第四話 その二
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「人の口の中にそんなものを突っ込もうだなんて、良い趣味ではありませんよ。…ところで、手と言い、尻尾と言い、こんなに力を入れてしまって良いんですか。また、土屋さんと、健さんに、身体を食べられてしまいますよ。」
「それは要らぬ心配だ。加奈子と健には悪いが、食わせてやりたくてももう、食えるものが俺の身体にはほとんど残ってないんだからな。こいつら二人の鬼を抑え込むのと、あんたを捉えておく為の馬力。それと、口の軽いあんたに似つかわしくない、この顎をこじ開ける為の力も必要だったんでな。…餓鬼の本能に乗っかって、粗方、俺の身体は俺が喰っちまったんだよ。今、残ってるのは脳味噌くらいのものだろうが…まっ、そのおかげであんたをここまで追い詰められたんだ、贅沢は言いっこ無しってことだ。」
「そうでしたか…。どうりで、貴方の尻尾を払いのけようとしているのに、びくともしない訳だ…。」
黒い鬼人の人間的な感情に乏しい、飄々とした声。…そして満足気な洋平の笑い。
千明の眉根を寄せて目頭に暗さを引きこんで…しかし…、
(大丈夫よ…私には邪魔しようなんて気はもう無いから…貴方の心臓が引き摺り出されるまでは…。だから、貴方の思う通りに…ちゃんとそいつを『後悔』させなさいよね。)
そんな千明の切なる期待を余所に…黒い鬼人のフェイスマスクが、メキメキッと音を立てて、少しずつ開いていく…せめてもの救いがあるとすれば、それは…こんなあり様になったというのに、黒い鬼人の口数かがまったく減らない事だろうか…。
「それにしても、末後の気力を振り絞って僕の行動の自由を奪ったのはお見事でした。けれど、蓋を開ければ、やっぱり、『異能』だよりですか。そんなことでは僕だって、呆れて口が塞がらなくなりそうだ。そう言う事ですから、もう少しだけなら…気持ち程度に、僕の口を広げても構いませんよ。」
「つくづく、クソ度胸だよな。だがまぁ、それも…お言葉に甘えてもう少し…もう少しあんたのこの口を開けさせて、この針の毒を味わえばそんな悠長なことも言ってられなく成るはずだ。だからあんたこそ、俺の首を掴んでるその右手…絶対に離すなよ。」
「えぇ、貴方が泣いて頼んでも、絶対に離しません。」
まったくとんでもないことになったものだ…これでは完全に我慢比べ…そして全霊の鬼を『流』で限界まで活性化している分、一見、洋平の方が優勢にも見える。そう、あくまで、一見したところそう見えるというだけだが…。
「肘を通り、肩、そして首筋へ這い上がる…首から下へと進まずに、迷いなく頭部の方へと流れていくところ見ると…貴方の五体の内でも、残っているのは頭だけのようですね。」
一寸近づいて良く見れば…どうやら黒い鬼人の言う通り…洋平の首筋には、恰も血管の中を進むかの様に、無数に枝分かれしながら拡がる赤銅、そして灰桜の鬼が…。
「まったく、せっつかれるのは鬼姫さまからだけでたくさんだって言うのに…この上に、土屋さんと、健さんまで加わってくるとは…忙しいことだ。」
そうしみじみと言う、黒い鬼人。それを洋平は力みの入り混じった声で笑い飛ばして、
「なに、それだって今だけの事…俺がこの口をこじ開けてしまえば…そしてあんたと、鬼姫さんの心臓を喰っちまえば…。それで全て丸く収まるんだ。そうなれば時間なんて、好きなだけ無駄にし放題。それに、時間さえあれば…加奈子だって…。」
と、一層強く、洋平が手に、爪に力を籠る。するとその度に、黒い鬼人のフェイスマスクから氷の砕けるのに似た音が漏れる。
成程、後少し。道理で、後一息。…の、はずなのだが…手応えのある音はすれど…、
「くっ、硬ぇな。やっぱ、黒いからか…だがもう1ミリも深く裂ければ…それで終わりだ。」
ふら付いていた黒い鬼人の脚が止まる。洋平が溶解した地面が凝固したのだ。
それにしても随分と深く、そして広範囲に溶かしたものだ。
深さで言えば、黒い鬼人の両脚は足首の辺りまで地面に埋まってしまっているし…広さも、ある程度の範囲が沼地の様に成っていた事を思えば、決して狭くは無いだろう。
凝固した地面にしても、コンクリートと、砂地が混ぜっ返された様な状態である。とてもではないが、しっかりした地盤とは言えそうにない。…これくらいならば…膂力に自身が無いと自称する黒い鬼人でも、容易く抜け出せそうな気もするのだが…。
しかしながら、黒い鬼人はそんな著者の推量や…気遣わしそうに、足元にチラチラと視線を送る千明の思惑にも知らぬ振りで…いつまでたっても覗かせない『口』の奥から、挑発的な笑いを漏らすのだった。
「ほら、もっとがんばって。僕を殺し生き肝を喰らった後は、返す刀ですぐさま鬼姫さまの下ごしらえに掛らなければならないんですからね。」
「んなことは解ってんだよ。あんたは黙って、早くその口を開けてしまえば…んっ、口を開けさせるんなら喋らせといた方が良かったんだっけな…まっ、どっちでもいい。兎に角、この口さえ開けてくれるなら、あんたの好きにしてくれ。」
「…意識の方も…大分、蕩けてきたみたいですね…良い傾向だ…。」
「あっ、何か言ったか。」
「いいえ、何も。それより、お言葉に甘えさせて頂いてばかりでも失礼ですから、一つ貴方にとって有益な情報を提供しましょうか。」
「おいおい、また何か企んでるんだろ。…まぁ、いいや。で、有益な情報ってなんだ。」
その時、洋平を見据える瞳が黒く…否、朱く…いや、そうでは無い。
その瞳は今、見たことも無い紅黒い…何やら、得体の知れないおぞましさを見るものに感じさせるような色彩へと変わっている…。黒い鬼人の口許ばかりに注意がいっている洋平には、そして、一転して朱色の筋が黒に沈み込んだ様子でしか判断できない千明にも…更に、拍車が掛った黒い鬼人の鬼の変容に着眼することは出来ない。
暁が眩しい程の赤を螺鈿細工の様に煌めかせる。それを影の中からもの欲しそうに眺める…。これまた何とも美しい…そう、おぞましくも美しい、極上の漆器の如き紅黒い瞳が…影を吸いこんで瞬く。
「僕と、鬼姫さまの生き肝を食べたなら、新たに外部から摂取した僕たちの鬼を使って貴方の肉体は再構成されるかもしれません。…それも、鬼姫さまの鬼に貴方の鬼が…つまり、貴方の内心の生命力が、鬼姫さまの凶悪なそれに屈服しなければの話ですが…。しかし今は…それはそれとして…仮に、貴方が鬼姫さまの鬼に打ち勝つことが出来たとして…その時に、加奈子さんの鬼がどうなるでしょうね。」
洋平が黒い鬼人の顎を引き千切らんとする力が、微塵ほども小さくなる気配は無い。だが…千明は感づいていた。
ただただ腕力へと意識を振り向けるという単調さを…そして、その勢いに任せて、黒い鬼人の言葉に引き寄せられ、気が遠くなっていく様な洋平の内心に…。そして、
(あの黒いのは、健さんのことを言うのを意図的に省いた。…もう、あいつの心を砕くのに健さんのことは必要ない。…あの人喰いと、土屋さん以外は全員が第三者でしか無く。今はクッションの様な存在ですらまどろっこしい…。どうしてそんな風に私が感じるのか…私自身不思議でしょうが居ないけれど…本来、自分以外の何人の心すら…時間的にも、空間的にも受け入れる余裕が無いはずの内心。そこに意識を噛み砕いて吸収するのではなく、その人の心ごと受け入れて…そう、受け入れようと思ったら…まず、二人の間にあるものを何もかも取っ払わないといけない。人成らざる、鬼人としての私の本能が…人の心を捨てるとはそういうものだと教えている…。)
右脚のつま先が、スポンジを踏んだような違和感を感じ取る。
千明はハッとして、腐食しかけた様なおぼつかない地面から、一歩後ずさった。…そして、今一度、顔を上げて二匹の鬼人を…黒い腕に掴み上げられた二つの内心を、白銀に煌めくその瞳で見つめる。
(そのことはあの黒いのも、それにあの人喰いも感じている。…ううん、きっと私たちの中で一番そのことを体感しているのは、あの人喰いかも知れない。…自らの肉体という器であり、最後の緩衝材である…大野洋平と言う人としての最後の部分を削り落し…残るは鬼人として内心を色濃く…紫鳶の鬼の色で色濃く司る脳と、鬼鎧だけ…。鬼人である私はあまり不自然さを感じなかった。でもこれは、人としては…肉体の生命機能が停止すれば死となる人の基準で考えてみれば…あの人喰いはとっくに死んでしまっている。例え、あいつの肉体が再構成されたとしても…それが大野洋平の姿をしていたとしても…多分、それは生き物として別人。記憶と、精神を受け継いだ別個の存在と言う事になる。…でも、それはあいつには受け入れられない。鬼人としてあいつには受け入れることが許されない。だって…それを受け入れてしまったら…あいつは自分の犯した過ちを…その全てを受け入れることになるんだから…。) 千明はやや浮いた右の踵を地面につけると、華奢な膝に力を込めて足元を踏み締める。
(それを受け入れてしまうという事はすなわち…自分が土屋さんを殺したという事を完全に受け入れるという事になる。今、自分の内心に描いている土屋さんの像がまったくの偽りであると認めてしまう事になる。そして、このままだと…あいつは土屋さんとの一体感を感じながら死を迎えることが出来なくなる。…一度は自分の手で殺してしまった女性を…自分の手で断った関係を…人として…鬼人として、あいつにはもう二度と断つことなんて出来やしない。今のあいつには、土屋さんと内心を共有しているという事が、生きるという事なんだから…。皮肉ね、あの黒いのの言ったことが正しければ、あの人喰いは恐怖ゆえに土屋さんを殺し…喰らったはずなのに…。だけど…待ってよ。もし、あいつが土屋さんから感じた恐怖が…そうだ、鬼人となったあいつが感じる恐怖があるとしたらそれは…。)
と、千明が自らの発想の蓋を開こうと、そしてまた一方では閉じてしまおうと…心中での小競り合いに、頬を微かに痙攣させて苦悩している中…やはり、黒い鬼人と、洋平の間でも、加奈子に焦点を当てた言霊が紡がれていく。
それはまるで、彼女が『あの日』に失った身体をどうにか取り戻そうと…加奈子を殺した張本人が、今度こそは彼女を壊すまいと、おっかなびっくり肉付けする様な…そんな傍目にもどこか不快で、それで胸が詰りそうな…そんな切ない作業…。
黒い鬼人に襲いかかっているはずのその手も、爪も…わななく指先で溶けた加奈子の身体を掬い上げて、自らの内心に塗りつけているかのように感じられる。…殺して生きのこることは…人が食べることを通して当り前にやっていることは…鬼人としての生きる者たちにとっては、こんなにも呪わしいことなのだろうか…。
黒い鬼人の顔が、洋平を誘う様に天を仰ぐ。体勢が変わり、洋平の爪がそのフェイスマスクにわずかに深く食い込んだ。
「僕達の生き肝を喰らえば、貴方の中に残っている加奈子さんと、健さんの鬼も、肉体を再構成するという作業を強制されることになる。…そうなったら…大半が失われた貴方の肉体を元に戻す為にも、外部から摂取した四つの鬼はほとんどが費やされることになるでしょう。その時、真っ先に消費され、おそらくは、貴方の肉体の復元の為に使い潰されるのは…果たして、誰の鬼でしょうね。」
洋平の尾が一秒でも早く毒針を突きたてようと、黒い鬼人の身体を改めてきつく締め上げる。…しかしながら、この黒い鬼人が、この程度のことで音を上げて、この程度で話を切り上げてくれる様な神経の持ち主なら…千明にしても、洋平にしても、ここまでの苦労は無かったのだ。
黒い鬼人は右肩を捩り上げられながらも、右腕は1ミリも下げずに、話を続ける。
「順番を決めるのは貴方だ。ですが貴方には、本能の牙から彼女の内心を守る自身が…あるはずもないのは、くだくだしく貴方の現状を論うまでも無く、誰にでも察しが付く…。生物として、瀕死どころの騒ぎではない、まさに衰弱の極致にある貴方の本能は、可能なかぎり手早く、今の状態を抜け出したい。だったらまずは、奪いやすいところから吸い上げようと考えるはず。…鬼姫さまの鬼を貴方が制御するのは難しい。それは、論を待たないとして…それに付け加えて、下手をすると他の三人の鬼が弱体化するということもありそうだ。そして僕と、健さんの内心、そして鬼も…鬼姫さまと比較すれば見劣りするのは仕方ないにしても、そこは腐っても鬼鎧を纏ったことのある鬼人。鬼人に成りつつあったと土屋さんと、完全に人間を止めていた僕たちの内心では、鬼の質に大きな隔たりがあるのは間違いない。そして一度、貴方の本能が鬼の吸収を始めてしまえば…その差はより顕著に表れることになる。…敢えて言わせて貰いましょう。貴方の中で最初に消えるのは、土屋加奈子さんの内心です。」
黒い鬼人の一言一言が、洋平の鬼を…内心の焦点を…今や己の心臓の失った彼の要とも言える加奈子の存在へと…確実に誘っていく。
洋平の尾が縛り、両手の爪が抉る。しかしそれ以上に、黒い鬼人の紅黒い瞳が洋平の命脈を掴んで離さない…。
「それを知って、本心から…貴方に出来るんですか。僕はそれが心配でなりません。何と言っても、僕と貴方は居た者同士だから…。」
「俺に出来るのか…それは、俺が加奈子の命を奪い尽くすことが出来るのかって聞いているのか。それとも…今に成って、命乞いでもしている積りか。」
洋平の問いに、黒い鬼人はメリメリッと音を立てるフェイスマスクを震わせて、笑った。
「滅相もありません。…僕はただ…貴方が、彼女無しで今日を…明日を…十年後を…一人で生きていくことが出来るのかと、そう訪ねたかっただけですよ。」
と、黒い鬼人は一際、可笑しそうに笑いを漏らして、
「それにしても、これはまったくもってお誂え向きの状況ですね。気付いていますか。今の貴方の状態は、何もかもが『あの日』とは違うと言うのに…しかし、核心部分では…貴方が選ばなくてはならないものは同じものだ。…貴方はあの晩と同じように、天秤を自らの方へ傾けることが出来ますかねぇ…。」
「あんたは、俺がこの期に及んで加奈子を消してしまう事に怖気づいて…加奈子の方に天秤を傾けるとでも言う気か。…あり得ないね。あんたは俺達みたいな種類の人間を…いや、鬼人を、どれだけ信用しているのかは知らないけどな…俺は生きる為すでに、一度は、加奈子の心臓を喰っているんだ。もう人並みに、加奈子の天秤に義理やら、情けやら…重りに成りそうなものをくれてやりたくても…手遅れなんだよ。」
「勘違いしています、貴方は…。『あの日』、貴方と天秤に掛けられていたのは土屋さんでは無く…死の恐怖に負けた貴方自身の影…。そして今日は、その代役を僕が務めさせて頂いています。…無論、不足が無い様に、皿の上に僕自身の命を乗せてね。」
「百歩譲って、あんたの言っていることが正しいとしよう。…なら、加奈子はいったいどこに居るって言うんだ。俺があいつの存在を感じている…この実感はあんたがどう言おうと確かなものだ…。この苦しくなる程の重みがまやかしだというなら…加奈子の存在を否定出来るもんなら、やってみろ。」
今にも開きそうな、そして一向に開きそうもない黒い鬼人の『口』。…そして洋平がこの『口』を開かせ、毒針を放り込んだ暁には…彼にも、そして彼が食べた彼女にも…今朝の朝焼けの様な静かな平穏が訪れるのだろうか…。
だがそれも、まずはこの、黒い鬼人の全てを見透かした様な嫌味な笑いを消さない事には始まらない。
黒い鬼人は不変不動の心体に、洋平『たち』の重みを感じながらも敢然と、
「百歩どころか、一歩だって…いえ、1ミリグラムだってこちらに譲っていただかなくても結構ですよ。僕の乗っている皿の定員は僕一人だけですから…。それよりも、貴方は自分の方に傾いていく恐怖感にこそ注意した方が良い。いい加減に、気付かない振りをするのは止めにしませんか。…加奈子さんの居場所ですか…そんなの、決まっているでしょう。彼女は『あの日』から…ずっと貴方と同じ皿の上にいましたよ。この死の天秤を貴方の方に傾ける為に…貴方と一緒に成って皿に重みを加えていくために…。」
何と言う緊迫感か…そして、この緊張状態を作り出しているものは死の恐怖か、生の危うさか…それとも、そのどちらにも揺らぐことの無い、黒い鬼人の驚異的なまでの精神の平衡だろうか。
作業現場へと流れ込んでくるワインレッドの朝日に、千明は息を飲む。
照らし出された黒々とした二人のシルエット。…それはまるで、二人の命を量る天秤そのものではないか…。
千明は酩酊にも似た眠気と、もどかしさの中で思う。
(まったく何て奴なの…。あいつの乗った天秤は、もう一方の皿にあの人喰いが乗る前から平衡だった。そして、あの人喰いが乗った今も揺るがない。…どうして…何が貴方をそれほど強くしてるの…。)
その千明の内心の囁きに…まさか、皮肉で返そうなどと思った訳では無かろうが…黒い鬼人が唐突に、
「女性は怖いですよね。骨身に滲みて思いますよ…あっ、当面は骨身が無い状態の、貴方に対する嫌味では無いですよ。」
と、どうやら洋平に対して投げ掛けられた言葉だったらしい。
どういう塩梅か、ブドウ酒の色香に溺れた朝日が、黒い鬼人達の傍から引いていった。
「元はと言えば、彼女たちの僕らへの無関心があって…それで僕たちは、彼女らから感じる恐怖に一縷の縁を求めることになった…。まぁ、元をただすまでも無く今のは、僕たちだけの都合で言った話ですけど…。ですが、そこで夏芽が…あぁ、僕にとっての加奈子さんの事ですけどね…。『あれのことは関係ない。あくまで自分の問題だ。』と言えてしまえば、どんなにか楽だろうとは思いますね、お互い。」
「あんたと俺が似た者同士なのは認めたけどな…だからって勝手に、俺が何から何まで、あんたと同じ物の考え方をしている様な言い方をするんじゃねぇよ。それに…加奈子のこともだ。勝手にお前の女と、俺の女を一纏めで扱うな。…さまないと、今すぐ殺すぞ。」
最後の脅し文句は洋平にしても、黒い鬼人に対して何らかの効果があるかは甚だ疑問だっただろう。…しかし言わねば、どうしても気が済まぬ…。その衝動と怒りの強さが、洋平の、加奈子への屈折した愛情の強さ伺わせる。…曲がりくねった思いが、彼女の心に響かなかったことも…。
それはさて置き、洋平の恫喝をストレートに受け取った黒い鬼人にも…やはり、洋平の見越した通り1グラムのウェイトにすらならなかったようだ。
「その脅しは、今しも殺されようとしているものには通用しませんよ。とは言え、心を読むことまでは出来ないとこちらから教えておいて、貴方の思考をなぞる様な物言いを繰り返していた事はお詫びします。申し訳ない、もっと早い段階で注意されると思っていたのに、貴方がいつまでたっても言いださないので調子に乗っていました。…ですが、加奈子さんとうちの姫を一括り扱ったことに関しては…貴方の中に今も残るという彼女の意識。それが貴方の『都合』で作り上げた幻想の彼女では無く、過去と言う現実を生きた、土屋さんそのものであると言うのなら…少なくとも、土屋さんは気を悪くすることは無いと思いますよ。」
「また俺を騙そうって気かよ。」
「心外だなぁ。まぁ、確かに、貴方を故意に瞞着するような冗談や、情報を小出しにはしましたよ。だけど、僕は貴方にこれっぽっちの嘘も吐いてはいません。その証拠に、嘘を吐いているのならこれほど多くの言葉を弄する必要はなかった。…いいえ、初めから、黙って鬼姫さまに貴方の始末をお願いすればよかったんです。しかし、僕は敢えて、頑丈だけが取り柄のこの鬼鎧に、誠実さだけを引っ提げて自らが矢面に立つ決意をした。それはなぜか。…虚言では貴方の内心に響かない。それに貴方と同じ感覚を経験して来ている僕にしか…鬼姫さまにも、そして貴方にすら解らない事もある。その経験からくる言葉を貴方に伝える、その一番美味しい場面に、まさか…赤の他人の口を借りる訳にもいかないでしょう。」
「あんたがもし…あんたの言う通り、冗談半分とは言え、本気でそんな事を言ってるんなら…格好付け過ぎだ。」
「あれっ、ちょっと張り切り過ぎだったかな。じゃあ、肝心な話は端的に…うちの姫…夏芽と、土屋さんは、結構、仲が良かったんですよ。夏芽の口から土屋さんの事を指して親友だというのも聞きましたし…土屋さんのお母さんが娘を亡くして悲しんでいるのを心配して、お見舞いかねがね元気付けにも行っていた様なんです。つまり、それ位には親しかったと…。」
ここまで黒い鬼人が語るのを聞いて…そこは流石に、一時は加奈子と交際していただけはあって、洋平にも思い当たる節が有ったようだ。ずいぶん驚いた口振りで、
「そうか、夏芽って名前に…どうりで聞き覚えのあるはずだ。そう言えば、加奈子がそいつと電話してるところを、何度も見てたんだったな。…もう随分と昔の事だった様に思うな…。」
と、黒い鬼人と自分を乗せた天秤が大きく揺さぶられた様な、そんな味のある…だが虚脱感に満ちた洋平の声。
揺れている、そして震えている…洋平の遠くて、近い声も…内心も…。
黒い鬼人は不安定にぐらつくそのやり取りの上でも、しっかりと洋平という鬼人へと、さらにはその内心の中核を成す『加奈子』という存在に向けて、単刀直入に言葉を突き通す。
「いやいや、随分と昔だなんて…。肉体は死んだも同然だからと言って、そこまで老け込んでしまう事も無いでしょう。土屋さんと、夏芽の携帯でのやり取りが最後に行われたのは『あの日』…あのカラオケの一室の、加奈子さんにとっては人生最後の晩…。そこに同席していた貴方は見ているはずですよ、加奈子さんが夏芽と、携帯を使って連絡を取り合っている姿を…。」
洋平の脳裏にまざまざと蘇る光景。…薄暗い室内。…カラオケ機器のディスプレイから寄せては返す、赤み掛った発光。
そうはまるで…路地裏を通り抜けた、この作業現場の様相そのものが映り込んだ様な…。
その赤に切り取られ濃くなった影の一つから、洋平は『あの日』の記憶を手繰り寄せる。
「そういや、あの時は…加奈子のやつ四六時中、携帯を手放さなかったが…だけどそれは、引っ切り無しに着信があってその対応に忙しかったからで…しかもあいつは、掛って来た着信に、ろくな対応は一度もしてなかったぞ。連絡を取り合ってるみたいには、俺には見えなかったけどな…。」
「またまたぁ、とぼけちゃってぇ。ほとんど三日三晩一緒に居たのに気付かなかったはずが無いでしょう。土屋さんと夏芽たちは、夏芽たちからの呼び出しを土屋さんが切断したら平気な証拠。逆に、土屋さんがいつまでたっても呼び出しをそのままにしていたら…それをSOSのサインと判断して、貴方たち二人が居る場所へ乗り込もうと…それこを土屋さんの友人三人で貴方を取り囲んで、やいのやいの言って彼女の窮地を救おうと計画していたみたいですよ。しかも…あのカラオケでの晩には、彼女たち三人、貴方と加奈子さんが陣取っていた部屋の隣に待機していたらしいですね。」
「マジか…これっぽっちも気が付かなかったぞ…。そうかよ。加奈子のやつはそんな積りで、携帯ばかり気にしてたのか…。」
「あらまっ…そうでしたか…。夏芽はきっと、お二人がバチバチと火花を散らしているであろう修羅場に乗り込むのに、かなり緊張していたことだろうから…未成年で景気づけの一杯という訳にもいかず、とにかく大いに熱唱して、湿りがちなテンションを上げようとしていたと思うんですけど…耳障りではありませんでしたか。調子っぱずれな歌声とか、テンションが空回ったような大声とか。夏芽は、声事態は悪くは無いんですけど…ちょっとリズム感が無いのが玉に傷と言いますか…。それに…。」
黒い鬼人は小さく、そしてどこか暖かい吐息を漏らして、
「夏芽のことだから、隣に居る土屋さんに向けてわざと声を大きく張り上げて…『自分はちゃんとここで待機しているぞ。』とアピールもしていたとは思うんです。…ですからあの胴間声は、かならずしも歌声だという訳では無く…そういうことですから、多少、お耳汚しだったとしてもご勘弁下さい。」
と、この緊張感あふれる状況で、黒い鬼人の放った場違いにも程がある言葉…。
傍で真剣に耳を傾けて居た千明も…急に馬鹿らしくなったのか、それとも黒い鬼人ののろけの様な語調に当てられたのか…火が付いた様に顔を真っ赤に紅潮させて、小さく俯いた。
そして洋平も…何となくこそばゆい思いをしていたのは同じだったようだ。
「なんか…ずいぶんと嬉しそうに言う様な…。」
「それは惚れた女の事ですからね…嬉しくもなろうというものですよ。…で、貴方は嬉しくは無いんですか。」
「何で俺が、あんたの女のことで喜ばなくちゃならないんだよ…。」
「いやいや、そうではなく…だから加奈子さんは、夏芽たちにいつでも助けに入って貰えるように待機させていたんですよ。…そのこと、嬉しくは無いんですか。」
「俺には、あんたが何を言いたいのかよく解らないんだが…。」
「ですから…加奈子さんはいつでも助けが呼べる状況を作っておいたほどに貴方の事を恐れていた。つまり、『あの日』、あの場所では、加奈子さんと貴方との関係が逆転していた。それまでは、加奈子さんが貴方にとっての恐怖の対象という構造だったのが、その晩には、貴方が加奈子さんにとっての恐怖の対象に成っていたんですよ。…そこまで彼女を追い詰めた貴方の勝ちだ。その成果を眼の前で見れて、さぞ嬉しかったことでしょうね…。」
黒い鬼人渾身の皮肉が、洋平の無いはずの臓腑を抉る。
正直に言って、この黒い鬼人の言葉からは緊張感とか、シリアスさといった感情が抜け落ちている…。しかしそんな、洋平の言葉を借りれば軽薄とも、そしてある意味では気安いとも取れる言い草が…否、そんな話し様だからこそ…どこか冷笑的で、かつ、胸に突き刺さる様な真実味があるのだ。…それこそ、無いはずの肉体をすら貫き通す程に…。
洋平は自分の空っぽの胸に湧き上がった感情を…人間的な感情をもてあます様に、
「そうだな…俺は…間違いなく加奈子にとっての恐怖の対象だった…。俺は加奈子を喰って生きる…。加奈子は俺に殺される…。『あの日』、あの場所で…俺達は同じものを見ていた…。二人分の命を背負って…俺が…この俺が生き長らえる未来を…今を…。」
その洋平の倒錯的な夢想を、まるで散らかったテーブルを片付けるかの様に黒い鬼人が、遠慮なく凪ぎ払う。
「それは有り得ませんね。絶対にです。」
と、開いたフェイスマスクの下顎を震わせた洋平に、黒い鬼人が躊躇うことなく続ける。
「貴方が土屋加奈子さんを、その毒針でじわじわと殺しに掛ったのは日付が改まった翌日の零時ちょうどからですよね。」
「あぁ、だからこそ加奈子には俺の事をじっくりと考える時間が…。」
その言い訳染みたか細い声を黙殺して、黒い鬼人が、
「そうでしょうとも。あれほど綿密な…それも、土屋加奈子さんの『腹具合』まで考慮しての余興なんですから…よもやフライングなどしようはずもありませんよね。…ところで…夏芽たちからの土屋さんへの安否確認は十五分おきに行われていたそうですよ。」
黒い鬼人の話で、千明は逸早くその『真相』に辿り着いたようだ…。不意にその白銀の瞳が曇り…だがそれでも、その唇は躊躇いがちにではあるがどこか誇らしげに微笑んでいた。
「なんだよ…どういう事だよ…。『あの日』、あの場所に居なかったあんたたちに…俺と加奈子の間に、何が見えているって言うんだよ。」
黒い鬼人の欺瞞を塗りつぶす様な紅黒い瞳と、千明の魂の震えを体現した様な薄紅色の唇。…そして洋平の首筋へと根を張り…派手ではない、決して派手ではないが確かな存在を主張する…淡やかで雄弁な、加奈子の灰桜の色…。
怯えた様に黒い鬼人の口許を掻き毟りだした、洋平。黒い鬼人はこそばゆそうに、真っ黒に笑う。
「まぁそういきり立たずに、ちょっと目を閉じて…それが無理なら僕のこの目を覗きこんで頂いても構いません。どうか想像してみて下さい。」
その紅黒い瞳を睨み返すのに夢中になって、洋平の手が止まった。しかし…未だ黒い鬼人の口許はメリメリと…恰も、苦笑を漏らし続ける様な音をさせている。
「貴方の尻尾が土屋さんを襲ったのは零時丁度。それは言うまでも無く、時が来るのを手ぐすね引いて待っていた貴方は御存じ。そして土屋さんも、自分が溶かされているまさにその時刻が零時であったことを知っていたはずです。…貴方と一緒に居る間にも彼女は、片時も携帯電話を手放さず、その画面ばかりを見ていたでしょうから…時刻くらい解っても、そんなことは当り前だ…そう思いますか。そうかも知れません。零時がようやく貴方から解放される瞬間でもあります…。ですが、僕はこう思うんです。彼女が本当に待っていたのは、時計の針が零時を告げる音でも無く。勿論、貴方の捨て台詞絵でも無い。…前の安否確認が十一時四十五分だから、次はこの茶番の終了の合図にもなる…夏芽たちからの着信。土屋さんは一心に、それだけを待ち望んでいたんじゃないでしょうか。…そして最後の安否確認だからこそ、ほんの少しの遅れでも夏芽たちがこの部屋に乗り込んでくるかも知れない…今、こうして、自分が化け物に殺されている只中へ…。加奈子さんは…貴女は…それが解っていたからこそ、今まさに失われようとしている意識の中でもがいて、もがき苦しんで…それでも夏芽たちを巻き込まない為に…自分が生きることはできずとも、自分の存在を生かす為に…最後の力を振り絞って、夏芽たちからの呼び出しを切断した…。その貴女の行動に対して僕は、先ほど申し上げた通り、ただただ感謝の気持ちしかありません。そして…大野さん、貴方の心持はどうですか。貴方にもはっきりと見えたはずです。僕を、鬼姫さまを、土屋さんを通して…彼女が今わの際に、何を見ていたのかという事が…。」
洋平は瞳の紫鳶を根限り見開き、黒い鬼人の紅黒い両目に押し付ける。黒い鬼人もそれに受けて立つ。
「彼女の見ていたものそれは…間違っても貴方の薄笑いでは無いでしょう。テーブルに映り込んだ自分の苦悶の表情でも無い。彼女はきっと…あの部屋の壁越しに、夏芽たちの楽しげな顔を…そして、その笑顔の輪の中に居る自分の顔をも見つめていたんでしょうね…。貴方はとっくに、土屋さんに置き去りにされていたんですよ。」
洋平の双眸が、怯えた様な紫鳶の尾を引いて紅黒い瞳から離れた。
黒い鬼人はそれを視線で追いたてて、
「考えてみれば…最後の瞬間に、土屋さんが貴方を敵意の瞳で睨みつけていたとしたら…貴方も、僕も、こんなにも後味の悪い思いをしなくてもよかったんですよね。そう、今ぼくらが甘んじて受け止めているのは全部が後味…この倦怠感は実際のところ、遊び終えた後の気だるさと同じ…貴方はまだ、彼女とのオママゴトの決着に心の整理が付けられていない。本当は、それだけなんです…彼女が最後の瞬間まで、貴方を見てくれなかったばっかりに…。」
と、黒い鬼人の諭す様な言葉に、洋平は遂に黙ってはいられずに、
「違うっ、俺は…俺はまず、生き残りたかった。だから…。」
「貴方にとって『死の恐怖』とは何だったんでしょうか。」
「そ、それは…俺が鬼人に成ってしまったことで寿命が…。」
そう、黒い鬼人の言葉を反芻するように、その紅黒い瞳の上で己の言葉を組み立てる様に…洋平はどうにかこうにか答えを見出したようだ。だが…黒い鬼人がひたすら見つめているのは、後ろ向きな洋平の本音では無い…彼の瞳に宿る内心の光なのである…。
だからこそ黒い鬼人は断言する。
「貴方は、貴方自身が自分の心を測りかねていることを知っている。…なのに貴方は、自分のことも、加奈子さんのことも全て解っているかのように誤魔化して、自分自身をすら欺いてらっしゃる。」
「好き勝手なことを言うなっ…何度も言わせるんじゃねぇよ。」
「僕に決め付ける様な話し方を改めさせたいのなら、さぁどうぞ、この僕の瞳を真っ直ぐに見詰めて仰りなさい。一度でもそれが出来たならば、僕は二度とこの話題に触れることはしません。それこそ、墓場まで持っていくことをお約束します。」
洋平は紫鳶の二つの塊を見開いて、黒い鬼人の瞳を真っ直ぐに捉える。そして、一秒を惜しむ様にすぐさま何かを言おうと…しかし、その寸前に成って黒い鬼人が強く言葉を叩きつける。
「ただし。それを貴方が仰っている間にちらりとでも、土屋さんの顔が貴方の脳裏に過ぎったとしたら…そのときは…。」
「俺の事を許さないとでも言いた気だな…。」
「いいえ、土屋加奈子さんが夏芽の命を救って下さった時点で、僕に貴方を憎む様な謂われはありません。それに夏芽の憤りを携えてこの場に臨んでいるとは言え…同類としてはむしろ、貴方の事を不憫に思ってもいますよ。ですからもし、貴方が僕からの許しが欲しいというのであれば…鬼人の巷に落ちた不詳のこの身ですが、貴方の恩赦を願う閻魔様への嘆願状の為、喜んで一筆とらせて頂きますとも。冒頭には勿論、『この方は、己の行いを深く悔やまれておられる故。』と書いてね…。」
「餓鬼になった俺には手に取る様に…いや、あんたの手を介して、首を締め上げられるようにはっきりと伝わってくるよ。そうか…あんたの目には…俺を一番許せていない奴は…俺自身だと映っていたんだな。そうかもな…加奈子が、俺への恨みを残して逝ってはくれなかったからにはな…。」
ずるずると…引き摺る黒い手に誘われ、洋平が遂に認めた。認めてしまった…。そうだな…隠していては自分も、そして加奈子も楽には成れないのだから…。
「今なら解るよ、あんたが俺を餓鬼になるように仕向けた理由。…俺の体を加奈子たちの残した鬼に喰らわせて、加奈子たちの手で敵討ちをさせたかった…。そして俺には…この空っぽの…加奈子たちの記憶の塊に喰われる感覚を…無力感を与えてくれようとした訳だ。そうか…これが…あんたも感じた死へ向かう心境なのか…。だけど…だけどな…こんな安らかな心持で、どうやって『後悔』しろっていうんだよ。俺にはただ、こうやって加奈子たちに喰い殺されるだけの時間しか残ってないだろうし…それに、今の俺にはその時間だけで…十分だ。」
「確かにこのまま朝に溶けていくのも一つの手ではありますね。僕はそれでも構いはしません。貴方は餓鬼にまで身をやつした。その上で、貪り喰う側の貴方の体が、喰らった者たちに内側から喰い破られた。禊としては、まぁ、こんなところで妥当だとも思います。…鬼姫さまはどうですか。貴方も彼には痛い目を見せられていますからね。残された安息の時間を奪う事になったとしても、命の火が消えるまで彼をいたぶる位の権利はあるかも知れません。どうです、一つ鬱憤晴らしにでも…。」
と、黒い鬼人は洋平と瞳を突き合わせたままで、背後の千明に尋ねた。
千明はともすれば軽薄な黒い鬼人の言葉の真髄を…そこに流れる、鬼人である自分ですら忘れてしまいがちな、過酷な現実へと繋がる生真面目さを吸い吸い上げる。
そして千明は、人として、女としての感性を背後の朝日へとくべて…鬼姫として、思い遣りでも、憐れみでも無い…鬼人としての規範そのものを言葉にする。
「折角の申し出だけど遠慮しておく。そいつの命が風前の灯火である以上、私が累の代表としてそいつを始末する義務も、大義も無い。鬼人のルールは、『何をしてでも生き残ろうとする者』を処分しても、人を殺した者を人外の暴力で裁くことはしない。それはあくまで人の法で裁かれればいいこと…そしてそれを手伝う為に、警察組織の一員として活動する鬼人もいるんだから…。だけど私だって次代を担う鬼人の一人…今更、『その人喰いを警察に引き渡そう。』だなんて野暮を言う積りも無いわ。どのみち、そいつに下されるのは死刑だろうし…そもそも私は、死刑は罰しかいない。この世からの追放刑で、償いでは無いと思ってるの。だいたい、人の命を故意でも、過失でも奪ってしまったら、それを償う方法なんてある訳が無い。…許されることはあっても良いと思うわ。だけど、死んだ人間を生き返らせることが出来ないかぎりは、本当の意味での埋め合わせなんて存在しえない。だから…その人喰いが死を覚悟しているのであれば、敢えてその火を吹き消そうとは思わない。私のことは構わないで、その黒い鬼人の運んできた死に…安心して身を委ねなさい。」
道を外した者たちには眩し過ぎる、一本筋の通った千明の人生観。黒い鬼人は背中に感じる日の眩さを…やはり茶化さずには居られないみたいだ。さっそく朗らかに笑うと、
「いやぁ、流石は蒐祖家の総領娘だけの事はあって、実にしっかりとした考えをお持ちですね。先が短いというのにまだ、足元の定まって無い僕としては…まったく汗顔の至りですよ。」
その黒い鬼人の容赦の無い褒め言葉。千明は、照れたというよりは恥じ入った様に、顔を赤くして俯いてしまった。
「さて、鬼姫さまも、貴方が、貴方自身の死に呑まれて死んでいくことを認めてくれました。僕もそれで構いませんし、夏芽からも貴方を殺して欲しいという言葉は聞いていません。形式上、貴方自身の肉体を加奈子さんに蝕まれたことで、『後悔』の触りの部分くらいは耳に入ってもきました。そして何より…加奈子さんは貴方に恨みつらみの類を託さなかった。少なくともこの場では今、貴方をそうして蝕んでいる以上の事は望めない。なら、貴方がこのまま苦しみの中に埋没していくのも良いんじゃないかと思います。…でも、貴方はそれでいいんですか。」
死にかけた…止まり掛けた時間を黒い鬼人が動かし始める。その逞しい右腕で、歯車を無理に加速させていく様に…。千明が気付いた…。
(…加奈子さんと、健さんの鬼があの人喰いの首筋に噛みついてから十分近く立つって言うのに…さっきから一筋の赤銅、それに灰桜も、頭の方へと昇って行かない。それも、あの黒いのの右手を境にして…貴方は、最初からその積りでそいつの首を…。)
黒い鬼人は紅黒い瞳を朱に並み立たせて、洋平へ問い掛け続ける。
「貴方は人である事に負け、鬼人であることにも負けた。」
「そうだな、だから俺は餓鬼と成った。あんたの思惑通りにな。」
「いえいえ、僕はただぼんやりと、朽ちていく貴方にお付き合いしていただけの事ですから…。」
「また見え見えの嘘を突きやがる。…なぁ、鬼姫さん。さっき、こいつが『無駄なことをしているとは思えなかった。』とか言ってたよな。それと何か、俺が餓鬼に成ったこととかは関係あったりするんだろ。」
千明は洋平に尋ねられて…今しがた、『手を下すことはしない。』と宣言しながらも…まだ何かこう、未練の様な、鬱憤の様なものがあるのだろうか。ちょっとムスッとした様子だったが、不承不承といった具合で手を打って、
「…って、そいつから尋ねられてるんだけど…前に遮られた話の続き、もう話してもいいかしら。」
と、なんとなく気が重い時に飛び出す、千明のお嬢様言葉。それがまた、黒い鬼人には面白いらしく、
「えぇ、彼もすでに、薄々は僕の考えを呼んでいる様ですから…。どうぞよろしく。」
…とまぁ、黒い鬼人からのお許しが得られてしまったのだからしょうがない。
千明は小さく鼻息一つ、洋平の質問に答える。
「その黒いのは何度もあんたの鬼鎧を殴りつけていたわよね。それは見た目の上では何らの効果も無かったようだったけれど…実際は、互いの鬼鎧同士が激突するたびに、強度の上で劣っているあんたの鬼鎧の表面が砕かれていたの…。鬼鎧表面の透明な領域を少しずつ崩されるということは、それは鬼人にとって理性を削られていることに等しいこと。でも、鬼鎧を砕かれていたのがもし『死返し』をした鬼人では無ければ、削られた箇所は本人も気付く前、たちどころに修復されていたはず…きっと当人には、削られた分の鬼が鬼鎧の周りに纏わりついて、何だか鬼の出力が上がったなと思える程度の微々たる変化。だけど、あんたは人喰いだからね…幾ら些細な傷でも、あんた自身にそれが損傷である意識が希薄ならば、鬼鎧の修復よりも、鬼の活性状態が常に優先される。その黒いのはあんたのそこに付け込んで、理性を磨滅させ、一方では鬼を膨らませて負担を増大させた。」
「へぇ、こいつの芸が細かいのは不思議じゃないけどな。やけに展開が早い様な、何か気色の悪い感じがしたと思ってたら…何の事も無い。やっぱりあんたが、俺が餓鬼に成る様に仕向けた張本人じゃないかよ。」
「何を馬鹿言ってんの。そもそも、あんたが土屋さんの心臓を食べたりしなければ良かったってだけの話でしょうが。」
「そう言われればそうか…だけど俺には、『あの日』までの俺には…やっぱりそれしかなかったんだよ…。そう思ってたんだがなぁ。」
洋平の両手が、黒い鬼鎧の上に力無く爪を立てながら垂れ下がっていく。擦れた悲鳴の様な音が、遠くで無くカラスの声に重なった。
「僕の存在ですか…。」
黒い鬼人がそっと尋ねた。洋平は開いた『口』から溜息を漏らして、
「あんたがどうやったのかは知らない。だけどあんたは俺とは違う道を進めたみたいだからな。…あんたは本能のままに加奈子を喰っちまった俺を、ちょっと羨ましいって言ってたけど…本当言うと俺も…その、なんだ…。牙も、爪も無い…鬼人としてはお粗末なその成りが…ちょっと、ほんのちょっとだが羨ましかったのかも知れない。俺もそんなだったら…あいつのことを喰っちまわずに済んだのかな…。ふっ…なんか、笑っちまうわ。まさか自分がこんなこと考えて、あまつさえ口走っちまうとは…認めるよ、俺は間違い無く『後悔』してる。…いいや、ずっと『後悔』してたんだろう。多分、あんたの姿を見た時から…。これで満足かよ。全部、それも最初から最後まであんたの掌の上で、俺は『後悔』してんだぜ。…だからもう、俺の事は良い…この手を離して加奈子の好きにさせてやってくれ。俺はもう抵抗しない、満足してるからな…人並みの『後悔』の念ってやつに…。」
「それで本当に満足なんですか。」
「あっ、またかよ…。たくっ、あんたはいったい、俺に何をさせたいんだよ。俺が『後悔』しているってこうやってしみじみと言ってんだから、あんただってそれで満足だろ。…それとも何か、その満足って言うのが気に入らないとかいう気じゃないだろうな。」
「その通り。言ったでしょ、貴方には心の底から『後悔』して頂きたいんだと…だからこの程度でしみじみとされても、それに満足されるのも困りますねぇ。」
「…っとに…人が人生終わらせようとしてる時に厳し過ぎるんだよなぁ。…て言うか、注文多過ぎなんだよ。つくづく、あんたの生真面目さには頭が下がるわ…。」
と、洋平がぼやきたくなるのも解るというものだ。なにせ…、
「こんな、無様に死んで逝くしかない俺に、まだ、何かを期待してるんだからな…まったく、呆れるよな。」
洋平はそういって可笑しそうに笑った。
でこぼこの地面に隠れていた夜の帳が引き絞られ、風音とともに朝の目の粗いレースが引かれていく。
(生きてさえ居れば…か…。その気持ちを責めることは、人殺しの私には出来ないかな…。)
千明は口から出掛かった言葉を心中で押しとどめた。
そう、この静謐な空気をかき回すのは、あの黒い鬼人の役目なのだから…。
「これから死ぬ貴方だからこそ、僕は身も心も鬼人にして聞いて差し上げているんです。貴方だってこのままじゃ、死んでも死にきれないんじゃないですかねぇ。」
「つまるところ、加奈子の事だろ。そいつはもう、『後悔』したんだから文句ないだろうが。」
「いいえ、文句は大有です。第一、貴方は良いんですか。自分の可能性に負けて、現実の加奈子さんに負けて、加奈子さんの残した無味乾燥な鬼にも負けた。そしてあまつさえ、貴方の内心に宿る…貴方の記憶だけが知っている加奈子さんにも時間切れで負けようとしている。貴方はそれで良いんですか。」
「良いも悪いも無いだろ…だいたい、俺が自分勝手に思い描いた加奈子に勝ったところで…それが何の価値があるっていうんだよ。そんなことしても今と成っては…。」
「誰が勝てと言いました。僕はただ…不戦敗で良いんですかと尋ねているんですよ。だってほら、考えても見て下さい。貴方は土屋加奈子さんを殺し、亡骸を溶かすという辱めを与え、あまつさえその哀れな水づく屍を飲み干した。これはもう、とっくの昔に土屋さんに愛想を尽かされていることは請け合い。それどころか、あの世で袖触れ合う事があったとしても、今こうして、我慢強くも彼女の鬼が貴方に齧り付いて下さっている様には、とてもとても…歯牙にも掛けては貰えないでしょうね。」
黒い鬼人はしっとりと息を吐き出す。朝焼けに照らし出されて、路地裏の方からは青空が待ちきれぬと、苔の香が立ち昇る。
千明の広くとられた感覚は、その青い香を鼻孔に、そして、洋平に巣くう灰桜の脈打つ様な音を鼓膜に覚えていた。
こんなにも静かなら特にであろう。黒い鬼人は何となく言いづらそうに、そしてどこか恥ずかしそうに、
「…まぁ、要するには…僕が言いたいのはですね…今更、元カノに花を持たせたところで心象がちょっとでも良く成る訳でも無し…だったら、ここは腹を括って、余力を全てぶつけてみたらどうだって話だ。じゃないとお前、数える程とは言え、確かに鬼人として生きたという事実を…真実を…『後悔』出来ない。そしてお前の『言葉』で納得することも出来ないぞ。」
黒い鬼人の語気から無機質な真実味が薄れ…代わりにと言っては何だが、どこか生温かい情緒が宿る…。
洋平はそんな黒い鬼人からの意外なメッセージに度を失った様子だ。
「あんたさぁ、ちょくちょく言葉遣いが砕けるよな。」
と、洋平自身も何を言っているのか解っていなさそうな寝惚けた台詞を、大あくびしている様な目一杯広げた『口』から吐き出した。
それに、黒い鬼人は、洋平の剛力に屈せず、未だ真一文字に伸びた微笑から、
「ここ一番という状況では話し方も、こちらから一歩踏み込んで行く。それでこそ貴方の喉笛を捉えている現状を含めて、僕が是が非でも貴方に『後悔』して頂きたい事が伝わるというものですよ。」
それに洋平は口をあんぐりとさせたまま、
「どうやらあんたは、本気で俺に『爆発』してもらいたいみたいだな。」
「解るでしょう。ようやく、貴方の内心に被せられていたものが無くなったんです。これまでは、その重しの存在のおかげで、どんなに怒り狂おうと不完全燃焼。貴方の内心は元の形状を保ったままで、外の世界に、そして貴方自身の心に響くほどの爆発力を生み出すことが叶わなかった。でも現在はもう違う。土屋加奈子さん、健さんの二人の鬼も、貴方自身の理性も、肉体も…今となっては過去に持って居ただけの、そして未来に手に入れるかもしれないという程度の存在でしか無い。現在の貴方の内心を守る盾でも、柵でも無いんですよ。」
と、黒い鬼人差し込む赤い日差しを、左の掌で撫でる様に、揺らす様に受けながら、
「貴方の『爆発』を阻むものは誰も居ない。貴方はただ心の赴くままに、力を振るえばいい。」
「何か、俺の為だと真剣に進められてる様な…だが半分は、あんたの掌で踊れって言われている様にも聞こえて…無いはずの背中がむず痒くなるな。」
「…無論、決定権は貴方にあります。ですが僕だってボランティア精神からやってる訳ではありませんから、貴方がちゃんと『後悔』してくれる様に、甘っちょろい言葉を掛ける様な気はさらさらありません。それが貴方の為でもありますからね。」
「まぁ、確かに、あんたはあの鬼姫さんから比べればずいぶんと容赦の無いやつだけどさぁ。…だけど、やっぱり甘いわ…追い詰めるだけ追い詰めておいてまだ、俺に自分で自分に止めを刺すチャンスをくれようとするんだからな。どうしてそこまで…後ろのおっかない鬼姫さんから睨まれながら、どうしてそんなに俺の『後悔』に拘るんだよ。」
黒い鬼人は…洋平のありのままの心が、鬼が、やっと自分のところに追い付いてきたことに…珈琲をゆるゆると飲み下す様な苦笑を漏らす。
「言ったはずですよ。僕は夏芽に少しの満足感でも与えられればと思っているだけだと…。とは言え…僕にとってはそれが唯一の生きがいですから…自分でも上手く肩の力を抜く事が出来ていないのかも知れません。」
「そうだったっけな…まっ、それだけ大それた理由なら必死にも成るよな…ククッ、改めてそんな理由で俺を追い詰めているのかと思うと、腹立たしい半面…なんかホッとするよ。だが悪いけど…今の俺には、あんたや、夏芽にどう応えて遣ればいいのか解らないんだ。残った命をぶつけ様にも、加奈子はどこにも…俺の中にも居ないみたいだからな。これじゃあ、自分に力を向けることさえ出来そうにない。それもこれも、全部、俺がしでかしてしまったこととは言え…あんたや、あんたの夏芽には悪いけど、俺にはもう大人しくあいつの抜け殻の一部に成ってやることくらいしかなさそうだ。俺の命をぶつけられる様なものは幾ら生き長らえた所で…明日にも、今日にも、そもそも昨日にすらなかった。ずうっと昔に俺が、耐えられずに飲み込んじまったんだからな…。あれっ、俺、今、何を言ったんだ…。」
と、洋平が、力尽きる寸前であったことも忘れた様に、力無く垂れ下がっていた両手を自分の顔まで持っていくと…まるで、その形を確かめる様に、己の脳裏に去来したものの意味を探る様に…ペタペタと、硬い紫鳶の指で、手で、目元を、頬を、口元を、なぞりだした。
「どんなに探しても、そこに答えはありませんよ。そこにあるのは貴方自身が思い描いた貴方の形…加奈子さんに愛されたい。愛されていたという実感がなさしめた、鬼鎧という内心の一つの形でしかありません。それをそんなに、壊れ物を扱う様に撫でまわしたところで、とてもじゃないですけど、貴方の本心にはたどり着けない。だけど、あと一歩。あと一歩というところまで貴方は、加奈子さんに怯えたこと、そして喰い殺すことを貴方に選ばせた何かを知ることが出来るとこまで来ているんです。後はただ、力任せに目の前の『鏡』を叩き壊すだけでいい。」
洋平はペタリの顔に張り付けた指の隙間から黒い鬼人を見る。
「『鏡』…それは、あんたの事を…自分の事を言ってるのか…。」
黒い鬼人は首を一度だけ縦に振って見せた。最早、同化してしまったかにも思えたその黒い右手の存在を、洋平は久方ぶりに思いだしたかのように窮屈そうに首をよじった。
「僕と貴方は鬼人として良く似ている。ですから、僕に貴方の力をぶつければ、貴方は自分の本心を知ることが出来るでしょう。それと同時に僕も、貴方を映す『鏡』として、貴方から感じ取ったその本心を、貴方自身にぶつけます。…そのとき貴方の内心が砕けたとしたら…その時こそ貴方は、『後悔』出来るはずですよ。」
「お気遣いは有り難いんだがな…やっぱ、あんたと俺は決定的なところで違う様に思う。俺は加奈子を喰って、あんたは夏芽を喰わなかった。それは、ひっくり返し様の無い事実だからな。あんたにこの感情をぶつけたところで…あいつに詫びを入れられた事になるとは、俺には思えない…。」
洋平の指先から、生気が抜け落ちていくのが誰しもに見てとれる。そうして、萎れた花の様に、洋平の手は擦り下がっていく。…黒い鬼人が深いため息を漏らしたのは、まさにその瞬間だった。
「…ったく、お前ときたら、本当に度胸の欠片も残ってねぇのかよ。」
洋平も、千明も一様に驚いた。それほどに、洋平を挑発する黒い鬼人の声は…それまでの軽薄さでも、理知的でも無い。愉快そうでも、無味乾燥でも無い。…ただただシンプルな意味を宿した声音であった…。
それだけに洋平も悔しい…だが、臍を噛もうにもその口は、牙を突きたてる相手すら決めかねて、閉ざすことも出来ずに…、
「あんたと俺はかなり似ていると思ってたんだけどな…しかし、そんな言葉をあんたが吐いたからには、間違いなく俺とあんたは別人だよ。」
と、利いた風な恨み節が漏れ出るばかり…。
黒い鬼人はまた、自信のほどを匂わせる様な苦笑。…が、なぜか、紅黒い瞳を洋平から逸らす様に、俯いて、
「そうでもないでしょう。僕は今の貴方の反応で余計に、貴方と僕は似ているのだと感じましたよ。…この意気地の無さときたら、まったく…我がことのように馴染み深い。そう思うと、何とは無しに苛立たしくも有りますけど…これもお互いの為、身も、心も鬼人として言わせて頂きます。…意地張ってないで、さっさと俺に力をぶつけてみろよ。…どうやれば良いか解らないってか。じゃあ、教えてやるよ。お前、内心に残った加奈子の搾りかすにまで、良い子ちゃんぶって頭下げて頼んだとか言ってたろ。その要領でやりゃあ良いんだよ。」
黒い鬼人の乱暴な言い草に…洋平の手が止まる。
「そうかよ…まっ、あんたの言う事は何だかんだで、どれも正しかったからな…今回もその言葉に甘えてみるか。…ほら、お望み通り、遠慮なく受け取れ。」
と、洋平の両手が黒い鬼人の頭を掴む。そして、一息にその頭を引き寄せる様に…その涼しそうな額に、強烈な頭突きをお見舞いした。
火花が散り、千明もたじろぐ程の轟音が駆け巡る。しかも、その轟音は、これまでものよりもう色濃く破壊の足跡を匂わせるものだった。
仕方あるまい、鬼鎧のなかでも最硬度の誉れ高い、黒い鬼鎧に全力の頭突きをかましたのだから…見ればそのものずばり、紫鳶の額に大きな亀裂が走り。生身ならば目を開けておくのも辛そうな状態だ。
…いや、まてよ…。千明の白銀の瞳はむしろ、黒い鬼人の額にこそ注がれている様な…。これは、まさか…、
「いやぁ、流石に、卵の殻の様な手足とは違って、中身が詰まっている分だけ効きますねぇ。」
そう人ごとのように漏らした黒い鬼人の額にも、洋平と似た傷が刻まれていた。
「あんた、それ…どういう事だよ…。」
と、頭突きを仕掛けた洋平当人が、黒い鬼人の頭に宛がった両手を離すのを忘れる位に、動揺しているようだった。
黒い鬼人はさも当り前と言いたげに、洋平の問いを一笑に付して、
「どうって事はないんじゃないですか。言ったでしょ。僕は貴方の『鏡』なんだって…貴方の内心が傷つけば、僕の内心だって傷ついて当然…と言うのは、まぁ、冗談ですけれどね。僕が貴方と、根っこの部分で良く似ていることを解って貰うには…僕も、人間止めても好きになれなかった本性をさらけ出すしかないかなと思ったものですから…。」
「お、俺には…お前が何を言いたいんだか…。」
「やっぱり、何だかんだ言っても、言葉を超越した段階では察しが良い。…そんなところも親近感…いいえ、正直に言いましょう。何か、イライラするんですよねぇ、そんな貴方を見ていると…。多分、同族嫌悪ってやつか…あるいは、自分が捨て去ったはずのものを、眼の前に見せつけられている様な気にでも成っているのかも知れません。…それだけに、貴方には効果的でしょうが…。」
「違う…なに言ってんだ…。俺は…俺の事じゃなくて、あんたがどうにかなっちまったのかって事を…。」
「同じことですよ。貴方は餓鬼に成り果てたとはいえ、大野洋平という個人に戻った。そして僕も…貴方を通して今一度、鬼人としての本性に立ち返る。何か、運命的なものを感じます。死に近づいた二匹の鬼人が、お互いの生きざまを比べることになるなんて…それも、二人して分岐点が女のことなんだから泣けてくる。でも…それだからこそ…貴方にとって加奈子さんがどんな存在だったかを知りたいのならば…僕に、自分に打ち勝って、もう一度、『死返し』を行ってみるんですね。貴方にそれだけの覚悟があるならば…貴方の生き様は加奈子さんを死なせるに足るものだった。人は誰一人として認めなくとも…鬼人として僕が、それを認めてあげましょう。」
黒い鬼人の言葉の隙間に、ピチャリッ、ピチャリッと、聞きなれない水音が響く。
その音の出所に、千明はすぐに気付く。なぜならそれは…目の前の、ぶら下がった洋平の足元から響いていたのだから…。
ポタリッ、ポタリッ。なおも洋平の足元を小突くその水滴は、洋平の脚を伝い落ちている。
その紫がかった水滴を見つめて…千明ははたと気付いた。
(あれって…まさか…あの人喰いの鬼鎧が溶け出してる…。だけど、そんなことって…。)
頭では半信半疑。しかし千明の内心は、それが事実であることに半ば以上の確信を持っていた。そして、そう思えば思う程に、千明の思考に中に去来する感覚は…人から、鬼人へと生まれ変わるときに置き去りにしてきた様な…この迫真的で、それでいて儚い感情は…。
千明が一瞬、何かを垣間見た様に感じたその刹那。例えようの無い思いが胸にこみ上げる。…それこそ、とても口では例えられない様な思いが…。
千明はその感覚に押しつぶされまいとグッと堪えて、見開いた白銀の瞳で二人の姿を見る。
絶え間なく滴り落ちる内心。溶け逝く心に溺れる洋平は、救いを求めるかのように黒い鬼人に尋ね続ける。
「本性なんてどうでも良いんだ…それより、どうしてあんたの鬼鎧が…俺なんかの力で…。」
「あぁ、そのこと…それは単に、僕の鬼鎧の強度が落ちたと…それだけの事ですよ。」
と、黒い鬼人が応えた途端…否、この時にはもうすでに、彼は黒い鬼人では無かった。鬼鎧表面の透明な部分だけを残して、宿っていた黒が一瞬のうちに紅黒い色へと変貌している。
そこで初めて、千明も知ることになった。…その鬼人の内心には漆黒の他に、別の色彩が宿っていることを…。
「その色…その色は…その色は何なんだよっ。」
と、洋平もまた、千明に負けない程の強いショックを覚えていたようだ。驚きと、そして何故か怒りにも似た感情を、大声とともに目の前の鬼人へとぶつける。
「何だと言われても困ります。残念ながら、この我ながら醜い色が僕の本性なものですから…。」
そう飄々と口調で応える目の前の鬼人に、洋平は、
「あんたまさか…『二本角』とやらじゃないんだろうな。」
「誤解ですよ。それが証拠に、さっきまで貴方があれだけ頑張って僕の口をこじ開けようとしたのに、どうしても開く事が出来なかった。実はあれ、亀裂が深く成る前に、鬼鎧を修復していたんですよね。悪しからず。」
「なっ、お前…。」
「あぁあぁ、言いたい事は解ります。ですが、別に貴方をおちょくっていた訳ではないんですよ。」
と、黒い鬼人が洋平の文句を遮って続ける。
「この口元と、額の傷を敢えて塞が無いのは…解っていますよね、もう。…そうです。僕も本性を露わにするのにじゃまな理性を砕いてもらいました。とは言え、僕は餓鬼に成る積りは有りませんけどね。…でもこれで、僕も貴方の内心に更に近づけるというものです…。」
紅黒い右手からの圧迫感に、洋平がまた首を捩る。
そんな二人のやり取りに、そして冷めやらぬ睡魔に、千明は足元のぐらつく様な不安に襲われていた。
(どうなってんの…あの黒い…ううん、赤い…えーいっ、もう。兎に角、あの鬼人のやること成すこと、私の理解を超えているわ。本来、内心の色は一人一色。もし、あの人喰いの様に鬼鎧の内に複数の色が宿っているとしても…それは、複数の内心によって鬼鎧が形成されているということに過ぎないはず…。だいたい、あいつは人喰いではないって…もう、本当、何がどうなってんのよ。)
ごちゃごちゃに散らかった、眠い千明の思索。それに答えを出したのは…意外にも、急激に冷静さを取り戻していた洋平だった。
「解った。…今やっとあんたが俺に何を言いたかったのか、なぜその姿を見せたのかが、解った…。生まれながらの黒い内心なんて存在しない。そうなんだろ。」
(あの人喰い、何を言って…。)
と、千明にはどうやらその真意が汲み取れなかったようだ。眠い目を瞬かせながら、訝しげに紅黒く染まった鬼人を覗きこむ。
黒い鬼人は紅黒い瞳で洋平を見上げると…しっかりと頷いて見せた。
「俺は加奈子を喰っちまう事を選んで、あんたは夏芽を…。」
「慰めにもならないとは思いますけど…僕は夏芽に鬼人を感じてはいませんでした。ただ…自分だけが人では無くなった。そして、自分だけが、彼女を残して死んで逝くことになる。その現実が堪らなく怖かった。…なら、いっそ…と、そう思ったあの瞬間が、僕にとっての分岐点だったのでしょう。だけど、貴方は…。」
「いい、もういいんだ…。そうか…あったんだな。あいつと生きていく術が…。俺は、どうしだろうな…自分が死んで、加奈子も死ぬという道しか見えなくなっていたんだ…。そんな馬鹿げた自殺に、俺は、加奈子や、健を巻き込んでしまった…。済まなかった…ごめんなさい…健、それに、愛美さん…。」
ポタリッ、ポタリッ、垂れ落ちる水滴の色が、赤錆びていくかのように赤銅色に変わっていく。
千明はその様から瞳を逸らすまいと、奥歯を噛み締めて正面を見据える。
(健さんの鬼が溶けだしている様にも見える。もしかして、あの人喰いの支配力が弱まったから、健さんの鬼を自分の内心に繋ぎとめておくことが出来なくなったってこと…ううん、それならまず、あの人喰いが大きな力を使おうとした分だけでも、あいつを喰らおうとするはずなのに…。どうして…。どうして…。)
洋平の鬼鎧から流れ落ちた赤銅の鬼は…健の内心は…。名残を惜しむかのようにひたすら問い続ける千明に、錆びついた様なぎこちない微笑み返して…赤い日の光を通り抜けて、朝焼けの空へと消えていった。
今や、眼を細めたくなるように強い暁の赤光。紅黒い鬼鎧にその光を吸いこんで、鬼人は切なげに、残された灰桜と、紫鳶を見つめる。
「まだ、『爆発』しきれていないようだ。…さぁ、僕にもっと思いっきり力をぶつけてきて下さい。土屋さんを喰らう以前に戻って…彼女に貴方の思いを伝えた事を思い出して…貴方はちゃんと彼女に思いを伝えられた分だけ、僕よりも強い内心をもっているはずなんですから…。俺を、そしてお前の本性を打ち破ってみろっ。」
…洋平の鬼鎧全体に亀裂が走っていく。これは、千明を追い詰めた時に洋平が取った手段…自らの鬼鎧を砕いて力を底上げするという鬼人の戦術。しかもこれは…、
(あの時はまだ理性の領域が残っていた。だから、自らを追い詰めての策とは言え、まだまだ自分をかばって鬼を制御しているところがあったけど…今度のは違う。あいつは掛け値なしに、餓鬼と成った己の身を、心を引き裂いて力に変えている。すごい…ここまで全霊を賭して闘おうとしている人を、私は初めて見た…。)
ある一つの目的の為に結集していく力。その集中力。そんな感動的にすら見える洋平の生き様に、千明の喉を鳴らす音が静寂を切る。
「ほら、あんたの言った通りだ。やっぱり、あんたにだけは負けたくない。俺はあんたに全力をぶつけなきゃ、負けを認められない。」
「それでいい。僕らは鬼人なんです、より強くあった方が正しいんですから…だから僕が勝てば、貴方が土屋さんを食べたことは間違っていた。貴方が勝てば、彼女を食べてでも生きた事は正しかった…それは貴方にとって、恐怖に打ち勝つための儀式だったと…それが明らかになるはずです。」
「だったら…加奈子、お前から奪ったもの、ここで全て使わせてもらう。その方が、俺なんかと一緒に居るよりもお前にとっても良いだろうからな。そして俺も…もうお前を理由にしない。今度こそ、お前を生き死にを理由にしないで、成り振りかまわず自分が生き残る為に闘う鬼人となる。だからもし、俺に使い潰されるのが嫌なら、俺を内側から喰い破ればいい。抵抗する積りはないさ、お前と違って、俺は加奈子に喰い殺されるなら本望だからな。」
あまりに自虐的な、だが…人として、鬼人として、これほど痛快な瞬間に出会える男は何人いるのだろうか。千明の憂いの瞳や、ちょっとした不満など、今の二人には彼岸で揺らめく炎のようなものか。
洋平が旅立ちの前の様なさわやかさで、
「手数をかけっぱなしで悪いんだが、そう言う事だからあんたも、もう加奈子の好きにさせてやってくれないか。」
「鬼姫さまじゃあるまいし、貴方まで何を寝惚けたこと言っているんです。とっくの昔に、僕は土屋さんの内心を制限するのを止めていますよ。元カノとは言え、あんたの首筋にしなだれている女性がどこを見つめてるのかくらいは、気にして差し上げて欲しいですね。」
と、紅黒い鬼人に茶化されて、洋平は照れたように声を漏らすと、
「これはあいつじゃない。単なる鬼で、それに俺の妄想が重なってるだけなんだろう…。だけどな、加奈子。やっぱりお前は、最高に良い女だよ。」
そう言って、洋平がぎこちなく動く手を加奈子の灰桜へと寄せた。それは、傍らに寄り添う彼女の髪を撫でるかの様に、そして…喰らってくれと自らを差し出すかのように。
(私が言えたことじゃないけど…鬼人って、男って、本当に勝手な生き物よね。)
確かに、その通りだろうな。だから、千明がいっそ瞳を閉じてしまおうかと考えたところで、それをとがめられる様な者はこの場に居ないだろう。…いいや、一人だけいた。
千明が不愉快さと、睡魔から目蓋を落とし掛けたその時であった。赤い日の光が、千明の瞳を撫でたのは…。
それは偶然であったろう。そして毎日、その場所で起こる必然でしか無い出来事。それでも目を細めながら後ろを振り返った千明には、はっきりとその感触が残っている。
(健さん…。私に最後まで見ていろってこと…あいつらの命懸けの『遊び』を…。私にもまだ、健さんや、土屋さんの為にしてやれることがあるって言うの…。)
…千明は目の下の柔らかい部分に残る感触をなぞる様に、目蓋を指で拭った。それは、人だった頃によくやっていた動作に似て、甘く、切なく、胸に迫る。
しかし残念ながら、そんな千明の密やかな感傷は、紳士ぶった二匹の鬼人にぶち壊しにされることになるのだろうな…多分…。
それはさて置き…洋平が首筋から手を離すと、彼の紫鳶の鬼の中へと加奈子の灰桜が吸い込まれていっている。そして完全に掻き消えてしまった。
洋平は疲労が滲ませながらも、可笑しそうに笑うと、
「なんだ、最初からこうしてれば良かったのかよ。加奈子ってもしかして、思ったよりも素直なやつだったのかもな。…あっ、あくまで俺のイメージと、鬼に残った情報なんだったっけな…。」
と、またもや千明の不興を買う様な事をいう。…目の前の鬼人への交戦意欲と、高揚感が言わせているのだろうけれども…そんなのは当然、千明に通用しないのだ…。
紅黒い鬼人は…こいつも、こいつで…右手は洋平を掴み上げたまま、左腕で悠々と、洋平の尾の戒めを解きに掛る。
「思ったよりも滑りますね。これは、急いだ方が良さそうですよ。」
どうやら、洋平の鬼鎧の溶けるのが止まらない事を言っているらしい。…そうなのだ、すでに毒を生み出すはずの尾さえも、溶けだしてきているのだ…。
とは言え、洋平は既に肉体の消費すら経験している。今更、精神が溶けだしたところで、対して気にもせず…むしろ、目の前の鬼人が、自分の尾の戒めを解いたことに感心したように、
「へぇ、俺の鬼鎧が溶けた氷みたいなものに成っているとは言っても…大した力だな、こっちは加奈子の力も上乗せして締め上げてるって言うのに…。あんた、黒いときよりも今の方はパワーがあるんじゃないのか。」
紅黒く成った鬼人は、振り解いた洋平の尾を掴み、放り出して、
「こっちが膂力重視型としての僕の本性ですからね。そうなりますか…。ですが、加奈子さんのこと、そして鬼人として大野洋平と言う生き方…それがふっ切れた貴方のお相手をするには、これではきつそうだ。」
と、紅黒かった鬼鎧が、塗りつぶされていく様に黒く染まる。…それでもなお、瞳は朱を湛えてはいるのだが…。
その黒い鬼人の変化に、どこか嘲笑う様な吐息を漏らす洋平。一方、千明はそんな洋平の反応をいまいましく思いながら、
(賢明でしょうね…少し鬼の出力が上がったところで、土屋さんの鬼を取り込み直すことが出来たあいつに対しては、付け焼刃に過ぎないもの。だったらなによりもまず、安全を確保したほうが良い。)
「んっ、鬼姫さんも何か言いたそうだな。つまりは、そういう力を殺してまで鬼鎧の強度を得ようとするのがせこいって言いたいんだよな。まぁ、あんたの腕力をもってしたら…そう思うのも当然だろうな。」
と、洋平が千明の思惑を読み取った様に、だが千明の見解とは正反対の事をいう。勘違いか、それともわざとなのだろうか。…どちらにしても、餓鬼と化して鬼人としての洞察力は黒い鬼人に匹敵するほどに高まっているようだ。
…と、黒い鬼人はなぜか、洋平の鬼鎧の頭部をフェイスマスクのひび割れの方へと引き寄せると、
「…ちょっと。貴方、もうすぐ死ぬんですから、あんまり鬼姫さまを気持ちを逆なでする様な事は言わないで下さいよ。それで貴方が死んだ後に彼女の怒りの捌け口になるのは、少なくない確率で丈夫だけが取り柄の僕になるんですからね。それとも…一人で死ぬのが怖いからって、僕の事を道連れにしようって魂胆じゃないでしょうねぇ。」
「んなわきゃないだろ。これでも今は、加奈子の後を追う様な満たされた心境に居るんだ。元々、あんたを引きつれていく余裕はないって。それにあんただって嫌だろ。あの世で、加奈子や、健に、男二人連れだって心中してきたってくらいに思われるのは…あいつの白けた顔が眼に浮かぶわ…。」
「元カノの鬼人の面を想像して恍惚としているとこ悪いんですけど…無理心中する気が無いなら、もう少し穏便に行きましょう。いいえ、これは何も自分の為ばかりに言っているんじゃないんですよ。貴方は彼女の自尊心の強さを過小評価しているみたいですけど、いい加減、彼女の堪忍袋も膨らみきっていますからね。今以上に彼女を煽る様なこと言ったら…本気で、何をしでかすか解ったものじゃないですよ。あの女性はそういう方なんですよ。餓鬼と成って、感知能力が飛躍的に上がっている貴方にならそれ位のこと解るでしょうに…。」
洋平はやけに気遣わしそうにしている黒い鬼人に、朗らかに…大口を開けた人喰いの化け物であることなど、忘れてしまいそうなほど朗らかに笑い掛ける。
「あんた…いや、お前って、俺より年下だよな。もしかして、あの鬼姫さんと同い年くらいじゃないのか。」
「えぇ、まぁ…もっと言えば、同学年どころか、同級生だったりもするんですけどね…それが何か。」
「はっ、そうだったのかよ。どうせそのことは、鬼姫さんは知らないんだろ。ハハッ…。」
と、洋平は何とか笑いをかみ殺して、
「いや、何てことはないんだ。ただ、気に成ったって話でさ…だけど、やっぱりお互いにこのままじゃ不味いんじゃないかって話に成るわなぁ。」
「言いたことは察しが付きますよ。ですが、僕の事に関しては、今回の件が無かったとしても、素性を隠して蒐祖本家のお嬢様と知らぬ存ぜぬで席を並べていただけで、十分に彼女を不快にさせるでしょうから…貴方が気にする様な事じゃありませんよ。だから問題は貴方の方ですよ。…それでいったい、どんな積りで、彼女の前に赤い布チラつかせてるんです。」
「あぁ、鬼姫さんを牛に例えてる訳だな。なるほど、面白いね。あんた…いや、お前とは、もっとこう言う話をしたかったよ。」
「折角のお話ですけど、僕は『鏡』に向かって冗談話をする趣味はありませんから…御免こうむりますね。だけど貴方の墓石になら、年に一度くらいは馬鹿話をしに行って上げても良いですよ。」
「そいつはいいな。…死んだ後の楽しみがまた一つ増えたよ。加奈子にあって、それで一緒にあんた笑えるジョークを聞けば…もしかしたら…万が一か、奇跡でも良い…あいつが俺のことを、ほんの少しで許してくれるかも知れないからな…。」
そんな絶息の様なか細い声で話す、洋平。黒い鬼人は朱色に染まった瞳で、寂しそうにその姿を見つめる。
…と、どうやら、その意味深な視線に気付いたらしい。洋平は恥じ入った様に空笑いを一つ。それから思い出したように、
「そうそう、俺が加奈子に向き合う心の準備が出来たら、あいつの事を話題にするのを止して、墓まで口止めしといてくれるんだったよな。今からでもあれ、頼めるか。」
「構いませんけど…それでは、貴方は何のために残った命を費やそうというんですか。」
「さぁな、どっちにしろ死ぬことからは逃げられそうも無いしなぁ。それにな、生き続けることを選んだとき俺、は、あいつを理由にしちまったからな。今度ばかりは、本能でも、恐怖でも、自分だけに頼って死んでいきたい。…後はそうだな、目の前の『鏡』にもちょっとは協力してもらう事になるだろうけどな。」
黒い鬼人は小さく洋平に頷いて見せた。
「それで、もう一人の…貴方が生きている間の、当面での一番おっかない女性のことはどうする積りで…。あんな発破の掛けた方をしておいて…あれは何かに当たらなきゃ収まりが付きそうにもないですよ。」
と、黒い鬼人がチラリと千明の方を盗み見た。
洋平はこの黒い鬼人との密談がお気に召したのか、また、声を潜めて笑って、
「それは願っても無いな。俺もちょうど、鬼姫さんの力を借りたいと思っていたところだったんだ。正直、かなり力が衰えてるんでな。何か切っ掛けが欲しいと思ってたところだ。…ついでに、ここまで黙って付き合ってくれた鬼姫さんの溜飲も、多少は下げることが出来るだろうからな。」
「まったく良くやりますねぇ…ですが面白そうだ。僕も手伝いますよ。」
「それは助かる。死ぬ掛けの俺じゃあ、鬼姫さんの怒りを直接うけるのはきついかなと思ってたところなんだ。」
「あぁ、えっと…やっぱり、僕は柱の影にでも隠れていようかな…。」
「そう言わずに是非、俺の盾に成ってくれよ。生きている間に頭下げておける分は、出来るだけ下げておきたいんだ。あの世に逝ってからは、加奈子のことだけに専念したいからな。…なんだよ。なにか言いたげな『眼』だな…。」
洋平の言う通り、黒い鬼人は物憂げな瞳で彼の事を見つめている。だが、多弁さが鎧を着て歩いている様なこの男が、なぜか答え返そうとしない。…それで、洋平ははたと気づいた様に、
「加奈子のことで何か言いたい事があるみたいだな…いいぜ、もう一言くらいなら。」
…どうやら、洋平との約束を律儀に守っていたらしい…。
黒い鬼人は小さく息を吸い込んで、尋ねる。
「本当に、彼女と同じところに逝けると思ってらっしゃるんですか。」
洋平は黒い鬼人の言葉から、そして右手から、真意を受け取ろうと意識を向ける。しかし、黒い帳が立ち込めるようで、先が見えない。
それだというのに、なぜか、洋平は黒い鬼人の心のより深い部分に触れた様で…奇妙な一体感を覚えていた。…底意を暗がりに潜ませつつ、内心に朝焼けを受けて黒い鬼人が続ける。
「皮肉を言っている訳では無いんですよ。僕は運命論者ではありませんし…ただ…。」
と、黒い鬼人は詰まった言葉を…ふぅっと、濁った感情と共に吐き出して、
「僕は…夏芽が、加奈子さんが眠っているはずの無い墓石の前で涙するのを見ていますからね…。夏芽ですら手の届かない場所に逝ってしまった土屋さんと同じ場所に、彼女を殺した張本人である貴方が至ることが出来るのかなと…。それを…あぁ、僕だって、きっと他人事ではないだろうと思うと…少し不安で…。」
洋平はじっと、黒い鬼人の強靭な精神力の周りに靄の様に見え隠れする本心を見つめていた。
黒い鬼人は…漆黒の如く、闇の如く…静謐に、そして丹念に墨染にした本心を吐き出す。
「夏芽はどうやら貴方に消えて欲しいとは思っていました。例え、それがこの世界で一番消極的な人殺しだったとして…でも、それを過大に解釈して、貴方を死の淵へと追いやったのは僕だ。加奈子さんも、夏芽も、ただそこに居ただけの、僕たちにとっては死そのものでしか無い。そこに自ら赴くのも、押し遣るのも、それは全て僕たちの自業自得。…だから夏芽が誰かにとっての『死』だったとしても、せめてその業は俺が背負ってやりたい…それなら、ただ虚しく尽きていくだけの俺の生も、死も、あいつの…。あっと、また話を脱線させてしまいました…まったくもって悪い癖だ。それと、何のかんの言っても、すぐに夏芽の個人的な事情を、自分の行動理由にしようとしてしまうのも…。ずいぶん、夏芽には申し訳ないことをしてきました。やっぱり僕たちは…自分の為にでも地獄に落ちるべきなんでしょう。」
喋りは相変わらず軽快。そして若干の外蓮味も…それでも、黒い鬼人にとっても、洋平にとっても…それは、他人事ではないのだ。
洋平もまた、黒い鬼人へと伝える様に、自らに伝える様に…そして、千明の耳を通じて、聞こえているはずもない場所に居る誰かへと声を届けようとするかの様に…鋭い牙に縁取られたその口から、
「地獄か…俺はどうしたってそこに逝くしかないだろうな。それに、そこに加奈子は居ないだろう。…が、そんなのはちっちゃい問題だ。」
と、含み笑いも高らかに、
「なんせ俺達は鬼人なんだぜ、閻魔さまに地獄の釜の底に放り込まれたとしても、加奈子が居る所まで這い上がっていけば良いだけのことだろ。それに、そうとなったらいっそ、地獄の一番下に落っことしてもらった方が有り難いくらいだ。まかり間違って、加奈子が落っこちてないかも確認できるからな。」
黒い鬼人は呆れた様に、可笑しそうに鼻息を漏らして、
「そうですね…。もし、僕たちが余計な事をしたために、彼女が自分の業に縛られて地獄に落ちることがあったとしても…その時は、肩車で天国まで這い上がって行けばいいだけ…それだけのことですよね。」
「そうそう。…んで、天国の入口まで来たら加奈子に蹴落とされて、俺はもう一周、地獄巡りだろうな。」
洋平はそう言って、屈託なく笑った。まるで黒い鬼人の業さえも、その口に飲み込んでしまう様に…。
千明は眉間に皺を寄せて、眠い頭を二、三度揺す振る。それから瞳を見開いて、物憂げな、それでいて全てを投げ出してしまいたそうな…そんな白銀の内心を、突き出すかの様に洋平たちに向けた。
出口を求めて…しかしながら当て所も無く…立った一人広大な迷路を彷徨い歩く。重い体と、心を引き摺りながら…。
(だって、私が倒れる訳にはいかないもの。)
と、千明は閉じかけた目蓋を何とか押し上げた。…どうやら極度の緊張感からくる、淡いまどろみの中に居たようだ…。
千明から不意にこぼれ出したその無垢な思念。黒い鬼人と、洋平は鬼膜を通じて感じ取った。
「ほらな、やっぱり鬼姫さんのことも俺達が引き上げてやらないと駄目だろ。…ところで、あいつ彼氏いんのか…。そうか、じゃあ肝心のところはそいつに任せるとして…憂さ晴らしくらいは、ストレス要因の俺達が手伝ってやらないとな。今日…は、無理でも、せめて明日以降ちゃんと、人並みに社会復帰できる様に…。」
洋平は再び声を潜ませると、まるで弟分にでも噛んで含める様に、少しばかり自慢げに黒い鬼人に説いた。
黒い鬼人は黒い鬼人で、そんな兄貴分の首根っこ掴みながらも…意外や意外、神妙に、
「同じ学生として、先輩風吹かせてくれるのは有り難く思います。でも、僕から言いだしたことだけど…肩車は勘弁して下さいよ。彼女、照れ隠しの為なら全力を振るうのも厭わなそうなタイプでしょうから…。下手すると、首を捩じ切られかねない。」
「おう、じゃあ踏み台で決定だな。」
「まったく、さっきまで完璧に悪役だった人が…貴方の言葉を借りるなら、格好付け過ぎですよ。」
「まぁな。加奈子と付き合い始めたばかりの頃も、告ったときの…何て言うかなぁ。…そう、お前の言葉を借りるなら『爆発』だな。あの頃も今みたいに、わっと辺りに拡がっていく様な勢いに任せて、加奈子の前では必要以上に格好付けてたよな…。お前にも、そういうの覚えあるんだろ。」
「まぁ…有体に言ってしまえば…独りよがりに夏芽の前で格好を付けた結果、僕はこうしてここに居ると言えそうですね。」
「へぇ、そうなのか。なら、お前をここまで追い詰めた夏芽には、改めて感謝しないとな。俺にはとても真似出来ないことだってな。」
「そうですね。ですが…僕が勝手に夏芽に追い詰められたことは間違いないですけど…それは逃げの一手でして…。」
と、舌滑りは良いものの、何やら情けないことを口走りだす黒い鬼人。
洋平は喉越しの非常に悪い気配を酌み取って…、
「んっ、お前まさか…さんざん俺に偉そうなこととか、説教じみたこととか、スカしたこととか言っておいて、その癖…お前自身は夏芽に告っても、玉砕もしてないんじゃなかろうなぁ。」
そんな、洋平のさらっとして毒気のない皮肉。
黒い鬼人は威儀を取り繕う様に苦笑を漏らすと…今度は思わせ振りに、一本だけ立てた左手の人差し指を軽く揺すって、
「チッチッチッ。」
と、愛嬌たっぷりに、どうやら間違いを指摘している様子だ。
洋平は、『しょうの無い奴だ。』とでも答え返す様に、笑気を吐きだした。
「鬼人なってみると、人格は分裂気味になる。寿命は大幅に圧縮される。死ぬのが怖くて、人に内心が振れている時は寝ているか、ぼんやりとしているだけ…かと言って、鬼人の方に気が向いたときは、ついつい集中し過ぎてしまう。するとまた、人に心が振れてる時は反動で、眠たくなる。これぞ人生投げ出したくなるほどの悪循環。この世の生き地獄とはこのことかと実感させられる毎日ですよ。まっ、それでも…鬼人となって二つだけ助けられたことも有るんですよね。」
黒い鬼人が左手を下ろす。それを見て、洋平が目線を正面の朱色の双眸に戻した。
その数瞬で呼吸を整えて、黒い鬼人が続ける。
「僕の命は長くとも、来年の今頃までは持たないでしょう。そうなると、今、在籍している高校を卒業することが出来るかすらも危うい。大学への進学なんてまず無理でしょう。それが解りきっている以上は、大学入試に向けて勉学に勤しむなんて、ちゃんちゃら可笑しい真似やってられねぇぜっ…と、早々に、受験勉強から逃げ出すことが出来たこと…。それともう一つ…自分の命が残り僅かなのを知っている僕が夏芽に思いを伝えたとして…彼女が僕のことを何とも思っていないのは、僕自身が一番よく知っていることですけどね。でも、夏芽が気まぐれにでも…いや、それもないか。あるとすれば同情の様な感情。そういう僕を拒絶しきれなかった様な場合に…きっと彼女に、酷く嫌な思いをさせることになる。まっ、寿命が尽きるまでも無く、僕は人成らざる鬼人だという、重い足枷にも繋がれてもいることだし…。」
と、黒い鬼人は微かに湿り掛けた言葉を、洋平に習う様に笑気で吐ききって、
「とまぁ、僕が鬼人であるという事が立派な大義名分と成って、夏芽に告白することの出来ない逃げ腰な自分自身にも、なんとかかんとか目を瞑ることが出来ているんです。…何と言っても、それが一番のメリットでしたね。」
そうあっけらかんとして話す、黒い鬼人。
洋平はややこしい内心の外れを引っ張り寄せる様に、尻尾をのたくらせる。こんな動作一つとっても…這いずる様子は一苦労。地面を擦る音も、衣擦れに似た耳触りは甚だ脆弱に聞こえる…。
「なんだそれ、てっきり俺の負けっぱなしかと思ってたら…偉そうなこと言っといて、お前の方こそ不戦敗にまっしぐらじゃなねぇかよ。…憎たらしいほど自分の操縦が上手いお前を知ってるせいか…なんかこっちまで情けなく成ってきたじゃねぇか。」
と、洋平は大きな溜息を一つ。
「これはお前の方こそ、俺を『鏡』に見立ててぶつかって来なきゃいけないみたいだな。幸い、俺もお前を鬼人としてぶちのめす積りだったんだ。これで、俺の方ばっかり突っ掛かっていくみたいな状況にはならなくて済みそうだな。」
「言われなくても、初めから僕は、貴方を叩きのめす積りでしたよ。落着いた雰囲気の貴方と話すのは楽しかったですけどね。それは貴方が、鬼人と成ってから学び取ったものの集大成だ。そんなお利口な内心のコントーロルの仕方をしていては、己の本質を『爆発』させることは出来ない。」
「その言葉、そっくりお前に返すぜ。」
「きっとそうくるとは思いましたけどね…こればかりは致し方ない。でも、どうしても僕の本来の鬼を叩きつけて欲しいのなら、貴方が…貴方が僕から、醜い色を引きだして下さい。多分、貴方の本質との衝突で揺さぶられたとしたら…『鏡』の僕も堪えることは出来ないんじゃないかな…。」
黒い鬼人の囁く様な声。だがどうしたことだろうか。…今ほど、フェイスマスクに刻まれた笑みと、黒い鬼人が浮かべているであろう笑い顔が重なって見えた事は無かった…。
向かい合わせの二枚の『鏡』は、映り込んだ薄明りを交わすかの様に、静かにささめいていた。




