第四話 その一
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あのカラオケ店のテーブルにぶちまけられたオレンジジュース…その光景を思い起こさせる様に、空を血みどろの赤が侵食していく。
人は死んだら空の上へと旅立つと誰かが言っていた。
だが…こんな血生臭い朝焼けで、空を、雲を染める霊魂たちが…本当の意味で浮かばれていると言えるのだろうか…。
そんな人々の不安を、死を溶かしこんだ様な逢魔ヶ時が…今日もまた過ぎていく…。
黒い鬼人は、鬼鎧の暗がりに、空から零れた鮮血の一端を吸い取る。
「貴方はもしかし、こうは考えたりしませんでしたか。鬼鎧が鬼の物質化であるならば、どうしてその器の中一杯に鬼を満たしておかないのだろう。そうすれば、物質化していない鬼をもっともっと多く身に纏う事が出来るのにと…これは、鬼人ならば誰しもが一度は思い浮かべる素朴な疑問と言うやつです。」
洋平は手にした尾を取り落とすと…己の瞳にも波及した異変に気付いたらしい…恐々(こわごわ)と鬼鎧の頬の辺りを指で摩っていた。
黒い鬼人がまた、嗜虐的に苦笑を漏らす。
「ですが、一見無駄なスペースにも感じられるこの透明な領域こそが、実は鬼鎧を成立させている。この透明な部分が有るからこそ、鬼人は、内心で肉体を包み込んだ後も己を保つことが出来る。要するに、鬼鎧の表面にあるこの透明な領域こそが、鬼人の『理性』の表れなのですよ。だからこそ…己の鬼を制することが出来なかった者、あるいは、己の鬼の力に飲み込まれた者は…『理性』の領域を失って『餓鬼』に成り下がるしかないんです。」
「俺が…俺が自分の力に負けたとでも言いたいのか…。」
洋平が声を上げる。鬼鎧の首はきれいさっぱりと修復し…だが、その瞳は既に焦点を失っている。
黒い鬼人はもの静かに、言葉で答える代わりに洋平の左肩を指さした。…美しい緑を誇っていた鬼眼が…今、無数に走る亀裂に引き裂かれ…砕け散った結晶が地に落ちた。
「俺が健の鬼を制御出来てないと…。」
「それに、土屋加奈子さん…あなたの恋人の力も抑えきれてはいませんね。…まぁ、こうなることは、貴方が『死返し』を執り行ったときから決まっていた事ですがね…。」
「馬鹿な…健の鬼が俺を拒絶したとしても…加奈子の鬼は…加奈子が俺を拒絶しているなんてことは…。だいたい、俺は加奈子を喰ってからこれで一週間は経つ。それでも今の今までこんなことは起きなかったぞ。確かにあんたらは言ったよな。生き肝を喰って三日経てば、峠を越えたも同じだと…じゃあ何か、あれは嘘だったってことかよ。」
「いえ、それは紛れもない事実ですよ。そしてその事実のままに、本来なら、貴方は鬼姫さまと闘った日に死ぬことに成っていました。」
黒い鬼人が言下に断じる。洋平の鬼鎧一杯に広がった鬼が、生き場を求めて彷徨う。…洋平は最早、自分の生き死によりも重大な…知らなければ生きる意味も無いとでも言いたげな…そんな事実に、残された全ての時間と、精神を向けているようだ…。
ここまで生きることに執着し、人まで食べた男のその態度。そのあまりに異様さに…千明はただただ息を飲んで…そして、
「しかし、貴方は死ななかった。生き残り、次の人喰いを犯す羽目に成った。その理由は…鬼姫さまの所為です。」
「えっ、私っ…。」
と、千明は思っても見ない場面で浮上した自身に…今しがた飲んだばかりの息を吐きだす。
そんな驚きをもって迎え入れる千明の反応に、黒い鬼人はやや困った様に、そしてどこか申し訳なさそうに、
「あぁ、いや…鬼姫さまの所為ではありませんね。ここは、『鬼姫さまのおかげで』に改めましょうか…。」
と、なぜか勿体付けた様に、気の重そうな口調で言葉を改めて…本題に移る。
「知っての通り…いや、思い出すまでも無く、ほら、この通り。鬼姫さまの鬼は、我々、下々の鬼人から比べれば凶悪なほどに侵食能力が高い。鬼鎧を纏っているとは言っても、意識して、鬼をしっかりと保たなければ…いつ引っぺがされるとも解らない。そんな貪欲な侵食能力を持つ鬼を、貴方は何度となく打ちこまれましたよね。」
黒い鬼人の語調…今さっき千明に気を使ったのと同じとは思えない程に愉快そうだ。さらに、黒い鬼人の話しに拍車が掛る。
「強い鬼を打ちこまれると鬼鎧がどうなるかは、さっきの僕の姿や、貴方の鬼人としての人生経験からご存じの通りです。それに付け加えて、彼女のあの凶悪な鬼の侵食能力ですからね。貴方が溜め込み、纏った、大量の鬼も、一発で駆逐されることに成る。…貴方にも実感が有ったんじゃありませんか。鬼姫さまとの戦闘では力が出し切れなかったとか…纏ったはずの鬼が、思ったより弱弱しかったとか…。つまりはそう言う事なんですよ。…貴方は本当なら、取り込んだ土屋加奈子さんの鬼を制御出ずに死ぬはずだった。戦闘で纏う鬼をどんどん増大させれば、それだけ暴発するタイミングが…餓鬼道に落ちるのも早まるはずだった。それが…まったく上手くしたもので…鬼姫さまの鬼に暴れまわって貰う事で、内心が加奈子さんの鬼で破裂する前に、ちょうど良い具合のガス抜きに成って仕舞ったってことです。しかも…貴方は相当の深手を受けていた。その為、二度目の『死返し』で流入してきた鬼も、回復にごっそりと回されたため。またしても、暴発のタイミングを逃したと言う訳です。それに対して僕は、貴方をぎりぎり暴発しない程度の所で追い詰め、貴方の纏う鬼を膨らませていきました。…貴方の『理性』が、貴方の中で眠っている二人の鬼に…意志に負けて…餓鬼道に落ちてしまう様にね。」
黒い鬼人がフェイスマスクの隙間から、引き攣った笑いを吐き出した。
そこに千明の溜息が混じる。
「そっか…私が闘うと、正攻法ではそいつを追い込めないって言うのは…そう言う事…。それにしても…。」
「気に病むのも解ります。…ですが、悪戯に自分ひとりを責めるのは止した方が良い。貴女の力には、僕とは比較にならないくらい多くの『使い道』があるんですからね…。」
「大丈夫、解ってる。…大丈夫だから、先を続けて…。」
千明は細く長い指に頬を沈める様に、頭を抱えた。
「先ですか…先をと言われても、後はもう…大野さんが『餓鬼』に成り果てるだけなんですよね。それで終わりな訳ですから…お話しすることも特には…あぁ、そうだ。大野さんがどうして土屋さんを食べてしまったのか。死の恐怖を感じた本当のところはなんだったのか…ってことを、もっと劇的な場面でお話ししようと出し惜しみしていたんでした。じゃあ、それを…。」
洋平は自分の人生の晩節をひしひしと感じながら…そんな局面でも、相変わらず惚けた様子の黒い鬼人に…一歩ずつ、よろよろと近づきながら、
「言わせねぇよ…多分、それを言われちまったら、俺は…。俺は、俺の為に、生きたいから生きなきゃならないんだよ…。」
洋平は倒れ込むような体勢で、黒い鬼人の心臓の上に、思いっきり拳を叩き込む。だが…いいや、やはり…。
「なんでだよ。…どうして俺は、こんなに非力になっちまったんだ。」
洋平は黒い鬼人無傷の鬼鎧を…それどこか、微動だにしない黒い鬼人の姿に、溜息の様なかすれた嘆きを漏らす。
それでも、湧きあがる失望の念をぶつける様に…黙々と、ひたすら拳を突き出し続ける洋平に、黒い鬼人はその内心に鎧われた胸を貸して、
「残念ですけど、今のこの力こそが本来の貴方の力ということでしょう。餓鬼と化したことで、内心の潜在能力の全てを出し切れているとはいえ…機動力重視型の腕力なんて、たいていはこんなところでしょう。」
「そうか…そう言えば、あんたの鎧は特別硬かったんだよな。なぁ…どうしてかな…俺、こんなところで、変にしんみりしちまって…もう、これで終わりだとしても…俺は…。こんな…こんな終わり方は嫌だ。…悪役でも構わない…俺は…最後の最後まで、あいつを…加奈子の傍であいつを…感じていたいんだ…。」
洋平の鬼人としての…否、人としての切なる願いに…黒い鬼人は底なしに低く、そしてどこか嬉しそうに笑った…。
「貴方は抗い方を知っているはずですよ。」
黒い鬼人が洋平の鬼鎧のフェイスマスクを…硬く閉じられた牙の列を指さした。
「己の心のままに鬼人と成り、抗って、抗い抜いていた。それが鬼人としての貴方の生き方でしょう。だったら、生き残るためには抗うしかないでしょう。…ただし今度は、貴方の命を懸けてね…。」
「俺の命を…そうしたら俺は…。」
「僕は短い人生のなかでも、多くの鬼人を見てきました。その触れ合いの濃密さで言えば…おこがましくも、鬼姫さまにだって引けを取らない積りでいます。そんな中でいつも思うのは、鬼人は皆、己を制御しきれなくなるほどの自己矛盾を…冷静さともう一つ、相反する面を持っていること…。その二面性が内心に存在するが故に、鬼人は無謀とも取れる行為に走り、時には死期を早めることに成る。…それは例えば、他者を愛する気持ちを持ちながら、そんな自分を慈しみながらも…己の存在価値を、鬼人としての面に依存し過ぎる気持ちであったり…。例えば、人として、鬼人として恵まれていながら、自分の力が過剰なことも十二分に承知をして…固定観念的な自尊心に、その衝動に突き動かされてしまうという一面。」
黒い鬼人の言葉に、千明は凛とした顔で頷いた。
「あるいは…自分の、他人の死を恐れながらも…生きるためにと、その全てを嘲笑う生き方を選んだ鬼人が居る。」
「それが俺か…。もしそうなら、今の俺の姿はこんなでも…鬼人としては失格だな。」
洋平はフェイスマスクを右手で鷲掴みに抑える…あとほんの少しの間、人であることを…加奈子の事を思い遣る為に…。
「人を止める時に必要だからなのか…それとも内心を物質化したことによる影響か。結局、人間と言う器は、鬼人の精神を宿しておくには不適当なのかも知れません。…ですが、人として尊厳を守って死ぬか、それとも鬼人として闘って死ぬか選ぶことは出来ます。」
そう言って黒い鬼人がもう一度、洋平の口許を指さす。洋平は…、
「『流』を使えと言う事か…だが俺にはもう、加奈子の力も、健の力も感じられない。そんな俺が今更…。」
「いいえ、餓鬼となった今なら…そして衝動に身を委ねるなら…無制限に、そして本当の意味で全力の『流』が使用できるはずです。しかし…。」
「代償は俺の肉体…そうだろ。」
「えぇ、気付いていましたか…。」
「まぁ…なっ…。」
洋平は口を抑えていた右手を左胸の辺りに下ろして、
「ここにぽっかりと穴が開いたみたいだ…。『死返しを執り行った鬼人は外部から…他人の生き肝を喰わなきゃ傷を治せない。そして…自分の心一つ制御しきれないような鬼人は…自分の心に、今度は、自らの心臓を喰われちまう。俺の鬼鎧が急に修復したのは、俺自身の肉体を消費したからなんだろ。…ちょうど、加奈子や、健の鬼を取り込んだ時みたいに…。」
洋平の右腕が、操り糸が切れた様に垂れ下がる。
「しかし…俺はいったい、何なんだろうな。人を超えたつもりで良い気に成って…それがまさか加奈子を殺すことに繋がるなんて…。その後も、加奈子とまた一緒になれた様な気持になったり…健の心を弄んだり…。でも最後には、こうやって…強がれないで、後悔ばかりしている。後悔してるよ、俺は…。だけど、空っぽなんだ。今の俺の心は空っぽで、きっと本当の俺の心は…鬼人の心はこれっぽっちも後悔していない…それが解るんだよ…。なぁ、俺…どうしちまったのかな。なんでこんなことになったのかな…。」
「あなたは鬼人と成って間もない段階で、二度に渡って『死返し』を…他者の内心を取り込んだ。だから、他人の精神とのやり取りに掛りきりで、今までに自分の抱える矛盾と直面する機会を得られなかった。それが、餓鬼となり…貴方自身の脳すらも鬼鎧の従属物に成り下がった今…ようやく、自分の矛盾に目を向けるゆとりが出来たという事ではないでしょうか。…僕もかなり死に近い所にいます。だから解るんです…死の恐怖と言う実感として…。」
「恐怖か…あんただって死ぬのは怖いんだよな。…それでもあんたは、俺に鬼人となれっていうのか。危険を冒してまで、俺のことを…後始末を付けてくれるっていうのか。」
「…まぁ、仕方ないでしょう…貴方がもう一度、加奈子さんに会うには…それしかないでしょうからね。」
「優しんだな…こんな空っぽの俺に…。知ってるだろ。今のこの気持ちは、俺の心の大部分からしてみれば、ちっぽけな嘘みたいなもんだってこと。…俺の身体が内心に溶けてしまったら、こんな気持ちも吹き飛んで行ってしまうだろうに…それでもあんたは、俺の為に命を懸けてくれ様としてるんだから…有り難くて涙が出るよ…。」
「僕はただ…自分の醜さを見せるのが下手なだけ…それだけです。」
洋平は崩れ落ちる様に膝を突くと…零れ落ちた涙をかき集める様に、両手で地面に触れる。…そして微かに微笑んだ。
「ありがとうよ。…本当は芯まで俺が後悔するのがあんたの望みだったんだけど…どうやら俺自身、どうしようもないことみたいだ…。いや、結局は人としての俺も後悔なんかしていないのかな…。この期に及んで悪いとは思うんだ…だけど、こうやって薄らとでも感謝して死ねることに…闘って死ねることに…後悔はしてない。だからどうか…俺の本性を…鬼人である大野洋平を頼む…。」
深い眠りに落ちていく様に洋平の声が遠く、小さくなっていく。そうして、瞳から溢れ出ていた紫鳶の蒸気が止まった…。
黒い鬼人は隙間なく、洋平の鬼鎧に拡がっていく紫鳶を見つめながら…千明へ、そしてもう一人の『姫』へと呟いた。
「ごめんなさい…夏芽…それに鬼姫さま…。僕は結局、彼の人としての部分を悪人に出来なかったみたいだ。僕自身が彼を餓鬼へと追いやったというのに…。醜さを見せるのが下手なんて…大嘘ですね。ただ僕自身が、醜い自分を見放すことが出来ない…本当に醜い、人としての自分を…。だから…罪滅ぼしはとても出来ないけど…僕も本当の意味で命を懸けて、鬼人として闘います。それが、土屋さん、健さん…そして大野さんへの手向けになるのなら…。」
「へぇ…どうして、あんたが鬼人として闘う事が、俺や加奈子の供養になるんだ。」
と、俯いた洋平から、とぼけた声が漏れる。鬼人としての洋平の腹は決まったのだな…。
黒い鬼人も数秒前の神妙さを忘れたかのように、
「まぁ、気付け薬みたいなもんですよ。」
「ほぉ、相変わらず突拍子もない。」
「貴方はほっといたって、土屋さんと、健さんにあの世へと引き摺りこまれる。しかし、その前に貴方の脳細胞がとろけきって…鬼鎧に消費されてしまっては元も子もない。貴方を後悔させようよとした僕のお膳立てが全部パァになる。だから…お前が眠り込んでおっちんじまわないように、適度に痛めつけて遣るよ。」
急に跳び出した黒い鬼人らしからぬ口の悪い台詞。洋平は四つん這いで地面と顔合わせに、胸苦しげに笑う。
「別に俺を痛めつけるのに、あんたが鬼人に成ることも無いんじゃないか。姿はともかく…人間だって、殴り合い、殺し合うんだ。…俺達が繰り返してきたことが…それに、繰り返そうとしてることが…俺には鬼人だけの、鬼人にしか出来ない特別な行為とは思えないんだがなぁ…。」
朝焼けの赤が路地裏の地面へ拡がる。平らなアスファルトの、滑らかに掘り返された瓦礫の影に…ところどころに淡い余韻を残しながら…洋平の瞳の下にも…。
今日の始まり、そして終わりとは…いつでもそんなものかも知れない。そう、ただ静かに取り残されていく。その寂しさを噛み締めるだけのこと…。
黒い鬼人はその赤から、黒い瞳を逸らす様に…昨日の香の残る空を見上げた。
「言ったでしょう、人は誰でも鬼を持っていると…。ただ、その鬼を形にして、他人に、外の世界にぶつけて遣ろうという堪え症の無い者が鬼人と呼ばれるだけの事…。でも本当は、だれかに影響を与えようとか…誰かを傷つけようとか…。心から相手に思いを伝えようとするとき、その人の心には鬼人が潜んでいる…僕にはそう思えるんです。もしかして貴方も…鬼鎧を纏う事で、誰かに何かを伝えたかったんじゃないんですか…。」
「さぁねっ、どうだか。…だが、あんたと話してると…そして闘っていると…あんたの言ってることがまんざら間違ってはいないんじゃないかって気に成ってくる。確かに、鬼人とってそれ全部がコミュニケーションの手段なんだからな。とは言え、俺を痛めつけて解らせたい事が有るっていうなら急いだ方が良いな。正直なとこ、後どれくらい俺の頭がはっきりしるのかは…俺にももう解らない。遠慮しなくていいさ…まぁ、こっちから言ってやりたい事も山ほどあるけが、それはあんたをあの世に引っ張っていた後で、たっぷりと時間を掛けて話せばいいからな…。」
「そうですか。じゃあ一つ…冥土の土産になるような、きついお灸を据えてやるか。」
洋平の鬼鎧の口が開く。その瞬間を待って居た様に、辺りの全ての鬼が動き出した。
黒い鬼人は、フェイスマスクに刻まれた笑顔を崩すことも無く…朝日か、それとも幻か…その鬼鎧に宿る漆黒から、血の様な朱色がさざめき始める。それは恰も、朝焼けに潜む闇を解き放つかのように…。
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洋平の末後の意思を湛えた鬼が、安らかな寝息を立てて眠る、安息に満ちた怠惰な世界を掻き乱した。そうこれが、鬼人となった彼が、そして鬼人として終わる彼が自分に望んだ全て…。
その思いが洋平の口を突いた。
「俺は生きるぞ…強く、誰よりも強く生きてやる。そこの鬼姫さんよりも、健よりも、加奈子よりも、そしてあんたよりもな。例えこの先、何千、何万の心臓を喰らう事になろうとも…。」
「ならば手始めに、僕らを殺して喰らうと良い。 僕の生き肝では腹の足しにもならいでしょうが…もしかしたら、鬼姫さまの生き肝を喰らい、それを制することが出来たなら…貴方が失った心臓も再生産されるかもしれませんよ。」
「本当か。」
「えぇ、自分以外の命を喰らって生き延びようとする本能は、鬼人のものでも、人のものですらない。…生命体として、貴方の肉体が糧を求めているという事だ。ですから今なら、まだ間に合うんじゃないんですかね。それにやる価値は…あがいてみる価値はあるでしょう。一旦、鬼人の心を失って完全な餓鬼に成ってしまえば…そこからは、生きるためではなく、ただ喰らう為だけに人の肉を貪ることになる。つまりこの命懸けのお遊びが…貴方にとっては最後の食事に成るかもしれないという訳です…。」
「なるほどな…それだけの理由があれば十分だ。それじゃ一丁、朝飯の為に残りの人生を賭けてみるか。」
活動の速度を挙げる洋平の鬼。それは茫漠とした恐怖を感じた時の様な、何てことの無い目覚めを味わった時の様な…徐々に拍動を強めていく心臓の鼓動に似ている。…鬼膜を通して、露わに成った洋平の心臓に触れた様な…千明はそんな感慨を覚えた。そして…、
(あの人喰いの鬼が…ううん、鬼混じった殺気の質が変わった。今までのような、漠然とした殺意とは違って明確に…あの黒いのを喰い殺してやろうという気概を感じる。そして、その目的意識があいつの鬼をこれまでにないほど研ぎ澄まして居るのを…。力は随分落ちたけど…無制限に『流』を使える現状では…もしかしたら…健さんや、土屋さんに頼り切っていた時よりも強いかも。)
千明のそんな危惧を余所に、黒い鬼人は飄々と出で立ち。そして洋平は…彼がもっとも好んできた、自身の全てをぶつける様な突進攻撃を黒い鬼人に仕掛ける。
まさに全身全霊の激突を思わせる様に、洋平の腰から伸びる尾が、長く、長く、伸びきった。
黒い鬼人は洋平の両肩を掴んで…が、洋平の勢いが勝っている。じりじりと、そして確実に、黒い鬼人は作業現場の中へ押し込まれていく。
日の差し込まない一角に入って行く二人に…千明も鉄骨から腰を上げて、その後を追った。
千明が陰の中に足を踏み入れると…二人が暴れたせいもあって、林立していた柱も残すところ数えるほどに…。そんな危険のただ中へも、千明は歩を緩めずに進んでいく。
すると…ちょうど作業場一階の中央辺りに、二つの影が絡まり合っているのが見えた。
「俺にお灸を据えるんじゃなかったのかよ。」
肩を掴む腕を押し返して、洋平が呟く。黒い鬼人は一瞬、腕を曲げて…ポンと洋平を突き離して…、
「その前に…明るい場所では解りにくいみたいなもんだから…。」
それでも自分の方ばかりに目を向ける洋平に、黒い鬼人は言葉少なに付け加える。
「右肩と…左の脇腹ですよ…。」
洋平は黒い鬼人が何を言っているのかよく解っていなかったようだったが…それでも、言われるがままに自らの右肩に紫鳶の瞳を向ける。そして…、
「これは…健か…。」
洋平は頭を整理する間もなく、引き摺られる様に左の脇腹に視線を移す。
「加奈子…お前なのか…。」
紫鳶の火勢の強さに紛れて見えづらく成ってはいたが、作業現場の暗がりに移ったことではっきりと解る。…ぼんやりと、鬼火と成って二人の鬼は未だ洋平の鬼鎧に残り…責め苛んでいることが…。
「馬鹿が…お前らは俺の一部になったんだろ。だったら、大人しく俺の心の底に沈んでいろよ。それをこんな…こんな…クソッ…。」
洋平は罵声を吐きながら、右肩と、左の脇腹を交互に殴りつける。…しかし、右肩には健の赤銅が…左の脇腹の薄桃色を焦がした様な色が…どれほど強く打ちつけようとも、はっきりと色付いている。
洋平のものに憑かれた様な取り乱し様を目の前にして、黒い鬼人は…いいや、黒地に朱色の筋を流した鬼人が、散る花の風情を惜しむかのように呟く。
「その薄らと霞色の気配を感じさせる淡い、淡い桃色は…灰桜。その甘やかな色彩が、貴方にとっては土屋加奈子さんの忘れ形見ということですか…。」
「なっ…ふ、ふざけんじゃねぇ。俺がこんな、こんなものに…なんで俺がこんなものに煩わされなくちゃならないんだ。」
「何を今更…彼らの意識を受け入れたのは貴方じゃないですか。」
黒い鬼人の含み笑い。これまでも大概人の悪い性格をしているのを知っていたが…今のはただ暗いだけでは無い。そう…色で例えるならば、鬼鎧に宿る鬼に混じるあの朱色のように、どろりとした厭らしさを含んでいる。
洋平もその朱色に思わず…、
「俺が加奈子や、健を喰っちまったのは間違いない。だからある意味で、俺は二人のことを受け入れたのかもしれない。だけどな…これは違うだろ。俺は二人の鬼を完全に掌握していたはずだ。それなのに…どうして今更…。いや、思い当たることはある。やっぱり…あんたが…。なぁ…それより…もしかしてあんたも、その…『二本角』ってやつじゃないのか…。」
「えっ、違いますよ。どうしたんですか、藪から棒に…。」
そのあっけらかんとした態度。流石に洋平も毒気を抜かれて、
「いや、なんでもない。…それよりも、あんたが…あんたがどうにかして加奈子たちの意識を目覚めさせたんだろ。やってくれるよな、まったく。だがそれで俺を後悔させたつもりで居るなら、それは…。」
「あっ、ちょっと待って下さいよ。別に僕が貴方の中に眠っていた二人の意識を目覚めさせたとか、そういうことではないんですよ。…と言うより、そもそも…貴方は一秒だって土屋加奈子さんと、健さんの鬼を掌握してはいませんでしたよ。」
「なっ…嘘つけよ。」
「嘘じゃありません、本当です。じゃなければ初めから、僕は貴方にこんなまどろっこしい挑み方はしませんよ。」
…何か、この黒い鬼人の人と成りを多少なりとも知った者には、ずいぶんと説得力があるようにも聞こえてくるが…。
千明も驚いたような、不審そうな面持ちでことの成行きを見守っている。
洋平はもう一度右肩を殴りつけて、
「俺が健の力を完全に自分の物にしていた事は…今は砕けちまってるが、この『眼』をみれば一目瞭然だろ。」
「あぁ、『眼』だけに…ですよね。なかなかお上手です。」
と、黒い鬼人の下らない洒落っ気は黙殺して…洋平は続けて、左の脇腹の灰桜のおぼろげな光を殴りつける。
「加奈子だって…俺のピンチにその力で応えてくれた。それこそ俺とこいつが和解して、加奈子が俺の一部に成ったことの証拠だろ。違うか。」
…打撃音が無かったと思えば…。どうやら洋平は加奈子を殴りつけては居なかったらしい。
左の脇腹スレスレのところで止まっていた固めた拳を開いて、洋平は愛おしそうに、そして、どこか宥める様にその手で彼女の鬼を摩った。
それを見ていた千明は、厳しい表情は崩されないものの…物憂げな吐息を漏らして、
「そいつの肩を持つ訳じゃないけど…貴方の言い様は解せないわね。そいつは確かに『刻騙し』を、それに健さんの『鬼眼』を我がものとして使って見せた。それは紛れも無い事実でしょ。その事実を目の前にして、そいつが二人の鬼を掌握することが出来て無かったなんて…私にも納得がいかないわ。」
黒い鬼人は千明を、洋平を見比べる。…と、黒に混じった朱色が燃え上がったかと思うと…クツクツと暗い笑いを漏らし始めた。
「鬼姫ともあろう者が…男の泣きごとにほだされて本質を見失うとは、情けない。」
「なっ…何ですって。」
「おっと、これは失言でした。お許しを…。」
そう皮肉っぽく頭を下げる態度からはもう、朱色の陽炎は遠のいていた。…しかし、確実に黒の中に潜んでいるのが解る…。
黒い鬼人は笑気の余韻を吐ききって、
「前提が間違っているんですよ、お二人とも。『死返し』で喰らった者の力を使いこなしたから鬼を掌握した…それは違いますね。完全に他者の鬼を我がものにするという事は、喰らったもの意識など微塵も残さずに自分の鬼と同化させること…。だいたい、腹話術でもあるまいに…晩餐にて供された愛しいあの娘と意思疎通なんて…笑い話でなければ、彼女の鬼が貴方の内心と混ざり切って無い証拠でしょう。」
黒い鬼人の言葉に、自然と、洋平の手が左の脇腹より離れていく。それを目聡く見つけて、黒い鬼人はまた一笑い。
「鬼の中に記憶が宿ったとして、感情が残る事はまず無いでしょう。…心配しなくても、貴方の中の彼女が根に持って居るなんてことはありませんよ。まっ、言い換えるなら、貴方が感じた都合の良い加奈子さんは、全部幻想だったということですね。クックッ…いつ言ってあげよう、いつ言ってあげようと、ずっと楽しみに…もとい、気が重かったんですが、ようやく貴方に現実を突き付けられました。これで根気よく貴方の性根を叩き続けた甲斐があったというものです。…いえ、今のも独り言ですから…。」
黒い鬼人の低く、仄暗い笑いは止まない。その不気味さに…千明の顔色が優れないのが、作業場の暗がりの中でもはっきりと解る。
洋平は怒りと、力を溜め込む様に戦闘態勢を…鬼鎧全体の姿勢を低くして、拳を握り締める。それでも、今にも爆発しそうな感情を宥めすかす様に、
「あんたらしくも無い、ずいぶんと浮足だってる様に見えるんだがな。それで御自慢の鬼の制御は大丈夫なのか。」
「多少は乱れるかもしれませんね。…でもしょうがない。これはしょうが有りませんよ。クックッ…。それより、貴方の方こそ、『流』で鬼を、内心を解放しているというのにその落着き様。まるで抜け殻の様じゃありませんか。…もしかしてすでに、精も根も土屋さんたちに噛み砕かれてしまったんじゃないですか。」
「そんな心配は無用だ。今すぐ、それを教えてやるよ。」
洋平が瞬時に黒い鬼人の左肩目掛けて、右手の爪を突き立てる。黒い鬼人は悠然と立ち尽くすのみ。そして…、
「やっぱり。…貴方はもう空っぽだ。」
「やかましい、今その減らず口を黙らせてや…。」
…洋平の爪が高速で黒い鬼人の鬼鎧に激突したその時…洋平の手に伸びる五本の指が飴細工の様に砕け散ったのだ…。
洋平はあまりの事に全身の力を失って、つんのめりながら黒い鬼人の脇をよろよろと通り過ぎて行く。黒い鬼人は振り返り様にその姿を眺めて、
「ほらね…。」
朱色が加虐心に舌を這わす様に、尻尾を振っていた…。
洋平は倒れ込むと、わななく丸みを増した手を、刺す様に見つめている。
「俺の、俺の指が…。」
と、すぐに背後に散らばった、遂さっきまで指の形をしていた欠片に目を遣る。
黒い鬼人は洋平に見せつける様に、その破片を踏みしだいて歩み寄ると、
「どうやら貴方の指は食べられてしまったようですね。」
「じゃあ、心臓だけじゃなく。この指も俺の内心が…。」
「良く自分の手を見てごらんなさい。どうやら指を食べたのは貴方じゃないみたいですよ。」
洋平は首を黒い鬼人の方へと向けたまま…そっと、視界へと右手を差し入れる。
「健…。」
そこには紫鳶の光は無く。赤銅色の鬼が我が物顔で宿っていた。
「それでもまだ、二人を掌握できているとでも…。」
暗がりを這いまわる黒い鬼人の笑いと、虚しく輝きを放つ洋平の紫鳶の鬼。
「このままだと貴方は、餓鬼にも成りきれずに二人に喰い尽くされてしまうでしょうね。じわじわ内側から喰い破られていく感覚はどうですか…。」
黒い鬼人の問いに応えられるはずもなく、洋平はただただ沈黙を守り通していた。…それが突然、洋平は絶叫を上げると千明の方へと飛び掛かった。…千明は出鼻を挫かれた様に硬直して動けない…。
「心臓を寄越せぇ。」
洋平は右手の指が無いことも忘れた様に、両手を突き出して千明に掴みかかる。その絶叫が収束して言葉に成った刹那…洋平は千明の首に左手を掛けていた。しかし…その手は動かない。
そこに速やかに黒い鬼人が割り込んで、千明を自分の背後に追いやると、
「不注意ですよ、鬼姫さま。闘いはまだ終わってないんです。気をしっかりと持って下さい。」
そんな窘める様な黒い鬼人の声に、千明は見開いた瞳に頬を引きつらせて頷いて見せた。
「土屋さんに感謝するんですね。本当に、危ないところだったんですから…。」
どうやら、黒い鬼人の言う通りの様だ…。
今度は洋平の左手を灰桜の鬼が占領してしまっている。そのせいで、洋平が幾ら力を込めようとも、左手はピクリとも動かず…最早、開く事も閉じることも出来ない。
そして、千明の白銀の瞳も、見当外れな同情心で曇ることは二度とないであろう…。
「それにしても、貴方が心臓に先に手を出してしまうものだから、末端から食べ始められちゃっているみたいですね。」
左手に意識を向けていたところに声を掛けられて…洋平も相当参っているようだな…慌てて、二、三歩後ずさりする。
黒い鬼人は敢えてそれを追う事もせずに、むしろ千明の方を更に後退させながら、
「貴方の鬼鎧の中では今、貴方の肉体を巡って我先にと奪い合いが起きている。切っ掛けは勿論、貴方自身が心臓を消費してしまったこと…そのために、加奈子さんと、健さんの鬼に貴方の内心で存在し続ける術を与えてしまったんですよ。と言っても、二人の鬼は意志を持って貴方を食べている訳ではありませんがね…まぁ、さっきの鬼姫さまとのやりとりを見ているとそうとばかりも言えないかもしれませんが…。」
黒い鬼人は、千明が十分に距離を空けたことを鬼鎧の肌で確認した。そして続けて、左手に全神経を傾ける洋平に、呆れたように一言。
「そうやって意識を向けるから、彼女の鬼が流入していくんですよ。そして流入した先が身体の末端で、神経の密な手ならば…貴方の内心に取り込まれた土屋さんの鬼が容易に蝕むことが出来る。」
それに洋平は、腕を肩からダラリと下げて立ち上がると、
「あんたの言ってる事は正しいみたいだな。俺の意識が向いたところに、こいつらの鬼が俺の鬼よりも早く辿り着いちまう。それほど俺の内心は、こいつらの力に…存在に頼り切っていたってことか…。だが、加奈子たちが俺の両腕を喰い尽くすまでにはまだ掛るみたいだぜ。…要は、それまでに俺が、あんた達の心臓を喰っちまえば良いってことだよな。」
「良いところに気が付きましたね。…でも、牙も、爪も使い物にならない状況で、どうやって僕や、鬼姫さまの生き肝を引っ張り出すつもりですか…。これは幾ら『死返し』を乗り切った運の強い貴方でも…困難極まったと思うんですけどねぇ。」
「なに、そうでもない。…とっときの切り札がまだある。」
「ほう、それは興味がありますね。頼る者が無い現状で、貴方にどんな力があるのやら…。」
「俺には時間が無いんだ…急かされなくても今すぐ見せてやるよ。」
洋平はダラリと垂れ下がる腕に、牙を向いた必死の形相で加奈子と、健の鬼を隔離すると…近くの柱の裏へと飛び退く。
そして尻尾を小揺るぎもさせずに、鬼鎧の内側に朱色を棚引かせる黒い鬼人向けて…太い柱のドテッ腹を蹴り抜いた。
弱っているとは言えど流石に鬼人。洋平の蹴り砕いた礫は矢となり、弾丸となり、黒い鬼人とその背に隠れた千明へと降り注ぐ。
…そしてその砲煙弾雨の只中には、一矢と成りて尾を振りみだした、夜叉の如き洋平の姿が…。
黒い鬼人は礫を、洋平の圧力を避け無い…否、避けられないか…。避ければ後ろには、生身の千明が居る。
千明自身も鬼を収束させようとはしているがとても間に合いそうにない。
その毒針の突き出た尾の射程範囲に黒い鬼人が入ったと同時に、洋平が駄目押しの雄叫びを上げる。
「あんたが動かないのは計算積みだ。避けたら鬼姫さんに当たるからな。」
千明は歯を食いしばる…しかし、黒い鬼人のうしろから退く訳にはいかない。彼女が強力な鬼人だとしても、無数の礫を受けては、ただでは済まないだろう。…そして、その後の洋平の凄惨な一撃をかわすことなど。
千明は洋平の毒針の溶解力をその身体で知っているだけに、どうしても足が竦む。
だが、それでも…千明は咄嗟に腕を顔の前で交差させると、目前に迫った礫の群れに立ちふさがる黒い鬼人へと言い放つ。
「避けなさい、恨みはしないわ。」
黒い鬼人は依然避け様とはしない。
「私だって鬼人なんだから、絶対に死にはしない。だから早く避けて。」
黒い鬼人は一向に動かない。
千明は業を煮やして、遂に重い脚を叱咤して黒い鬼人の背後から離れようと…が、その小さな身体を黒い尾が絡め取り、再び自分の背後へと引き戻した。
「ちょっと、何考えて…。」
「お指図に背いて申し訳ないんですが…この切羽詰まった状況で、どの急所より、顔をかばう方を放っておく様な真似は出来ませんね。」
その時、第一陣の礫の雨霰が黒い鬼人と降り注ぐ。だがしかし…流石に最硬と言われる黒い鬼鎧は、礫の群れにビクともしないどころか、触れたそばから砂礫ほどの細かい粒子へと礫の一つ一つを砕き散らしていく。…千明は息を飲んで、我知らず黒い尾を抱きしめていた…。
漆黒の鬼鎧は一時、朱色の昂揚を沈めると…黒く、さらに黒く…強度を高めていく。
礫が全て塵となり果てた時、とうとう…十分に距離を詰めた洋平が…これ以上ない程に完璧なタイミングで、尾の毒針を黒い鬼鎧の左胸と激突した。
閃光が火花を散らし、作業場を白く染める。次いで、何か硬いものが割れる音。
洋平にも、千明にも何が起きたのか定かでは無い。
唯一、黒い鬼人だけが洋平の一撃の成否を知っている…。
黒く光る瞳を伏せる様に、俯き加減の黒い鬼人が…洋平の尾を左手で掴み、そしてサッと伸ばした右手ではその首を掴み取り自分の方へと引き寄せる。…その間、終始無言。首根っこ引っ掴まれた洋平ですら、成すがまま成り行きを見守っていた。
そして、黒い鬼人は小さく苦笑いを溢すと、洋平の尾をやや離して、無傷の左胸を見せた。
「バァーカッ、効くかよそんなの。」
と、さも可笑しそうに笑うのは無論、黒い鬼人。洋平は、『虚抜き』を使われている訳でもないというのに…もがけども、もがけども…掴み取られた尾と、首が、どうしても外れない。抵抗しようにも、頼みの爪は使い物にならない。…洋平自身が、そうなるように仕向けてしまったのだから…。
「ところで、ぬいぐるみ代わりにしてもらえて大変光栄なんですが…良ければもう、尻尾のやつを解放してやってくれませんか。無神経が売りの僕の尻尾とは言え、鬼姫さまにそうきつく抱きしめられると、身動きの仕様が無いみたいなんで…。」
「あっ、うん…って、あんまり変な言い方しないでよね。人聞きが悪い。」
「尻尾共々、不調法をいたしました。」
と、黒い鬼人は千明に巻き付いていた尾を解いて、
「それにしても貴方にはつくづく呆れましたね。僕も鬼姫さまも、再三にわたってそんな尻尾使い物にならないと教えて差し上げたのに…そんなものを起死回生の切り札として使うなんて…それならばまだ、その尻尾を巻いてこの場を逃げ出してしまった方が幾分は妙手と言えたでしょう。もしかしたら僕も、呆気に取られて貴方が逃げるのを見逃してしまったかもしれませんからね。」
恒例となったねちっこい…加えて異例に熱のこもった黒い鬼人の皮肉。
千明は黒い鬼人の瞳の炎を窺いながら…大概、度胸が有るな…ヒョイッと、二人の間に首を突っ込んで、
「本当になんのダメージも無いの。」
と、千明は黒い鬼人の鬼鎧の胸の辺りをペタペタと触ったり、先端の砕けた洋平の毒針を観察したり…一頻り、感嘆の声を漏らした。
「へぇーっ、大したものねぇ。私も正直、尻尾なんかを切り札にする神経は解らないけれど…手足が使い物にならない以上は、やっぱりこの毒針が一番怖いかと思ったんだけどなぁ。…本当、まったくの杞憂だったみたい。流石、伊達に黒くは無いのね。」
朝に地平線の向こうに消えていく星々を砕いて振りまいた様な…そんな白銀の瞳で不敵に微笑む千明に、黒い鬼人は黒曜石の如き瞳と、ニィッと真一文字に伸びた口許を向けて応える。
そしてもう一人、黒い鬼人と変わらぬ距離で千明の言葉を聞き咎めていた洋平は、
「言わせておけば…尻尾がどうしたの、手足が使い物にならないだの…。そんな事を言う暇あるんなら、そいつの背中の後ろで震えてなくてもいいのかよ。」
「良く考えれば、この黒いのの後ろに隠れてしまったら、折角の『弱弱しいあたし』を目の前でアピール出来るのがあんたしか居ないんだもの。張り合いがなさ過ぎて、隠れる気もおきないわ。」
「そうかよ。だったらもののついでだ、俺の手足が本当に使い物に成らないかどうか、その出しゃばった頭で確かめてくれよな。」
と、ぶら下がった姿勢から、千明の頭目掛けて右脚を蹴り出した。…が、千明はそれを顔を背けてままで受け止める。しかも生身の、細い指の伸びるその手で…。
「馬鹿な…。」
「馬鹿はあんたでしょ。…こんな風に言い返すのも二度目よね。」
千明は、皮肉な笑いを漏らす黒い鬼人と、驚愕のあまり穴の開く様な視線を向けてくる洋平との間から、ヒョイッと頭を引っ込めた。そして、足元に転がっていた毒針の欠片を見下ろしながら、言葉を続ける。
「今のあんたの鬼鎧は、言わば、生卵の殻と同じよ。見てくれは有る程度の強度を予想させるけど、その実…ちょっとでも硬いものにぶつかれば、自分に掛った力で脆くも崩れ去る…。そんな柔なものを受け止めるくらい、生身の私の手でもわけないわ。」
「逆に、もし鬼姫さまの女性らしい手に受け止めて頂けなかったら…グシャリッといっていたと…。どうやら大野さんは、卵の中身を案じる鬼姫さまの家庭的な一面に助けられたという事に成りますね。」
「まぁ、そう言う事に成るかしらね…。」
千明は赤くなった頬を逸らす様に、瞳を閉じて、踏ん反り返る様に胸を張った。そして威儀を整える様に咳払いを一つ。
それから白銀の瞳を見開いて…今度はまるで、自分の背丈より高い位置に顔のある洋平の事を睥睨するかの様に…腰に両手を宛がう。
「だけど…例え、私がきまぐれにあんたの脚が砕け散っても構わないと思っていたとしても…その時は間違いなく、この手で貴方の脚を握り潰していたでしょうね。だって、飛んでくるのが卵の殻と変わらない硬さだと解っていても…あんた如きひよっこに頭を蹴られるなんて、屈辱だもの。」
鬼姫のプライドここに極まれりという感じか…。ところで、やや小首を傾げて見上げているのは、『女性らしい』とか、『家庭的』などと言われた事を意識しているのだろうか。…話を戻そう。
千明は見下す様な顔付きから、洋平の張りつめた紫鳶の瞳にニッと意味あり気に笑う。
「とは言え、あんたが尻尾を使ったことの…未熟さとか、察しの悪さとかを含めて…やっぱりね。やっぱり、そう言う鬼人なんだなって気にもなるなぁ。私はこの感じ、こいつが土屋さんの身体を尻尾の『異能』を使って溶かしたんじゃないかって話なった時から…ずっと頭に引っ掛かって居たんだよねぇ。あぁ、きっとこいつは弱いんだろうなって…。で、貴方はどうなの。私よりは遥かに勘の良いはずの貴方なら、もっと前に気付いてたのかしら。」
まさに鬼姫と言いたくなる笑みを向けられて、黒い鬼人は、
「いいえ、貴方の直感に比べれば、僕の感知能力なんかは相手の鬼の書き出した文章を額面通りに読み上げているみたいなものですから…。それをおっかない女の勘と…それも鬼姫さまの勘とは比べ物に成りません。まっ、機知に富んだ貴女と比べて呑み込みが悪かったとしても、恥だと思う者はいないでしょうけどね。」
「また何か言い方が引っ掛かるんだけどなぁ。…それで、暗に私を褒めてどうしようって魂胆かしら。」
「魂胆なんて何も…。ただ、麗しい鬼姫さまの堆い自尊心を守れたとしたら、それは男にとって類稀なる名誉だなと…。触らぬ神に祟りなしとも言いますからね。」
「自分から私の逆鱗を突っつきに来ておいて…この人喰いと言い、貴方と言い…まったくどうしようもない。まっ、面白半分でやってる分、貴方の方が達は悪いんでしょうね。…それと…。」
「てめぇら、俺抜きで勝手に話を進めてんじゃねぇよ。」
と、痺れを切らした洋平が罵声で二人の睦ましい会話をぶった切り。…無粋だな…。
しかし、ここでこそ『男の名誉』とやらを声高に言いたててやるべきはずの黒い鬼人は…別に気を悪くした風でも無く。今や笑みを浮かべているとしか見えないフェイスマスクの痕から笑いを漏らしながら、
「これは、これは…死に際に心細い思いをさせて申し訳ありませんでしたね。」
その洋平の毒針など及びもつかない様な、黒い鬼人の言葉に内包された猛毒。その冷たさに、黒い鬼人との綱渡りのような会話に興じていた千明の顔にも、険しさがぼんやりと漂う。
…この『毒』は遅効性で、こころの深いところまで滲みわたっていく…。
「ですが、僕たちは別に、貴方をのけ者にして話をしていた訳じゃないんですよ。一見すると、美女と野獣で艶めかしい台詞をやり取りしていた様に見えたかも知れませんが、話題の中心はちゃんと貴方…特に貴方の尻尾のことだった。危うく、忘れそうになりましたけど…。」
「そうかよ。俺だってあんたが忘れてくれるならぜひそうして貰いたいもんだ。いっそ俺の尻尾を掴んでいることも忘れてくれないか。」
「尻尾を離して欲しいんですか。…いいですよ。」
「えっ。」
千明と、洋平の唖然とした心中を表した言葉が重なる。
黒い鬼人は首を大きな手で鷲掴みにされた洋平が見やすい様に、黒い左手に握り締められている洋平の尻尾を彼の目の前に引っ張り出すと…、
「はい、離した。」
そう言って、洋平のサソリのもの似た尾を、握りつぶし、腕力でぶった切った。
「て、てめぇ…。」
洋平の声が震えていた。その内心は怒りに震えているのか…それとも…。
黒い鬼人は楽しそうに、可笑しそうに、洋平の反応に対して笑いを漏らした。…ひときわ力を込めた左腕に、朱の脈を走らせて…。
「まぁそう怒らないで…僕らの生き肝を食べるのには、尻尾で溶かす意外の、何か良い方法があると思いますよ。」
「うるせぇ、これはなぁ、これはなぁ…加奈子の…。」
「そう、土屋さんの命を断ったものなんでしょ。」
「そ、そうだ。…そうだった。」
「まさか未練があるんですか。」
「未練…未練なんて俺は…俺にとって加奈子はもう…違う最初から…いや、いつからだ…。いつから俺は加奈子の事を…。」
「尻尾のことですよ。」
「あんたは…先から何を言っているんだ。尻尾と、加奈子と、いったいどんな違いがあるっていうんだよ。」
戸惑いを多分に含んだ洋平の声。それだけに起き抜けに聞く鳥の声の様に、奇妙な迫真性があった。
千明は、洋平の紫鳶とびの瞳から正気の色を確認でもするかの様に…一歩踏み込んで…。
(こいつ、もう…脳細胞まで溶けてきてるんじゃ。だとしたら、こいつの中で剥がれおちたのは、鬼人としての正気を保つための欺瞞。それとも理性の殻。…どちらにしても、こいつにとって加奈子さんと尻尾は、同じくらい大切で、同じくその程度でしか無いってことよね…。)
千明の心の声に唱和するかの様に、黒い鬼人が洋平に問い掛ける。
「そう、つまりは、貴方にとって尻尾も、土屋加奈子と言う女性も生きるために必要な価値のある存在だった。」
と、黒い鬼人はグンッと洋平の鼻先に『皮肉な笑う顔』を近づけて、
「ですが死が目の前にまで来ている今、その二つともが等しく、貴方の中で価値を失ってきている。…ちょうど、あんな具合にね。」
黒い鬼人が手隙に成った左手で指さしたのは…その左手にちぎられて無残に路傍に転がった、泣き別れの洋平の尾の先。…それ恰も、二人の視線を受けたことでその役目を終えたかのように…か細く光を放つと、粉々に砕けて柱の影と消えた。
「尻尾は僕たち『異能』の鬼人の鬼鎧でも、他の部分よりも余計に鬼が籠っている場所。…さっきほど鬼姫さまが、貴方が尻尾に頼りたくなる気持ちも解ると言ったのは…まぁ、そう言う事です。それが貴方自身から分断されたからと言って、こうも早く体裁を保てなくなる。それこそ今の貴方が、その尻尾と同じように、土屋さん、そして健さんの鬼によって…いいえ、二人の意志によって、貴方の意識とは別つことの出来ないはずの内心とバラバラにされているという証拠でしょう。もう貴方には内側にも、外の世界にも、帰る場所なんて…んっ。」
黒い鬼人に掴み上げられた洋平の身体が激しく揺れ出した。その身震いが千明の目にもはっきりと見てとれる程に大きくなったころ合いに…我が身と振るえと、あらん限りの情動に湧きあがって来た様な…あるいは、鬼鎧の隅々までを鳴動させるためにか…洋平の喉が、全身が、地鳴りの様な音を上げる。
「がっ…あぁぁぁぁ…。」
力を、感情を絞り出し、そして…洋平は先端の千切れた尾をしならせて、黒い鬼人の鬼鎧をしゃにむに叩き始めた。
「おっと。」
と、洋平の攻撃をすぐさま察知した黒い鬼人は…しかし、その鞭の様な一撃一撃をかわすことはせずに…洋平を掴んだまま正面奥にある柱へと、軽々とその身体を押し付ける。
なぜかぶつけることはぜずに、柱へと洋平の背中を押し付けるだけ…それでも、尾の根元の動きを制限されているだけに、随分と尾が舞飛ぶことのできる範囲は小さくなったようだ。
「危ない、危ない。鬼鎧の尻尾には貴方の鬼が、他の部分よりも多めに割り当てられていると教えてあげた傍から、これとは…結構、応用力が有るじゃないですか。なかなかの威力ですよ。」
そう言いながらも、黒い鬼人は顔色一つ変えずに…否、涼しげに、黒い鬼鎧の内に朱を蕩かして、
「そう言う事ですから、生身の鬼姫さまはそれ以上こちらに近づいてはいけませんよ。」
「えっ、あぁ…うん。そうする。」
…と、どうやらそう言う事だったらしい。今更ながら時折この男が見せる紳士的な一面には、鬼人としての機敏さと、力強さも相まって、捨てたものでもない心配りが感じられる。…後はこの紳士面がきまぐれだったとして…もう一方にある性格の悪さが、内心から顔をのぞかせない事を祈るのみ…。
…そうこうしている間に、洋平の身に変化が起きたようだ。わななく両腕が、少しずつ、少しずつ、己の喉笛を締め上げる黒い鬼人の右腕の辺りまで持ち上がっていくのだ…。
それだけでは無い。砕けた左の指が…多少、形は歪ではあるが再形成され…千切れたはずの尾も瞬く間に、クレーンゲームを連想させるアーム、そして毒針を突き出す先端の部分が形作られたのだ。…これは…。
「遂に我が身を惜しむことを止めてしまいましたか。僕が言うのもなんですけど…こんな死にかけの野郎一匹と心中しようだなんて…詰まらないですよ。」
「俺はそう思わない。…それにな、俺と一緒にあの世へ逝くのはあんただけじゃないだろ。加奈子と、健の魂も道連れだ…。四人で地獄に落ちて、向こうで楽しく罵り合うのも悪くは無いさ。加奈子も…それを望んでいるはずだ…でなければ、俺があいつの居ないこの数日間を…この、目を開けているのも疲れる、真っ白いだけの世界を生きてきた意味が無い。俺は死のうが生きようが、どこへ行くことになるんだとしても…あいつを背負って行かなければいけない。…そうだ、これだけは最初から解って居ことだ。あいつを見たときから…あいつと付き合い始めた時も…あついが俺と別れたいなんて言った時にも…俺はあいつのことを好きだったんじゃないのか…。」
ゆっくりと持ち上がった洋平の両手が、黒い鬼人の右腕をひたりと掴んだ。離すまいとしているのだろうが、洋平にも思う様に力が込められないらしい。…もう彼には、誰かに縋る余力すらない…。
黒い鬼人はその赤銅と、灰桜の蠢く二つの手を振り程事もせずに、
「なるほど、『あの日』出来なかったことをやりなおそうとしているんですね、貴方は…。」
「お前に俺のこの気持ちが解るものかよ。」
「知りたく無くても伝わってきます。こうして中身を食べられてしまった手で握り締められていると…嫌でも貴方がこの腕を動かそうとする原動力が何かが見えてくる。尻尾と違って、形ばかりとなった空っぽの腕を動かすのは辛い。それでも貴方は充足感を感じている。この腕にどんなに僅かでも力が籠っている限りは…まだ自分こそが『彼女』を支えているのだと思えるから…。」
「そうかあんたは俺と似ているんだったよな。」
「そうですとも。だから始めから、貴方にとっての土屋さんの様な…おっかない女性を好きになる気苦労も…そんな、自分でも得体の知れない充足感も、十二分に解っていました。」
洋平の掌に、空っぽの指に…黒い鬼人には重みが加わった様に感じられた。
黒い鬼人が続ける。
「僕にもそうです。僕も『彼女』がそんな…危うさを、怖さを好きに成った…それが、人としての僕が選んだことなのか、それとも鬼人としての僕が選んだのか…そんなことは、今と成ってはどうでもいいことだ。僕も貴方も、鬼人として死ぬ。そして鬼人として彼女に思いを寄せ続けられるのならば…それが僕らにとっては何よりも望ましい。違いますか。」
「そうだな、俺は…あいつが鬼人だったとしても構わなかったんだと思う。俺だってそうだし…それに俺はそんなあいつに…鬼人のあいつに惹かれたのかも知れない。だったら、俺が鬼人だとか、あいつが鬼人だから恐怖を感じたとか…それを負い目に感じる必要無かったんだな。」
「それに考えてみれば…心底から怖気を振るわないような女に、俺や、お前が惚れるはずもない。…そうは思いませんか。」
「あぁ、だからこそ思ったんだ…加奈子にだけは、あいつにだけは負けたくないって…俺自身気付けなかったけど、本当は、俺…あいつにだけは弱い所を見せたくないって虚勢を張ってたんじゃないか…。それが例え、あいつを殺してしまうことになったとしても…。」
洋平の爪が、歪な指先が、黒い鬼人の腕を小刻みに引っ掻いてカチカチという音を立てた。
黒い鬼人は溜息を吐きだし、その最後の一息で小さく笑う。
「まったく、同類として残念でなりません。そんな貴方が、貴方自身の『異能』の使い方を謝るとは…だから貴方は鬼姫さまから格下扱いを受けることになるんですよ。」
洋平はふっと瞳の輝きを強めて…が、意外に冷静に、
「俺をかばう様な事を言ってみたり、かと思えば今度は皮肉ってみたり…こっちはもう命が風前の灯火になってんだ。あんたの『お遊び』に付き合ってやるだけの余力は無いぞ。」
黒い鬼人は朱色を黒い瞳の奥で瞬かせながら、
「すいません、だけど悪気は…いいえ、やっぱり悪気はあるのかな。僕も、僕の内心を持て余していると言うか…自分が鬼人に徹すれば良いのか、それとも人として目線を持ち続ければいいのか…解らない。こんなことは始めてだ…もしかしたらこの感覚は同族嫌悪なのかも知れません。それ程に、僕は貴方がやったことを許せない…いや、許したくないのかな。それは僕が自分を殺して避けた結論だし…。でも、だからこそ僕が…少なくとも『今の僕』が『一番やりたかったこと』を、心の赴くままに遣って退けた事は…鬼人として尊敬している。そう思わなくもない…そんな気もするんです。」
千明はその背中を…最早、水を差すことも、後押しすることも無い。見守っているのだ。…朝焼けに潜む、生命の黄昏を…。
「今解りました…もしかしたら僕も、貴方には負けたくないのかもしれない。多分、僕が夏芽に手を掛けなかったことに、一欠片の後悔も抱かなくて済む様に…。だから貴方にだけは…自分でも珍しく思う位に、負けたくないと感じているみたいなんです。」
洋平は少し意外そうに、やや嬉しそうに…絶息の如くか弱く、そして力強い吐息で笑って、
「そう言って貰えると…正直、俺としては助かるよ。どの道、死んであの世に行くことに成ったとしてもだ…これで俺の方ばかりがあんたに突っ掛かって、最後の最後まで一人、情けなく空回ってる姿を加奈子に見せ無くても済むからな。これで安心して…加奈子に、あんたらに…人喰い鬼人の俺を見せられる…。」
「それが…精神的にも、肉体的にも…生物として強くあることが貴方のお望みなら…闘うが良いでしょう。己の肉体を喰らって…。そして喰らった者たちの命を嘲笑うが良い。貴方自身の精神を砕きながらね…。僕は夏芽の為に、土屋さん、健さんの為に…それとついでに、未だ土屋さんに袖を引かれる思いを捨てきれない、貴方の為にも…貴方が貴方自身を喰らい尽してしまう前に、精神的にも、肉体的にも引導を渡して上げます。勿論、僕自身の為にもね…。」
黒い鬼人の瞳が朱色に燃える。洋平の指先の震えもとっくに止まっていた。
洋平はその両腕も、胴も、両脚も…人としての沢山の思い出が詰まった肉体を燃やしつくして、強く強く、心を…その尾を振りかざした。
黒い鬼人はやはり微動だにせずに、その洗礼を受ける。
「貴方が尻尾に、『異能』にこだわる理由は解りますよ。それは貴方を土屋さんから、死の運命そのものから解き放ってくれた力ですからね。」
右腕に、胴に、脚に、頭に、黒い鬼人は洋平の毒針を突きたてられる…が、瞳を朱に染めたこの鬼人の、漆黒に凝縮された頑強さは砕けない。
黒い鬼人は『刺し貫いてみろ』とばかりに左腕を差し出す。…洋平の尻尾のアーム部分が、瞬時にそれに喰らいつくのだが、洋平の苦々しげな声でも解る通り結果は芳しくない…。
黒い鬼人は左腕に突き立てられた毒針を跳ね返しながら、言葉を次ぐ。
「だからこそ貴方はこの尻尾に絶対の自信を持ち、そして鬼姫さまとの闘いでもその尻尾は、見事に貴方の期待に応えてくれた。…しかし、本来なら…貴方はその尻尾を鬼姫さまに向けるべきでは無かった。そして本能が正常に働いていたとしたら、貴方だってそんな恐ろしい真似はしなかったでしょう。なんといても貴方の尻尾は、格上を相手にする時に切り札に成ってくれる…と言う様な代物ではありませんからね。」
「鬼姫さんが俺の尻尾を貶したがるのは解らないでも無い。所謂、負け惜しみってやつだ…。だが、あんたまで俺の尻尾の真価を認めようとしないとはなぁ。…じゃあ聞くが、俺はそこの鬼姫とまで呼ばれる女を、惨めに地面に這い蹲らせることが出来た。それもこの尻尾のお陰でな。その事実こそが、俺の尻尾の力を証明しているんじゃないのか。」
洋平の口走った不穏な言葉に…千明の眉が釣り上がる。
そして、二人の方に足音も高く近づこうとするのを…、
「鬼姫さま、だから、危ないから近づかないで下さいってお願いしたでしょ。大野さん、貴方も貴方ですよ。この人、腹の底では貴方が思っているよりずっとプライドが高いんですから…勘弁して下さいよ。」
と、なんとか止めて、そして、
「まったくどうしてそう虎の尾を踏む様な真似をしたがりますかねぇ。彼女の『尻尾』を見たでしょ。その『異能』の詳細までは解らなかったにしても、あんなものを見せられれば…貴方だって鬼人なんですから、その凝り固まった自尊心の程は解ったでしょ。」
「まぁ、文字通りの吊るし上げを喰らったしな…確かに俺にも、あいつの、他人を自分の思い通りに操りたいっていう本音は透けて見えたよ。」
千明の厳しい表情は変わらない。…自覚はあったのか。だとしたら著者が思うよりも千明は、怖い女なのかも…桑原、桑原…。
黒い鬼人は、
「ちゃんと解っているじゃありませんか。だったら尻尾のことにも、もう少し見当が付いていても良さそうなものだと思いますけどねぇ。」
と、首を傾げる様に、避けた口許の端を持ち上げて見せた。洋平は黒い鬼人のその外連味に、嫌そう声で、
「あんたがそんな風な態度の時は、俺にとって気持ちのいい話だった試しが無かったな。」
そう言うと、毒針の付いた尾を今度は、黒い鬼人の首筋へと突き立てた。黒い鬼人はそれにはこれといったリアクションを示さずに、淡々と問い掛ける。
「蒐祖に縁のある、我々『異能』の鬼人。その象徴たる尻尾となっているのも、肉体を覆っているのと同じ『内心』。だけど変だとは思いませんか。人間には元々それに該当する器官は見当たらないというのに、なぜ尻尾が形作られるのか。まぁ、あればあったで便利なのときも有りますけど…それでも、いっそのこと身体を包んでいる鬼鎧に自体に『異能』宿っていてくれた方が、何かと都合がいいという場合も少なくないのに…尻尾の生えた鬼人ならば、誰もが一度は思うことではないでしょうか。『我ながら、どうしてこんな余計なものを』って…。」
と、千明が黒い鬼人の肩越しから、
「そうね。誰だってコンプレックス一つや、二つあるもの。勿論、私だって、鬼人だけど十七歳の女やってるんだもの、コンプレックスくらいあるわよ。」
そう面白くなさそうに…聞かれてもいないの…応えるのを聞いて、洋平はハッとした様に紫鳶の瞳を大きくした。
「つまり俺たちのこの尻尾は、自分にとって…俺達自身が、自分の心根で嫌っているところが顕在化したものだってことか…。」
「ご名答。鬼姫さまのヒントが良かったみたいですね…いえいえ、皮肉とかではなく…。そう言う事ですから、鬼姫さまの例を挙げさせて頂けば、彼女は自分の強すぎる自尊心を嫌い、日常的にはそれを抑制していらっしゃる。ですが一度、鬼人となり内心を具現化…目的を持って自らの精神を使役する場合には、普段は意識して隔離している感情が尻尾という形と成り、自らの嫌う性質さえも『異能』という強みとなる。しかし、それはなぜか…。もしかしてそれは、人にとってコンプレックスというのは欠落では無く、自分自身が尻込みしてしまうほどの高い次元へと自らを突き動かす衝動。あるいは、原動力となるものなのではないでしょうか。そう言えば、貴方にとってその尻尾も、加奈子さんも同じ存在だと仰りましたよね。それはつまり、貴方にとってのコンプレックスが、貴方に人喰いという険しい道を踏破させた土屋加奈子さんという存在そのものだったからではないのですか…。」
「だったらどうだって言うんだよ…。」
洋平の鬼鎧に俄かに力が戻った様な…。そして、その全霊を突き付けるかのように、尾の毒針が再び黒い鬼人の心臓の真上へと…。
今度の毒針は折れずに、黒い鬼人の屈強な鬼鎧の胸をバウンドした。
「土屋加奈子さん、そして健さんの鬼を貴方が引っ掴んでいらっしゃる間に…僕はもう一度、貴方の言葉で聞いて置きたいと思っているんですよ。鬼人として生き残るべきは本当に貴方だったのか…そのことに異論を唱える積りはありません。それに生き残ったこと自体が貴方の強さ…それも間違いないでしょう。しかし、貴方は本当にそう思っているんですか。彼女を喰い殺すことを選んだ貴方の本心。それが何だったのかを僕は知りたい。そして何より、貴方自身に知って欲しいんですよ。」
「あんたはその事に、やけに拘っているみたいだけどな。俺はそれを知ったところで、どうなる者でも無いと思うけどなぁ。だってそうだろ。それを知ったところで、加奈子が生き返る訳でも無い。それに俺が人喰い鬼人から無力な人間に戻ることが出来る訳でも無い。ましてや…俺が加奈子と、健に喰い殺されるという未来を、あんたは…あんた自身の手を汚してまで覆そうって気は無いんだろ。だったら、そんなこと知ったところで…。俺にはあんたがどうして、そこまで熱を上げられるのか解んないよ。」
目線の先に伸びる黒い腕。洋平のその奥にある、墨色と、朱に彩られた瞳を覗きこんだ。…辛うじて、両の手首で抑え込んでいる赤銅と、灰桜の鬼…。
トントンッと、そんな最中にも繰り返し突き立てられる毒針の音。
千明にはそれが、もの寂しげなモールス符号の様に聞こえて…その意味は勿論、解りはしないものの…何かしら胸につかえる様な思いを感じていた。
黒い鬼人は淡々と、洋平を柱に押し付けたまま、
「煩わしい思いをさせていることは申し訳なく思います。ですが…僕の目的はあくまでも、貴方に『後悔』して頂く事ですから…悪しからず。」
カツンッと、一際高い信号を黒い鬼人へと送って、洋平の尾が止まった。
「はっ、まさかあんた…本気で俺を『後悔』させるなんて言ってたのかよ。」
その洋平の笑い声には滑稽さや、嘲笑うという様な響きは無く…むしろ、ある種の感心や、驚嘆の意味合いすら聴き取れるようだった。…まぁ、呆れているには違いないのだが…。
「…で、俺をここまで追い詰めて、それで俺が加奈子のことを怖がっていた…っか。それは確かに両方とも俺の身に起きたことかもしれないが…俺が今にもあの世に直行しそうになっている現在に比べて、俺が加奈子を恐れてたなんてことは…そんなの大昔の、俺がまだ無力な人間だったときの事だよ。そんなのは加奈子を腹に押し込んじまった時点で、この世界のどこからも消えてるんだ。『後悔』したくても、仕様が無いさ。」
「どうやら、貴方の土屋加奈子さんへの思いは、彼女を食べてしまった時点から凍り付いて動かなくなってしまっているみたいです。」
黒い鬼人の気安く、そして冷徹な声が…毒針を打ちつけることを再開しようとしていた洋平の胸に、先んじて突き刺さった。
目を背けるように、毒針の目指す先が黒い鬼人の心臓の上からずれる。黒い鬼人はそれをそっと、左手で胸元へと戻して、
「その事が解っただけでも、ここまで貴方と取っ組み合いの『お遊び』を続けてきた甲斐がありました。…追い詰めた先で、こうして貴方の本音を言葉で聞く事が出来ましたからね。」
洋平は、黒い鬼人の労わる様な、飲み込む様な言動に…歯ぎしりしたくなる様なもどかしさを、痛みを覚えながら…、
「全部お見通しって口振りのあんたらしくも無い…そう言えば、俺の心までは読むことが出来ないんだったよな。」
「えぇ、特に、貴方自身が気付いていない様な事柄なんかは、解るはずも有りません。…だけど貴方も、気になりだしている。…自ら、過去の自分に目を向け始めている。それは何となく伝わってきます…当然、同じタイプの女に引っかかった、同病者の誼でね。」
…薄明の照らす灰色のコンクリートに仕切られた世界…。黒い鬼人と、洋平はその空間に固着されたかの様に動かない。動いていないはずが…黒い鬼人が二言、三言と洋平の心へ、内心へと踏み込んでいく度に…単なる見間違いだろうが…千明の瞳には洋平の鬼鎧が、心が、背後の柱へと押し込まれていくように移る。
じわりと、硬い背中に伝わる柱に残った眠りの時間の冷たさ。その都度、鎧の内側で感じる…肌のアワ立つ様な体温を…さもなくば心の熱を奪われていく様な感覚。
洋平は加速度的に膨らんでいくもどかしさに舌打ちすると…黒い鬼人の胸を打つ行為を再開し始めた。
その音はまるで…機械的に、そして受動的に…電池の切れるその瞬間を迎える為だけに、ただただ巻き戻った時間を進めようと時を刻む…時計の針の巡り。
黒い鬼人は『あの日』の…洋平と、加奈子しか知らない、カラオケ店での一夜を…そして更に以前の、洋平が鬼人として加奈子をみ始めた頃へと時間を遡るかの様に…ゆっくりと、針の刻む音に合わせて問い掛け始める。
「貴方は彼女に感じた何かを恐れていた。そして鬼人と成ることでそれを克服し…そして生き長らえる為に彼女を食べた。貴方の話を聞いていると、貴方自身そう思い込んでいるようだ…ですが、本当にそれが正しい順序だと居るんでしょうか。実際のところ貴方は…彼女を殺して仕舞わない限り、自分が何に変わろうとその恐怖感を拭えない事を知っていたんじゃないんですか。僕には貴方が彼女を食べた事が…生き長らえる為…と言うよりは、生き長らえる為に彼女を殺すことを選んだ良心呵責からの行動。鬼人として、そして人として感じた彼女に対する罪悪感の表れだったんじゃないのか思えるんですよね。」
「はぁっ、罪悪感だぁ。そんなものはあの時に、加奈子の身体と一緒に溶かして喰っちまったよ。…だから、今の俺が感じているこの妙な感覚は…喰われて俺の一部になっても、まだ、自己主張の強いあいつの気持ちであって、俺の感情では断じてない。…ったく、どんな状況に成ったって、男の方から降参しないと絶対に満足しないんだからなぁ。女ってやつは…あんたもそう思うだろ。」
「そうですね。うちの姫も機嫌のいい時は特に、そんなところがあります。…でも、時と場合を弁えないほど馬鹿では無いし、ちゃんとこちらの真剣さを汲んでくれるくらいの優しさも持っている。加奈子さんもそうだったんじゃないんですか。そう、貴方の腹の中に作られた、貴方に都合の良いだけの加奈子さんでは無い。現実に、貴方の傍に寄り添っていた女性の…生身の土屋加奈子と言う女性の話をしているんですよ。」
「それは…俺が惚れた女は…。」
「もう思い出すことも出来ませんか…。貴方は彼女の肉体を溶かしながら…自分の中の彼女の記憶を、彼女への思いを、そしてそれらを溶かし形を変えていくことへの罪悪感すら蕩かしていった。…いつからですか。いつから、貴方にとっての彼女は、不都合へと変わっていたです。」
黒い鬼人の胸襟で、洋平の毒針が早鐘を打つ。
その得体の知れない…内心を冷え切った泥に侵される様な光景に、千明を支えている人のか弱さに身震いした。そして…その直後には、焼けつく様な熱が身体の底から湧き上がってくるような…これは怒りか、苛立ちか…それとも、鬼人として生きることへの悲しみが、熱い涙と成って心臓を浸しているのだろうか…。
だとしたら、こんな泥の様にどす黒い、どろりとしたものが彼女たち鬼人の涙だとしたら…救われない話だ…。いや、他人の為に涙を流すことすら難しいのは当たり前のことかも知れない…。
黒い鬼人がそんな穢れた涙を飲み下すように、言葉を次ぐ。
「貴方は溶かした彼女の肉体を平らげた様な事を仰っていましたが…翌日、僕があのカラオケの一室に入った時には、まだあの場に液化した彼女の一部が残っていました。もしかしてあの中には、貴方から見た彼女の不都合が、それに罪悪感という貴方自身の不都合が捨てられていたのかもしれませんね。貴方はそれに気付かなくても済む様に、慎重にあの肉片から瞳を逸らした。そうなんでしょう。」
「あんたは洞察力だけじゃなくて、想像力も豊かったなんだな。俺がちょっと加奈子を喰い散らかしただけで、そこまで話を広げられるんだからな。あんたが俺の喰い零しからどんなことを想像しようと自由だ。だがな、所詮、それはあいつのほんの一部分を見て思い付いただけの妄想に過ぎない。あんたのその考えは間違っている…そうだ、間違っているとも…。こっちには加奈子が…全部じゃなくても大部分が居るんだ…そんな少しの加奈子を知った位のあんたには…そんな少しの加奈子なんて俺にだって必要ない。」
洋平の言葉が平衡感覚を失っていくにつれて、黒い鬼人の心臓の上を叩くリズムが遅くなってきた。…その過去から現在までの時間の流れに溺れこむ様な…衰えた紫鳶の瞳の炎に、鞴で空気を送り込む様に黒い鬼人が、
「それはそうですね。僕は土屋加奈子さんとは一面識もない訳だから、かつて交際していた…いいえ、現在進行形で交際中の貴方に比べたら、彼女に関しての僕の知識なんて微々たるもの。『ちょっとの加奈子さん』だと言えるでしょうね。」
「当り前だ。俺の中の加奈子は本物に…。」
「しかし、そのほんの『ちょっとの加奈子さん』こそが、加奈子さんの本質であると言えるのではないでしょうか。」
と、黒い鬼人が洋平の声を遮って話し続ける。
「貴方が、貴方の中の土屋加奈子さんを語る時には…貴方が彼女を殺して、食べてしまったことを認めた上で…そうだと言うのに貴方は、彼女が鬼人に成りつつあったことを、鬼人としての彼女の存在を認めようとしなかった。対話しようとして来ませんでした。その事は…おそらく、貴方の内心を守るためには正しい。何しろ、始めて貴方が、鬼人としての土屋加奈子さんに縋り、助けを求めた時にどんなことが起こったか…それは貴方の肉体と、精神がよくお解りの通り…鬼人を止め、自らの命脈すら喰いつぶす『餓鬼』へと追い詰められる羽目に成った。」
洋平の尾が、黒い鬼人の鬼鎧を打つのを止めて背後へと引き下がる。
「どうやら何度やっても、俺の尻尾じゃあんたの鬼鎧を貫く事は出来ないようだ。確かに、俺の尻尾は役には立たないらしい。俺の命運も尽きたかな。」
黒い鬼人はその動きを目で追いながらも…急に無くなった単調なリズムから調子を整え直す様に、小さく深呼吸して、
「おっ、何か企んでいますね。そうやって空気を、緊張の糸を緩めておいて相手の虚を突く魂胆ですね。…ところで、僕を油断させたいのならもっと、僕を貴方との会話にのめり込ませるのが効果的ですよ。」
「それは良いアドバイスを貰ったな。…信じとくよ。だが、俺にそんな話術を期待されてもなぁ…とりあえず、あんたの言い草で気に成った事は有るんだけどな。」
「ほぅ、ぜひとも承りたいものですねぇ。いったい、どれが的を外していたのか。」
洋平は両腕を黒い鬼人の肩へと伸ばす。そして掴んだその両肩をグイッと引き寄せる様に、互いの顔を近づける。…黒い鬼人も別段の抵抗も見せずに、肘を曲げて招き入れた…。
「あんたは俺が餓鬼にまで身を落としたことを、それこそ、最悪の選択をしたみたいな言い方をしてたよな。そりゃぁまぁ、人だった時よりも、それに当然、人喰い鬼人をやってた時よりも随分と頂けない状態に成ってるのは間違いないだろうよ。しかしな、俺があそこで加奈子に頭を下げてでも生き延びようとしなければ、あんたは俺の事をその場で抹殺してはずだろ。なら、俺にはあの選択肢しかなかったはずだ。俺には死ぬことが最悪の選択なんだからな。」
洋平の紫鳶の瞳を5、6センチメートルの所で見つめて…黒い鬼人は『やれやれ』とでも言いたげに首を二、三度左右に振る。
「貴方はご自身を過小評価しているんですよ。僕が思うに、それこそ加奈子さんへの罪悪感の表れは無いでしょうかね。」
「まったく、話を混ぜっ返すのが上手いのな…。なんか、こういう話の流れになる様に、あんたに誘導された様な気になってきたわ…。まぁ、それはそれとして…それじゃあ何か、あの時、俺は加奈子に頭を下げなくても生き残ることが出来たって言いたいのかよ。俺にはあの瞬間の形相が…そんな冗談語とみたいなもので済まされる様には見えなかったんだが…。」
「そう言われても事実は事実なのだから仕方ありませんよ。現に貴方は相当強い…はずですよ。『五つ家』に縁のある鬼人の子弟でもなければ、幾らmicoの歌声に触発されたとしても、普通は『角無し(つのなし))』と呼ばれる鬼鎧は纏えるにしろ、なんらの『異才』を持たずに生まれ変わるものがほとんどのところを…貴方は『異能』と、僕には残らなかった、ある程度の寿命まで携えて鬼人へと生まれ変わることが出来た。それだけでも、鬼人として優れているという証なんですよ。そして一時は、運を味方につけて『死返し』まで耐え抜いてみせた。」
「運ねぇ…ずいぶんとそれを得るために痛い思いをした様な気がするんだが…。」
「まぁ、相手が『幸運の女神』ならぬ、鬼姫さまではねぇ。おっと、鬼姫さま…もう少しお待ちを…怒るにはまだまだ話が浅すぎる。ですから、その長い脚で蹴り飛ばすのは先延ばしにして頂けるようにお願いします。」
と、忌々しげな溜息を吐きだす千明を牽制しておいて…黒い鬼人が続ける。
「貴方は強い。僕も貴方の力の急激過ぎる伸びにかなり驚かされました。まさか、生き肝一つ喰らっただけで、こうもあっさりと強さを増すなんて…ここだけの話、僕は鬼人としての自分の力に結構な自身を持っていたんですが…それを、『五つ家』の子弟でもない貴方に二段飛ばしくらいで追い抜かれたものだから…正直、ショックでした。加えて貴方は…純粋に己を生かす為の賭けにでて、それにここまで勝ち抜いてきた。それは生半可なことでは無かったでしょう。…それが解っていて、貴方の生存闘争の前に立ちふさがることにしたのには…まっ、それは勿論のことにそれなりの理由があったんですが…老いることの出来ず、先すらも無い僕が貴方にぶつかることには、やっぱり後ろめたさと言うか、気後れは有りましたよね。」
「…俺に会話にのめり込ませてみろと挑発したくせして、始めてみたら自分語りに没頭かよ。」
「まぁ、良いじゃないですか。貴方のもくろみ通り僕の注意はそれなりに逸らせていますよ。それと、何も僕だって無目的に自分語りをしていた訳ではありませんよ…えーっと、それでですねぇ。要するに、僕は貴方のもつ鬼人として強さを認めていると、そしてそれは…僕に出来なかったことを成し遂げたことへの尊敬にも繋がっていく訳です…。」
「それはどうも…だが、やっぱりあんたの言いたい…。」
「なのにですよ。」
と、黒い鬼人が押し被せる様に言葉を継いだ。その瞳の純黒が朱の光沢へ駆逐されて行くのを、洋平は言い掛けた台詞を飲みこんで、深々と見入る…。
「それなのに貴方は尻尾に頼ってしまう。その鬼人しての機能を最大限に利用できていない所を挙げて、僕も、鬼姫さまも貴方を弱いと言っているんですよ。ですよね、鬼姫さま。」
「まぁ…それはそうかもね…。」
そう同意しながらも、千明は何やらバツが悪そうだ。それを、黒い鬼人は抜け目なく、
「んーっ、まっ、鬼姫さまは腕を溶かされそうに成った経緯から、あまりはっきりとは応えに難い様ですね。さっきはそうでも無かったのに…まぁ、人に尋ねられるのと、自分から言いだすのではやはり感情の取り扱いも違ってきますか…。大野さん、貴方にも心当たりがありますよねそういった気持ちに…例えば、鬼姫さまの剥き出しの殺意に対抗するのに、貴方がその尻尾をもって応えたときとか…。」
「あんたはまだ、俺が鬼姫さんをこの尻尾で跪かせたことを不服に思ってたのかよ。はぁっ、どいつもこいつも女々しいことだ。こんな死ぬ寸前の俺を取り囲んで、持ち出すのは過去の愚痴かよ…。加奈子だって、俺を受け入れたって言うのに…。」
洋平のどの発言が気に入らなかったのか…いやぁ、多分、その全てが気に入らなかったのだろう。千明は『お前に対して覚えた憤りは、一欠片だって忘れていないぞ。』とでも喰ってっ刈る様に…下火になることを知らない、怒りに満ちた白銀の焔を瞳で燃え上がらせる。…プライドが高いのは知っていたが、ちょっと女々しい…かもな。…まぁ、千明はあっぱれお嬢様で、女子高生なのだから…何の問題も無いのは…無いのだがな…。
黒い鬼人もその熱気を鬼鎧の背中でジリジリと感じながら、
「鬼姫さまをからかうのは僕だけで手が足りていますから…貴方は加奈子さんのことだけ考えていて下さいよ。それとも…恋人のことで頭を一杯にするのは、不安ですか。」
「口の達者な奴だよ、本当に…。そうまで言うなら、あんたが俺の後を継いで、鬼姫さんに俺の尻尾に破れた事を認めさせてみろよな。俺は、加奈子と一緒にじっくりと聞かせてもらうとするさ。」
と、洋平の肘に鬱積された灰桜の鬼が静かに脈打った。
黒い鬼人は苦笑を漏らして、
「手品師の様に、見えない所で悪だくみの種を用意しながらですか。」
と、見透かした様な物言いで、洋平の背後に蠢く尾の行方を眺めていたのもつかの間…特別、洋平からの返答を期待していなかったのだろう…さっさと、話を始める。
「まぁまぁ、そうおおげさに拗ねてだんまりを決め込まなくても良いじゃないですか。あくまで手品は貴方の物なんですから、ちゃんと僕の気を引く様な言葉をかわしてもらわないと…ところで、貴方はあの晩、確かに鬼姫さまの左腕に毒針を突き挿すことが出来た。さらには、その毒で彼女の腕一本を使い物にならない状態に陥らせるのにも成功しました。少なくとも、イカサマ師の手を捻り上げるのは無理な段階でしたよね…。そこまでは、僕もこの目で見たのですから間違いないと断言できるのですけど…貴方はその後をどうする積りだったんですか。彼女の左腕一本を使用不能にして、そこから彼女との闘いに勝算があったんですか。鬼鎧に、そして肉体にまで深いダメージを受けた貴方に…跪き、雌伏の時を過ごしながらも、なお猛々しく、尻尾の『異能』を解放し…貴方が突っ込んで来るのを手薬煉引いて待っていた鬼姫さまを倒すことが出来たんですか。」
「それは…。」
洋平には返す言葉かない。…が、そこでも黒い鬼人は返答を期待してはいなかった。
「あの時、もし僕がタイミング良く貴方を止めていなければ…それでもやっぱり、貴方は彼女の頭の上を飛び越えて、この路地裏から逃げることを選んでいたんじゃないんですか。だってそうでしょう、貴方の本能は己を生かすことに掛けてはかなり優秀な部類に入っているようですからね。鬼姫さまの放っていた必殺の鬼を、それが意味する危険を嗅ぎ分けられなかったはずが無いんです。…勿論、それが正しい。僕だって貴方と同じ状況になれば迷わずに逃げの一手を打っていたでしょうから…。」
洋平を包み込む黒い影が柱に落ちる。
瞳の朱と、真一文字に裂けた漆黒の笑みだけが、その影の中でも洋平の瞳にくっきりと映り込む。
洋平は身動きもせず、黒い鬼人の言葉に聞き入る。
「貴方の前の鬼姫さまは、尻尾を解いて…無数の細い糸状にして展開していた。掴まれば、疑いようも無く彼女の腹にたまった怒りを我が身で受けることになる。それこそなぶり殺しは免れない。でも、あの糸は束ねられていたときに比べて拘束力は低そうだ。あるいは、思い切って飛び出せば、追いすがるあの一本一本を振りきって逃げることが出来るかも知れない。…ですが、そんなことは重要ではないんですよ。」
と、洋平の頭の中を覗きこんだように話す黒い鬼人が、洋平の想念をあの晩から…現在へ、そして過去へと…寄せては返していく。
「問題は、どうして貴方が、鬼姫さまに手も足も出なかった状況を打破するため、尻尾の『異能』を使う事を選んだかといことなんです。…確かに、彼女の手は止まりましたよね。しかし、中途半端に鬼姫さまを突いた結果、その怒りを買うはめになった。なぜです、貴方の本能は、『状況を決定的に悪くするぞ』と教えてはくれなかったのですか。…いや、仮に聞こえていたとしても…貴方はそれを無視したのですね。だって貴方にとってその尻尾は、人のままでは決して敵わないと思っていた相手を、この世から消すことに成功した切り札なんですから。追い詰められれば、合理的な思考よりも、過去に功を奏した体験を踏襲したくなる。そんな人間的な思考が…より動物的な、冷徹な鬼人の本能を黙らせてしまった。それ程、貴方にとって加奈子さんを抹殺し得た事は特別だったということですね。」
洋平が両手を黒い鬼人の首に叩きつける様に伸ばす。そして、その手に残ったあらん限りの力で、その太い首を締めあげ始めた。
…お互いの首を、一方を平然と、一方は牙を剥き出しにして絞め合う異様極まりない光景…。
両手で掴みかかった洋平が、さらに強く締め上げんと、前のめりに傾いた体の傾斜をなおも深めていく。
黒い鬼人は洋平の心中を察してさり気無く、
「僕の話を聞きたくなければ、力技で僕の口を塞ぎに来て下さいとお願いしていましたね。でも、これでは弱いな。せめて僕の首を鬼鎧ごとへし折る位の力が掛らなければ、僕は喋るのを止められませんね。」
互いに超人的な力で相手の喉元を圧迫しながらも、両人ともに鬼鎧を纏っているのだ…これでは、千明ほどの怪力を持っていない以上、こう着状態になるのも仕方が無いか。
洋平の方も黒い鬼人の腕力など意に介さず、かえって深みまで挑みかかる様に、
「こっちも、そんな減らず口をどれだけ並べたてられたところで、『後悔』してやろうなんて気は露ほども起きないね。」
「毛ほどにもですか。」
「あぁ、まったくその気にならないな。」
あまりの力の入り具合に、洋平の両腕がわななき始めた。赤銅と、灰桜が、じわじわと侵食を再開し始める。
洋平はそれを知りつつ、その手を、その口を、その命を、休まずに動かし続ける。
「第一、お前は俺を『後悔』させたいなんて言うがな。いったいぜんたい、俺に何を『後悔』させたいと思っているんだ。俺が加奈子を殺したことをか、それとも加奈子の身体を溶かしたことか…それともやっぱり、加奈子の生き肝を喰っちまったことがそんなに気に入らなかったのかよ。えぇっ、お前がいう『後悔』っていうのは、俺が、このうちのどれを悔い改めれば『後悔』したことになるんだよ。それが解らない限り、例えあんたが俺をどれだけ追い詰めようと、それどころか俺が死んだとしても…心から悪かったと思う事は出来ないぜ。ほらっ、言ってみろよ。いったい、どのことを俺が『後悔』すればあんたは満足するんだ。」
「それは勿論…貴方がその三つともに『後悔』してくれるのが理想ですね。」
「嘘吐けよ。あんたは本心から俺に『後悔』させたいとは思っていないんだろ。そこの鬼姫さまとは違ってね。あんたはただ、あんたの姫とやらのちょっとした満足を得るために…それだけの為に俺を追い詰めに来たんだろ。そうして、俺に何かをやらせる積りなんだな…その時にはきっと、俺が後悔していた方が、都合が良いと…本心では、その位のことしか頭に無いくせして…。隠しても無駄だぜ。あんたのその目の…あんたの鬼鎧に宿っているお喋りな朱色が、どうせ、あんた口に変わって教えてくれるんだろうからな。」
黒い鬼人が洋平の指摘に、答えに窮していた。
その沈黙は肯定を意味する、無言の返答なのだろうか。…だとしたら、
(あの黒いのの内心の働きを、あの人喰いが読んでいるって事…。だけど、朱色って…どうなっているのよ、あいつらは…。兎に角、今確かに言えることが有るとすれば、それは…あの人喰いはおそらく、土屋さんと、健さんの鬼を抑え込んでいる過程で、鬼の制御能力を飛躍的に高めたわね。それに、餓鬼と成り、鬼鎧に『理性の緩衝』を設けて居なくても良くなったことも重なって、敏感に黒いのの鬼鎧から流れてくる鬼と、そこに混じる意図を敏感に読み取っているに違いない。…だとすると…あの黒いのが人喰いの方に何かをやらせる積りだって言うのも、それなりの信憑性があるってことになるのか…。)
千明はたび重なる男どもの勝手な振る舞いに、もう我慢の限界はとっくに超えているのだ。ほんの数秒の逡巡の後に、躊躇う事も無く尋ねる。
「…それで、貴方はその人喰いに何をさせる積りなの。」
と、黒い鬼人は首を後ろに向けて、
「そんな、鬼姫さままで彼の言う事を信じるんですか。お話しした通り、僕はただ、彼に『後悔』して欲しいだけなんですって…。」
「どうだか…。それより、その人喰いにあんたの鬼鎧を砕く事が出来ないにしても、視線を外すのは甘く見過ぎなんじゃないの。…私から声を掛けておいて、こんなことを言うのもなんだけどさぁ…。」
「そんなことはありませんよ。ねぇ、大野さん。」
黒い鬼人は洋平の方に右目の分だけ視線を戻して、
「僕たちにとっては、目に見える相手の動きなんて微々たるもの。どうせ、相手がその気に成って動けば動体視力が付いていかないんですから、お互いにぼんやりと眺める位でちょうど良いんですよ。…それに、こうして首に手を掛けあっていれば、驚くほど多くの事が鬼を通して見えてもくる。そういう訳ですから…僕の隙を突こうとしても無駄ですよ。少なくとも、そうして待っているだけではね。」
黒い鬼人の皮肉な声がピシャリッと打ちつけた…その瞬間…。
黒い鬼人の首に掛った洋平の両手が、強引にその頭を引き寄せた。
「貴重なご意見、ありがとよ。」
その言葉と時を同じくして…黒い鬼人の身体が前方に傾き始める。
…踏ん張りが効かない。それはそうだ。地面のコンクリートが融解し、二人の周辺だけ泥沼の如く変っているのだから…そう、これは…。
「なるほど、地面を溶かした様な痕跡が残っていたと思っていたら…こうやって、健さんの鬼眼の虚を突いたという訳ですか。その尻尾を使うに相応しい戦術…やれば出来るじゃないですか。」
「あんたこそ…流石に神経が図太い。健はこの手に引っ掛かったと気付いた瞬間に、全部の感覚を足元に振り向けた。それで俺の追い打ちにも対応できなかった様なものだったんだが…。しかしあんたときたら、こっちが不安に感じるほど平然として…俺の首に掛ってる指先の力は1グラムも落ちてない。…だが、それは元より解ってたことだ。」
と、強く言い放つや洋平は、黒い鬼人の脚が地面へと沈み込んだ分だけ出来たスペースで、そのサソリの様な尾を振り乱して…しなる尾に溜め込まれた勢いを一気に…立ちすくむ千明の方へと…。
「お見通しですよ。」
と、黒い鬼人が洋平の尾を掴み取る。それで一先ず、千明の居る所まで尾が届く事は無いだろう。…だが、しかし…、
「こっちもな。」
洋平は待ってましたと言わんばかりに、黒い鬼人に掴まれて軌道が変わった自分の尾を…なんと、黒い鬼人の左腕を巻き込んで、胴で一巻。首でまた一巻き。
さらに驚いている千明の大きな目の前で、今度は、黒い鬼人のフェイスマスクに刻まれた傷へと両手の爪をねじり込んだ。…どうやら、黒い鬼人の『口』をこじ開けようというのだ。
黒い鬼人洋平の尾の戒めを解く気があるのか…それとも解けないのか…されるがままに顎をガクガクと揺らしている。その様に、千明も思わず舌打ちをした。
それでも黒い鬼人は右手から洋平の首を離すことは無い。
洋平はそれを良いことに、黒い鬼人の右の掌に己の体重を預ける様に圧し掛り…そうして無理矢理にそのフェイスマスクの亀裂をこじ開けに掛る。
「この『口』だ。この『口』があんたにとって死というイメージと直結している。そうなんだろ。いや、隠して無駄だ。今の俺は全身の感覚が剥き出しに成ってるみたいなものだからな。例え、あんたが他の鬼人よりも少ない情報しか発散しないとしても、俺には全部お見通しだ。」
まず、メリメリッと樹皮を引き裂く様な音が響き渡った。
そんな危機的と言っても過言ではない状況で…どういう神経しているんだか…黒い鬼人はこれといって取り乱す様なこともせずに、
「餓鬼とし化して、感性が際立っているだけあって目の付けどころが素晴らしい。確かに、無理にフェイスマスクをこじ開けられたら今よりも、僕は死へと近づく事になるでしょう。ですが…だからと言って、貴方に下顎を引き裂かれた途端に、この世とも泣き別れとなる訳じゃない。せいぜい、命数を使い果たして先に逝ってしまう貴方に、気の利いた台詞の一つも手向けられない事を無い顎で歯痒く思う程度でしょうね。」
「あんた、本当に度胸のある鬼人だな。餓鬼に成ったことで、あんたがまんざら冗談や、負け惜しみで言っているんじゃないのが良く解る。…それだけに…このままこの顎ひき裂いて、あんたを黙らせるっていうのも魅力的ではあるんだが…それをやっちまったら、そこから先は何も出来なくなる。自分に大した余力が無いことは、俺だって知ってるよ。だから、その手には乗ってやらない。…それよりもだ。」
洋平は尾の先を黒い鬼人のフェイスマスクへ寄せると、鬼鎧の頭部を尻尾に付いたアームでガッチリッとホールドした。
そして突き出した毒針を見せつけつつ、毒々しく…いいや、違うな…むしろ、悪友をしてやったりと言わんばかりに悪戯っぽく…開け放った口一杯のたまらない気分を、笑い声と吐き出した。
「そんな…顎を引き裂いてしまうよりもだ。あんたの口をこじ開けて、この毒針を放り込んだらどうなるだろうなぁ。今の俺は、喋れなくなったあんたの沈黙よりも、のたうちまわってあんたが悲鳴を上げる姿の方に興味がある…。」
今まで聞こえていた己の笑い声さえ凍りつきそうな、洋平の声。そして言葉。…これが人成らざる鬼人…そして餓鬼か…。
黒い鬼人は呻くでも無く、歯を食いしばるでも無く…されるがまま、引き出されるまま…不敵な笑いを漏らしていた。




