ってる瓦礫の下敷きになるっていう、1ミリも笑えない理由でだぞ。まさか、それで良いってのか…。」

 その洋平の…言い分としては真っ当かにも聞こえる言葉に…黒い鬼人(おに)はやれやれとでも言いたげな鼻息を漏らす。

 「貴方の方こそ、何をそんなに怯えているんですか。…たかだか、この程度のことで…。僕も貴方には是非とも、『()は確かなんですか。』と尋ねたいですね。」

と、黒い鬼人(おに)はカラカラッと、洋平の弱気を嘲笑った。背後に落ちた…おそらくは作業用の足場か何かであろう…一畳はあろうかと言う金属のプレートには一切、我関せずと言った態度で…。

 洋平は一瞬、黒い鬼人(おに)からの愚弄の言葉に紫鳶(むらさきとび)を怒気へと変じさせた。だが、黒い鬼人(おに)の背後に突き立てられた金属のプレートが、ゆっくりと倒れ…その風圧で辺りの塵芥が高らかに舞い上がるのを目撃するに及ぶと…どうやら、怒っているゆとりなど無いことに気付いたのだろう。

 洋平は黒い鬼人(おに)右手の圧迫感を改めて感じた様に、苦しげに息を吐き出す。

 「なに悠長なこと言ってんだよ…首をちょん切られてからじゃ遅いだろうが…。」

「だから言っているでしょ…急いでいるなら、口を動かさずに手を動かしたらどうですかって…別に一々、僕に助けを求めなくても、貴方が自力で僕の指を切り落とせばよかったんですよ。…まぁ、もう、手遅れなんですけどね。」

 黒い鬼人(おに)の残念そう(に装ったのがバレバレ)な声を追いかける様に、あっという間も無く金属のプレートが二枚、黒い鬼人と洋平を取り囲んで地面に突き立てられた。

 それだけでも二人は、視界がかなり制限された様子。最早、洋平の位置からでは千明の姿を視認することは出来ない。

 「クソッ。」

 そうなると洋平にはやはり…黒い鬼人(おに)の手首を引っ掻くと言う選択肢しか残されていないのだ。

 そんな、せせこましく自分の腕を掻き毟ってくる洋平を、黒い鬼人(おに)の瞳は無感動そのものの朱色(あけいろ)で見上げていた。

 「下ばかり見ていて良いんですか。…来ますよ。」

 その黒い鬼人(おに)の言葉が口火を切ったかのように…蜘蛛の糸一本ほどのか細い何かで保たれていた、頭上の均衡が崩れた。…洋平も、アッパーカットを受けて頭を跳ね上げられたかの様に、天井を見上げた。

 ほとんどが崩落した二階分を突きぬけてさらに上。そこには…どれだけ巨大で、恐ろしい姿をした絡女婦(じょろうぐも)が張り巡らしたのだろうか…そんな想像を禁じえない、蜘蛛の巣に似た広大な亀裂が縦横に走っている。

 「僕と貴方では、違う顔を頭に思い描いた様ですけど…お互い、『この』天井画に囚われて感じるものは…『女性』ですか。つくづく始末に負えないですね、僕らは…。」

 黒い鬼人(おに)と、洋平は、食い入る様に…そして己の魂を塗りたくる様に、虚空に紡ぎ出された死の楼閣を見上げる。

 ぼとぼとと、黒ずんだ魂の欠片が二人の元へと帰ってくる様を…洋平は、何か禁じられたものを見る事を厭う様に、大きく口を開けて…黒い鬼人(おに)は、朱色(あけいろ)の瞳を嬉々として輝かせ、訪れる禁忌を抱き止めようとするかのように、真一文字の薄笑いを浮かべていた…。

 そうして遂に…流砂の底が抜けたかの様な圧倒的な勢いで、瓦礫が、建材が、大粒の豪雨と成って降り注いできた。

 洋平はまるで威嚇する様な大声を上げる。そして迫りくる全ての物体を、両腕を振り回して爪で引き裂き、散らしていく。しかしながら、如何せん数が多いのだ。

 打ち漏らした瓦礫が、洋平の鬼鎧(きがい)に容赦なく叩きつけられている。

 …で、その時、黒い鬼人(おに)はと言うと…、

「こういう時、感知能力で勝負する僕らの様なタイプだと不便ですよね。無生物は()は微弱過ぎて動きが把握し辛いですし、それもこれだけの数がこうも一斉に、加えてどれも時速50キロ近くは出てるみたいですから…迎撃することが出来るかと聞かれたら…はっきり言って、お手上げだな。」

 洋平は、天井がそのまま落ちて来たかの様な大きな塊を叩き割りながら、

「てめぇ、何を他人事みたいに言ってんだよ。お前の方こそ、口を動かしてないで手を動かしやがれ…ていうか、いつまで俺の首に構ってないで、お前も瓦礫を何とかしろ。」

 「要らぬ心配ですよ。約束ですから、貴方が自分で僕の手から逃れるまでは、ちゃんと貴方の首を掴んでおきますよ。」

「お前、俺の言ってることが…。」

 …と、唐突に、黒い鬼人(おに)を睨みつける洋平の視界が遮られた。洋平を吊り上げている黒い鬼人(おに)の右腕の上に金属のプレートが食い込んだのである。…いや、そうでは無い。実際は、その逆だった様だ。

 黒い鬼人(おに)は自分の右腕『が』食い込んだ金属のプレートを、左手で取り外して、

「いやぁ、流石に今のは驚きましたね。」

と、これっぽっちも驚いてはいなさそうな声で、丸い凹みが出来たプレートを投げ捨てた。

 「それで、どんなお話でしたっけ。」

「…だから、それは…。」

と、黒い鬼人(おに)鬼鎧(きがい)の強度の高さに、洋平の方は随分と驚いている様だ。二の句を付けずにいる。…すると、今度は、

 「あっ、左肩の辺り…危ないですよ。」

 その黒い鬼人(おに)の言葉から一秒の間も開けず、洋平の左肩に赤茶けた鉄筋が突き刺さった。

 洋平は、突然、肩から生えたかの様に現れた鉄筋に、ただただ度肝を抜かれてしまったらしい。呆然として、鉄筋の節を数えていた。

 そんな発条(ぜんまい)の切れた様な状態の洋平に、引き寄せられるかのように次々と瓦礫が降り注いでくる。…黒い鬼人(おに)は今度は、そんな洋平を右へ、左へと動かしながら、

 「爪にばかり力を込めるからそうなるんですよ。まぁ、そうかと言って…『(ながれ)』を使って最大活性している()では、鬼鎧(きがい)に何ほどの強度も与えてやれないでしょうけどね。」

と、巧みに洋平の身体を、瓦礫から逸らしているかに思えたのだが…本人が言った通り、感知タイプはこの手の作業が苦手な様だ。

 「おっと、これはすいません。でも、故意では無いんですよ。」

 コンクリートの塊が洋平の頭を打った。

 だが、それでようやく洋平も意識を取りも出したらしい。本来なら鎖骨があるであろうと部分に突き刺さった鉄筋を引き抜いて、

「さっきは、『瓦礫が降って来ても問題ない。』みたいなことを言っておいて、結局これかよ。少しでも、お前の言う事を信用しようとした俺が馬鹿だった。」

 「酷いなぁ。それじゃあまるで、僕が嘘を吐いたみたいじゃないですか。だいたい、強度不足を補いたいなら、『(ながれ)』を止めればいいでしょ。…どうせ、今の貴方の力では、()の流動を制御することが出来ない様ですから…おっと、口が滑った…。」

と、黒い鬼人(おに)は思わず話してしまった…と言うにはあまりにも不自然な口振りに、輪を掛ける様にフェイスマスクに左手を被せた。

 さて、そんな黒い鬼人(おに)のこれ見よがしな誘導に…これは、幾ら感知能力が減退した洋平でも、誘いに乗る様なことは無かろうと思われた。…が、しかし…洋平は、黒い鬼人(おに)へと連なって降り注いだ鉄筋が、雨垂れの様な火花を上げて四方に散らばるのを瞳に焼きつけて…、

()の流動の制御…それが今の俺に足りないってことか。そう言われれば確かに…前まではあったはずの、力を増幅させたり、身体の動きに合わせたりする感覚が抜け落ちてた。どうしてだ…。」

と、黒い鬼人(おに)の投げ掛けた情報に、案外と素直の反応を示した。

 黒い鬼人(おに)もそれに応える様に、またしても洋平の肩口目掛けて落下するコンクリートの塊を、左手の五指を突き入れて粉砕する。

 「それは勿論、貴方が肉体を失ったからですよ。肉体を失ったことにより、貴方が鬼鎧(きがい)を動かし攻撃を行うタイミングから、力みや、ためと言った、筋繊維を収縮させる時に現れる緊張状態が抜け落ちてしまった。ですから…。」

 洋平はこめかみの近くで爆砕した瓦礫にも微動だにせず、黒い鬼人(おに)の言葉を受け取って、

「それで、()を活性化させ続けていると言うのに、俺が思うほどには芳しい力が発揮できなかったのか…。だが今、『(ながれ)』を止めたら…。」

 「貴方は『死返(まかるがえ)し』を執り行った鬼人(おに)ですからねぇ…。再び生き肝を喰らわない限り、何の再生力をも持たない貴方の内心は…下手をすると、肉体の詰まっていない部分の結晶化を解いてしまい、人型を保てなくなるかもしれません。…まぁ、あくまで、鬼鎧(きがい)は肉体の覆う鎧でしか在りませんからね。自立運動には自然、限界も生まれる事でしょう。」

「お前…それが解っていてさっき、俺に『(ながれ)』を止めてみろとか言ったのかよ…。」

 「それは、人喰い鬼人(おに)が首だけに成っても生きていられるのかに興味があったもので、遂…と言うのは冗談ですけどね。」

 黒い鬼人(おに)は洋平を、自分の目線の高さまで下ろす。

 「貴方の内心が自らの鬼人(おに)としての本能に食べられるのなら、それはそれでありかなと…ここでそれを選ぶなら…まぁ、『後悔』は十分でしょうかならね。ククッ。」

 どうやら、黒い鬼人(おに)の中でまた、這い出て来るような笑いがぶり返して来たようだ。…この世では、この…見透かした様な、得体の知れない確信に満ちた笑いほど、不気味な笑いは存在しないであろう…。

 洋平は鬼鎧(きがい)に残った一つかみ程の頬骨で、黒い鬼人(おに)の右手から伝わる戦慄を感じ取った。そして…否、それだからこそ…洋平は、己の右手を黒い鬼人(おに)の右手…ではなく…自分の頸動脈がある部分に突き付けている。

 「しかし、俺の『後悔』は十分では無かったみたいだな。なるほどな。…でだ、もう一つサービスで教えて欲しいことがあるんだがな。」

「その前に…良いんですか。こんな瓦礫が雹みたいになって降って来ている状態で…そんなところに爪を突き立てていると、手元が狂ってブスリッと言ってしまうかもしれませんよ。」

 「あぁ、別に構わねぇよ。よくよく考えてみれば今の俺には、首から下が無いんだからな。こんな状態でもちゃんと生きてんだし、首に爪が刺さった位で死にやしないだろ。それよかむしろ…刺さっちまってくれた方が、気が晴れていいかもな。」

 黒い鬼人(おに)はうんうんと頷きながら面白そうに笑って、

「それで、何をお知りに成りたいんです。」

と、会話の間に割って入ろうとした瓦礫を尾で弾き飛ばして、尋ねた。

 洋平は、風切り音を上げて降ってくるプレートを、左手の爪で両断して、

「言うまでも無いだろ…俺の知りたいのは、どうしてこの爪は、お前の指を切り裂けない…いや、切り裂こうとしないのか、だっ。」

 作業現場全体を地響きが包み込む。…あれだけ散々、黒い鬼人(おに)と、洋平で支柱を破壊したのだ…仕舞いに、この作業現場自体が潰れ始めているのだろう…。

 四方からは、上階に据え付けられていた柱が天井を突き破って落ちてくる、ドーンッ、ドーンッという大砲の様な大音響が聞こえている。…千明は大丈夫なのだろうか…。

 朝の光が届かなくなり、砂埃舞う作業現場…いや、今と成っては瓦礫が固まって出来たドーム。その内部を照らすものは…御来光かと見まごう様な、洋平の紫鳶(むらさきとび)の輝き。

 そしてこの空間にまどろみをもたらしているものがあるとすれば…それは、黒く妖しい閃光。

 「教えて差し上げられるものなら、僕だってもっと早くにお教えしていたでしょうね。だけど…そこは、『お約束』したことですから…。」

「『約束』したこと…そういう事か…俺の中の、もう一人の鬼人(おに)の…。」

 …完全崩壊の時とは、かくも呆気ないものか…。

 べコッというどこか間の抜けた音を残して、瓦礫の積りに積った天井が三人へと急速に近づいてくる。

 黒い鬼人(おに)と、洋平は、自らの放つ光を頼りに、迫りくる蜘蛛の巣を再び見上げた。

 建造物自体の重みで潰れて、完全に崩壊した作業現場。果たして、黒い鬼人(おに)と洋平は、頭の内側にこびり付いて離れない蜘蛛の巣に雁字搦めにされてしまったのか…それとも…。

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