少年
隣村に向け歩き出した姉弟は互いの手を強く握り、緊張が解けて重くなった身体をなんとか引き摺り進んでいく。
これから隣村に向かい、採石場を探したとして。一体何になるというのか。
浮かぶ疑問に蓋をして、目的を理由に挿げ替えることで、なんとか歩みを止めずにいた。
しかし――。
ふと耳に入った音に、ふたりは固まり息を呑んだ。それが男の話し声だと気付いて急ぎ道を逸れ木のうしろの茂みに身を隠す。
村の誰かが自分たちを探しに来たのなら名を呼ぶはず。再びの緊張は先程以上に重くふたりに伸し掛かる。
やがて遠くに見えた男たちに見覚えはなかった。一縷の望みさえ潰えたことを嘆く間もなく、茂みに伏せ見つからないよう祈りながら通り過ぎるのを待つ。
近付く足音と話し声。
死を感じる重圧の中で聞き取れたのは、逃げた子ども、そして皆殺しという言葉だった。
男たちはふたりの前を通り過ぎ、そのまま道なりに――隣村の方向へと進んでいく。
ぎゅっと、姉が少年の手を握った。
合わせた眼差しに浮かぶのは、慈愛と覚悟。
それは家を出る父親と窓を閉める母親が見せた、あの微笑みと同じものだった。
その意味を少年が呑み込むよりも早く、姉は手を放して立ち上がり、ゆっくりと数歩距離を取る。呆然と見上げる少年に微笑んだあと、先程までより大きな音を立てながら後退った。
物音に気付いた男たちが振り返った瞬間、道の反対側へと駆け出す姉。男たちの怒声がその背を追う。
どちらも遠退くのをじっと待ってから、少年は隣村へと駆け出した。
溢れる涙はそのままに、少年は懸命に走る。
本当は姉を追いたかった。
本当は村に戻りたかった。
しかし自分は姉に託された。
隣村に危機と村の惨状を伝えられるのは、もう自分しかいないのだ。
(……お父さん、お母さん、お姉ちゃん……)
これからも続くと疑わなかった日々の幸せは、たった一夜にして消え失せた。
このあと隣村に辿り着けたとして、それからの自分に一体何が残されているというのか。
父と共に抗えず。母と共に残れず。姉と共に行けず。こうしてひとり逃げるくらいならいっそ誰かと一緒に死ねればよかったのに――。
絶望の中湧き上がる思いを必死で振り払う。
父も母も姉も、自分に生きることを望んでいたとわかっていた。
だからこそ走り続ける。
生きることを諦めなかったのではない。
死ぬことを諦めたのだ。
辿り着いた隣村では、見るからに焦燥した少年のあまりに剣幕な様子に村人たちも信じてくれた。今は留守だという村の責任者に代わり、協力して野盗の襲撃に備える。
やがて戻った責任者の男は、村人に保護されていた少年を自宅へ招いて詳しく話を聞いてくれた。そして自ら村の外へと偵察に出たが、現状では特に異変はなかったらしい。
警戒をしたまま夜が訪れ、何事もなく朝を迎える。
あと数日様子を見て異変がなければ少年の村の現状も調べに行くと、責任者が請け負ってくれた。
隣村に危機を伝え、村のことも任せることができた。
もう自分にここでできることはない。
もう自分にここでしなければならないことはない。
いつまでいてくれてもいいと言われたが、自分ひとりが隣村の優しさに甘えて生きるのも心苦しく。それなら姉が行こうと言っていた採石場を目指そうかと考えた。
古い詩に描かれる採石場の星の石。幸せを与え、分け合うことができるという。
地の果ての採石場はどこにあるのかもどう行くのかも解らないが、どうせ待つ者も戻る場所もないのだからどれだけ時間が掛かったとしても構わない。
しかし正直に話すと無謀だと止められるかもしれないと思い、少年は自身を恩知らずであると思いつつもこっそりと隣村を出た。
日暮れ時の忙しなさに紛れ、数日間世話になっていた責任者の家を出てきた少年。採石場を目指すといってもどうしていいのか解らないが、その前に一度村に戻ってどうなってしまったのかを自分の目で確認してこようと思っていた。
元のままの村の姿が見られる筈もなく、恐らく今よりも苦しくなるのだと気付いてはいたが。それでも目を逸らしたまま旅立つことができず、少年はとぼとぼと村への道を辿る。
暫く進んだところで背後に何やらざわめきが聞こえた。もしかしたら隣村の村人が探しに来たのかもしれないと思い、急いで茂みに身を隠す。
隣村の方からやってきたのは責任者と他数人だった。斜光に照らされる責任者の顔はやけに殺気立ち、他の男たちに強い口調で指示を出している。
今までとあまりにも乖離するその様子に、見つかってはいけないと肌で感じた少年はそろりと顔を引っ込めた。
「そうカリカリしなくてもいいじゃねぇか」
責任者のうしろについていく見るからに粗野な中年の男がそうぼやく。
「子どもひとり逃げたところでなんもできやしねぇだろうし」
「元はといえばお前たちがあの子どもを逃がしてしまったからだろう」
苦々しく呟いて、責任者は苛立たしげに歩調を上げる。
「あの場で片が付いていればこんな芝居をする必要など――」
「あのよ、何を勘違いしてるのか知らねぇが、お前さんは単なる雇い主であって俺らの主人じゃねぇんだぜ?」
途端に剣呑になった男の声音に、責任者は動揺して続く言葉を呑み込んだ。
「と、とにかく。あの子どもを見つけて殺せばそれで済むんだ。金は受け取ったんだ、最後まで協力してもらうぞ」
「はいはい」
慌てた様子でまくし立てる責任者と、怒気を引っ込めぞんざいに頷く男、そしてニヤニヤとそのやりとりを眺める男たちは、少年の住んでいた村の方へと消えていった。
再び戻った静寂の中、少年は茂みに伏せたまま呆然としていた。
聞こえてきた会話の内容を全て理解したわけではない――否、理解できなかった。
自分と隣村を救う為に自ら囮となった姉。その死の意味を失うどころか、そもそも隣村こそが元凶であったというのか。
――あの場で姉が命を落とす必要など微塵もなかった。
あのままふたりで逃げていたなら姉は死なずに済んだかもしれない。今頃ふたりで採石場を探していたかもしれない。
そもそも危機になど陥っていない両親の仇を助けようとして姉は命を落とした。その事実に少年はただ泣きながら打ち震える。
止まらぬ震えは怒りからか絶望からか。
止まらぬ涙は悲しみからか無念からか。
次第に濃くなる夜闇の中。やがて少年は立ち上がり、ふらりと山の奥へと歩き始めた。
自分はどうすべきなのか解らなかった。どう生きていいのかも解らなかった。
死ぬのは別にいい。だがあの男たちに捕まるのだけは嫌だと思った。
その一心でよろめきながら険しい方へと分け入る少年。しかし既に限界を迎えていた身体と心では体力も注意力も足りない。
踏み外した足が大きく滑り、ぐらりと身体が傾く。
「あっ」
短い声を残し、少年の身体は斜面を滑り落ちていった。
――辺りは霧に覆われていた。
ゆっくりと目を開けた少年は、痛む身体をなんとか起こして辺りを見る。
すぐ傍を浅く水が流れているのは辛うじて見えるものの、あとは霧に紛れてはっきりしない。
暫くそのまま座り込んでいた少年は、やがてハッとしたように呟いた。
「……採石場を探さないと……」
それからゆっくりと立ち上がり、フラフラと霧の奥へと消えていった。




