第三話 その三
[29]
砕け、朽ちた石塊。
その下の…剥がれた舗装の奥から香る臭い。それは…あの日、彼女と過ごした墓場と同じ、湿った土の匂いだった。
黒い鬼人は死のイメージと隣り合わせで脳裏をよぎった『彼女』の笑顔に、微かな虚しさを感じながら…小さな笑気を吐きだす。
「鬼人に生まれ変わると言う事は、超人的な力を得ること…そして、その代わりに人並みに過ごすための、人としては『当り前』なはずの何かを捨てること…。例えば、それは人として老いていく時間。あるいは激しい感情。…鬼姫さまの様に恵まれた方ですら、幾ばくかの代償を払い鬼人のとしての生を保っていらっしゃるんです。僕たちの様に、いきなり死の風渦巻く鬼人の巷に放り込まれたものは…否応も無く、より多くのものを差し出す外なかった。生きていくためにはね…。」
…それは、あたら若い命を無残にも削らせ、鮮血の色に染まる様に仕向けた…そんな、累や、『五つ家』のやり方に加担しているという罪の意識からだろうか。洋平に向けられた黒い鬼人の言葉に、千明はほんの数瞬だけ、切なげにまつ毛を伏せる…。
洋平は黒い鬼人の語り掛ける声を聞きながら、一度だけ、ガツンと己の頭を殴る。そして…眼前の敵に、内なる猜疑の心に…立ち向かう様に、シャッキリ背筋を伸ばした。
洋平の尻尾が背後に散らばった邪魔な建材を蹴散らす。黒い鬼人は、しなう紫鳶の尾の残像を、眼の端で捉えながら話を続ける。
「確かにこれは悲劇と言えるでしょう。我ながら、随分と稔の少ない人生を歩むことに成ったなと嘆きたい時も在ります。ですが…そんな哀れな鬼人にも…勿論、貴方にも、人としての生き方を守り抜くと言う選択は出来はずだ。貴方は気付いていないかも知れませんが、鬼人と成ったからと言って捨てなくても良いものを…捨てずに生きていくことも出来た何かを…今日ここに来るまでに、貴方は捨ててしまっているんですよ。そのことが貴方の人生を、悲劇から、惨劇へと変えた…。」
「まるで…俺とあんたは違うとでも言いたそうだな。確か、俺とあんたが似ていると言い出しのも、あんたの方からだった様に思うんだがなぁ。」
黒い鬼人は洋平の皮肉めいた口調に、小さく笑い返して、
「当然、僕と貴方は同じ穴の狢ですとも。でも、貴方の恋人はそうでは無かったはずだ…貴方はいったい、そんな彼女の何を恐れたんですか。加奈子さんの何が、貴方を惨劇へと駆り立てたんでしょうね。」
洋平は舌打ちと共に、黒い鬼人に襲いかかる。それに、黒い鬼人は超高速移動で逃げて距離を取る。…どうやら、超快速の追いかけっこが…いや、鬼人ごっこが始まる様だ…。
黒い鬼人は音も無く、ぴょんぴょんと作業現場に設えられた足場の天辺へ。そこから、頭を振って辺りを見回している洋平に、右手を頬に寄せる様にして呼びかける。
「こっちですよ。こんな時こそ、その『眼』を使わないでどうするんですか。」
頭上からの声に反応して、洋平の緑の鬼眼がギョロリと動き、黒い鬼人の存在を捕捉した。…その刹那、バネの様に身体を折り畳んだ洋平が、天高く跳ねあがる…。
千明は後に残る爆風を腕に顔を伏せて堪える。そして、突風の最後の一陣を腕で薙ぎ払って見上げた空…。
勢い余って黒い鬼人の居る高さをかなり飛び越えた洋平が、空に浮かぶ暗がりから、足場を見下ろしている。…その暗がりの中に…ふっと、黒い影が滑り込む…黒い鬼人だ。
黒い鬼人は明らかに物理法則を無視した動きで洋平の真上に制止すると、成す術なく宙でバタつく洋平を、地面へと蹴り落とした。
雷鳴の様な凄まじい音ともに落下し、地響きの様な腹の底まで行き渡る衝撃とともに地面に打ち込まれる。…洋平の鬼鎧の強度の高さと、黒い鬼人蹴りの威力に…舗装された地面が捲り上がり、所々、地割れの様に裂け目を広げていく。
まだ揺れの収まっていない作業現場の上から見降ろす、黒い鬼人。
洋平はすぐさま地面から這い出ると、その黒いシルエット目指して今度は、足場を一段一段と確実に飛び越え、登り始めた。
黒い鬼人が、あっという間に最上部近くまで上り詰める洋平に、真上から声を掛ける。
「蹴りの一つもかわせないとは情けないなぁ。ほら、貴方の肩の『眼』も、嘆かわしいって涙を流していますよ。」
と、上から声を浴びせかけられて、洋平は金属の足場の上で火花を散らしながら急ブレーキ…その場で、おそるおそる右肩の方を向いて…、
「っ…詰まんない嘘吐いてんじゃねぇよ。頭きた…お前だけは絶対にブッ殺すからな。」
洋平はそうわめき声を上げると、厭味ったらしい引き笑いの聞こえる最上部へ、一目散に欠け上がった。
黒い鬼人は己と対峙する三つの瞳にも、自若としてたじろがず…悪びれもしない。
洋平はそんな黒い鬼人態度にも、余計に忌々しそうに語気を荒げる。
「そうやって、余裕で居られるのも今の内だけだ。俺がこの『眼』を最大限に活かす闘い方をすれば、それで…。」
「どうなるものでも無いと思いますがねぇ。」
「煩いっ、今すぐその減らず口を黙らせてやるからな。」
「どうやってですか。」
「だから煩いんだよっ。方法なら…確か、あいつはこうやって…。」
と、洋平が何やら難しそうな呻きを漏らして、試行錯誤している御様子。それに合わせて、肩の鬼眼も目線をあっちこっちに動かしている。…と、鬼眼の目線がピッタリと黒い鬼人の方を見定めて止まった。
「そうっ、そうだ。あいつが俺と闘った時は、こうして俺に『眼』のピントを合わせて居たんだった。…薄らとそうして居た様な記憶も残ってる…。そうだった、この『眼』はこうして使うのが正しいんだった…すっかり忘れてたぜ…。」
と、洋平は自分に言い聞かせる様に喋った。そして、黒い鬼人の方へ、顔に付いている二つの眼も向けて、早くも、勝ち誇った様に笑う。
「これでこの『眼』のピントはあんたの上で定まった。これからは、あんたがどれだけ速く動こうが関係なく、あんたがどこへ移動して、何をしようとしているのか、この『眼』が教えてくれる。」
黒い鬼人は洋平の自信に対して、恰も、せせら笑う様に、
「詰まり、最初に僕の攻撃を見切った要領で…と、言う事ですよね。でも、それだけじゃあ、僕の動きを完全に捕捉するのは無理だと思いますけどねぇ。現に、最初の一撃にその『眼』が気付けたのも、僕が貴方の隣に移動し終えてからのことだったようですし…。鬼の流れを視認して、僕の尻尾の能力の片鱗に気付けたのは大したものですけど…亜音速のレベルで動く物体を『眼』で追えないとなると…実戦で役立つ代物とは思えませんねぇ。」
この黒い鬼人の見え見えの挑発に、洋平は…、
「心配しなくてもいいぜ…確かに俺じゃあ、この『眼』の力を100パーセントまで引きだす事は出来ないだろうが…『眼』の能力は何も選球眼だけじゃない。嘘だと思うなら…また、俺から逃げてみろよ。今度は逃げきれやしないけどな。」
黒い鬼人は…小さく笑って、足場から地上へと飛び降りる。…と、何と黒い鬼人の動きに同期する様に、洋平も並んで飛び降りているではないか。
着地の瞬間、黒い鬼人が音も無く…洋平は、ドスンッと音を跳ね上げて降り立った。…その事を除けば、着地のタイミングから、着地後の間合いの取り方まで、絶妙と言わざるを得ない重なり具合をしているのだ。…これは、まさにに…、
「僕の鬼の流れを読んで、僕の次の行動を予測した訳ですか。…別に珍しくも無い。そんなことは、鬼を読むのが得意なタイプの鬼人ならば誰でもやっていること…まぁ、読みの制度はなかなかですが、それでも…自画自賛だと誤解されるのを恐れずに言わせてもらえば…その『眼』を以てしても、読みの鋭さは僕と互角と言ったところでしょう。勝負を決定付ける材料としては、まだまだ…。」
これまでの黒い鬼人の闘いぶりからすると、この言い方もまんざら大言とばかりも言えないのではなかろうか。
おそらくは…洋平の『眼』が黒い鬼人の言った『程度』の能力しか持たないのであれば、何とでもすることが出来ると…それは事実なのだろう。
そんなことは著者よりも、この場に集う鬼人たちの方がよく解っているのだ。…解っていて、千明は何やら難しい顔を…そして、洋平は鼻で笑って黒い鬼人の言葉に応えるのだ。
「そう思うんなら…ほら、良いからもっと、もっと…逃げ回ってみろよ。」
そう促がされて、黒い鬼人は詰まらそうな、溜息の様な短い息を吐きだす。
「そうですか…じゃあ、まっ…もうしばらく跳ねまわってみましょうか。…まったく、朝っぱらから野郎にケツを追っかけまわされるなんて…悪夢以外の何者でも在りませんね。お願いだからベッドの中までは付いて来ないで下さいよ。」
と、黒い鬼人は何やら小さな声でごにょごにょと呟いた。そして…、
「それじゃあ、リクエストに応えて…ほら、鬼人さん、此方ですよ。」
「言われるまでも無い。」
洋平は『眼』の告げるに従って、黒い鬼人の姿を、付かず離れず追い回す。
ビルの外壁を蹴飛ばし、作業現場のブルーシートをはためかせ、黒い鬼人と一定の距離を保ちながら…空を駆け回る。
千明は腰掛けている鉄骨よりも一段高い鉄骨に背中をもたれ掛けて、路地裏と言う大きな筒の底から、吹き抜けの遠い空見上げた。
黒い鬼人と屋上から見た空よりも、ずっと遠くて、ずっと明るい空…。
満天の星空でも、満月を浮かべた星空でも無いのに…二匹の鬼人が舞飛ぶその光景は、…朝ぼらけの空を粉塵と、埃まみれにして、なぜか神秘的で…視界が霞む。
…と、千明は瞬きするのを忘れていたのに気付いて、慌てて指で眼を擦った。
俯いた首の後ろ側には、今でも二人の鬼人ごっこの風切り音が聞こえている。それなのに千明は、粉塵に塗れ、薄汚れた指先を濡らす涙の水滴に瞳を奪われて…。
(自分を守る為なら…こんなにも簡単に涙が出るのに…。)
…千明は苛立たしげにスポーツウェアの裾で涙を払い落とした…だれだって、こんな白昼夢の様な、憂鬱な朝は嫌いだ…。
徹夜明けの虚脱感の中に居る千明の真正面で、連なった二つの衝撃音が遠雷の様に響き渡る。
そんな、決して静かとは言えない夢想の中に居た千明を…いきない、彼女の顔目掛けて飛んできた尖ったコンクリートの破片が現実へと引き戻した。
千明は素晴らしい反射神経で、容易く破片を掴み取ると…目先に迫っていた破片の先端から、視点の遠目に変えて、二人の闘いの推移を垣間見る。
鬼鎧を纏っている姿からは、まったく疲労感が伺えない。そんな事もあって、正直なところ著者の素人目にはどちらが主導権を握っているかすら解らない。…だが…自身も鬼人である千明には、何か感じるものが有る様だ。
そんな千明の耳に、黒い鬼人の声が届く。
「僕と違って尻尾の『異能』が有る訳でもないのに、ここまで僕の動きに付いて来られるとは大したものだ。つまりは、『眼』の行動予測する力が貴方に、鬼を最適な範囲でコントロールする目安を与えてくれているという事でね。…で、それだけですか。それだけなら、貴方と加奈子さんの話を再開させて貰いますよ。」
「ここにきて随分とせっかちだな。そんなに俺達の話をするのが楽しいかよ…。」
黒い鬼人は、ふっふっふっと何やら思わせ振りな笑い声を漏らして、
「言うなれば、結婚披露宴の司会の様な心境でしょうかね。…新婦が新郎の腹を喰い破る前に、手早く式だけは終わらせないと…ですから新郎も、進行役の僕の手際が気になるのも解りますけが…そろそろ、加奈子さんから『眼』を逸らすのを止めたらどうですか。」
「悪いが俺だって馬鹿じゃない。あんたの口車に乗せられて、折角得た『優位』ってやつを手放すつもりは無いよ。」
と、洋平は怠りなく、獲物を視殺するような、鬼眼の無機質な目線を黒い鬼人の上で固着させる。
「優位…。考えてみたら不思議なゲームですよね、鬼人ごっこって。鬼人なった子供が、それ以外の子を追いかけ回す。そして、鬼人になった子に手で触れられた子が、役回りを交代して次の鬼人に…。鬼人だった子は逃げ回るだけの普通の子供に戻ると…。果たして、この構図の中で優位にあるのは、鬼人か、それとも人か。鬼人は触れることで他の子を鬼人する決定権を持ち、誰からも追いかけ回されることが無い。…それなのに、他の子に役回りを押し付けようと躍起になる。人は鬼人に触れられてしまえば、鬼人としての安定を得られるのに…そうは成るまいと逃げる。『お遊び』だからと言えばそれまでですが…いったい、どちらが優位なのでしょうね。」
洋平は自分の言葉の端っこを突いてきた黒い鬼人を、警戒する様に黙して返さない。
黒い鬼人が洋平の無言の揚げ足を取る様に言葉を次ぐ。
「貴方と、加奈子さん、お二人にとっては…さて、この鬼人ごっこどちらがどちらに掴まったのか…そして今、優位にあるのはどちらなんでしょうか…。貴方御自身はどう思いますか。」
洋平は黒い鬼人にいとも容易くだんまりを崩されて、ゆっくりと、そして躊躇いがちに…、
「まるで、俺が加奈子に掴まって鬼人に成ったとでも言いたげだな…。『どちらが優位にいる』かぁ…。そんなのは俺が優位に居るに決まってるだろう。人か、鬼人かなんか関係ない。関係し様が無いだろ。俺達の関係性が…『こう』成っちまった以上はさっ…。」
と、洋平は紫鳶の鬼鎧の腹部を叩いて見せた。…そして、
「それと…言っとくが、俺が優位にあるのは、なにも加奈子とのことだけじゃない…。俺のこの『眼』に掴まっている以上は、あんたと俺との闘いでも、俺が優位に居る。そしてこの優位は、あんたが逃げ回る必要が無くなったとして…逃げることが出来なくなったとしても変わる事は無い。…ゲームとは違ってな。」
黒い鬼人は自信満々の洋平を茶化す様に、二、三度首を縦に振る。
「貴方御自慢のその『眼』に狂いが無ければという事ですよね。…だけど…怪しいものですね、貴方のその自信も…。何と言っても未だに、自分と、加奈子さんとの関係の深刻さを…視謝っているくらいですからねぇ。そんな程度の眼力で、僕を本当に捕まえ切れるとは思えないなぁ…。」
洋平は舌打ちを一つ、
「とことんまで加奈子の事を話に絡めてくるよな…人ごとにここまで首を突っ込む物好きさもだが…その根気の良さは脱帽だわ。しかし、俺に加奈子のことを話して聞かせようとするあまり…流石のあんたの洞察力も鈍ったかな。俺のこの『眼』の力をまだ軽く見てるようじゃな。まっ、この『眼』の先を見通す力は、『眼』を光らせてる俺自身だって驚く様な代物だからな。あんたでもピンと来なくても仕方ないか…。だが、それだと何か成っとくが行かないなぁ…。」
「なぜです。自分にだけ明確な、そして僕の方では不鮮明な『優位』を貴方がお持ちなのであれば…僕が貴方の『優位』をはっきりと認識しない内に、力技でも、不意打ちでも、好きな様に僕を打ち据え、切り苛んでしまえば良いじゃないですか。その方が…加奈子さんや、健さんも…自分たちの鬼の価値をふいにする様な輩に食べられたと思うより、少しはマシな気分を味わえるでしょうからね…。」
「…ったく…あんたの二言目がおっかなくて堪らないよ。まぁ、でも…そういうあんたとの決着だから、俺としても拘りたいだよ。…別に、加奈子に諭されたって訳じゃないが、あんただけは鬼人として力とか、『能力』で圧倒しないと駄目な気にさせられる。そういう訳だから、あんたには是非とも、俺の『眼』の力を知って、絶望感に打ちひしがれる…みたいな言い方あったよな。慣用表現ってやつだろ。…まっ、その手のことだ。あんたには無力感とか、敗北感とか、力だけでなく精神的なものでも俺に負けて貰いたいんだよ。だから、どうにか俺の『眼』の底力に気付いてくれないか。」
「気付けと言われましてもねぇ…もう少し、具体的な説明をいただきたいんですけど。」
と、黒い鬼人からのもっともな要求に、洋平は腕組みしながら首を左右に振り振り…弱ったぞとばかりに小さく唸る。…そうして、鬼眼をキョトキョトさせている内に…、
「なんつぅかぁ…あれだよ。元々が、同居人二号の考えだから口で言うのは難しんだけどな。…だから、あれだよ。あんたを倒すためのプランの一部で、この『眼』の使い方で、あんたが苦手そうで…。そういうあれだよ。」
と、『あれだよ。』と心ゆくまで連呼してからようやく、
「だから…俺はあんたの動きが完全に見える様に成ったのに、あんたは俺が完全に見えなくなる。…それも、その両目からだけじゃないぞ、当然…。俺の鬼鎧が透明になってさらに、あんた感覚からも消える。何か…そんな感じだよ。解ったか…。」
黒い鬼人は洋平が発した説明らしき何かに対して…とりあえずは普段通り、飄々と…、
「貴方はその『眼』があるから僕の動きを洞察できる。しかし僕の方はと言うと、貴方が透過迷彩…詰まりは、貴方は鬼鎧を透明にするから、貴方が次に何をして来るのか解らない。そして、僕は貴方の攻撃に恐れおののいて、醜態をさらした上で、成す術なく貴方に殺されてしまうでしょう。…と、これ位の理解でどんなものでしょうか。」
…本当に、この黒い鬼人だけは…肝が据わっているのか、それとも単に無神経なだけなのか…状況が状況だけに理解に苦しむ。
すっかり観戦モードに戻った千明も呆れ顔だよ、これは…。
「俺の言いたい事はまぁ…そう言う事ではあるんだが…それじゃあ、俺の言いたい事が伝わっていないっていうか…だあぁ、もう、どう説明すりゃいいんだよ。」
洋平がもどかしそうに、鬼鎧を纏っていない時のいつもの調子で、頭を爪でガリガリとやり出した。…と、洋平の鬼鎧の掌に、出し抜けに転がり込んできたものが…どうやらそれは、黒い鬼人の指を頭にねじ込まれた時に出来た穴を、洋平が特別鋭利な爪で引っ掻いたものだから鬼鎧の一部が削り落ちたらしいのだ。
掌の上の小石大の結晶は、洋平が見つめる前で紫鳶の光の粒へ…。それから、千明の鬼膜の中へ吸い込まれていった。
洋平は掌に残った、一瞬だけ濃さを増した白銀の鬼を呆然と眺めている。…これはまた、怒り心頭に発して黒い鬼人へ突っ込むのではないのか…が、どうやら洋平にその気は無い様だ。
それどころか、急に千明の方へ踵を返すと、どちらかと言えば上機嫌そうな声を上げる。
「おぉ、そうだ。俺の代わりに鬼姫さんが説明してやってくれよ。」
「えっ、私っ。私がどうして…。第一、私だってあんたの考えてる事なんか知る訳無いわよ。」
やわやわとした眠気に浸りながら…この超常の死闘の場ですごい感性しているなとは思うが…傍観者席でまどろみを楽しんでいた、千明。そんな彼女に、洋平が意表を突く形で仕事を押し付けてきた。…だが確かに、千明にしてみれば『そんなこと言われても…。』であろうな、実際…。
それでも、洋平は嫌がる千明の意思を無視するかのように、気楽に応える。
「別に俺の考えてる事を基準にしてくれなくてもいいって。むしろ、同居人二号…健だっけ…あんたはそいつと親しかったんだろ。そいつが考えそうなこと、やりそうな事って範囲で、俺の『眼』のすごさをあいつに説明してくれればいいからさ。なっ、頼むよ。あんただったら、俺の使ってる健の『眼』の能力に関しても、結構知っているんだろ。そういう辺りから、ちょこちょこっと掻い摘んで話してくれよ。」
「『ちょこちょこっと』って…それは健さんとは親しかったし、彼の能力に関しても…責任上、知ってはいたけれど…。」
「そうだと思ったよ。だったらあんたには、俺の言いたい事の本当の所に、当たりが付いてるんじゃないのか。」
「まぁ…こう言う事かな…って、思った答えはあるにはあるけれど…だけど正直、この手の事に首突っ込むのは気乗りがしないのよねぇ。私、後から違うって言われも責任持てないし…。」
と、千明は見るからに毛嫌いしている様な表情で、洋平の頼みをはぐらかした。…出来る限り、身内の事以外には手を伸ばさない…鬼人と成ったはぐれ者たち、その居場所を守る立場にある千明にとっては、必要欠くべからずの処世術であろうか…。
洋平はなおも諦めきれずに、
「そう言うなって。健の能力を知っていたのが責任上のことなら、その知識を今ここで披露してくれもいいだろ。もう、こんな機会は無いだろうしな。健だってきっとそれを望んでいるだろ、多分。」
「どうしてそうなるかなぁ…ていうか、あんたのその物言いで、ますます説明なんかしたく無くなったんだけど…。」
「そこを何とか頼む。なっ、とりあえず言ってみるだけ言ってみてくれよ。間違っていたからと言って、責任がどうしたこうした言ったりしないからさぁ。」
「…どっちなのよ…ったく…。」
と、なかなか首を縦に振らない千明に、洋平は遂に、
「あんたもそう思うよな。」
そう言って黒い鬼人に助け船を要求し始めた。
黒い鬼人はどう思っているのか…まず、
「そうですねぇ。まぁ、鬼姫さまに話していただいておけば、僕が加奈子さんの話をする妨げることも出来ますからね。…僕も鬼姫さまの御不興を買うのは恐ろしいですから…。」
と、兎にも角にも、どちらに対しての嫌味かも解らない事を言っておいて…やおら、
「と、何だか大野さんの方ばかりにメリットがある流れだと思わなくも無いんですけどね。それでも話して頂けませんか、鬼姫さま。」
千明は黒い鬼人が洋平の申し出に難癖を付けるものとばかり思っていたようで…少し、驚いた様に、
「えっ、いいの。私はまた…貴方が舌先三寸で有耶無耶にしてしまうのだとばかり思ってたけど…。」
「時間さえあれば、もっと他の手を考える事もしたかも知れません。ですが、これ以上闘いが長引くとなると、鬼姫さまの今朝の通学に響くでしょう。我々、鬼人が次世代の指導者として扇ぐかもしれない方を、この僕の所為で授業中に居眠り遊ばされたとしたら…生きた空も無い。そう言った訳ですので、僕の舌先三寸は、貴女の中の僕のイメージを改善するときまで取って置こうと思います。悪しからず。」
千明は黒い鬼人の妄言のそこかしこで、洋平がうんうんと頷いたり、ヘラヘラと笑うのに、一層苦々しそうな顔をしていた。そして…その不服そうな瞳を、話し終わった黒い鬼人の方へ…。
黒い鬼人はその白銀の瞳を、ほんの数瞬だけ…自分の黒い瞳で見返してから…思い出したように付け加える。
「それと…鬼眼で僕に対抗するというのも、『健さん』が生前に思い描いていたことの一部だとしたら…それに屈して、大野さんに負けて差し上げることは出来ないですけど…せめて思いだけでも汲み取って上げてもいいかなと思ったものですから…。」
そんな黒い鬼人らしくも無い、含みを感じさせないさっぱりとした言い回しに…千明はかえって懐旧感の様な、息苦しさ、やり切れなさに追いやられて様で…ポツリと呟く。
「こんなときだけ優しい振りして…ずるいよね、本当に…。」
「『振り』だなんて酷いな。僕は鬼姫さまの向学心を損なう事に成るんじゃないかと真剣に…いや、まぁ、それなりに心配してはいるんですよ。」
「あんたさぁ、もう少しだけでも…せめて人並みの誠実さで会話を終わらせられないの。」
千明はそう言って重い瞼を絞ると、じーっと黒い鬼人の明日以降も変わりそうもない顔貌を見つめた。
黒い鬼人は…そんな生き生きとした千明の仕草を、眩しそうに見守りながら苦笑を漏らす。
「良いんですよ。今更、人の真似しても不自然なだけ…鬼人として死んでいく僕にはこれ位がお似合いなんです。」
「そういうのがずるいのよねぇ…本当に…。」
「まぁそう言うわないで…別に僕は悲観している訳じゃありませんから。」
「はぁっ…解ったわよ。言やぁいんでしょ、言やぁ。あんたたちがそれで満足するなら、言ってやるわよ。だけど言ったら、今度こそ、さっさと片を付けてよね。私も闘い見るのに夢中になって忘れかけてたけど…本気で登校時間が心配になってきたわよ、まったく。」
多忙ではあるものの充実した学生生活を…無論、性質の悪い鬼人に、もとい、誰かさんに面倒を掛けられつつではあるが…人より何倍も努力して、『人の並みの生活』という奴を送っている千明。
そんな彼女の一生懸命さに感銘を受けたから…か、どうかは定かではないが。
洋平は手を叩いて、パンパンッと軽薄な音を立てながら、
「ご立派。その意気で説明の方もよろしくな。」
黒い鬼人の方も飄々とした語調で、
「通学に掛る時間の事なら御心配無く。僕にもついでが有りますから、始業時間までには穂塚高校に送って差し上げますよ。ここからなら、二、三分もあれば…まっ、多少は髪が乱れるやも知れませんが…それ以外は問題無く間に合わせて見せますから、大船に乗った気で居て下さい。」
そんな二人に代わる代わる馬鹿らしい事を吹き込まれて…千明は二人を交互に睨みをくれてやってから、やや乱暴な言葉遣いで話し始める。
「だから、そこの人喰いが言いたいのは…黒いのの動きが完全に見える様になったって言うのは…あれでしょ。鬼眼が…その肩の『眼』があるお陰で、おそろしく読みづらいその黒いのの鬼を見きれる様になったってことでしょ。」
「そうそう、そう言う事を言いたかったんだよ。…けど、当の俺も、どうしてそう思うのか、どういう理屈でそうなってるのか良く解らないんだよなぁ。」
と、洋平が相槌を…そして黒い鬼人は空っとぼける様に、
「そんなに僕の鬼は読みづらいですかねぇ…別に、隠している積りはないんですけど…。」
千明は頬を登る熱っぽいイライラを溜息で冷まして、勝手な二人の物言いに答えていく。
「あんたが隠してるかどうかは関係ないの。通常、鬼を感知するのに長けたタイプでも、鬼眼の様に鬼を視覚情報にだぶらせて認識するなんて芸当は出来ない…らいしいはね。私は鬼を感知するタイプでもないし、鬼眼も持ってないから両方とも伝聞でしかないけど…。私に出来るのはせいぜい、鬼膜で包み込んで鬼の感触みたいなものから状況や、状態を知る事くらい。こっちならタイプに関わらず、鬼人なら誰でも出来ることだけど…正直、それなりに集中力もいるし、咄嗟には…特に闘っている時に使える様な代物じゃないわね。それに引きかえ、鬼を感知するタイプの感覚は…これも聞いた話だけど、鬼の乱れや、揺らぎ…詰まり、鬼を働かせた時に起こる変化を感じ取ることが出来る…のよね。」
千明のそんな…まるで友達に勉強でも教えている様な手探り感が可笑しかったのか…黒い鬼人は彼女に気を使う様に…小さく、小さく、苦笑を漏らしてから、
「そうですね。五感のどれかに当てはめて説明するのは難しい。でも。強いて言うならば…直感。所謂、第六感と言うやつが適当でしょうか…。まっ、地震を予知するナマズみたいなものかな。ちなみに、鬼の変動が大きければ大きいほど感知しやすく、小さければ小さいほど感知しづらい。後は、まぁ、その場の状況とか、五感から得られた情報なんかの塩梅によって、だいたいで判断を下せば良いという訳です。楽なもんですよ。」
「確かに、あんたくらいに鬼の制御に長けて鬼人からすれば、他の鬼人の身体や、心の動きは、『だいたい』でどうにかなっちゃう『楽なもの』かもしれないけれどね…。だけど、他の鬼人からしたら、あんたくらい鬼の感知が難しい鬼人は居ないでしょうね。…ねっ、そうでしょ。」
と、千明に尋ねられた洋平も、仔細らしく頷いて見せる。
「そうなんだよなぁ。俺も何となくで鬼ってやつの反応が解るんだけどよぉ…そいつからのリアクションは全然でさぁ。まっ、この『眼』で見てみたらその理由も一目瞭然だったけどな。そりゃあ、あいつが何しようとしてるかなんて、解る訳無いよな。あんな以上につるつるして、小揺るぎもしないのは解りっこないって…。」
「そうでしょうね。健さんも同じような事を言ってたわ…安定し過ぎで、気色悪いって…。」
千明は黒い鬼人の空笑いを聞き流しておいて、話を次ぐ。
「その極端な安定が、その黒いのの次の動きを予測することを封じていた。実際健さんは、あのカラオケで、その黒いのに襲われるまで存在にすら気付かなかったし…。」
千明は洋平の方に瞳を向けて、
「あんたは、あんたで…めきめきと鬼を高め、鬼人として強くなっているはずなのに…普通の鬼人同士の闘いなら、明らからに鬼の絶対量で勝っているあんたに、とっくの昔に軍配が上がってても良さそうなものを…。未だに黒いのを仕留めきれてないどころか…あんた自身にも自覚が有るみたいだからはっきり言わせてもらうけど…格下のはずのその黒い鬼人に翻弄されてるわよね、あんた…。」
洋平は自信ありげに千明に笑い返して、
「まぁ、それは間違いないよ。だが…それも、この『眼』を貰った時点で問題じゃなくなった。この『眼』には全部見えてるんだよ。この『眼』の前では『安定』だとか、反応の強弱だとか関係無い。あんたがいつ、どこに攻撃しようとしているのかも今なら手に取る様に解るぜ。」
と、ここで千明が引き取る形で言葉を継ぎ足して、
「要するに、完全に見える様になったっていうのは、そう言う事よね。で、そんなこんなだから…。」
千明が今度は黒い鬼人に目線を向ける。
「あんたの攻撃面での優位は無くなった。そう言う事、この人喰いは言いたかったみたいだよ。」
「そうそう、そうなんだよ。多分、俺はそういう事を言いたかったんだと思う。多分だけど、それで在ってると思うわ。そう言う訳だから悪いけど、あんたがどんなに上手く攻撃のタイミングを隠して居ても、もう俺には通用しないから。心してくれよ。」
そんなご機嫌な洋平に、黒い鬼人の方は…どういう心境なのか…生返事を返す。
「はぁ、それは…兎に角、僕の方が前にもまして不利に成った…そう仰りたいのだということは解りました。ですが…別に僕は、さっきまでも攻撃のタイミングを隠すなんて器用な真似はしてこなかった積りなんですけどねぇ。」
千明は素早く黒い鬼人の戯言を引っ掴むと、
「はいはい、さらっと自分の鬼の制御能力の高さを自慢しない。『タイミングを隠した積りはない。』…それはそうでしょう。鬼のコントロールは何かに集中するのと同じ。集中しようと意識するとかえって集中できなくなる様に、自分の内心を…鬼を安定させよう、安定させようと思うと、かえって安定させるのが難しくなるものなの。だから、鬼の安定を成すのには、はっきりとした目的意識と、きっぱりとした決断。そして何よりも冷静であることが求められる。それが、事、鬼人同士の闘いとなれば…それこそ冷酷なまでにドライな精神性があって初めて得られるものでしょうね…鬼の理想と言われる『不断の安定』とやらは…。だけど、そんなことは先刻ご承知なの。解ったかしら。」
と、黒い鬼人の僅かな人間らしさ…微かな自己顕示欲を、ポイッと放り投げた。
黒い鬼人は、鬼鎧の後ろ髪のある辺りに手を当てて、恥じ入った様にペコペコと、千明に頭を下げている。それにニヤニヤしていた千明であったが…不意に、顔を引き締めると、
「で、もう一方の、『完全に見えなくなる。』って方の話だけど…。」
千明の火照った頬が、急速に冷めていく。黒い鬼人も猫背を伸ばして、千明の言葉を待ちうける。…淡く、三日月を地平線の向こうに飲み込んだ、朝の香が忍び寄る…。
「私には心当たりが有るの…もし、その人喰いの鬼眼が、健さんの使っていたものと寸分違わないのだとしたら…あんた出来るでしょ、『目晦まし』が…。」
洋平は少し考える様に首を傾げてみたり…が、すぐに千明の視線に応える。
「『目晦まし』なんて言葉は始めて聞いたけどな…多分、あんたの考えてることは当たってるよ。」
黒い鬼人は興味深げな声を漏らしてから、二人のやり取りに口を挟む。
「なるほど、そういう訳でしたか。可笑しいと思っては居たんですよね。いくら大野さんが強いと言え、鬼姫さまにボコボコにされた手負いの状態で…鬼眼を持ち、『虚抜き』まで使える『健さん』を倒したなんて…きっと、何か有るとは思っていましたけど…そう言う事でしたか。」
「どういうことよ。…確かに私も、健さんの力を知っていたから、この人喰いに負けたって聞いた時はずいぶん驚いたけれど…。何、まさか健さんが不利になる様な理由でもあったの。」
と、健の死の原因と成ったことらしい。当然、千明は黒い鬼人を急かす様に尋ねた。
黒い鬼人はまた興味深げに、そしてどこか楽しげに応える。
「彼が『目晦まし』を使えたのなら答えは簡単。…見た方が早いでしょう。」
と、黒い鬼人は声の調子を上げて、
「僕にも貴方の言いたかったこと、だいたい察しが付きましたよ。『完全に見えなくなる。』…本当にそれが出来るのか、まずは見せて貰いましょうか。」
黒い鬼人の挑戦的な口振りに、洋平は振り子の様にリズムを取っていた尾を諌めて…、
「いいぜぇ…眼に物見せてやるよ。いや、違ったな…。」
洋平が思わせ振りに吐き出した言葉を訂正した。…その愉快そうに漏れ聞こえた笑いと同時に、洋平の肩の鬼眼が、ジャイロスコープの様にグルグルと回転を始める。
瞬かないその緑の『眼』は、回転運動を繰り返しながらも、克明に周辺の状況を見極めていく。
それが一秒弱も続いた頃、紫鳶の両目だけは黒い鬼人から外さずに居た洋平が、言葉を継次ぐ。
「ここから俺の姿が、あんたらには見えなくなっていく…これが、その第一段階だ。」
緑の『眼』が動きを止めた。するとどうだろうか…洋平の姿が眼の前から消えた…訳ではない。しかしながら、この変化は黒い鬼人にも、千明にもはっきりと感じ取ることが出来た。
洋平の鬼鎧における変化は、鬼膜を張り巡らせている…触覚でこの場を認識している千明の方が、より顕著に感じ取っている様だ。
千明は忽然として気配が虚ろに成った…恰も、自分の鬼膜の中に『埋まって』しまったかの様な、あるいは自分の鬼膜の一部に成ってしまったかの様な…そんな洋平の鬼の『存在感』を、泥の様に混濁した思考から掻きだす様に、眉毛をひくつかせながら探していた。
「ふむっ…。」
黒い鬼人はそう、千明の様子を見つめながら関心したような声を漏らした。そして、暗中模索で手一杯の千明に代わって解説を口にする。
「『眼晦まし』というのは、その『眼』の持つ鬼を最適化する機能を最大限に活かした能力の一つですよ。周囲の鬼の状況を読み取り、『眼』にインプットされた情報から鬼鎧の鬼の流れや、量を、周りと同調させる。今なら、この場は鬼姫さまの鬼膜に覆われていますから、その鬼膜に同調していると言う事に成りますかね。」
「そう通りだ…だが、俺の能力はこんなもんじゃないぞ。」
と、答えた洋平に、黒い鬼人は舌の滑りも淀みなく、
「解っています。透過迷彩を使うのでしょう…詰まりは、『眼晦まし』を使って鬼姫さまの鬼膜と貴方の鬼鎧を同調させておいて、その状態で鬼鎧を透明にすると…そうなると、僕では見つけることが出来なくなる。僕からしたら『完全に見えなくなる』というのも道理ということですね。」
黒い鬼人が自らの置かれている状況を『完全』に理解した。洋平はその事に満足そうな、そして愉快そうな笑い声を漏らすと、スゥッと…まるで、映写機からの光を受けるスクリーンが、風で棚引いた様に…徐々に透明に成るその姿を、虚空に消した。
鬼膜の内側で洋平の存在感を探していた千明であったが、いよいよ洋平の鬼鎧が目の前から姿を消したことで…慌てて何か手を打とうとした、その刹那…。
「手出しは無用にとお願いしたはずですよ。」
と、黒い鬼人。
「鬼膜とやらの濃度を変えて、俺の位置を浮き出させようとでも考えているんだろうがそうはいかないぜ。さっきは慣れてなかったから、周りと鬼を揃えるのに一秒近く掛っちまったが…練習は一度で十分。これからは一瞬も掛らないで、俺はあんたの鬼膜の状態に追い付く…。それ位の事は、『発案者』の段階で先刻ご承知なんだよ。無駄な事は止めることだ…時間を喰うだけだからな。」
と、姿無き洋平の声が、外壁を反響して路地裏を行ったり来たりした。
まぁ、洋平は紛うこと無き敵なのだから、暴言が有った事も百歩譲って許せる…許せなくても後で、叩きのめせばいいだけ…。しかし、黒い鬼人の方はどうよ。咄嗟に自分がやろうとした事に気付いただけでも腹立たしい…いや、小憎らしいくらいか…。ともかく、黒い鬼人の事を思い遣って、自分としても勢いで対処しようとしたのに…せめて、その気持ちくらい買ってよ。
…とでも言いたげな不貞腐れた瞳を黒い鬼人を向けて…千明は眠気のピークを迎えた額を、太腿を両手で抱きかかえる様にして、膝に着けて蹲った。まぁ、手出しなんてしませんよと言う意思表示としておこうか…。
黒い鬼人は千明が眠気を押し抱いている間に、彼女と、そして姿の見えなくなった洋平に話し掛ける。
「恋人の肉体を溶かし、今度は自分の姿を空に溶かすと…まったく大したものですね。しかし…それでも、自分の本心からは逃げ切る事は出来ませんよ。」
洋平からは何の反応も返っては来ない。黒い鬼人小さく笑って、
「まぁ、今に解る事だ。それよりも、健さんが勝てなかった理由…でしたよね。それはずばり…。」
と、健の名前を出されては、千明も顔を上げざるを得ない。洋平も…『眼晦まし』に弱点が有る様な物言いをされれば…それは気にはなるだろう。今の所は、黒い鬼人への攻撃を控えているようだ。…が、おそらくはすでに、自らが一条の矢と成って黒い鬼人を射抜く…その射程範囲に彼を捉えているのは間違い無かろう。
そんな、あの緑の『眼』がどこから自分を見つめているか解らない状況でも、黒い鬼人は平然と話を続ける。
「ずばり、大野さんが『刻騙し』を使えたから…いえ、と言うよりは発動しっぱなしだったからでしょうか…。」
と、黒い鬼人は何かに気付いた様に、
「あぁ、そう言えば、貴方は『刻騙し』言われても解りませんよね。健さんの生き肝を食べて、一度は、鬼鎧を脱いだせいか…どうやら今は、能力の使用状態がリセットされ、『刻騙し』はスタンバイ状態。発動はしてないようですから、詳しい説明は取りあえず省かせて頂きますが…まっ、貴方がその『眼』を健さんから得たのと同じで、そういう能力を加奈子さんの生き肝から得たと…そう思っていて下されば結構ですよ。」
黒い鬼人はそう言って、作業場二階に設置された足場を見上げた。…それはハッタリか、はたまた事実、彼には洋平の存在が見えているのか…それは千明でも解らなかった。
それでも、黒い鬼人の感じさせるある種の『引力』に、千明も身を起して同じものを見上げる。…作業場の向こうに、薄らと赤らみ始めた空が見える。その朱色をビー玉の様な湾曲した視界の中に受けて…眠気など夢の様に儚く、記憶の底に忘れ去られていく。
夜の闇の中とはまた、印象の異なる黒さを宿らせる不思議な鬼鎧。その黒の中で『彼』が言葉を続ける。
「ところで、健さんは貴方との闘いでは、その『眼』を今の貴方の様な使い方をしなかったのではないでしょうか。いいえ…それどころか、健さんは貴方の攻撃の回避にすらその『眼』を使わなかった。…僕はそう思うんです。」
黒い鬼人が今度は、路地裏の片隅に目線を落として、何も無いはずの空間に語り掛ける。…洋平からの応答は無い。そのことが、黒い鬼人の目の付けどころ正しい事を雄弁に物語っているようだった…。
なぜ黒い鬼人には洋平の居場所が解るのか…そのことも千明には気に成る。しかしながら、千明にはそれにもまして黒い鬼人に聞いておかなければならない事が有る。
「健さんは鬼眼を使わなかった…それ、確かなの。」
「使わなかったとは言っていませんよ。僕はただ攻撃の回避のためには使わなかったと言ったんです。」
「何それ…頓知でも言っている積り…。」
「違います。」
と、黒い鬼人は苦笑しながら千明へ振り返る。
「頓知でも、謎掛けでもありませんよ。攻撃の回避のためには使わなかった…だから、『健さん』は鬼眼を攻撃に使ったんじゃないか…要するに、僕の言いたいことはそう言う事です。」
「攻撃に…解らないわ。それに、そのことに『刻騙し』と、『眼晦まし』がどう関係してくるの…。」
黒い鬼人はその千明の質問には答えずに、路地裏の中央に首を向けて、
「一つお聞きしたいですが、貴方は、鬼膜を張ることが出来ませんよね。」
…今度はそっちに居るのか。千明も地面が捲れ上がり、無残な体を示す舞台中央に目をやる。
すると、黒い鬼人の問いに対して…コンクリートの残骸や、舗装の捲れ上がり具合から、まるで海原の真ん中にも見えてくる『そこから』…洋平の問い返す声が聞こえてくる。
「その前に答えろ。…俺の居場所が解るのは、移動の時に立てた音が理由なのか…。」
悔しさを押し殺した様な、洋平の低く擦れた声。
黒い鬼人はそんな心の機微をも絡め取る様に、平気で、そしてわざと無頓着に、
「それだけではありませんけど、それも理由の一つに違いありません。じゃあ、こんどはそちらの番ですよ。」
「…そうだ。俺は鬼膜とやらは張れないよ。というか、やってみたことが無い。それが答えだ。」
黒い鬼人は再び千明の方に首を向けて、
「ねっ、やっぱりそうだったでしょ。これで確実に、彼と『健さん』との交戦時、この場に鬼膜を張り巡らせていたのが、他ならぬ『健さん』自身だったことが明らかに成りました。そうですよね。」
と、また自分の方に…そして今度も、新たに移動した先である柱の影に首を向けた黒い鬼人対して、洋平は…、
「あんたには俺の様な『眼』が有る訳でもないのに…あんたいったい、俺の何が見えているというんだ。」
「見えている訳ではありませんよ。実際、こうして貴方の居る所に目を向けていても、貴方の姿はさっぱりです…完璧に透明で、影も形も見えてはいません。それでも、強いてどんな感覚で貴方の動きを捕捉しているのかと言えば…聞こえている…。そう、見ているというよりは、聞こえていると言った方が近いでしょうかね。…それでは、どうぞ。」
「…悪いんだが、正直、あの時に誰があの場に鬼膜を張っていたかは俺には解らないんだ…。それどころか、あの時には鬼膜の存在すら感じはしなかった様に思う。俺が張っていた訳じゃないのは間違いないんだが…。」
「そうでしたか…まぁ、『刻騙し』の影響でしょうねぇ。…そう言う事なんですが、鬼姫さまはどう思います。」
と、黒い鬼人に尋ねられて…洋平の発したやけに深刻そうな声を怪訝に思っていた千明が、驚いて、
「えっ、そ、そうねぇ…。」
そうどぎまぎしながらも、考え込む様に首を傾げた。…確かに、洋平が思い描いていたであろう『完全な優位』この時点でもう、崩れているのかもしれない。だが、千明が不思議に思った様に…少々、悲観的な反応を晒し過ぎではなかろうか…ここには単に、『人成らざる鬼人だから』では済まない何かが有るのかも知れない…。
千明は口許に宛てた小さな手を離して、黒い鬼人に応える。
「貴方の言う通り、健さんが鬼膜のホスト役を担っていたので間違い無いと思う…。その日、健さんはもう一人の刑事さんと一緒に行動していたんだけれど、その人を出し抜く形でその人喰いと対峙したの。本来なら、二人以上でその人喰いを捜索。発見次第、交戦を避けて本部に連絡という段取りに成っていたのだけど…きっと、パートナーの刑事さんを欺いてでも、一人でそいつと闘いたかったんでしょうね。健さんは手柄を得て、鬼人としてのプライドを取り戻そうと必死だったんだと思うの…だから…。」
…蔑んでくれるな…あるいは、私たちが悪かったんだ…か。千明がこの後にどんな言葉を続けようとしたのかは定かではない。
ただ、続かなかった答えの空白から目を逸らす様に、千明は申し訳なさそうに、そして辛そうに俯いて、黒い鬼人の静かに燃える瞳から顔を背けた。
黒い鬼人は短く息を吐いて、
「誰の手も借りず、誰にも気取られずに闘う。だとしたら、健さんは自ら鬼膜を張っていた。それで間違いは無いでしょう。そして、その鬼膜に大野さんの『刻騙し』の相乗効果で、闘いが終わるまで誰も、この場で二人が死闘を演じているなどとは想像もしなかった。…それだけ、『健さん』の思う通りの展開で事態が推移したという事なんでしょうね。…そして…首尾よく大野さんとの決闘にまで漕ぎ着けた『健さん』は、鬼膜の感触からか、あるいは鬼眼で得た情報からか…気付いてしまった。自分には『虚抜き』以外に、敵対している鬼人を仕留める決め手が無いと…。」
作業場の陰に居ると思しき洋平からは、気配を殺して言葉も無い。千明は黒い鬼人の話を検証する様に、微かな音にまで耳を澄ましながら、
「確かに、健さんは腕力に自信のあるタイプの鬼人ではなかったわね。だから『虚抜き』に頼ったのは解るけど…でも、それならそれで、鬼眼で攻撃を回避しながら、『虚抜き』で反撃では駄目だったのかな…。」
と、一方で、会話にも余念がない。…本当、女は器用だよな…。
「おそらくは、大野さんの『刻騙し』の影響で、頼みの『虚抜き』さえも効力が乱された…『健さん』は『虚抜き』が使えるとは言え、軽く触れるだけで相手の鬼の流れを乱せる程、技に長けていた訳では無かったのではないですか。」
「まぁ…貴方ほどじゃなかったとは思うけれど…。だけど、いくら『刻騙し』の影響を受けていたとしても…それに、健さんの『虚抜き』が、しっかりと相手に触れた状態でないと効力を発揮できないレベルだったとして…『虚抜き』って要は、相手の鬼を乱す技の事でしょ。健さんの『虚抜き』が乱されて、それから、あの人喰いの鬼の流れが乱されて…それでもやっぱり、『虚抜き』の効果はあったってことには成らないのかな。」
「えぇ、まさにその通りで、『刻騙し』で増長され乱れた鬼を使えば、カウンターの紛いの強力な『虚抜き』を流し込むことが出来たでしょうね。それこそ、浅くとは言え、全身に渡る損傷を負っている大野さんの鬼鎧を砕いてしまいかねないほどに…その程度のことに、鬼眼を有している『健さん』が気付かなかったはずが無い。それどころか…『死返し』を行った鬼人との闘いだ。もしかしたら『健さん』は、始めから貴女が大野さんに刻んだ損傷。そして『刻騙し』の影響で増幅される『虚抜き』の威力…その辺りのもろもろをちゃんと認識した上で、自分一人でも彼を始末できる可能性が高いと考えて独断専行に走った。…そうであったとしても、なんら不思議は無いでしょう。逆に…フィアンセが居るというのに、勝算の無い闘いに身を投じたと言われるよりは…ずいぶん納得がいくとは思いませんか。ではなぜ、健さんはそのシンプルな方法を避けたのでしょうか。」
黒い鬼人にテンポ良く問い返されて…千明は少し困った様に、大きな瞳を細めたり、広げたりしながら、
「なんでって…それは…もし、貴方の言う様に、健さんも『虚抜き』が効果的な事を知っていたのだとしたら…あっ、待ってよ…まさか…。」
と、千明はこれでもかと大きく見開いた瞳で、黒い鬼人の顔を目に入れた。
「まさか…愛美さん…そうだわ、私、何でこんな簡単な事に気付けなかったんだろう。あの人喰いは…こんなこと口に出したくは無かったけど…愛美さんと同じ。…愛美さんと同じで『二本角だったのよね。…そうか、だから健さんは『刻騙し』と、『虚抜き』の合わせ技を使おうとしなかったのね。…確かに、相手が『二本角』だとしたら、その方法だと効果が期待できないどころか…むしろ、感情の発散を促がして、かえってあの人喰いの鬼を安定させることになったかも…。それで健さんは、人喰い鬼人が『二本角』に成っていることに咄嗟に気付いて、プランを変更した。…最も効率的と思われていた攻撃法を手放さざるを得なかったってことか…。ねぇ、だけどさぁ…あの人喰いの話では、健さんはやっぱり、戦闘で『虚抜き』を使ったみたいなことを言ってたけど…それはどういう事なのかな。」
「ですから、そこで『眼晦まし』の要領が役に立つ訳でして…。」
黒い鬼人が千明の疑問に答え様と話し始めた。…と、その時であった。
「愛美…愛美…その名前、あいつが、健が最後に俺に言った名前だ…。その女にだけは手を出さないでくれってな。」
その刹那…千明は鉄骨から飛び降りた。そして洋平の姿を求めて、首を、目線を、忙しく左右に振りながら、
「おいっ、人喰いのクソ野郎。今、あんたが言った事…まるで、健さんがあんたに、愛美さんの命乞いをしたみたいに聞こえたけど…適当なこと言ってると、今すぐにでも捻り殺すわよ。」
汚らわしさと、憎悪渦巻く白銀の瞳を尖らせて千明がドスの利いた声を発した。
洋平はそんな千明の反応が意外だったとでも言うのか…ちょっと困った様な苦笑を漏らす。
「やる気に成っているところを悪いが、先約がある。順番は守ってもらうからな。」
と、壁に何度もぶつかりながら届く洋平の声。これでは、千明には声の出所が判然としない…と、言う訳で…。
千明は三角の瞳の矛先を、詰問するかのように黒い鬼人の方へ向けるのだった…。
黒い鬼人は千明の無言の圧力に…小さく、喉の奥で空咳を漏らしてから…特に冗談言を述べるでもなく、大人しく洋平の居場所を指で示した。
黒い鬼鎧の人差し指は…千明のすぐ眼の前を…彼女の立ち位置から1メートルも離れていない空間を指している。
千明は黒い鬼人の指摘にも、まったく臆する様子も見せない。それどころか、さも当り前の様に正面へ白銀の瞳を向けると、涼やかな声で話し始める。
「私にあの黒いのとの闘いを邪魔されるのが嫌なら…健さんが助命を請うた何て言う世迷言は、すぐに訂正しなさい。」
千明の声は傍目から見れば暖簾に腕押し…目標にぶつかることなく、路地裏全体に拡がっていた…かに見えたが…。
「嘘を吐けって言うなら、俺はそれでも構わないけどな…まぁ、一応は訂正と言う事にしておこうか…。」
と、洋平が侮りの混じった声を返して来た。洋平の言葉が続く…。
「健の方から命乞いをしてきた訳じゃないぜ。…その点は、俺の言い方が悪かったかもなぁ。で、さぁ…闘いの決着がほぼついたくらいで…だが、あいつなかなか負けを認めようとしなかったからな、俺の方から諦めを付ける『理由』ってやつを作ってやったんだよ。…『大人しく俺に殺されるなら、あんたの恋人には手を出さないでやる。』ってな。そういうことだ。あいつとの約束だから、間違っても俺は、その『愛美』って女には手を出さない。安心して良いぞ。まっ…『愛美』の方から俺に仕掛けて来たとしたら…話は変わってくるけどな。」
洋平は人を超越してしまったものの暗い愉悦を…下卑た笑いを漏らす。…人を止め、同族を殺し喰らったものが品性を保ち続けるのは…あまりにも難しい。
それとも、洋平は己をも巻き込んだ、破滅的な衝動の中にでも居るとでも言うのだろうか…。
しかし、千明にとっては洋平の内心の矛盾などどうでも良いこと…彼女はただただ思う…、
「健さんは、最後の最後で、こんな屑野郎の言葉を信じたって言うの…ううん、信じるしか無かったんだ。…自分の死を感じながら、愛美さんを思い…。あんたに解らないでしょうね。あんたが殺した人が、どんな思いで死んで逝ったのか。健さんはねぇ、最後まで恋人の身を案じて…。」
「そんなことは直接あいつの遺言を聞いた俺が一番解ってるよ…。そんなことより、俺の方からあんたらの話の腰を折っておいて悪いんだけど、さっきの、あの『二本角』とかなんとかって話を続きをして欲しいな。出来れば、初心者の俺でも解る様に、もう少し詳しく。」
「…『そんなことより』…『そんなことより』ですって…。」
と、正面の何も無いはずの空間に殴りかかろうとする、千明。…それを背を向けた黒い鬼人が腕で押し止めると…彼らしくない若干の乱暴さを以て、千明を鉄骨の上へと押しやった。
「きゃっ。」
そう何となく場違いな感じがする悲鳴を上げて、千明は鉄骨の上に尻もちをついた。…腰の辺りを抑えながら黒い鬼人を見上げた瞳には、抑えきれぬ白銀の闘志が牙を剥く。
「ったぁいわねぇ。何すんのよ。」
黒い鬼人は千明に背いたままで小さく溜息を漏らす。
「手出しは無用にと…って、何度言わせれば気が済むんですか…まったく、喧嘩っ早い鬼姫さまだ。」
「喧嘩じゃない。これは制裁よ。最低限の道徳すら守れなかった外道の分際で、私の仲間を侮った事を言ったことへの当然の報いだわ。だから邪魔しないで。」
「貴方のその友人に対する気持ちは、人として正しい。貴方が彼に対して憤ったとしても、それは無理ないことでしょう。…ですが、ここは鬼人と鬼人との殺し合いの場…その手の感情を持ち込むべきでない無いでしょう。」
「なっ…貴方まで…まさか貴方まで健さんの気持ちを侮辱する様な事を言うなんて…。貴方は鬼人として…それに、人としても賢い部類に入るのだと思う…だけど…悪いけど私はそんなに人間が出来ていないから…もし、貴方があの人喰いをかばう様な事を言うんだったら…それでも良い。だから、私は、私で…。」
「健さんもですよ。」
と、黒い鬼人の強い語気に、千明の肩がビクリッと震えた。
…彼女自身、自分の人の部分が自分を弱くしていると、自分をただの小娘にしてしまうのだということは解っているのだろう。だが…だからこそ、千明は黒い鬼人をそのままの『瞳』で見つめた…。
黒い鬼人が空気を入れ替える様に言葉を変えて、
「本当に、鬼姫さまが言うほど…大野さんと、健さんの鬼人としての理念の間に、それほど大きな違いは有ったんでしょうか…。」
千明は瞬かない瞳で、黒い鬼人に問い掛け続ける。…黒い鬼人が促がされるままに続ける。
「確かに、大野さんは人だろうと、鬼人だろうと禁食域に属するはずの『恋人』の生き肝を喰らった。…しかし、どうでしょうね…。相手が『恋人』だったからと言って、それは結局のところ選り好みせずに人を喰らったというだけ度の事にしか過ぎないのでは無いでしょうか…。厳密に言えば我々は鬼人で、人では無い。だから、人間が同族を食べることと同じレベルで『死返し』を語る事は難しい。それは現に『死返し』を行いながら生きている鬼人が居る事を、引いては自分自身を否定することにつながり…結局は、『精神的な繋がりのある者を喰らうべきでない。』という鬼人たちの間にある暗黙のルールを…その規範の歪みや、欺瞞を問題にすることになってしまう。…おっと、また僕の悪い癖が出た…話を健さんの事に戻しましょう。」
と、黒い鬼人は珍しく、殊勝に自ら脱線した話を戻して、
「僕の言いたいのは、まず、大野さんはそれほど鬼人の規範から外れた様な行いに及んではいないんじゃないかと言う事。そして…それは健さんにも言えることだという事です。…貴女は健さんが殺された事を許しがたいこととして怒りを露わにされた。そして、彼が生き肝を食べたことにも腹を立て、嫌悪感を抱かれていましたよね。…それはそうでしょう。実に当り前の反応です…人としてはね。では、鬼人としての…鬼人の世を生きてきた貴女に尋ねますが…まさかお忘れではありませんよね。健さんが大野さんの居所に自分から足を運んだ理由を…。」
「それは…。」
「健さんの方には、治安維持の名目や、累からの暗黙の了解という大義名分があったことも事実。ですがそれでも、隙あらば大野さんの命を奪おうとしていた事も、そして彼を抹殺することで手柄を得ようとして居のもまた事実です。」
「…解ってるわよ、私だって…鬼人がそういう生き物だってことくらい…。」
「僕はそれを間違ったことだとは思いません。ですが、鬼姫さまがどう思うかは貴女の自由…それでも、敢えて僕が貴方を止めたのは…言っていましたよね、『健さんを侮辱する様な事だけはしたくない。』と…。僕は思うんですよ。健さんと大野さんは…仮に殺し合いの相手という関係以外で出会っていたとして…それでもやっぱり、二人は心から打ち解ける様な事は…表面上の付き合いならともかく、親友に成る様な事はなかった。二人はどうやら信じているものも、人を信じる場合の基準も違うようですから…そんな二人が信じ合えるはずもない。だが今わの際で、健さんは殺し合いの相手で、更には価値観も違う…そんな信用成らないはずの相手を信じた。…まぁ、状況が状況だったでしょうから…鬼姫さまの言う通り、信じるしか無かったという部分もあったでしょう…。ですけど、健さんは信じた。それは大野さんの人格とか、道徳心とかそんなものじゃなかったでしょう。それよりも、人の美徳とされるものに敢えて泥を塗ってでも…鬼人となりそれでも生きたい。生きるためには元は同胞だったものの生き肝を食べ、泥水を啜ってでも生き残ろうとする。生き物のとして、ある意味では何よりも純粋な精神を、生命力の強さを…それだけは鬼人として信用に値すると思ったんじゃないでしょうか。だからこそ健さんは、十中八九無駄だと解っていても、最後に彼に願いを託してみる気に成った…。」
黒い鬼人は話を終えると…まだ釈然としていない様子の千明に、小さく苦笑を漏らす。
「まぁ、女性には…解らないかもしれませんね。でも、故人である『健さん』のプライドを守りたいと貴女が思ってくれたこと…僕は健さんとはろくに面識がありませんが…それでも同性として嬉しくは思ったんですよ。僕は…日頃の行いが行いだから…真面目なことを言っても、鬼姫さまには戯言にしか聞こえないでしょう。ですが…それでも、嬉しかったんですよ。」
千明は繰り返し自分に語り掛けられる黒い鬼人の言葉に…否、おそらくは『率直さ』に…何も答えられず、ただ歯痒そうに瞳を逸らした。
それを黒い鬼人はどう受け取ったのか。…苦さを滲ませる様に笑って、
「鬼姫さまに信用ないのは当然の事…これは僕の不徳の致すところです。でも、まっ…何事も中途半端で片付けてきた僕ですけど…鬼人で有ることと、この気分屋なところだけはどうにも…気分が落ち込んだ時に思い返すと、ずいぶんと失礼な事を言ったり、やったりして回っているなと、我ながらに思う事がしばしばあります。でも、こればっかりは、死んでみるまでは切っても切れそうにない。詰まる所、これが僕の性分なんでしょう。…申し訳なくは思うんですよ。」
と、努めて快活に笑い飛ばす黒い鬼人。その視線が、千明の端正な顔から、穴だらけの壁の方へ…どうやら洋平が、今度は、その周囲に居るということであろう。
千明はわだかまりをよく加湿された溜息とともに吐き出す。そして黒い鬼人の横顔に、
「貴方のこと全部知ってる訳じゃないから…信頼しているかと聞かれれば、『そうだ』とは…私も答えづらい。だけど、貴方の言葉を尽くそうとしてくれるところ…私、物分かりのいい方じゃないから、こんな風に、何度も、何度も、同じような事を言わせても…面倒がらずに、繰り返し、繰り返し…丁寧に私を説得してくれ様とする貴方の姿勢には…感謝してるし、それは信用してます。」
「んっ…。」
と、千明の応えに、『思いがけない』と言いたそうな音を漏らして…黒い鬼人はどこか呆れた様に、そして、どこか照れたように…彼女の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「それはどうも…私目の様な『野良』に過分なご厚情、こちらこそ感謝に堪えません。」
と、嘯いてから…なぜかそそくさと、
「さて、それじゃあ…僕としては、大野さんに駄目を押しを加えるためにも、彼に『二本角』についても教えて上げたいな…っと思っています。それで、よろしいですよね。」
それに千明は…二、三度首を横に振って、
「ちょっと待って…ううん、あいつに教えることには異存ないの。ここまで話し合いで事態を詰めて来たんだもの。私たちからの健さん達へのアシストが…その決め手が『ある一言』に成ったとしても…それはそれで良いかなって思うの。だけど…お願い、その『矢』は私に放たせて。」
鬼姫の申し出はいつも、単刀直入で小気味好い。
黒い鬼人も気持ち良くその場から飛び退いて…鉄骨の上、それも千明の座る真後ろに飛び乗った。…さながら、姫に付き従う黒衣の騎士…あるいは、美女と野獣か…。どちらにしろ、お姫様の方に守って貰おうなどという気はさらさらないことに変わりないか…色気ねぇなぁ…。
まぁ、自ら『矢』を射ようという勇敢なお姫様に、戦場でたおやかさを求めるのは筋違いではある…しかし、これが御伽話なら…黒衣の騎士殿も、弓を引く姫の震える方を抱きしめてやっても良かろう物を…。それにつけても…日の光を浴びて、いよいよ『悪い魔物』にも逃げ場がなくなって来たようだ。
千明は背後に感じる黒い鬼人の存在感に合図する様に、一度だけ頷いた。そして…、
「聞いてるかしら…まっ、それは耳をそばだてて聞いてるに決まっているわよね。それでも…私が、どうして貴方が健さんに勝てたのか…貴方の何が健さんの攻撃の手を緩めさせたのかを教えてあげる。」
洋平からの返事は無い…そのことだけが、ともすれば話し合いの場かと勘違いしてしまいそうになる千明の寝惚けた意識を、この場に…殺し合いの場であるこの場所へと連れ戻す。…それを承知で、千明が続ける。
「それは…『二本角』の持つ特質の為…。その『二本角』の特権的な性質が、健さんから、『虚抜き』で貴方の鬼鎧を破壊するという選択肢を奪った。…いいえ、破壊することが出来ないという事実を悟らせることに成ったのよ…。」
千明は言葉を切ると、少し勿体ぶった様に生唾を飲み込む…。
「『二本角』の特権…言い換えるなら、鬼人として複数の『能力』を持つことにった者の特権であり…そして、ハンディキャップでもある性質…それは…泣く事が出来るということよ。」
「はぁ…。」
と、鉄骨から三メートルほど離れた辺りから、洋平が思わず声を漏らす。…それはまるで、酷く陳腐な御伽話に子供があくびを漏らす様な…そんな声だった。
千明が…その言葉の意味を言い含める様に繰り返す。
「『二本角』のは人並みに涙を流すことが出来る…私はそう言ったのよ。」
…お姫さまが悪い魔物に、お前は『涙を流すことが出来るのだ。』と説く…これは本格的に御伽話染みて来た…。
千明の凛とした顔に差し込む日の光が、彼女の頬に夢の続きの筋を描く。…そろそろ、この野外劇にも幕を下ろすとしよう…朝焼けの現実感が、夜の帳の端緒までをも喰い尽してしまわぬ前に…我々をもてなす、この鬼人たちの饗宴を…。




