第三話 その二
[28]
乾いた空気に一段と濃く、深くなる影。路地裏に迷い込んだ薄明かりを、瞬きしない緑の瞳が憂鬱そうに見まわす。
「あんたが、俺は加奈子の能力を持ってるって教えてくれただろう。だからな…もしかしたら、同居人二号の能力のこの眼玉もどうにかなるんじゃないかと思った訳だ…しかし、これは便利だよな。何から何まで見える。」
そんな、新しいおもちゃを使って遊ぶ子供の様な調子の洋平。その隙を突く様に…音も無く、黒い鬼人が超高速で攻撃を仕掛ける。
この世のあらゆる耳目を置き去りにするかの如き俊足で、突如として洋平の隣に移動するや…洋平のこめかみ目掛けて拳を叩き込もうと…しかし、
「甘いっ。」
その掛け声とタイミングを同じくして、恰も、吸い込まれるかの様に黒い鬼人の右拳が、洋平の左拳に掴み止められた。…この人知を…いや、鬼人感知能力をすら上回る様な、神業的な先見性…どうやら、洋平の肩に浮き出た鬼眼は、ただの飾りでは無さそうだ…。
洋平は黒い鬼人を逃がすまいと、似た様な目に遭わされた時のお返しだとばかりに、
「悪いけど、見えてるぜ。」
と、ガッチリと掴んだ拳を思い切り振り回す様に、黒い鬼人を遺恨のたっぷりと刻まれた穴だらけのコンクリートの壁の方へと…全力で放り投げた。
あっ、と声を上げる間も許されずに、鉄骨に座る千明の眼の前をすっ飛んで行く黒い巨体。…激突は必至かと思われた…ところが…。
黒い鬼人の手足が何かを掴んだ訳ではない。ご都合主義な神風が吹いて、黒い鬼人を助けたのでも無い。
それだと言うのに…何らの予告も無く…黒い鬼人の身体が、ピタリと空中で静止した。…それこそ、黒い鬼人に掛っていた力が、唐突にゼロにでもなったかのように…。
黒い鬼人は何事も無かったかのように、空中でくるりと一回転して、悠然と地面に降り立った。
その不可解な光景を両目で、そして…肩口で舌なめずりする様な、光沢を放つ緑の瞳で見つめる洋平。
彼はその鬼眼で何かを看破したらしい。ケラケラと軽薄な笑いを漏らしてから、
「なるほどな。あんたや、鬼姫さんが、俺の尻尾よりあんたの尻尾の方が優れていて当然…みたいに入った理由が解ったよ。何となくだけどな。つまりあれだ…何と言ったらいいのか…今一つ、言葉が見つからないんだけどな…そうだ。よするに、俺の尻尾の物を溶かす能力が、あんたのスピードより劣っている訳じゃないと…いや、そもそも、あんたの尻尾の能力はスピードをアップさせる様なものじゃないな。…この眼が、教えてくれたよ…。」
そう言うと、洋平は透明な指の腹で、緑の鬼眼をツイッと撫でて、
「上手く説明出来ないが…その尻尾自体には、あんたをすごいスピードで動かす力は無い。…いや、無い事も無いんだろうけど…直接、尻尾があんたのスピードを上げている訳じゃないと言うか…それも違うかな…。まっ、なんだ。とにかく、あんたのスピードは意外と物体ぶった手順を踏んで得られるものだってことは解ったよ。…だろ。具体的な事は、頭がこんがらがって解らないけどさぁ。」
さっきまで見せていた大袈裟なジェスチャーが無くなった代わりに、洋平はサソリに似た尻尾を巧みに動かしている。
黒い鬼人はそんな…何かがスッポリと抜け落ちてしまった様な洋平に、
「まぁ、当たらずとは言え遠からずと言ったところでしょうか。…それより、ものの見事にパワーアップを果たしましたね。おめでとうございます。」
その口調はいつも通り…だが千明には、黒い鬼人の声から洋平への親しみが消えている様に感じられた。
(そうじゃない…もし、あの黒いのの親しみが向けられていたのが…あの人喰いでは無く、あいつの中に押し込められていた健さんの鬼だったとしたら…だとしたら、それは…まさか…。)
と、思考を巡らせる千明の耳に、二人の会話が聞こえてくる。
「あぁ、お陰さまでな。…これで、俺とあんたの勝負も決着が見えた訳だ…。」
「そう言う事に成りますね。ところで…貴方の加奈子さんへの気持ちは変わらないんでしょうね。」
黒い鬼人の…今更とは言え…極端に場違いな質問に、洋平は可笑しそうに笑う。…だが、さっきまでの彼とは、明らかに何かが…そうだ、笑いの質が違うのだ。
洋平は不思議そうに、そして、どこか煩わしそうに、
「あんたの質問はいつも突然だよな。…そうだな。まぁ、大切には思っているのは確かだな…。」
黒い鬼人はさらに畳み掛ける様に、
「それは、彼女の事を愛していると言う事でよろしいんでしょうか。」
「そりゃあ…まぁ、その…そう言う事になるのかな。何か、同居人二号の気配を感じなくなったし…今となっては、こいつだけだからな。それに…。」
黒い鬼人、それに千明の、二人分の視線が集中する中…洋平が何の気に無しに呟く…。
「それに…加奈子は…俺の大事な身体の一部だからな。可愛くて当然だろう…。」
洋平のその言葉を聞いて…千明は違和感の正体に気付いた気がした。
洋平は織田健の鬼に影響を受けていた。…それだけでは無かったのだ…それは…、
(…それは…確かに…あの人喰いが健さんの心の動きに感化されて、前に私が闘った時よりもずいぶんと心が安定して…ううん、人格が穏やかに成っているみたいだった。それは間違いない…はずだけど…ずっと違和感が有った。それも、内心に別の人間の性格的な影響を受けているのならば、違和感が有って当り前だって思ってた。…だけど、そう…本当はもっと…もっと…人の尊厳を犯す様な…在り得てはいけないものを私は感じ取っていたのかもしれない…。)
千明は祈る様に両手を握り合わせた。…両方の手の指には、もう一方に食い込んでいく様な、強く、重い力が掛っている。
千明の鬼膜が…千明の内心の葛藤を表すかのように…所々で、てんでバラバラにざわつき始める。…それのことに、黒い鬼人は鋭敏な鬼の感知能力で、そして洋平は健の鬼から得た鬼眼によって感じ取っていた。
その鬼眼のギョロ眼からの目線を受けて、千明は更に確信を深めていく。
(そうか…あの黒いのには解っていたんだ…あの人喰いは健さん鬼の…心の影響を受けて人格に変化が見られたとか…本当はそんなんじゃなかった。本当はもっと単純に…それこそ、あの鬼眼みたいに、健さんから奪い取ったものを使っていたと言うだけ…。知識も、穏やかさも…健さんから奪ったものを、あの黒い鬼人との闘いを有利に運ぶために使っていただけなんだわ…。だけど…健さんから得たものを、我が物顔で使っても、あの黒いのの鬼の制御能力に対してイニシアチブ取ることが出来なかった。それで、あの黒いのの言葉を切っ掛けに、あの人喰いの怒りの感情に溶け込み切れなかった健さんの鬼を隔離して…鬼眼を肩に形成させるために無理矢理移動させた…。多分、あの人喰いの内心から分離されて、行き場を無くした健さんの鬼は、鬼眼を形成するしかあいつの鬼鎧に居場所を得る方法が無かった。あるいは…健さんはそれほどまでに自分で…自分の鬼眼で、正々堂々、あの黒い鬼人と決着を付けたかったのかも知れない。…あの黒い鬼人もそれが解っていたから…健さんの心が切り離しやすい様に、人を食べようと思ったものの耳にしか響き得ない言葉を選んだ…。そして、あの人喰いは…いいえ、健さんの心を使っていた頃の人喰いは、黒いのの言葉を受け止めようとしたんだ…。つまり健さんは…あの人喰いの一部に成りながらも…そんなにもあの黒いのとの闘いにこだわった…。私にはそんな健さんの気持ちが解る様な気がする。だって、健さんの傍にはいつも愛美さん居たんだもの…例え敵わないとしても、好きな人の前では強くありたい…例え子供っぽいと思われたとしても、その人の前では意地っ張りでいたい…女の私だって、ちょっとはそんな気持ちになるんだもの。愛美さんとの事をあんなにのろけていた健さんは…あれっ、…あれっ…可笑しいな…何か、変…何か、違う…そ、そうだ…健さんはもうこの世に居なくて…私が健さんを見て居たのはあの人喰いだから…あ、あれっ、これってもしかして…そう言えば、あの人喰いのろけていたのは…愛美さんじゃなくて…。)
…そう、洋平がはにかんで話していたのは加奈子のこと…だとすれば…。
(あいつのさっきの態度…健さんの鬼が内心に溶けていた時には、『身体の一部』なんて、恋人を自分の延長でしか無いみたいな…そんな扱いはしなかった。じゃあ…まさか…さっきからあの人喰いは…健さんの、愛美さんへの気持ちを我が物顔で使って…。)
そう思った瞬間…千明の頭の中で、回路の焼き切れる様な音がした。
「あんた…健さんの気持ちを…愛美さんを大好きな心を利用して…自分の恋人の事をのろけたわね…。」
と、そう口に出した千明の唇から、頬から、血の気が引いて行く。そして…引き潮の静寂の後に訪れるのは…全身の血を沸騰させ、干上がらせてしまう様な…逆流する憤怒の感情。
鬼人の耳にのみ聞こえるであろう地鳴りの様なざわめき…。そして鬼膜の所々で、バチッバチッと放電現象が起きている。
洋平は不意に、巨人に身体を掴み上げられた様な感触にたじろいで、
「なっ、何だ、この圧迫感は…それに、鬼膜がどんどん分厚くなる。…何なんだよ、俺がのろけたからどうしたって言うんだ…。」
と、鬼眼をキョロキョロと動かして、洋平は自分の置かれている状況を見通そうと躍起になる。黒い鬼人は白銀に飲まれた周りの光景を仰ぎ見ながら、
「彼女は怒っているんですよ。あなたが他人の心を無断で使ったから…まぁ、そうなるように仕向けた僕も、あまり偉そうなことは言えませんけどね。」
洋平は鬼眼だけに頼り切れずに、紫鳶の瞳でも辺りを見回し始める。
「あっ、俺が他人の心を使った…なんだよ、それは…。いや、そんな事よりも…何も見えない。この『眼』でも鬼膜の先が解らなくなった…どういうことだ…。」
黒い鬼人はそんな取り乱す洋平に、攻撃を仕掛ける訳でもなく…、
「どうやらその『眼』では、激しい感情が入り混じった鬼を見通すことは出来ないようですね。まぁ、誰にでも得手不得手はあるものですし…それに、ここまで感情の許容量が大きい鬼も、そうそうお目に掛れるものではありませんからね…そう、取り乱すこともありませんよ。それよりも今は、相手の気持ちが『見えない』んですから仕方ない。ここは一つ、言葉で聞いてみたらどうですか。…そうですか。じゃあ、僕が代わりに尋ねてあげましょう。」
黒い鬼人はそれどころでは無いという健をほっぽって…白銀の中、ただ一人はっきりと浮かび上がった千明に声を掛ける。
「貴女のこの恐ろしい力を宿した鬼膜だけでは、彼にはもう一つ貴女の仰りたい事が伝わって居ない様ですよ。…はっきりと言葉にして言ってしまいなさい。今を逃せば、その気持ちを一生抱え込んで生きることに成る。」
と、今度は、洋平を促がす様に、
「貴方も、彼女の言葉を聞いておいた方が良いでしょう。さもないと、僕を殺したとして…その後に貴方の前に立ちふさがるであろう彼女に対して…得体のしれない恐怖感を抱いたまま闘う事に成るでしょう。それに貴方も知って置きたいはずだ。彼女が貴方の中にどんな変化を見たのかを…。」
その黒い鬼人の忠告に対して…洋平は千明の鬼膜の内に視線を巡らせるのを止めて…、
「俺にとっては、一番得体の知れないのはあんたなんだけどな。」
そう言いながらも、洋平は俯く千明に目線を向けた。
千明が幽鬼ごとく…ぬっと、その顔を上げる。その白銀の瞳に洋平の姿が映ると…この小さな身体のどこにこれほど莫大な力が隠されていたのだろう…間欠泉から噴き出す水蒸気の様に、立ち込める鬼は濃く、ざわめきは轟々と大きくなっていく…。
千明が鬼膜を貫く金属の音の様に、澄んだ、そして硬い声で呟く。
「あんたは…健さんの思いを踏みにじった。健さんから愛美さんへ送られるはずだった気持ちを掠め取って…まるで、自分が恋人に向ける気持ちみたいに扱い…汚したんだ。これだけは許せない…この先どんなことになろうと…何が有ろうと…私、あんたのことだけは、絶対に許せない。」
千明の洋平に対する敵意が、放電現象となってほとばしる。
これには流石に、洋平の肩の鬼鎧も慌てて千明を目標として定め…洋平自信も、姿勢を低くして身構える。
千明は鉄骨の上で立ち上がると、身体を包む様に鬼を収束させた。
「もう、あんたみたいな下種の『後悔』なんてどうでも良い…。詫びて欲しいとも思わない…。だけど、返して貰うわよ。健さんの『気持ち』だけは…。」
洋平は千明に飛び掛かるべく、鬼鎧の脚部に力と、鬼を十分に溜め込んで、
「返せと言われても困る…俺と同居人二号は、最早、一心同体の関係にあるからなぁ。残念だけど、フィアンセでも俺達の仲を引き裂く事は出来ないだろうな。」
洋平のその安っぽい挑発に、千明は鋭く睨みを利かせ、胸に抱く様に右拳を掲げた。
「それならせめて、あんたのその汚らわしい精神ともども、私のこの手で砕いて、葬ってあげるまでよ…。」
いよいよ、自らの胸を打つかの様な千明の拳に、白銀の鬼が集まり始める。…だが、鬼鎧を纏おうとする鬼人の、その一瞬の間隙を…果たして、洋平が見逃すだろうか…。
そんな二人を殺意で繋げる、一触即発のラインの上へ…決定的な『間』を二人に与える前に、黒い鬼人が超高速移動で割って入った。
「待ちなさい。」
黒い鬼人の声と、漆黒の瞳は、千明に対して向けられたものであった。
背中を向けられた洋平はと言うと…晒されたその無防備さと、大胆不敵な態度に…すっかり『毒気』を抜かれてしまったようだ。腰を持ち上げると、不満そうに尻尾を鞭の如くしならせて見せた。…この黒い鬼人の応対は、なかなかに適材適所だったと言えるだろう…。
とは言え…まだ、正対した、憤懣やるかたなき千明が立ちふさがっている。
千明は黒い鬼人の面構えをキッと睨みつけると、敢然と喰って掛る
「退いて。もうこれ以上、健さんの力をそいつの良い様に使わせておくなんて許しておけない。貴方は貴方が思う様に、あいつに、言葉だろうと、『虚抜き』だろうと、仕掛ければいいわ。でも…私はもう待たない。私も私で、あの人喰いを叩きのめさせてもらうわ。だから…。」
胸元から下ろされた千明の拳には、ギリギリと力が籠り、彼女の心情を代弁するかの様に震えていた。
黒い鬼人は千明の方へ一歩、歩み寄って…穏やかに語り掛ける。
「貴女の怒りのやり場を奪ってしまった事は申し訳なく思っています。…ですがもう、僕たちの出番は終わって居るんです…。」
「えっ…。」
予期せぬ黒い鬼人の言葉に、千明の拳の震えが止まる。そして、千明は力みの無い、不思議そうな表情で黒い鬼人を見つめる。…と、そこで横合いから、
「おいおいっ、まさかこの期に及んで、逃げ出そうなんて気じゃなかろうな。」
そう口を挟んできた洋平に、千明は険しさの薄れた視線を送る。それから、改めて黒い鬼人の瞳に眼を移した。…黒い鬼人の発言を聞けば…懸念を催したとしても可笑しくはないだろう…。
黒い鬼人はもう一歩、千明に歩み寄ると…右手をそっと差し出して、
「座って…。」
黒い鬼人の優しげな声に促がされて、千明は…握った指を広げると…大人しく、鉄骨の上に腰を下ろした。…ここで、洋平のからかう様な笑い声が漏れ聞こえたが…無論、二人に黙殺されたのでご心配なく…。
鉄骨に腰を下ろして、自分を見上げる千明。黒い鬼人はその訴えかける様な、問い掛ける様な瞳に…小さく頷いて…、
「もう、僕たちの出る幕じゃありませんよ。ここからは、彼と…彼の中に囚われた『二人』との闘いです。」
「じゃあ…貴方は…。」
「出番が終わっているとは言え、僕には…彼の中で仮初めとは言え安息を得ていた『二人』の鬼を、無理矢理に揺り起こした責任がありますから…最後まで、エスコートさせてもらう積りです。…それに…彼にはまだ、伝えて起きたことが有りますから…。」
と、黒い鬼人はチラリッと洋平を見てから、またすぐに千明に目線を戻して、
「だけど、そんなお節介は僕一人で十分。どうか鬼姫さまは、ここで『二人』の闘いぶりを見守っていて上げて欲しいんです。どうか、お願いします…。」
そう言って黒い鬼人は、堅固な『玉座』に腰掛ける千明の足元に恭しく跪いて、深々と頭を下げた。
千明はそんな黒い鬼人…芝居が掛った…しかしながら、案外と悪い気もしない所作に…その分だけ、バツの悪そうに呟く。
「…そうやって頼み込めば、私が甘い顔するとか思っているんでしょう…。」
黒い鬼人は頭を下げたままで、挙げた手を…まるで宵闇で綿飴でも作る様に、くるくると回して、
「お約束した夜明けまでで構わないんです。…太陽が顔見せるそれまで…まだ夜の名残がこの場に留まっているもう少しの間だけ…甘えさせて頂きます。」
「馬鹿…。」
千明は…もう何度目に成ったか解らない黒い鬼人の頼みに…どうやら、今度も泣き寝入りすることに決めたらしい。『不満だぞよ。』と一度だけ鼻を鳴らして、星屑を散りばめた様な黒い瞳から、顔を背けた。…千明も大概に寛容な性格を持ちあわせているようだが、ここまで我を通した黒い鬼人の粘り強さにも感服させられる…人は、そして鬼人も、果てしなく複雑怪奇に出来ているものだ。
そしてそれも…いつかは終わりが来るからこその…。
この黒い鬼人のマイペースに、よくよく取り残され気味に成っていた洋平も…徹宵こんなテンポで闘い続けて来たのだ。いい加減、慣れっこで…、
「あぁ、別にもう、『待たせて悪い。』とか謝ってくれる必要はないぞ。それより…鬼姫さんを丸めこみ終わったんなら、早く続きをやろうな。」
と、立ち上がり、自分へと振り返った黒い鬼人へと水を向けた。
黒い鬼人は千明の方へ歩み寄って居た分だけ…一歩、また一歩と洋平の方へ近づいて、
「はい、時間も限られていますし、早速にでも再開しましょう。」
そう言いながらも、二、三歩だけ洋平の方へと進んだだけで、歩みを止める黒い鬼人。その様子に、洋平は怪訝そうに尻尾を揺らして、
「んっ、どうした。てっきり、あんたの方から攻撃を仕掛けてくるんだとばかり思ってたんだけどな。…まさか、また『趣向』とやらを変える積りなのか。」
「えぇ、ようやく決着が付こうかという矢先に、勝手言って申し訳ないんですけど…僕には、どうしても貴方に聞かせたい話が…まだ、一つだけ残っているものですから…。」
洋平はそんな黒い鬼人の悪戯っぽい、そして、どこか薄気味悪い肌合いを払い抜ける様に、
「まぁ、好きにすればいいさ。俺としては、この『眼』の力をあんたとの闘いで確かめられさえすれば、どんな段取りでも構わないよ。」
と、右肩の鬼眼を示した。そして、
「それに今更、もう一話余計にあんたの話を聞いたとしても、苦にはならないだろうよ。…別に『趣向』を変えるまでも無い。大人しく聞いてやるから、話してくれていいぞ。」
…洋平としても…鬼眼には自信がある、だが…これ以上、黒い鬼人の口車に乗せられて、訳の解らない状況に引っ張り込まれるのは懲り懲り。
そして…もしかしたら、僅かにでも、黒い鬼人と真っ向勝負をしたいという心が残っていたのかも…。
そんな洋平の心中を知ってか知らずか…黒い鬼人は何やら愛想の良さそうな声で応え返す。
「いいえ、ここまで僕の話に耳を傾けて頂いた貴方に、さらに時間を割いて下さいとお願いするのは畏れ多い。ですから、こうしましょう…。」
黒い鬼人は『畏れ多い』などと大仰な台詞を吐いた事もすっかり忘れたかのように、右手を洋平の前に差し出すと…掛ってこい…とばかりに、指を動かして手招きする。
「貴方は好きな様に僕に攻撃を仕掛けてくると良い。僕は僕で、勝手に話をさせて頂きますから…この長く掛った『遣り取り』に決着を付ける『趣向』には、それが相応しいでしょう。」
「ほぉ…で、今度は、どんなことを企んでいるのやら…おっと、例によって、それは開けてみてのお楽しみだよな。」
「申し訳ありませんが、僕にはもう、貴方を楽しませて上げられる様な話のストックは無いんですよ。」
「だったら、あんたは俺にどんな事を話して聞かせる積りなんだよ…。」
洋平の問い掛ける声に、僅かな苛立ちが混じる。千明は少しだけ重たくなった目蓋を持ち上げながら、一心に二人の闘いの行く末を見守っていた。…そう、この場の誰しもが…夜が、眼下に広がる終幕へと吸い込まれ始めたのに気付いていたのだ…。
そんな言い様の無い焦燥感の中で、ただ一人…黒い鬼人だけが流れに逆らう様に、端然と朝へと立ち向かっている。
黒い鬼人が洋平の問いに答える。
「最後の話題は勿論…もし、加奈子さんが鬼人へと生まれ変わっていたなら…貴方は今頃どうしていたろうかということを…。」
「加奈子が鬼人だったら、俺がどうなって居たかだと…。何を言い出すかと思えば、それは…。」
言い掛けた洋平の膝がガクンッと折れて、身体が大きく揺れた。
洋平は鬼鎧の顔面を抑えて、紫鳶の瞳の炎をぐらつかせている。突発的に我が身を襲った脱力感と、眩暈に、呆然としている様にも見える。…そう言えば、健の鬼が洋平の内心に濃く入り混じっていた頃…加奈子の話をしている途中にも、何やら、正体の知れないショックを感じている様な素振りが有った…。
どうやら、土屋加奈子に関する話が、大野洋平にとって決定的に精神の平衡を失わせる…彼の内心に突き刺さり、その心臓を抉りだすほどの衝撃を与える凶器となる…。千明だけではなく、その事に洋平も身を以て気付かされたようだ。
そして千明は洋平が気付けなかったもう一つの事にも気付く。
(どうして、土屋さんの事があんなにもあの人喰いに深く突き刺さるのか…。それは、あいつの本能にまで食い込んでいく様な事実だからってだけじゃなくて…あいつは自分にとって都合の悪い事を…鬼人としての本性を…今までは、あの黒い鬼人の言葉から自分の内心の深い所を守るために、健さんや、土屋さんを精神の矢面に立たせて、自分は二人の影に隠れて直接心に触れられるのを避けていたんだわ。だけど、健さんの鬼の象徴である鬼眼が顕在化している今…弱い心を隠す覆いの一枚は剥がれた。遮るものの無い今なら、確実にあの人喰いの心を掻き乱せる…考えたわね…。)
…と、洋平の鬼鎧に宿る紫鳶の鬼が、ノイズの様な耳障りな音を立てて大きくぶれた。…倒れ込みこそしないものの、洋平は重心を失った様に、ふらふらと鎧われた身体を揺らしている…。
洋平を襲う変事に千明は心の中で頷いた。
(それもこれも…あの人喰いを『後悔』させる為か…まったく、とんだ命懸けの『お遊び』だわ。そして後は…そう、土屋加奈子さん次第ってことか…。)
この路地裏というルーレットの上、互いの命をかけ合った最後のゲームが回転を加速していく。…各々の命は等価値では無いのかもしれない…だが、不足など無い…己の命の最後の一滴までを絞りだし、かなぐり捨てる様に全てを賭け合ったのだ…不足など有ろうはずがない。
そして生きるべきを…勝者となるものを決めるのは、未だ洋平の内心と深く結び付いている…加奈子。黒い鬼人は、そんな加奈子と、健に、始めから己の全て賭けていた。まったく、真っ向勝負をする気は無いなどと言っておいて…ずいぶんと分の悪い賭けに出ていたものだ…。
そう考えれば考えるほどに、千明には黒い鬼人がこの闘いを『遊び』だと言った理由が今更ながら解る様な気がするのだ。
それは、彼の妙な几帳面さから…、
(あの人喰いがどう思おと、これはあいつと健さんたちの闘い。…その位置づけを自分が奪う様なことはしたくなかった…。)
それは、彼の…彼自身の『後悔』から…、
(貴方は…理由はどうあれ…健さんの死の切っ掛けになったことを心のどこかで悔やんでいた。…私と同じに…。だからせめて、自分の『命懸けの闘い』を『遊び』と言い張って、矮小化することで詫びているのだわ…真っ向勝負を望んでいた健さんの気持ちに答えられない事を…そんな健さんの気持ちを利用する卑劣さを…。)
それは彼の黒い鬼鎧を…内心の具現化を…同じく自分の内心である鬼膜によってすっぽりと包みこんでいるから感じられる…あるいは、
(私がそう思いたいから…私が彼にそう思っていて欲しいと願っているからなのかもしれない。だけど、私は…例えそうだったとしても…。)
千明は思うのだ。思えば思うほどに高揚感に身体が打ち震えるのだ。…黒い鬼人が己の命を健たちに賭けたのならば…、
(私も貴方に…貴方の命に賭けるわ。)
と、その先は千明の口を衝いて出る。
「そこの黒いの。もう私からは、絶対に、貴方を止める様な事は言わないわ。それに、ここからどんな事態になったとしても…それは私が全ての責任を負います。だから必ず、そいつを『後悔』をさせてっ。健さんと、土屋さんの無念の気持ちを、そいつに教えてやってっ。それが叶うまでは…今日の日は登らない。私に朝は来ないものと考えます。だから思う存分、そいつと語らってちょうだい。」
さざ波となって、千明の気持ちが、そして心情が、鬼膜を吹き抜けていった。そのさわやかな風に吹き飛ばされる様に、白銀の覆われていた視界が開けていくのは…千明の黒い鬼人への信頼の表れだろうか…。
心地よく流れる涼風のような千明の感情にすら、洋平は二日酔いの様な不快感を喉の奥から漏らす。黒い鬼人はそんな洋平に、
「あぁーあっ、これでお互いに完全に退路を断たれてしまいましたね。まさか…彼女のような深窓の令嬢に、太陽から顔を背けて頂く訳にはいかない。…お天道様に顔向けできない様な外道は、僕らだけで十分ですから…。そういう訳ですので、貴方には悪いんですけど、今朝のご来光は加奈子さんと一緒には見られない事だけは覚悟して下さいよ。」
「止めろっ。…加奈子の話はするな…。」
そう、洋平は苦しげに呻くように呟いた。その要求に対して黒い鬼人は、
「嫌です。」
と、その一片の迷いも感じさせない態度に…洋平は顔を抑えていた手を離して、黒い鬼人を見据える。
「どうしてもか…。」
「止めません。まぁ、内容に御不満の点があると言うのなら、相談に乗らなくはありませんよ。…例えば、こう言うのは…あのカラオケで、貴方が加奈子さんの肉体を溶かして出来たあの液体。実は、僕も御相伴にあずかって居るんですがね…しかし、あれは酷かった。臭いし、不味いし、とてもじゃないけど、恋人に行った所業とは…おっと…。」
話の途中で飛び掛かって来た洋平の背中を、黒い鬼人が馬跳びの要領で華麗に飛び越える。
俊足にて交差した二人は即座に、互いに振り返って、
「そうそう、その調子。それにしても…恋人の亡骸を自分であんな醜悪なものに作り替えておいて、それでも、彼女の死を冒涜するような言葉が許せませんか。勝手な人だなぁ…。いやぁ…それとも、怖いんですか…。」
「黙れ…。」
「おやぁ、図星のようですね。でも、僕としては貴方自身にその自覚が有ったことの方が驚きだな。よくぞここまで、弱い自分に眼を逸らして、自分を騙し続けることが出来ましたね。」
「黙れてと言っている…。」
「怖いんでしょ、彼女から逃げたと言う事実を突き付けられるのが…。彼女自身のことが…。」
「黙れぇっ。」
絶叫、そして箍の外れる様な音。ここまで洋平が使わなかった『流れ』が発動した。
爆発的な鬼の躍動に任せる様に、開いたフェイスマスクの奥から雄叫びを上げ、闇雲に突進していく洋平。あまりのスピードに、激しく前後に揺れ動く視野の世界。
迫りくる洋平に黒い鬼人は…、
「その気持ちはよく解りますよ。僕も心の弱さには一過言ありますから…。」
その声を巻き取るかのように、洋平は噛みつかんばかりの距離にまで黒い鬼人を追い詰めて…が、その刹那、洋平の攻撃より一足早く…黒い鬼人の強力な蹴りが洋平の腹部に突き刺さった。
襲いかかった時の速さそのままに、作業現場の二階部分に激突する洋平。…衝撃に、足場に詰まれていた建材が、轟音とともに地面へと落ちて…この場の崩壊の度合いを深めていく…。
黒い鬼人は、積み上がった建材の下から、粉塵を払い飛ばしながら起き上がった洋平に話しかけ続ける。
「『健さん』の鬼を右肩に追いやったせいか…どうやら、『虚抜き』に対応することが出来なくなっているみたいですね。こうなると、僕の口を塞ぐためには…あっ、塞ぐ口がありませんでしたっけ…なら、僕を黙らせたければ…。そして貴方の望みを叶えるには、もうその鬼眼に頼るしかなさそうだと言いたい訳なんですけど…しかし、今の様な咄嗟の場面で使えないとなると、当てには成りそうも無いですね。」
洋平は箍を締め直す様に、フェイスマスクを閉じて、
「舐めやがって…。」
と言いつつも、今の、黒い鬼人の一撃で頭に上った血が引いたようだ。そもそも、『流れ』の仕様で、一時的に鬼の活動が低調となっているのだから仕方が無い。
洋平は忠告に従って、黒い鬼人の次の行動を鬼眼によって見定めに掛った。
その瞬きすらない、遠慮の無い目線に気付いているのか…黒い鬼人は調子よく舌を滑らせて、
「そうそう、鬼人だって落着いて行動するのが一番ですよ。僕なんて、鬼人に生まれ変わった瞬間から、残り時間の少なさとの葛藤と、やり繰りに明け暮れる毎日でしたからね。鬼人として精神の安定を得るために、結果として人としての日常が犠牲になってしまいました。…貴方にとって、恋人がそうであったようにね。」
…洋平は黒い鬼人の意図を読み取る様に、黙して緑に輝く眼力を働かせ続けた。
ちなみに…と言うか…当り前の様に、洋平からの合いの手が得られなかったからと言って、黒い鬼人が話を止めるはずも無い。
「あらまっ、僕が話を止めないからって、貴方の方がだんまりですか。…単に、僕の日常と同じく、加奈子さんがあんまりな扱いを受けましたね…と、言っただけなので…別に、貴方にとっての加奈子さんの命と、僕の日常が同等の価値が有るなどと言った積りないんですよ。だから、そんなにむくれないで下さい。それに…。」
と、黒い鬼人は洋平に聞かせる様に、言葉に間を設けて…、
「言い返さないとまるで…貴方には、彼女を犠牲にした自覚が無いみたいじゃないですか。」
洋平はズキズキと頭蓋を苛む様なうずきに耐えかねて、遂に、
「喧しい。さっきから聞いてれば…あんたの言葉をがなる度に、頭の中がこんがらがって訳が解らなくなる。いったい、何がどうなっているんだ…加奈子…お前、俺にどうしろっていうんだよ…。」
と、喚きながら、頭痛を抑え込もうとでも言うのか…ガンガンと自分の頭を殴りつけ始めた。
黒い鬼人はあくまでも穏やかに、微笑みでも浮かべているかのように優しげに、洋平の当惑に答えを投げ掛けるのだ…。
「貴方は生きたいが為に加奈子さんに手を掛け、そして…彼女の死を辱めた。そんな貴方が今更、自分自身を痛めつけた所でその苦痛を和らげることは出来ませんよ。何しろその痛みは…貴方がまだ加奈子さんに縋り付いているという証なのですから…。」
「黙れよ…どうしても黙らないなら…。」
頭痛を堪えて身構える洋平に、黒い鬼人が、
「そうですよ。楽に成りたいならごちゃごちゃ考えずに、眼先に転がっている手っ取り早い解決法を選べば良かったんですよ。…勿体ぶらずにね。」
洋平は黒い鬼人の言い草に、痺れた舌で溜息を漏らす。
「たっく…今度はどんな謎かけだよ…。」
黒い鬼人は小さく笑って、事も無げに応える。
「なぁに、簡単な話ですよ。…そう、簡単な。詰まりは、僕を黙らせたければ殺すしか無い…それだけのことです。」
その一言が…洋平の眼に映るあらゆるものを背景の外に押しやらせて、黒い鬼人の命こそを標的として捉えさせた。
ギラギラと、紫鳶の瞳を輝かせた心底からの殺意。黒い鬼人は…やっとその気に成ったのか…と短く息を漏らす。…千明にももう、何の迷いも、躊躇いも無い…そう、自分たちのやっていること、やろうとしていることを思えば、これで良いのだ…。
こうやって人の世から外れてしか生きられない、鬼人の夜は更けていくのだから…。




