アスマ
「久しぶりだな」
「うん」
数日迷ってアスマに連絡を取ると、すんなり会ってくれることになった。
久しぶりに会うアスマは、そう思ってみてもゲイには見えなかった。普通のヒゲの生えた洒落た格好の男だった。
もしかしたら俺はゲイについてなにか勘違いしているのかもしれない。大多数のゲイと言われる人たちは、こんな風にどこにでもいるただの男なんだろう。アスマのように、高瀬のように。
店はアスマが選んだ。店の人とは見知った仲のようだった。というか、恐らく上得意に分類されている扱いだ。
迷いなく奥の個室に通されて、「適当につまみを」とアスマは黒いベストを着た短髪の若いバーテンダーに声をかけた。
くすみひとつない靴を履いている彼は、にこやかに頷き、「お飲み物はお二人ともアスマさんのウイスキーで?」と見た目よりも高い声が確認する。
「俺はストレートで。同じでいいか?」
俺はウイスキーを嗜む人間ではなかったが、この先の会話を思うとそれくらいの酒が丁度いい気がした。
「じゃあ貰おうかな、水も多めに」
バーテンダーは柔らかい笑顔を俺に向け、綺麗に頭を下げて退出した。
「明日も仕事か?」
「ちょっと午後にね」
「それで、教職は順調?」
随分と久しぶりに聞くはずのアスマの落ち着いた低音が、しっくりと耳になじんだ。
ただ、どうも俺は緊張しているらしかった。
「どうかな、人間相手に完璧っていうのは難しいから」
言いながら、直近でインパクトを残した阿部君を思い浮かべた。
幸い二年になっても問題なく登校している。孤立している様子もない。ただ時々顔を合わせると耳を塞ぐマイムを見せてきて、昨夜の両親の情事を教えてくることがある。俺はいつも眉を上げて、何とも言えない顔を作るしかない。
「会話をしてくれる子たちばかりだから、ずっとやりやすいよ。俺の中学時代みたいに暴力や落書きだらけじゃない」
「それはよかったな」
ふっと目を細めたアスマに、頷いて返した。
「それで、どうして連絡をくれた?」
「田畑から帰ってきてるって聞いたから」
「ああ、今頃帰ってきた。結局結婚式にもお別れにも顔を出せなかった」
そう言っておしぼりに手を伸ばしたアスマは、以前よりもさらに落ち着いた雰囲気を纏って、今では少し年上にさえ思えた。
ウイスキーを嗜んでも何ら違和感がない。深みのあるヒゲの男。
「いいんだよ。お花をどうもありがとう」
「いや」
正直に言えば後から文字で確認しただけで、花の記憶はなかった。あのあたりの毎日は、今となってはどうやって生きていたのか定かではない。
思えばアスマとの交流は途中で止まったのに、ああして義理を尽くしてくれたのは少し不思議でもあった。
「もう二年か」
「そう」
形式的な間が訪れたが、いつも通り曖昧な記憶をかき混ぜるしかない。
ところがそうしていると、ふと以前、アスマと何か、人生についてのやり取りをした記憶が浮かび上がってきた。
こんな風に酒を飲みながら、どこかのバーで。
「失礼します」
会話の間を待っていたように、さっきとは違う店員が頼んだものを運んできた。
彼もさっきの店員と同様、パリッとした白シャツに黒いパンツで、バーテンダーではないのかベストは無いが、やはり靴が目に留まるほど綺麗に磨かれている。
黒々としたウェーブヘアを濡らしたようにスタイリングして、面差しは柔らかい。
彼は床に跪いて、まずは右手に持った木製の平たい皿をテーブルの真ん中に置いた。皿にはナッツやチョコレートやチーズが綺麗に並べられていて、こんなこじゃれたつまみを出す店に来るのは久しぶりだなと思った。
それからトレーに乗せたストレートのウイスキーを二つと、ミネラルウォーター、空のグラス。それらを一つ一つ丁寧に、構図が決まっているかのように慎重に置いていった。
俺はそれを待つ間、会話の取っ掛かりとなりそうな思い出話を探したけれど、店員が去って、無言でグラスを傾け合ったアスマがウイスキーを舐めるのを見て、まずは彼に今の自分を全て晒さなければいけないと思った。
そう、確かあの時もそうだった。
「絵美が死ぬ前に、受け持ってた生徒がいたんだ」
「うん?」
前振りも無く話が始まったことに、アスマは微かに驚いた顔をした。俺はそのまま話を続けた。
「担任になる前から時々俺のところに来ていた。いつも大事なところは言わないんだけど、恐らく俺との会話が、何か自分のヒントになるんじゃないかと考えていたんだと思う。勉強ができて、それ以上にサッカーが上手くて、特待生の誘いもあったんだけど、彼はそれを断って、三年の夏を前にクラブも辞めてしまった」
アスマは黙ったまま、俺の話の続きを待った。
「理由は言わなかった、親にも、誰にも。でも俺の前では少し泣いてた。変わりたくて変わるんじゃないって言って」
グラスを取ってウイスキーを一口飲んだ。口に含む量を間違えて、思わず眉をしかめた。
「彼が卒業して直ぐの春に絵美が死んで、正直その年のことはあんまり覚えていないんだ。でもまあなんとか生きてた。一年は頑張ったけど、周りの気遣う空気に耐えられなくて転職した」
「どこ?」
「次咲中学校だよ」
「ああ、共学になったんだっけ」
アスマは何度か頷いて、「それで?」と話の続きを勧めた。
「眠れなくて、夜中に時々近所を徘徊した。春休みは特に頻繁に。時間もあったし、一周忌も近付いてたからかな。そしたらある日、その生徒に会ったんだ。真夜中過ぎの公園で」
先生死んじゃったの? 幽霊?
「彼は俺にゲイなんだって言った」
アスマは何も言わない。
「バレンタインに女の子が二人、彼を取り合って停学になったって。自分がゲイだって言ってたら、二人はそんなことにならなくて済んだのにって。彼のせいじゃないって言ったけど、嘘ばかり吐くことに疲れたって言った。サッカーも本当は辞めたくなかったって」
「怖かったんだな」
アスマは簡単に答えを言った。
「そうだね、中学の時は自覚したばかりで、人に触れるのが怖かったって言ってた」
「お前、その子を一人にしなかったんだよな?」
アスマは当たり前を確認するように言った。俺はそうできることにホッとしながら頷いた。
「そばにいたよ。殆ど毎日メールして、電話して」
「それで?」
「段々元気になっていったと思う。高校二年生になって、初めはその騒ぎのせいで周囲からの視線にさらされてたけど、すぐに友人もできた」
クラス中で自分の話をされているのを聞いてしまったと言われた時は、想像しきれずにただ胸が痛んだ。あの時はまだ俺にも完全には慣れていなかったし、言わずに飲み込んだ不安もあっただろう。
「孤立しなくて良かったと思ったけど、自分と異なる大多数の中で生活するのは、俺が思うよりも簡単じゃなかった。まず嘘が大前提にある。それから比較も共感もできない環境での自己の確立。青年期に誰もが感じる衝動とか欲求、そういったもの全てに躊躇いと自己嫌悪が付随してた。時々凄く不安がって、吐き出す場所を作れていることにはホッとしたけど、当たり障りのない言葉しか選べなくて、凄く歯痒かった。好きでもない男の人とそうなる夢を見て吐いてしまったりして」
「可哀そうに」
アスマが珍しく言葉に感情を乗せた。
「これ以上変わりたくないって泣いてた」
思い返せば、あの時が初めて高瀬を抱きしめてやりたいと思った瞬間だったかもしれない。
「今もつらそうにしてるのか?」
アスマが言って、俺は自分の手に視線を落とした。
「今は……わからない」
「どういう意味だよ」
少し芯のある声で問われて、俺は酒を一口舐め、それからアスマと視線を合わせた。
「これは、俺の話なんだよ」
「え?」
眉を寄せるアスマの視線を逃れて、置かれたグラスに視線を戻す。
「俺は、絵美を亡くして空っぽになった心を高瀬で埋めてた」
「その子、高瀬って言うの」
「そう」
頷いて高瀬との一年を思い出す。
「毎日の他愛ない話を教えてくれた。困った時や辛い時には俺を頼ってくれて、泣いたりすることもあったけど、笑うことも多くなった。眠れなかった毎日の終わりに、俺がいてくれて良かったって言ってくれるんだよ。それからおやすみって言い合って眠るんだ。満たされたよ、凄くね」
アスマは黙ってミネラルウォーターを開けると、空のグラスに注いで俺の前に置いた。礼を言って一口含む。
「手に触れたいって、そう思われたいだけだって言ってた。特別な願い事みたいに」
今思い出しても切ない気持ちになる。
「だから、俺が触れてやりたいって思ったんだよ」
アスマは俺を見てしばらく黙っていたが、「してあげたのか?」と柔らかな低音で言った。俺は答えずに、光を弾くグラスの淵を眺めた。
「ドランにスーツを修理に行く途中で会って、一緒に連れて行ったんだ」
「ドラン。ああ、お前の担当香坂さんだろ」
何で知ってるんだろう。相変わらず不思議な男だ。
「香坂さんが遊んでくれて、俺は高瀬にストールをプレゼントした」
「高かったろ」
「どうでもよかった、喜ぶなら」
「それで?」
「帰りのバスでそれを高瀬の首に巻いた。戸惑ってるのが分かったけど、そのまま。良くない大人になっていく気がした。でも次に会った時には手を取って、抱きしめてた」
「展開が急だな」
俺は苦笑を見せて、その日の高瀬に起こった出来事を話して聞かせた。
「誕生日に好きだった親友が彼女を連れて、か。それは確かに切ない」
「意外と平気って口では言ってたけど、消えてしまいそうにも見えた。我慢して諦めてばかりいたのを見ていたから、一人にしたくなかった」
「向こうはなんて?」
「手を握ってくれてありがとうって、慰めだと思ったのかな」
「それから?」
「連絡がなくなって、バイト先に会いに行ったら、俺から自立するって」
「自立」
アスマが眉を顰めた。
「俺の行き過ぎた行動がいけなかったのかもって思った。でもクリスマスに思い切って連絡したら、雪の中を走ってきて、クリスマスプレゼントをくれた。ストールのお礼だって、ドランでハンカチを買ってきてくれた」
「高校生が一人で入るには勇気が必要な店だけどな」
「ハンカチしか買えなかったって言ってたよ」
「それは可愛いな」
アスマの言葉に頷いた。
「その子もお前が好きなんじゃないのか」
も、と言われて思わず笑ってしまった。
「今思うと、どうだったのかな。その時の俺はそんな風に思ってくれてるとは考えてなかった」
「なんで」
俺は首を振りながら、気持ちが重たくなっていくのを感じた。でもこれを言わなければこの話は始まりも終わりもしない。
「彼は、絵美が生きてると思ってるから」
「は?」
思えば、出会ってからアスマがこんな風に驚くのを初めて見たかもしれない。
「それは……なんて言えばいいのか、まだよくわからないな」
戸惑うアスマに、どうしてそんな嘘をつくことにしたのかを語った。
後悔が募っていったなどと言い訳はしなかったが、嘘の始まりの俺の思惑をアスマは理解してくれたようだった。けれども俺は話の途中で何度も、いっそ叱ってくれたら楽なのにと、どうしようもないことを思った。
「前から時々、夫婦の時間を邪魔してるって遠慮することがあったんだ。そんな必要はないって言いたかったけど、絵美の死を告白するには嘘が増えすぎてた」
「遠慮させないために吐いた嘘が、結局遠慮させたのか」
「そう」
「それで、お前はどうするつもりだったんだ」
「後悔しながら、ただ迷ってた。失いたくなかったし、そばにいたかった。高瀬にも俺が必要だって思ってた。だから自立なんて言われたら、俺からは連絡できなかった」
「嘘のせいで?」
「そうだね。でも二月に急に着信が来て、会いに行ったら男にナンパされたって」
「はあ?」
「俺も、自分でもびっくりするほど動揺したよ。しかも誘いに乗って食事してきたところだって言うから、ファミレスに引っ張って行って話を聞いた」
「そしたら?」
「いわゆるバイセクシャルの大学生だったらしくて、なんていうのかな、ポジションが同じ?」
「ポジション?」
「どっちも抱かれたい側だったって言ってた」
「ああ、バイならどっちもできたかもしれないけどな」
「そうなのか? 高瀬は自分がゲイだとは言わなかったって。それで、食事だけして別れたところだった」
「危なかったな、言ってたら誘われてたかも」
「そう……だね、高瀬の家はその日誰もいなかったし、相手も一人暮らしの大学生」
やっぱり危険だったんだろうか。でもそんな風に初めてを済ませる人はいる。
「その子もそういうつもりだったのか?」
感情が、話すよりも早くあの日を思い出していく。切なく辛く、息苦しい。
「そんな勇気は無いって言ってたけど、俺は怒った」
「怒った?」
「よく知りもしない男に触らせるなって」
「それはそれは」
アスマは笑ってウイスキーを傾けた。彼が笑うのは珍しい。
「そしたら泣かれた。安全な場所から俺に触らないでって」
アスマは黙っていたが、少しして意味を理解したように頷いた。
「知らない人に付いて行くようなタイプじゃないんだ。慎重で、ずっと不安がっていた」
「やっぱり、お前が好きだったのか」
「俺はその時も分かってなかった。ただ絵美のことを話した時、安全な場所にいるために嘘を吐いたと思われるのかと思ったら」
「ますます本当の事が言えなくなった、か。それにしても鈍感にも限度があるだろ」
「そうかもね」
何も知らずに簡単に距離を詰めた。自分の感情に任せて。
安全な場所に居ると自分でも分かっていたんだ。
「それで、なんで今はわかんないんだ」
酒が身体を温め始めている。俺はのったりと姿勢を変えた。
「また連絡がなくなって、その間ちょっと学校で色々あってね、ちゃんと絵美のことを話そうって、心を決めて会いに行ったんだ。二月の終わりの日に、バイトが終わる時間目掛けて。そしたら凄く動揺して泣いてしまって、俺はまた抱きしめた。そしたら、俺の気持ちが分かる? って聞かれた。俺は、分からないから大丈夫だって嘘をついた。高瀬は泣いて、俺も自分が言った意味が分かってるから、そのままだよ」
「それで、お前は後悔してるのか?」
ゆっくり息を吸い込んで、酒の染みた身体を鳴らす心臓の音を聞いた。
手のひらで額を撫でると、切りそびれた髪が視界に掛かった。
「そう、後悔してる」
認めると、少し心がすっきりした。
「でも気持ちに応えることはできない?」
「どう覚悟していいかわからないんだよ」
「どの点を? 高校生? ゲイ?」
「全部だけど、まずは自分の気持ちだよ。どうしたら分かる? 心が弱ってるせいじゃないって。同情とか、気の迷いとか、ただ寂しいだけかもしれない」
「そんなのは誰にも分からない」
アスマは母さんと同じようにハッキリと言った。
「やっぱり無理だったなんて言って傷付けたくないんだよ、絶対に」
水を飲んで、やけになってウイスキーを飲み干した。喉が熱くてまた水を飲んだ。
そんな俺をアスマは笑った。素面ならもっと恥ずかしい気がしただろう。酒を飲んでいてよかった。
アスマは少し何かを思うように俺を観察している。俺は立場上それをじっと耐えた。
幸いアスマはそんなに俺を待たせなかった。
「そうだって、一時でも思って貰えた方が嬉しかったら?」
「……」
「例えいつか終わりが来るとしても、その子だっていずれ大人になる。今のお前の姿を見たら、きっと嬉しくて泣いちゃうと思うけどね」
「もう俺なんて忘れてるかも」
我ながら往生際が悪いことを言っている。
「たった二か月で? 忘れられるわけないって分かってるだろ? その子にとってどれだけお前が大切だったか。本当は好きだなんて知られたくなかったはずだ。だから何度もそばを離れた。そうだろ? 失いたくなんてなかったはずだ」
「俺が言わせた。わざわざ会いに行って、泣いてる高瀬を抱きしめたから」
それなのに分からないふりをした。嘘もあったし、まだ17歳だし、教え子で、俺はゲイじゃない。絵美の事だって立ち直れたとは言えないのに、傷を埋めるみたいにどんどん大切になって、自分が抑えられなくて、歪んでいくみたいに感じた。
「傷付けるつもりなんてなかったのに、俺は大人なのに」
「確かに、昔のお前はそんなんじゃなかったもんな」
その言葉が今の俺をどう定義してるのか直ぐに分かった。思い出した。海で、浜辺だ。
唇から自嘲する笑いが漏れた。
「そうだよ、絵美を亡くしてからずっと、俺はあの時には理解できなかった彼らなんだ」




