田畑とカレー屋
「お疲れ様です、お先に失礼します」
「お疲れ様でーす」
職員室を出て間接照明の灯された職員玄関に着くと、外は殆ど夜になっていた。
靴を履き替え、施錠を解除して外に出る。雨は結局降らなかったなと思いながら、敷地を出てバス停に向かった。
スマートフォンを取り出すと、幾つかの通知があって、田畑からの着信を見つけて発信をタップした。
田畑は大学の同期で絵美の知り合いでもある。まあ大学の友人はほとんどが絵美と共通の人ばかりだけど、それでも田畑は俺の方の友人だ。
「もしもし、中屋か」
「電話くれた?」
「したした! 飲みにでも行かないかと思ってさ」
田畑は去年の年末、孤独に耐えきれなくなって連絡を入れた友人の一人で、俺が無精だった時期にも間を開けずに近況報告をしてくれていた、明るく気のいいやつだ。
「飲みにって、まだ水曜だよ」
「俺は明日が休みなんだよ。なら飯でもいいぞ! 行きたいカレー屋あるんだ」
俺から連絡を入れた途端、こうして頻繁に誘いをかけてくれる優しい友人。俺はもったいぶって少し間を取ったが、カレーという言葉には食欲を刺激された。最近はそんな風に感じるのも珍しい。
「いいよ」
「よーし!」
田畑が車で迎えに来ると言うので、待ち合わせを通り沿いのパン屋にして、朝食のパンを買うことにした。二十分は掛かると言っていたから、急がず歩いた。
去年、高瀬と歩いた道だ。
記憶は悲しいことから思い出されたが、一緒に聴いた吹奏楽や、笑顔や、眠る横顔も蘇った。
最後に会ってから、もう二か月が過ぎようとしていた。
何度も連絡を入れようかと迷ったし、バイト先へ会いに行こうかと考えた。でもその度に、あの日の高瀬の泣き声が耳に響いて、この上さらに、今までの嘘や絵美の死まで告げる勇気は持てなかった。
見上げた夜空に星を探したけれど、僅かにふたつだけ。とても遠く離れて、それぞれ今にも消えそうに明滅している。
やめよう高瀬を想うのは。高瀬の夢に出てしまう。
結局俺は嘘つきのまま、思い出すだけで高瀬を悲しい気持ちにする存在になってしまった。
ずっとそばにいると言ったのに、それも嘘になってしまった。
やるせない気持ちを引きずってパン屋に辿り着き、綺麗に磨かれた真鍮のドアハンドルを引いて中に入った。
焼けたパンの香りに迎えられてホッとする。
市内に二店舗あるこの店は、地域で一番人気がある。本店のここは、二年ほど前に綺麗に改装されたが、入り口のドアやレンガ積みの壁など、改装前のレトロな趣も残している。
以前から利用することはあったが、職場を変えてからは脚を運ぶ頻度が各段に増えた。
とはいえ、この時間にはほとんどが売り切れで、いつもは五枚切りの食パンを買うが、今日はレーズン入りのものしかなかった。嫌いではないが、それを選ぶ気分ではない。
ロールパンかクロワッサンかと迷っていると、ふいにやたらと長いフランスパンが目に飛び込んで、少し面白がってそれを二本買った。ひとつは田畑に押し付けてやろう。レジ横にパテがあったので、それも適当に二つ買った。
店を出て、軒先で田畑を待つことにした。長い紙袋を二本抱えた自分がガラスに映って、思わず笑ってしまう。
「何持ってんだよ」
案の定ゲラゲラと笑った田畑は、俺が渡した一本を運転席で豪快に齧って見せた。
パン屑がスーツに散らかって大騒ぎしながら、「かてえけど美味い」と笑った。
パテの瓶も渡すと、見慣れないのか手の中でくるくると回している。
「これ塗って食うの?」
「そうだよ。ワインとかと食べて」
「俺がワインなんか飲むように見えるか?」
「全然見えない」
田畑はまたゲラゲラと笑って、ありがとうとパテを鞄にしまった。
カレー屋はさほど遠くなかったが、俺の家からは反対方向の、静かな住宅街に近い場所にあった。
ゆったりしたカーブを曲がった先に構えられたその店は、見つけた瞬間通り過ぎてしまいそうなタイミングで現れた。
日が暮れて街灯も少なく、真っ黒な外観が闇に紛れ、窓から覗く店内の暖かな空間だけがポッと浮かんでいるように見える。
車を降りて田畑に付いて歩く。
店は満席とは言わないが、立地にしては繁盛しているようだ。カレーのいい香りが外にも漂ってきていたが、看板が見当たらない。
田畑がドアを開けると、喫茶店のようにベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
「二人です」
「空いてる席へどうぞ」
迎えてくれたのは、若いたれ目の男性だった。頭にタイダイ染めの布を巻いて、黒いTシャツの上に、緑色のくたくたした生地のエプロンを掛けている。その胸元には気の抜けたフォントで、『カレー専門店ハチ』と書かれていた。
「何がいいかなー」
奥の窓に面した席を選び、俺が色ガラスを組み合わせたペンダントライトを見上げている間に、田畑はメニューを開いてさっそく悩み始めた。
店内にはクラシックのピアノ曲が掛かっているが、お客は賑やかに会話を楽しんでいる人が多く、店主が醸したい店の雰囲気と現状は、あまり一致していないように見えた。
「おすすめはなんですか?」
水とおしぼりを置いてくれた店員に訊ねると、田畑が「でた!」と声を上げた。「なに?」
俺は驚いて田畑を見た。店員の彼も田畑を見る。
「お前はいつもおすすめだよな」
自分の意思はないのかというトーンで、田畑が俺を眇めた目で見る。
「初めて来る店だけだよ。まずはお店のおすすめが食べたい」
「初めてなんですね、ありがとうございます」
店員が前で手を重ねて慇懃に頭を下げた。
「うちの一番人気は、温玉キーマカレーとバターチキンカレーが競り合ってる感じなんですが、僕のおすすめはハンバーグカレーです!」
ハンバーグを強く発した店員に、俺と田畑は小さく噴き出した。
「おすすめはあんまり人気がないんですか?」
田畑が聞くと、店員は、「いえ」と首を横に振った。
「最近開発したばかりの自信作なんです! 最近カレーに飽きてしまって、ハンバーグに全精力を注いで作りました!」
力強く言い切った彼に俺たちはまた笑った。どうやら彼がこの店の店主らしい。
「カレーに飽きちゃったんですか?」
俺が少しツボに入って聞くと、店主は慌てて手を振った。
「いえいえ! カレーは好きなんです! ただ、一通り味が決まってしまったというか。新しい美味しさを追求するのが楽しいんですよ!」
たれ目をさらに垂れさせた彼に、俺と田畑は目を合わせた。
この店主の作るものならきっとどれも美味しいんだろうと田畑も思ったろう。
「俺はおすすめのハンバーグカレーにしようかな」
「じゃあ俺は人気メニューいくわ! うーん、迷うけどー……温玉キーマカレー!」
そこで店主がさりげなく、「レモンラッシーもおすすめです」と売り込みをして、「じゃあそれも二つ!」田畑がすぐに乗った。
「かしこまりました」
意外とそつのない店主だ。
再び慇懃に頭を下げた店主は、顔を上げると厨房に向かって、「キーマとハンバーグ、レモンラッシー二つ!」と威勢よく叫んだ。
「作らないんだ!」と田畑が突っ込んで、つい笑ってしまった。
「いやいや! 仕込みは私がしてますよ! ハンバーグも私がこねてますから!」
大慌てで言う店主を笑って、「分かってます」と頷くと、それでも店主はもう一度、「俺が作ってますからね!」と確認するように言い残し、一目散で厨房へ走っていった。
店主が厨房で、ガタイのいい若者に何かを指示しているのを見ながら、「この店はどこで知ったの?」と、水を一口含んで田畑に訊ねた。
「時々そこの道を通るんだけど、通り過ぎてから店があることを思い出すんだよ。一度目がけて行ってみようって思ってさ」
「なるほどね」
「それで、お前の方はどうよ。新入生だっけ?」
「可愛いよ、まだ小学生みたいで」
俺は今年もまた一年生のクラスを担当している。
「そうかー、そのうち暴れ出すのかなー」
急に物騒なことを言った田畑は、俺と同じく教員免許を持っているが、今は大手の塾に勤めている。
「最近はそんな子は少ないけどね。まあ、繊細な年頃だから」
俺は自分の中学時代を長年暗黒時代のように感じていたが、今は、「あれよりはずっといい」と自分を励ます経験のひとつになった。
「俺は耐えられんかったー」
田畑は笑って、組んだ腕をテーブルに乗せた。
「高校ならそこそこ落ち着いてるかと思ったけど、やる気がない生徒に心血を注げなかったよ、俺は」
田畑はのんびりとした見た目に反して志が高い。大学時代に一緒に塾講師のバイトをしていたが、向上心のある生徒を上へと導く才能もある。
その点、学校という場所は生活だ。社会性を身に付けさせ、個性を見定め、勉強への意欲もゼロから百までの生徒がいる。
勉学に対するモチベーションを上げることももちろん教育者の役割だけど、子どもたちにはそれぞれ今しかない感性があって、そのとき一番興味を引かれることに、どうしても夢中になってしまうものだ。
俺は正直それでいいと思っている。何が未来に繋がるかは分からないし、子どもたちの全てを理解することはできない。自分が見ているのは、生徒のごく一部なのだということは高瀬でよく理解した。
教師は生徒のきっかけになるかもしれない。あるいは言い訳になるかもしれないし、ただの背景かもしれない。それは分からないけど、俺に彼らの視線を遮る権利は無いと思っている。
きっと田畑はそれが歯がゆいんだろう。やればもっと伸びると分かっているのに、今が楽しいからとやるべきことを疎かにしてしまう若者を見てるのは確かに辛い。俺のように考えることを責任の放棄だと感じるのかもしれない。
田畑が職場を塾に変えたのは良かったと思う。
「私立ってのはどう?」
「やっぱり労働環境が違うよ。ちゃんと人手を確保してくれてる。残業もさせないしね」
言いながら少し複雑な気持ちになった。我儘を言えば、今は少し仕事に没頭していたい。
「人手不足なんだよな、結局」
田畑が背もたれに身体を預けて息を吐く。
「塾も厳しい?」
「うちはまあちゃんとしてる方だけど、きついって言う同業者は多いよ。子どもは減ってるんだけどね」
前にもどこかでしたような会話だと思いながら、かき消されそうなドビュッシーを耳に入れた。
「ところでお前は、誰かとまた付き合ったりする気はあるのか?」
「え?」
言われて素直に驚いた。会話の流れ的にあまりに唐突だった。
田畑は自分でもそう思ったのか、言い訳めいた音を漏らした。
「この間入ったお前の部屋が、あーんまりにも寂しかったからさ」
前回、車で送ってくれた田畑にトイレを貸してくれと言われて部屋に入れたら、メソメソと泣きながらトイレから出てきて驚いたのを思い出した。
俺は笑って、「どうかな」とあまり暗くならないように返した。
「そのうち、心が動いたら」
そう付け足すように言って、なんとか堪えようと思ったけれど、やっぱり高瀬のことを思った。
泣いている高瀬の高い体温や匂いや声は、まだこうして簡単に思い出せる程に鮮明だ。あんな風に絵美が泣いたことは一度だってなかった。俺は泣かされたけど。
「まだ辛そうだな」
田畑は俺の表情を勘違いをしたようで、「ゆっくりやっていこうな」と、まるで生徒を励ますように言われた俺は、調子を合わせて頷いた。
「お、来たぞ」
「お待たせしました」
「おー美味そう!」
「ちゃんと私が! 作ってますから!」
胸を張って言う店主に、俺たちはまた笑った。
思った通り美味しかった。ハンバーグはトッピングと位置付けるには勿体無いくらいのクオリティで、俺は思わず田畑にも食べさせた。
「前からラッシー好きだったんだけど、今までで一番美味しい」
よほど気に入ったらしく、田畑は持ち上げたグラスを感心したように眺めた。
美味しい食事は俺たちをしばし無口にした。
あっという間に平らげて、満たされたお腹と心にショパンが響いてきた。
多幸感が溢れだす心地がする。今この瞬間のためにクラシックがあるのかもと錯覚するほどだ。優しくて、柔らかくて、切なさのない曲だけがちゃんと選出されているらしかった。
テーブルにあった店の名刺を一枚貰った。またいつか空いてそうな時間に来て、クラシックを聴きながらカレーを食べて、心を満たされたいと思った。
「あ、そういやアスマが戻って来てるらしいぞ」
「え?」
田畑の唐突な報告に、俺はまた驚いた声を上げた。
すっかり忘れていたが、アスマというのは俺の唯一のゲイの知り合いだ。
交流のあった大学時代はそうだとは知らなかった。結婚してから、絵美に彼がそうだと教えてもらった。
彼とは学部が違ったが、田畑と同じく出身地が一緒だった。
共通の知り合いの集まりで、時々顔を会わせることがあって、いつの間にか顔見知りとなっていた。あの頃はそんな知り合いが大勢いた。
アスマはおしゃれが上手い男だった。
俺は興味本位で数回、彼の買い物に付いて行ったことがある。
古ぼけたビルにあるハイブランドのヴィンテージショップや、怪しげな倉庫に適当に積まれた段ボールを次々に開けて、宝探しのように服を引っ張り出したりした。
一体あそこがなんだったのか、未だによく分かっていない。
どういうつてがあるのか、新しいブランドのレセプションパーティーに招待されたりもしていた。
大学生というよりは業界人の一部の様な扱いを受けていて、家がお金持ちだとは聞いていたが、親がそういう関係の仕事をしているのかもしれないなと、その当時の俺は思ったが、思っただけで訊ねたりはしなかった。
俺はアスマに高そうな服を与えられて、そういったパーティーにも何度か行ったことがある。ただで飲み食いができたし、終わると幾らかのお金が貰えた。どういう名目のお金なのか俺は聞かなかったが、その時着せられている服のブランドのパーティーであることだけは確かだったから、モデル的な役割だったんじゃないかと勝手に予想していた。
彼に付いて初めてハイブランドの店にも足を踏み入れた。
彼は次々に試着してひとつも買わないこともあれば、一目見て数十万のコートを買ったりする男だった。
ここはそんな振る舞いが許される場所なんだと感心した。真似はできそうになかったけど、見ている分には面白かった。
店は明らかに付いてきただけの俺にもドリンクを振舞ってくれ、アスマは気まぐれに俺にも試着させた。いいものの着心地を知ったのも彼の影響だった。
「お前はきちんとしたスタイルが似合うよ。カジュアル過ぎるのやダブっとした服は止めた方がいい」
アスマは普段、人の趣味にあれこれ言う無粋なことはしなかったが、その日は珍しく忠告するように俺に言った。
ダブついた服は収納が嵩張るからそもそも興味はなかったが、それ以降俺は、『きちんとした』という、服を選ぶ際の命題を頭の片隅に置いた。
大してお金も無かったから、ただのシンプルなファッションに落ち着いただけだったけど。
俺とアスマは特別気が合うとか、忘れられない楽しいやり取りがあったわけじゃない。どちらもそういうノリのいい人種ではなかった。
彼はいつもファッションに興味があったし、おそらく近現代美術にも興味があった。彼が面白いと思う場所は大抵言葉が必要なかったから、付いて行くことは容易かった。
彼は自分の興味があるものについて、他人に意見を言わせることはしなかった。どんな場所でも黙っていられる俺が、邪魔ではなかったんだと思う。
結局そういう関係の仕事に付いたはずだ。当然、驚きもなかった。
「バイヤーとかプランナーとか、ライターもだったかな? 聞く度いつも違うこと言ってたけど、服飾関係だったとは思う。美術館ともなんか仕事してたかな」
お代わりしたラッシーをすすりながら田畑が言って、まあそうだろうなと思った。
アスマとは一時期、集中した交流があったが、なにがきっかけだったか、いつしか顔を合わせることもなくなった。
大学の後半は忙しかったし、塾のバイトや絵美との付き合いも始まって、特に名残惜しいとも思わなかった。
卒業してからは一度も連絡を取っていないが、一応俺が控えているアドレスが変わっていないかを田畑に確認した。
「じゃあまた」
「誘ってくれてありがとう」
家まで送り届けてくれた田畑を見送ってエントランスに入ると、今朝の女性が丁度帰ってきたところだった。
「こんばんは」
女性が俺に気が付いて挨拶をしてくれた。
「お疲れ様です」
別に職場仲間ではないが、こういう時なんと挨拶するのが適切なのかよく分からない。
ひとつ飛びで並んだ郵便受けを二人でチェックして、ついでに見えた腕時計を確認すると、丁度九時だった。
階段を上がることを考えて、一瞬彼女を先に行かせそうになったが、絵美ではないのだと思って、自分が先に上がった。
少し踏み面が砂っぽいなと思っていると、「フランスパンですか?」と後ろから彼女が話しかけてきた。
持っている長い紙袋が急に恥ずかしくなる。
「ええ」
「フランスパンを買う男性を初めて見ました」
感心したように言われて、俺はますます居た堪れないような気がして唇を舐めた。
「初めて買ったんです。友人を笑わせようと思って二本買いました」
後ろからクスクス笑う声がする。空気をすり合わせるような音で、耳の縁がくすぐったい。
「笑ってくれましたか?」
「ええ、一本は彼に押し付けて」
「そこのパン屋さん美味しいですよね」
「そう思います」
女性との何気ない日常会話をするのは久しぶりだった。職場ではやっぱり仕事の話ばかりになってしまうし、俺は今の学校では少し寡黙に装っている。
「では」
「おやすみなさい」
女性特有の潤った高音がまた耳をくすぐった。
部屋の鍵を開けて、無意識に彼女の方を見ると、彼女も俺を見ていた。
目が合って、口元が笑みを作り、そっと会釈をして部屋に入っていった。
一瞬、彼女を抱く想像をした。
それはごく簡単に生成され、かつ鮮明な映像だった。
女性を抱くということは、俺が誕生した瞬間から遺伝子に組み込まれた本能であると信じていた。でも今は、今朝初めて顔を合わせただけの彼女に簡単に気が向いてしまう自分に強く不快感が生まれた。彼女のささやかな表情をあんなに利己的に解釈した癖に。
それに、今もここにあるように思い出せる胸で泣く高瀬を思うと、気持ちの置き所が見当たらなかった。
せめてもっと鮮明に絵美を思い出せたなら、高瀬を傷付けたことにも少しは言い訳ができたのに。




