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第一話 その一

まずは、梟小路(ふくろうこうじ)の小説にお目を止めて下さって、ありがとうございます。

 願わくは、この作品が皆さんの余暇の馴染みと成ります様に…。そう祈りつつ、謝辞の結びと代えさせて頂きます。

 それでは、どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。…ただでさえ、長い話ですから…。

[1] 

 遠雷のように響く重低音が()きっ腹に響く…。

 とあるカラオケ店の一室。土屋加奈子(つちやかなこ)は苛立たしげに、しかしどこか安堵感を匂わせながら、手の中で震える携帯電話の電源ボタンを押した。…今の加奈子には、この行為が最後の砦となっている。…それには無論、それ相応の理由がある…。

 …加奈子はこの日の昼間から何度となく繰り返した仕草で、目の前のソファーに腰掛けた男と相対する。

 曰く、折り畳み式の携帯電話を開いたまま、一時もそれを離さない右手を膝元に下ろし、そして、対面する如何にも今風な風貌の男を睨みつける。その度に、目の前の男はワザと怯んだ様に肩を竦めて見せた。おまけに、困った様な…だが、明らかに皮肉めいた笑みを浮かべて…。

 だからと言って、この男に同情の余地は無い。何せこの男、加奈子と過ごす最後の時間に成るかもしれないこの一時に際して、余りと言えば余りに性質の悪い要求を彼女に突き付けたのだから…。

 そしてそれが、加奈子をかくも苦しめ、携帯電話を握る右手を汗ばませ、キリキリと彼女のからっぽの胃袋を苛んでいるのだ。

 顔に得体の知れない喜色を浮かべて、男が加奈子に語りかける。

 「それだけ何度も着信あんだから、一回くらい出てやったら…電話に…。あぁ、俺が邪魔なら、席外すぞ。」

 そのからかう様な口調。それと、ジーンズのポケットの中の財布からベルトに伸びる、細い鎖のアクセサリーをジャラ着かせる指…何もかもが、今の加奈子の神経に障る。

 加奈子は思う。考えてみれば…付き合い始めた頃から、この男のこういう落着きの無い所がどうしても好きにはなれなかったと…そう、二人は交際しているのだ…少なくとも、あとほんの少し間は…。

 テーブルの上で所在なさそうにしているのは、手つかずの、オレンジジュースを満々と(たた)えたピッチャー。その麗しい姿を横目に、加奈子はジャージのズボンで、少し曇った携帯電話の画面を擦る。

「今、そんな気に成れないから。だいたい、後になってから、あんたが見てない所で私が何か食べた…なんて難癖付けられたくないしね。どの道、あんたと同じ空気を吸ってなきゃならないのも、残りはもう二十分たらずなんだから…あんたも黙って、そこに座ってなさいよ。」

 加奈子がそう、心底煩わしげに答えた。

 男は顔面に張り付いた笑顔の…その意味合いと同じような、可笑しそうな、見下したような語調で、

「『あんた、あんた』って…酷ぇなぁ。加奈子の言い分の裏を返せば、あと二十分は俺は加奈子の彼氏何だからさぁ。もうちょっと言い様ってもんがあるんじゃないか。もう随分昔のことに成ったけど、俺が告ったときにOKしてくれたのは、間違い無くお前だっただろ。」

 吐き捨てる様な鼻息を漏らして視線を逸らす加奈子を、蛇みたいな目付きで舐める様に見つめて…男はなおも舌を動かし続ける。

 「それとな、俺の見てない所でお前が何か食べてなかったかって、後で難癖付けられたくないとか言ってたけど…。それだったら今日、何度も、トイレだって言ってこの部屋から出てる時間についても遡って調べなきゃならないことになるよな。そんなの面倒だし、別に気にしなくても良いって。」

 そう言って、下卑た笑い声を上げながら、男は踏ん反り返る様に深々とシートにもたれ掛った。

 加奈子は視界の隅にある男の一面を盗み見ながら、悔しげに下唇を噛む。そして思うのだ。自分は何て無力な存在なのだと、自分は何て男を見る目が無かったのだろうと…。自然、携帯電話を握る手に力が籠る…。

 始めはこんな男では無かった。だから自分だって、告白されて、それを受け入れたんだと…今更埒もないことだと解りながらも、加奈子は何度もそう考えてしまう。そして考える度に、その先を考えることを()められずにここに至った。

 そして加奈子は今回も、せめてこれで最後にしようと堅く心に誓いながら、『二人』のことを振りかえる。

 付き合った当初は…それは、多少悪ぶったところはあったものの…でも、それが二人の接点になったくらいだから、加奈子はその事を気にしては居なかった。…少なくとも、今の様な人情味の薄いタイプでは無かったし…。

 だから二人は、そこそこ、上手くやってこれたと思っていた…。

 そんな中で、今日に至った理由は、別れることになった訳は…やはり、自分が一番困っていたときに、『男』が手を差し伸べてくれなかったことだろうか…。

 加奈子は、携帯電話の画面で、移り変わる時刻表示をぼんやり見つめながら考えを走らせる。

 …数ヶ月前、加奈子には周りの人間と疎遠になった、そんな風に感じられた時期があった。まるで、皆に避けられている様な感覚。そんな不安の中で、最も顕著に自分を避けたのは…誰あろう彼氏である、この『男』だった…。

 今から思えば、そんな風に感じていたことも、『男』が救いに成らなかったと憤ったことも全て自分の思い込みだったのかも知れないとも思う。…いや、それでも、そうとは言い捨てられない部分はあるのだ…。

 一つは、他人から見れば些細なことかもしれない…とは言え、自分にとっては間違いなく苦境であったあの時期を乗り越えられたのは、自分自身の努力と、友達の助けがあったればこそ…。そのことは紛れもない事実だと、加奈子が信じているから。

 そしてもう一つは、自分を避けていたくせに、突然、何事も無かった様に、それどころか一層馴れ馴れしく自分に接する様に成った『男』の態度…あの時から、加奈子にはどこか『男』が空恐ろしく感じられて…そして、その直感は奇しくも当たっていたのだと加奈子は思い知らされることに成る。…別れを自分が切り出したときに、それを受け入れる代わりにと、あのような…明らかに嫌がらせとしか加奈子には取れない条件を、彼が提示したことによって…。

 全ては『あの時』から、今日…正確には明日の零時に、自分とこの男が別れるその瞬間まで続いていたのだ…。そんな風に考える加奈子の目には、後悔からか、あるいは虚脱感からか、薄ら涙が浮かぶ。

 (我ながら馬鹿馬鹿しいな…。)

 そう、自嘲的な笑みに唇を歪め…そしてそんな考えに浸れば浸る程、加奈子は携帯の向こうに居る友人たちの事を頼もしく、そして有り難く思った。

 加奈子は『男』に『条件』を突き付けられたとき、身の危険を感じていた。…だから、友人達と申し合わせて、このカラオケ店に来ることを決めていたのだ。

 まず、加奈子と『男』が店に入る。それから、その後に続くように、密かに加奈子の友人三人もカラオケ店に入る。そして一度(ひとたび)、加奈子の身に危険が及ぼうものなら、女三人がすかさずこの部屋に飛び込んで来て、たちどころにこの男を袋叩きに…まぁ、そこまで出来なくても、やいのやいのと責め立てて、退散させようと…加奈子たちの間では、そういう段取りになっている。

 とりあえず、危なそうになったら加奈子は大声で助けを呼ぶ。

 しかし、もしかしたら声を張り上げられないような状況もあるかも知らない。その場合、定時連絡として、十五分置きに友人たちから携帯電話に着信があり、しばらくたっても加奈子が、彼女の携帯電話の呼び出しの状態を切断しなかった場合でも、三人は踏み込んで来る。そして、最終的に何事も無ければ、加奈子は晴れて解放されて友人たちのところに合流できるという段取りだ。

 …そこまで考えて、ふと、加奈子の頭に打ち合わせ中に乗り気な態度を示していた友人たちの顔が思い浮かぶ。それが可笑しくて、加奈子はこの部屋に入ってから初めて柔らかい笑みを漏らす。

 「時間が来るのが待ち遠しくて堪らないって感じだな。」

 加奈子の安息を聞き咎めた様に、男が加奈子の思索に口を挟む。対して、加奈子は、

「そうよ。まさか文句なんて無いんでしょ。」

と、どこか勝ち誇った様に返した。

 隣の部屋から聞こえる重低音と、やや調子っ外れの歌声が、またもや空きっ腹に響く。それでも、解放感に飢えた加奈子にとっては少しも苦にはならない。加えて、隣にいるのが自分のことを守ろうと集まってくれた友人たちならなおのことである。

 (まっ、夏芽(なつめ)の歌声はいただけないけどね。)

 加奈子は再び、満足そうに友人たちの顔を思い浮かべながら、身を震わせる携帯電話の画面を見た。

 …時刻は十一時四十五分…思えば、これがいけなかったのかも知れない…加奈子は時間が来るまで頑なに口を(つぐ)んでいれば良かったのだ。そうすれば、この若く、危険に満ちた『男』に会話の端緒(はしお)を掴ませずに済んだだろう。そして或いは…こんな詰まらないところで…こんな不本意な状況で…人生を終えることにはならなかったのかも知れない。…例え、加奈子が若くして死を迎えるという、その結末に変わりがなかったとしても…。

 男が口を開く。

 「なぁ、せっかくこんなカラオケに来たんだし、一曲くらい歌わないか。」

 男の口調には険は無い。だが、加奈子はそれがどうしたのだと言わんばかりに、

「アンタが歌いたいなら、好きにするといいよ。私は私の思う通りに時間を潰させてもらうから。…そんなことより、この部屋を出るまでもう十分少ししかないんだし、そろそろ決めておいた方が良いんじゃない。この部屋の使用料を私とあんたのどっちが持つか…。もちろん、最後くらいはあんたが奢ってくれるんでしょ。」

 嘲笑う様な、なじる様な加奈子の冷たい言葉を浴びせかけられて…しかし男の態度は、加奈子の予想とは…あるいは願望と異なって、意外なほど冷静で、

「んっ、あぁ、奢ってやるよ。」

 気前が良いと言うよりは、そんなことは問題に成らないとでも言いたげな男の態度。

 そんな男の様子に加奈子は驚きを隠せない。何しろ、二人は昼頃からずっとこの部屋に陣取っている訳だから、きっと掛った費用は少なくは無い額のはずなのだ。

 それなのに、そのはずなのに…そう頭の中で『当り前』を反芻し、改めて男の顔色を確認するも…やはり、男のこの態度は…。

 …重ねて言うが、加奈子はいっそのこと最後まで沈黙で押し切るべきだったのだ。それが出来なくとも、今の様な、加奈子にとっては未知の、そして不自然な男の態度には不安を覚えるべきだった。彼女にはそれが出来たはずだ。事実、加奈子はこのような不安感をもとに、男に非人情的なところを見出したからこそ、今日のような状況に至ったのだから…

 …だが、そうは彼女の良いようには運んでくれないようだ。

 おそらく加奈子は、料金の話が出たら男が慌てふためいて、自分に支払いを全て押し付けようとするだろうとでも考えていたのだろう。確かに、カラオケに誘ったのは加奈子の方ではあるし、それに加奈子の知っている『以前の男』は、とてもではないが気前の良い方では無かったから…だから、加奈子としては決別する間際に、男の思いっきり無様な姿を見てやろうと、そんな意地の悪い…ロスタイム終了直前に余興の一つでも楽しもうと言う様な腹積もりだったのだろうが…当ては外れて、加奈子の腹は無意味な空腹のまま…少なくとも、加奈子にとっては無意味な…。

 そんな訳で、如何にも面白くなさそうに携帯電話の時計に目を戻した加奈子は…聞き逃してしまった。了承の言葉の後に、男がぽつりと零した…、

「まぁ、そんな必要はないだろうけれどな…。」

と言う、小さな舞台台詞を…。

 午前零時まで、あと五分。

 「なぁ、俺たち、本当に解れないとだめなのかな。」

 ここにきて、初めて聞かされた男の湿っぽい台詞…。そのどこか仄暗い調子に加奈子が敏感に反応する。

 「はぁっ、当り前でしょ。第一、あんな条件出しておいて…馬鹿じゃないの、正気とは思えないよ。何、二日間、水以外口にしなかったら別れてやるって…本当、何も解ってないよね。どうせ、私が音を上げると思ったんでしょ。でも、お生憎さま。私、そこまでしても、あんたとこれ以上、一秒だって一緒には居たくは無いの。それも…こんなことを何度も考える煩わしさから、あと数分で解放されると思うと、清々するね。」

 加奈子がここぞとばかりに捲し立て、責め立て、舌鋒鋭く男を打ち(さいな)む。自然、身体は立ち向かう様に前のめりへと傾いていく。

 今や加奈子の空腹感は頂点に達し、この次の瞬間にはゴミ屑の様に捨て去られる『哀れな男』に向けられた幾ばくかの嗜虐心が、黒い満足感となって加奈子を満たしている。

 そんな朦朧とする意識の中で、加奈子は最後の言葉を、そして最後の瞬間を迎える。

 男は渇いた溜息を吐きだしてから、

「どうしても、駄目なのか。」

その言葉に被せる様に加奈子は、

「言ってんでしょ、当り前だっ…。」

 その言葉は言い終わりを、手を付けられることの無かったピッチャーの中身のぶちまけられる音と、部屋中に広がった柑橘類の芳しい香が打ち消した。

 加奈子自身にとっても、それは意外なことだったのだろう。自分の唇を、開けることも、閉めることも出来なくした原因を食い入る様に見る瞳は白黒している。

 それは男の背後…ソファーと男の腰の辺りの、僅かな隙間から加奈子の方へと伸びている。

 その伸びきった先で、『それ』は、『それ』の先端についた…例えるなら、クレーンゲームのアーム部分の様なもので、がっちりと加奈子の腹部を掴んでいる。

 加奈子は朦朧どころか、呆然として目付きで、息をのんだ…。

 (尻尾…。)

 なぜ彼女がそれを『尻尾』だと思ったのか…それは到底計り知れない。

 何しろ、彼女の直感では『尻尾』であるそれの外観は、とても生物由来のものとは思えないものだからだ。

 一見すると、紫に近い色の金属の様にも見える『それ』…だが、加奈子の視点の如くに間近でそれを眺めたならば気付くことに成る。その『尻尾』の表面から浅い部分まではガラス細工の様に澄んでおり、紫は内部に沈着する様に、そして時折、透明な全体を侵食するように揺らめいて存在している。

 そう、例えるなら…まるで、内に濁りを残した氷…そんな風に感じられる。

 …その、一切の体温を感じさせないアームが、力無く身を預ける加奈子を一層強く締めあげた。…加奈子には最早、抗う気力の湧き上がるべき理由の、何物も残ってはいないと言うのに…。

 男は小刻みに震える加奈子の足元の具合を堪能すると、満足そうにほくそ笑んで…、

「本当に残念だよ…結構、好きだったんだけどなぁ、お前のこと。」

 男が暗く、得意そうに言い終わると同時に、アームの付け根の部分から…おそらくは毒針のようなものが加奈子の腹腔へと刺し入れられる…。

 不幸なことに、加奈子自身にもその異物の侵入の事実は感得された…。

 痛みは無い、しかし…麻酔を打たれ、身体に刃を入れられた様な…鈍く、引っ張られる様な不快感が、下腹部の辺りから何時までも消えない…。そして何よりも…針から染み出す何かと混じり合い、じんわりと醗酵する様に熱を持つ自らの体内…。

 (私…溶かされてるんだ…。)

 加奈子は、衣擦れの音を立てて背もたれを擦りながら、静かにソファーに横に成った。

 …それにしても、彼女の直感には驚かされる…。彼女はきっと、彼女自身が思うよりもずっと深く、自身の現状を正確に認識しているのだろう…それこそ、残酷なほどに…。

 死につつある。それも、寿命などで得る実感などとは比べ物に成らないほど、濃厚なそれに侵された加奈子の絶望。…寒々しい恐怖に涙を流そうにも、溶け行く内側に粗方水分を取られているのか…ただただ、鋭く涙腺が痛むだけ…。

 へらへらと笑う男の顔を、ただ瞼を閉じるのも億劫だという理由で眺め続けなくてはならない…それどころか、スポンジの様に乾いた唇では息をすることでさえ難儀だ…これならもう、いっその事大人しく死んでしまおうか…丁度、そんな捨て鉢な気持ちに支配されたときだった…携帯電話が午前零時を告げるべく震えだしたのは…。

 このとき、激しく手の中でもがく携帯電話を、加奈子が床に取り落とさなかったことこそ奇跡と呼ぶべきだろう。そして加奈子は…最後にもう一度だけ、三人の女友達の顔を思い浮かべる…。

 (今、ここに来たら…せめて、十五分だけでも…。)

 どろどろに腐食していく思考を強固な意志で掻きわけて、加奈子は最後の気力を振り絞り、右手の親指を食い込ませるかの様に…強く、強く、携帯電話の電源ボタンを押して…自らの意思で、外界との繋がりを…断った…。

 加奈子の腹部から聞こえる、本人の生涯でも聞いたことの無いゴボゴボという音。その、水槽のポンプの様な無味乾燥なリズムを引き裂く様に聞こえるのは…床を打つ、手から滑り落ちた携帯電話の高い音。

 そうして…加奈子は、自分の人生における最後の仕事をやり終えた、満ち足りた気持ちに浸りながら…薄暗い部屋の中に点々と灯る暖かなライトの光に吸い込まれる様に…深い眠りへとその身を委ねた…。

[2]

 少年は蛇口から流れ出る水を両手で掬い取る。

 両手で象った器の中の水面は…洗面台から、正面の壁を覆う大きな鏡を伝って…少年の目線よりやや上に取り付けられた、やけに大仰(おおぎょう)な照明の、(きら)びやかな光を吸い込んでキラキラと輝いている。

 少年は、人混みから解放されたものならば誰もが感じるであろう脱力感を、水底に映るコンパクトなシャンデリアを覗きこみながら、とっぷりと堪能していた。

 …っと、見れば、聞こえは良い…しかし、賢明な読者諸賢ならばお気付きのこととは思われますが…要するに、この少年はぼんやりしていたのである。

 ところで…少年。彼のその小柄な体格から一先ず、彼のことをそう呼び表したものの…その当て推量とて、実は怪しいものなのだ。

 この三人が同時に使う事の出来る洗面台で、彼は三個あるシンクの内の一番左端を占めている。

 如何にも手の掛った公共施設らしい、清潔な陶器の器。そのさらに左側。そこに…あからさまに周りに遠慮する様に、学生鞄と、小ぶりなスポーツバッグが、左側の壁に押し付けられるかのように立てかけられている…今、この洗面台を使用しているのは彼一人だと言うのに…。

 …話を、彼が何故、少年ではないかもしれないかに戻す。

 理由は簡単。一つは、学生鞄が、この近くにある『穂塚(ほづか)高等学校』の指定のものであり、しかも、ずいぶんと使い込まれている様に見えること…まぁ、お下がりという可能性も否定は出来ませんが…。

 それと、もう一つ。

 こちらもお下がりという場合も有るだろうが、スポーツバッグの中にかなり雑に押し込まれている『穂塚』指定の学生服の上下…ブレザーにしろ、ズボンにしろ、まさに学生の本分の通り学業に慢心したことを示す様に、擦れるべきところには擦れが、くすむべきところにはくすみが見られる。

 …型どおりの美辞麗句を並べるのはこれ位にしておいて…。とにかく、少なくとも彼は高校生。加えて、新入生ということはまず無いだろう。

 そういう訳で、とりあえずの事に彼のことは『青年』として置きたいと思う。…しかし…。

 そう、しかしなのだ…今の彼の姿を見ただけで…掛け値なしの『青年』だ…っと、認識してくれる卓見の持ち主は、一体どれほどいるのだろうか…。

 スポーツバックの口からブレザーの袖がはみ出ている事実からも解る通り、青年は今、私服を着用しているのだが…小柄な背格好からして、かなりと言うか…その…高校生と言い張るには、控えめ見ても幼い様に見える…。

 だらしなく着ているクリーム色の厚手のパーカーと、カーキ色のスウェットパンツの上下と言い…益々、童顔を助長する。

 …しかしながら、青年自身の悩みとこれらは、実は無関係である。では、青年の目下の懸念はと言うと…。

 いつの間にか、青年の隣に別の『客』が現れた。

 たった、それだけだ。確かに、青年はぼやっとして突っ立っていた訳だから、今こうして隣で手を洗っている男性の到来に気付かず、イリュージョンを目の前で見せられた程度には驚いても可笑しくは無いかもしれない。

 しかし、青年の反応は『驚いた』というには少々、度が過ぎていたかもしれない。

 青年の手のひらの上に溜められていた水は、てんでバラバラに、指の隙間という隙間から逃げ出した。

 心臓の鼓動も、呼吸も、思い出したかのようにギアを上げて、甚だバツの悪いエンジン音を響かせる。

 だが、究極的にはお隣さんは赤の他人なのだ。はっきり言って、こんな人生の内で二度と会うかも解らない相手にかいた恥などは便所のチリ紙のごとく…まさに今、青年が監禁でもされているような気分になっているこの空間が、まさにトイレであるころからしても…見渡せば山と積まれたトイレットペーパと同じように、水に流してしまえば良いだけの話なのだ。

 …っと、不毛なことを書き連ねるまでも無く。そんなことは青年も先刻承知のことだろう。

 まぁ、頭で解っていることを、理屈の通りこなして生きていけるのであれば、誰も苦労はしない。人間とは不合理なものだ…。

 そうこうしている間に…よっぽど恥ずかしかったのだろう。青年は、パーカーの裾の辺りで羞恥に震える手を拭うと、学生鞄とスポーツバッグを抱きかかえるように引っ掴んで、トイレを後にする。

 そうして、溜息を吐きながらも、至極合理的な感想として青年は思うのだ…。

(情けない…。)

と…。 

 ようやく晒し者状態から解放された途端に、今度は打って変わって、青年はキョロキョロと忙しなく辺りを見回し始めた。

 まず始めに目に付くのは…やはり目の前を行き交う人の列だろうか。

 どうやら、ここは駅。詰まり、青年は先程まで、駅構内の一角にあるトイレに居たということになる。

 トイレの入り口付近には、青年のお目当ての『もの』は無かったのだろう。青年が今度は、目を凝らして人波の間を、探る様に、潜る様に見つめる。…そうしている間も、まだ、呼吸は譜面通りに進んでくれてはいないようだ…。

 視界に大きく映る目の細かい、格子状のタイルの床。その上を何の懸念も無さそうに進む人の流れ。…少なくとも、青年の目にはそう映っている…。

 カツンカツンッと床を踏みならす無数の高い音は、それぞれ演奏する人物によって、靴も、歩調も、行き先さえも違うと言うのに、意外なほど調和が取れて聞こえるから不思議だ。

 青年もその無機質で、取り繕わないリズムに誘われる様に、おっかなびっくりその流れの中に分け入って行く。

 波に揺れる船の様に、右へ左へとフラフラと進みながらも…どうにかこうにか、野太い支柱の袂に落ち着いて…再度溜息を一つ。

 支柱に寄り掛かり、視野の内側で近づいたり遠ざかったりする人の群れを眺めている内に…ずいぶん掛ったが、青年に心の平穏が戻ったようだ。また、トイレのときにもそうだったように、青年はぼんやりと虚空を眺め始めた。

 …青年のこうした様子をみていると、実際、彼に対する度胸が無いという(そし)りは免れ得ぬかも知らない…が、それだからと言って、挙動不審だとか、対人恐怖症であるなどのレッテルを張るには当たらない様にも感じられる。

 この青年の精神の不均衡状態にはもっと、青年自身の内心に根差した様な、秘められた何かが有るのかもしれない。…まっ、そうだと言っても、人あしらいが最悪に下手だという事には変わりは無いのだが…。

 抱えていたバッグのずり下がる感触に揺り起こされて、青年もなんとか正気に戻ってくれたようだ。

 青年は、絡まる様にパーカーの裾がたくし上がるのも気にせずに、無造作にバッグを引き上げた。

 さて、次の青年の逃げ場所…もとい、行き先だが…青年から向かって左手では、唇の周りを夕陽と濃い影にくっきりと縁取られた駅の出口が、絶え間なく人々を吐きだしている。

 一方、出口とは反対に位置する右手では、自動改札に詰め掛けた乗客たちが、数珠繋ぎになって複雑なうねりを織りなしている。…だいたい、主要な人の流れで言うと、この二本となる訳だが…。青年はそのいずれにも従わずに、当り前の様な顔でペタペタと靴音をさせながら、一歩、二歩と、正面へと歩み出る。 …青年にはまだ、この駅でやることが有るのだろうか…。

 青年が歩み寄った先にあるのは、どうやらコンビニエンスストアのようだ。と言っても、規模で言えば、コンビニと言うよりも駅中の売店に毛の生えたようなものだと思って頂い事足りる。

 店側でも、商品の陳列スペースの捻出にはずいぶん苦労しているのだろう。食料品の冷蔵スペースと、旅のお土産コーナーなどに押し出される形で、雑誌や、書籍の類は、店外にはみ出ている白い塗装の禿げ掛けた金属製のマガジンラックに、表紙を強調する様に並べられていた。

 いかがわしいとか、怪しげとかの接頭語の似合いそうな、如何にも駅売りだと言わんばかり雑誌たち。青年は数ある雑誌の中から、物好きに…しかし、駅で手に取る読み物としては実は正解と言えるかもしれない…ある雑誌たちの前に進み出た。

 抱えていた荷物を投げ出す様に地べた置いて…そんな雑誌たちの中でも特に眉唾そうな一冊を、ぎこちない動きで取り上げる。…逃げ場所を求めてここに流れ着いた青年にとっては、これで上出来だ…。

 青年が読み飛ばす様にペラペラと捲る項には、これと言える様な、興味深い内容は記されてはいない。青年も…やっぱり、それほど楽しんではおらず。事実、トイレからここまで、そして雑誌を読んでいる今の今まで、クスリッともしてはいない。

 それでも青年は、よっぽど暇を持て余しているのだろう。表情の乏しい顔で、詰まらなそうに斜め読みを続けている。…いや、そうかと思えば、(にわ)かに青年の項を進めるペースが緩やかになっていく。

 文章に注がれる眼差しも強さを増したようにも感じられる…微かにではあるものの…。

 それにしても、青年は一体どうしてその文面に目を留めたのだろうか。

 一見すると、そこには…さっきまで青年が、恰も、小学生が美術館の展示スペースを駆け抜けるかのような軽快さで捲っていた項と、内容の点でもそれ程の違いは無い様に見えるのだが…。

 だが、もう少し詳しく、青年が読みふけっている中身について述べておこう。

 とは言っても、それは、それ程には珍奇な話でも無いのだ。

 簡単に言ってしまえば、所謂、都市伝説とか、オカルトとかいう類のものを誇張し…少なくとも、誠実とは言えない程度の脚色を加えて…その存在を肯定的に読者に伝えている。そういう、程度の差はあるものの、誰しもがありきたりだと感じる話なのである。

 …読者の皆さんはどうだろうか…。

 オカルトや、伝説の類は好きだろうか。それとも、嫌いではないけど、苦手としているなんてことも…。

 それでも、好き嫌いという方向性の違いは問わずに、誰にでも一致する見解があるのではないかと著者は思う。

 つまりそれは点巷に流布された『話』の中にも、大本となる様な、根源と言える様なものが存在すると言う事。そして、それに相応しい『もの』を三つ上げろと促がされたならば、皆、同じ三つの『話』を挙げるのではないでしょうか。

 具体的には、まず一つ目として、幽霊、霊魂などの死後の世界に関する『話』。

 二つ目は、宇宙人や、巨大生物など、未確認の生態に関する『話』。

 そして、最後には、前述の二つの『話』に劣らず、世に広く知られている…飽くことなく、かつ根強く、古くからその存在を疑い、あるいは信じられてきた…キミ。

 そう…『鬼魅(きみ)の話』ではないだろうか…。

 突如、押さえつける様に強く右肩を掴まれて、青年のノミの心臓が跳ね上がる。

 その加えられた力に抵抗する様に、バネ細工の如く青年の背筋は伸びて…強張った両の親指からは雑誌が下へと滑り落ちた。

 「…ちょっと…そんなに驚かないでよ。こっちまでビックリするじゃない…。」

 青年を硬直させた手の主は、その形の良い指先を青年の肩からスッと離して、呆れたように、そしてそんな自分の声に釣り込まれて安堵したように、青年に語りかける。…気のせいか、少し息が荒い様な…。

 青年は、ドクンドクンッと身体の中を這い上がってくる音に耳まで真っ赤にしながらも、何とか回れ右して、

「あっ、あぁ…。」

と、それだけ答えるのが精一杯…。

 そんな視線の定まらない青年の態度にも、目前の『女性』は『慣れっこだ。』と言いたげに小さな吐息を漏らす。それから、床に落ちた雑誌を軽々と…あくまで、青年の雑誌の扱いと比べればだが…とにかく、気安く取り上げると、二、三度、埃を払い落す様に叩いて、

「ところでさぁ。私、トイレの前で待って居てって言った様ね。確かに。それがどうして、こたちゃんはこんな所に居るのかな。」

 女性はけれん味たっぷりに青年に尋ねながら、床との衝突で多少変形した雑誌を、何事も無かったかのようにマガジンラックへと戻した。…この娘、なかなかに出来そうだ…。

 そんな彼女のじとっとした目線に、青年が堪えられるはずも無い。…逃げる様に瞳を、首を、身体全体を、その追求をかわすべくじわじわと逸らしていく。

 「ねぇ、こたちゃん。私、こたちゃんを探すのに散々走り回ることになったんだけどなぁ。」

 しかし、女性が追求の手を緩めることは無い。

 …にしても、女性の息遣いが荒かった理由。そして、青年が探していた『もの』…いや、待ち人は…どうやら『そう』いう事だったようだ。

 それはそれとして…どうもちょっとずつ、周りの通行人達の好奇の視線を集め始めたようだ。…が、そんなことはお構いなしに、青年に対する、覗きこむ様な女性の追跡は続き…、

 「ねぇ、確かに、無理に付き合わせたのは、私が悪かったけど…もし、こたちゃんが、どうしても気が進まないなら、私一人で…。」

「いっ、いや…。」

 女性の言葉を遮る様に青年が口を挟む。…いや、口を挟もうという程の考えがあって、声を出したのかは、青年本人にもあやふやな様だ。

 それでも青年は、数秒…呼吸を整えてから、ゆっくりした口調で続ける。

「あ、あの…な。勝手なことしたのは、俺が悪かったよ…。ここまで来たんだし、俺も手伝うから…。」

と、途切れ途切れに女性に応えてみせた。

 「うん、ありがとうね。それと…私、もしかしたら、ちょっとからかう様な積りで、こたちゃんにキツイこと言ったかもしれない…私の方こそ、ごめんね。駄目だね、すぐ調子に乗っちゃって。…えっと、そうだ、荷物だけど。お互い、ずいぶんとかさ張ったことだし、駅のロッカーに預けちゃおうか。」

 女性は実に人間らしく、多彩な表情を青年に見せてくれる。青年はそんな女性のことをどう思っているのか…ひとまず、

「あぁ…。」

と、いったい、何に対する返事なのかすらも曖昧な声を漏らして、

「荷物は、俺が持つから。」

 そうぶっきら棒に言い出すと、青年は女性の方にほとんど目を向けずに、四つに増えた荷物を両脇に抱えると、危なっかしい足取りで元来た道を歩み始める。

 「うん、ありがとう、こたちゃん。」

 ペンギンの様によたよたと歩く青年の背中に、さわやかな声を掛ける女性。

 しばらくの間、そのまま青年の姿を見詰めてから、

 (本当、躁鬱の落差が激しいんだから…。まっ、いつかの時みたいに理路整然と答えられたとしたら、私の方が困っちゃうんだけどね。)

 女性はそんな自分の思索に笑みを浮かべつつ、まだ幾らも離れていない青年へと、軽やかに歩み寄っていく。

 …それにしても、青年も…いやいや、『こたちゃん』もなかなかに隅に置けないな。

 まさか、こんな魅力的といって差し障り無さそうな『女性』に頼られる様な人物だったとは…正直、著者は青年の事を侮っていました…。

 女性は、青年と同じく私服で…が、青年とは対照的とも言える様な…襟元から胸元に掛けて、まるで古代エジプトの王侯貴族がしていた様な、エキゾチックなネックレスを思わせる模様の編み込まれたニットワンピースを、青年よりも明らかに長身の、整ったラインで着流している姿は…そう、ちょっと周りの耳目を集める位には垢ぬけていると言えるだろう。

 …そうそう、背丈の話が出たので、次いでの事に二人のおおよその身長の事に触れておく。

 まず女性の身長は、ロッカーの高さなどから推量するに、おおよそ165センチメートルは下らないだろうか。

 そして、その隣で、二段に重なったロッカーに、荷物を積めるのに四苦八苦している青年の方はというと…彼女の身長から、少なくとも5センチメートルは低い。…そのはずである…。

 遂に、青年の無様な姿を見かねて、女性が青年の背に『覆いかぶさる』様にして上段のロッカーの中へと荷物を押し込んだ。

 青年は一瞬、あっけにとられた様に口を開けて、今しも閉じられるロッカーの扉を見つめていたが…すぐに、すごすごと女性の後ろに回って、ロッカーの鍵を引き抜く姿を見守り始めた。

 (情けない…。)

 またしても、青年は心の中は、戒めとも、諦めとも付かない言葉に埋め尽くされる。…その合理性を今は問うまい…。

 そんな青年の葛藤を知ってか知らずか。女性は腰に手を当てて、ちょっとしたポーズをとると、

「それじゃあ、行こうか。」

 そう言うと、女性は指に摘まんだ鍵の切っ先で出口の方を指示して見せた。

 それに対して、青年は無言。…それは、乗り気じゃないのは、十二分に存じておりますが…その態度はどうかと…。

 女性だって、いい加減、面倒くさそうに口を尖らせる。

 「ねぇ、こたちゃん。本当に解ってんだよね。今から、私たちが何しに何処へ行くのか。」

青年は女性と極力視線を合わせないように、頭を掻いてみせながら、

「解ってるよ…昨日の朝早くに居なくなった友達を、カラオケに探しに行くんだろ…解ってるよ、『夏芽』。」

 「そうそう、ちゃんと解ってくれてるじゃない。だったら、この任務の重要性だって解ってくれているはずだよね。よしっ、そうとなったら、急ぐよ。ほらほら。」

 そう急き立てられ、背中を押され進みだした青年は、彼らしい困惑の表情を浮かべている。

 …いやいや、困るのはむしろこちらの方だ。いったい、彼は四六時中、ああも鬱鬱としているのだろうか…。

 そうでないことを切に願いたいものだ。それこそ…彼がこの物語の主人公であれば…なおのことである。

 そんな期待の眼差しで、二人の姿を見ているからだろうか…。

 恥ずかしそうに、背中を押す女性から逃れようとするその姿は…夕陽に照らし出された青年の足取りは、どこか、誇らしさと、頼もしさに、力づけられているようにも見えた…。

[3]

 「夏芽ぇ…やっぱり不味いんじゃないかな…。」

 駅から五分程の距離を歩いて、青年と女性は目的のカラオケ店に到着した。…ここは…そう…一昨日の晩…正確には、昨日の早朝に…『土屋加奈子』の一件があった…そのカラオケ店なのである。

 そしてどうやら、『夏芽』と呼ばれている女性が探しているのは、加奈子の事らしいのだ。

 …となれば、具体的にどのような変事が加奈子に降りかかったかと言う事までは知り様も無いにせよ…それでも先程の、夏芽と青年の会話でも述べられたように、『居なくなった』というところまでは解っているのだ。…夏芽にしてみれば、さぞ心配なことであろう。

 …そのはずなのであるが…。

 この一刻を争うであろう時に二人は、カラオケ店の入り口を前にして、なぜか、店の正面に位置する駐車場の隅の方でグチャグチャと言い合いをしているのだ。…そうして、冒頭の青年の台詞に戻る訳だ…。

 夏芽が青年の懸念を一笑に伏す。

 「だから、大丈夫だって。そのために、わざわざ制服から着替えて来てるんじゃないの。きっと、近くの大学生だって思ってくれるよ。」

 青年は、そんな夏芽のじれったそうな態度にもめげずに、

「でも…部屋を使うときには会員証を見せなきゃならないんだろ…そうしたら、年齢とか…高校生だってことも気付かれるかもしないし…。」

 「そんなの心配しすぎだよ。どうせ、受付に居る人なんてアルバイトの店員さんなんだろうから…そんな一々、客の素性なんて確認しないって。…だいたい、考えてみれば、相手が高校生だからっていって馬鹿丁寧に来店拒否してたら、この店だって商売に成らないでしょ。だから、大丈夫だって。」

 「俺だって、普段だったらそうなると思うよ。でも…土屋が…土屋と土屋の彼氏が店の中から居なくなったのを、店のスタッフに伝えたのは夏芽たちなんだろ。…そう言えば、夏芽だけは二人に任せて帰ったんだったよな…。」

 駅に居た頃は、顔さえ背けていたというのに…あの時とは打って変わって、夏芽の瞳の奥を見据える青年の目には、無言の余韻というだけでは語り尽くせない程の、説得力があった。

 そんな青年の、小心者な彼には似合わないほどの圧力を感じ取った、夏芽。…一瞬、気圧されたかのようにも見えたものの…言うまでもないことだが彼女には、引くに引けない訳があるのだ…。

 夏芽は意を決したように、すぅっと息を吸い込んで、

「そうだよ。あの時、私と、後の二人で決めたんだ。とりあえず、店員にいろいろ聞かれるかも知れないから、店には二人だけが残るって。それでもし…二人が訴え出ても埒が明かなかったら…加奈子が見つからなかったときは、私がまたこの店に来て、手掛かりを探すんだって…。だから、こたちゃんが私のことを心配して止めようとしてくれてるのは解ってるし、嬉しいし…本当は、忠告に従ってあげたいと思うんだけど…ごめん、友達の命が関わってるのかもしれないんだもん…これだけは、どうしても引けない。」

 そう言うと、ギュッと唇を引き結んで、夏芽は青年を見つめ返した。

 そんな夏芽の真摯な眼差しにも…青年は心底、夏芽のことを案じているのだろう…あえて、頑なに、

「夏芽がそれだけ真剣なのに…あんまり、しつこくは言いたくは無いけど…最後にこれだけは言わせろよ。…お前の友達二人は、居なくなった土屋の知り合いってことで、調べに来た警察とも話をしたって言ってたろ。…それだと、土屋が最後に居たっていう部屋には、警察から誰も入れるなって、店側にお達しがいってるってことないかな…。それに…警察も、店も…居なくなった土屋と同じ学校の生徒が、土屋が居なくなったってことを知ってる…そのこと解ってるんだから…多分、噂が広まることは向こうも覚悟してるだろ…。」

「それは、私も解って…。」

「だから…。」

 己の話に被せる様に口を挟もとする夏芽を、低く、静かな声で、一喝するように制止して、青年が言葉の先を続ける。

 「だから、店の中で俺と夏芽が…その…怪しい動きをしてたら…きっと、警察とかでも、夏芽が居なくなった前とか、後の…例えば、監視カメラの映像なんかのチェックとかすると思うんだ。もしかしたら…夏芽の言う通り…私服だし…店の中をちょっと見て回るくらいは出来るかもしれない。でも、その時は…無茶なことしたら…きっと、すぐにバレる。…夏芽はそれ、解ってるのか…。」

 青年に、真剣な問いに、流石に夏芽の瞳にも影が差す。それでも…、

「こたちゃん…。」

 夏芽は冷え切った両の手で、青年の小さな手を包み込んで、

「大丈夫。私、無茶なことはしないから、約束する。…それに私、加奈子のお母さんのことも良く知ってるから…これ以上、変なことで。加奈子のお母さんのことを不安にしたくないから…約束するよ。」

 そう言って、青年の手の仄かな温もりを確かめながら、

「でも、それでも、万が一に…学校からは何か言ってくるかもしれないね。停学なんてことだってあるかも…だけど、その覚悟は出来てる…。あっ、当然、こたちゃんには出来るだけ迷惑が掛らない様にするから。もし、そんなことになっても…こたちゃんは何も知らなくて、私に無理矢理、引っ張って来られただけだってことにすれば大丈夫だよ。私、ちゃんと口裏を合わせるからさ。私がどんな処分をくらおうが、こたちゃんは気に病むことなんてないし…何も、こたちゃんが心配することは無いんだからね。」

 氷の様になった夏芽の指先に手を撫でまわされながら、青年はしばらく黙って彼女の声に耳を傾けていたが…少々、怒気を孕んだ溜息を一発。

 (そんなこと、心配してんじゃねぇよ、俺は。)

とでも言いたげに、夏芽の手から荒っぽく自分の手を引き抜いて、青年はサッと踵を返えすと…スタスタとカラオケ店の入口へと歩いて行った。

 夏芽もその背中に遅れまいと、一目散に青年の横へと…そして、青年の表情がよく解る位置に並ぶ…。

「ありがとね。こたちゃんが一緒に居てくれると思うと、私、ほんと心強いよ。」

 夏芽はそう、青年の柔らかい仏頂面に、微笑み返すのだった…。

[4]

 店内に入ってみれば…状況は青年が指摘した通り…否、青年が考えていたよりも、ずっと手出しのし難い事態へと発展を遂げていた…。

 そのことを一目で理解させる…おそらくは私服警官であろう…背広を着た男性が突っ立っている螺旋階段の方を見詰めながら、青年は、『しまった』と言いたげな表情の夏芽の背中に声を掛ける。

 「おいっ…あれ…。」

「解ってる。けど…とにかく、こんなところで立ちっぱなしだと怪しまれるし、受付に行こう。」

 青年は夏芽に促がされるままに…あるいは、背後で閉じた自動ドアの音に驚き、押し込まれるかのように…いつまで経っても怪しげな足取りで、夏芽の後に付いて歩く。

 受付のカウンターには、二人より少し大人びた感じの女性が待機していた。

 夏芽は居心地の悪そうな表情を必死に繕って、カウンター正面に、敵に挑む様な心境で立つ。その必殺の気迫に怯んだかのように、女性スタッフの顔が少々固くなった…。

 それでも、相対した二人の女性の間ではお互いの役割を全うすべく、にこやかなやり取りが、違和感の無い様に、かつ出来るだけ型通りに進行していく。

 請われるままに、眼前の女性スタッフに会員証を提出。各部屋で使用するカラオケ端末の機種を選択して…それでも、言うべきことはどうしても言わなければならない。夏芽は意を決して、だが極力さりげなく…スタッフの女性に、

「あの、ですね…。私たちが使わせてもらう部屋なんですけど…この、プロジェクターで歌詞とかをスクリーンに映す部屋…そう、ここがいいんですけど…。」

と、すかさず、カウンターテーブルに張られたチラシの一枚を指さして見せた。 

…夏芽にとっては、懸命にさり気無く注文を付けたつもりのようだが…その言葉尻は消え入りそうに擦れて聞こえた。

 女性スタッフは一瞬、怪訝そうな面持ちになる。しかし、すぐに申し訳なさそうな顔で、

「すいません。今日は…いえ、多分しばらくは、当店の三階フロアは使用が出来ない様な状態で…ですので、この部屋も三階にありまから…申し訳ありませんが…。」

 女性スタッフの断りの言葉。この歯切れの悪さは…やはり事情を知っているからなのだろうか。

 そんなこんなで、ほとんど門前払いをくらった様な状態になって、ちょっと困り顔の夏芽に、

「あの…、今回の当店のご利用はお止めになりますか。」

 その、女性スタッフの言葉で、

「えっ…いいえ、歌っていきます。…あの、もう…どの部屋でも良いですから。アッ、アハハッ。」

と、夏芽はそれでも喰らいついて見せる。…この慌てぶり…どうやら、夏芽の考えていたプラントからはずいぶんと脱線しているようだ。

 型通りのやり取りに…いや、店員に勧められるままに張り子の虎の様に首を縦に振っている姿からは、すっかり気落ちしているのであろうことが窺われる…友人たちの手前どうしても、夏芽としてはなんの成果も上げずに退散する訳にはいかないのだ。…青年のそれとは質が違うが、夏芽にもなかなか気苦労が多いのだ…。

 そうそう、青年はと言えば…懸命な読者諸賢には、そんなこと一々、(やかま)しく指摘するまでも無いのでしょうが…無論のこと、一言も口出しなどせずに、白けたような顔で夏芽の後ろに控えておりましたとも…。

 その上この青年は、心の中でさも大儀そうに、

(あぁ~あっ、だから言ったのに…だいたい、こういう事に成るだろうと思ったから、止めとこうよって忠告したのになぁ。そもそも、人一人がこの場から失踪してるかも知れないっていうのに、それから一週間も経って無いのに、平常通りとはいかないまでも営業してるとか…可笑しいだろそれって…。)

などと考えて居やがるのだ。

 …確かに、青年の思っていることは、概ね正論と言える…。

 しかし、夏芽に頼まれてのこのこ付いて来た分際で…しかも、全部、夏芽に任せきりという状態で考えていることとしては、不遜の類に入るだろう。…それに、カラオケ店にはカラオケ店なりに、きっと、営業するのに決めたそれ相応の理由だってあることだろう…。

 そんな、一歩退いて思考を巡らせれば容易に解りそうなことを…何が気に入らないのか…考えを巡らせることさえあえて避ける様に、心中で愚痴を吐き続ける青年。…だが…。

 皆さんご安心を。そんな不届きな青年に遂に罰が下る瞬間が…いや、それだけとは言えないかも知れない…。

 青年にとっても、そして夏芽にも…更には、今度の事件に関わった、あるいはこれから関わる事に成る者たちにとって、これは…つまり青年にとっての一時の罰ともとれる一撃は…ある意味では天佑と言えるほどの革新を生み出すかもしれないのだ。

 そして、それこそが…夏芽が彼をこの場へと引っ張り出した理由…青年に、今の彼に対しては過大ともとれる信頼をよせている…その心理を裏打ちする何かなのだ…。

 そうして、いよいよ、二人の視線が交錯する。

 …二人とは勿論、青年と…そして、螺旋階段の上で勇ましく立っている…あの私服警官風の彼の事である。…つまりは、彼が…彼の後押しが、この物語に変化をもたらしてくれる…らしい。

 そうこう言っている間に、ほら。青年の目線が何気なく、階上の男の方へと登って行く…そして、

「ひぃっ…。」

 突如、せぐり上げるような、喉をえぐる様な声を上げて硬直した青年。

 彼のあまりに急な変事…それに反応した、この場に居あわせた残りの三人の様子こそ見ものであった。

 女性スタッフは突然の出来事に、ギクリとして、やや怯えたように青年の様子を窺う。

 夏芽は、青年の視線の方に(かぶり)を振って、その先でぽかんと口を開けて動揺している警官風の男を鋭く睨みつける。

 そして…前述の二人からは、状況への応対という面で出遅れてしまった感のある警官風の彼は、夏芽に一瞥くれられてようやく、居心地悪そうに青年の方から顔を背けた…。

 そんな三者三様の狼狽ぶりが演じられてから…夏芽は、口をパクパクしながら言葉を探している女性スタッフを無視して、カウンター近くにあるロビーの方へと、肩を貸して青年を運んだ。

 その間、残りの二人はというと…階段の上から、なんとなく動けなくなった警官風の男を、女性スタッフが義憤と、非難の入り混じった瞳で見据えている。

 …確かに…どうにか、ロビーの外からの見通しの良いガラス壁を避ける様に、隅の方のソファに座って項垂れている青年の姿を見ると…あの警官風の彼が、何かものすごい仕打ちを青年に行った様な気持ちに成る。

 …青年はまた、駅に居る時の様な情けない気持ちに埋もれているのだろうか。…いやぁ、それだけじゃあるいまい。何せ、外では彼の目線の高さに、彼からは駐車上の車一台分のスペースのみを隔てて、道路車がビュンビュンと行きかっているのだ…こんな状況で『普段』の彼が、今のように微動だにしないで居られるとは…どうも考えにくい。…これは、夏芽がこうしてあたふたして見せる位には、結構、深刻な事態なのかもしれない…。

 …でだ。そうなると、警官風の彼が何をやらかしてくれた訳かが気に成ってくるものだが…結論から言えば…残念ながら、警官風の彼本人にも、どうしてこのような事態になっているのか、理由が判然としていないのだ。…少なくとも、この場の女性陣二人に総出で睨まれるほどには…。

 経緯はこうだ。

 夏芽と女性スタッフの会話を右から左へと聞き流しつつ、脳内で愚痴の百篇を連ねていた青年の関心は、警官風の男の方へと向いて行った。…ここまでは、先に述べたとおり。

 そこから後は…青年が階上の男の背後に暗がりを、通路からはみだす様に奥まったスペースが存在することに気付いたことへと続く…。

 その暗がりの奥を何の気なしに覗いていると…別に、幽霊や、宇宙人が顔を覗かせたという訳ではないが…ジッと覗きこんでいる内に、若干、青年の目付きが睨む様な厳しいものに変わっていく。

 対して、不幸なことにと言おうか…当然のように、警官風の彼は階下を眺められる位置に居て、それに気付く。加えて、どうもこの男性は…仮に警察官では無かったにしても…若く、使命感に燃えている…そんなタイプだったらしい。

 いったい、本人にどれだけ自覚が有ったのかは定かではないものの。青年の送る…彼には送って来ているように見えた…絶え間ない熱視線に、ついつい、睨み返す様な…それこそ見ようによっては、威嚇する様な眼で青年を見てしまった…。青年が物に憑かれた様に、怯えて、動けなくなったのは…やはりというか、お化けのせいではなく…このような次第からなのである。

 この筋道を知って、改めて現状を鑑みるに…この度のことは大変な不遇が重なったもので…正直、誰もかれも冷静さが足りないというか…あるいは、この場には被害者しか居ないとも言えそうだ…。

 それにしても、今度という今度は、青年もなかなか戦線に復帰してくれる様子を見せない。

 そんな青年に、『大丈夫。』などの労りや、『ゴメンね。』などの謝罪の言葉を、彼の心臓を驚かさない様に、ゆっくりと掛けてやっていた夏芽ではあったが…流石に、いつまでもこんなことをしていても、何の解決にもならないことは明白である…。

 夏芽は意を決したように、

「こたちゃん…私、何か飲み物でも探してくるから。」

 そう言って立ち上がると、夏芽はカウンターの脇にあるドリンクバーのコーナーには目もくれずに、カウンターから離れた方へと進む。

 そして、緊張の面持ちで螺旋階段の最初のステップに脚を掛けようとした…その刹那…、

「むぐっ…。」

 突如、夏芽は何者かに口を手で抑えられた。

 さらに次の瞬間には、螺旋階段の背後にある、通路へと難なく引き摺りこまれた。…どうやらそこは、カウンターの隣にあるのとは別の、もう一本あるこのカラオケ店の一階奥へと繋がる通路らしい…。

 あまりの出来ごとにもごもご言いながら、暴れる魚の様に抵抗する夏芽。それでも、彼女をいとも簡単に抱きすくめ、何者かは静かに入り口付近の方を窺っている。

 すると、上の方から階段を踏み鳴らす音が…あの警官風の男が走り下りてきたようだ。

 何者かはその音を聞いて…恰も、成り行きが自分の思う通りに進んでいることを楽しむように…微かにほくそ笑んでから、物音一つ立てずに、身をよじり続ける夏芽を軽々と抱き上げて、さらに通路の奥の方へと進む。

 …そこまでやってようやくと…何物かは、ここまでの所業をこなした人物のものとは信じがたい程に優しげな声で呼び掛ける。

 「夏芽。」

と…。

 その声を聞いた驚きでか、夏芽は脚をバタつかせるのを止めて、瞼を見開く。そして、そのままの形相で眼球をグリッと何者かの顔の方へ向けると、

「こたちゃん…。」

 口を抑えた指の隙間から、夏芽のくぐもった声が漏れだす。

 …そうなのだ。いつの間に夏芽の背後に回り込んでいたのか、何と夏芽を通路の奥へと連れ去った何者かとは、誰あろう『青年』その人だったのである。…いや、だが…確かに、夏芽の瞳に映っている男の顔は、『青年』そのものなのであるが…なぜだろう、とても違和感が後を引く…。

 そんな、夏芽を含めた、見る者の当惑などお構いなしに、青年は夏芽に再び語りかける。

 「手を離すけど、静かに頼むよ。…出来るよね。」

 夏芽が二、三度首を縦に振って、青年の言葉に相槌を打つ。青年は満足そうにその様子を見詰めると、開いた左手でグリグリと夏芽の頭を撫で…それを十分に堪能すると…遅ればせながら、彼女を解放した。

 夏芽はよろよろともつれた脚で青年から距離をとる。そして、ゼェゼェと大息を衝きながら、乱された髪を整えつつ、青年に厳しい視線を向けた…。

 この光景…部分的には…あくまで部分的には、先程の駅での経緯(いきさつ)の再現の様にも見える。しかしだ…もし、ここから改めて物語を始めたとしたら、間違いなくさっきまでとは全く異なった話になるに違いない。それ程に、まるで別人かとも見紛うばかりに違うのだ…先刻と、現在の青年の雰囲気は…。

 駅に…いや、それどころかロビーに腰掛けて項垂れて見せるまでの青年はと言えば…少なくとも、今の様に背筋を伸ばしたスラッとした姿勢をとることも…興味深そうに左の掌に鼻を近づけて、夏芽の髪の残り香を確かめる様な真似は…命令されても出来る様な男ではなかったのに…。

 いったい、何がこれほど劇的な変化を青年にもたらしたのだろうか。

 気に成るところではあるが…しかしながら、ついつい忘れがちになるものの、夏芽には時間が無いのだ。しかも、その残った時間でさえも、刻一刻と過ぎ去っていく。…そう言う事ですので、この手の詮索は、また後の機会にということで…。

 それでは、夏芽の具合に戻るとしよう。

 波立っていた心臓の鼓動を宥めすかして、ようやく、夏芽は人の違っている様子の青年に呟く。

 「ちょっと、こたちゃん…。」

 夏芽は、青年の注文した通りの静かな、小さな声で語り掛けた。

 青年はそんな囁きなどどこ吹く風と、

「んっ、もしかして、夏芽…シャンプー変えたのか。」

と、こちらも多少はトーンを落としているものの、あまりにも平然としている。…いや、それ以前に、夏芽の呼び掛けに応えていないのだが…。

 夏芽がもう一度呼び掛ける。

 「あのね、こたちゃん…。」

 夏芽が声を潜ませて、覗きこむように青年にリアクションを求めるが…青年はてんで勝手に、自分の言いたい事を口にする。

 「アプリコットが尾を引いて、最後に少し濃い目のバニラフレイバーか…あいかわらず、費用は惜しんではいない様だけど…どんな心境の変化から香りを変えたのかなと考えると、聞くのが怖い様な気もするなぁ。」

「だからね、こたちゃん…。」

 ニコニコと微笑みながら、青年は何が楽しいのかシャンプーの香りの話を続ける。夏芽も青年の言葉の隙間を狙う様にして口を挟むのだが…暖簾に腕押し。

 …流石に、ここまで夏芽の言葉を聞き逃した…ような態度を取っているとなると、青年の意図は疑いないだろう。…当然、夏芽もそれに気付いていながら…それでも、青年にはここまで付いて来てもらったという引け目があるのだ。…だから、

「ちょっと…。」

と、根気よく問い掛けていたのだが…それに対する青年の態度がいつまで経っても、

「…悪くは無いな。悪くは無いけど…でも、やっぱり、この香りは夏芽には、少しフェミニン過ぎるんじゃないかな。」

 などと馬鹿話を続けられた日には…さしもの夏芽も、仕舞いには我慢の限界を迎えることになってしまうのだ。

 夏芽は荒い鼻息を一つ。ずいっと青年のパーカーの胸倉を掴むと、力任せに、自分より背の低い…はずの…青年の顔を自分の方へと近寄せた。

 そして、夏芽は痛快な一喝をお見舞いする。

 「聞けよ、相坂小太郎(あいさかこたろう)。」

 …やはり、まるで違う。今更のように、それだけは言える。

 青年…いや、小太郎はそれが当然であるかのように、怯みもせず、震えもせずに、おどけた様な笑みを浮かべている。

 果たして、この状況で小太郎が『変わった』ことは、夏芽にとって吉と出るか、凶とでるのか…。

 夏芽は小太郎を掴んでいた手を離すと、再び、溜息の様な大息を吐きだす。それから、やとのことで、言おう言おうとしていたことを口にすることが出来る…夏芽は真剣な瞳で、顔つきで、小太郎の飄々とした顔貌を見詰めながら…、

「こたちゃん…もしかして、貴方…スイッチ入っちゃったの…。」

 どこまでも真摯な瞳を向ける夏芽に、返す小太郎の笑顔は、こぼれる白い歯は…どこか威嚇する様な…屈託の無い自信に充ち溢れている。

 まるでその笑顔に誘われる様に、諭される様に…いつしか笑顔を浮かべていた夏芽の瞳は、期待と、緊張感に鋭く輝いていた…。

[5]

 話は、小太郎と夏芽がカラオケ店の奥に引っ込む、少し前の時間に遡る…。

 ちょうど、カラオケ店内のエントランス辺りで、小太郎たち四人がごちゃごちゃとやらかしている最中に…まさにそのカラオケ店へと向かう、一台の車があった…。

 広々とした…というより、広すぎるくらいの車内…。おそらく、この車はかの高級車の誉れ高いリムジンではなかろうか。

 そんな車内の後部スペースでは、如何にも高級そうな皮革で作られたソファーにゆったりと身を預けながら、二人の人物が向かい合って座っている。

 二人の内の男性が話を次ぐ。

「どうも、この度は…本来は、こちらからお願いした以上、(わたくし)どもの方からお迎えに上がらなければならないところを…本家から車まで用意して頂いて…当主には、千明(ちあき)お嬢様からも、よろしくお礼申し上げて下さい。」

 背広を着た男性は、向かい合う女性に恐縮したように謝辞を述べると、ぺこりと頭を下げて見せた。

 学生服の女性は、そんな男性の様子に、可笑しそうな、大人びた笑みを浮かべて、

「そんなに改まらないで下さいよ。車の件だって、そちらの方で迎えに来て下さると仰るのに、私が勝手に「家」の車を呼びつけただけですから。それに…元々、これは私の仕事のなんです。だから、今回だけじゃなく、いつも警察の方にはお世話に成りっぱなしで、お礼を申し上げなくては成らないのはむしろこちらの…『蒐祖(しゅうそ)家』や、私たちサークルメンバーの方ですよ。諸々、父や、サークルの皆に成り替わってお礼申し上げます。」

 「あぁ…いえいえ、滅相も無い。」

 そう言って、男性は千明と呼ばれる女性の言葉を押しとどめる様に、軽く右手を挙げて見せた。

 …ここで、少し詳しくこの二人の様相に触れておく。

 まずは、背広の男性の方を見てみると…整髪料で綺麗に整えられた髪といい、ダークグリーンの背広を着こなす見事な体格といい…ぼさぼさ頭でも委細構わず出歩く、背の低い小太郎とはなかなかに対称的な人物である。

 職業は、話の流れからいうと警察関係の仕事をしているようではあるが…まぁ、明らかに『それだけ』ということはないだろう…。

 次に、千明はというと…まず目につくのは、穂塚高校指定の制服を着ていることであろう。つまり千明は、小太郎や、夏芽と同じ学校に通っていることになるのだが…そうなると、例のカラオケ店に向かっている車に乗っている彼女の目的も…やはり…。

 そのことは一先ず置いておくことにして…ともかく、千明の外見の描写に戻るとしよう…。

 髪型は、ふわりとウェーブの掛ったセミロングの夏芽とは好対照に、濃い栗色の髪をナチュラルなフォルムでカットしたようなショートヘア。それでも、活発そうなイメージをほとんど匂わせないのは、あるいは、氏素性に由来する気品だろうか…。兎にも角にも、本人は狙ってやっている積りは無いのだろうが、何やら、市井のお嬢様たちからは隔たりのあることは間違いあるまい。

 それと身長は…おおよそ、夏芽と同じくらい。小太郎のように、ぱっと見て小柄だという印象を抱くほどではない。

 …と、車内の二人の格好を示しつつ、小太郎と夏芽の大まかな外見も説明したところで、車内の二人の会話へと戻ろう…。

 二人の会話は、そこがリムジンの車内であっても、不自然さのある会話へと移る。

 お互いのしゃべり口を清々しく笑い飛ばし…と、感じたのは、社交辞令という要素が強いからだろう…二人の口調は、少し砕けた感触のものへと軟化した。

 距離感が変わるや、男性は開口一番に、

「しかし…学校にパトカーで乗り付けられたくないという気持ちは解りますよ。でも、その代わりにリムジンで下校っていうのは…私なんか、こんな高級車…ただ乗っているだけでも冷や汗ものですよ。」

 そう冷やかされて、千明は可笑しそうに、どこか照れたように、微笑むと、

「私も高校一年生の時分だったら、とてもじゃないけどそんな目立つ真似は出来ませんでしたよ。恥ずかしくて。でも、進級するに従って…家の事情や、サークル活動なんかで学校をお休みすることが増えてからは…まぁ、親族の経営している学校ってことで、大抵は公欠扱いにして貰っているんですけどね。それで、その度に周りの皆さんに、特別扱いされてる理由を詮索されるのも…する方だって大変だろうからって…いっそのこと、良い所のお嬢さんみたいに見られてしまおうって…それで、そういう雰囲気だけで、私の欠席、早退の多い理由も、出席に関して優遇されてるのも、『お嬢さんは、多忙なんだなぁ。』くらいで片付いてくれないかなって思って…。」

 男性は『お嬢様』という人種のバックヤードの事情に、面白そうに、興味深そうに首を縦に振り振り、

「はぁ、若い身空で、また、ずいぶんな気苦労をなさってますねぇ。」

 「そうなんですよ…我ながら笑っちゃいそうなくらいなんです。でも、これも私の身内や、それに人様ためと思って励んでいるんですけども…特に、後者の方は怪しいものですしね…。そういう時には、ずいぶん自分が…人間離れしているんだなって気になります。それに、私だって思ったりするんですよ。もしかして、お嬢様を演じて学校に溶け込もうとしている私は…その実…普通の人間を演じて、社会に溶け込もうとしている化け物なんじゃないかって…可笑しいですね、どこをどう見たって…生物学的には、私は『人間』のはずなのに…。」

 …少し、道が込んで来たらしい…。帰宅者たちの車の列に混じるリムジンの車体は…確かに、少々浮いて見える…。

 男性はそんなどこか湿っぽくなってきた空気を上手に纏めながら、千明に諭す様な言葉を掛ける。

 「それは、千明さまだけが感じている事ではありません。私たちが…俺たち『鬼人(おに)』の誰もが感じる…そういう疎外感ですよ。」

 男性は一端言葉を切ると、真剣な表情を窓際に向けて…少し、照れたように、

「まぁその…俺からお嬢様に薫陶たれようなんて、とんでもないですけど。『鬼人』としてのお嬢様より年季の入った…一人の先輩の意見として言わせてもらえば…。千明さまは、生まれてまだ間も無い頃から『鬼人』として生きて来られた。そして成長するごとに、一般社会との違和感や、誤差を埋めてこられた。…対して、私たちのように、人生のある時期までは普通の、それこそ何処にでも居る『人間』として生きて来た…そして…ある日突然、『鬼人』として生まれ変わった者たちには、『鬼人』が己の内と外で定着する…その過渡期に、自分と一般人との間に、強い『ずれ』を感じることがあるんです。」

 千明はリムジンのエンジンの躍動を身体に感じながら、

「そう言えば、私のクラスメイト…その娘も『私のサークル』に所属しているんですけど…似た様なことを言ってました。最初は、自分で自分のことが良く解らなくなる。まるで、得体の知れないものに心の何パーセントかがすり替わったようになったって…。それから、周りが少しずつ自分を避ける様な素振りを見せるに従って…段々と、自分が『鬼人』に近付いて行く…。だから、そんな不安がピークに達する前に、自分と同じ境遇にある人たちに受け入れてもらえたことは、すごく幸運だったって…。」

 「…そうですね。私もその気持ちはよく解る。…そういう意味では、今回の『彼』に関しても、同情の余地は…いや、これは私の立場で言う事で無かったな。申し訳ない。」

 そう言って、男性はどこか寂しそうに、未練を打ち消す様に頭を振った。…彼自身、自分を普通で無いと断じていたが…なかなか、心根の良い男の様だ…。

 千明はそれを労わる様に、

「いいえ、私の方こそ…駄目ですね。困らせる様な愚痴を言ってしまって…どうも、家人にはこの手のことは言いづらいものだから…。」

 男性がニコリと、『解ります。』と言いたげに笑い掛ける。

 それに応える様に笑い返し、千明は先を次いで、

「それに、今の彼氏は『鬼人』ではない…普通の男子高校生だから。私もそれに合わせて、成るべくノーマルに、あまり極端なことは言わない様に、日頃からずいぶん苦心してるんですよね。もちろん、好きな相手のことだから、努力するのも、苦労するのも楽しいんですけど…正直、ちょっと肩がこるんですよ…。

せめて彼の前では、お嬢様っていうレッテルだけでも外していけたらと思うんですけどねぇ。」

 「ちょっ、ちょっと待って下さい。」

 男性は小気味良く話している千明を制止して、

「俺…あっ、いや、私…今、結構不味い話を聞かされたように思うんだけど…。」

 困った様に頭を抱える…いや、今更ながら耳を塞ごうとしているのかもしれないが…そんな男性に対して、千明はケラケラと笑いを転がすと、

「まっ、そうとも言えるかもしれませんね。」

 その千明の軽さにもめげずに、男性はなお神妙な口調でと掛ける。

 「あのぅ…窺い難いことかもしれませんが、『鬼人』でない肩と千明さまがお付き合いされているということは…お父様は…当主はご存じなのでしょうか。」

 「薄々は、何か『蒐祖』の家にとって良からぬことをしているだろうってことは…父もいろいろと、顔の広い人ですから…勘付いているとは思います。でも、私に直接尋ねる様なことはまだありませんから…きっと、そのうち自分で整理を付けるとでも思っているんでしょうね。…あっ、それでも、父からそちらに、この件で何か尋ねられるかも知れませんから…その時は、お手数ですけどよろしくお願いします。ねぇ、篠原さん。」

 そう言って、千明が急に運転席の男に声を掛けた。バックミラーには、実直そうな壮年の運転手の、訳知り顔の笑みが映っている…。

 男性は額を撫でながら、

「勘弁して下さいよ。私は尋問されるんじゃなくて、するのが商売の人間なんですから…。」

それから、少し、真面目な顔で、

「それと…聞いてしまった以上、失礼とは思いますが老婆心から言わせてもらいます。千明さまはご自分の立場を良く理解して、それに相応しい判断が出来る方だということは存じてます。…けれど…もし、お付き合いの男性とのこと…ご自分でも一時の関係になる…長くは続けられそうにないとお思いなら…。『決断』は早いに越したことは無い。それが貴女の、それにお付き合いしている方の為にもなる。…貴女は、今度の事件を起こした『彼』のように、野放図には生きられない立場の方だ…。」

 男性の誠実な忠告に、千明は沈痛な面持ちで頷く…。

 「貴方の仰っていることがもっともなことは…それは、私も良く解っている積りでいます…。ですが…。」

千明は小さく、頼り無げな微笑みを口許に浮かべて、

「もう少し、考える時間を下さい。今は彼が、私と日常の唯一の接点なんです。…せめて、後一年。高校を卒業するまでは…自分が何者であるか、悩んでいたいんです。」

 一際高い排気音を立てて、隣を走っていたバイクがリムジンを抜き去って行く。男性はその余韻の後を追う様に、小さく息を吐いた。

 「そうですか。…もし、本家から呼び出しが掛る様な時には…そのように、私から当主にお伝えいたしますよ。しかし、我ながら不調法なこと尋ねました。勘弁してやって下さい。」

 千明はまた新しい、若さと、希望を感じさせる笑み満面に広げて、

「いいえ、そんなこと…私もこうやって人にお話し出来る機会があるだけで、ずいぶん楽になりますから…まぁ、その度に掴まって、愚痴を聞かされることに成る方たちには、本当に悪いことをしているんですけどね。本当に、感謝しています。ありがとう。」

 そんな風に、一頻(ひとしき)りの談笑を繰り返しながら車内の会話は続く。そうして、相変わらず沈黙を貫いている運転手を取り残して…話の傾斜は、非日常の度合いを強めていくのだ…。

 千明が思いだしたかのように、呟く。

 「あぁ、そう言えば、『彼』って言ってましたけど…今度のことの犯人が誰か、もう解っているんですか。」

「えぇ、犯人…で、間違いは無いでしょうが…取りあえず今のところは被疑者である彼の名前は…。」

 男性は懐のポケットから黒革の手帳を取り出して、

「店内の監視カメラに映った、入店の際の映像から割り出しました…名前は大野洋平(おおのようへい)。年齢は十九歳で、現在は他県の大学に籍を置いていますが…現在は休学しており、講義には半年以上は顔を出していないそうです。それで今は、高校生までを過ごしたこちらに帰って来ていたのですが、なぜか親の居る実家には一切顔を出さずに、アパートを借りて一人暮らしをしていたという事が解っています。」

 男性は手帳に書かれた字を読み上げながらも、盗み見る様に千明の様子を窺う。千明は物思いにふける様に、流れる車窓の外側を見詰めている…。

 男性はそんな千明の態度にも、別に気にしたような素振りを見せずに先を続ける。

 「動機に関しては…これは、『鬼人絡(おにがら)み』の事件では一々調べるまでも無いことですが…一応、彼の行方が解らないという事にして、失踪の理由という名目で動機らしきものは無いかと、彼の両親や、高校時代の友人たち…それに、最近の彼との繋がりのある人物たちにも話を聞きました。しかし解ったのは、やはり彼も、一時は対人関係に壁を作っていたこと、そして、いつの間にか…阻害的になる以前よりも快活で、そして非常な自信家に、加えて攻撃的に変わっていたと…。これらのことから解るのは…彼が『鬼人(おに)』となったこと。そして、自信家で、攻撃的というところから、彼は自信の発する『()』を制御しきれていないであろうと言う事です。そして…おそらくは、そういった性質が要因となって…。」

 「死返し(まかるかえし)を執り行った。…つまり、人間の肝を、心臓を食べたという事ですね。」

 千明が窓際を向いたまま、憂鬱そうに応えた。

 男性は無言の肯定を示して、

「『絞鬼(こうき)』されたと思われるのは、年齢は十七歳の女性で、名前は土屋加奈子(つちやかなこ)。穂塚高校に通う高校生三年生で…ご存じの通り、千明さまと同じクラスに在席していました。」

 男性の目線に応えるように、千明は男性の方へ居住まいを正すと、真剣な顔つきで頷いた。

 手帳の項を改めて、男性の説明はなおも続く。

 「大野洋平が犯行に及んだ当夜…正確には、一昨日の深夜から翌日の早朝に0零時20分頃…その間に『死返(まかるがえ)し』は執り行い、逃亡も果たしている様ですね。」

「随分、具体的に犯行に及んだ時間が絞り込めてるんですね。」

 「えぇ、というのも…。」

 男性はここで、夏芽たち三人…聴き取りをされたのは二人なのだが…が、一昨日の晩に同じカラオケ店の、それも加奈子たちの隣の部屋に居たこと…その辺りの経緯を説明した。

 これには千明も驚いた様に目を丸くして、

「そんな危険な状況で、よく無事で居られましたね、その二人。」

 「そうですね。十五分ごとに連絡を取り合っていたことを、大野洋平に気付かれていたのか。そうでのないのか。…どちらにしても、零時十五分に送った着信に対して土屋加奈子さんが何の反応も示さなかった。それで、二人が隣の部屋を確認しに行ったことで発覚した訳ですから…。もし、運悪く、本性を現していた大野洋平と二人が鉢合わせに成っていたとしたら…まず、命は無かったでしょうね。その点は、彼女たちも、我々としても幸運でした。」

 男性の言い草が多少気になったのか…千明の瞳が一瞬曇る。…たしかに、男性の言った『幸運』という台詞は、夏芽の友人二人の命が助かったことを言ったというよりは…信憑性の高い証言者が確保できたことを指している様に思われた。…しかし…『鬼人』とは…人間とは…それが日常の中の出来事であればある程、得てして客観的に、そして薄情に成っていくものなのかもしれない…。

 まっ、こんな凄惨な事件について話していれば、もっともなことだろう…。

 「それから現場にあった遺留品について、大野洋平に関するものは毛髪が数本程度しか出てきませんでしたが、土屋加奈子さんの持ち物は幾つか…。まず、彼女が友人たちと連絡をとるのに使っていた携帯電話。これは昨晩、土屋加奈子さんの友人二人が、彼女の携帯電話だと証言してくれていますし、データを調べた結果でも、彼女のもので間違いないようですね。それから…昨晩、土屋加奈子が着ていたジャージが見つかっています。」

 「ジャージですか…それじゃあ、土屋さんは…。」

 困惑したように男性に尋ねかける千明に、さしもの男性も気の毒そうに、

「現場検証に立ち会った『塊堂(かいどう)』の縁者が言うには…あるいは、土屋加奈子は『溶かされた。』…つまり鬼人(おに)の、なんらかの能力で身体を液状化されたのではないか。こちらでは、その検証内容を大きく入れて捜査に有ったっています…。」

 千明は男性の口にした痛ましい可能性に、苦しげな顔つきで眉間を抑えると、

「『溶かす能力』…つまり、『異能』…ですか…。何となく察しは付いてましたけど、やっぱり今回の、お騒がせな鬼人(おに)は私の…『蒐祖』の縁者でしたか。そうなるとますます、『蒐祖』の直系である私には、この件に首を突っ込まざるを得ない理由が増えたことになりますね。」

と、吐き捨てる様に言い終えると、重ねる様に深いため息を吐きだした。

 男性は手帳を閉じると、

「理由が増えたと仰いますと…何か、今度の事件には思うところが御有りなのですか。」

 千明は額からゆっくりと手を下ろしながら、

「本当は私…始めに警察の方から連絡があった時、それが土屋さんの関係している事件だと聞かされて、最初に思ったのは…きっと、土屋さんが『鬼人(おに)』に成って、人に危害を加えたんだと思ったんです。」

 この千明の発言は、男性にとって思っても見なかった事だったのであろう。男性は晴天の霹靂だ言わんばかり、

 「それ、本当ですか。」

 千明は短く頷くと、

「はい。私も立場上、生徒の中で『鬼人(おに)』に近付いている人たちのことは把握していますし…それに、土屋さんとは同じクラスでしたから。彼女の『()』の絶対量が、日に日に増えてきていたのは感じていました。私は、『塊堂(かいどう)』の方と比べるまでもなく、この手の探査、索敵能力は鈍い方ですけど…同じ教室に机を並べて、同じ授業を受けてきましたから…こればかりは、間違いありません。」

 千明の言い終わるのとほぼ同時に、リムジンはカラオケ店の駐車スペースへと滑り込む。だが、二人にはまだ、車を降りようとする気配がない。…よく見ると、店内が見渡せるガラス壁には、小太郎を中心とした前述のすったもんだが映っている。…実際、小太郎と夏芽はかなりぎりぎりの綱渡りをしているのだということが解る…。

 そんなこととは露ほども知らない千明と、男性の、深刻そうな会話も、遅ればせながら終着点を迎える様だ…。

 「先程、『塊堂(かいどう)』に縁のある方が検証に立ち会ったと仰ってましたよね。…なら、間違いは無いことと思いますが…その大野洋平という人が、本当に『死返し(まかるがえし)』を行ったのだとしたら…食べた生き肝の『()』に当てられて死んでいるにせよ。取り込んだ『鬼』の拒絶反応に打ち勝って、生きているにせよ。とにかく彼の所在は早めに掴むのが、得策ですね。私も出来る限りのことをさせて頂きますから、何でも仰ってください。」

 男性は先に立って、リムジンのドアを開く。そして、何だかんだ言っても『お嬢様』という気配の濃い、千明のゆったりとした動きにも少しも嫌そうな顔を見せずに、

「助かります。では、早速ですが、事件当夜の監視カメラの映像を見ていただける様、手配しておりますので、お願いします。」

 千明はリムジンの運転席の方に回って、運転手に二言、三言、礼を述べる。そして、駐車スペースをリムジンが離れるのを見送ってから、

「帰りの足は、そちらに期待しても良いでしょうか。」

 男性は千明に歩み寄ると、

「任せてください。うちの署に配備されたばかりの、新品のパトカーを手配しておきますよ。」

 千明はやや張りつめた頬に、あどけない笑みを浮かべて、今度は自分が先に立ってカラオケ店の店内へと進む。…背にした夕方の秋空は、冷たく透き通っていた…。

 

 自動ドアを通り抜けると、目の前に『ハリキリ型』を絵に描いたような若者が掛け込んできた。…そう、先ほど小太郎にガンを飛ばした、あの警官風の男性である。

 こうして近くで見てみると、刈り上がった短髪もさわやかな、なかなかの好青年である。二人の前で直立して敬礼する姿からも…どうやら、本物の刑事だったようだ。

 青年刑事は直立不動の姿勢のままに、ハキハキとした口調で話し始める。

 「お疲れ様です、児玉(こだま)警部。千明…あっ、いえ、蒐祖千明(しゅうそまゆみ)お嬢様。よろしくお願いします。」

 そんな風にしゃちほこばって、深々と頭を下げる青年刑事の姿に、千明は笑いが堪えられない様子だ。…それと、児玉(こだま)と呼ばれた男性…見た目からすると三十そこそこの年齢であろうに『警部』とは…特異な環境に身を置いていることも理由ではあろうが、ずいぶん偉いのだな…。

 「何か、変わったことは…連絡する様なことは無いか。」

 児玉警部に尋ねられて、後ろ手に組んで突っ立っている青年刑事は、慌てた様に、

「はい…あっ、いえ。異常ありませんでした。」

 …当然、そのようなあやふやな回答がすんなり通る訳も無い。多少、険の差した表情で、児玉警部が、

「おいっ、物事ははっきりと伝えて貰わなければ困る。本当に何も無かったのか。お前の勝手な判断で、見逃している様なことは無いのだろうな。」

 まぁ、青年刑事の態度を見ていたら、誰でも何かしら(いぶか)しく思って当然だろう…。

 児玉警部に追求されて、青年刑事はどこか不承不承といった素振りを覗かせながら、答える。

 「はぁ、その…実は先程まで、このロビーに学生と思わしき男女が居ました。しかし、男の方の体調が悪くなった様子で、どうやら二人ともにすぐに帰った模様です…。いえ、帰りました。」

 青年刑事が、自分と小太郎が睨み合いになったこと話さなかったのは…ただ忘れていたからなのか…それとも意図的なのか。…なんとなく、後者なような気もするが…。

 児玉警部は、言い終えてなおコチコチに固まっている青年刑事を厳しい目で見据え…だが、口調は穏やかに尋ね返す。

 「当然、その二人の名前と、身分、それに連絡先は聞いて有るんだろうな。」

青年は一際背筋を伸ばして、

「申し訳ありません。名前を控えさせて貰う前に、帰ってしまったものですから…。」

 「二人の顔は覚えているのか。」

「はっ、覚えております。」

 「もう一つ…お前から見て、二人の中に『鬼人(おに)』は居たか。』

「いいえ、居りませんでした。」

 児玉警部は青年刑事の硬すぎる応答と、参考人かもしれない相手に対する不味すぎる対応に、呆れた様に頭を掻いた。

 そして警部が力強く息を吸って、何か言おうとするものの…さりげなく、千明が何かをいさめる様に、許しを請う様に、困った顔を見せるので…結局は、どこかしぼんだ様な空気で…児玉警部が、

 「そうか…今回は、千明お嬢様もいらっしゃるし…それに、容疑者と思われる『鬼人(おに)』が大野洋平で確定的なこともあるからな…特に問題にはしない。だが、これからもあまりいい加減な仕事をする様なら、そのときは見逃さないからな。…千明さまに感謝しろよ。」

 その寛大な処遇に…実際、どこを見ているのか…微動だにせず真正面を向いていた青年刑事が、声を張り上げて、

「はい、有難うございます。」

 …本当に解っているのか、こいつ…。その感慨は、児玉警部に共通のものだったようで、いっそう呆れたように溜息を吐く。

 「お前なぁ…見逃すと言っても、もしその二人の証言が必要になる様な場合。お前には、この辺りの学校関連の施設をしらみつぶしにしてでも、その二人を探し出して貰うからな。解ったな。」

「は、はい。」

 これで、少しは青年刑事も失速…もとい、落着きを取り戻しただろう…。

 そして、どうにかゆとりの出来たところで、千明は場をとりなす様に微笑んでから、恥ずかしそうに顔を赤くしている青年刑事に、

「児玉さんが、『塊堂(かいどう)』に縁のある方が現場の検証をされたって仰っていたので、まさかとは思っていましたけど…やっぱり、(たける)さんだったんですね。警察に入られたとは聞いてましたけど、本当、立派な刑事っぷりじゃないですか。」

 千明の口ぶりからすると、どうやら青年刑事の事を前から知っていたようだ…。健と呼ばれた青年刑事は、赤みの増した顔を逸らす様に、やや下向きに成りながら、

「はっ、はい。ありがとうございます。これも、千明お嬢様を始め、皆様のお陰です。」

 「そんな、私は何も…とにかく、おめでとうございます。」

 児玉警部はそんな二人のやり取りに、いかにも思いだしたかのように、

「そうそう、確か織田(おだ)は、昨年まで千明さまのサークルのメンバーだったんだよな。」

 「はい、自分が『鬼人(おに)』だと解ってからすぐに、お世話に成り始めました。」

 児玉警部まで会話に加わったことで、健はあがりにあがって、余計に口調が堅っ苦しくなる。

 そんな健の姿を、千明は小首を傾げて、気の毒そうに、かつ愉快そうに眺めながら、

「お世話だなんて…こちらこそ、『鬼眼(きがん)』をお持ちの健さんには、ずいぶんお世話になりました。それに今だって、健さんのフィアンセの愛美(まなみ)さんには、サークルで仕事をするときにはほとんど毎回、助けてもらってるんですよ。」

 児玉警部は口の端を伸ばして、

「愛美と言うと…あぁ、例の女子大生…話によると、彼女も『塊堂(かいどう)』の縁者だそうだが…。そうでしたか、千明さまのサークルに所属していましたか。…で、婚約者との仲は順調なのか、織田。」

 健はいよいよ耳まで真っ赤にして、

「はぁ、それもう、お陰さまで…。」

 しかし、ここで言われっぱなしでは男が廃る。健は精一杯根性を示さんと、

「あぁ、えっと、お二人とも。向こうにあるカウンターの裏手、そこのスタッフルームで監視カメラの映像が見られる様に借り受けていますので…ご案内いたします。」

 健の口上に、二人もようやくカジュアルモードを改めて、

「そうですか。では、お願いします。」

 「スタッフルームには今、水上(みずかみ)さんが居るんだろ。織田、案内はいいから、お前は引き続き店内の警戒を頼む。」

 千明の言葉をやんわりと制しながら、児玉警部が健に任務の続行を命じた。それが意外だったのか…あるいは、不服だったのか…健はなお粘って見せる。

 「あの、しかしですね…映像の検証の際には、その場に私も立ち会った方が良くないですか。」

 そんな健の抗弁に、児玉警部は労う様な口調で、だがきっぱりと、

「映像の細かい検証なら、お前が頑張ってくれたおかげでもう十二分に済んでいる。だからお前は、少しでも纏まった『()』が見つからないか、不審な人物が周辺にいないかを見張ってくれ。」

 幾らなんでも、ここまで言い含められては健も従わざるを得ない。

 「はぁ、解りました…。」

と、如何にも残念そうに生返事を返しつつ。千明の…、

「私、健さんの鬼眼()が見たものを全面的に信用してますから。でも、心配してくれてありがとうございます。」

と言う、聞き様によっては、真面目な男にはなかなかきつい言葉と、

「なに、また何かあったら連絡するよ。…それから、警戒するにも螺旋階段の真上だと目立ち過ぎだ。もう少し、三階フロアの方へ下がって監視しろよ。」

との、児玉警部の声に発破を掛けられながら…健はとぼとぼと螺旋階段を上に歩んでいた。

 その哀愁漂う背中を見ながら、児玉警部が疲れた様に呟く。

 「どうもすいません、お恥ずかしい所をお見せして…。織田も、まだまだ学生気分が抜けなくて…困ったものです。まぁ、『能力』は得難いものが有るし、頑張ってくれているのはこっちも解ってはいるんですがね。」

 千明はまた、女子高生とは思えない、大人びた微笑みで健を見送りながら、

 「それだけ聞ければ安心です。健さんはなんたって努力家ですから、すぐに警察の皆さんの雰囲気にも慣れてくれますよ。これからも、彼のことともども、我が『サークル』メンバーをよろしくお願いします。」

 その如才の無い会話の構成に、児玉警部も舌を巻く。

 「いやはや、まったく…ご立派と申し上げましょうか。敵いませんよ、千明さまには…。」

 二人は、そんな軽い口当たりの言葉を交わしながら、カウンターの女性方へと歩いて行った。

 …一方、三階にたどり着いた健はというと…。ついさっきまで小太郎が覗いていた、暗い窪みのようなスペースのすぐ横で…まるで小太郎の生霊(いきりょう)にでも憑かれたかのように、自己嫌悪に陥っていた。…無警戒に…。

 その為、健は気付けなかったのだ…暗闇から自分に向けて伸びている透明な腕の存在に…少なくとも、今…強い力に口を塞がれたこの瞬間までは…。

 無論、気付いた時にはもう遅い。

 一瞬、視界がひっくり返る様な感覚。その次の瞬間には透明な何者かに…見えない強靭な怪物に…健は穴倉へと引き摺りこまれていた。

 おっと…ここで一つ訂正しておかなければならないな。

 確かに、健は情けないほどにあっさりと捕らえられはした。しかし、健にとっては自分を押さえつけている者の正体が、『強靭な怪物』などという抽象的な表現を使うまでも無く解っているのだ。

 口を掴まれたとき瞬時に覚えた、硬質ガラスに触れている様な感覚。そこから、こうして自分の下あごを締め上げているものが何であるかを確信していたのだ。

 それだけではない。健には見えない相手に対抗する術が、力があるのだ。…あるはずなのだが…。

 …健が『鬼人(おに)』の力の源となる『()』を…己の発する『鬼』を収束させて相手と同じ土俵へ乗ろうと、『力を纏おう』としたその時、聞こえたのだ…見えない相手が小さく笑うのを…。

 そして気付いた時には、深く力を孕んだ様なその声に、否応も無く耳を傾けさせられていたのだ…。

 「やはり、貴方も『鬼人(おに)』でしたか。それなら、これくらいは平気でしょうね。」

という声に…。

 その後は…健自身にも判然とはしない。

 相手の言い放った言葉に、健は何か言い返そうとした…いや、もしかしたら、腹に強い衝撃が走ったのが先だったかもしれない。

 肺の中が空っぽにされるような苦しさと、ただただ騒ぎ立てる痛覚。…それは、多分、見えない相手の拳だったのだろう…健は尋常でない力で突き入れられたそれに…ぷつりぷつりと意識の端々を断たれていく。

 そして…膝から崩れ落ちて、床にうつ伏せに成りながら聞いたのは、

「これで、お相子ですね。お互い恨みっこ無しってことで…悪しからず。」

 それから薄れいく己の『()』と、思考力の狭間で、健は見たのである。…彼の顔に付いている両目は塞がっていても、彼の右肩に浮かんだ…健が力を振り絞って紡ぎ上げた、ガラス細工の様に美しく輝く『鬼眼(きがん)』が…そう、健は間違いなく見たのだ…。

 (…く、黒い…鬼人…。)

 …その姿を…。

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