遠くへ行きたい
ぱぁん、と鋭い警笛の音が、まるで豪速球のように遠くから飛んできた。
プラットホームに入り込んできた電車の扉が開くと、大勢のサラリーマンや学生が降りてくる。
数える気にもなれないほどの人を吐き出した電車は、空席が目立つほどにがら空きになった。
「早く出てくれ、早く、頼むよ」
好き好んでこんな通勤時間帯に駅にいるわけじゃない。
本来なら、俺は電車が嫌いだ。
広場恐怖症で、大勢の人が行き来する空間が怖くて仕方ない。そんな俺にとって、朝の新宿駅なんて金を貰っても近寄りたくない場所だった。
何度か後ろを振り返り、ホームで停車中の湘南新宿ライナーに乗り込むと、端っこの空いている席に腰掛けてパーカーのフードを目深に被る。
頼む、早く出発してくれ。
そう小さく呟いて貧乏ゆすりをしながら電車のドアが閉じるのをじっと待つ。
なんでこんなに長時間停まっているんだ。何か事故であったのか。
『4番線、ドアが締まります。閉まるドアにご注意ください。黄色い線の内側までお下がりください』
機械的なアナウンスに続いて、恐らく駅員の注意であろう声が何度かスピーカーから響いてくる。
『はいドア締まりまーす。駆け込み乗車危険ですのでお辞――駆け込み乗車危険でーす! おやめくださーい! はい、ドア締まります』
ガコン、プシュー。
耳障りな機械の音に続いて、ようやく身体を大きく横に押されるような感触。電車はゆっくりと動き出した。
朝のラッシュの時間帯、都心から離れて行く電車に乗る人は少ない。
周りにも人の気配はあまりない。
無人とは行かないまでも、少なくとも俺の隣には誰も座っていない。
「助かった……」
「そう? 良かったね」
「あぁ、ホントに――」
思わずパーカーのフードを取る。
声がした方向に顔を向けると、そこには見慣れた女の顔。
一般的には美人とよんで差し支えないであろう顔立ちに、ショートカットの髪型。メガネを掛けてたその顔は、子供の頃から嫌というほど見てきた。
「それで? こんな時間にどこに行くの?」
「……な、なんで……? なんでここに――」
「それはお姉ちゃんのセリフよぉ。朝から黙って家を出るし、『行ってきます』も言わないんだもの。心配でついて来ちゃった」
「だ、大学は?」
「え? 大学なんかより愛する弟のほうが大事に決まってるじゃない?」
子供の頃からずっと見てきた、見慣れてしまった顔。
姉だ。
俺が逃げていたのは、この姉からだったのに。
何度も周りを確認して、この人がいない事を確認したのに、どうしてここに。
「んふふふ、お姉ちゃんは何でもお見通し」
「やめてくれよ……なぁ、俺が何した? 何か怒らせるようなことした? なら謝るからさ……謝るから、頼むからついて来ないでくれよ……」
「健ちゃんは何も悪いことしてないよぉ? ただね? ほら、健ちゃん小さい頃から人がいっぱいいるところ苦手だったじゃない? 学校もいけなくなったのに、朝からいきなりお出かけするんだもの。心配するよ、お姉ちゃんだもん」
姉は、俺と違って優秀だ。
広場恐怖症、というよりも対人恐怖症の俺は、高校入学と同時に家からでられなくなった。
結局今の時点でも不登校のまま、なんとか課題を家でこなしてギリギリ進級はしているけれど、両親からは『出来損ない』扱いだ。
そんな俺とは正反対のように、姉は眉目秀麗、文武両道、品行方正と、やたらと四字熟語が似合う。もう一つ四字熟語をつけるなら『完璧超人』だろうか。
「大丈夫だよ、お姉ちゃんだけは健ちゃんの味方だから」
子供の頃はなんとも思っていなかった。
やたら俺にベタベタとくっついて来ることも、小学生になってからも、『心配だから』と俺が入っているトイレにまでやってくるのも、中学生になってから『ちゃんと洗えてる?』と風呂に一緒に入ろうとしてきたことも、俺にとっては日常すぎて、疑問に思うことすら無かった。
でも、今ならわかる。
この人は異常だ。
俺が対人恐怖症になったのも、ある意味この姉が原因だ。
『お外は怖いからね、お姉ちゃんから離れちゃダメよ』
『知らない人は危ないの。お姉ちゃん以外ついてっちゃダメ』
『お父さんもお母さんも、健ちゃんが本当はできる子だって分かってない。お姉ちゃんだけは分かってるから』
『お姉ちゃんだけは健ちゃんの味方だからね?』
そう呪文のように繰り返されるうち、中学校2年生の頃には、俺は完全に姉に依存していた。
夜も姉のベッドに潜り込まないと眠れず、他人が無条件に恐ろしく、そして姉から離れる事に恐怖を覚えるようになっていた。
そんな俺を、姉は嬉しそうに抱きしめて頭を撫で、甘く優しい声で慰める。
この人は、生まれ持った異常なレベルの愛情を、最も身近な異性である俺に向けている、いわゆるブラコンというやつだ。
「気晴らししたくなったんだよね? だから埼玉なんて行きたくなったんだね? 大丈夫、お姉ちゃんが一緒に行ってあげるから。ね?」
「姉ちゃん、お願いだから…………ひとりにしてくれよ……」
「あらあら、怖かったのね? 新宿駅なんて人がいっぱいだもんね? 広場恐怖症だと怖かったよね。大丈夫、大丈夫よぉ?」
この声だ。
優しく、暖かく、柔らかく、イヤでも安心してしまうような、甘えたいという衝動を抑えられない声。
人肌の、暖かく優しい泥沼だ。
この声で囁かれる『お姉ちゃんだけは味方だからね?』という言葉は、俺にとって条件反射を起こすほど繰り返されたものだ。
でもダメだ。
俺はこの人から離れなければ。
昨日、俺は意を決して両親に『姉から離れたい』と打ち明けた。
だが出来損ないで引きこもりの俺の言葉が、息子を公然と『出来損ない』と語る両親の心に届くはずもなかった。
『お前も少しはお姉ちゃんを見習え』
それが、両親からの最終回答だった。
誰も俺の言葉には耳を傾けない。
『健ちゃんはひとりじゃどこにも行けないから』
誰も俺を信じてくれない。俺には何もさせてくれない。
『お姉ちゃんが全部やってあげるから、大丈夫だよ』
俺は、ひとりでは何もできない。俺の味方なんて誰一人いない。
『大丈夫、お姉ちゃんだけは、健ちゃんの味方だから』
俺は、どうしてこうなった。
不意に、姉の小さな手が俺の手をぎゅっと握る。
はたから見れば『愛情に溢れた優しい姉が、不安そうな弟を安心させるために手を繋いであげた』というように視えるだろう。
でも違う。
この手は、俺を逃さないために、捕まえておくために握られている。捕食者の手だ。
「大丈夫よ、お姉ちゃんが一緒に行ってあげる」
「姉ちゃん……一体何がしたいんだよ……俺をどうしたいんだよ」
「えー? そんなの決まってるじゃない」
がたん、と電車が大きく揺れる。
手だけじゃない。俺の腕を抱きかかえるようにしがみついてきた。
「お姉ちゃんをお嫁さんにしてくれる、って言ったでしょ? 大丈夫よ、お姉ちゃんが養ってあげる。怖い他人は、全部お姉ちゃんが遠ざけてあげる」
嗚呼、俺はこの姉から、一生逃げられないのか。
今日のショートショートは、「歪んだ愛情」をテーマに書いてみました。
優しくて暖かい泥沼は、人をしっかりと捕まえて離さないものです。




