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先生、おやすみなさい  作者: けもの
高校三年生
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海を知る者



 俺が出会ったときのアスマは、自分の興味のあることに純粋で、周りの目など気にせず生きてきた人間特有の玄人感がすでに備わっていた。


 大学生になったばかりの俺は、自分の人生が比較的順調に進んでいるのを自認していた。

 人よりも早くやるべき事をきちんとやるメリットを理解していたし、友人を選ぶ意味や、見た目が人に与える影響力の大きさも知っていた。

 成長期に変身した自分自身にも概ね満足していたし、周りより少し早く童貞を捨て、青年期後期に性的な欲求を一人で持て余すこともなかった。

 中学時代に厭わしく思っていた無意味な落書きをする人種が視界に入らなくなり、友人や、異性との性的な交わりを含む付き合いにも、自分なりの価値観が仕上がっていた。

 鬱屈するような不満も無く、将来についての不明瞭な不安は人並みにはあったと思うけど、それさえ楽観的に考えていた。

 ただ、心のどこかで自分が安全な浜辺を歩いていることも理解し始めていた。


 周りには俺には理解できない理由で、よくない付き合いを断ち切れない人がいた。

 恋人だったり、友人だったり、気の迷いで踏み込んだ悪い世界との繋がりだったり、親であることもあった。

 ギャンブルや酒など、対人関係に限らないこともあったが、それは医療の範囲だと思ったから繋がりは持たなかった。

 そんな人に出会った時、初めは話を聞いて励ましたり慰めたりしていたが、結局のところ断ち切れないのは本人の意思が薄弱であったり、依存していたりする場合が多くて、一向に前向きな行動を起こさず悩んでいるだけの彼らに、聞いているこちらばかり疲弊していくような気がして距離を置くことにした。

 ただ、アスマはそういう人達とも上手く付き合っていた。いや、むしろそういう人達の方がよく付き合っていたと思う。

 落ち着いて話を聞き、同調して、あるいは根気強くただそばにいた。

 次第に俺が自業自得だと思うような人でさえ、問題から足を洗って、人ごみに紛れるようにアスマのところからいなくなっていった。まるで旅立つように。

 俺から見ると酷く奇妙だった。アスマも俺に似た人生を歩む人間だと思っていた。

 いや、この年になっても好きな物に夢中でいられるという意味では、俺よりもずっと上々な人生を歩んでいると思っていた。なのに彼の行動は、俺のように偽善者的ではなかった。

 俺はそんな彼に憧れていたし、俺自身の順調な人生に、それで満足していていいのかという漠然とした問いを抱えていた。

 与えられたものに満足し、集団社会を生き抜くことがさほど難しくない自分。

 中学時代、粗暴さを赦すような教師に憧れていながら、理解できない彼らを煩わしいと感じて距離を取った自分が、本当に思春期の生徒たちに寄り添いきれるのかという疑問があった。

 そしていつしか、自分が避けて通る彼らのいる場所こそが海で、自分はただ安全な浜辺にいて、眺めているだけの海を知った気になっているのではないかと感じていた。

 生きるということはこんなに容易であるはずがない。もっと言い知れぬ不安に駆られ、周りのすべての人たちが自分を理解できない存在に思えたりして、そうして孤独で研ぎ澄まされた本能で、この世界で自分が自分である意味を問わなければならないような気がしていた。

 それと同時に、順調な人生が育んだ俺が、生きることに特別な動機など必要ないとも言っていた。



 アスマと出会ってしばらくが経ち、行きつけらしい落ち着いたバーに連れていかれた際に、俺は思い切って、「何故彼らを構うのか」とアスマに訊ねてみた。中学のときに先生にしたように。

 アスマはグラスを置いて俺を真っすぐに見た。


「お前は俺を見つける、でもあいつらは見つけられない。だから俺が見つけてやるんだ。俺が必要という点では、お前もあいつらと変わらないんだよ」


 中学時代よりももっと直接的な言葉だったし、字面だけ読めば傲慢にも思えたが、腹は立たなかった。ただ驚いた。

「お前だって現状に満足してないんだろ?」

 きっぱりと言い当てられて、認めるしか道がない。

「してないというか、今に満足しそうになってる自分に疑問を抱いてるって感じかな」

 歯切れの悪い俺をアスマは笑った。

 人生観について人に語ろうとすると、何故こんなにも自分が馬鹿みたいに思えるんだろう。

 若いせいだろうと思うけど、話し相手が彼であるせいもあると思う。

 俺は深く息を吐いて気分を落ち着けた。

「今、明確な行き詰まりがあるわけじゃないんだ。でも現状の考え方では、多分この先で苦労すると思う」

「教師になるんだもんな」

 ふっとぬくもりのある声になったアスマに、俺はただ頷いた。

「マニュアルはある。でも心は見抜かれる」

 アスマは俺が今後一生被ることがなさそうな色のニット帽を脱いで、やっぱり俺が一生染めることのなさそうな色の短髪を撫でて起こした。


「みんな自分が大切なんだよ。それでも悪い状況や傷付けてくる相手は現れる。そしてそれが慢性化すると不感症になって、そんなものでもあるだけいいかって思うんだ。自分にはこれ位が相応しいんだって。もっと望むのは分不相応で、今ある物に満足しないと、もっと悲惨なことになる気さえするんだ」


 俺は戸惑った。どれもアスマの人生で得られる諦念だとは思えなかった。少なくとも俺の見てきた彼の生き方はもう少し芸術家的というか、強い自己があった。

 俺はどこかで彼がもっと利己的であるだろうと思っていた。もっと洗練された主義があるんだと思っていた。ロマン主義でまごつく俺を現代アートでぶん殴るみたいな、ミニマムな物言いで俺に気付きを与えてくれるとか、そういうものを期待していた。

 ところが今なのか過去なのか、俺に不足している苦悩が、彼にはちゃんとあるらしかった。


「悩めるやつらは今以下になることに怯えてる。そして今いる場所こそが自分の適性位置だと思うようになる。居心地がいいんだよ、ずっとそこにいるんだからね。変わるにはきっかけがいる。自らの意志か、偶然か、他者の介入か。それを得て新しい場所に移っても、そこに居続けるには体力と忍耐がいる。自分がそこになじむまで、違和感に耐え続けなきゃいけない」


 アスマは明らかに彼らではなく、自分の内側を語っていた。

 俺は彼らから何かを得るべきなのではないかと思ってアスマに訊ねた。でも、アスマは彼らではなくて、彼の中に彼らを内包できるような思慮の器を持っていた。

 俺もそれが欲しいと思ったが、それが見聞きしただけで得られるものではないと分かった。

「嘘を吐くことに病んで自ら孤独を選ぶ人はいる。嘘で身を護らなきゃいけない自分を無価値に感じて、耐えられずに死んでしまったりね」

 俺の都合のいい期待は、アスマが放った『現実』に沈黙させられた。

 そんな人がいると聞いたことがあるが、出会ったことはない。

 どうして俺は出会わないんだろう。俺が避けているからか、嘘に気が付いていないのか。

「出会ったら、どうしてやればいい?」

「どうにかしてやりたいと思うなら、そばにいてやればいい」

「でも俺はそんなにできた人間じゃない、理解だってできるかどうか」

 今までのことを思うと難しく感じる。

 手元の酒を覗く俺をアスマが見ているのに気が付いて、頼りない心地でその視線を受けた。

 アスマは微かに笑った。

「どうにかしてやりたいって、相手がそう思わせてくるんだよ。そういう時はな、お前にその相手が必要なんだ」

「俺に?」

「放っておけない理由がお前の中にある。だから逃げ出すな。お前自身を見捨てることになるから」

 アスマにも、俺や彼らを放っておけない理由があるっていうんだろうか。

「今は俺に君が必要で、君にも俺が必要なのか?」

 アスマは眉を上げて頷いた。

「当然理由は同じじゃない、熱量も平等じゃない。それでいい。必要だってことだけで十分だろ? 誰も彼もにそう思うようになったら、NPO法人でも立ち上げろ」

 軽口に笑った俺をアスマはジッと見て、何かをジャッジするように隅々まで眺めた。

「そんな相手に出会うまでは、お前はそのままでいたらいい。一人でも多くの子どもの安全な目印になってやれ」



 結局、彼が何を動因に彼らに寄り添うのかは分からなかった。ただ俺が彼にきっかけを探したように、彼は、俺や彼らのきっかけになれるよう働きかけていたらしい。それがアスマに必要なことだから。

 普段の彼とは矛盾した印象が残ったまま、俺は物理的に忙しくなって、アスマは人混みに紛れてしまった。いや、お互いにお互いが必要なくなったということだったのか。

 時折遠くの国で起こった異常気象のニュースのように、誰かが彼のことを話すのを耳にしたりしたが、それはやっぱり俺が初めに持っていた印象の通りの彼でしかなかった。




 アスマは俺とは違った。海を知る者だった。

 ゆっくりと絶え間なく、今も揺れている。彼は海にいる。


「俺はあの時、アスマが言ってたことの殆どを理解できていなかった。なんでアスマが彼らを代弁できるのかが不思議だった」

「体験談だから」

「後から絵美にそうだって聞いて、少しは納得した。でもその時には殆ど忘れてしまっていた。ただ耳には残っていたみたいで、だから高瀬の悩みにも少しは寄り添えていたと思う」

「よかった」とアスマは目を伏せた。きっとそれは高瀬に向けて。

「まあでも確かに、あの時のお前に絵美ちゃんは挑戦だったよな。結婚するとは思わなかった」

 そう言って二杯目のウイスキーグラスを傾けると、アスマは何を思い出したのか、おかしそうに身体を揺らした。



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