満月とパンダ
ドライブに行こう。ある眠れない満月の夜、パンダからそんな連絡が来た。
しばらくすると窓の外から、車が家の前に停まる音がした。ピコンと、家の前に着いたとパンダからメッセージが届く。寝巻きから外着に着替え、厚手のコートを引き寄せる。袖に腕を通すと、布の冷たさが一瞬だけ肌を撫でた。鏡の前で、ボサボサになっていた髪を少しだけ梳かす。マフラーを巻くか少し迷ったが、そのまま玄関を出た。
外へ出た瞬間、冷たい冬の空気が身体を包み込んだ。夜空には雲がなく、澄んだ空気の向こうに星がよく見えた。吐いた息が白くほどけて、すぐに消えた。街灯の下に停められていた見覚えのあるアーバンカーキのシエンタを見つけ、助手席に乗り込む。車内は暖かく、ほのかな暖房の匂いがした。窓はうっすらと曇り、ダッシュボードの小さなランプが淡く光っている。
「寒いね」
「うん」
「眠れない夜はだいたい寒い」
「そうとは限らなくない?」
運転席に座っていたパンダが私に話しかけてくる。私はシートベルトをしながらパンダの方を見る。パンダは何も着ていなかった。パンダだから。それからパンダは何も言わないままシフトレバーをドライブへと動かす。車は音もなく、冬の夜の道へと滑り出した。
*
「どうして世の中にはパンダの哲学者がいないか知ってる?」
夜に街を走りながらパンダが話を振ってきた。車は住宅街を抜け、大きな通りに出た。窓の外では、店のシャッターが街灯の光を鈍く返し、自動販売機の青い光がぽつりと浮かんでいる。
「まず大前提として私たちパンダは君たち人間よりもずっと賢い。その証拠にパンダの世界には大学も専門学校もない。元々賢いんだから、お金を払ってそんなものに通う意味がないからね。ただ、地球の歴史で偉大な功績を残してきた哲学者たちは全て人間であり、パンダではない。この話を聞いて、君は尋ねる。どうしてなの? と」
「どうしてなの?」
「簡単なことさ。哲学とはつまり世界を複雑で曖昧なものとして受け入れる営みなんだ。それだけは人間の方が優れている。パンダはダメだ。私たちはいつだって、すべてのことに対して白黒つけたがる。パンダだけにね」
「お腹空いたからあそこのコンビニに寄ってくれる?」
「オーケー」
車を店の前に止めて、私たちはコンビニに入った。自動ドアが開くと、暖かい空気と蛍光灯の白い光が一緒に流れ出てくる。店内は静かで、レジの奥では店員が肘をついてスマートフォンを見ていた。
私は店の奥に進み、棚を物色していく。コンビニは宇宙だと思う。そこには在庫管理され、綺麗に並べられた商品が無秩序に存在している。
ペプシコーラ、いろはす、湖池屋のポテトチップス、チョコボールのピーナッツ味、雪見だいふく、ガリガリくんのみかん味、ホッチキス、乾電池の蓋、USBケーブル。
洗濯ばさみ、空の封筒、シャープペンシルの芯、砂時計、ドアノブ、日本地図、竹とんぼ、ビーフジャーキー、ミックスナッツ。
冷蔵庫のアース線、運転免許証、スキーウェア、片足だけの靴下。
お店の一番奥の棚、一番目立たない所には私の昔の写真が並べられていた。見た所一枚も売れてなさそうなことにちょっとだけむかっとしながらも、私は先頭にかけてあった一枚を手に取った。
写真は十年くらい前、私が小学二年生の時のもの。家族旅行で軽井沢へ行った時に撮ったものだった。お父さんはスカートを履き、お母さんは逆立ちをして、私はマイケルジャクソンだった。
「いや、マイケルジャクソンってあんた。世代じゃないでしょ?」
写真の中の私が突っ込みを入れる。それから私はおかかおにぎりを一個買ってコンビニを出た。車には先に買い物を済ませたパンダが座っていて、コンビニで買った笹を食べていた。
「昔と比べてさ、売ってる笹の長さが短くなってる気がしない? 値段は同じなのに」
「ちょうわかる」
私はおにぎりを半分パンダにあげた。パンダも私に笹を半分くれた。再び車が走り出す。夜空には満月が煌々と輝いていた。
*
一時間ほど走ったころ、パンダは海沿いの道に車を寄せた。小さな埠頭公園だった。
駐車場には車が一台もなく、街灯がぽつりと立っているだけだった。私たちは車を降りる。外の空気はさっきよりも冷たく、潮の匂いが混じっていた。
ベンチがいくつか並び、少し先には柵があり、その向こうに海が広がっている。
海は黒かった。波の形もよく分からない。ただ、ときどき水が動く音だけが聞こえる。遠くの港の灯りが、水の上でかすかに揺れていた。
私とパンダは柵に手をつき、じっと目の前の海を眺め続けた。そしてふと視線を横に向けると、海の前に小さな看板が立っていることに気がつく。その看板にはこう書かれていた。
『海』
私はしばらくその看板を見て、それからもう一度目の前の黒い水面へと視線を戻した。横にいるパンダも同じ方向を見ていた。
「人がいないね」
「今は真夜中だからね」
「パンダもいないね」
「ここは埠頭公園だからね」
「人がいないし、パンダもいないね」
「今は真夜中で、ここは埠頭公園だからね」
私たちはそれっきり黙り込む。夜の静寂の中で海の音だけが続いていた。やがてパンダが言った。
「そろそろ帰ろうか。朝に追いつかれる」
それから私たちは柵を離れ、駐車場のほうへ歩いていった。
埠頭公園を出ると、車はまた静かな道へ戻った。
しばらく走るうちに、街の様子が少しずつ変わっていくのが分かる。夜の暗さはそのままなのに、ところどころに動きが増えていた。
コンビニの前には新しい車が一台止まり、店の中では店員が棚を整えている。遠くで新聞配達のバイクが通り過ぎ、交差点ではトラックがゆっくり信号を曲がっていく。世界はまだ暗いままだったけれど、その暗さの中で、小さな音や光が少しずつ増えていた。
私は窓の外を眺めていた。パンダも何も言わず、静かにハンドルを握っている。
やがて見慣れた通りに入り、車は私のマンションの前で止まった。シフトをパーキングに入ると、車内は急に静かになる。
ありがとう。私はお礼を言いながらシートベルトを外した。パンダは小さくうなずいた。コンビニの袋を手に持ち、ドアを開けて外に出る。空気は冷たく、街はまだ夜の中にあった。
「いい夢を」
パンダはそう言った。私は軽く手を振る。ドアが閉まると、車はほとんど音もなく動き出し、暗い通りの向こうへゆっくり消えていった。
*
目を覚ましたのは、昼前だった。
カーテンの隙間から入る光が、部屋の空気をぼんやり明るくしている。私はしばらく天井を見てから、眠たい目をこすりながら起き上がった。
机の上に、コンビニの袋が置きっぱなしになっているのに気づく。袋の中には昨日パンダからもらって結局食べ損ねた半分の笹が入っていた。
私は朝ごはん代わりに笹をかみかみしながら、テレビをつける。お昼の情報番組が流れていた。
画面には動物園の映像が映っている。レポーターが柵の前に立っていて、その後ろではパンダがのんびり笹を食べていた。
「長年親しまれてきたこのパンダですが、今月いっぱいで中国へ返還されることが決まりました」
私はカーペットの上に座り込み、笹をもう一口かじる。窓の外は明るく、街はすっかり昼になっている。
眠気はあるが頭はすっきりしている。久しぶりによく眠れた気がした。私は小さく笑った。
私は部屋の隅に置いてあるタイヤを抱き寄せる。それから両腕でぎゅっと抱きしめて、そのまま後ろにごろんと倒れた。パンダみたいに。




